兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

間違いだらけの論客選び

2018-02-16 23:11:34 | レビュー


 今回俎上に上げるのは、2017年の冬コミでゲットした後藤和智師匠の同人誌です。
 いや、本当は今年初の記事をこれにするつもりでいたのですが、まあ、ああした予想外の事態が起きてしまいましたので……。
 さてみなさん、後藤師匠をご存じでしょうか。かなり旧聞に属しますが以前、コミケで撒かれた「TPP反対」のチラシに噛みついた御仁です。その時の言い分がケッサクで、「萌えキャラを使用して政治主張をさせていた、けしからぬ」というわけのわからぬモノ*1
 そのチラシでは東方のキャラの「扇情的な」姿と共に、そうした主張がなされておりました。「扇情的」と言っても大したものでもなく、ましてや東方のキャラは公式がパロディ化を容認しています。無許可の版権キャラの凄惨極まる二次創作が溢れており、それを正義とするのがコミケのはずですが、そしてまた師匠のブースの周囲は政治的主張がなされた本を売っているサークルばかりだと思うのですが、師匠は「扇情的な姿を描くとは何事、本当にキャラを愛しているのか」「キャラクターに自らの主張を代弁させるとはけしからぬ」「コミケで政治主張をするな」といった理解不能の理由をもって、チラシの主を人でも殺したかのように舌鋒を極めて罵っておりました。とにもかくにも「表現の自由」を何よりも深く憎悪する、リベラルならではの言動と言えましょう。
 そうそう、『男性権力の神話』が出た時の師匠の言にも肝を潰しました。何せ師匠は件の書を「「女性よりも男性のほうが差別されている」と主張しているものではな」い、などと事実と全く異なる紹介*2していたのですから! とにもかくにも「内容がいかなるものであろうとも、味方の書いたものであれば肯定」というリベラルの揺るぎない派閥性がここでも明らかになり、ぼくたちの胸にさわやかな感動を運んできました。

*1 詳しくは「不惑のフェミニズム」を参照のこと。
 ちなみに後藤師匠はぼくに批判されたことがよほど気に入らないらしく、(自分はブロックしておきながら)ずっとぼくのツイートを監視しているみたいです。今回、調べていて5chの彼のスレッドで以下のようなつぶやきに気づきました。

えー球審の後藤です(半ギレ)。なんかH頭S児のクソ野郎に私について「コミケで本が売れないので途方に暮れている」とかリークしている奴がいましたが私は同コミケで6桁の売上を記録しました。なお本当に途方に暮れているのは、駅メモのガチャで根雨さんが出なかったことです。
https://twitter.com/kazugoto/status/948419966386126849


 いや、しかし、それにしても、文筆活動をする資格があるのかはなはだ疑問といわざるを得ない人間が売り上げ六桁を行くとは(これ、金額のことなのかなあ?)、本当に、羨ましいですね。
*2 (https://booklog.jp/users/kazutomogoto/archives/1/4861824737


 その後藤師匠が冬コミでぼくの著作を俎上に乗せるというのだから、こちらとしても心中穏やかではいられません。そんなわけで早速ゲットしたのが本書です。
 見るとまあ、タイトルにあるとおり「論客」と称すべき人々の著作のタイトルが出るわ出るわ。ぼく以外にも(東浩紀師匠、宇野常寛辺りはまあ、どうでもいいんですが)岡田斗司夫氏、本田透氏、小浜逸郎氏と錚々たるメンツの著作が、やり玉に挙げられております。
 もっとも内容は他愛のないモノ。「対応分析」やらいう手法で著作を分析したというのですが、要は本を(70年代アニメの悪役のごとく)こんぴゅーたーにかけて単語を抽出、その傾向を調べたという、徒労に近いモノです。PTAが昔、(まだ子供も専業主婦も多く、その活動が活発であり)漫画やテレビアニメを目の仇にしていた時代、「作中に銃が何丁、刀が何本登場した、教育に悪い」といった文句のつけ方をし、また漫画家の方も(確か藤子A氏だったと思います)そのやり方に閉口して「内容を見てくれ」とぼやいていたのを思い出します。
 本書では著書一冊につき1pを使い、そうした分析で導き出したグラフと共に寸評が書かれているわけです。例えば小浜氏の『人はひとりで生きていけるか』については

 小谷野敦の『すばらしき愚民社会』に見られるような「大衆社会」批判であるが、この本の中ではやたらと「自分は政治には疎いが、現在(当時)の民主党政権があまりにも酷いのでついつい政治について語ってしまった」という趣旨の(原文ママ)文言が目立つ(これ、「っべー、政治について詳しくねえのについ政治を語っちまったわー」というような〈地獄のミサワ〉感が強い)。
(60p)


 といった具合。「対応分析」やらいう頭のよさそうな手法と、幼稚な罵倒に終始した本文とのギャップがすごいです。
『電波男』については

はっきり言って、全体としてネット掲示板的な言い回しや女性を侮蔑する表現が非常に多く、極めて読みづらかった。しかし本書で説かれたような女性観は、後にロスジェネ言説やオタク言説に引き継がれ、ネット上における女性差別として実を結んでいるあたり、実に罪深い本であると言える。ごめんなさい(実は私もこの本をかつてそれなりに高く評価していたのでした……)。
(44p)


 とあります。どうもよくわかりません。「かつてそれなりに高く評価していた」時にはこの本が「読みづら」くは感じなかったのが、「真実に目覚めた」後に読み返すと「読みづらかった」のでしょうか。それとも評価していた頃から「読みづらかった」のでしょうか。文脈から見るに、この「読みづら」いはあくまで「内容に賛成できない、不快である」といった意味に取れるので、前者かとも思いますが、それにしても何かヘンです。
 最後は

 ちなみにカテゴリ9の使用頻度も全体で3位だった。結局のところ、愚痴だったということか。


 で終わっています。
 このカテゴリ9として選択されている単語は、以下のような具合です。

男性、場所人生、バカ、母親、先生、電話、好き、選ぶ、男、女、子
(17p)


 どうも、師匠にとっては、これらが使われている本は「愚痴としての傾向」が強いらしいのです。
「バカ」が使われていれば「愚痴」というのはわからないでもないですが、「男性」とか「場所」とがが多用されている本が愚痴だという価値観がさっぱりわかりません。師匠は「近い性質を持った単語を集めて(16p)」と言っているのだけれども、「電話」と「人生」って近い性質を持っているんでしょうか。まさかとは思いますが、これらは後藤師匠の判断で恣意的に集めてきた単語なのではないでしょうか*3
 というわけで恣意的に「電話」と「子」の性質が近いのだと強弁し、好きな単語をセレクトして、そこに「愚痴」というレッテルを勝手に貼りつけて、それらの単語が多いからその本は愚痴だと言い募ることが、後藤師匠の方法論であることがわかりました。
 師匠はぼくの書を「自分と異なる考え方を持った人たちや異なる社会集団(その中のマイノリティ)をバッシングするもの」であると罵倒していますが、少なくとも本書を見て間違いなく言えるのは、恣意的な要素を恣意的に結びつけることで、自分と異なる考え方を持った人たちや異なる社会集団(その中のマイノリティ)をバッシングする、リベラルの傾向であるように思えるのですが……。

*3 師匠のセレクトが恣意性に満ちていることは、間違いないかと思います。何しろ、堀井憲一郎氏の著作を複数採り挙げた箇所では、

同著は今回も採り上げるが、著者初めての新書である『若者殺しの時代』と比較することにした。同書は、ロスジェネ系・オタク系の男性論客に広く共有されている「バブル女」への敵愾心を含んでるからだ。
(122p)


 と、自分の選択が恣意的であることをあどけなく吐露しているのですから!


 しかし、それより、ぼくはここでかつては師匠が本田氏を評価していたと知り、大変意外に感じました。ですが、考えるとこの本は話題になった当初は結構、リベラルにも評価されていた気がするのです。大御所フェミニストの小倉千加子師匠も結構好意的な評を与えていましたし(リップサービスレベルのモノですが、しかしフェミニストがそれをすること自体がすごいことです)、草食系男子大好き芸人として有名な森岡正博師匠も本書を絶賛していました。宮台真司師匠も『バックラッシュ!』というフェミの言い訳本の中で本書を「気持ちはものすごくよくわかる、だけど違う(大意)」といった割合共感的な評を与えていました。
 何というか……師匠の説明不足な文章からちらちら窺い知れることからの推測でしかないのですが、当時『電波男』はロスジェネ論みたいな感じで評価されていたのかも知れません。リベラルが『電波男』を取り込もうとしていたというのは今となっては理解しがたい話ですが、彼らが無茶苦茶なデタラメを弄してオタクを取り込もうとしたり、またフェミが「男性学」などと称して男性を取り込もうとしたりは現在進行形の事態です。事実、当時のいわゆる「非モテ論壇」には反女性的なスタンスのモノと同時に、「フェミニズムに理解を示す(と、本人たちが自称していました)」リベラル寄りの流派も存在していたのです。彼らのスタンスはよく知らないのですが、「何か、安陪さんのせいでモテない」みたいな方向に持って行こうとしていたのでは、といった気もします。いや、俺がモテないのはどう考えても女性を輝かせようとする安陪さんが悪いんですが。
 で、まあ、『電波男』のモテモテぶりに便乗しようとして『女災何とか』みたいな本を書いたバカがいた気がするのですが、彼が「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」の総バッシングにあったということはご存じの通り。この潮目の変化は「ミソジニー」という言葉の登場の仕方と対になっている気がします。
 リベラル君の一部は当初、「これだ!」と『電波男』という鉱脈に飛びついた。そしてセミをご主人様に見せびらかす猫みたいに、グルにご報告に行った。しかしそこでグルのガールフレンドであるフェミ様のキツい叱責を受けた。フェミニストは子分たちの愚かさにブチ切れ、「ミソジニー」という概念の流布を急いだ……本田氏の「消え」方は本当に不気味ですが、以上のような事情が、或いは裏にはあったのかも知れません。
 そしてまたこれはちょうど、ぼくが時々指摘する、「セクハラ」の時はフェミを批判する気概のあったマスコミが、「ジェンダー」といった概念が流布した辺りから完全にフェミの傀儡と化したのと、全く同様な現象のようにも思えますね。

 事実、本書から立ち昇ってくるのは、相手を女性差別的であると言い立てて、とにもかくにも「表現の自由」を踏みにじってやろうという師匠の惛い情念です。
 ちょっとまえがきに立ち戻ってみましょう。

またロスジェネ程度の男性オタクによる議論は、いまのまとめサイトに代表されるような反フェミニズムと密接に繋がっております。
(略)
本書で分析しているオタク論客の著書には、明らかに反女性的な傾向が見られます。それをいかに位置付けるかにより、ヘイトスピーチ対策にも役立つのではないかという算段です。
(3p)


 う~む、東浩紀師匠も宇野常寛も岡田斗司夫氏もみな「オタク論客」だと思うのだけれど、諸氏の著作も反女性的な傾向が見られるとは知らなかったなあ……。
 師匠の主張を特徴づけているのは、反フェミニズムは即、反女性であるとの短絡、そしてそれら(フェミニズム批判にせよ女性批判にせよ)は是非を論じる以前に、その存在自体がまず許されないヘイトスピーチなのであるとのリベラルならではの思考停止、他者排除、言論否定です。
 ちなみに上には「いまのまとめサイト」とありますが、これはどうも「まとめサイト一般」とでもいった意味らしい。まとめサイトで反フェミ的なところを、少なくともぼくは一つも知らないのですが。
 また、「対応分析」についての事前説明の項では様々な「主成分」について述べられています。中でもぼくや本田氏の書は「主成分3」の「負の方向」に位置づけられるのだと幾度も幾度も繰り返されます。この「主成分3」というのは「オタク論の哲学系?/近年の保守論壇系」であるとされ、

 主成分3は、単語だけ見るとかなり解釈に困るものだった。というのも、正の方向には「仮面ライダー」「ケータイ」「ネットワーク」「キャラクター」、負の方向には「萌える」「オタク」などの単語が並ぶなど、どちらもオタク文化論系の単語が見られたからだ。
(8p)


 などとあります。
 統計分析に知識がないので、正直ぼくも正確には理解していませんが、「対応分析」というのは要するに、各因子の相関関係をグラフ化して現す手法、みたいなことのようです*4
「ケータイ」や「ネットワーク」はともかく、他の単語が頻出したらそれはオタク論であろうというのは一応、わかるのですが、「仮面ライダー」が唐突でギョッとします。他に「主成分」の中には作品名、ないしキャラクター名は見当たらず、この単語だけ何故選ばれたのか、謎です
 正の方向、負の方向の意味がどうにもわからないのですが、読み進めると師匠が悪しき価値観だと思っている単語が頻出する時に「負の方向」と言っているように思え、これはどうも「近年の保守論壇系」との相関関係が高く、「オタク論の哲学系?」とは低いことを示しているのだと思われます(いえ、別に「オタク論の哲学系?」と「近年の保守論壇系」とは相反する概念ではないのだから、不自然かとは思うのですが、他の「成分」が一応、対立概念を並べているように思えたので今回はそのように解釈しました)。
 しかし……恣意的に選んだ単語を分析して恣意的な因子と因子を組みあわせて相関関係を調べた上、因子に「?」マークをつけられても「勝手に言っとれ」以上の感想を持てません。
 先の記述には続いて、

 負の方向には、本田透『電波男』や勢古浩爾『まれに見るバカ』、兵頭新児『ぼくたちの女災社会』などといった、女性を中心に自分と異なる社会集団をバッシングする書籍と、ケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』や竹田恒泰、渡部昇一といった保守論壇の人物が並立された。
(略)
 この方向は、近年のヘイトスピーチを支えている保守論理、ないしネット上の保守言説(所謂「ネット右翼」)的な傾向と言うことができるだろう。
(8p)


 とあり、また、ケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』評のページでは、

主成分3の負の方向には、本田透『電波男』、勢古浩爾『まれに見るバカ』、橋本治『バカになったか、日本人』、兵頭新児『ぼくたちの女災社会』など、自分と異なる考え方を持った人たちや異なる社会集団(その中のマイノリティ)をバッシングするものが多く位置付けられている。この指標を「ヘイト本」的な傾向として捉えることができるのだ。
(95p)


 と、ほとんど同じ内容が(少ない文字数にもかかわらず)繰り返されております。
 上には書かれていませんが、「主成分3」の「負方向」には「朝鮮」「韓国」「中国」といった単語も含まれており、要はそれらと「萌える」「女」という単語を同一視すれば、オタクと保守論者は「完全に一致」するというモノスゴく頭のいいことを、師匠はおっしゃっているわけです。何せ、ぼくの本にそれらの単語が出た回数は

 朝鮮:0
 韓国:0
 中国:1

 といった具合なのに(ただし、本文のみではなく表も含めるともっと出てきます)、師匠の基準では、ぼくの本はいわゆる反韓本と同一視されてしまうわけです。
 まあ、このリクツではフェミニストの書いた本など、絶対に「ヘイト本」になるわけですが、そこはそれ、師匠は独断で採り挙げる本を決めていらっしゃるので「多い日も安心」なわけですね。

*4 とは書いたものの、そもそもグラフってみんなそうですよね。詳しくは(https://res.pesco.co.jp/analysis/statistics/corresponding/)辺りをご覧ください。以下の図がわかりやすいかと思います。

【分析例】
年代別にみた昼食の特徴(架空のデータ)


 上の表を、以下みたいな感じにするのがそうみたいです。


 さて、いよいよ師匠の兵頭新児評を採り挙げましょう(いや、もう今までのでおなかいっぱいなのですが……)。ごく短いモノなので、全文引用してみます。

 ストーカー、痴漢冤罪などといった「女性による男性の受難」を「女性災害」と表現した議論で、内容はとにかく女性叩きに溢れている、典型的なフェミニズムからの「バックラッシュ」系議論と言える。近年ネット上においても性犯罪・性暴力被害者への理解が(まだ足りないものの)進んできた一方で、いまだに本書の議論のように「女性の権利向上によって、いまや男性が「被害者」「弱者」である」という認識を示す人も後を絶たない(名前は伏せるが、某人気成人向け漫画家が削除したブログにもこのような認識が示されていた)。ちなみに統計には現れていないが女性はかなりの割合で「ナオン」と書かれている……。
 チャートを見ると、まず主成分3・6・8がかなり負の方向に振れているのが見られる。ネット上の右派言説、コミュニケーション論、サブカルチャー論の悪魔合体がここでは見られるというこおとだ。(原文ママ)そして主成分1・7も正の方向に強く振れている(どちらも十指に入る)。自らとは異なる社会集団を理由をつけて叩くという宮台社会学の正当な後継者は、東浩紀や宇野常寛ではなく兵頭ではないかと言えるのかもしれない。
 ちなみにカテゴリ9の単語の使用頻度は31.21%と堂々の一位(ちなみに二位は勢古浩爾『まれに見るバカ」の26.61%)。まあ、そういうことです。
(58p)


「主成分3・6・8」とありますが、6、8はそれぞれ「決断主義系/引きこもり系」、「劣化言説系/サブカルチャー論系」。一言で言えばこれらが負であるというのは「引きこもり系」「サブカルチャー論系」の論調が強いというわけでしょう。この評は別段、異存はありません。
「1・7」は「若者論的傾向/政治論的傾向」、「宮台社会学系?/マーケティング社会学系」。これが正というのは「若者論的傾向」、「宮台社会学系?」が強いということでしょうか(「宮台――」というのがよくわかりませんが、上の寸評からするに「差別的」とでもいった意味あいを込めているようです)。
 笑ってしまうのが「ナオン」表記に泣きを入れているところで、ここで師匠が自らの徒労に近い手法について認識を改めてくれれば、ぼくも本書を著した甲斐があったというものです
(ところで「某人気成人向け漫画家」って、誰のことなんでしょう?)
 いや、しかし、それにしても、唖然とするのが、相手の主張に反論するのではなく、とにもかくにも女性叩きは許せぬとただひたすら思考停止を続ける(他のリベラル君と何ら変わることのない)後藤師匠の姿です。
 ぼくは著作で、性犯罪冤罪の洒落にならない実態を素描しました。そうした事実関係やそれを元にしたぼくの議論の仕方に問題があるのであれば、そこを批判すればよい。しかし師匠は(そして全リベラルは)それをしない。ただひたすらに女性についてネガティブな記述があった、許せぬと半狂乱になるばかりです。
女性の権利向上によって、いまや男性が「被害者」「弱者」である」という認識が間違っているというのであれば、そこを指摘すればよい。しかし師匠にはそれができない。専ら、言論そのものがまかりならぬまかりならぬと絶叫するばかりです。どこに問題があるのかさっぱりわからないチラシを全否定して泣き叫んだあの時と、全く同じに。
 いえ、そもそも著作から単語のみを拾い上げ、「こんな要素が多かった、けしからぬ本だ」と真っ赤になるという師匠の方法論自体が、最初っからそうした「言論」というモノを見事なまでに、惚れ惚れするほどに、清々しいまでに迷いなく打ち捨てることでしか採用できないモノであることは、考えてみれば自明です。自らとは異なる社会集団を理由のないままに叩くという宮台社会学の正当な後継者は、東浩紀や宇野常寛ではなく後藤ではないかと言えるのかもしれない
 ちなみに「カテゴリ9」とやらに属する「男性」「女性」、或いは「バカ」といった単語は確かにぼくの著作に頻出していますが、この「バカ」にしても、そもそも「ぼくがバカなだけですが」など、必ずしも相手を「バカ」と罵倒する時のみに使っていたわけではない。しかし師匠はそうしたことに対する忖度を一切、働かせないのです。
 他にもざっと検索したところ、(先の基準でいえば、ぼくが多用していなければならない)単語の使用頻度は

 場所:1
 人生:3
 電話:7
 先生:6

 でした(ただし引用中のものは除く)。
 まあ、正直多いのか少ないのかわかりませんが、「男性」「女性」という言葉がこれの数十倍出て来ていることは、確かです。逆にこれら単語が頻出し、「男性」「女性」「バカ」といった単語が全く出ない本があったとしても、それは師匠にとっては「ヘイトスピーチ本」なのです。まあ、そういうことです

社会学者の地雷原を正面突破する研究書!――『腐女子の心理学』レビュー

2017-08-04 21:24:53 | レビュー


 ここしばらく、ずっと『社会にとって趣味とは何か』についての「M1」さんの評について、採り挙げてきました。そして、その本の中では先行する類似書とも言える『腐女子の心理学』について、再三の攻撃がなされておりました。
 既に述べたように、その攻撃はいささか的外れなのではないか……というのがぼくの感想ですが。
 実は『社会にとって――』のみならず、このレビューについても、現時点で消えてしまっています。内容のかなりの部分が『社会にとって――』との比較に費やされているため削除の対象になったのだと想像できますが、それにしても一体どういうわけか……という感じですね。

 このままでは惜しいということでこちらのレビューもここに掲載します。
 ぼくだけではどうにも心許ない。もし自分のブログでも「M1」さんのレビューを転載したいとお考えの方がいらっしゃったら、どうぞご連絡ください。
 それでは、以下はレビュー本文です。どうぞご覧ください。

 *     *     *

「社会にとって趣味とは何か」のカスタマーレビューでいろいろ書きましたが、あちらで書かなかったことを書きます。

 まず、「腐女子の心理学」の最大の欠点は値段が高いことです。税抜き3500円です。たしかに、装丁も凝っていてカッコイイです。ピンク系のカバーの下は黒のハードカバーで、背表紙は白文字でタイトルが、表紙にはダークグレイでバラの絵が書いてあります。スタイリッシュです。でも税抜き3500円は学生には高価です。文庫本にしたら表の数値が見えにくくなると思いますが、せめてソフトカバーにして注釈をたくさん付けて多くの人が購入しやすい廉価版を作って欲しいです。

 「腐女子の心理学」の内容に関して。 
 「社会にとって趣味とは何か」の中で著者の北田さんは、山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判しています。さらに「これは単なる方法論的な不備ではなく、変数の作り方、数字の出し方、およびそれに対する解釈まで及ぶものであり、容易には看過できない。(p.288)」と全否定しています。
 その一方で北田さんが作成したオタク尺度8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目でそれを独立変数とし、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。どう考えても山岡さんの研究1よりも、北田さんの研究の方が独立変数と従属変数が近いとしか思えません。
 また、北田さんが主張するように山岡さんの研究1の排他的人間関係に関する部分がトートロジーでまちがっているとしても、研究11までの多くの研究を否定することはできないはずです。

 北田さんの「社会にとって趣味とは何か」と「腐女子の心理学」を比較すると、「腐女子の心理学」の方が圧倒的に明快です。「腐女子の心理学」では、腐女子やオタクは明快に定義されています。「腐女子はBL作品を好む人物と概念的にも操作的にも定義できる。(p.18)」、「(オタクは行動の程度の違いであり)オタク系の趣味に多くの時間と資金と労力を投資する者がオタクなのである。(p.18)」それに対して北田さんは「腐女子」の概念的定義を明記せず、北田版オタク尺度の得点が高く「二次創作に興味がある」女性を「腐女子」と操作的に定義しています。また、山岡さんが重視するオタク系趣味に対する投資の程度も北田さんは質問していません。
 北田さんが使った質問項目は趣味全般に関する調査のための項目であり、オタクや腐女子の研究のために作成されたものではありません。それに対して「腐女子の心理学」で山岡さんが使用したオタク度尺度と腐女子度尺度の質問項目はオタクと腐女子の研究のために作られたものです。
 北田さんは、「社会にとって趣味とは何か」の私のレビューに対するコメントで、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」と答えています。しかし、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると、山岡さんのように直球の質問から見えてくることの方がはるかに大きいと思います。北田さんの研究と山岡さんの研究を比較すると、オタク・腐女子研究にかける熱量の違いを感じます。
北田さんは、「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析すること」が計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統だとコメントしてくれましたが、そうであるのなら、これは社会学と社会心理学の研究方法の違いなのでしょうか。この「腐女子の心理学」のコメントを読んでみると、腐女子に関する社会学の研究書を読んでみたけれど納得できない人が「腐女子の心理学」を支持しているようですね。そんな人たちが「腐女子の心理学」に出会って納得できたのでしょうね。
 「明快さ」ということで言うと、「腐女子の心理学」は様々な調査結果の平均値や人数等を省略せずに書いていますが、北田さんの「社会にとって趣味とは何か」は%しか書いていないなどだいぶ数値を省略してあります。そのため調査結果を検証することが困難です。ごまかすつもりはないでしょうが、不親切な書き方だと思います。少なくても私には「社会にとって趣味とは何か」よりも「腐女子の心理学」の方が納得できるし先行研究として役に立ちます。

 山岡さんの研究は、直球勝負で現象に直接向き合うことができない社会学の人たちのジェラシーをかき立てるのでしょうか。だからジェンダー地雷にかこつけて山岡さんの研究を感情的に全否定しようとするのでしょうか。

 「腐女子の心理学」は確かに社会学者が作った地雷を踏んでしまったのでしょう。でも、この「腐女子の心理学」は社会学者のジェンダー地雷なんか気にもとめないで地雷原を正面突破していく本です。具体的な調査結果を知りたい人、社会学者の腐女子研究のジェンダー論的お約束に納得できない人におすすめの本です。高いけど役に立ちます。

『社会にとって趣味とは何か』コメント欄

2017-07-28 18:52:01 | レビュー



 さて、相も変わらず『社会にとって趣味とは何か』レビューです。
 先週は「M1」さんのAmazonにおけるレビューをご紹介しましたが、実はそれ以降、本書の編者であるところの北田暁大師匠がレビューのコメント欄に登場、激しい論戦が繰り広げられました。
 レビューが消えてしまい、この師匠の貴重なお言葉も、それに対する「M1」さんのコメントも、現時点では読めなくなってしまっているのですが……それはあまりに惜しいと、採録させていただくことにしました。

 ただ、本当に専門性の高いやり取りになってしまい、読んでいてぼくも部外者感がハンパありませんでした。
 一応、ブログ主の特権で「*」マークをつけ、ちょこちょことコメントめいたものを挿入してはいますが、それにはあまり惑わされず、読み進めていただければ幸いです。

 さて、しかし本件にかかわるのがぼくだけという状況はどうにも心許ない。
 もし自分のブログでも「M1」さんのレビュー、またコメント欄を転載したいとお考えの方がいらっしゃったら、どうぞご連絡ください。
 それでは、以下から本文です。どうぞご覧ください。

 *     *     *

M1さんへのお返事(1) 北田 暁大

 これ星つけないと書けないんですね。自分の本を評価するのはものすごく恥ずかしいですが、とはいえ一定程度の自信をもって上梓したものですので真ん中の「3つ」で勘弁してください。この星は参考にしないでください(笑)。

 M1さん、詳細なコメントをありがとうございました。社会科学を学ばれているかたとのことで、広義での学問共同体の共同構成員でもあり、できるかぎり誠実に回答したいと思います。主として私の担当箇所についてのご批判かと思いますので、その点に限定して、かつまずは簡潔にお返事させていただきたいと思います。おそらくM1さんが一番気になっている「フェミニズム信者」という問題系は後ほど。

1. 「腐女子の肝であるBL好き関連の質問をしないで二次創作への興味だけで腐女子認定することは、「ヤクザに興味がある人」を全員ヤクザ認定するようなものだ」
 →まず何度も繰り返し書いているように「≒」としており、かつ操作的定義である旨は明確にしている点をご勘案ください。「全員」という対応条件の設定は無理があります。もちろん「≒」としつつ、可読性の観点から「=」と読みうる書き方をしている箇所があるのは事実です*1。仰る通りこのエコノミーは部分的な引用などの場合、誤解を招きかねず、本来的には回避すべきものであり、その点は問題なしとはいえません。しかし論文に課せられたデータの性格の限定性は明示しているので、論文全体を手続き論含めて読んでそのような解釈に至ることはありえないと考えます*2

*1「可読性」という言葉の意味はわからないのですが、それこそが問題なのではないでしょうか。ある時は「≒」としながら、ある時は「=」となっているのですから。
*2 これは、「自分は腐女子と二時創作好きの女性を同一視などしていないぞ」と言っているのでしょうが、ならば、なおのこと、それで腐女子についての妄想をたくましくできる理由がわかりません。「腐女子について語る資格なし」以上の論評はしようがないのではないでしょうか。


2. ヤクザの条件設定と「二次創作に興味のある女性オタクをとりあえず「腐女子」とみなす」という条件設定は、果たして対応するものでしょうか。本論文では「二次創作好き」と「オタク尺度」の二つをもとに操作的に「(≒)腐女子」という定義(変数構成)を行っており、仰る通り「二次創作好き=二次創作をしている」「二次創作=BL」ではない、というのは確かです。BL好きと二次創作好きを識別しうる質問項目を入れておくべきであったことは確かだと思います。しかしこの点の留意は書いておりますし、二項目をもとにした操作的な変数設定を、ヤクザ条件と同一視するのはいかがなものかと思います。a「ヤクザに興味がある≒ヤクザである」とは違い、b「二次創作に興味がある≒二次創作に興味がある女性オタク」としているので、「興味がある」ことと「ある成員カテゴリーに属すること」の意味がa,bでは異なっています。興味を持つことが集団カテゴリーに含める根拠となりうるケースとそうでない場合を識別すべきではないでしょうか。ここは数字だけでどうこうできる話ではなく、意味連関を考察すべき事柄であると思います。

3. 概して操作的定義ですので、執筆段階でも「腐女子と「≒」にするのはいかがなものか」というご意見はいただきました。ここは「二次創作好きでオタク尺度得点が高い女性には腐女子でない可能性は低いのではないか」という判断をもとに私の判断で「≒」としました。それは操作的な定義(というかカテゴリーの創出)ですので、この判断が誤っている可能性は十分にあり得ます。またBLへの指向も聞いていればより正確な情報を得られたということは間違いありません。ただ、「腐女子である」というカテゴリーの自己・他者執行を正確にどのように分析するかは、それこそEMや概念分析的な分析を期すしかなく、「BL志向は本質的なものであるか」は最終的にはそうした分析を経て判断すべきことであり、操作的な概念・変数の設定で分析者が議論しても収拾がつくようなものではないと考えます(つまり、分析水準でいえば、BL指向が「腐女子であること」にとって本質的という判断もまた、私の判断と同じ水準にあるということです*3)。とはいえ、「≒腐女子でも絶対ダメだ」といわれるのであれば、それは仕方がなく、そうするとなにが分析上問題となるのか、を指し示していただければ、「≒腐女子」という表現は撤回して、「二次創作好きのオタク尺度の高い女性」に関して、見受けられる傾向の分析として再提示いたします。しかしご批判のなかでは、まだこの点が私には理解できないでいます。もしかすると、フェミニズム的偏見という話が関係しているのかもしれません*4。この点については後ほど。

*3「腐女子という言葉を同定義するのか、難しいね」という一般論をいきなり「BL好きだからと言って腐女子とは限らない」という奇妙な物言いにスライドさせた、おかしな物言いとしか思えないですね。
*4 これはご明察という感じで、恐らく師匠の中に、「二時創作好きのオタク女子」の中に、「普通の、男子向けの萌え作品の美少女エロを描く者」がいることについて、目を伏せたかったのだ、と推測することは充分可能でしょう。


 これからお仕事なので、帰宅後また続きを書かせていただきますが、ごく簡単なテクニカルな点のみ。

※ 「「10%水準で有意差が認められる(p.278)」と書いてありますが、「有意」と言っていいのは5%未満でしょう。」あくまで%は有意水準を示すものであり、「10%で有意」というのはごく普通の書き方です。有意性判断(および関連の強さ)そのものは有意確率の大小で決まるものではありません。つまりp値が.01、.05なら有意で、.1なら有意ではない、ということではなく、「有意である水準をどこに置くか」という分析者の判断です。通常5%がとられますが、10%だからといって有意ではないということではありません。(ただし、ある論文のなかで5%未満を有意とするという宣言をした場合には、10%有意であっても「有意ではない」と記述します。しかしそれは有意ではないというのと同値ではありません。私も基本的に有意水準5%を指標にして分析していますが、とくに単純比較で実数での差が読みにくいような場合、参考として10%も記すことがあります。当然ながらその都度明示してのことです)
※指導教授は本当に「因子分析をしているのに項目ごとに考察するのでは分析した意味がない」と仰ったのでしょうか。回帰分析などで変数が増え過ぎないように因子得点を出したり、質問項目の傾向性をみるために因子分析や主成分分析をすることと、個別の質問項目を検討していくことは両立するものです。個別回答の持つ情報量を重視して個別に分析する場合と、回答間の関係を知りたい場合は、混同してはならないものの、どちらかだけに絞るべきということにはなりません。もちろん回帰分析等で因子得点を入れるのであれば、精査して個別質問を変数としたカテゴリカルな処理をすべきというのであればそのとおりですが、それもいったんしたうえでの論文での提示となります。いずれにしても始動教授のかたの指摘の含意が分からないので、ご教示頂けると幸いです。
「フェミニズム信者によるイデオロギー的な分析だ」というご批判については、あらためてご回答いたします。とりいそぎ。

///////////続き//////////////
まずは手続き的なことから。
4. 「「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」と「マンガみたいな恋をしたい」という2つの質問の考察でした。この2つの質問でこんなに大げさに書けるなんて、それが「妄想の共同体」ですかって感じです。」→注意深くお読みいただきたいのですが、ここでは(1)まず二次創作好き女性オタクの「マンガの登場人物に恋をしたような気持になったことがある」への肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」の低さ、対する二次創作好き男性オタクの男性内での高さであり、この相違がなぜ生じているのか(どのような変数と関係しているのか)、という問題であり、たった二つの設問であれ、対照性を説明することは非合理なことではありません。(2)とはいえその対照だけで解釈するのは難しいということで次に、友人関係因子得点、友人数、学歴、暮らし向き、オタク尺度、モテ自認などを独立変数、「マンガみたいな恋をしたい」を従属変数とした回帰分析をしています。M1さんは「2つの質問だけで」と書かれていますが、ここでは友人関係含めると20近い設問の関連が問われていることになります。その結果(3)男性においてはオタク尺度とモテ自認に効果が見られたのに対して、女性では見られない、という結果を得て、「女性二次オタクの場合、オタク的な情報行動をとること、「モテ/非モテ」の感覚が、「マンガみたいな恋をしたい」に関連していない可能性が高い」という解釈を経て、(4)「マンガみたいな恋をしたい」に対する男女差をreasonableに解釈しうる可能性の一つを提示しています。ここを「二つの質問だけで判断した妄想」と考えるのは無理があるのではないでしょうか。「登場人物への恋愛」については、そうした点を踏まえた上で、女性他群との比較で解釈しています。ご確認ください。

5. 「「結婚したら子供を持ちたい」という質問に二次創作に興味がある女オタクの76.1%が肯定的に回答しているのに、他の女性グループより肯定率が低いから、腐女子は「家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている(p.300)」ことにして議論を進めています。1/4以下の人たちの反応で全体を語っちゃっていいの、と私は思いました。」→額面通りに受け取ると有意差という概念そのものが崩壊しそうな気がします(そういう立場もあるでしょうが、そうした技術的なことを仰っているわけではないようです)が、まずなにより「76.1%に上るが…」と始め、(1)その数値の高さそのものをまず確認し、(2)他の女性群に比して優位に低い値であることを主題化しており、ようするに統計的な傾向性の分析であり、あるカテゴリーに属するメンバー全員の「属性」を言っているわけではありません。100点満点のテストで76点は「低い」とは言えない気がしますが、平均や分散を考えたときに「低い」と言える場合にはその因果関係や意味を考えたりしますよね。それと同様です。また(3)76.1%が「低い」というのも統計的な意味においてだけではなく、「20歳前後の多くの若者たちにとって結婚も出産もリアリティのある話ではない」、つまり、「高くて当たり前」と私も考えるため、低さについての解釈が必要である、として議論を進めています。ツイッターでバズったp291の図は標準得点化したものなので、劇的に見える効果を持ってしまいますが、標準得点化した(実得点ではなく偏差値をみる場合のように)事柄を比較考量する必要はままありますし、お読みいただければわかるように、これらは単純な標準得点の比較だけではなく、クロス分析、回帰分析や対応分析等複数の方法で精査しています。「76.1%」を統計的に考えることと実感的に考えることはいずれも大切ですが、私は相応のデータをもとに「ジェンダーセンシビリティ」の傾向の現われと解釈したわけで、実感的に高い(から有意差は関係ない)という反論はいかがなものかとも思います*5。また私の記述が全称化しているように思われたとしたら申し訳ない限りですが、「相対的に否定的な態度(p301)」などカテゴリーを人格化しないような表現の努力はしたつもりです。統計的な比較分析で「「日本(人)は…」とまとめ上げるのはおかしい」と批判されるのであれば、それはその通りですが、その限界は分析者も認識することであり、またM1さんが社会科学をされているのであれば、集団カテゴリーの統計的差異についての分析が無効とは考えないことと思います。私の記述に全称化を疑わしめるものがあったとすれば申し訳ない限りですが、論文全体を丁寧にお読みいただければ、そのように捉えられることはないと思います。

*5 問題は腐女子の全員が全員、フェミ闘士であるかのように師匠が描いていることであって、「普通の女子より、フェミ女がちょっと多いよ」という分析であれば、誰も文句をつけていないのでは

6.「北田さんが、本人の「意識の存否に関わらず」腐女子は男性中心主義的な世界観に異議を申し立てているというのはプルデュー的と言うよりも、フロイトの無意識説のように反論を認めない決めつけや言いがかり的であるというのがゼミでの結論でした」→まず「意識の存否」と「問われれば応えうる/えない」の違いについて、第二章で相当に紙幅をとって説明しています。「問われれば応えうる」自己行為の意図を(統計的な手法で)近似値的に確認し、その後に妥当と思われる推論を経て、解釈を得ることは、それ自体「非科学的」なことではありません。その手続きの不備が批判されるのであれば甘受したしますし、今後の研究で修正していきたいところですが、M1さんは意識的である/ないと意図である/ないとの区別を受け入れられないように拝察いたします(その意味で、賛否は別として私が批判したブルデュー理論と同様の前提をとっているように思えます。フロイトの話がどこから出てきたのかもわかりません)。その方向性で行くとほとんどあらゆる社会意識の統計研究が無効になるのですが、私はブルデュー批判の文脈でそのような主張をしていません。その意図的と判断しうる根拠として、私は自分たちのデータセットだけではなく、牧田さんなどのBL計量分析や東さんのやおい研究を参照しており、「二次創作好き女性オタク」における表現様式とそれが意味するものについて考察しているわけです。その適否はお読みいただいた方にご判断を願うしかありませんが、必要にして十分という分析が経験的に不可能である限り、「いいかがり」という判断と、「他の解釈も可能なのになぜ阻却しているのか」「他の解釈のほうが妥当だ」という他の解釈可能性の提示は、まったく異なった主張です。「いいがかり」と仰ったM1さんにこの点説明責任があると考えますが、いかがでしょうか。

7.ちょっと見落としていたのですが、6とも関連する事柄として。「北田さんたちが信仰するフランスの偉い社会学者プルデューの「ある趣味を自認しない者もその趣味の界の中に取り込まれ、その趣味による差異化・階層化ゲームのプレイヤーになる」というあたりから考えたのでしょう」とありますが、第二章ではかなり明確にブルデューの立場(対応分析と社会空間論)を方法論として批判しており、そのさいに「ルールに従うこと」「意図的であること」については、相当紙幅を費やしてブルデューとは異なる立場を明示しています。「北田さんたちが信仰するフランスの偉い社会学者プルデュー」という信念はどこから生じたのか、いささか疑問に思いますし、本書の総論でもある第二章をお読みいただけてないとすれば大変残念に思います。

8.以上の点をご再考いただいたうえで、「フェミニズム信者の妄想」というそれ自体根拠に乏しい解釈を正当化していただきますよう、お願い申し上げます。むろん社会科学は無謬のものを提示することが使命ではなく、反証可能性を持つ経験的性格を持つデータと推論を提示することが旨かと思います。その意味で統計的なデータの取り扱い等、それに基づく解釈については、M1さんご自身がされているように反証可能性があるわけで(反証になっていないと今のところ私は判断しますが)、実際専門的な社会統計家からも有意義なご批判を頂いております。とりわけ「イデオロギー」というよりは、わたしが山岡本に対して提示した社会調査としての手続き論・方法論批判についてのご見解を詳述していただけると幸いです(M1さんのレビューにはここの記述がまったく見受けられないので)。「フェミニズム信者の妄想」という解釈は、きわめて理論負荷性が高く、またフェミニズムという言葉で含意されているところの内実についての認識の妥当性が問われうるものです。「イデオロギー的だ」と相手を批判するときは往々にして、自らもイデオロギー的になってしまうものです。まずは1~7までお読みいただいたうえで、適切な「科学的」な対応をお願いいいたします。

※「さすがは上野千鶴子さんの後輩ですね。男性社会に対する怨念こそがフェミニズム系社会学の命なのですね。」と書かれていますが、制度的には上野さんの後輩ではないですよ(笑)。それはどうでもいいとして、上野さんにフェミニズム運動の旗手として敬意を払っていますが、上野さんと私とは、社会学的には、計量分析の捉え方、構築主義の捉え方、マルフェミ・ポストモダンフェミニズムの捉え方、歴史認識、経済政策、移民問題に至るまでまったくといっていいほど考え方が異なり、その都度私は批判を差し出してますし、上野さんもそれを認識されています。M1さんだって指導学生だからといって指導教員と同じ考えや理論的・政治的立場になったりしませんよね? 「怨念」という理論負荷性がものすごく高い解釈を提示されているわけですが、まずは1~7について精査していただきますよう、お願い申し上げます。
※※わたしは特に個人特定等には興味がありませんが、ゼミで「いいがかりだ」という結論に達したというのはやや気になるところです。口外は絶対にいたしませんし、とくだん戦闘的な姿勢をとったりもしませんので、東京大学の情報学環HPのわたしのメールアドレスにご連絡いだければ、ゼミに一度参加させいただき議論させていただければ幸いです。そこでの議論を流していただいても一向にかまいません。相互批判はなによりも学問的な共同体の存立にとって大切であり、山岡本と本書を読み合わせて頂いたことは、本当に嬉しく思います。ご検討頂けると幸いです。

 北田先生へ M1

 友人からここがすごいことになっていると言われて、見てみたら北田先生自らのお出ましとはビックリしました。光栄ですが、M1ごときにはある意味恐怖を感じます。
 ご期待に添えないとは思いますが、いくつかお答えしたいと思います。

 1,「結婚したら子供を持ちたい」について
 実感的に高い(から有意差は関係ない)という反論、と北田先生は解釈なさったようですが、それは違います。山岡さんの「腐女子の心理学」との対比で話をします。もともと山岡さんの「腐女子の心理学」と北田先生の「社会にとって趣味とは何か」を対比させて読んだことがもとになっているので、このような形になることをお許し下さい。
 私の指導教授は社会科学の科学性とはいかにデータで現象を捉えることができるかにかかっている、というスタンスで研究に取り組んでいます。思想性はバイアスを生み出すものと考えています。ちなみに北田先生の「ゼミに一度参加させいただき議論させていただければ幸い」というお言葉を伝えたところ、指導教授は「議論の必要のないデータ、解釈の余地のないデータを提出してほしい」とのことです。データ至上主義的なところがあるので、議論で何とかなるものはエビデンスとしての力がないという考えです。なので、「議論よりデータ」ということだそうです。
 さて、山岡さんの「腐女子の心理学」ですが、例えば、研究5-1でオタク群の交際経験率は一般群よりも有意に低かったことを報告したうえで、次のように書いています。「オタクはモテないから異性交際の経験がないことを示す結果とステレオタイプ的に判断すべきではない。そうであれば、オタク群の交際経験者よりも未経験者の方がはるかに多くならなければならない。しかし現実には、オタク群全体でも、男性オタク群でも、恋人との交際経験者の方が未経験者よりもはるかに多い。この調査結果ら言えることは、あくまでも、恋人との交際経験率がオタク群は全体より低いということだけである。(p.115)」
 北田先生はいろいろと前提を述べた上での議論であることは理解できますが、有意であるから、自分たちのジェンダー論と整合するから、「腐女子は家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている」ことにしています。カイ二乗の捉え方なんでしょうが、指導教授は「あるグループで他のグループよりある回答が多かったが、そのグループ内でその回答をした者は少数派である、この場合そのグループにその回答が多かったと主張することは現象を正確に捉えることになるのか」、という問題を私たち院生に考えさせたかったようです。ゼミの議論の結果ですが、山岡さんの「腐女子の心理学」の書き方の方が現象を歪めていないということで合意できました。山岡さんにもオタクや腐女子に対するステレオタイプをデータから否定したいという意図は見えますが、それは研究の動機的な部分であってデータの取り方や解釈にはそのような意図は感じませんでした。失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。思想的なところからはニュートラルに現象を捉えることが社会科学の科学性を担保すると考えている我がゼミにとっては、北田先生の議論の仕方は科学性が低いものと見えてしまいます。

 2,北田先生が山岡本に対して提示した社会調査としての手続き論・方法論批判について
 北田先生のオタク尺度は、「好きなマンガについて友だちと話をする」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店に行く」「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「アニメがきっかけでできた友だちがいる」「ライトノベルが好きだ」「マンガ趣味選択」「アニメ趣味選択」「ゲーム趣味選択」の8項目ですよね。つまり、北田先生が「オタク」と操作的に定義している人物類型はマンガ・アニメ・ゲームが趣味でライトノベルが好きで、それらの趣味を媒介にして友人関係を持っている人物ということで良いですよね? 北田先生のオタク像の中ではオタクにとって、アニメ・マンガ・ゲーム・ラノベの趣味自認と趣味を媒介にした友人関係を持つことがオタクをオタクたらしめる独立変数とですよね。独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。
 北田先生は山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判されていますよね。
 これは、ゼミでも議論になりました。この話に関しては、「腐女子の心理学」のレビューに書こうと思っていたのですが、北田先生のためにこちらに書くことにします。
 はっきり言って、北田先生が山岡さんを批判するのと同じことをご自分でやっているのではないでしょうか。少なくても私には山岡さんの研究が独立変数と従属変数の設定がおかしくて、北田先生の設定がおかしくないとは思えません。区別がつきませんでした。どこが違うのか教えて下さい。
 また、これは私の誤解である可能性が高いのでしょうが、北田先生は山岡さんが作成したオタク度尺度と研究1の従属変数は同じヒアリングで得られた項目だから独立変数にすべきであると考えていらっしゃるのでしょうか。オタクをオタクたらしめる要因が独立変数、そのようなオタクだから生じる反応が従属変数ですよね。同じヒアリングから両者を抽出することに問題があるのなら教えて下さい。そのときの留意点についても教えて下さい。おそらく来年、オタク・腐女子関係のテーマで修論を書くと思うので、参考にさせて下さい。
 また、やっぱり理解できないのですが、「二次創作に興味がある」が、腐女子を腐女子たらしめる要因であるとは思えません。商業BLなどの読者も多いですが、二次創作に関心がない腐女子の友人も結構います。また、「二次創作への興味」という同じ質問に対する回答を男女で意味が違うと断定している根拠は何でしょうか。女子でコミケに行っている友人たちでも腐女子ではない人もいくらでもいます。
 質問です。ここまで書いていて、何となく私がもやもやしている理由がわかったような気がします。北田先生は腐女子の操作的定義は明記していますが、概念的定義は明記していましたでしょうか。私の読み落としの可能性もありますが、ここで北田先生が腐女子をどのように概念的に定義していらっしゃるのか教えて下さい。概念的定義を研究ベースに載せるためのお約束が操作的定義ですよね。オタク度が高く「二次創作に興味がある」女性を操作的に「腐女子」としているわけですので、そのもとになった腐女子の概念的定義を愚かなM1に教えて下さい。よろしくお願いいたします。

M1さんへのお返事(2)

重ねて拙著についての詳細なご検討を感謝いたします。私の返信(1)に対応するお返事をいただけておりませんが(部分的なご回答であるとの印象です)6/6に追加された内容について、とりあえずのお返事をしておきます。https://www.facebook.com/akihiro1971/posts/1366519266770913?pnref=story

その前に2点ほど学問的な相互理解のための確認をさせてください。

(a)「M1ごときにはある意味恐怖を感じます」→
こういわれると、どうしたものか困ってしまうのですが、いかに学問共同体の成員であっても立場の非対称性がある限り、私も修士課程1年の方にこうした詳細な反論はしないと思います。しかし、M1さん(そして指導教授も)は、匿名の立場から拙著について極めて厳しい判断をされており、実名でリスクを追う私とは、別の意味で非対称、「(学問的評価に関して)安全な批判」の立場であることが可能です。
もちろん、先述の通り、私はM1さんのお名前や所属を知りたいわけではありません。ネットでこうした批判をすることも当然の権利でしょう。しかし、イデオロギー的立場の如何ではなく、学問的な水準での適切性を論じたいというのが趣旨であると拝察しますので、書き込ませていただきました。私の反論そのものが抑圧的であると感じられるようであれば、アマゾン・レビューという公的な場を選択されたことに疑問を持ちます。議論をするのが目的ではないのであれば、「この本を肯定する信者の皆さん、コメント待ってます」は空手形になってしまいます。立場の非対称性についての話はこれきりにしてください。

(b)経験的科学としての社会(科)学についての認識確認しておきたいところです。指導教授の言葉として「議論の必要のないデータ、解釈の余地のないデータを提出してほしい」とされていますが、これは相当にそれ自体理論負荷性の高い社会科学についての見解です。たとえば課税のために一世帯をなにを規準にカウントするか、というかなり基本的なことですら、「数え上げるためのカテゴリー」づくりをしなくてはならない、そのとき、常識的なひとびとの信念や理解を踏まえて有意味なカテゴリーづくりをしなくてはならない、というのが社会科学全般にいえる基本的な事柄です。数えるためにも解釈が必要なわけで、この点はおそらく指導教授も認識されていることと思いますので、ご確認ください。「イデオロギーに毒されたデータ解釈/解釈の余地のないのデータ」という0/1ではなく、「社会科学におけるデータ」、とりわけ社会意識等に関しては、なので、この解釈そのものを提示する必要があります。この点に関して、私が解釈をしていることは明示しているはずです。
(b#)指導教授はそのように強い認識論的な負荷をもった主張をされたわけではないと思います。そうした立場(論理実証主義等調べてみてください)もかつてありましたが、ほとんど社会科学の実態を捉える経験的テーゼとしても、社会科学が従うべき規範・規約としても有効でないことは議論されつくされています(少しだけ科学哲学の本を読んでみてください)。状況はこと計量的な研究(質的なものもそうです)に関しては、「弱められた反証主義」が指針となっている、という感じではないでしょうか。
M1さんは、(b1)わたしの議論に対して「反証に合理的に反論せよ」という要請をしている部分と、(b2)わたしの議論は科学的ではない(反証可能性をもたない)という二つのタイプの議論を展開されています。データの解釈についての議論は(b1)の問題系に属するものであり、(b2)とは異なります。M1さんにはどうも、「解釈を要さない社会科学のデータ処理が可能である」という信念と「反証することと反証可能性があることの混同」があるようにお見受けします。わたしの議論は部分的に反証を求められているわけで、そうすると、「社会科学」であるとの認定をいただいたことになります(これも規約的なことですが)。「解釈を要さないデータ」というのは、実はそれ自体経験的(empirical)とはいえない、強い哲学的立場を表明するものです(仰る通り「思想性はバイアスを生み出すもの」です)。この点は、共有させていただきたい「科学観」です(逆に言うと、指導教授はどのような計量的な社会意識研究であれば「科学的」と仰っているのか、具体例を挙げて頂けると助かります)。
匿名/実名のリスク差があるので立場の非対称性はご勘弁をいただきたい、ということと、なにを有意味なデータとするかを含め、とうてい社会科学が満たすとは考えられないあまりに強い「データ至上主義」という負荷は解除して、議論をさせていただけると幸いです。(b)に関して緩やかであれ合意がないと、「科学的である」条件の設定に関する挙証責任はM1さんのほうに生じます。そんな思弁的な負荷を背負う必要はないと私は考えますが…。
さて、内容についてですが、折をみて詳細に書かせて頂くとして、ごく簡単に。

2-1.「「あるグループで他のグループよりある回答が多かったが、そのグループ内でその回答をした者は少数派である、この場合そのグループにその回答が多かったと主張することは現象を正確に捉えることになるのか」、という問題を私たち院生に考えさせたかったようです」
→指導教授のご見解が、「有意差があったとしても、そもそもの回答の肯定・否定率が高ければ、集団カテゴリーとして分析するさいには留意しなくてはならない」ということであれば、まったく適切な指導方針であると思います。有意差に拘泥するあまりカテゴリカル・データの情報量を見失ってしまうことは回避されるべきことであり、その点を指導教授は指導されたかったのだと思います。
→問題は、「見逃しうる有意差か」という解釈によるものと思われます。M1さんは解釈という言葉を忌避されていますが、ご自身の議論のなかにどれほど多くの解釈が入っているかはお考えください。先述の通り、私も「76.1%は高い」ということは考慮したうえで、「解釈に値する有意差である」と判断しました。また有意差についてχ2乗検定だけではなく、他の変数を統制したうえでの議論も提示しています。これまた繰り返しになりますが、ジェンダー規範については、他の項目でも看過し難い、考察に値する差が検出されており、対応分析をもとにした二軸の図でも、数学的に興味深い位置の遠さが確認されています。「解釈に値しない有意差」と考えるほうが難しいと思う次第です。差に過剰な意味を与えるのは問題ですが、私としては、クロス分析、回帰分析、対応分析などを総合的に踏まえて、「解釈に値する有意差」と判断しています。「解釈に値しない有意差である」ことの挙証責任はM1さんのほうにあると考えます。というよりは「解釈に値しないという解釈」の根拠を示す必要があるということです。ご検討願います。
→これも繰り返しになりますが、わたしが「二次創作好き上位二層_オタク尺度高」の女性をもって「腐女子」と「≒」としたのは、仰る通りたしかにもっと適切な調査票設計が可能であったとは思いますし*6、「腐女子≒二次創作オタク高女性」というカテゴリーを独り歩きさせてしまう(属人的にカテゴリーを記述してしまう)記述があったとすれば、先述の通り、それは申し訳ない限りです。2章を読んで頂ければご理解いただけると思うのですが、私は宮台氏の著作にみられる「カテゴリーの人格化」を厳しく批判しています。繰り返しますが、記述のエコノミーのためそうした解釈を生んでしまったとすれば、率直に申し訳なく思いますが、確率の問題であることも忘れてはいけないと考えます。

*6 この時点でダメな気が。師匠の師匠である東浩紀師匠が「女のオタクはやおいと呼ばれる」と書いて笑われたことを思い出します。

2-2.「失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。思想的なところからはニュートラルに現象を捉えることが社会科学の科学性を担保すると考えている我がゼミにとっては、北田先生の議論の仕方は科学性が低いものと見えてしまいます。」→操作的定義については示していますね。「二次創作好きへの肯定上位二層」で「オタク尺度」が上位二層になる人たちです。M1さんは操作的定義ということで「定義」の日常的用法のほうに目が向いてしまっているようですが、操作的定義というのは、辞書的な・内包的な定義ではなく、その対象の存在論的・認識論的身分に関係なく(「心」や「態度」が実在するかどうか措いておくとして)、「そういうものとして定義して、数え、解釈する」という行動主義心理学において定式化された概念です。わたしは①まず標準的な意味での操作的定義を完全に明示化しており、②そのうえでその定義によって「創り出された」カテゴリーがどのような変数とどんな関連を持つか、を議論しています。「言い訳」といわれるような記述はしていないと考えます*7
「概念的定義を研究ベースに載せるためのお約束が操作的定義ですよね」というのはその通りだと思いますが、ご存知の通り、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、概念としてどのように使用されているのかは、M1さんはお好みではないかもしれませんが、EMや概念分析(オタク・カテゴリー概念分析の章をご参照ください)、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となります。その点についてはあまりに議論が紛糾しているので踏み込まず、「操作的定義(操作的な変数構成)でここまでいえるのではないか」という議論をしております(全てを一つの論文に求めるのは無理です。私は先行研究に準じて自分のできる範囲の議論を提示したつもりです)。M1さんは、概念的定義が必要である(つまり「解釈」ですね)という一方で、操作的にしか得られないはずの「解釈の余地のないデータ」を要請されています。いささかお応えに窮するご批判と考えます。限定的でしかない操作的定義から質的調査や更なる調査によって概念的な位置づけを考察していく、というのが「科学的」な態度ではないでしょうか。というより操作的でない概念の内容を先に提示せよ、というのはものすごく解釈負荷性の高い要請であると思います。この点もご検討をお願いいたします。

*7 学術的な手続きについてはツッコミを入れまいと思っていたのですが、一つだけ。師匠は「操作的定義」をすること自体には何の不当性もない、と主張しているように読めますが、M1さんも、(そして多くの読者も)「操作定義をすること自体は悪くはないが、その操作的定義の内実がヘンじゃん」と言っているのではないでしょうか。
 また、これ以降の師匠の言い分は「腐女子」の定義が難しいので便宜上の「操作的定義」をしただけだ、いいじゃん、というものに読めますが、腐女子の定義は「BLを愛好する者」とかなり明確であり(オタクよりも相当に明確でしょう)、例えばBL雑誌の愛読者を調査対象にするなど、いくらでも考え得るはず。ぼくの目からは師匠は手持ちのデータを利用することの口実として、いろいろと詭弁を弄しているようにしか見えません。


2-3.「独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています」→これはまさしく批判されてしかるべき点であり、専門の研究者からも指摘され、私自身データの見直しをしている箇所です。これは適切な批判であると思います。専門研究者のかたからも「表8-2と8-3 (p.280)、および、表8-4(p.282)において、説明変数である a)「友だちをたくさん作るようにこころがけている」 b)「初対面の人とでもすぐに友だちになれる」 c)「遊ぶ内容によって一緒に遊ぶ友だちを使い分けている」と、被説明変数である d)「同じ趣味の友人が大切」は、1次元の同じ志向を測定しているものを測定している」のではないか、とのご批判を頂きました。この点については、仰る通りと思います。ピアグループから指摘を頂いた後に、このトートロジーを排除しても議論が成り立つか、ということ、分析全体に大幅な変更の必要性が生じるかを検討し、目下全体の議論に影響はないと考えていますが、論文等にて説明をする責任がある、と強く感じています。
M1さんのこうしたご批判は経験的な社会研究にとってとても重要なことだと思いますし、詳述の必要があると思います(反証可能性を認めて頂いているわけですから)。逆にいうと、自らの非を認めたうえで、「山岡本のトートロジー」に関しては、批判的な立場を維持する、というのが現下のスタンスです。私はこのトートロジーをよきものとは思いませんので、説明責任を持つと考えますが、M1さんご自身はトートロジーそのものについてはどのようなお考えなのでしょうか。この点、「トートロジーはダメだ」で合意できると私としては議論しやすくなります。ご検討をよろしくお願いいたします(文中にあるように、このトートロジーを完全に回避することはできませんが)。

2-4.「オタクをオタクたらしめる要因が独立変数、そのようなオタクだから生じる反応が従属変数ですよね。同じヒアリングから両者を抽出することに問題があるのなら教えて下さい。そのときの留意点についても教えて下さい。」→この点ついてはご精読いただきたいと思うと同時に2-3のように私の分析設計のミスもあるので、お返事をお待ちして、誠実に回答したいと思います。「相当に注意するべき」というのが私の立場であり、自らの非を認めたうえで、山岡先生の分析には首肯できません。そしてそのような調査設計をM1さんがなされないことを切に望みます。「同じヒアリングから抽出する」こと自体を問題にしているのではなく、論理的に、抽出したデータ・情報を丁寧に識別すべきというのが私の主張です(「北田先生は山岡さんが作成したオタク度尺度と研究1の従属変数は同じヒアリングで得られた項目だから独立変数にすべきであると考えていらっしゃるのでしょうか」と問われれば、違うとお応えするしかありません)。そうした疑念の薄い、有意義な研究をされることを願っています。

2-5. 「ゼミの議論の結果ですが、山岡さんの「腐女子の心理学」の書き方の方が現象を歪めていないということで合意できました。山岡さんにもオタクや腐女子に対するステレオタイプをデータから否定したいという意図は見えますが、それは研究の動機的な部分であってデータの取り方や解釈にはそのような意図は感じませんでした。失礼ながら北田先生の書き方は、操作的定義であるとかいろいろ言い訳をした上で結局はジェンダー論かよ、と言う印象が強いです。」→どうにもジェンダー論を忌避されているように思いますので、この点についてはあらためて丁寧にご説明さしあげたいと思います。その前に、データ収集の方法、サンプリング等についてM1さんのゼミでは問題とならなかったのでしょうか。学生調査は予備調査でよく使うもので、また、それ自体意味のあるものですが、M1さんがサンプリングについてはほぼお話になっていないことがやや気になります。また「ゼミの結論」という記述はご自身の主張を正当化するものではありません。あくまで事象とデータ、適切な・合理的な推論に即してご議論いただけると幸いです。

よりテクニカルなレベルでピアグループからも批判をいただいていますが、そうした批判に誠実に対応していくことは学問の基本的ルールであると考えます。M1さんは、「真/偽」と「真/偽の判断がなしうること」を混同され、後者での反論提示により、私の議論が「フェミニズムの妄信」に規定されている非科学的なものと「解釈」されているのではないでしょうか。これまで示した来たように、あくまで批判可能性には開いておりますし、その可否についても理由とともに提示するよう努めています。「言いがかり」「反論を許さないドグマ」「フェミニズムの信者」といった相当に強い思想的解釈は、まずはひとつひとつの論点を検討することによってしか正当化されえないと思います。「ディベート」ではないわけですから、この点もご確認いただきたく思います。

 3回目追加レビュー*8

*8 この追加レビューというのは、消されたレビューを再度投稿した時に、追加された文面を意味します。


 北田先生たちのオリジナルの研究報告書と質問紙を拝見しました。一般的な趣味に関する質問紙であり、オタクや腐女子の何らかの調査のために作成された質問ではないとお見受けしました。北田先生の「オタク尺度」は一般的な趣味の質問の中からオタク趣味に関連しそうな項目をチョイスして作成したものですよね。直接的な質問がないことを不思議に思っていましたが、何となく分かりました。一般趣味用の質問の再利用ではオタクや腐女子をとらえようとしても表面をなぞるだけでディープなことはわかりませんよね。質問の再利用だから操作的定義は語れても概念的定義は語れないのですね*9

 やはりオタクや腐女子について語る資格なしというのが私の結論です。

*9 この印象は、恐らく本書を読んだ人の多くが抱いたものではないかと思います。北田師匠の方だって予算を無制限に使っていかなる調査もできるわけではないでしょうから(ぼくたちに比べればその力は何千、何万倍も強いでしょうが)、「有りあわせの残り物でお夕食を作った節約母さん」に対してリスペクトを持ちたい気もする一方、カップ焼きそばの戻し湯でスープを作るかのような無理やりさにこそ、ツッコミが入れられているような気がしないでもありません。


 4回目追加コメント

 北田先生、一つ教えてください。
 北田先生は「自らの非を認めたうえで、山岡本のトートロジーに関しては、批判的な立場を維持する、というのが現下のスタンスです。」と書いていらっしゃいますが、山岡さんの研究1は北田先生がトートロジーとおっしゃる意味も理解できる気がしますが、他の研究はどうなのでしょうか? ほぼ、山岡さんの「腐女子の心理学」の全否定の書き方をなさっているように感じます。「腐女子の心理学」には多くの研究結果が書いてありますが中にはどう考えてもトートロジー批判が当てはまらない研究も多いと思います。「腐女子の心理学」全否定ならその理由を、研究ごとに否定と許容なら研究ごとに許容の理由と否定の理由を教えて頂けないでしょうか?北田先生のお答えは、私の今後の研究の有益なガイドラインになると考えています。ご教授お願いいたします。

 5回目追加レビュー

「M1ごときにはある意味恐怖を感じます」に対する北田先生のコメントに対して

 北田先生は、「匿名の立場から拙著について極めて厳しい判断をされており、実名でリスクを追う私とは、別の意味で非対称、『(学問的評価に関して)安全な批判』の立場であることが可能です」と書いていらっしゃいます。これは、本を書くことを含めて表現行為に伴うリスクではないでしょうか。一読者からの批判を許せないのなら、本など書くべきではないのではないでしょうか?学会誌に論文を発表して、匿名不可で議論をすれば良いのではないでしょうか。本を広く出版することで著者は利益を得るわけですから、一読者の匿名の批判は受益者が負担すべきリスクであると考えます。
 おそらくご自分では気づいていらっしゃらないのでしょうが、東大の教授というのは社会的な権威です。その権威者が一読者に対してこのような丁寧なコメントを下さることは大変有り難いことと思いますが、同時にやはり恐怖を感じます。北田先生は☆1つのコメントを書いた私に対してだけではなく、本人コメント削除のあおりで消えてしまった☆1つのレビューに対しても即座にコメントを返しています。さらに私のレビューへのコメント欄で、アマゾンレビューとは無関係な中央大学法科大学院の大杉謙一先生のツイッターに対しても否定的なコメントをしていらっしゃいます。このような反応をする方に、まして、東大教授に対して恐怖を感じるなと言う方が無理です。それでも、著者から直々にご教授賜る機会はありませんので、勇気を振り絞ってコメントしている次第です。もちろん北田先生にはそのような意図はないと信じていますが、「立場の非対称性についての話はこれきりにしてください」というお言葉は権威者が被害者面して議論を封殺する安倍晋三大先生に近いものを感じてしまいます。もやもやが強くなります。男性権威者の態度にこのようなもやもやを感じるとフェミニズムに目覚めるのかもしれませんね。「立場の非対称性についての話はこれきりにしてください」という北田先生のお言葉に権力者の卑怯な言論封殺の臭いを感じてしまいます。このようなコメントは北田先生のイメージダウンになるのではないかと心配してしまいます。僭越ながら、あまりこのようなコメントはなさらない方がよろしいのではないでしょうか?

「腐女子の操作的定義と質問項目」について

 やはり、私がこだわるのは腐女子の概念的定義の曖昧さと質問項目の大まかさです。質問項目に関して北田先生は、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」というお答えを下さいました。確かにセクシュアリティに関する質問などは答えづらいだろうし、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄なのかもしれません。山岡さんの「腐女子の心理学」でも、アンケートの目立つところにあったBLを読むかという二択の質問ではNOと答えていても、多くの質問項目の中にあった「BLを好んで読むか」という質問項目では肯定的に答えていた人がいたことが書いてありました。しかし、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると直球から見えてくることの方が大きいと思います。そこが「腐女子の心理学」ではあまり感じなかったけれど「社会にとって趣味とは何か」を読んだときに感じたもやもやを生み出す原因なのではないでしょうか。北田先生は、これが計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統とおっしゃいますが、社会学の教科書的には正しい研究方法なのでしょうが、それが他の社会科学からも正しいと認められる研究方法であるとは思えません。
 また北田先生は本文中で概念的定義を明記なさっていませんし、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、EMや概念分析、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となり、あまりに議論が紛糾しているので踏み込まない、というコメントをなさっています。海法紀光さんがコメントなさっていますが、私も海法紀光さんに賛成です。
 明確な概念的定義はしていないけれど北田先生は次のように書いています。「特筆に値する成果を生み出しているのが、データベース消費の概念を受け継ぎながら、「やおい」を生産・受容する女性たち-「腐女子」というカテゴリーが自己執行される-の共同体を、相関図消費という観点から分析した東園子の研究である。(p.269)」、「腐女子たちは「妄想」された男性同士の性愛関係を通して、現実的な異性愛関係を排除した、女性どうしの共同体を作り上げる、と東園子は分析する。(p.278)」このように北田先生は、東さんの研究の紹介という形ですが、明らかに 「腐女子=やおい(BL)を生産・受容する女性」という前提を受け入れ議論されています。それにも関わらず操作的定義ができないとコメントしています。これは、「腐女子はBL嗜好の女性」という定義をしてしまうと、「二次創作に関心がある女性=腐女子」とする自分の研究を否定することになるからではないでしょうか。
 また、北田先生の「二次創作に興味がある=二次創作好き=二次創作をしている」という仮定が正しく、それが腐女子の条件になるのなら、「二次創作に興味がある非オタク」の類型は意味をなすのでしょうか?二次創作作品を読んでみたいという意味で積極的に興味を持つ人はオタクでしょう。しかし「二次創作に興味があるか」と質問された場合、二次創作についてよく知らないオタクではない人でも、よく知らないからこそ二次創作に興味があると答えたひとがいたのではないでしょうか?この「二次創作に興味がある非オタク」の存在は、北田先生の「二次創作に興味がある=二次創作好き」という前提自体が破綻していることを意味しているのではないでしょうか?

 やはり北田先生のご研究は「腐女子に関する研究」であるとは思えません。北田先生からコメントをいただいて明らかになったところもあります。コメント感謝しています。明らかになったことは、北田先生が「社会にとって趣味とは何か」の中で紹介している調査結果から「オタクや腐女子について語る資格はない」という私の結論に確信が持てました。

 北田先生、ありがとうございました。

【M1さんへの最後のお返事】 6/11北田

ご返信するかどうか自体、ややためらいはあったのですが、学問的といえる事柄について二点のみ、簡単にお答えしておきます。
3-1. まず、若者の趣味の全般的調査であることがそのものとして問題であるわけではありません。この点はM6さんがお書きになってるように、インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあります。直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もあり、「いかに聞くか」「それで何の回答が得られるのか」というのは、ラザースフェルド(計量社会学の走りの人といってよい人です)以来、理由分析(reason analysis)といった形で、計量分析でも伝統的に問われていることであり、研究の目的に即して問いの設定を考える、あるいは問いで問えたことになっている事柄の限界を考えるうえで不可欠の作業です。つまり特定の問いでいかなる回答が得られたかは、様々な変数間の関連の分析等も考えつつ、「解釈」しなければならない事柄です(本書p142~の分析をご覧ください)。
仰る通り、BLの読書頻度や二次創作へのかかわり方(書くか、読むだけか)などを組み入れればより情報量のある分析ができたでしょう。また第七章のように、概念分析の視座を採りこんで、いけば第四章のように「自認」と、先行研究・民間社会学的推論から尺度化された操作的カテゴリーとの差を分析の対象とすることもできるでしょう(自認/情報行動の差はとても大切な分析テーマであることは繰り返し論じています)。その意味で、8章は限界をもっています。このことを否定するつもりはありません。しかしそれは―私でなくてもよい―次なる論文・研究が取り組むことで、私は、私なりに自らの用いた「問い」への回答から合理的に説明できるであろう事柄を書き留めたわけです。「不十分であること」と「読むに値しない/非科学的」、「ある記述が偽・不適切である/記述の真偽そのものが問えない」は異なる事柄です。この点は繰り返しになりますが、ご確認ください。「解釈の余地のないデータ」と論理学的推論でやっていくというのは、社会科学においてはきわめて困難なことであり、またありえたとしてそれが適切であるとは思えません。このあたりは、それこそ『社会科学のリサーチ・デザイン―定性的研究における科学的推論』『社会科学の方法論争』等の基本文献をご覧ください。総じてM1さんの規準で行くときわめて多くの社会科学的分析が無効となってしまいます。よい統計データをとることは大切で、それを情報量を失わない形で適切に分析していくことはいうまでもなく、重要なことです。それと「解釈無しのデータ」というのは全然違う発想です。
3-2. トートロジーの件については、コメントでの私の書き方が強すぎたかもしれません。私の立場については本書288にあるものをご覧ください。「因果推計のもととなる関連性を調査するのが、回帰分析や分散分析などの多変量解析の目的であるので、こうした意味的なトートロジーは回避不可能なものであるが、他の変数との関連の相違や意味的な検討をもって対処するのが常道であり…」と書き、そこに付された注15(p310)で、変数の関連と因果推計の関連性について、やや踏み込んで書いています。そこで、統計的な精査の他に、意味的・常識的推論が果たす重要な役割を果たすことを述べています。そこを無視して数字だけで語ろうとすると適切性を欠いた因果帰属になりうる、ということです。
二つの変数間の相関係数が1であれば「関連がある(変数は独立ではない)」、0であれば「関連がない(独立である)」ということになりますが、相関係数1というのは「強い相関」ですが、私たちの認識に情報をもたらすものではありませんね。重要なのは、「相関関係がある(ない)こと」と「情報をもたらすものである(ない)こと」の違いです。私が本書で「トートロジーは不可避」といったのは、統計的な関連(無関連の棄却)を求めつつも、それが情報をもたらさない「トートロジー(相関係数1)」にならないよう、分析のさいに投入する独立変数の意味を考えなくてはならない、情報価値があるか否かを解釈しなくてはならない、ということです。そういう意味でトートロジーは不可避だけれども、問いの設定に適切(relevant)な形で、変数を解釈する必要がある、その痕跡が見られないものは問題がある、ということです。
ですので、「トートロジーそのものを全排除する」ということではなく、M1さんには、上記のような解釈のプロセスを重要視してほしい、というのがコメントの趣旨です。

※以上をもって、M1さんとの直接のやりとりを終わりとさせていただきたく思います。表記の修正を明示しないことは別に良いと思いますが、二回にわたって私が極力誠実に論点を分節してお答えした事柄には、ほぼご回答をいただけず、また、お応えするたびにお応えへのご対応なく質問を敷衍し、議論を拡散させていくというご姿勢に、徒労感を感じています。学問は勝ち負けを競うディベート空間ではなく、適切な記述や解釈を目指して、問題点を相互批判し続ける場であるとわたしは考えています。そのconventionからするとM1さんとお話を続けることは難しいと判断しました。
本当に修士課程一年のかたであるのならば、ぜひ社会科学の方法論をめぐる議論の蓄積を参照し、「適切な批判」を創り出す準備作業に勤しんで頂きたく思います。「フェミニズムの妄信者」という結論を導くにはどれほどの距離があるか、「解釈を要しないデータ」なるものを提示せよ、ということがどれほどに「理論・思想負荷的」なものであるか、を熟考いただきますよう、お願い申し上げます。
ご研究のテーマからすると、遠からずM1さんの論考を拝読する機会もあるかと思います。無用に意味分析と計量分析を分断せず、また「解釈」に関する先行研究の蓄積を重視しつつ、よい修士論文をお書きになられることを願っています。これは皮肉でもなんでもなく、この歳になると本気で思うのです。そうした論文のなかで、わたしの議論が反証されていくことはわたしの願うところです。
これまで「誠実なお返事をお待ちしております」と毎回申し上げてきましたが、もう申しません。意義のある修士論文をお書きになられることを願いつつ、これにていったんの私側の終止符とさせて頂きたく思います。

 *     *     *

■兵頭新児の所見

 コメントはここでいったん、一区切りという感じです。
 正直申し上げると、北田師匠の指摘通り、「M1」さんも師匠の反論の全てにレスポンスしているとは言い難い。感じとしては調査の方法論への疑問から、解釈への疑問へと、議論の軸足を移したい気分になっている、という印象です。そこに師匠が怒っているのは、恐らく学者としての誠実さによるものでしょう(ならばレビューを消したAmazonに対しても、その誠実さを爆発させて欲しいものですが……)。
 ただ、「M1」さんも師匠とのやり取りには負担を感じており、「答えろ」と無理強いするわけにもいきません。
(ただ、師匠の気持ちもわかるので、やや彼に肩入れしたような書き方になりました。「M1」さん、すみません)
 ところがここで話は終わったのかと思いきや、何と北田師匠は「M1」さんに「セッションに参加してくれ、あなたにはその義務があるぞ」と迫ってきたのです。これも気持ちとしてはわかるのですが、いささかスットンキョウと言うしかない。
 以降がその時のやり取りとなります。どうぞご覧ください。

 *     *     *

「腐女子」という概念をめぐる横領、象徴的闘争に与することをは厭います。学術的にも研究倫理的にも。ことここまで至っては、M1さんも「研究者として」調査協力者への倫理的責任が生じると考えます(pixiv騒動はご存知ですね?)。社会学や心理学、社会心理学の専門的オーディエンスを揃えたセッションを開きましょう。わたしが立場が上(?)で、抑圧的というのなら、指導教授や合意したお友達、同意してくれる専門研究者を連れてこられて結構です。私はM1さんというよりは指導教授の指導方針・研究倫理・統計知識について深い疑念を抱いています。個人情報は徹底して管理し、お名前や所属が漏洩することのないように、最大限の配慮をいたします。gyodai@iiii.u-tokyo.ac.jpです。ご連絡をお待ちしております。わたしはいつでもあなたの個人情報を尊重しつつ、議論を開いています。ローデータも持ってまいりますし、断る理由は何もないと思います。
どうしても直接議論するのが躊躇われるのなら、スカイプの捨て垢参加で結構です。ただ、指導教授には顕名で研究者・教育者としての責任を果たしていただきたく思います。指導教授がそれも回避したいというのであれば、学者としての説明責任を放棄したに等しいわけですが、それでも匿名・スカイプまではこちらも譲ります。参加者は、双方が推薦する社会学、心理学、心理統計、社会統計、BL研究者の専門家5名ずつでいかがでしょう。その場に山岡先生をお招きしたとして、なにぶんプロなので山岡先生も前向きにご検討くださることと思います。私のほうから山岡先生にご連絡いたしますので、M1さんは指導教授とご相談ください。
繰り返しますが、あなたには完全な匿名性(私に対する匿名性含めて)が保証されています。拒絶する理由はなにもないと思います。

 *     *     *

■兵頭新児の所見

 ……以上です。先に「M1」さんが北田師匠を恐れ、「男性に高圧的に迫られ、フェミニズムに走る女性の気持ちがわかりました」と揶揄なさっていましたが、見る限り師匠には「無反省」という言葉が当てはまるように思います。一方では、「追う側の性」に設定されているぼくとしては、師匠に同情するところが、全くないでもないのですが……。
 しかし「M1」さんが返答に窮している間に、Amazonのレビューは(繰り返すことですが)またも消え、また「M1」さんが書き込めなくなったといいます。
 もしぼくが北田師匠であれば、自分と「M1」さんの「対話」を妨害したAmazonに徹底した抗議を加えることでしょう
 もっとも、「M1」さんはかなり消耗なさっているご様子。対話がなさりたいのならばせめてコメント欄上でなさってはいかがか……と老婆心ながら進言するものであります。

リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

2017-06-02 22:25:33 | レビュー



●腐女子の偽物をやっけろ!


 さて、前回の続きです。
 初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
 前回のラスト、ぼくは北田暁大師匠の腐女子の持ち上げを見ていると、腐女子に同情してしまう、と書きました。
 そう、本書はあらゆるフェミニストの著作がそうであるように、「男性をただひたすら凄惨に虐げ、貶めるのみではなく、女性までをも犠牲にする」ことにも注力した書だからなのです。
 北田師匠は山岡重行氏の『腐女子の心理学』という著作にいたく激おこです。一体何をそこまで、と思うのですが、何しろぼくも山岡氏の著作は未読なので、本書の引用を孫引きしてみましょう。

 幸い、オタクは腐女子よりも、異性と親しくなりたいという欲求が強い。共通の話題があって、腐女子が少し好意的な態度を示せば、簡単にオタクと仲良くなれるはずである
(293p)


 念を押しておきますが、上は本書293pから孫引きした、山岡氏の著作中の文章です(ちなみに山岡氏が「オタク」という時、オタク男子のみを指しているようです)。
 これに対する北田師匠の評が以下です。

「腐女子」は、戦後家族的な性別役割規範に対してきわめて否定的な立場をとっており、一方で「男性オタク」は、もっとも家族の戦後体制に適合的なジェンダー規範を持っている。この対照的な両者をたかだか趣味が共通しているという点で「仲良くなれる」とするのは、いささか楽観的にすぎる。
(239p)

 山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)



「オタク」は「生き方」であり、「道」であるのは周知ですが、それを「たかだか趣味」と言い捨てる北田師匠の認識は、一体どうしたことでしょう。これではいかに「こんにちは、801ちゃん」と哀願の限りを尽くしても、腐女子を「彼女さん」にすることは叶いそうにありません。
 それはともかく、どう思われましたか? みなさんw
 何だかどす黒いものが胸に沸き立ちますねw
 まあ、その、学術書(なのでしょう、多分)において上のような「アドバイス」がなされているのは、確かに余計なお世話という気もしないではありません。
 一方で実際にオタク婚活パーティーが開かれたり、オタ婚している男女だって珍しくない以上、「アドバイス」としてはそれほど外してもいない、常識的なものだとの感想も持ちます。
 が、奇妙なのは北田師匠がこの「アドバイス」を、憤死せんばかりの勢いで「あってはならぬもの」としている点です。
 いえ、実のところ、ぼくも山岡氏に大賛成というわけでは全くありません。もし今、北田師匠とぼくと本田透氏を一つの場所に連れてきて並ばせたら、きっと皆一様に顔を鼻水でパックしながら血涙を迸らせ、地団駄を踏み鳴らしている光景が見られることでしょう。
 しかしぼくたちの地団駄の理由は、師匠とはいささか異なります。
「同じ趣味の者同士、男女交際しよう」はもちろんそれなりに理のある一般論なのですが、そうそううまくいくかどうかは疑問です。
 理由を、思いつくままに並べてみましょう。

 1.まず、オタクコンテンツというのはかなりラディカルに男性向け、女性向けに分かれていること。
 2.男女共に人気のあるコンテンツとなると化け物的なヒット作品であり、殊に近年、そういうのは少ないこと。
 3.またそんなヒット作でも、それこそ北田師匠が重視する「二次創作」を見れば自明なように、市川大河アニキが自分の「彼女さん」が「801ちゃん」であったと自称していることを見ればわかるように、その楽しみ方が男女でまるきり分かれること。

 まあ、こんな感じでしょうか。これはある種、オタクコンテンツが人間の欲望をストレートに描き出すものである以上当たり前であり、いかに大河アニキがデマを垂れ流そうが、事実は変わらないということでもあります*1。
 また一方、山岡氏が指摘しており、本田氏も同様なことを言っていたように「オタク男子はオタク女子が好きだが、オタク女子はオタク男子が好きではない」という傾向は、ある程度言えるように思います。これは一つには、オタクに限らず、男子の方が女子を求める傾向が強いということでしょうが、同時に「オタク趣味は男らしさとは相反するが、女らしさとは必ずしもそうではない」という事情にも起因するように思います。やはり、オタク男子とオタク女子では、前者の方がよりモテないのです。
 しかし北田師匠は、前者はもちろん、後者の論法も全く歯牙にはかけません。
 何しろこの直後、師匠は得意の絶頂で絶叫しているのですから。

 腐女子は「現実の対異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデーターベース消費に生きる男性オタクである。
(286p)


 ここでも「データーベース消費」とやらを根拠に、いちいちオタク男子をdisっています。
 師匠の主張で一番おかしいのは――もちろん勘違いなオタク男子観、腐女子観なのですが、それを置くとするならば――「ジェンダー意識のギャップ」がそのまま男女交際の不可能性にスライドするという謎の前提があることです。
 前回採り上げた、図.1の表に並んだ質問は「人生設計」的な性格が強く、仮に師匠の解釈を正しいと前提すれば(正しくないことは前回指摘しましたが)確かに「オタク男子とオタク女子が結婚したら、子育ての方針などでもめるかも」との推測も成り立ちますが、恋愛というのは別にそうした予断の元に行うものではないでしょう。にもかかわらず師匠は、「オタク女子は最も先端的であり、最も後進的なオタク男子とは釣りあわないのだ(だからボクの『彼女さん』になりなさい)」とでも言いたげです。
 何よりもぼくと本田氏が踏んでいる地団駄は、「草食系であるオタクよりも、肉食系であるDQNの方が女にモテる、そしてオタク女子もそうしたセクシュアリティにおいて、一般女子と変わることはない」という経験則に基づいています。そしてそれは何故か……言うまでもなく、本田氏が指摘しているように、DQNの方がジェンダー規範に忠実だから、「女を女として扱うから」ですよね。
 そこを、師匠は全く真逆の論理展開をしている。
「オタクは、マッチョだから、女にモテないのだ」と。
 これは本当なのでしょうか。
 それこそ、師匠のグルの「彼女さん」である人たちのイデオロギーに則った論理展開をしているだけではないのでしょうか。

*1 また、そこまで男女差があることが許せないのであれば、大河アニキ的な人物はオタク男女に歴然とした違いがあるとする北田師匠にも噛みつくべきだと思うのですが、何故だかそれは、決してなされません。こうした人たちは「男女差は一切ない」というドグマと共に、例外なく「女性は男性より優れている」というドグマも妄信しています。矛盾している……というより、深層心理では女性を蔑視しているからこそ「女性は優れている」と主張せずにはおれないのだという彼らの「ホンネ」が、ここからは透けて見えますね。


●不良腐女子の正体は!


 以降も師匠は山岡氏への攻撃の手を緩めません。
 章の後半でも、239pでなされた引用が再び繰り返され、

 山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点からみた腐女子の「逸脱化」に貫かれている。
(302p)


 と論難し、山岡氏が「腐女子は恋人が欲しいはずなのに」と前提しているがそうではない、腐女子は彼氏ができないのではない、作らないのだ(大意)と主張します。
 そしてついには、以下のような結論を導き出してしまうのです。

 端的にかれら(引用者註・腐女子)は――現在のジェンダー秩序に適合的、という意味においてであれば――「恋人はいらない」のであり、「結婚したくない」可能性も大きい。既存のシステムのバグを同性の友人とともに発見する「理想的親密状態」を手放すぐらいなら、恋人も結婚も不要、というのは不協和どころか、ごく自然な認知的・感情的・行動的「態度attitude」である。
(中略)
 腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)


 すごい!
 すごすぎます!!
 北田師匠の(淫夢の)中では、腐女子とは女同士、「レズビアン共同体」によって団結し、この根底から間違った現代社会の家父長制、ヘテロセクシズムを糾弾するためにBLを描き、間違ったシステムを断罪するために戦いを挑む、勇猛なフェミニズムの闘士だったのです!!
 ちなみに「レズビアン共同体」というのは「何か、女性差別なので女同士で連帯する」程度の意味の言葉であり、事実、上の文章の直後、この言葉の解説が入ります。
 お気づきかも知れませんが、この言葉は「ホモソーシャル」の対義語です。「男の団結は悪/女の団結は善」という恐ろしく雑な二元論がここでは貫かれ、フェミニズムが「男は何でも悪/女は何でも善」という結論から始まっているガクモンであることを、何よりも雄弁に物語っています。
 師匠はまた、BLが従来の性規範には収まらないものであると書き立てます。

 結婚という制度は異性愛者間の、現代の日本においては異性愛者間の次世代再生産を担う集団を担保するものとして位置づけられている。
(300p)


 てか、結婚ってどこの国でもどこの時代でも、そういうものだと思うんですが、とにもかくにも北田師匠は「結婚」制度含め、現行の社会のジェンダー、セクシュアリティを根底から破壊したいご様子。そしてそんな革命戦士である自分の「彼女さん」に、腐女子こそがなってくれるのだと、信じて疑っていないかのようです。東師匠の「BLはホモソシアルを風刺している」が可愛く見えてくるほどの被愛妄想ぶりですね。BLにおいてマタニティものが人気であることなど、師匠はご存じないのでしょうか。
 しかし、それにしても、そもそも、師匠は一体何故、ここまで腐女子=フェミニストとでもいった世界観を、あどけなく妄信しているのでしょう?
 むろん、前回に挙げた図.1と図.2の調査がその根拠になっているのですが(それが疑わしいことは前回述べましたが)補足として、図.2をもう一度、見てみましょう。



 この調査から、師匠はオタク女子には「マンガみたいな恋をしたい」といった願望が低いというデータを導き出します(アンダーラインは原文では傍点です)。

 女性二次オタク≒腐女子について興味深いのは、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」に対する肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」に対する肯定的回答率の低さである。
(273p)


 数字としては決して低くはないのですが、他のカテゴリ(リア充女子、男子)もまた高い数値を示しているがため、相対的に「何か低い」という結果になってしまうようです。
 そして師匠は殊更の理由なく*2、女性はこの「マンガみたいな」という言葉を「規範的理念型に近」いもの、という意味として捉えているのだろう、また「マンガ・アニメのコンテンツに恋愛のモデルをことさらに見いだすわけではない」のだろうと言い出します。
 つまり、「現実の恋愛は(男尊女卑で)ケチカラン。腐女子は『マンガみたいな』と問われた時、そうした現実の恋愛規範を連想し、それを否定したのだ」というわけです。
 実に奇妙です。
「マンガみたいな」と問われ、現実を連想したという前提が極めて理解しにくい上に、そもそもBLそのものが女性を排除した男性同士の恋愛であり、その意味で腐女子が「マンガみたいな」恋愛をすることは、原理的に不可能です。BLが自身の欲望(男性にモテたい)を男性(受けキャラ)に仮託して安全裡にそれを成就させる、という構造を持った表現であることを考えれば、腐女子が「マンガみたいな恋をしたいか」と問われ、「No」と答える理由は明白ではないでしょうか。
 それは単に、「そうした欲求を(腐女子はジェンダー規範に忠実なので)表に出したくない」というものです。
(先に書いた、「男は女よりもモテたいという欲望が強い」という表現もその意味では正確ではなく、それを表に出しやすいのだ、とするのが正しいでしょう)
 そこを、一体全体どうして、師匠は上のようなねじくれた解釈を施してしまうのか。師匠はBLの非現実性自体を、恋愛規範を解体するもので素晴らしいとしているのだから、「BLと現実の恋愛は別だ」とでも解釈するだけで充分のはずです。
 いえ、師匠にしてみれば、とにもかくにも「腐女子が現実の恋愛を呪っている」との結論を導き出さなければ、充分とは言えなかったのでしょう。最初から結論ありきなのです。
 しかし、そもそも、仮に師匠の腐女子観が正しいのであれば、ここまで腐女子が増えているのだから、フェミニズムは大いに盛り上がっていそうなのに、全然そんな感じがしないのは、何故だかわかりません。
 また、「練馬調査」には「主婦になりたいか」といった項目があり、女子(腐女子だけではない、女性全体)の42.6%が「専業主婦になりたい」と答えています。そんなにも腐女子が従来のジェンダー規範に否定的ならば、ここから彼女らが主婦になりたがっていない事実を導き出せそうなものですが、そうしたデータは何故か提示されません
 こうした主張は、三十年ほど前に上野千鶴子師匠が『風と木の詩』辺りを持ち出して「ジェンダーレスワールドの実験」などと言っていた頃の古拙な見方を、一歩も出ていません。
 実のところBLが男女ジェンダーのリプレイであることは自明であり、既にこの当時、中島梓師匠がそれを指摘、上野師匠のロジックに見事な反論を加えておりました*3。上野師匠が間違っていたことは、それ以降のBLの隆盛を見るに明らかなのですが――例えば、腐女子の使う「受け/責め」といった用語は、「ジェンダーレス云々」といった分析が虚妄であることを、何よりも雄弁に世に知らしめてしまいました――にもかかわらず、北田師匠は三十年以上、ずっと同じ場所で足踏みをなさっているようです。

*2 厳密には一応、解釈らしきことが書かれています。それをぼくの理解できた範囲で思い切りざっくり説明すると、オタク女子は「マンガみたい」を「古典的な」とでもいった意味あいで捉えているのだろう。それは言わば、「マンガに出てくるような、唐草模様の風呂敷を背負った泥棒」とでもいった、つまりは「理念型」、「世間であるべきとされている形」というニュアンスである、といった内容です。
 何故かと言えば、男性が恋愛から阻害されている傾向があるのに対し、女性は「体験」としての恋愛を内面化する傾向にあることが原因ではないか、との仮説が語られます。
 まあ、更にざっくりと、女性は恋愛をリアルなモノとして捉えるので、「マンガみたい」と言われても、男の感覚ほどには空想的なモノとしては捉えない、とでも言い直せばわからないではないですが、ジェンダーフリー論者の唱える説としては問題ある気もします。
 もっとも、このリクツを持ち出すため、(また、男子が「マンガみたいな恋」をしたがる傾向が高いことを説明するため)、師匠は「男子は男性役割を必要とされないマンガの中の恋愛に憧れているのだ」という解釈をしています。ぼくとしては、これ自体は賛成できますが、師匠自身の本来の主張とは丸きり相反する解釈となってしまっています。
 いずれにせよ、この解釈だけで論点が五つも六つもできてしまう以上、短絡的な結論を出そうとすること自体に、問題があるんじゃないでしょうか。
*3 以上は雑誌『都市Ⅱ』の内容を、本が手元にないため記憶で再現したものですが、大きな間違いはないはずです。


●爆発!腐女子コントロールタワー


 他にも、本書はBLを自分たちのイデオロギーに適うものであると強弁するために、クラシカルな記述の目白押し。

 性犯罪が起こるたびに「男の性欲は……」という紋切り型の説明図式に日々晒される女性にとって、性そのものを否定することなく性愛を描くため、性そのものを関係性のなかに収めるという方法は、現行の男性中心主義に覆われた社会を相対化するうえで重要な戦略であるといえる。
(296p)


 一体、本書の出た今年は、西暦何年なのでしょう。少なくともまだ21世紀を迎えていないことだけは確実です。
 こうした記述を見ていると、彼ら彼女らの戦略は既に、こうした時代錯誤なことを敢えて書いてアリバイを作っておくという、「歴史捏造」の方に既に舵が切られているのでは……と思いたくもなって来ますが、しかしそれはやはり違い、あくまで「天然」なのでしょう。北田師匠の周囲にはグルの「彼女さん」であるフェミ腐女子しかいらっしゃらないでしょうから、彼の主観では上のような腐女子観も、あながち非現実的とも思えないのかも知れません。
 しかしもちろん、それが腐女子のマジョリティの実態を反映しているとは考えにくい。
 萌えアニメなどにも、近年では一人くらい腐女子キャラが登場するのは珍しいことでなくなりました。それは、ぼくたちが彼女らを「知って」いるからです。
 何を「知って」いるのか。
 彼女らが「ぼくたち同様にアニメに夢中で、エッチなことにも興味があって、ぼくたちのそんな話にも乗っかってくれ、そして、しかし、言うまでもなく、伝統的な女性ジェンダーを保持した存在であること」を、です。いえ、先に「男子オタクと女子オタクではアニメの好みが違う」と書いたように、むろんアニメはアニメなりの脚色でよりぼくたちに親しみやすくしてくれているわけではありますが。
 彼女らが自身を「女の腐った」ような存在であると自己規定し、「腐女子」という言葉が生まれたことや『801ちゃん』が流行ったことにも満更ではないこと(女子としてスポットライトを浴びて嬉しげなこと)を「知って」います。
 彼女らが「心にペニスがある」と自称する時、ぼくたちは「サービス」で驚いてみせますが、彼女らが精神的にも肉体的にもペニスを持たない存在であることを、「知って」います。
 彼女らが男子のことを男子と呼ばず、「殿方」と呼ぶこと、それが彼女らの「伝統的女性ジェンダー」への少々の屈折を含んだ憧憬故の行動であることを、ぼくたちは(そんなムツカしい言葉として言語化はせずとも、直感的に)「知って」います。
 だからこそ、彼女らは伝統的女性ジェンダーに忠実に、自らの欲望を(男同士に演じさせることで)男性へと仮託し、彼氏が欲しくないようなポーズを取ることを「知って」います。
 彼女らが「この家父長制社会へと戦いを挑むため、敢えて男と距離を取っている」存在などでは決してないことを、ぼくたちは経験則的に「知って」います。
 だからこそ、腐女子を自らの政治の道具にしようとしているとしか思えない北田師匠の言動に、ぼくは激しい嫌悪感を覚えます。
 自分たちが既存のジェンダーを憎んでいるから腐女子もまたそうでなければならぬのだ、彼女らは結婚などしたがってもいないのだ、と絶叫する北田師匠の振る舞いは、かつてのフェミニストたちが女性の非婚化を推し進めたことと全く同じ、ここしばらくのリベラル君たちの「オタクは二次元で充足している存在なり」といったロジックと全く同じ、言語に絶する残忍で無慈悲な、見るに耐えない非人道的なものです。
 フェミニストは萌えを「男性側の身勝手な女性観を押しつけている、ミソジニーだ」と批判します。碧志摩メグを否定した北田師匠も当然、それに首肯することでしょう。
 しかしこうして見ると、デタラメな論理展開で腐女子を自分の「彼女さん」であると強弁する北田師匠(及び女性のフェミニスト)こそが真のミソジニストであると言うことも、もはや明らかではないでしょうか。
 ぼくは今まで「男性学」の研究家たちをご紹介して、彼らこそが女性の理解者であると自称しつつ女性に身勝手な幻想を見て取り、彼女らにつきまとうストーカーなのではないか、との指摘をしてきました*4。北田師匠についても、同じことが言えるのではないでしょうか。

*4 男がつらいよ


ネットハイ

2016-11-26 15:45:08 | レビュー


 俺らがゲームに、なりました。
 いえ、去年の今日、11月26日、丁度一年前に発売したゲームなので、正確には「なっていました」。
 それが今回ご紹介する『ネットハイ』。
 本作を一言で説明するならば、ネット文化、オタク文化を舞台にした『ダンガンロンパ』。いえ、どちらかと言えば『逆転裁判』の影響が大らしいのですが、ニコニコ生放送そのものが舞台に選ばれ、主人公と敵とのディベート中に聴衆コメントが流れる辺りはやはり、『ダンガンロンパ』的です(学級裁判でのガヤの声の演出も、ニコ動が着想の元になっていたと言います)。また、マスコットキャラの声はガチャピン、ムック(の声優さん)が担当しており、これもまたモノクマの影響が大きい。
 本作は膨大なフォロワー数を誇るリア充どもを、ド底辺な主人公が爆発させるというゲーム。「ニコ生における論戦で、ツイッターのフォロワーを競うディベートバトルゲーム」なのです。
 いえ、劇中では「ツイッター」に近しい「ツイイッター」というのが登場するのですが、面倒なので本稿では「元ネタと思しい」サービスの名前をそのまま書いていきます。ご了承ください。
 それともう一つ。
 本作はネタバレ禁止とされています。
 しかし正直ネタバレなしに本作の面白さ、深さ、素晴らしさを批評することは困難です。
 よって今回は体験版として公開されている第一話は置くとして、それ以降については、キーワードを白文字にすることで対処しました。
 ネタバレしても面白さを損なうゲームではないと思いますが、以上のような次第ですので、どうぞご了承ください。

 さて、本作におけるディベートは「ENJ(エンジョイ)バトル」と呼ばれるのですが、主人公は敢えて「爆発炎上バトル」と呼称します。というのもリア充どもを「炎上」させ、「爆発」せしめることが、このゲームにおける目的だから。そう、「オタク」という言葉を「非リア」と読み替えることで、そのバトルをある種の階級闘争に準えたのが、本ゲーム。
 何しろ国家が「ネオ・コミュニケーション法」を施行、人々にツイッターアカウントの所持を義務づけ、フォロワーの数でヒエラルキーが決まってしまう、というのが本作の世界観なのですから。フォロワーがゼロになった者はアカウントを凍結され、「Zランク」にまで落ちてしまいます。これは実質的には社会的な死。「Zランク」は俗に「ゾンビアカウント」と呼称されるのです。
 ぼくの想像なのですが、恐らくこの世界観の根底には岡田斗司夫氏の提唱する「評価経済社会」の概念があります。他者の評価が数値化され、そうした「人気」の高い者がヒエラルキーを形作る「いいね!至上主義社会」。それは既にネット上では確立しつつあり、しかしぼっちでありコミュ障なオタクにこそ厳しい社会なのではないか、という疑問。それが本作のスタート地点にある気がしてなりません*1。
 もう一つ、ネタ元を勘繰るとするならば、『ゲームウォーズ』でしょうか。以前にも採り挙げたことがあるアメリカの小説ですが、近未来、ヴァーチャルリアリティの中だけが居場所の超底辺少年が日本の巨大ロボを操り大活躍、というお話で、ここで描かれる「SNS運営によって大衆が支配される超格差、管理社会」といったディストピア的世界観は恐らく、本作の元になっている気がします。
 アマゾンのレビューに秀逸な批評がありました。

表面的にはリア充爆発というケツの穴の小さいテーマに見えますが、中身は全然違いました。


 そう、その通りなのです。
 今まで「オタクvsリア充」のバトルは「オタクという唾棄すべき存在の、やっかみ」という解釈のみが許されてきました。本田透は『電波男』で(当初は「チクショー、オタクが何したっていうんだよ!?」というボヤき芸を想定していたところを急遽、路線を変えて)「オタクは勝った!」と勝ち鬨を上げましたが、そんな危険思想がこの社会で許されるはずもなく、彼は存在そのものが「黒歴史」として葬られました。「女災」という概念を提唱した者もまた、しかりです。
 そんな絶望的状況の中、現れた第三の戦士、それが本作の主人公「俺氏」なのです。
 そう、本作は俺らのゲーム、なのです。
 繰り返しましょう。
「オタク」ネタは、どうしてもそれを嘲笑しなければならない、という社会の「お約束」の前に、苦戦を強いられてきた。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』は主人公を少女化することでそこをクリアしましたが、今やオタクネタのコンテンツは『うまるちゃん』、『私がモテてどうすんだ』とみな一様に、女性向けのものに埋め尽くされてしまいました。ガガガ
 そしてこれはむろん、「男性」全般に言える話です。ハゲは、インポは、ブサメンは、童貞は笑われなければ、なりません
 先に挙げたアマゾンのレビューは、それを表しているわけです。ただ単にオタクがリア充をやっつけるだけというお話であれば、それはケツの穴が小さい。いえ、決して小さくはないはずなのですが、世間はそう見る。
 ならば、ぼくたちはどうすればいいのか。
 その答えを、本作は完全に提示しています。
 この「俺氏」はヘタレで気の弱いオタクですが、ある日、捨て猫をきっかけに、とある心優しい少女と会話を交わします。しかし彼女のツイッターはいきなり「炎上」、フォロワーがゼロとなり、アカウントが凍結されてしまいます。そう、ネット社会では日常茶飯事ですが、「こいつは悪者だから叩いていいのだ」と決まった者を、よってたかってそいつを晒しageて、集団でフルボッコにする。そうした様子を目の当たりにして、俺氏は「こんな腐ったシステムはぶっ壊してやる」と決意するのです。




「必然的に観客もhimeのフォロワーの比率が多くなる
 最初から公平な戦いなんかじゃねえんだよ」
「でも、それじゃあENJバトルってなんのために……」
「そうだな……公開処刑ってところか」
「こ、公開処刑……」
「人気者に噛みついてきた無謀で愚かな人間を
 フォロワーという数の力でいたぶるんだ
 観客たちはそうやって火あぶりになってもがき苦しむ人間を
 画面の向こうで眺めて楽しんでやがるんだよ
 なにがエンジョイバトルだ
 それこそ炎上バトルじゃねぇか……!」

「ちょっとばかり失敗したヤツをフォロワーの数にまかせて
 これでもかと叩いて笑いものにする
 ツイイッターじゃめずらしくもねぇ光景だ
 だけど、俺はそういうやり方が一番気に入らねぇ
 だから言わせてもらおう
 一緒になって叩いてるヤツら! そして見て見ぬ振りを
 しているヤツら! どいつもこいつも最低のクズどもだ!

 フォロワーが四人しかいない俺氏ですが、現れた美少女型ナビゲーションAI「シル」と共に「ENJバトル」に殴り込み、圧倒的フォロワー数を誇るリア充どもへ、敢然と戦いを挑みます。


■中央が「俺氏」。右が宿敵「MC」。左がナビの「シル」。可愛いです。


 70年代、漫画やアニメの世界では、叩き上げがエリートを努力と根性でやっつけました。代表例は星飛雄馬と花形満ですね。
 80年代はそうしたドラマツルギーが徹底的に無化されました。これはフジテレビなど、リア充をも含めた全体的な流れだったのですが、そろそろリベラル君たちがこれをオタクの仕業であると歴史修正を始める気もします。
 90年代は本当の意味でのニヒリズムが蔓延し、シンジ君は戦いを拒否。
 ゼロ年代は夜神月が、そしてなろう的チート主人公が人気を得るに至りました。
 しかし10年代からは――と言っても、もう後半まで来てしまいましたが――再び「持てる者」へのカウンターが描かれる、70年代への回帰が始まるのかも知れません。
 ただ一つ違うのは、「努力と根性」という要素は相変わらずオミットされていること。それは仕方がありません。現代で「努力すれば報われる」と語っても、それはギャグにすらならないでしょうから。
 では、「俺氏」は何を武器に戦うのでしょうか。
 本作では、「愛」が敵と戦う武器に選ばれています。
 なぁんだ、と思われるでしょうか。
 この「愛」こそ80年代に空疎に振り回され、世の中をエゴイズムに染めてきた諸悪の根源である、と言いたい人がいるかも知れません。
 てか、そうした物言いは、(最近してないですが)以前、ぼくがよくしておりました*2。
 しかしまあ、待ってください。
 ここから先は更に、本作のストーリーを詳しくご紹介していく必要がありそうです。

*1 本作一話では「食べログ」が登場。飲食店を逆恨みした者が不当に貶めるレビューを書き込む様が描かれ、「これもまた飲食店版のリア充ランキングだ」と語られます。
*2 「兵頭新児の女災対策的読書・Rewrite(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/c3c7a2885239e41196a8f861d1cb3987)」「Rewrite(その2)(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/8db66092b31bb737534e59e2da49289a)」など。


 俺氏は「リア充、爆発しろ!」「特定完了!」の決めゼリフと共にリア充どもの「正体」を暴いていきます。
 本作における「ENJバトル」、基本は相手のゴシップを集め、その正体を暴露するという、かなりゲスなものです。とは言え、まず最初に俺氏はこのシステムそのものを否定しており、「そうした手法を使わざるを得ない矛盾に苦悩しつつも、それによりシステムそのものを否定しよう」とするところにこそ、本作の醍醐味があるわけなのです。
 例えば、第一の敵、「Mrエリート」。
「超一流」のブルジョワである彼は、90年代あかほりアニメのライバル役でよくいたような、何だかちょっとカマっぽいスネ夫キャラです。彼はまさにリア充のお約束の行動として、ディナーをツイッターにうpします。高級フレンチを食べたとドヤ顔なのですが……ん? よくよく見ると何だかコラ画像のような……ENJバトルで、彼が本当に食べていたのは牛丼であったと暴露されます。まさかこれ、内田樹師匠と古市憲寿師匠が元ネタになっていたり……しないよなあ?
 案の定、Mrエリートの正体は単なる牛丼屋のバイトでした。イケメンのアバター(?)とは裏腹に、本人はデブなキモオタ。
 しかし、本作の秀逸なのはここからです。Mrエリートは牛丼をバカにされ、本人の「牛丼愛」故にそれを看過できず、正体を現してしまう。俺氏はそんな彼の牛丼愛を讃えるのです。
 何となれば、俺氏は愛を武器に、戦うのですから。
 とあるブログで「俺氏は相手に同情も、ましてや嘲りもしない、敬意を持って臨むのだ」と評していた人がいました。まさに「それな」です。
 以降も次々と現れるリア充どもの正体を暴くことで、俺氏はバトルを勝ち進むのですが――ここで更なるネタバレをしておくと、本作のもう一つのすごさは、その女性観のシビアさにあります。
 Mrエリート自身は男性ですが、彼のパートナー「部下子」は「意識高い系OL」。
 彼女は俺氏がMrエリートにとって不利な客観的事実をツイートすると、猛然と噛みついてきて「ツイートを消せ」「訴える」「弁護士と相談している」と恫喝を始めます。
 本作は俺らの、ゲーム化です。
 本作は「推理ゲーム」をフォーマットにしてはいるものの、あくまで「民意誘導」こそがその目的(何しろシステムの中に「民意先導スピーチ」というものがあります)。論理の整合性に重きが置かれているわけではありません。だからこそ女性対戦者は「女子力」をもって戦いを挑んできます。彼女らはみな一様に被害者ぶり、或いは色仕掛け、「私のことが好きなの?」と主人公に問うことでバトルを乗り切っていくのです。
 第二話の対戦者himeが「誰かhimeを守って!」「himeを守ってくれる王子様はどこ?」と続け、俺氏に対して「ひょっとしてあなたが王子様?」と迫る展開は、敵ながらあっぱれです。
 ちなみに第二話のタイトルは「ウソつきは姫の始まり」。もうこれだけで「はは~ん」となる人がいるのではないでしょうか。このhimeは日本のオタク文化を愛し、ユーチューバーとしての知名度を誇るブリュンヒルデ王国から来たお姫様。「クールジャパンを愛する異国の姫」というのが既にオタク心をくすぐる設定で(そんなの、宇宙からやってきたぼくのことを溺愛してくれる美少女、といっしょですもんね)、当初は「少女の憧れである魔法少女アニメが好き」と語っていたところを「魔法少女は少女のためだけのものではない」と反論され、「深夜の、ちょっとエッチな魔法少女アニメ」も好きであると語ることで支持を挽回する下りは見事です。そう、俺氏が指摘するようにぼくたちは「アニメには夢がある」など一遍通りなことを言う「にわか」を何よりも憎みますが、そこを「あなたたちの愛する、欲にまみれた深夜アニメをも、受け容れる」と言われたら、「あぁ、本当に俺たちのことをわかってくれるんだ」となって、一発でメロメロになっちゃいますよね。
 そして彼女は最後に「姫は姫でもオタサーの姫
」という正体を現します。
 彼女の取り巻きである「騎士くん」は彼女を守ると称して(彼女に不快感を与えた者へと過剰な報復行動に出るなど)暴走を続けていました。俺氏は「仮にそれが姫の命じた行為ではないにせよ、男たちの歓心を買い、彼らを操縦していたことで責任は免れない」と憤ります。そんな彼女が「どうしてみんな仲よくできないの?」を連発することで俺氏の戦意を削ぐ戦術を使っていた(口先では平和を謳いつつ相手の攻撃を続けていた)ことがまた、見事。ここでは「女性性」、即ち「受動性というジェンダーが持つ攻撃性」が十全に描かれているのです。
 最終的に、彼女はアバターを暴かれ、本来の姿を現します(アバターを剥ぎ取り、相手の正体を「特定完了」することが本作のクライマックスです)。王冠を被り錫杖を手にした異国の金髪の姫が、「姫と呼ばれたかったーーー!!」と絶叫しながら、ネコ耳に魔法少女ステッキを手にした、ルックスも微妙でボディラインもたるんだ「いまいち萌えない」正体を現す様は悲惨でもあると同時に、しかしその「残念さ」に萌えてもしまいます。結果、彼女は少数のサークルの中でファンに囲まれながら、オタサーの姫に戻るのです。

 第三の敵はボカロ。とは言え、本丸の敵はこのボカロを操るプロデューサーであり、俺氏は彼と、オタク文化の尊厳を懸けた戦いを繰り広げます。ここで語られるのは、「愛もないくせに、金の匂いを嗅ぎつけ、外から俺らの業界に入ってきたものへの違和」。



 まさか、こんなテーマを語ることが許されていようとは、ぼくは夢にも思いませんでした。何しろ現実のオタク世界を支配する「運営」は、オタクたちがそんなことに疑問を持つことを厳に禁じています。思想犯は矯正されるか、アカウントを凍結されるしかありません。しかし俺氏はオタク文化に愛のない者へと、果敢に噛みつくのです。
 本作は俺らの理想を描いた、ゲームです。
 もっとも、このボカロもまた、「いろいろあって、リア充界から都落ちしてオタク文化にすがるようになった」切ない正体を現すのですが……。
 第四の敵は「ギャル」です。「スウィーツ()」とか「携帯小説」といった表現はさすがに古いからか表には出ませんでしたが、要するにそういう感じの人物。「オンナのコわ、もっとワガママでいいと思う」という彼女の「恋愛脳」から発せられるワードはその理解不能さで俺氏陣営を苦しめ、一方、彼女の著作に感化された女性たちは「モンスター女子」としてネットにもリアルにも夥しい被害をもたらしています。ツイッター上で萌えキャラが叩かれる描写も(ちょっと抑えたものですが)あり、これが実際のいかなる事件をモデルにしているかは明らかです。

「女子はか弱い。女子は守られなければいけない
 そんな考えがどんどん過激にエスカレートしていって
 ついには男子が女子のために尽くすのは当たり前
 女子のために尽くすことが男子の幸せだ――
 そんな思想を持って男子を虐げるようになってしまったんだ
 今や女子たちはモンスターそのものだよ




 本作は俺らのゲームです。
 このギャルのもう一つの決めゼリフである「愛があれば、言葉なんてなくたって気持ちは通じる」に対して、殊更に俺氏は批判的で、男女のディスコミにおける女性の「ムードでわかれ」圧力が、オタクにとっては極めてムチャ振りであることが、ここでは十全に描かれるわけです。
 さて、ではこの「ギャル」がどうなるかというと――みなさん、そろそろおわかりになってきたかと思います。
 対戦相手の正体は例外もあれど、ぶっちゃけてしまえば、みな「非リア」でした。だからこそ正体を現した相手と俺氏とは和解し、友情を育んでいく。作品として非常に後味のいいものになっているのです。
 このギャルの彼氏は非実在であり、そして彼女の正体は――あぁ、やっぱり腐女子だったか! そんな「脱オタ」しようとしていた彼女がオタクとしての生き方を取り戻すことが、本話のテーマだったのです。
 また、彼女のケータイ小説は映画化などがされるにつれ、スポンサーの意向に振り回されるようになったと描写され、そのスポンサーである企業こそが悪ではないかとも暗示もなされ、「ラスボス」への伏線を張ります。

 第五話は、中でも一番、女性へと辛辣な話でしょう。
 対戦相手はイケメンアイドルなのですが、ここでは実際の事件をモデルにした「バンビーナ事件」というものが描かれます。「バンビーナ」とはこのアイドルのファンである女性を総称する言葉なのですが、かつてこのアイドルの(正確には彼がかつて所属していたグループの)ライブが急遽中止になり、地方から上京してきたバンビーナたちがコンビニや行政に食事や宿泊場所を無償で提供せよと主張、またバンビーナを狙う性犯罪者がいるなどのデマまでをも流してしまう、といった事件が起きていたのです(彼女らが「か弱いバンビーナを守れ!」と自ら発信していたというのがまた、見事)。それ以降、バンビーナたちはタチのよくないファンとして暴走することになってしまったのです。
 本作は俺らの住む現実世界の、ゲーム化です。
 また、このアイドルは同時に俺氏の幼なじみでもありました。
 俺氏の非リア、コミュ障は、元を辿れば小学生時代の金魚殺しの冤罪を着せられた過去に起因します。
 証拠もなく俺氏を犯人として糾弾するクラスの一同。その吊し上げ、糾弾会の様を、俺氏は「今思えばネットの炎上に似ていた」と述懐します。



 が、そこをただ一人、幼なじみは俺氏をかばってくれました。二人の友情はそれをきっかけとしたものでしたが――ENJバトルの場で、衝撃的な真実が明らかになります。実は金魚殺しの真犯人は、この幼なじみでした。「俺がこいつの味方をしてやったら、女どもは俺のことを優しいと言うのだ。証拠もなく犯人と決めつけた相手に『死ね』と罵詈雑言の限りを尽くしたその口でな!」。

「傑作だろ! オマエに「しね!」と言った口で
 今度はオレに「好き」だとかぬかしやがるんだからな!」

「今世紀最高のイケメン、オンナたちバンビーナと呼び
 数え切れないオンナを抱いた肉食獣!
 だが、本当の肉食獣はそのバンビーナたちだった!」




 本作は俺らの、ゲーム化です。
 ここではイケメンアイドルの女性への失望がイヤというほど描かれます。
 彼は虚飾の世界に疲れ果てたアイドルという「正体」を晒し、退場していきます。いえ、現実の世界では「女性を罵るイケメン」はミソジニストと呼ばれることも決してなく、充分に需要があることでしょうが……。
 アイドルの明かした過去の事実には、女性性のリアルがこれでもかというくらいに描破されています。
「『死ね』と言ったその口でイケメンのことは『優しい』と言う」。
 残念なことに近い事例は世間のあちこちで見ることができますが、これを分析するならば、「判断を強者に委ねた者」「観客であることを許された者」故の無責任さである、とまとめてしまうことができます。
 そうした匿名性、受動性は女性ジェンダーのネガティビティでもありますが、同時にネットの特性でもあります。
 本作は何よりもそうした匿名性をこそ、受動性をこそ「悪」であると厳しく告発しているのことが、おわかりになるでしょう(考えれば『絶対絶望少女』のテーマもまさにこれでした)。
 この五話を最後に、本作は以降、最終編へと突入していき、「女災」的テーマからはいったん、距離を置きます。しかしラスボス戦においてすら、俺氏はこの「リア充至上主義社会」、否、実のところフォロワーたちのリアクションが、「いいね!」を押す者が主導権を握っている……えぇと、ポピュリズム社会、みたいな形容でいいのかなあ、ともかくそうしたものの裏を掻く「邪道」で勝利を収めるのです。

 そして、もう一つ。
 先にぼくは「俺氏」は愛を武器に戦うと述べました。
 しかしその愛は、「リア充」の言う愛ではない。
 オタクが愛と言う時、オタク文化への愛を指すことが多く、そのニュアンスに独特のものがあることにお気づきでしょうか。それは「自己愛(ナルシシズム)」と言い換えてもいいでしょうし、「ライナスの安心毛布的なものへの愛」と言い変えてもいいでしょう。ぼくは時々、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、要するにオタクのキャラやコンテンツへの愛情は、自らの内面への愛情だとも言い得るわけです。
 自分を愛することをタブーとし、女性に全ての愛を捧げよと命じられた男性が、フェミニズムによる社会動乱に乗じて、とうとう自分自身を愛するガジェットとして、萌えというものを発明した――それが、オタクの言う「愛」の実体です。
 先に「俺氏は敵に敬意を持って臨む」との意見を引用しましたが、Mrエリートが牛丼を愛しているからこそ俺氏は彼と友になり、またhimeが「オタどもを搾取するオタサー姫」である点については厳しく糾弾しますが、オタク女子として愛する作品がある一面に対しては、リスペクトもします。
 俺氏は「いいね!至上主義社会」を基本的に否定していますが、オタクの愛を信じることで、民意を自分側に向けさせもするのです。オタク文化をバカにしたMrエリートを批判することで流れを変える展開など、その好例ですね。



 今まで貼ってきた画像をご覧いただければわかるように、本作のキャラクターデザインは「島本和彦」系です。実際、ファンの中にはデザイナーさんを『グレンラガン』の人だと信じ切っている人が結構いるようです。
 島本和彦先生と言えば、もう彼自身を語るのに別な記事を五つも六つも書く必要が生じてしまう作家なのですが……要は「男性性というものが否定されてしまう状況下で、一度、男性性を笑いのめし、しかしその中から立ち上がっていこうという実験をした作家」と定義することができましょうか。
 本作もまたその魂を受け継いでいます。
 ぼくは以前、オタクの内部指向を「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」、「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」と表現しました*3。
 本作では島本先生の「熱血→ギャグ」という流れを「オタクの自虐」に読み替えました。
「男の魂」を笑いのめし、しかし感動に持っていくという島本先生の荒技に倣い、本作はオタクの愛の全肯定という荒技を敢行した作品である、と言えるのです。
 ――ぼくは一ヶ月ほど前、本当に何気なく本作を手に取り、そして毎話、感動と驚愕に震え上がりながら、終えてしまうのが惜しいと感じつつ、プレイをし終えました。
 が、大変残念なことに本作、一般的な知名度はそこまで高いとは言えません。
 興味を持っていただけた方は、まず体験版を――と思ったのですが、プレステストアを見てもどこから体験版をDLできるのかわかりません。ニコ動ででも見て気に入った方は購入していただけたら……と思います。

*3 サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?(http://asread.info/archives/3673)