兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件

2014-03-30 08:56:41 | レビュー

 もう、下手をすると二十年くらい前の話でしょうか。
 まだフジテレビが元気だった時代の24時間テレビ。フジ系列の地方局を巻き込んで、賑やかな放送が行われておりました。
 どっかのド田舎の局アナが、一生に一度の晴れ舞台とばかりに学ランセーラー服のコスプレ姿ではしゃいでいるのを、総合司会のビートたけしが困った顔で眺めていた様子を思い出します。で、そのセーラー服の女子アナが一くさり自局の紹介だか何だかをやった後、たけしさんがこうボケたのです。


 ――いやあ、さすがはAV界の百恵ちゃん、すごいお色気ですねぇ!


 爆笑でした。
 いや、こう文字に起こしても面白さは伝わらないでしょうが、この一言にはその女子アナの「いい歳してセーラー服を着ていることの、妙な猥雑さ」「地方局の田舎臭さ」が的確に表現されていたわけです。


 さて、そんなこととは何の関係もなく(またこういう掴みかよ)。
 またまた上野千鶴子師匠が話題になっています。
 山梨市が介護に関する講演会の講師として上野師匠を招いたことが物議を醸し、一旦は中止を決定したものの、師匠側の猛抗議で予定通り開催となった、といった事件があったのです。
 こうしたことは世間では結構重大な事件と捉えられるらしく、『朝日新聞』や『毎日』、『東京新聞』の全国版でも経緯が伝えられました。
 さて、講演会の中止については、師匠が『朝日新聞』の人生相談で性に悩む男子中学生に対して「熟女にやらせて、と頼めばいい」などと回答したこと、『セクシィ・ギャルの大研究』、『スカートの下の劇場』などの著書が問題だとして、市民からの抗議が10件ほど寄せられたのがきっかけだとのこと。
 結果、師匠は講演を行う代わりに「介護以外の話をしない」という条件を呑み、また「講演料を市に寄付する」旨を表明したそうです。
 まあ、正直この件そのものに、ぼくは実のところあまり興味もなければ、ジャッジするだけの見識もありません。
「介護の話しかしない」と約束させた時点で両者がうまい落としどころを見つけた、win-winだという考え方もできますが、恐らく誰も納得しないリクツでしょう。
「講演料が師匠の懐に入らずにすんだ、大勝利」とする向きもありますが、想像するに師匠、講演なんて年に何十回もやって五兆や六兆のカネは稼いでいるはず(羨ましい限りです)。その一回分を寄付するだけで「男を上げる」ことができたのですから、むしろ純粋な「ケンカ」として見れば上野師匠の大勝利でしょう。
 何よりぼくとしては、近年、反論から逃げ回っているだけの師匠に久々にでっかいケンカをさせ、「ケンカ師・上野、いまだ衰えず」といったイメージを形成させたことが、何だかムカつきます。
 また、そもそもこうしたやり方はどうしたって師匠側に「被害者」との称号を与える結果となります。類似のことは何度か述べていますが、フェミニズムとは実生活では「女性ジェンダー」を演じることが敵わなかった女性がガクモンの力で「女性ジェンダー」を獲得する一種の「援助交際」であり、男性が考えなしにつっこんでいってもドクさべたち同様に「加害者」の役割を期せずして演じさせられてしまう可能性が高いのです。
 師匠は2008年にも、つくばみらい市における男女共同参画講演会が直前に中止されてしまった件を「バックラッシュ」だとしてしつこく採り上げていました。並の一般人では師匠の影響力に敵わない以上、こうした反対運動は結局、利敵行為になる可能性が高いと思われます。


 ――では、どうしろと?


 そうですね、地味でも、上野師匠についての洞察を深めていくことこそが、まずはなされるべきなのではないでしょうか。
 当エントリでしばし、師匠の言動を追ってみることとしましょう。


 まず、今回一番問題になったのは『朝日新聞』での人生相談です。これは近年の事件で、ネットでも話題になったため、クレーマー側も上野師匠に打撃を与えられると踏んだのでしょう。
 これに対して、師匠は自らのサイト*で反論しています。


「熟女にお願いしなさい」という回答のどこが問題なのでしょうか。「依頼」であって「強制」ではありませんし、「相手のいやがることはぜったいにしないこと」それに「避妊の準備も忘れずに」と書いてあります。淫行条例に違反するという指摘もありましたが、中学生に性交を禁じる法律はありません。成人が児童(18歳未満だそうです)に「みだらな行為」をすることは禁止されていますが、中学生が大人に「お願い」するのを禁じることはできないでしょう。15歳といえば昔なら元服の年齢。妻を娶ることもできました。


「お願い」まではOKでも、熟女側が承諾して行為に及んだらアウトやん!
 フェミニストというのはこういう、普通なら苦し紛れにでも言わないような言い逃れを真顔でおっしゃる方ばかりで、どうにも唖然とします。まあ、ホモが小学生をレイプしていてもスルーし、それを称揚するキ○○イを大絶賛するのがフェミニストですんで、今さらこんなことで驚く方がアホなんですけどね。
 ただ、ぶっちゃけると、本件でどちらに分があるかどうかは、ぼくにはわかりません。一番悪いのは市長のどっちつかずの態度でしょう。問題だと思えば講義などなくとも中止すればいいのだし、上野師匠に文句を言われようと動じなければよいのです。
 が、上野師匠もやはり具体的な個人、それも中学生に上のような忠告をしてしまったことはいささか軽率だったでしょう。

*
山梨市講演会中止について ちづこのブログNo.64 | WAN:Women's Action Network

 さて、問題の人生相談を見てみると、以下のような記述があることに気づきます。


経験豊富な熟女に、土下座してでもよいから、やらせてください、とお願いしてみてください。(中略)わたしの友人はこれで10回に1回はOKだったと言っています。


 当ブログをずっと読んでくださっている方(何人いらっしゃるかは知りませんが)は何か思い出すのではないでしょうか。もう随分前、旧ブログでぼくは二十年以上前の別冊宝島における師匠の発言を引用したことがあります。


・女の子を誘うことはゲームだと割り切って、とにかく十本だけ電話をかけまくってみてください。十本電話をすれば、必ず一人は応じてくれます。私が保証します(笑)。


 あれあれ、言っていることが何だか似てますね。
 詳しくはリンク先の記事をお読みいただきたいのですが、二十年前、バブルの頃の師匠はむしろ、こういうキャラだったのです。
 当時は恋愛マニュアル誌というものが何誌も出され、世の男たちはいかにかして女性をデートに誘うかで頭がいっぱいでした。いや、本当にそうだったのかどうかはよくわかりませんが、とにかくメディア側はそうした前提を共有し、「女は男を選り取り見取り」「男は女にモテようと土下座せんばかりの勢い」といったイメージを垂れ流しておりました。男たちが女に疲れ果て、女が必死の形相で婚活にかまけている今からは、隔世の感があります。
 師匠が世に出たきっかけは本件でも問題とされた『
セクシィ・ギャルの大研究』(1982)なのですが、(上のリンク先の繰り返しになりますが)その内容は肌も露わなセクシィ・ギャルの広告写真をいっぱい並べ立てて男の目を惹き、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものであったと記憶します。誰だったか失念しましたが、本書を「女子大生の卒論レベル」と評していた人がいました。要するに「当時のフェミニズムで流行っていた“性の政治学”みたいなロジックを、当時の“ナウい”文化であった広告の世界に当てはめて一丁上がりの、お手軽な論考」といったことですね。
スカートの下の劇場』(1989)も同様で、女性の下着の図版をやたらと満載し、男は見る主体であり女は見られる存在であり云々とわざわざ言うほどでもないことを並べ立て、しかる後、「こんなの女性差別だ!」と言い立てるというだけの、他愛のないものであったと記憶します(両者とも、大昔に読んだきりなのですが……)。
 師匠の発言を読み進めると、ご自身の著作をこう評されています。


『セクシィギャルの大研究』『スカートの下の劇場』をきちんと読んでみてください。いずれも実証研究にもとづいた、そうは見えないけれど学術書です。『セクシィギャルの大研究』はCM写真の記号論的研究、『スカートの下の劇場』は下着の歴史研究です。


 そう、まさに「学術書」の皮を被った、下着なり女体なりを扱った書籍を出版することこそが師匠の目的でした。
 いえ、ぼくはこれらを「学術書ではない」と糾弾しようとしているのではありません。ぼくがこれら80年代後半の、師匠の絶頂期の著作を見ていて感じるのは、徹底した師匠の被愛妄想なのです。
 ……いえ、それもちょっと違いますね。「被愛妄想」はさすがに師匠に失礼でしょう。これら内容の薄い本が爆発的に売れていた(あとがきにそうありました)のですからこの時、確実に師匠は「オヤジたちから愛されていた」のです。
 この時期は、師匠の「オヤジへの愛」がこうした形で成就していた、師匠にとっての黄金期であった、ということを、ぼくは指摘したいのです。
 クレーマーたちは見落としていたようですが、師匠の「ケシカラン著作」の一つに『女遊び』(1988)というものがあります。全体的には、絶頂期の師匠があちこちで書き散らした雑文を取り留めもなくまとめた雑文集、といった感じなのですが、しかしそれでも「編集上のテーマ」は明確です。
 上に挙げた表紙をご覧いただければわかる通り、本書には女性器をモチーフにしたフェミニズムアート()が表紙を始め本文中にもふんだんに掲載されています。似たことをなさっている「ろくでなし子」さんというフェミニズムアーティストがいらっしゃいますが、こうしてみるとフェミアートというのが大変に画一的伝統芸能的であり、これではオタク界に大勢いる女性エロゲンガ-、女流エロ漫画家などには敵うべくもないことがよくわかりますね。
 書き下ろしであるまえがきは「おまんこがいっぱい」と題され、六歳の甥と「チンチンチンチン」といっしょに叫んでは大はしゃぎしていたこと、そしてこの男の子が十二歳にまで成長した頃には


 わたしがチンポのケ! と叫ぶと、コドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。


 などとセクハラを働いたことを自慢げに書き綴ります。
 
死ねばいいのに
 と思いつつ読み進めると、師匠は


 こんなふうに書いているとわたしは、他人が驚くからワキ毛を見せる、学会の黒木香みたいな気がしてくる。


 などとうわごとを書き並べ出します。
 考えると彼女の弟子である千田有紀師匠も『
上野千鶴子に挑む』の中、彼女を繰り返しそのように形容していましたし、北原みのり師匠も『アンアンのセックスできれいになれた?』の中で黒木香さんを持ち上げていました。
 これはまた、
藤本由香里師匠が自著で「娼婦になりたいなりたいなりたいなりたい」と繰り返していたことも、思い起こさせますね。
 黒木香さんって、フェミニストにとってそんなに萌えポイントを突く存在なんだろうか……と思ってしまいますが、単純にこの人たちの(この時期の)脳内に浮かび上がる「セクシーな大人の女」像が黒木香さんだったというだけのハナシなのでしょう。
 そしてこの醜悪なまえがきは


 おまんこ、と叫んでも誰も何の反応も示さなくなるまで、わたしはおまんこと言い続けるだろうし、女のワキ毛に衝撃力がなくなるまで、黒木香さんは腕をたかだかとあげつづけるだろう。


 などと言って結ばれています。
 よかったですね、誰もそんなことでは驚かない時代になりましたよ!
 あ、だから新ネタで弟子たちがホモのコドモへのレイプを推進しているのか(笑)
 何だかフェミニストの黒木さんへの片思いぶりが痛々しくも感じますし、上野師匠がいまだ六十ヅラ下げて○ンコマン○と叫んで(誰からも相手にされなくなって)いるのに比べ、多分黒木さんは今頃手堅く事業でもやってるんじゃないかな……と思ったりもします。
 この「学会の黒木香」というフレーズ、何だか「AV界の百恵ちゃん」を想起させないでしょうか。
 フェミニストたちの「エロティックな、いい女」という自己像と、客観的に見た時の惨状とのあまりにも大きな乖離。
 例えばですが、思春期の少女が初めてのお化粧でメイクのやり方がわからず、化け物のような顔になってしまい……みたいなシークエンス、いかにも微笑ましいですが(こうしたシークエンス、少女漫画では多そうですが、処女性を重視する萌え系の作品ではあまり見られない気がします)、フェミニストいうのはついぞ男友だちも、そして一般的な女性の友だちもいないままここまで来てしまったがため、この歳になるまで自分が化け物メイクをしていることに気づけずにいる存在である、と言うことができそうです。
 それを見た時に感じるのは、それこそ「クチャーズ」ではありませんが、昭和のエロ本を今開いて見た時の、「あぁ、当時の人たちはこんなもので頑張っていたんだ」という感慨と、大変に近い。

■参考資料
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フェミニストと同じくらい「エロティックないい女」の具体例

 いや、師匠たちの姿はぼくの目には当時から惨憺たるものであったけれど、師匠たちの言う「オヤジ世代」には何とか通用していたんだろうな、と考えるのが正しいでしょうか。
 先に、「フェミニズムとは援助交際である」と書きました。そう、少なくともこの時期のフェミニズムはエロを前面に出した本を書けば出版社のオヤジに出版してもらえるという、ボロい商売でした。
 いえ、師匠たちなりに苦心して原稿を書いていただろうことまでは否定しません。重要なのは、師匠が「学術書だ」と強調しているように、彼女らが「私があくまで学術的な意図で性に関する研究書を著したのに、いやらしいオヤジたちがそれを好奇の目で眺めて……」という「状況設定」を死守したがっていることなのです。レディースコミックを見ると「私はその気はないのに男が私を求めてきて……」といったおハナシばかりですが、要するにそれと同じことですね。
 これはまた、ちょうどフェミニズムバブルの一歩手前、80年代に内田春菊的な「セックスを描くことを売りにする女流漫画家」がこの世の春を謳歌していたこととも重なります。彼女らも常に「アタシはありのままのことを描いただけなのに、ウザいオヤジたちがアタシの描くセックスに好奇の目を向けてくるのよねー」的なムカつく態度を取りつつ、客観的に見れば彼女らが男に構ってもらいたいのがモロバレ……といったムザンな様相を呈していたものです。いえ、当時はそうした作家が神の如くに崇められていたのですから、彼女らをそのように感じていたのは、ひょっとしてぼくだけだったのかも知れませんが。
 しかしこの後宮台助教授が出現し、メディアは援交女子高生一色になり、フェミニズムは衰退を迎えます。上の著書群はそうなる前の、「師匠という花火の最後の一瞬の輝き」であることがわかります。


 最近、エロゲが斜陽だと言われます。
 ゼロ年代の前半くらいまではオタク文化の花形であったエロゲですが、何しろこれは制作費がかさむシロモノで、大手以外はおいそれと冒険できなくなってきたのです。最近は廉価版のものが増えてきました。お話的にも本当に短く、ヒロインもちょっと前までは最低でも三人は出てきたはずが、二人、下手をすると一人きりという何とも寂しいものが増えてきました。
 彼女らの状況もこれと同様です。
 バブル期、女性は絶頂期を迎え、「メディア」という名の「エロゲ」では多くのヒロインが登場、その中には「フェミニスト」という名の「ツンデレ」「ヤンデレ」キャラまでがキャスティングされていた。そこまでニッチなニーズにお応えする余裕が、メディアにあった。
 しかしもはやそうした胆力が、メディアにはありません。
 いや、まあ、不況になって以降、フェミニストは何のことはない、「行政」という新たなオトコを見つけてみんなの血税をジャブジャブ使って豪遊を続けているんですけどね。
 その意味で上野師匠から講演料をふんだくったクレーマーは取り敢えずよし、という気もしますが、それにしたって全体から見ればごく少額でしょう。
 女性センターなどのぶん取る予算をホームレス対策に投じれば、何名の尊い人命が救われるのかなあ……とも思ったりなんかもするのだけれども、今日も税金は無駄に使われ続けるのでありました。
 
めでたしめでたし

 

 

 

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お知らせ

2014-03-21 20:23:50 | お知らせ

 今回もお知らせです。
 
美津島明様のブログ、美津島明編集「直言の宴」に寄稿させていただきました!
ボクと契約して、フェミニストになってよ!」です。
 東浩紀師匠、上野千鶴子師匠などと絡め、非オタの方に「オタク界の歴史」を概観し、解説したもの……なのですが、これでもかなりマニアックなものになってしまったかも知れません。
 ご一読いただければ幸いです。


部長、その恋愛はセクハラです!(発動編)

2014-03-15 23:15:38 | レビュー

 大変です、遠い宇宙の彼方からUFOに乗って、エメラルド星人が攻めてきました!
 地球防衛軍が出撃しましたが、エメラルド星の科学力には敵いません。
 ぼくたちの地球はエメラルド星人に支配されてしまいました!!
 後、エメラルド星では人間より犬の方がエラいので、犬を見たら土下座をする法律が作られてしまいました。戦争に負けたのだから、仕方ありません。

 

 ――以上、今朝見たぼくの夢の内容についてお届けしましたが、そんなこととは何の関係もなく。
 先日、ツイッター上でフェミニスト寄りの男性とケンカになりました。
 状況をかいつまんで説明すると*1、彼が(もう旧聞に属しますが)レイシストしばき隊の女性が在特会の男性を「童貞」と罵ったことについて、「差別である」と憤っていらっしゃったことが、話のきっかけでした。しかし、男性を貶めることはフェミの本義です。彼がフェミニスト寄りなら「童貞」との「サベツ用語」に憤ることもないのではないかと思ったら、彼は「件の童貞発言を真っ先に批判したのはフェミニストだ」とおっしゃいました。
 もしそれが本当ならぼくの大敗北です。
 ((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル.しながら問い質すと、それはフェミニストが「童貞云々はヘテロセクシズムに則った発言だから好ましくない」と言った、というだけのことでした!
 もうバカバカしくて話にもなりません。
 フェミニストたちは非常にしばしば、平然とこうした種類のウソをつきます。
「上野千鶴子師匠も反ポルノ派だ」と指摘した時の「表現の自由クラスタ」、「ホモ雑誌の編集長がホモの子供に対するレイプを称揚していた」と指摘した時のフェミニスト、いずれもあり得ないような認知の歪みを生じさせ、現実から目をそらしました。
 一体どうなっているのでしょう。
 ぼくが「ウソをつくな」と腹を立てると、彼はこう反論してきました。


「童貞差別はヘテロセクシズムを背景としたものであり、他の差別に繋がるので反対する」という理路が理解できないらしい。


 なるほどなるほど。
 この後も、彼は思い込みで言いがかりをつけてくるのみでしたが、彼がフェミニズムのイデオロギーに則り、「ヘテロセクシズム」とやらを好ましからぬものであると考えていることは自明です。となると、彼の(考えるフェミニストの)主張は「お前が童貞ということを否定的に捉えるのも、お前がヘテロ男性と言う名のワルモノのマッチョな価値観に支配されているからなのだ」「フェミニズム(というか無軌道で空想的なジェンダーフリー)を受け容れればお前は救われる」といったものであるとしか考えようがありません。
 こんなの「貧乏」で困っている人物に「おカネより大事なものがある」とお説教しているようなもので、一般的な童貞、或いは非モテにそのような言葉をかけたところで、何ら意味はありません。
 そして、フェミニズムに親和的な「ダンセーサベツクラスタ」が、彼とまるっきり同じ勘違いに陥っていることは、もはや言うまでもなかろうかと思います。
 ――しかし。
 よく考えれば、この地球は既にフェミニストに支配されてしまっているのです。
 となれば、ぼくたちが彼ら彼女らの価値観を押しつけられるのは仕方がない。
 そう、今まで「ウソ」と繰り返しましたが、もし「フェミニズムは正しい」という前提を導入すると、この「フェミニズムの教義」はウソではないのです。
 これを全く立場を変えて、もし仮に「善意100%でホモを電気ショック療法で治療してあげようとしている人」が「俺はホモを差別していない、こんなにもホモのことを思っている」と言っていたらどうでしょう?
 ぼくたちの感覚では、自分の価値観を勝手に人に押しつける困った人だなあと感じますが、これが仮に「ホモは悪」という価値観を前提すれば、ホモを治療する彼は人権活動家と言う他ない。
 そう、件の彼もそれと同様、ご親切にもぼくたちへと「我々が征服したこの土地で、お前たちが幸福に暮らすにはどうするか」をご教示くださっているだけなのです。
 エメラルド星人はぼくたちに屈辱を与えるためにあんなことをさせているのかと思っていたのですが、それはそうではありませんでした。
「エメラルド星では犬の方がエラいので、ぼくたちのためを思って、アドバイスをしてくれていた」だけなのです。

 

*1 詳しくは「フェミニズムは「フェミニズムは正しい」という前提を導入すると、「フェミニズムが正しい」という整合性を持った思想として、我々の前に立ち現れる。」をご覧になってください。

 


 今回は、牟田和恵師匠の『部長、その恋愛はセクハラです!』もまた、実はそうした「統治下で幸福に暮らすコツ」について我々下々の立場に立ってご教示くださった、情け深いフェミニスト先生の著作であったのだ、という驚くべき事実についてご報告することにいたしましょう。
 前回、ぼくはフェミニストと「ダンセーサベツクラスタ」とを比べ、その挙動の共通点について指摘しました。
 両者とも、王子さまに助けを乞う、哀しい存在でした。
 しかし両者の違いはフェミニストたちがある種、「行政」という名の「王子さま」を見つけてしまった点です。
 ――ちょっといろいろと書きすぎました。いったん話をリセットして、本書を最初から見ていくことにしましょう。
 本書の第一章には「「セクハラは受け手の主観で決まる」のウソ」という節があります。
 この本が出た時、帯に上野千鶴子師匠が推薦文を書いて、確かそこでも同じ主旨が謳われていたんじゃなかったか……と記憶します(すんません、これはちょっと勘違いだったようです)。
 つまり本書は、「セクハラは受け手の主観で決まる」という女災社会の通念に対する反論を意図して書かれたものであったのです。
 が、いざ読んでみると、驚いたことにその一番肝心な点について書かれているのは、上の節の僅か2、3ページのみ。その論拠は、厚労省のパンフ「
事業主の皆さん職場のセクシュアルハラスメント対策はあなたの義務です!!」で、


「労働者の主観を重視しつつも、事業主の防止のための措置義務の対象となることを考えると一定の客観性が必要」
「被害を受けた労働者が女性である場合には『平均的な女性労働者の感じ方』を基準とし、被害を受けた労働者が男性である場合には『平均的な男性労働者の感じ方』を基準とすることが適当」


 と書かれているということのみです。牟田師匠は言います。


 ですから、まったく客観性もないのに、相手の変な受け止め方のせいでセクハラにされてしまうという心配は不要です。(p45)


 なるほど、心配ないですね……って言えるかい!!
「平均的な女性労働者の感じ方」なんて曖昧でどうとでも取れる上、このパンフの規定が裁判で反映されるとは思えません。
 そう、上のパンフはあくまで厚労省が雇用者などに「均等法が改正され、セクハラなどをチェックすることが義務づけられるようになったぞ」「それを怠るとペナルティがあるぞ」とお達しを周知させるためのものです。本書においてはまず、この2007年に改正された均等法を大前提として、会社の人事課などでの采配などが専ら、想定されているのです。
 しかしセクハラの被害者とされる側、加害者とされる側を問わず、会社の采配が不服なら当然、裁判所などに訴え出ることが予想されるわけですが、そこで男性の訴えが聞き入れられるかとなると、それは大変に怪しい。
 結局、「「セクハラは受け手の主観で決まる」のウソ」はウソではないか……と考えざるを得ないのです。
 が、まず、そこは置きましょう。
 ここでは本書が「セクハラは受け手の主観で決まる」という通念に対する反論を意図し、しかしながらその記述は大変に疑わしいのだが、敢えて言えば「事件が会社の人事課などの内々で処理され、そしてその人事課に理解があった」との前提を導入すれば、満更ウソではない、ということを取り敢えず、心に留めておいていただければ幸いです。
 それを頭の片隅に置いて、以下、本書へのツッコミをしてみることにしましょう。
 前回、ぼくは本書のことを、


 つまりそれは「後からセクハラだと思ったらセクハラ」という無茶ぶりの正当化です。


 と評しました。
 しかしこれは決してぼくの極論ではありません。
 何しろ驚くべきことに牟田師匠ご当人がそう「明言」すらしているのですから。


(引用者註・恋愛とは)本人でさえ、「自分の気持ちに確信が持てない」「なんであんな人が好きだったのかわからない」などというのもよくあることです。
(中略)
そうした断りの上ではありますが、恋愛関係だったにもかかわらず関係が悪化して、女性があの関係はセクハラだったと男性を訴えるケースはあると私は考えています。(p128)


 また、女性が恋愛感情などなかったと主張しても、少なくとも一時期はあったのではと思われるケースもある、と師匠は言います。ならそれはあくまで冤罪だろう、と思ったら、恋愛中のさまざまな波風を


そうしたことがらは、恋愛中は耐えられたものの(むしろ関係を燃え上がらせるスパイスだったかもしれません)、関係が終わり、男性に結局誠意がないとわかったとき、一つ一つの経験が、イヤな記憶としてよみがえってくるのです。この状態に至った女性には、過去の思い出は、自分も熱を上げラブラブだった時代のことも、男性にマインドコントロールされてそう仕向けられていたようにさえ思えるのです。(p134)


 言葉もありません。
 女には理性的な判断は何一つできません。嫌なことがあったら後づけで相手がマインドコントロールしたのだと言い立てます。しかしそれは全部受け容れられるべきです。
 師匠の言い分はそうしたものにしか読めません。
 もうおわかりでしょう。
 厚労省のパンフには「『平均的な女性労働者の感じ方』を基準と」せよとあるぞ、とドヤ顔の師匠ですが、師匠の主張は平均的な感じ方からは、大きく外れているとしか言いようがないのです。
 童貞を追いつめているにもかかわらず童貞の味方をしているのだと言い立て、自分たちが反ポルノ派である事実を隠蔽し、ホモ雑誌の編集長がホモの子供に対するレイプを称揚していても目を伏せ、その編集長を絶賛し続ける「認知の歪み」を抱えたのがフェミニストなのだから、もうしょうがないのですが。
 ぼくに(フェミニストでない、一般の)女性のホンネなど、伺い知れません。
 が、例えば「いい女を見たら押し倒したくなるのが男のホンネというものだ」程度の意味でなら、ここで語られる「師匠の感じ方」を「平均的な女性労働者の感じ方」であると言ってもいいかも知れない、とも思います。
 しかし、あくまで想像ですが上のような記述、普通の女性であれば「それがホンネとは言え、さすがにそこまでの無責任は通らないだろう」と思うのではないでしょうか。少なくとも常識的な女性ならそこまで勝手なことは言わない、と思うのですが。
 何故師匠は、いや、全フェミニストはこんな男性にとっても女性にとっても差別的としか言いようのないことを主張し続けるのでしょう。
 それは、男女間には絶対的な上下関係がある、だから上に立つ者が常に責任を取るべきだ、という「大前提」がフェミニズムというガクモンにはあるからです。そこまでの絶対的な上下関係があり、男は女をマインドコントロールする能力すらあるのであれば、そもそも女が男を訴えたりできないと思うのですが。

 


冤罪はあり得ないか」という節では、「セクハラにも冤罪があり得るのでは」との疑問に対し、そもそもセクハラにおける冤罪は殺人や痴漢などにおけるそれとは性質が違う、と反論します。多くは継続した期間の中で積み重なった多くの事実に対して問われるのだと。確かにセクハラで問われるのは「セックス」なり何なりの「事実」が問われるものではない、その事実を「どう評価するか」だ、との意見は正しいでしょう(つまり合意があったかどうかとの内面の問題だ、ということですね)。
 しかし以降師匠は、ハラッサーの言い分と会社などの「組織」の評価とを対立させます。


女性の方が積極的だった、合意があった、だからその性関係は不適切とは言えずセクハラではあり得ない、というハラッサー側の評価と、組織が下した「社員として/教員として、不適切なものだった」という評価が対立しているのです。(p182)


「意味がわからん!」と思われたかも知れませんが、ここで本書はあくまで厚労省の事業主へのお達しを基準に書かれていることを思い出してください。師匠は「ことを決めるのは会社側だ、だから会社が悪いと言ったらそれまでだぞ」と言っているのです。
 しかしここでまず問われているのは、「合意があったか否か」などの問いについて「女性の主観」に全てが委ねられるのでは、ということなのですから、これはハナシのすり替えです。
 いえ、そもそもそんなに社長がエラいのなら、「女なんか腰掛けだ、ウチは採らん」という判断だって尊重されるべきでしょう。大体、社長なんてほとんどは男でしょうし、となるとハラッサー側の味方をする社長(や、人事課のエラい人)だっていそうなものです。正直、師匠がこうまで雇用者側の判断を信頼している理由が、ぼくにはわかりません。

 


 終章では基本、職場などで女を誘うのはやめた方が無難、との心得が語られます。派遣や契約が相手なら自分の監督下から離れてからアプローチした方が、とも書かれています。
 こうなるともう「男女が関わること」そのものを忌避した方がよさそうな感じですが、それは果たして、女性の望むことなのでしょうか。まあ、師匠のありがたいアドバイスを汲むに、企業を守るためにもひとまず現実的な対策として女は派遣や契約という流動的な形で働かせた方がいいようですよ、企業のエラい皆さん。
今恋愛中、どうすれば?(p192)」は全くわけがわかりません。
 恋愛が破綻しつつある男性に対し、師匠は「その彼女はつきあい出した当初より、社会的地位が下がっているのではないか?」と問い質します。
 女性の地位が下がったことを男性のせいにするのかと思いきや*2、どうもつきあい出す時に口説き文句として、相手の女性のキャリアを持ち上げてみせたのに、別れの場で相手の地位の降格を本人のせいだなどと言ってはセクハラになる、と言うのです。
 意味わかります? ぼくはわかりません。
 逆に男性が地位を失ったことを理由に関係を解消する女性は多いでしょうし、それを責める声もないでしょう。てかそもそも本書自体、「男が降格したので捨てたい」と思った女性が、今までの関係を後づけで合意ではなかったと言い立てるためのノウハウ集としても読めます。
 が、それを逆にした(上に師匠が書くような)事態がそれほどあるとも思えません。「社会的価値」というよりはむしろ女性の「性的価値」が下落してから女性を捨てるというケースの方がまだあるでしょうし、それをさせない知恵が、(師匠たちが蛇蝎のごとくに憎む)結婚制度だったわけでしょうに。
 後、別れる時には自分のせいでその女のキャリアや人生設計がマイナスになってはいないか、女性視点でチェックし、謝罪や応援をしなければならないそうです。ああ、そうですか。
 また当然、男性が新しい女性に乗り換えるために今の女性と別れる時には恨まれないように要チェックです。ああ、そうですか。
 その後、「そうした誠意があれば女性もセクハラなどとは思わないでしょう」と続きます。これ、要は「そうしなければ後づけでセクハラ呼ばわりするぞ」と言っているだけですよね。こういうのを学術用語で「当たり屋」と呼ぶんですけどね。
 ただ、とは言え、この終章、「是非は置くとして、女の怒りを買わないための現実的な処方箋」を提示しているようにも思えます。妙に男性側に同情的なのです。或いは牟田師匠も個人的にはいい人で、この終章を書く瞬間だけはそんな気持ちになっているのかも知れません。本当、そう思いたくなるくらい自然な感じで書いているのです。
 むろん悪意を持って見れば「男ども、女に逆らってもムダだ、ざまあみろ」と嘲笑っているようにも読めますが、しかし師匠に悪気はないのではないか……とぼくには感じられたのです。
 こうして考えると、先にぼくが書いた「正直、師匠がこうまで雇用者側の判断を信頼している理由が、ぼくにはわかりません。」との一文の謎も解ける気がします。
 ぼくは法律などには疎く、改正均等法をどう評価するのが適切かは判断しかねます。
 しかし師匠がこうまで雇用者側を信用しているということは、逆説的にこの改正法が、かなり強力な新兵器であると、師匠たちに捉えられているということではないでしょうか。
 つまり、師匠たちは既に地球を征服してしまったがため、勝者の余裕でぼくたちに慈悲の心を持って接してくださっているのです。
 あとがきを読むと、この想像は確信に変わります。


 しかし、本書をお読みいただいた方の中には、私がむしろハラッサーの側に立った見方をしていると思われた方もおられるでしょう。ハラッサー男性に甘すぎる、タチの悪いハラッサーが多数なのに、その悪質さを見落としてかばっていると。


 呆れ返るとはこのことですが、上野師匠が主催する「ウィメンズ アクションネットワーク(WAN)」のレビューでも同じようなことが書かれています*3。


フェミニストである牟田先生が、「セクハラです!」というのだから、さぞかし男性へのお叱りが多いと思われるでしょうが、牟田先生の深い洞察力のそのさらに奥のほうに、ハラッサーへの思いやりを感じてしまったのはわたしだけではないはず。


 ムカつきますが、冒頭に挙げた例を思い出してみてください。
 レイプ犯に目下、襲われている女性に「逆らわない方がいいよ」とアドバイスしたとしたら、フェミニストは怒るでしょうが、レイプの是非は置くとして、助かるためにそのような判断を取らざるを得ない場合もあるはずです。
 エメラルド星人に侵略されてしまった以上、無事でいたければ犬に土下座をする他はありません。もし山田君がそうしようとしなかったら、


 

 A.犬がエラいという価値に疑問を持たないエメラルド星人
 B.地球人の価値観を慮るべきと考えつつも、母星の決定に逆らえないエメラルド星人
 C.エメラルド星人に追従し、何も考えていない地球人
 D.エメラルド星人を快く思わない地球人

 


 このいずれもが、山田君に対してはひとまず「土下座しろ」と言う他はないわけです。
 本書は「もうどうしようもなく既に決まってしまったルールの中、ぼくたちがどうすればサバイブできるか」についての処方箋である、とひとまずは言うことができます。
 ぼくは前回、本書で師匠の想定するケースが専ら女性の被害者性が疑わしいケースばかりであることを指摘し、「眩暈がする」と言いました。
 しかしそれすら、上に書いたように「師匠の老婆心」であるかのように思えてきます。
 師匠は自分たちの勝ちがあまりにも圧倒的であることを知り、敢えてボーダーラインのケースばかりを採り上げてくださったのですから。
 そう、師匠の著書は、


 

 ――ゴメンね、犬土下座法が改正されて、犬が100m先に近づいただけで土下座しなきゃいけなくなったのよ。

 


 との、親切心から忠告であったのです。

 

*2 要は「セクハラ」概念にフェミニズムのイデオロギー的に糾弾したい案件を混ぜ込むため、こういう事態を無理矢理に想定しているわけですね。一応、男が女に「そんなのやめとけよ」と言った些細なことが女にとってはあの男のせいでキャリア上のチャンスを逃したのだとの思い込みにつながる、といった例は書かれているのですが、しかしそれ、本当にただの「思い込み」ですよね。
*3「
牟田先生、この著書は事件です!『部長、その恋愛はセクハラです!』牟田和恵」。


 

 

 

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部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)

2014-03-07 12:31:36 | レビュー

 ドクター差別(愛称:ドクさべ)も、すっかり当ブログの人気キャラになった感がありますね。「男性差別」の専門家を自称し、「女性専用車両」に乗り込むという反対運動を行っている困った方です。とは言え、実のところぼくとしては彼については語り尽くした、「もういいや」という気持ちでおりました。
 しかし、ここで思わぬ伏兵が登場してきたのです。
 当ブログでは初登場になる、その名は白井潤アニキ。
 ドクさべ同様のいわゆる「ダンセーサベツクラスタ」であり、ドクさべの信奉者。そのためぼくのことをフェミニスト呼ばわりするなど、ずっとこちらを敵視なさっていました。
 が、しばらく前、アニキはガッツある行動を起こしたのです。
 ごくかいつまんでまとめると、


「とある女性に自分に気があるかな? と思い声をかけたらふられた、許せぬ」
→「これはダンセーサベツだ」
→「ついては萌え絵が表紙に描かれた雑誌を持ち歩くというデモをしてやろう」


 え? 意味がわからない?
 いや、ぼくだってわかりません、本当にそう言ってたんですって!
 何しろ経緯を、ご自身がtogetterにまとめていらっしゃったのです。
 そのまとめ自体、既に消されており、ぼくも一度ざっと見ただけでなのであまり詳しいことは言えないのですが……*1。
 ともあれ、アニキの先の行動の本質は、


 ――俺は女が好きだ、でも女は俺に振り向いてくれない、俺は女が憎い!


 というものであり、それは期せずしてフェミニストたちの切望する「ミソジニスト像」を演じ、彼女らの渇きを癒す結果となってしまっています。フェミニストの言う「ミソジニスト」というのは実のところ、彼女らの被愛妄想を前提にした「ワタシのことが好きな、しかしワタシの望むやり方でワタシを愛してくれない男」という概念に他なりませんから。彼の出現を、フェミニストは秋葉テロ事件が起きた時の反オタク派くらい喜ぶべきでしょう。


*1ここではギャグっぽく書いていますが、相手の女性の名前を明記してしまったりちょっと冗談で済まないものだったため、削除されてしまったのです。現状でアニキの言動を確認できるのは「ツイッターの統失男がヤバ過ぎるwwwwwwwwwwwww」辺りでしょうか。興味のある方は各自探してみてください。


 が、アニキの言動を見ていてドクさべについて、ちょっと思い当たったことがあったのです。
 ドクさべについて、ぼくは今まで何とはなしに「女に興味がないのかな」という印象を持っておりました。彼の女性専用車両乗り込み行為に、ぼくはあんまり性的な匂いを感じない。いや、ひょっとするとぼく自身もかつて「あいつ、女性専用車両に乗り込むことで興奮してるんだろm9(^Д^)」などと書いたことがあったかも知れませんが、正直あんまりそうした印象は持っていなかったのです。
 ぼくが彼を見て連想するのは『モテモテ王国』の大王です。彼の中にあるのは小学生の男の子が「女ってスカートめくると泣くからおもしれーぜ」とスカートめくりはするものの、別にパンツは見ていないというような、ある種の「邪気のなさ」のように感じていたのです。
 しかしこれは単純に彼の組織のホモソーシャル()な結束が、彼らをそう見せていただけのハナシかも知れません。
 ぼくのうpした「
ドクター差別と詰られし者たち」では、ドクさべの演説がご覧になれます。ここ(5:30辺り)で彼は「自分が女性専用車両に乗ると、女性たちにキモチワルイと言われた、恐ろしい話だ!」と(通行人に)訴えて(無視されて)いるのです。いや、それは言われたくてやってることやろ、と思うのですが……。
 しかし白井アニキの行動を見ていて、ぼくはドクさべの言動もこれに近しいよな、と感じたのです*2。
 それはつまり、「性犯罪冤罪を批判しようとして、何故性犯罪すれすれのことを?」という。
 むろん、彼らの行動はあまりにも奇矯です。
 が、その心情は何となくわかるのです。
 精神分析の世界では「反復強迫」という概念があります。
 フロイト先生が考えた言葉で、彼は例えば「他人との人間関係がいつも同じようなパターンで失敗する人」など、「苦痛な体験を、無意味に何度も繰り返す人」っているよな、という発見をしたのです。
 フロイト先生はこれを「人間には死の欲動があり云々」と分析しました。
 むろん、そんなムツカシイことを言わなくとも単に「同じやり方しか知らず、つい同じ失敗を繰り返してしまう」のだと考えた方が、話はわかりやすい。
 が、やはりぼくは(フロイト先生の考えの是非はともかく)もう少しこうした傾向に、何か深い意味づけをしてしまいたい衝動に駆られる。
 例えばドクさべの、白井アニキの心情を察するとして、以下のようなストーリーはいかがでしょうか。
 ドクさべも、白井アニキも、かつて女に非道い目に遭った。
 いえ、彼らのそうした体験を殊更に特権化する意図はありません。
 この世に、「かつて女に非道い目に遭った」経験のない男など、ただの一人もいないのだから。
 それは、端から見れば他愛のないことだが、二人にとっては痛恨の極みの体験だったに違いありません。


 ――俺は女にこんなにも貶められた、性犯罪者のように扱われた、許せぬ!!


 彼らの中にはそうした怨嗟の念が渦巻いています。
 何故断言できるかと言えば、そうした経験のない男など、ただの一人もいないからです。
 そしてだからこそ彼らは「いじめられた自分を助けて欲しくて」、「わざわざもう一度いじめっ子の輪の中に飛び込んでいっている」。今、「いじめ」と表現しましたが、女子が男子をいじめる時の手法となると、広い意味での「性犯罪冤罪」、つまり「エロい男子扱い」すること以外には、考えられません。
 ドクさべも白井アニキも、「女子にいじめられたボクを助けてくれる王子さま」を待っているのです。
 つまり、二人は


 ――王子さま見て! 女どもはボクにこんなにも非道いことをしたんだよ!!


 と訴えようとして、おかしなことになってしまっているのです。
 そう考えると、二人の行動、許されるものではないとは言え、何だか哀しいものに見えてくるのではないでしょうか。
 あ、ゴメン、俺は王子さまになってあげられないので誰か何とかしてあげて


*2むろん、「笑えない度」では白井アニキの方が遙かに上です。ドクさべはブログか何かで「彼の行動は支持できない」と表明すべきではないでしょうか(もし既にしてたらゴメン)。


 そして。
 すんません、実はここからようやっと本題です。
 フェミニズムの本質も、彼らと同様なものです。
 ぼくは今まで、ずっとドクさべのような「ダンセーサベツクラスタ」の振る舞いを「フェミニズムのパロディだ」と指摘してきました。それは逆に言えば、ドクさべたちの振る舞いからフェミニストたちの心理をも推し量れる、ということです。
 フェミニストたちの珍奇な行動の動機は、彼ら同様「報われなかった自分を、王子さまに救済して欲しい」というもの。事実、「何度もわざと一人で人気のない道を歩いて、何度も性被害に遭ってしまう女性」というのはいるそうです(これもまた「反復強迫」の一種であることはもう、おわかりでしょう)。
 彼女らもドクさべ、アニキ同様、


 ――王子さま見て! 男どもはワタシにこんなにも非道いことをしたのよ!!


 と訴えようとして、おかしなことになってしまっているのです。
 これはまあ、「フェミはブスのひがみ」という俗論といっしょですが、いずれにせよそう考えると許容はできないまでも哀れにはなって来ます。
 しかし、結局はフェミニズムも「ダンセーサベツクラスタ」も自身の怨念を「一番まずい落としどころ」へとまっしぐらに落とし込もうとしており、だから「ダメだ」という評価にしかなり得ないわけですね。
 ぼくは度々、「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」と言ってきました。しかし男女のセクシュアリティの非対称性()のため、これはいささかわかりにくいリクツであったかと思います。
 ですがドクさべやアニキとフェミニストたちを対応させてみれば、それがおわかりになるのではないでしょうか。
「女たちの性犯罪冤罪を訴え出ようとして、性犯罪すれすれの挙動に出てしまった」のがドクさべとアニキだとするならば、「男たちの性犯罪を訴え出ようとして、性犯罪冤罪すれすれの挙動に出てしまった」のがフェミニストです。


 ――さて、長い長い前振りが終わりました。
 以上のことを、今回、そして次回の二回に渡って牟田和恵師匠の著作、『部長、その恋愛はセクハラです!』を分析することで、再確認することにしましょう。
 まず、まえがきから、牟田師匠はこんなことをおっしゃいます。


それに、(引用者註・恋愛というものは)当事者の男女にとっても、どう感じていたか、どう受け止めたかは、タイミングや時期によっても変わるのです。(p15)


 いや、一般論として言っていることはわかりますが、「その時は合意だったのが、後からやっぱりイヤだったのだ」と後づけされては敵いません。その辺り、果たして師匠はどう思っていらっしゃるのか……ビクビクオドオドしながら、ページをめくりましょう。
 師匠は厚労省の「
心理的負荷による精神障害の認定基準について」という通達の中の「セクシュアルハラスメント事案の留意事項」という項を引用します。


①セクシュアルハラスメントを受けた者(以下「被害者」という。)は、勤務を継続したいとか、セクシュアルハラスメントを行った者(以下「行為者」という。)からのセクシュアルハラスメントの被害をできるだけ軽くしたいとの心理などから、やむを得ず行為者に迎合するようなメール等を送ることや、行為者の誘いを受け入れることがあるが、これらの事実がセクシュアルハラスメントを受けたことを単純に否定する理由にはならないこと。


 これを師匠は、以下のように噛み砕きます。


 これをわかりやすく言い換えれば、女性が喜んでいるように見えてもセクハラであり得る、困っているように見えなくとも実はセクハラでショックを受けている場合もある、ということ。(p31)


 言いたいことは、わかります。
 いじめられている側がいじめている側に迎合すると言うことは、大いにあり得ます。例えば、殴られたくなくていじめられている側が「お金をあげるから許して」と言うなど。
 しかしここで問題となるのは「職場での恋愛関係」です。
 いじめの場合、「暴行」も「恐喝」も立派な犯罪ですが、「思う仕事や役職が与えられない」ことも、「性交渉が行われる」こともそれ自体はそれだけでは不当と言えないはずです。
 そこへ持ってきて、見ていて眩暈がするのは、師匠の想定するケースが専ら「課長と女の部下が普通にベッドイン、後で女がセクハラだと訴えた事例」みたいな、つまり女性の被害者性が疑わしいケースばかりであることです。
 そんな場合でも男性の方がエラいから女性は逆らえない、仕事上断りにくいがため、女性が喜んでいるように見えてもセクハラなのだ、というのが師匠の考えなのですが、そこには「女が後づけや虚偽の訴えをする」可能性に対する想像が、完全に欠落しています。
 上のような事例も当然、考えられはするものの、逆に女性が積極的に自分の身体を武器にすることもあり得、それは「マクラ営業」など軽んじられる行為です。フェミニズムとは行為のそうした両義性を、完全にスルーした上でようやっと成立する、危うげな楼閣なのです。
 節タイトルを見ただけでも、


「見かけは喜んでいるように見せかける(p96)」
「しみついたサービス精神――女にノーはない(p108)」
「女性はイヤでもにっこりするもの。(p125)」


 と我が目を疑うものが目白押し。師匠はみんな大好きキャサリン・マッキノンを引用し、女性は相手への気配りを求められる、相手に逆らわないのが習い性になっている、だから「イエス」に見えてもそれは本当ではないのだと繰り返します。随分と古い、女性に対しての偏見に満ちた差別的意見だと思います。


 お互い合意だった……、向こうから近付いてきた……、向こうだって楽しんでいた……。「事実は違うんだ」と、男性は反論しますが、相手の女性が語る過去の事実は男性の記憶とは大きく違います。
(中略)
どんな判断が下されるかはもちろんケースの事情によりますが、男性の側の主張が一〇〇パーセント通ることは難しく、男性にとっては納得できない、不本意な結論となることも大いにあります。(p67。強調原文ママ)


voluntary(自発的)であってもunwelcome(望まない)ならセクハラ」と題された項ではOLが上司に嫌々ながらつきあい、公園でキスをした場合、


 もしそのとき、公園を通りかかって二人を見かけた「目撃者」がいたとしても「モメている様子はありませんでしたよ、ラブラブなカップルだと思いました」と証言することでしょう。(p39)


 しかし、それでもセクハラ足り得るのだ、との自説が繰り広げられます。
 第三者の客観的視点でセクハラに見えなくても、それはセクハラだ、というわけです。
 いえ、まだまだこれは序の口です。
 牟田師匠は「いったいセクハラなのか違うのか、女性自身がよくわからない、ということでもあります。(p59)」と言い、『朝日新聞』での上野千鶴子師匠の人生相談の例を引き、


 この相談に上野さんは、それはセクハラだときっぱりと答えてくれています。この女性は「頼れる上司を失う怖れ」があるために、イヤなことをイヤだと感じないよう感覚を遮断している、そこに問題の深い根がある、と。(p60)


女性の気持ちとしては、本当に「セクハラかどうかわからない」のです。(p60)


 ……って本人もわからないんじゃあダメじゃん!!
 いや、むろん「わからない」ならばひとまず訴えられる可能性は低い、とは思われます。が、この文章の要諦はそこにはなく、「その時は『わからない』だったとしても、後からセクハラだと考え直し、訴えられる」可能性を示唆するところにあるのです。
 つまりそれは「後からセクハラだと思ったらセクハラ」という無茶ぶりの正当化であり、それでは「女が合意かどうかは知ったことか、お前が悪い」と言っているも同然でしょう。


 師匠はまた、セクハラの現場で男は男の、女は女の肩を持ちがちだと言います。「女は女の痛みがよくわかるからだ」と。ここはまあそうだろうとは思います。しかし多くの場合ハラッサー(本書では「加害者」を「ハラッサー」と呼んでいます。間抜けな響きですが、本稿も一応、それに倣います)は地位があるので、男は処世術としてそれに逆らわない、だが女はそれをしない、何故なら、


もともとほとんどの女性は組織の中で出世することなど想定外ですから、上司に取り入る意味もないからでしょう。(p168)


 というのはいくら何でも無茶でしょう。
 フェミニズムのイデオロギーを無理に盛りすぎです。
 
 そもそも、そこまで女性社員が会社社会で仲間外れの存在であるならば、「昇進などをエサにセクハラ」という師匠の妄想の根拠が完全に崩れ去ってしまうことになるのですが。
 
 また、男と女がもめていれば、多くの場合、男性は女性に味方するのではないでしょうか。
 以下、論法は「男たちはハラッサーを正当化しようとしてストーリーを捏造しがちだ」などと続きます。そういうことも大いに起こり得るとは思うのですが、では女たちが被害者を正当化しようとしてストーリーの捏造をすることはないのでしょうか。本書は徹底して、女性側は常に無辜の被害者、との大前提に貫かれています。
 上の記述がある七章は「周囲の方々、担当者へ」と題されているのですが、その内容はあれをしろこれをしろ、事態の監督不行届でハラッサーの上司までが処分されることもあるぞ、女性から相談を受けたら真摯に対応して欲しい、だからといってちょっとした相談に過剰に反応してことを荒立てるのも困ると、正直、読んでいるだけでウンザリしてきます。
 ぼくは「フェミニズムとはポルノである」と言い続けてきました。
 言い換えるのならば、フェミニズムとは「自分のどんなワガママでも叶えてくれる王子さまがいつか現れる」という妄夢をテーマとした、「乙女ゲー」だったのです。
 何だか
もこっちが乙女ゲーをプレイしながら、画面のイケメンにぶつくさ文句を言っている光景をつい、想像してしまいます。
 先に書いた「今の社会は男が女をレイプし放題の無法地帯を逆転させたものだ」という言葉の意味、わかってきたのではないでしょうか。
 師匠の主張は「通りすがりの女にいきなり襲いかかり、レイプした男が『女が俺を誘惑したのだ!』と言っている」状況をそのまま逆転させた図、に他ならないのです。
 白井アニキの振る舞いは確かに愚かであり、悪質です。
 しかしフェミニストたちは、それに対して笑ったり、憤ったりする資格があるのでしょうか……?


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