兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか

2014-06-13 07:25:47 | アニメ・コミック・ゲーム

 少し前、「『ドラえもん』がアメリカで放映決定」といったニュースが話題になりましたよね。
 元祖草食系男子・のび太はマッチョなアメリカ人には受けが悪いとされてきたが、とうとうアメリカデビュー。しかし同時にグローバルスタンダードに気を遣い、しずかちゃんの性格がボーイッシュなものに改められることになった、といったジェンダーセンシティブ()な報に、ネット上でもいろいろな意見が囁かれました。
 ぼくとしてはアメリカ様に売り込むためとは言え、故人の作品を安易にいじるのはどうなのかと思うのですが、逆に藤子マニアたちはしずかちゃんが木に登りたがるエピソードなどを持ち出して、「元々しずかちゃんは行動的な女の子だ」と主張しているのが、何だかおかしく感じました。
 件の作品、「男女入れかえ物語」は85年に描かれた、『ドラえもん』の中でも後期のものであり、フェミニズムが社会に浸透してきた時期のエピソードだったのです。この時期には出木杉君が「これからは男も料理ができなきゃ」と説く話もあり、要は「時代の要請」によってキャラクター(や、描き手の価値観すらも)が微妙に変遷して行っているという以上のハナシであるとは、ぼくには思えません。一方74年に描かれた「オトコンナを飲めば?」では、男女のジェンダーの入れ替わりが否定的に描写されていますし。
 いずれにせよ、ジェンダーフリー――というよりは「女性が男性性を発揮すること」は「政治的に正しい」という感覚が、今の日本では普遍的なものだ、とわかるエピソードです。

 


 

 本書もまたそんな、『ドラえもん』のジェンダー観を分析する一冊です。
 それはタイトルからも、また第一章が丸々しずかちゃんについて割かれていることからも、伺えます。
 もっとも二章以降はテーマを異にしてはいますが、本稿では専ら、一章を中心に扱うことにします。また源静香は原作漫画では「しずちゃん」と呼ばれることが多いのですが、本稿では本書に倣って「しずかちゃん」で行きます。また映画版、及びその原作である『大長編ドラえもん』のタイトルは略して表記していますが、その辺もご容赦ください。
 さて、以前からフェミニストたちはしずかちゃんに苛烈なバッシングを繰り返しておりました。
 本書の作者、中川右介師匠は斉藤美奈子師匠、村瀬ひろみ師匠の著書を引用します。それらのしずか批判は、要するに「女の友だちと遊ぶシーンもない、男の視点から描かれた無個性な少女」というものです。
 村瀬師匠については存じ上げませんが、斉藤師匠については一時期、当ブログでかなりしつこく採り挙げましたよね(興味のある方は、記事の最後にある「斉藤美奈子」タグから辿って見てください)。その著書『紅一点論』において、師匠はただ「日本のアニメは日本という男尊女卑社会の価値観を色濃く反映しているはず。していなければならない」との思い込みを根拠に、アニメをろくすっぽ見ることもせず、いや、アニメについての資料に当たりながら、その資料に反する妄言をひたすら並べ立てるという離れ業を演じた御仁です。しかしオタクフェミニストの藤本由香里師匠は、そんなデタラメな著作を(そう、『セーラームーン』などすらも否定したその本を)絶賛なさっておりました。
 そんなフェミニストたちに対し、中川師匠は鋭いカウンターパンチを繰り出します。前者については「いや、しずかちゃんが女の友だちと遊ぶシーンもある。数は少ないが、それはあくまでのび太視点の物語だからだ」と反論。後者については「とりあえず、正しい。」としながらも、他のキャラクターも記号的であると指摘。ここ、読んでいてむっと来なくもありませんが、例えばジャイアンは通常、のび太をいじめるという「機能」としてのみ劇中に登場してくるわけで、普段、内面は描かれないのは当たり前*。しずかもそれと同様だという主張で返しているのです。


 

*同時にだからこそ、たまにジャイアンが内面を覗かせる「ハッピーバースデージャイアン」や「ためしにさよなら」などが名作足り得るわけです。

 


 また一方、中川師匠はしずかちゃんを執拗に「戦闘美少女」であると繰り返します。
 むろん、それは劇場版を指しています。劇場版ではドラえもんたちは強大な敵と戦うことも多く、間違ってはいないはずなのですが、それでも正直、かなり違和感のある表現です。そもそもしずかちゃんが「戦闘美少女」ならばのび太君も「戦闘少年」(美少年ではないにせよ)になるはずですが、毎年劇場版ドラえもんを見に行っているファンでも、それには違和を感じるのではないでしょうか。
 80年代後半辺りの劇場版『ドラえもん』のタイトルを並べると、『のび太と鉄人兵団』、『のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)』など確かに次第に戦闘的要素が強くなっていく傾向にありました。それにしたって、のび太たちだってあくまでひみつ道具の力で勝っているわけでそこまで戦士然としているわけではないし、純粋なバトルアニメとは言いにくいように思えます(作品によって差はあるし、『宇宙開拓史』ののび太はガンマンとして実力で相手に勝っているのですが)。
 例えば今年リメイク版が公開された『のび太の大魔境』におけるしずかちゃんの役割は「戦力の増強を図るため、ひみつ道具で未来の自分たちを呼び寄せる」ことでしたし、『鬼岩城』においては「涙」によってバギーの特攻を誘うことでしたし、『鉄人兵団』では歴史を改変し、ロボット軍団に平和の心を持たせることで戦争をやめさせることでした。それぞれ「知恵」、「涙による男性の操作」、「和平」と、その振る舞いは女性ジェンダーに則したものだったのです(「知恵」は微妙ですが、古典的な漫画では知恵者は少女の役割でした)。
「戦闘美少女」という言葉を作り出した斉藤環師匠はこの言葉に「ファリックガール」とのカタカナをアテていますが、そう考えるとやはり、(仮にセーラームーンをそう呼ぶとしても、それでも)しずかちゃんを戦闘美少女とは呼びにくいように思うのです。
 正直、中川師匠がそのような言い方をする動機が見えてこないのですが……読み進めると、
「ひょっとして、フェミに媚びたかったのかな」といった勘繰りがふと、脳裏をかすめてきます。


 

 上に挙げたフェミニストたちは当然、しずかちゃんの入浴シーンにも執拗に噛みつきました(オタク左派の皆さん、そうした斉藤美奈子師匠の著作を藤本由香里師匠が絶賛していたこと、ゆめゆめお忘れなきよう)。
 特に劇場版では毎回しずかちゃんのシャワーシーンが描かれるのですが、ここで中川師匠は2002年の作品以降、シャワーシーンがなくなっていることを指摘します(恥ずかしながら、これは指摘されて初めて気づきました)。
 劇場版で長らく監督を務めた芝山努氏はインタビューで「そうしたシーンは余裕がないとできない」と語っており、師匠は「藤子Fには余裕があったが、アニメスタッフにはなかったのだろう」ととぼけているのですが、実際には原作者である藤子F不二雄先生の没後はそうした描写がやりにくくなった、というのが本当のところでしょう。F先生の生前は「エラい先生が描いてきたから」というエクスキューズで、シャワーシーンを続けられたというのが実情ではないでしょうか。
 しかし声優交代後の劇場版では(恥ずかしながらシャワーシーンがどうだったかはちょっと記憶があやふやですが)しずかちゃんのお色気シーンはむしろ過激になっています。寺本幸代氏という女性監督の作であるリメイク版『魔界大冒険』、『ひみつ道具博物館(ミュージアム)』がそうで、これは女性監督だからこそできた暴走なのか、それとも「素知らぬ顔で女性監督を立て、F先生の遺志を強行的に貫いている」のか、微妙なところです。
 さて、こうしたフェミニストたちの攻撃に対し、中川師匠はどう答えているのでしょうか。


 フェミニズムは基本的にポルノに反対の立場をとる。女性の性の商品化だからだ。そしてフェミニズムは男性支配社会へのアンチテーゼでもあるので、どちらかというと、左翼、リベラル、革新に近い。しかし児童ポルノ規制に熱心なのは、女性のなかでも保守的・国家主義的な政治家、学者、評論家なのである。彼女たちは公権力を強化させたいので、だれも反対しないであろう児童ポルノへの規制強化を突破口として、表現の自由全般への規制を強化したい。つまり、フェミニズムとは無縁の立場でのポルノ規制なのだ。


 どうにも煮え切らない文章です。
 素直にとると、「フェミニストはポルノ反対のくせに児童ポルノには寛容な人々であり、子供の人権を守ろうという意識に乏しい」という話になってしまいます。いえ、事実その通りなのですが。
 保守寄りの人々が児童ポルノを規制しようするその動機を、師匠の主張通り「表現の自由全般を圧殺したい」との思惑が潜んでいるのだと考えるにしても、「ポルノは反対だが児童ポルノには寛容」よりはまだしもマシなスタンスでしょう。
 ここに、「フェミニズムはポルノには反対だが、公権力による規制はよしとしないのだ」といった説明でも入れれば一応の辻褄はあうのですが(これはあくまで師匠側の立場で考えれば、ということで実情にはそぐいません。児童ポルノ法を推進させている野田聖子師匠だってフェミニストなのですから)。
 むしろオタク界のトップの人々は「フェミニズムはポルノに反対していない」とのウソをつくことで矛盾を回避する傾向にありますが、よりにもよってバカ正直に「フェミニズムは基本的にポルノに反対の立場をとる。」といった事実を提示してしまったがため、おかしな文章になっている気がします。
 いえ……しかしやはりこれは、彼にとってはおかしな主張ではないのでしょう。
 この後、師匠は


 むしろ、「しずかちゃんの入浴シーン」については、これまで、見てきたようにフェミニズムからの批判の方が強いのだ。そして、おそらくはフェミニズムの方が正しい


 とまで言い出します。
 この「フェミニズムからの批判の方が強い」というのは恐らく児ポ問題について今までしずかちゃんが幾度も象徴的に扱われ、保守派が「しずかちゃんの入浴シーンまでは規制しない」としてきたことを指しています。
 つまり、師匠はこうまで「児童ポルノ方を推し進めようとしているのは保守派だ、フェミニストではない」と強調しておいて、「でもしずかちゃんの入浴シーンに文句を言っているのはフェミニストですよ」と言をひるがえしているのです。
 こうなると、まさにキミョウキテレツマカフシギです。
「フェミニストは実写の児童ポルノには寛容である、しかしアニメには厳しい」ということなのでしょうか。
いえ、事実その通りなのですが。
 師匠に言わせれば保守派がしずかちゃんを規制しようとしないのは「国益を考えて」のことだそうですから、或いは「保守派は利権を生む巨大ビジネスには甘いのだ」とも取れますが、それだってフェミニストに比べればマシでしょう。
 この後、この問題について、師匠は明確に自身のスタンスを明らかにしないままフェードアウトしてしまうのですが、どう好意的に見ても、師匠が「しずかちゃんの入浴」を守るため、フェミニズムに立ち向かう気概があるようには、とても思われません。


 

 さて、ここら辺りで本書のタイトルをもう一度、思い出していただきましょう。
 何故、師匠はしずかちゃんとのび太君の結婚に、こうまでして「物言い」をつけたいのでしょうか。
 師匠はこの後、しずかちゃんを「男女雇用機会均等法第一世代」と呼び、のび太との結婚を「転落」とまで言い募ります*。
 恐らく師匠もご存じかと思うのですが(
知らなかったらすみません)、「のび太の結婚前夜」というお話で、しずかちゃんのパパが娘に「のび太という青年は他人の幸せを願い、他人の不幸を悲しむことのできる人物だ、彼を選んだ君の選択は間違っていない」と語るシーンがあります。
 しずかちゃんは「好きな男の子のお嫁さん」になったのです。
 それは転落でも何でもないし、転落であると強弁し続けることは専業主婦を初めとした女性全般に対する、許し難いミソジナスなサベツ的偏見かと思うのですが。
 確かにしずかちゃんはトロフィーワイフではあるでしょう。
 しかしそれのどこが悪いのか、というのが一般的な感覚ではないでしょうか。
 多くの方はご存じでしょうが、ドラえもんは第一話で、のび太の悲惨な未来を幸福なものに変えるため、やってきます。そこでのび太は「このままではジャイ子と結婚することになってしまう」と説かれ、ある種、「しずかちゃんとの結婚」が物語のゴールとして設定されることになるのです。
 考えるとのび太は成人後、どのような職業に就くのか、判然としません(第一話で社長になることが語られるが、これは以降、全く触れられなくなります)。のび太にとって「大人になること」は「しずかちゃんと結婚できるか否か」という疑問と同義なのです。
 連載中期の「雪山のロマンス」では未来ののび太としずかちゃんの馴れ初めが描かれますが、それはしずかちゃんが「側で見ていてあげないと危なっかしくてならないから」のび太との結婚を決意する、というものでした。
 そして、『ドラえもん』の世界ははやがて『大長編ドラえもん』へと発展していきます。これは本書にも言及のあるところですが、要するにF先生が健康問題を抱え、作品の量産が難しくなり、通常の『ドラえもん』を描くことを止め、毎年公開される劇場版『ドラえもん』の原作漫画に専念せざるを得なくなったということです。そうした外的な理由もあってのことではありますが、後期になるとのび太は「格好のいい、ヒーロー然としたのび太」へと変貌を遂げていくことになるのです。
 晩年の作である『創世日記』では野美一族というのが登場します。これはのび太自身が作り上げた、アバター的シミュレーション的な野比一族であり、この野美一族はのび太の助力で「ダメな家系」から「優秀な家系」へと「成長」し、ついにはしずかちゃん(のアバター的存在)と結婚するまでに至ります。『夢幻三剣士』でものび太は夢の世界で活躍し、シズカール(やはりしずかちゃんのアバター的なキャラクター)と結婚するまでになります。
 つまり晩期の『ドラえもん』では明らかにのび太がしずかちゃんの旦那様としてふさわしい、立派な男性へと成長する過程が描かれているわけです。
 ぼく個人としてはのび太は永遠のダメ少年、永遠の怠け者でいて欲しいところではあるのですが、しかしそれでもしずかちゃんに見あう男になろうという彼の心意気を、否定する気にはなれません。
 にもかかわらず、中川師匠はこんなびっくりなことまで言い出すのです。


『ドラえもん』の根底には女性蔑視と女性敵視があるのだ。フェミニズムの論客たちはそれを敏感に感じ取るので、『ドラえもん』を敵視し、なかでも源静香を目の敵にする。


 

 その意味で、『ドラえもん』の世界観は古い。ユニセックスのコミックで、女をこのようにしか描かないことについては、批判されても仕方がない


 後者は、この第一章のほぼ最後の文章です。
 お断りしておきますが、本書を読む限り、中川師匠は(オタク的な素養はなさそうなのですが)恐らく心から『ドラえもん』が好きなのだと思います。
 しかしより以上にフェミニズムが好きであり、そのために齟齬が生じてしまい、矛盾した筆致を生んでいるように思います。
 よく例に出すことですが、日本経済新聞2006年1月16日号夕刊によると、翌年の就職を目指す大学三年生女子五百十六人へアンケートを採ったところ、「結婚してもずっと一線で働きたい」と答えたのは僅か5.2%だったと言います。そして驚いたことにこの新聞記事は、「意識の高い学生は少数派だ。」と、女性たちにに難癖をつけているのです。女性のマジョリティの意向をここまでねじ曲げ、ただひたすら女性がキャリア志向を持つことが正しいというコンセンサスは、一体何なのでしょうか。
 ここ数十年、フェミニストもフェミニストを信奉する進歩派男性も、みな女性のマジョリティの意向を無視し、ひたすら女性から女性ジェンダーを奪い取ることに邁進してきました。
 冒頭におけるアメリカでのしずかちゃんの描かれ方、それに対するファンの反応、そして本書におけるしずかちゃんに対しての心ない物言いは、それと全く同じです。
 それはしずかちゃんから幸福な結婚を奪い、不幸にする結果しか生みません。
 同時に、「国家に物申す」動機のために児童ポルノ方に反対してはみせるが、フェミニストには平身低頭してしずかちゃんの入浴シーンを否定してしまう本書のスタンスも、それと全く同じです。
 それは『ドラえもん』ファンから幸福を奪い、不幸にする結果しか生みません。


 

*上に書いたように、び太の成人後の職業は判然としないのですが、同様にしずかちゃんも「専業主婦」であると明確に断定できる描写は、確かなかったかと思うのですが。それとも師匠はあくまでしずかちゃんが「のび太のようなボンクラと結婚すること」そのものにインネンをつけているのでしょうか? そりゃ専業主夫が一般化するわけはないですな。
 後、マニアに突っ込まれそうなので書いておきますが、旧しずかちゃん役の野村道子さんは、しずかちゃんにキャリアの道を進んで欲しい旨を語っていたことがあります。一応、参考まで。


 くりかえしになるが、『ドラえもん』は生活ギャグマンガという落語的構造のマンガ作品である。そこから教訓を読み取ったり、郷愁だとか童心だとかいう児童文学的カテゴリーを当てはめるのは、『ドラえもん』をはじめとする生活ギャグマンガへの冒涜である。
(中略)
『ドラえもん』を「人生の教科書」だと「高く評価する大人」は、『ドラえもん』を褒めているつもりなのだろうが、じつは貶めている。「教科書」なんていうくだらないものではない、と確認しておこう。


 これは、本書のほぼ最後の文章です。
 師匠の『ドラえもん』への嘘偽りのない愛情が伝わってきます。
 しかしそんな本書がどういうわけかどうしたことか、「(フェミニズムの)教科書」なんていうくだらないものを真に受けて、『ドラえもん』を貶めているのは皮肉というかバカバカしいというかおまゆうというか、まあ、キソウテンガイシシャゴニュウではありました。
 本書のしずか評は、「仮にフェミニズムを正しいと前提すると」正しいものとなります。
 しかしそれは期せずして、「フェミニズムを正しいと前提すると、日本で最も愛されているコンテンツすらも全否定しなければならなくなる」*という事実を明確に現してしまいました。『ドラえもん』のテーマは「しずかちゃんと結婚することそのもの」であるということは、本稿を読んだ皆さんにはもうおわかりかと思います。しかしファンであるはずの中川師匠はその『ドラえもん』のテーマを全否定するのです。
『ドラえもん』は今まで宮崎アニメ、富野アニメ、手塚漫画などに比べて遙かにメジャーにも関わらず語られてこなかった、と師匠は指摘します。それは確かに、その通りだと思います。
 それは何故か。
 それは、ヒョーロンカが、ネタ元にしている「教科書」が間違っていたからなのだ、ということが本書を見ればよくわかります。
 あ、そうだ!!
『ドラえもん』に女性ファンは少ないって言い張れば、あんたたちのアンチョコも延命できますよ(笑)。
 こうして女性票はウクライナの選挙くらい、操作され続けるのでありました。
 
ぱらぱぱっぱぱ~ぱらぱぱらぱぱ~♪

*波平さん役の声優さん、永井一郎さんが亡くなった時、フェミニストが「これを機に『サザエさん』を放映中止にしてはどうか」などとつぶやいていたことを思い出します。
 フェミニズムはぼくたちが親しんでいる文化の、そのほとんどを破壊することでしか、成就しない思想であるということを、ぼくたちはよく心に留めておきましょう。


 

■おまけ■

 

 本稿では基本的に、本書の一章の「しずかちゃん論」とでも称するべき部分に対してツッコみました。
 が、他の部分にも、ついでにちょとだけ言及しておきましょう。
 まず、のび太のママ、野比玉子。『ドラえもん』のレギュラーとしてはしずかちゃん以外では唯一の女性です。
 師匠は彼女のことをフェミニズムにとって、「理想的な母性の欠落した母」であり、夫の給料を管理することにも成功している、と絶賛します。ママは専業で絶対悪であり、
『ドラえもん』という作品は母性を敵視しているんだってさ。


 

 二章では、男子だけが剛田武をジャイアンと呼ぶことを指摘して、「ホモソーシャル」だと言い募っています()。
 初期はしずちゃんも「ジャイアンさん」と言っていたと思うのですけどね。
 またここではジャイアンとスネ夫が二人がかりでのび太をいじめる、とも指摘します。
 そうとは限らないでしょう。スネ夫が財力を発揮する時は、ジャイアンがそれに乗っかることも多いけど、むしろジャイアンが羨む展開だって多いし、ジャイアンが暴走する時はスネ夫も被害者であることも多いじゃないか、と思うのですけれども、師匠の論はジャイアンとスネ夫はつるむことで多数派となり、のび太をいじめる正当性を得ているのだ、これは民主主義の恐ろしさを描いているのだ、などと展開していきます。
 章タイトルは「ジャイアンとスネ夫はまるで民主党政権である」となっており、これはハナっからここへと持っていくために、帰納的に導き出されたロジックなのでしょう。


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宇宙の男たち

2014-06-06 18:03:06 | アニメ・コミック・ゲーム

 チンポ騎士団の皆さん、コンニチハ。
 相手の発言を捏造することでしか守れなくなった正義、いまだ皆さんの糊口をしのぐ道具にはなっているのでしょうか?
 そうしたマネで食べていけるご身分、大変に羨ましゅうございます。
 それにしてもアレですね、呼べば来るお友だちが大勢いらっしゃるのも羨ましゅうございますな。
 確かことの発端はぼくが「ホモソーシャル何たら」といった物言いを批判したことにご立腹になり、しかし有効な反論ができず、こちらの発言を捏造して叩き始めた、ということでしたが、きっと皆さんのご関係は「ホモソーシャル」とは根源から異なる、「真の友情」なのでしょうね(この辺のことは
前回前々回記事を参照。「星新一」に惹かれてやってきた方は飛ばしてくださって差し支えありません)。
 さて、そういうわけで今回のテーマは「ホモソーシャル」です。
 以前、ぼくは
映画『テッド』をレビューしました。


 一方、ジョンとデートしても、コブのようにテッドがくっついてくる。ジョンとテッドがギャグを飛ばし笑いあっているのにロリーが乗っかると、いきなり冷める両者。女のギャグと男のギャグのジェンダーギャップが原因で、ホモソーシャルな二人に阻害される女性、といった図式です。


 以上に評したように、『テッド』はのび太君を巡っての、しずかちゃんとドラえもんのバトル、言ってみればヘテロセクシャルとホモソーシャルのバトルを描いた話でした。全体的には疑問符もつくものの、上に挙げたシーンはなかなかよくできていたと思います。
 で、そうなるとどうしても、ふと疑問を覚えずにはおれません。


「女のギャグって、なんであんなにつまらないんだろうなあ」


 ――と。
『エンタの神様』とか、その意味で想像するに「視聴者は女だけ」と設定して成功した例なのではないでしょうか。何にせよ女性に受けるギャグというのは「あるあるネタ」で、彼女らは笑うと言うよりはそれを聞いて共感することに他者とのつながりを感じ、安心感を見出したいんじゃないでしょうかね。
 となると、男のギャグの本質は一体何なのでしょうか。
 随分昔、とあるCMで六、七歳くらいの男の子が笑いを取ろうと過剰におどけた仕草をしているのを見て、ムカついて殴り殺してやりたい衝動を抑えるのに苦労したことがあります。そのクソガキの「どう? 面白いでしょ?」とこちらに媚びる顔が不快でならなかったわけですね。しかし考えるとそもそも、子供は大人に媚びることが仕事です。女の子はその可愛らしさでずっと、下手をすると一生周囲に愛される。しかし男の子はかなり早い時期からそうした方策を放棄して、何らかの工夫をもって媚びねばならなくなる。
 端的に言えば、男の子はかなり早い時期に「お色気タレント」から「お笑いタレント」への転換を迫られる存在なのです。
 それを踏まえて件のCMの男の子の過剰な媚びを考えてみると、何だか切なくなってきますね。あの少年を、抱きしめてやりたい衝動に駆られます(どっちやねん!)。
 また同時に、男同士でギャグを飛ばしあうのはある種、事態を笑いに転化することで自己を守るA.T.フィールド的なところがある。シリアスな状況を茶化して誤魔化す、というようなことですね。
 ギャグとは物事の本質を茶化し、距離を取ることであり、また距離を取った相手との間合いを計る(お色気タレントとして売れなくなったので、お笑いタレントに転向してまた自分の番組を見てもらうための)方策なのです。
 しかしそうなると「女のギャグがつまらない」理由も明らかになってきます。
 それは彼女らはお色気タレントでお笑いタレントではないからであり、(あるあるネタが象徴するように)融和的で距離を取る必要がないから、なのです。
 となると、フェミニズムとはお笑いの苦労を知らない女性の、「突っ立っているだけで笑いが取れないとは女性サベツだ」との無理難題であるとすら極言できますね。


 さて、ちょっと思ったのですが、こうなると「ギャグデレ」という新ジャンルの開拓が可能ではないでしょうか。
 ツンデレとは素直じゃない女の子が「ツン」という仮面を被り、またそれを脱いで「デレ」るところが醍醐味の表現です。
 距離を取るという意味では両方とも、本質は同じです。
 と、探してみると……はい、ありました。
 今回ご紹介する「宇宙の男たち」がそれです。
 星新一のショートショートの一編です。彼の作品は言うまでもなく皮肉を効かせたストーリーがキモなのですが、しかしそんな中、ぽつぽつといわゆる「いい話」もあります。例えば「鍵」、「箱」、「午後の恐竜」などはそうした「いい話」であり、この種の作品はファンの評価もどうしても高くなりがちです(比喩として適切かどうかはわかりませんが、『ウルトラセブン』の中でも異色作の「ノンマルトの使者」が語られがちなのと近いですね)。
 が、本作はそんな中でも、今一語られることの少ない、マイナーな話に属すように思われます。それは恐らく「いい話」であると共にある種、星新一らしいアイロニー全開の話でもあるからではないか……という気もします。更に言えば皮肉に皮肉を重ねた後に泣かせどころへと持っていく話なんて、いかにも今風な気もしますが。
 さて、以下、ネタバレを含めストーリーをご紹介することにしましょう。


 タイトルを見てもわかる通り、お話はSF。
 登場人物は若い男性と老年に差しかかった男性の二人だけ。
 若者は広い宇宙を駆け巡ることを夢見て、地球圏近辺で「宇宙タクシー」的な仕事に就いています。老人は木星の衛星で長らく働いてきたが、老境に差しかかり、余生を地球で送ろうとそのタクシーであるロケットに乗った人物。
 二人は常にギャグを飛ばしあっています。親子ほども年齢の離れた二人がどういうわけか馬があって、仲よくしているシーンは読んでいるだけで楽しくなってきます。
 が、何故そこまで二人はギャグを飛ばしあうのか?
 宇宙船での航行は非常に退屈極まるモノであり、それをしのぐためには誰もが自らピエロとなって相手を楽しませねばならない、それが宇宙の男たちの流儀なのだ、と説明されます。突発的な事故が起こってもジョークを言う二人は頼もしいと共に、何だか諦念(大げさに騒いでもどうにもならないと知っているその覚悟)をも感じさせます。
 が、同時に星新一は度々、エッセイなどで当時(高度経済成長期)の日本人が欧米人に比べジョークで相手を楽しませるサービス精神に欠けていることを嘆いており、これは彼の理想像でもあったのでしょう。


 しかし……この「ギャグ」の応酬はストーリーの進行に伴い、また異なる機能を持ってきます。
 このタイミングで申し上げるのもナンですが、本作は「ホモソーシャル」のお話です。
 いえ、それは違いました。正確には「ホモソーシャル」という概念がいかに醜いかということを暴き立てる物語なのです。
 ある時、ツイッターでフェミニスト男性が秀逸なことを言っていました。
「ホモソーシャルという概念に対し、レズソーシャルなどという言葉をぶつけてくる輩がいる。女同士の方がつるむ性質が強いぞとのドヤ顔での指摘なのだが、とんでもない。フェミニズムがホモソーシャルを批判するのはそれにより男たちが女性たちを排除し、利益を独占しているからなのだ(大意)」。
 語るに落ちるというか、語ってしまうと必ず落ちるのがフェミニズムであるということを、この男性の発言はよく現しています(逆にフェミニストはそこをわかっていて寡黙である気がします)。
「ホモソーシャル」という言葉が使われる時、基本的には「会社社会などが女性に対して排他的である」という文脈で使われます。むろん一度誕生してしまえば言葉というのはその焦点がぼやけ、今では「叩きたいがリクツでは敵わない相手が『ガンダム』とか言った時、その発言をねじ曲げて叩く」などといった時に使われる言葉となっておりますが。
 しかし「男たちが不当な方法で利益を独占し、女性たちを排除している」という彼女らの主張が事実であるのなら、正々堂々とそこを指摘すればよいのです。そんな事実がないからこそ、「そうした事実を生んでいる男たちの傾向」を捏造し、バッシングするという迂回路を辿らねばならないのです。「ミソジニー」もそうですが、もはやフェミニズムの用語は「非実在サベツを捏造するためのロジック」以上の意味を持たないところにまで堕ちてしまっています。
 本稿の目的も、この「ホモソーシャル」という
この世でもっとも醜い概念を、この世で最も美しいお話を紹介することで粉砕するところにあります。
 さて、ストーリーの紹介に戻る前にまず、星新一についてちょっと解説をしておきましょう。
 星新一は年齢の離れた亡父に強い影響を受けていました。彼の父親は星製薬の社長として一世を風靡しながら官憲に弾圧され、非業の死を遂げた人物です。彼は大正の生まれであり、当然、父親は明治の生まれ。星新一にとって父親は厳格で、自分から遠い存在でした。その意味で「父子ほどに年の離れた人物がギャグを飛ばしあう」という本作は、著者の父子観からは遠く隔たったものであることが想像できます。
 星新一はそんな亡父に若くして会社を継がされて様々な苦難を経験し、そのため父親に複雑な感情を抱いていました。ぶっちゃければファザコンだったわけですね。
 一方で彼はまた、若い男の子に執心していたフシがあります。
「追及する男」という作品では女性的美少年が登場して、


 男でも、いや、男ならなおさら、一瞬、息をのむような気分になる。


 などと記述されます(強調引用者)。
 これはホモ趣味でももちろんなければ、小児愛でもない、オタク的な男の娘、ショタともちょっとニュアンスの違う、まあ、敢えて言えばオッサンのナルシシズム的な少年愛でしょうか。いや、
例の件以降、「少年愛」という言葉は大嫌いで使いたくないのですが(小松左京、筒井康隆などとの対談では星新一には「美童趣味」があるとして、郷ひろみなどの話題で盛り上がっている箇所があります)。
 ともあれ、青年期に余人に伺い知れぬ屈折を経験してきたが故に、彼には父子関係、或いは青年に対する、妙なこだわりがあるわけですね。


 さて、お話の紹介に戻りましょう。以下、クライマックスまで全部バラしてしまいます。
 上に書いた通り、この老人と若者の楽しい旅路は、ロケットに隕石がぶつかってしまうという突発的な事故によって危機を迎えます。
 二人は救命信号を発し、助けを待って人工冬眠状態に入ることにします。が、とは言え、それは形だけのもので、実際に救出される可能性は限りなくゼロに近い。若者は遺書をしたためます。
「お父さんお母さん、志半ばですが、憧れの宇宙で死ぬことができ、ぼくは後悔していません云々」
 老人は若者が署名をしないことを訝り、その理由を尋ねます。
「署名しない方が宇宙で死んだ息子を想う多くの親たちの慰めになるでしょう」
「いや、しかし君のご両親のためにやはり署名をすべきだ」
 ここで若者は、実は自分が天涯孤独の孤児であることを明かします。遺書は自分とは縁もゆかりもない、地球に大勢いるであろう「宇宙で息子を亡くした親たち」のために書いたものだったのです。老人もその趣向に賛同、宇宙で稼いだ僅かばかりの財産を遺書に添えることを提案します。彼もまた、宇宙での労働に生涯を捧げ、財産を遺すべき家族を持たない人物でした。
 そうして「父を知らない若者」と「息子を知らない老人」の二人は人工冬眠に入りますが、眠りにつく間際、本当に最後の最後の会話を、ここに抜き出してみましょう。


「ああ、眠くなってきた。なんだか、わしにはおまえが息子のように思えてきたよ」
「わたしもあなたが……。いや、もう冗談はよしましょう。あなたは息子とはどんなものか知らないんですし、わたしも親とはどんなものか知らないんですよ」
 それから、どちらからともなく声をかけあった。
「さよなら」


 最後の最後までホンネを明かさず、冗談交じりの二人。
 その会話は洒落ているようにも、何だか切ないようにも思えます。
 先に書いたように、星新一にはどこかアメリカンなジョークを交わす人間関係への憧れがあると同時に、父親とそのような対話を持った経験があるとは、とても思えない。
 そしてまた、先に「ギャグデレ」と書きましたが、正確にはこの二人、デレられないままです。
 ギャルゲーなどで「疑似家族」オチというのがよくありますよね。孤独を抱えたキャラクターたちが運命に導かれて集い、「
ぼくたちは家族だよ」とか言って終わるヤツ。
 しかしこの二人は屈折を抱えたまま、そうしたオチにたどり着けないままでした。
 何故か。
 言うまでもなく、それが男性ジェンダーというものだからでしょう。
 ジョークとは「相手が何者かもわからない七人の敵がいる家の外で、相手に害意がないことを示すためのツール」であり、「自己を守るためのA.T.フィールド」でした。それは危機と隣りあわせであるが故の、鎧です。村社会で気心の知れあった者同士で固まる日本人と異なり、アメリカ社会は雑多な人種のカオスであり、コンベンションと呼ばれる同業者の集まりが盛んに行われ、そこで語るパーティージョークなどの本に一定の需要がある……といったことも確か、星新一のエッセイで得た知識でした。
 先に『テッド』について述べました。テッドとジョンは気心の知れた幼なじみ同士ですから、こうした分析には当てはまりませんが、それでも男同士の競争社会(それは子供社会でもそうです)でそれなりに練られたジョークとしての洗練度が、ロリーとの齟齬を生じさせました。
「ホモソーシャル」とは、「危険な外界で戦うために男が命懸けで獲得したものを、安全裡に、無償で引き渡せ」と要求するためにフェミニズムが捏造した概念でした。
「BL」とは、「危険な外界で戦うために男が命懸けで獲得したものを、安全裡に、無償で物陰から覗き見てマスターベーションをする行為」でした。上に「ギャグデレ」と書きましたが、極言すれば「ギャグ」は「ツンデレ」であり、「BL」とは男同士の「ツンデレ」な愛情を「二次創作におけるセックスシーン」で補完しようという試みなのです。原作が「ツン」でBLが「デレ」なわけですね。
 ぼくは以前、
『神聖モテモテ王国』を論じた記事で男同士の友情を「冷蔵庫の隅に残った大根の尻尾」と評しました。男は「家庭の主となる」ことが宿命づけられた存在であり、友情というのはある種「そうなれなかった弱者」同士の寄り添いのようなところがある、との意味でした。
 が、それはいささか甘かったようです。
 弱者男性からは大根の尻尾を奪う。
 強者男性からは、まさに上の老人が僅かばかりの財産を捧げたように、生命を賭けて獲得したものを強奪する。
 それがこの、「ホモソーシャル」という惨憺たる概念の本質であったのです。

 

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