兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第21回「車椅子に乗ったセーラー戦士(いない)」

2021-05-29 13:17:41 | 時評


 動画、第二十一回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第21回「車椅子に乗ったセーラー戦士(いない)」


『Daily WiLL Online』様で新しい記事を書かせていただきました。

「障害は個性」を利用する左派の欺瞞

話題の「弱者男性論」をなんとしても≪許さない≫人たち


「弱者男性」についての記事はある意味、当ブロマガのメインテーマに真っ直ぐ切り込んだもので、目下ランキング三位!! どうぞ応援をよろしくお願いいたします!!
 また、次の日曜には上の続き、「「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち」が載る予定なので、そちらもご愛読ください!!

 ただ、今回の動画は前者に関連して「障害は個性」という考え方について考察したものです。
 伊是名夏子師匠が炎上していますが、その先輩格と言える安積遊歩師匠という人物の著作を見ても、近しい考え方や振る舞いが見られ……。

2018年アンチフェミ三銃士

2019-02-01 23:10:37 | 時評
 みなさま、早いもので2019年も一ヶ月を過ぎ、残すところ後十一ヶ月となりました(以下略)。
 というわけで年末企画です。



 ――終わってしまいました。
 もう少し続けましょう。

 2018年男性問題十番勝負

 ――というわけでここからが本番です。
 何でも2018年の漢字が「災」だそうで、それにふさわしく、女災ここに極まれりな一年ではありました。本来であればそれに乗っかってこんな時こそ「女災ニュース」と題した記事にすべきですが、まあその、思いついちゃったので、今回はこういう趣向です。
 もっとも、年末年始企画は毎回「ニュース」と称しつつ、実際にはその年のまとめ的なことを書いていただけであり、今回も主旨としては変わりません。
 まずは簡単な表を作ってみましたので、ご覧ください。



 キーパーソンを「反フェミ/親フェミ」、「反オタク/親オタク」で分類しました。
 この「オタク」というのは、(ぼくのいつものクセのようなものなのですが)いくつかの複合的な意味が含まれています。純粋に、オタク文化を嗜好する人物を指している場合もあれば、「弱者男性」「内向的な男性」の言い換えのような意味あいで使っている場面もあります。
 その辺はおいおい説明していくとして、まずは「反オタク/親フェミ」を見てみましょう。

 一番勝負・後藤和智
 二番勝負・昼間たかし
 三番勝負・藤田直哉


 ほい、のっけから三人いっぺんにやってしまいます。一番「反オタク/親フェミ」の要素の高いのがこの三人*1。もっとも、この三人はみな、オタクであったりオタク業界に近い場にいる人たち。普通に考えれば奇妙なハナシですが、常々言っているように、「オタクはちょっと前まで、オタクを狂ったように憎悪していた」のです。このお三方はある意味、その一昔前の「オタク観」から抜け出していない人たちであると言えます。彼らの心の声をここで代弁するならば、「オタクを殺せば、ママも許してくれる!」。男というのはその全てが、女性を脅かす絶対悪であり、殲滅すべき存在である。でも、自分だけは助かりたい、そのためには男を殺し、その首をフェミニスト様に捧げるしかない。それが彼らの考えです。オタクとは「萌え」に代表されるように弱い女性、可愛い女性、要は従来の女性ジェンダーに即した女性を好む存在。そんな連中は絶対に許してはならない。フェミニスト様に捧げるのに最適なのが、男性の中でも立場的に弱い、オタクの首なのです。
 即ち、ぼくがいつも言うように彼らは「フェミニズムを正しいと仮定するならば、正しい」わけであり、この位置にいる人たちはポルノ、エロも否定していることが多い。この三人の各々がどうかは存じ上げませんが、例えば一昨年しつこく採り挙げた稲田豊史、宇野常寛*2とかもこの位置にいる人物であると考えていいでしょう。
 また、『男性問題から見る現代日本社会』*3の著者たちもまた当然、この位置にマッピングされます。女性を慮り、男性を軽んずることがぼくたちの抱えた「ジェンダー規範」であり、社会のコンセンサスである以上、ある意味では「人類の大多数」がこの位置に来るといっても過言ではないわけですね。
 考えようによってはブレのない、矛盾のない、一貫性のある人たちと言えます。

*1 後藤和智については「間違いだらけの論客選び」、及び「コミケの中心でオタク憎悪を叫んだ馬鹿者――『間違いだらけの論客選び』余話+『30年目の「10万人の宮崎勤」』」の前半を参照。
 ちなみに後藤は2018年の冬コミでも上の本の続編みたいのを出して、拙著を「セクハラ告発をバッシングした」などと罵っておりました。本当に、卑劣ですね。
 藤田直哉師匠については「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは嫌オタク流の夢を見るか」、昼間たかし師匠については「左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか」を参照。
*2「ドラがたり」、及びそれに続く四つの記事で述べました。
*3(https://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1578936


 四番勝負・八田真行

 さて、同じ「反オタク/親フェミ」にマッピングされながら、多少毛色が異なるのが八田師匠です。彼の心の声は、「ママに言われて、オタクをしに来たが…彼らも人間だったのか?」。彼についてはインセル、ミグタウについての二つの記事を、二度に渡って採り挙げました*4。その記事を乱暴にまとめるならば、「インセル」という殺していい悪者を大はしゃぎで殺していくうち、「ミグタウ」という存在に出くわした。その「ミグタウ」が「インセル」とさほど違わない存在であり、しかし殺す口実のない者たちであると知り、自分がやってきたことについて戸惑っている……まあ、実際にそこまで良心的な内省をしているかは心許ないものの、件の記事の流れはどうしてもそのように読めてしまう。彼は、自分が忠誠を誓っていたデストロンが悪の組織だと知り、愕然としているライダーマンのような存在*5に、どうしても見えてしまう。それがやや「親オタク」に寄っている理由です。

*4「八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
*5 リベラルの中の「ちょっとだけ揺らいでいる」人たちを、ぼくはずっとライダーマンに準えてきました。詳しくは「『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」」を参照。



 五番勝負・御田寺圭
 六番勝負・青識亜論
 七番勝負・借金玉


 これがさらに「親オタク」に寄ると、「アンチフェミ三銃士」であらせられるお三方となります。彼らが「フェミニストの使徒」であることは年末に語り尽くしました*6。とはいえ、(まあ、心の中まではわからないとはいえ)テラケイ師匠など、「オタク」「弱者男性」へ心情的に寄り添っていることに嘘はないとは思います。八田師匠よりはちょっとだけ、「親オタク」寄りなわけですね。とはいえ、彼らを「親/反オタク」のボーダーに置いている理由は、師匠の著作のレビュー*7で述べたように、実のところ自分自身の内面を全く省みていないから。
 彼らの心の声を代弁するならば、「ママはきっとわかってくれる!」というものでしょう。つまり彼らは「フェミニズムは正しい」というドグマを骨の髄、深層意識の髄にまで深く深く内面化して、疑うことなど夢にも思わない。また一方、「内省」という作業を怠っているがため、オタクがママのお言いつけに背いている存在であると、いまだお気づきでない(それとも、何とかママのご機嫌を取るための詭弁を捻っているかのどちらかです)。彼らの使う詭弁は、例えば「BLは、男の娘は、ジェンダーフリーな表現だ」といったもの。もちろん、BLとは腐女子が女性ジェンダーを十全に楽しむための表現であり、男の娘もまた女性ジェンダーを持った少年だからこそヘテロセクシュアルの男性に好まれるのであり、ホモの好むいわゆる田亀源五郎氏的なキャラとは丸きり違う。「萌え」そのものは(BL含め)むしろジェンダーを温存する表現以外の何物でもなく、そこを何とか詭弁を弄して逃げ延びようとしているのが、この位置にいる人たちです。
 テラケイ師匠の著作が実のところ自分の「オタク性」「KKO性」に全く向きあっていないのもそれで、この人たちは要するに「自分が見えていない」。以前、「望遠鏡的博愛主義」という言葉を採り挙げたことがあります。「テレビに映る弱者には涙しつつ、自分の身近にいる弱者など歯牙にもかけない」といった心理状態ですね。師匠の著作は論調としてはそれを批判していながら、実のところ「その心理そのもの」に陥っている奇書といえました。
 後藤和智たちは自分が見えているからこそ「俺だけはオタクじゃない、俺だけはオタクじゃないんだ」と泣き叫んでいるのであり、このお三方はそれとは対照的ともいえるものの、根っこの部分は何ら変わりない人たちなのです。


*6「実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件」及びそれに続く二つの記事をご覧ください。
*7「矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る


 八番勝負・久米泰介

「反オタク」で、やや「反フェミ」に寄っている久米泰介師匠もここで語っておきましょう。もちろんこの人はオタクではないのでしょうが、ともあれオタク文化に深い深い憎悪を抱いていらっしゃる方であることは、周知の通りです。しかしここではそればかりではなく、比喩的な意味でのオタク、「内向的な男性」「草食系男子」とでもいったニュアンスで、この言葉を捉えてください。
 言うまでもなく、師匠は「BLを殲滅するために、男性向けポルノをも否定する」という「身体中の全ての骨を断たせて薄皮一枚を斬る」戦略の提唱者であらせられます*8。ここには一つ、明らかに自分の足下の見えていない「三人称」的な感覚の主の過ちが見られる。師匠の訳書の二冊目が『広がるミサンドリー』*9であったことを考えると、何というか、お前こそミサンドリストやんけと言わずにはおれません。もっとも、以上は「師匠の言を理論的に演繹していくとこうなる」というだけのことで、実際には師匠は、「何も考えていない」「考えることに慣れていないため、ふと湧いた着想を検討することもなく振り回しているだけ」というのが実情である気もします(もっとも、さらにいうと、これらは突き詰めていけば結局は同じことです)。しかしだからこそ、師匠はフェミズムに情緒的に反発しながら、彼女らの「ジェンダーフリー」という(どう考えても非現実的な)方策に一切、疑問を覚えていない。師匠を「親/反フェミ」のボーダーにマッピングしているのは、師匠が一面ではフェミニストにすぎないから、です。師匠は「ママなんか嫌いだ! ごはんまだ?」とちゃぶ台に引っついている子供、なのです。
 以上、「親フェミ」派の諸氏についてざっと見てみました。
 お気づきのことでしょうが、彼らはみな「フェミニズムは正しい」という刷り込みを強固になされている存在です。恐らくフェミに異を唱えると「暗黒結社」に脳にセットされた装置が爆発するのだと思います。

*8「久米泰介「男性に対する性の商品化の学問上の批判」を読む
*9「秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)」、「広がるミサンドリー(その2)」、「広がるミサンドリー(その3)

 九番勝負・ドクター差別

 さて、困りました。一応「反フェミ/反オタク」としてはいるものの、この人については語ることがありません*10。この人は一応「反フェミ」かもしれませんが、別にフェミニズムについて何ら知識はない。フェミニズムを十全に理解し、その上で詐欺行為を行っている青識、テラケイ両師匠とは対照的です。
 また、「反オタク」というのもどうかと思われる方がいるかもしれません。彼はもちろん、いわゆるオタクではないでしょうが、ことさらアンチオタクでも、ないことでしょう。さらに考えるなら、「女性専用車両ムカつく」という情念からことを起こしているという点では、ある種の「一人称性」の主です。
 ということは、もう少し右寄りにマッピングしてやってもいいのでは……という気も、しなくはありません。
 しかし同時に、ドクさべのドクさべたる所以は、「考えのなさ」「自分の見えてなさ」、そして実力行使に出る「DQNぽさ」。となると久米師匠に冠した「明らかに自分の足下の見えていない「三人称」的な感覚の主の過ち」、「何も考えていない」、「考えることに慣れていないため、ふと湧いた着想を検討することもなく振り回しているだけ」といったフレーズを、彼にも冠したい衝動に駆られる。
 彼の心の声は、迷った挙句「俺のカメラ写り、どうかな…?」としました。恐らくですが、彼の頭の中にはユーチューバーとして快哉を浴びる自分について以外は、何も入っていない。自己とは、他者との違和の集積です。シンジ君もアムロも他人とうまくやっていけないが故に、自意識に目覚めた存在でした。そこへ持ってきてドクさべにそうしたナイーブさは恐らく、ない。彼の口から出てくる「男性差別」はそうした葛藤の中から出てきたものでは恐らく、ないでしょう。その意味で彼は純粋な利己主義者、他者という存在のない者、逆に、だからこそ普通に他者とうまくやっていける者として、オタクとは違うだろうと判断しました。逆に言えば「親/反オタク」でも「親/反フェミ」ですらもない、ゼロ地点にマッピングするべき人なのかもしれませんが……。

*10 ドクさべについては随分語っているのですが、2018年度のものとしては、「ドクター差別と選ばれし者が(晒し者として)選ばれた件

 番外勝負・インセル/ミグタウ

 さて、ここでちょっと番外編です。
 とはいえ、インセルとミグタウについては、先にも挙げた八田師匠の記事に書いた通りです。
「インセル」は「女にモテない」という現状に対して、脊髄反射的な攻撃性を発露する人たち(いや、それが本当なのかは大いに疑問ですが、ひとまず、八田師匠の指摘が正しいものとしましょう)。だから彼らは内省がない。フェミをこそ批判すべきだと判断する知性、戦略性もない。ドクさべとほぼ同じ、「反フェミ/反オタク」です。だから彼らの心の声は「女死ね!「フェミ」? 何それ美味しいの」なのです。
 ひるがえって「ミグタウ」は脊髄反射的なテロに意味がないと悟り、拳を振り下ろした人たち。だから彼らは「……………。」と沈黙してしまっている。攻撃性を発露する前にいったん考えてみて、それは意味がないと悟った内省的な人たちと言えましょう。
「女にモテない」ことそのものが不幸の根源というよりは、それを原因として、極めて不幸な状況へと叩き落とされたのが彼らです。その意味では彼らが「弱者男性」である、というより、彼らはそもそも「男性の置かれた立場は弱いもの」という現実に気づいてしまった人々でである、と言い換えた方が、話がわかりやすいように思います。
 だから彼らは「反フェミ/親オタク」。兵頭新児に極めて近しい人たちです。
 しかし見てみると、両者の位置は割に離れている。
 まあ、別段深く考えたわけではなく「俺が正義だ」という大前提をスタート地点にしてマッピングしたらこうなっただけなのですが……ですが、敢えて言うならば、彼らは上野千鶴子師匠に「マスターベーションしながら死んでいけ」と言われ「はい」と頷いた人たちです。
 そこだけすくい上げれば、実はテラケイ師匠と変わらないとも言える。彼らがぼくとテラケイ師匠のちょうど中間地点に位置しているのは、それが理由です。
 ぼくは前回、かなり唐突に

ぼくが「牛丼福祉論」と並列させて論じてきた「本田透の兵器利用」者たちは案の定、ミグタウの称揚を始めています


 などと書きました。いつもお読みいただいている方以外には不親切な文章になってしまいましたが、これにもう少しだけ補足しますと、

・上野千鶴子師匠の子分、古市憲寿師匠が「牛丼屋が安いのは日本型福祉の形」みたいなことを言っていた。まさに弱者を殺すリベラルの面目躍如だ。
・しかし、オタクの中のリベラルの中には近しいことを言う者がいる。「オタクの性は二次元で完結しており、女性様に加害しないのでエラい。まさに上野様の『マスターベーションだけして死んでいけ』との命を従順に守る者であり、オタクこそフェミ様の奴隷になるのにふさわしい存在だ」というのが、そのふざけた主張だ。
・これは、ある意味で本田透『電波男』を著しく非道い形で曲解したものであると言える。

 とまー、そんな感じです*11
 ミグタウは、(八田師匠の言を信じるなら)単にあきらめて撤退しているだけで、そこにポジティブな意味は見出せない。いえ、本当に本田透の全盛期であれば、オタク文化、萌えもまた全盛期であり、ある種のハンストの意味あいもなくはなかったけれども、そうした時代が過ぎ去ったことも、既に語りました*12
 となると、ぼくたちは「インセル」にも「ミグタウ」にも価値を見出すことはできない。

*11 詳しくは「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!」を参照。
*12「3D彼女 リアルガール  ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)
3D彼女 リアルガール ――オタクが終わった後、そこには「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のオタクdisり記事とヤンキー少女漫画のメイド喫茶回だけが残った(長い)(その2)


 十番勝負・兵頭新児

 ――というわけで、まとめです。
 ぼくとミグタウの差違は、どこにあるか。
 外から観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもミグタウも「何もせず、ぼーっとしてる人」ということになるはずですから。
 しかし一方、ならばぼくとインセルの差違は、どこにあるのか。
 主張を観察した時、或いはあまり違いは見えないかも知れない。恐らくぼくもインセルも「昔に戻せと言ってる人」ということになるはずですから。
 そう、そういうことなわけです。
 一応の答えとして、「主張はインセル、行動はミグタウ」というのがまあ、今のところ最も望ましいスタンスではないかと、ぼくは考えます。
 男性問題(及び目下の地球のあらゆる問題)の処方箋について、ぼくはいつも「一昔前のジェンダー観に従った生き方をする」ことを提唱しているかと思います。
 これに対してジェンダーフリー的なスタンスの人たちから、「男性ジェンダーのネガティビティを温存する気か」との文句をねじ込まれることがありますが、「そんなこと知るかボケ」以外に回答は、ない。
 そもそも「一昔前のジェンダー観」以外のジェンダー観がこの世に現出したことは、今まで一度もないのですから、それ以外に選択肢がないのはもう、自明です。女性たちがある日突然目覚め、みな主夫を養ってくれる世界が訪れるとお思いになるのであれば、死ぬまでそれをお待ちいただければいいハナシですが、そんな与太につきあう気は、ぼくにはない。
 少なくとも「一昔前のジェンダー観」の世界は今よりも遙かにマシでしょうし、そしてその上で、「しかしそれでもまだなお、男性は夥しいネガティビティを背負っている」ことに自覚的であればいい。
(もう一つ、前回のコメントにも書きましたが、高度経済成長期の男性たちの生命は極めて蔑ろにされていたはずですが、最早人権観が更新されており、ここで男女のジェンダー観が一気に戻っても、そこまでのブラックな状態には戻らないのではないかというのが、ぼくの予想です)
 つまり、「有言不実行」というスタンスを、即ち「自分自身の内面には十全に自覚的になり、それを外に向けて発信すると同時に、急進的な振る舞いは控えるべきだ、というスタンスをひとまずは取っておくのが一番利口なのではないか、というのが「親オタク/反フェミ」であるぼくの意見であるわけです。

 というわけで、まあ、普段はあんまり語る機会のない「男性解放」のためのスタンスについて、ちょっと語ってみました。
「フェミニズム」とは男性にとって「他所の価値観に自らを預けることで正義になれる魔法」です。オタク文化とは、その辺の普通の男の子たちが、自分の内面を紙に描き出した、史上初の表現。やや乱暴ですが、ぼくはいつもそう表現してきました。両者はどう考えても真逆で、重ねあわせることは絶対にできないものです。ぼくたちはそこからしか、まずは「自分がここにいる」という立ち位置からしか、発言するべきではないのです。
 というわけで、まあ、今年もよろしくお願いします。

アイとフェミニストは共存できるか

2018-10-21 01:37:13 | 時評
 どうも、前回『新潮45』について補足記事を書くようなことを言っていましたが、ダラダラしている間に、世論の耳目はすっかりキズナアイ騒動にシフト。すんませんがやる気をすっかり削がれてしまいました。
 さて、そのキズナアイ騒動ですが、まあ、いつもと変わらぬフェミ様の通常運転ではあり、それに対して正義の怒りを燃やす表現の自由クラスタのみなさんの振る舞いも変わり映えせずなのですが、ただ、ネタが大きかったせいで、ことは予想外の拡大を見せております。
 発端は太田啓子弁護士という方で、一言で言えばNHKの番組で、キズナアイが言わばインタビュアー役として登場したことが受け身な女性ジェンダーの再生産であり、お気に召さなかったご様子でした。が、途中から、当ブログでも何度も扱った千田有紀師匠*1が参戦。太田師匠の後を引き取るように「表現の自由クラスタ」のターゲットとなり、さらには某BL作家が師匠を批判したり、某BL社会学者が師匠の側に回ったりと、事態は混迷の一途をたどっているわけであります。
 ともあれ、児童レイプを守るためにがっちり手と手を握りあっていた自分を腐女子だと思い込んでいる一般フェミがオタサーの姫になれた者、なれなかった者に分断された姿に、男社会による女の分断は恐ろしいなあ、と思い知った次第です。
 また、千田師匠が批判者に対し、「私を誰だと思っているのか」とツイートして、それが傲慢であるとバズったのですが、これは「オタクの敵扱いされているが、私だってオタク、BL好きなのに心外だ」という意味あいでなされたもので、文脈をやや無視して叩かれているのはいささか可哀想です。もちろん、「誰がお前なんか知るかボケ」という結論に変わりはないものの、フェミニスト腐女子が萌えキャラに文句をつけてくるなんてこと、今に始まったことじゃないんだから、そこ(オタク界の内部にこそ獅子身中の虫が潜んでいること)を鑑みない純朴な叩きは、問題を理解していない証拠です。
 事実、目下ツイッター界隈でフェミを全否定している連中の何割かは、今まで「フェミニストは仲間だ!!」と絶叫し、ぼくが事実を指摘すると酸鼻を極めた罵倒を繰り返してきた連中です。どうなってるんだと問いたいところですが、彼らは「我こそは純真無垢で善意の、純粋な被害者なり」と思い込み、自分の垂れ流してきたデマや罵詈雑言に対する内省などは、ゼロであらせられるのでしょう。くるくると手のひらを返す彼らの冷酷残忍さを見ていると、フェミニストが気の毒にもなってきます。
 そんなわけで、ぼくもあんまり事態に対してがっぷりと四つに組む気力もないのですが、まあ、ごく簡単に、ここに負け惜しみを記しておこうと思った次第です。

*1 当ブログの千田師匠の記事は以下を参照。

夏休み千田有紀祭り(第一幕:メンリブ博士のメンズリブ教室)

夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)
夏休み千田有紀祭り(第三幕:スーパーゲンロンデンパ2 希望の学説と絶望の方向性)

夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)

ただ、まあ、いかなる場合も、いずれにせよネットの「叩いていいとなった相手を数の論理でボコりまくる」傾向は好きになれません。みなさんもこっそり楽しんでくださいね。

 ――さて、ここしばらく、ぼくの物言いには上のような、フェミニストに同情的なものが増えています。
 怪訝に思う方もいらっしゃるでしょうか。
 本ブログの愛読者の方にはご理解いただけていると思いたいところですが、念のためにちょっとだけ詳しく申し上げましょう。
 以前、とある自称漫画評論家の方が、萌え系のレズエロ漫画をdisっていたことがありました。何しろ本当に大昔のことなので、記事も手元にありませんし、かなり記憶も曖昧になってしまっているのですが、本当に、フェミニズム丸出しの「レズ漫画は女性を蔑視している(大意)」という、ただそれだけのものでした。ぼくは大層に驚きました。この御仁はずっとエロ漫画の専門家を自称していたのですから。
 言うまでもなくこの方、ゴリゴリの左派でフェミニズムの信奉者。しかし同時にエロ業界に深く関わっている人でもありました。もう、焼き鳥屋を本職にしている愛鳥家みたいな、わけのわからないハナシですが、お察しの通り、こういう御仁は大変に多い。
 この方はオタクというよりは世代的には「エロ劇画」「三流劇画」の人です。といっても、それらがどんなものかが、今となってはわかりにくいかもしれません。『漫画エロジェニカ』とか、何かそんなんです。あまりピンと来ない方は上のフレーズで画像検索してみていただきたいのですが、まあ、いわゆる「萌え」とは一億光年ほど離れた、エロを感じるにはかなり厳しい絵が画面に並ぶことになるかと思います。70年代辺りに一時代を築いたこれら表現ですが、80年代より「萌え」系の美少女漫画――劇画的な絵とあまりに異なるため、当時は「ロリコン漫画」と俗称されていました――に取って代わられ、一時期は全滅したかに見えたモノが……実は近年というか、ここ十年くらい、廉価版エロゲなど、こうした絵が多くなってきています。正直、ユーザー層が見えてこないんですが、五、六十のオッサンがエロゲやってるんでしょうかね。
 さて、その「エロ劇画」ですが、左派運動と非常に縁の深いものでした。ウィキペディアの「エロ劇画誌」の項を見てみると、「三流劇画ムーブメント」という小見出しが作られ、

これは、当時の三大エロ劇画誌と言われた『漫画大快楽』『劇画アリス』『漫画エロジェニカ』の編集者(亀和田武、高取英ら)によって打ち上げられたもので、言わば学生運動のような革命思想をマンガ雑誌の世界に持ち込んだもので「劇画全共闘」とも呼ばれた。


 などと書かれています。エロ漫画界は左派的な勢力が支配的だったわけですね。全共闘嫌いの大塚英志氏がことあるごとに毒を吐いていたのも今は昔です。
 しかし萌え的な美少女系エロ漫画はそうした「エロ劇画」の影響があるとは言い難く、全く別な場所、つまりアニメなどを源流に発生してきた表現としか言いようがありません。
 両者の違いを端的に説明することは難しいのですが、「萌え」系漫画は二次元に描かれた美少女そのものにある種の欲望を抱くものであるのに対し、「三流劇画」はあくまで「女体」を「想起」させるきっかけとしてのツールとして絵を利用していると言えるのではないでしょうか。「官能小説」を読む時、文字そのものに欲情しているわけではなく、その文字によって想起されるイメージに欲情しているのに、これは近いでしょう。そのため、こうした漫画ではキャラクターに「百恵ちゃん」的な芸能人の名前をつけることが普遍的だったように思います(これはまあ、乏しい知識で書いているので、話半分に聞いていただきたいですが)。
 ともあれ、これは「サブカル」とは分断されたところに「オタク文化」が発生したことの、一例なのです。
 しかし、他のサブカルもそうであるように、彼らはコンテンツとしては衰退しているものの、イデオロギーとしてはオタクへの一定の影響力を保持し続けている。ぼくはよくオタク左派を「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」とからかいますが、それは上のような流れを踏まえてのものであるわけです。
 ともあれ、フェミニズムにずっぽりハマった漫画評論家の先生が萌え系のレズエロ漫画を差別的であると言い募った。ならばオタクは悪だ、エロ漫画は女性差別表現なのだから(レズエロ漫画が女性差別なら、当然レズじゃないエロ漫画も女性差別でしょう)弾圧せよ、いや弾圧はしないまでも肯定すべき表現ではない、となるはず。
 しかし言うまでもなく、上の方はずっと表現規制反対運動にかかわっていらっしゃいます。当たり前のことです。「表現の自由クラスタ」はフェミニストのお友だちなのですから。うぐいすリボンなどといった組織が上野千鶴子師匠とデートして、彼女に「ポルノは否定しない」とリップサービスさせたこと、そして当時、師匠の出した本にはそうした主旨の文章と共にポルノはおろか、売買春を全否定する文章が載っていたという混乱ぶりを見せていたことも、何度も繰り返し指摘していますね*2
 彼らは一体、どうやってその矛盾に辻褄をあわせているのでしょう。まあ、何とはなしに見当はつくのですが、それについては後で述べるとして、先に急ぎましょう。
 フェミニストはとにもかくにも「ジェンダー規範を消せ、ジェンダー意識を革新せよ」と唱え続けます。そしてこれはまあ、左派の「革命は正義」といった理念と合致します。
 彼らの中のオタクに敵対的な者は「オタクのジェンダー規範は旧態依然としているからけしからぬ」と絶叫し、オタクに親和的な者は「オタクのジェンダー規範は革新的だからけしかる」と絶叫します。これはリクツの上ではどちらもそれぞれもっともですが(一例をあげれば、エロゲのハーレム構造などは旧態依然としており、男の娘は革新的でしょう)、しかしこちらとしては、けしからぬだのけしかるだのといった価値判断は置けばいいのに、という感想しか、湧いてきません。上の誉められたりケナされたりしている表現はいずれも単にぼくたちの「欲望」の発露であり、それを彼ら彼女らからイデオロギーによる評価をされる筋合いでは、ないのです。その意味で、上の両者は結局は同じ穴の狢です。一方が仮に口先でオタク文化を誉めていても、上のように「自分たちのイデオロギーに適うから」評価しているだけに過ぎません。そんな人たちと、ぼくたちは歩を共にしていいのかとなると、疑問を覚えないわけにはいかないのです。
 ともあれ、そんなこんなで彼らはまずフェミニズム的世界観を絶対の正義であると信じて、オタク文化について好き勝手なことを言い続けてきました。ところが今回、自分をオタクだと思い込んでいる一般リベはまた一歩、フェミニストから距離を取ったことになります。上に書いた漫画評論家の先生も言うまでもなく千田師匠バッシングに乗っかっていて、唖然とさせられました。
 彼ら上層部の近年までの戦略は「まなざし村」、「ツイフェミ」、「リベラル/ラディカルフェミニスト」といった非実在概念を捏造することによる、フェミの延命措置というものでした。が、今回の事件に象徴されるようにここしばらく、彼らは「フェミ」を主語に批判をするようになってきた。これは、上層部にとっては鉄砲玉の暴走であり、頭を抱えているのでは、というのがぼくの考えだったのですが、ここへきてその上層部までがフェミを全否定するようになってきた。
 日を追って彼ら全体がそうした延命措置をあきらめつつあるわけです。今回も千田師匠たちを「似非フェミ」「自称フェミ」と呼びつける連中は絶えずいたものの、上のようなタームはあまり聞かれなかったように思います。
 つまり、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」のフェミ擁護はもう、後退を余儀なくされている感があるわけです。しかし、ならば彼らは改心したのかとなると、そこまで信用することはしにくい。
 彼らの「転向」の理由は、一つにはオタクの味方を演じるフェミ(というかネオリブ)の存在があるからこそでしょう。もちろん彼女らは「表現の自由を守る」というリップサービスをするだけなのですが(もちろん、それは本当に口先だけなのですが*3)、それを彼らが受け容れているということは、結局彼らのフェミ批判も、それ以上のものではない、ということです。
 そうした彼らの欺瞞を見る限り、状況がよい方向に向かっているとはとても思えないわけですね。

*2 京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?
*3 秋だ! 一番ネオリブ祭り


 さて、最後にでは、彼らは自分たちの矛盾にどう辻褄あわせをしているかについて、書いてておきましょう。
 もちろん彼らの口から納得のいく理屈を聞くことは不可能でしょうが、しかし想像することはできます。
 即ち、彼ら彼女らは、「自分もオタクだけど問題視している」といった自意識を持っているのではないでしょうか。このフレーズは少し前、ツイッター界隈でフェミニズムに親和的で萌えキャラに批判的な意見を持つ層が放った言葉です。「自分もオタクだが、オタク的表現には問題がある」というわけですね。早速togetterで批判的にまとめられたりしましたが、恐らくは「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」もまた、同じような考えを抱いていると想像できます。
 これは、オタクという存在が常に内外から否定されて続ける種類のものであること(「オタク」を主語に世間へとカウンターを繰り出しているのは、実は「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」だけです。オタクの集まる掲示板などにいってもオタクそのものが常に否定的に捉えられていることはみなさん、ご存知でしょう)、サブカル君が自分のことをそのオタクの兄貴分だと信じて疑っていないことを考えあわせれば、順当な推測なのではと思われます。
 随分前に、青識亜論師匠と議論をした時、彼は上野千鶴子師匠をかばって、こんなことを言い出しました*4

上野女史の場合、フェミニストの本家本元のジュディス・バトラーがそうだったように、ポルノは差別的な言説も含んでいるが、それでも政府当局による規制は「ムリだしムダ」というお立場じゃないでしょうかね。

バトラーなどは、ポルノの自由を認めた上で、ポルノを構成する表徴を転倒させ、反差別の力にしてしまおうという豪毅なロジックを使いましたが、上野女史もこうした流れを汲むのではないかと勝手に思っています。



 そう、彼はジュディス・バトラー師匠が「ポルノの構造を変えよう」と主張していることを、肯定的に紹介しているのです。
「変えようとしている」ってアンタ、それを規制っていうんじゃないでしょうかw
 上野師匠は「ポルノは女性差別だから否定する、しかしエロティカはそうではない性表現であり、女性も楽しむことができる」とか言っていたので、彼女も同じ考えだとの青識師匠の想像は恐らく、正しいことでしょう。つってもそもそも、そのエロティカがどんなものかが全然見えてこないのがすごいですが。
 エロは全てBLにするとか?
 やっぱり規制じゃん。或いはフェミ様の規制はキレイな規制なんですかね。
 ちなみに千田師匠も『女性学/男性学』において、バトラーを引用して丸きり同じ主張をしております*5
 そう、青識師匠は千田師匠の同志だったのです。
 彼ら彼女らは共に「性の革命」を是とする「表現規制派」でした。
 もし彼らが「無理強いはしない、我々は人々が『セクシュアリティの正しい在り方』に目覚めるまで善導していこうとしている存在だ」と言うのなら、やっぱり千田師匠の同志でしょう。彼女だって具体的に反対運動などをやっているわけではないのですから(ただし、*5で引用した記事を見れば、恐らく千田師匠は国がかりの規制も視野に入れている人ではありますが)。
 フェミニストと自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは、仲よしの表現規制派でした。
 彼らはフェミの中の、「闇の大首領」に逆らった者への定期的な見せしめを続けながら、今日もフェミとデートを続けています。それはDV夫と依存妻のような、ジェンダー規範に則った、とても美しい男女の愛の営みのあり方であるなあ、と思わず思ってしまったのでした。マル。

*4 強敵! ストロッセン現る! -フェミニズムを批判するフェミニストについて-
*5 夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)


千葉県我孫子市の女児殺害事件について

2017-05-06 18:39:52 | 時評



 ちょっと時期を逸した感がありますが――まあ、ぼくは大体、いつもやることなすことワンテンポ遅れるのですが――我孫子市で起きた女児殺害事件について。
 もちろん、現時点では逮捕された容疑者はあくまで「容疑者」であり(また、本人も黙秘しているようであり)軽々しいことは言うべきではないのかも知れませんが、「みんな」がいろいろ言っているのに乗り遅れたくないので、しょうがありません。あくまで「容疑者」を「犯人」と仮定してのお話なのですが、感じたことをまとめておきたいと思います。
 まず、今回ぼくが本件に対して抱いたのは、「随分と盛りだくさんだよな」という感想です。
 彼は妻子持ちであり、保護者会の会長職に就いており、言ってみれば社会的に信頼される教育者的立場の人物でした。
 つまり、こうした事件が起きた時に仮想されるであろう一人暮らしの独身男、社会的地位も低い人間といった犯人像とはどうにもつながらないわけです。
 しかし一方、オタクと思しい側面も報道されています。
 書店で『新潮』と『文春』をぱらぱら眺めたところ、前者では学生時代にアニメ絵を描いたり「アニオタの読むようなエロ本(確か、このような記述でした)」を読んだりしていたと伝えられ、後者では「裏物のDVD」のマニアであったとされています。「裏物」といっても、いわゆる小学生女児の水着DVDの類であり、裏は裏だが違法性はない(と、記事を読む限り想像できる)ものですが。
 つまり、こちらの方はこうした事件が起きた時に仮想されるであろうロリコン男といった犯人像に結びついてしまう。
 盛りだくさんすぎて、みなさん、お好きな要素だけサラダバー形式で選んで、お好きな論を展開なさってはどうでしょうかねと言いたくなってしまうわけです。
 言うまでもなく、今までこの種の問題がある度に、オタクを守ると称して先頭で旗を振る、「何らかの政治的な意図を持った、リベラル寄りの人々」――まあ、ぼくがいつも言っている「表現の自由クラスタ」――は「子供への性犯罪はペドファイルによるものより、近親者によるものの方が多い」といったロジックを好んで多用してきました。しかし「ペドファイル」と「近親者」は対立する概念ではなく、当然、「ペドファイルの近親者による犯行」が多いとの論法も成り立ち得る。正直、穴だらけのペド擁護論を、まるでマスゲームの如くに異口同音に繰り返すのがどうにも気持ち悪く、ぼくの「表現の自由クラスタ」への不信感の一因となっておりました。また、これはどうしたってフェミニズム的な家族解体指向と親和性がある主張であることも、疑い得ません。
 本件は、そうしたロジックの穴を、わかりやすく絵解きしてしまいました。
 まあ、もちろん、一方では「世間一般の、子供への性犯罪は怪しげな変質者である独身者によってなされるとの幻想」に穴を開けたとも、言えるでしょうが。

 さて、ネット界隈では本件の報道に対し、「オタクバッシングだ」との声が溢れました。
 或いはぼくの知らない「バッシング」報道もあったのかも知れませんが、少なくとも上のものはそうではないでしょう。しかしそうしたレベルの報道にすら激おこな、「犯人の趣味まで報じる必要がないのに何故報じるのだ」といったような声が聞かれたことには、いささか当惑せざるを得ませんでした。
 むろん、犯人の小学校時代の作文などを引っ張り出すような報道の仕方は、誉められたものではないかも知れません(だからといって何も報じないわけにもいかず、そもそもそれこそ「表現の自由クラスタ」の主張ともバッティングすると思うのですが)。が、上の「何故報じるのだ」発言は、そうした一般論から出て来たものとは違うでしょう。
 ここには、「無辜で清浄な被害者であるオタクと、凶悪な加害者であるマスゴミ」という対立構造が仮想されているのです。
 しかし、上の報道が正しいとすれば、「犯人」がオタクである可能性は少なくない。
 彼が嗜んでいたという「アニオタの読むようなエロ本」やら「裏物のDVD」も、どのようなものか、詳しいことはわかりません。オタ向けのエロ漫画といっても巨乳の人妻の登場するものだってありますし、水着DVDといってもモデルが女子高生ならば、ペドファイル向けではない。しかし仮にそれらがペドファイル色の強いものであったとしたら、犯行と相関関係がないとも言いにくくなってきます。
 ぼく自身はオタクとペドファイルは全く別物であるし、あくまで分けて論じるべきだと思っています。今回の「犯人」についても、「オタクではないが、ポルノ的リソースをオタクコンテンツに求めたペドファイル」といった解釈も大いに成り立ち得るでしょう。実写の児ポは貴重でしょうから、あくまで代替物として「ロリコン漫画」を収集していたという考えです。が、それでも相関関係があることには変わりないし、そしてその相関関係は「彼ら」が好んで例示する「犯人はパンを食べていた」よりは大きなものであることは、疑い得ません。
 そして、実のところ「彼ら」はこうした(オタクとペドは別だという)「切断操作」を許さないことは発言を見ていれば明らかであり、ここもまた、「彼ら」に不信感を抱かざるを得ないのです。
 この事件の「犯人」が捕まる直前、(本件とは関係ない、オタクと性犯罪の関連についての話題で)トゥゲッターで議論していた相手が「オタク的な文化を消費していた者が性犯罪に走った例はない」といった主張をして、絶句したことがありました。想像ですが、この主張は「ポルノは性犯罪の原因にはなり得ない」との「因果関係」否定論を拡大解釈し、「相関関係」にまで押し広げてしまったものであるように思われます。
 むろんこれは極端な例にせよ、近年オタクの被害者意識はいよいよエスカレートする傾向にあるように思われます。
「彼ら」のトップにいると考えられる文化人――即ち、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」は一昔前まではオタクをゴミクズのように罵っていたにもかかわらず、オタク文化が市民権を得るに従い、手のひらを返した上、揉み手を始めた人たちなのですが。そこにあるのは「オタク」が「みんな」と呼べるような一定のマスにまで育ってしまったがため、それを利用することに乗り遅れまいとしている姿です。
「彼ら」は「オタクを悪者であるかのように報じる、マスコミの偏向報道」をこそ、諸悪の根源であるかのように考えている節がある。また、明らかにそのような報道があったとしたら、それは確かに正されるべきではある。
 しかし「小学生の児童をレイプする漫画を読んで喜んでいたオタクが実際に小学生の児童をレイプした」としたら、それはそのように報道されてしまうのは仕方がないし、「そのようなオタク」がある程度、白眼視されるのも仕方がないでしょう。
 どうも「彼ら」の論調を見ていると、「小学生の児童をレイプする漫画を読んで喜んでいるオタク」がニコニコと実在の小学生の児童と手をつなげる世界をこそ、正常であると考えている節があります*1。そして、「そうした、本来の正しき社会」の建設を阻んでいるのが、オタク――否、ペドファイルへの「偏見」をまき散らすマスゴミという名の悪者である――「彼ら」はそう考えているように見えます。
 しかし、それは非現実的な妄想と言うしかありません。
 そもそもこの種の「マスコミの影響論」は「彼ら」の「性犯罪者はポルノの影響を受けなかった論」と真っ向から対立しますし、「彼ら」が親の敵の如く憎んでいる(フリをしている)「ラディカルフェミニズム」*2と全く同じ考えなのですが。

*1 事実、NAMBLAという「子供とのセックスを合法化せよ」と主張をする少年愛者の組織がアメリカにあることを、ご存じの方もいらっしゃるかも知れません。
*2「彼ら」は「ラディカルフェミニズム」という言葉を、「ポルノに反対するフェミニズム」という間違った意味で(恐らく確信犯的に)流布させていますが、実際には「マスコミなどの影響下にある男女のジェンダー、セクシュアリティを正さねばならぬ」とするフェミニズムをこそ、こう呼ぶのです。これは即ち、現行のフェミニズムはほぼ100%ラディカルフェミニズムであることをも、意味しています。詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照してください。


 そんな「彼ら」は度々、「オタクがマスコミから攻撃を受けた事例」としての「宮崎事件」を引きあいに出します。
 みなさん、特にお若い方、ご存知でしょうか、「宮崎事件」。
 何しろ1988年のことです。オタク以外には――いや、下手をするとオタクにも――すっかり忘れ去られた事件です。四人もの幼女が殺害された凄惨な事件の犯人がオタクで、また、当時は「オタク」という概念そのものが一般的でなかったため、ある意味オタクの、強烈なネガティビティをもってのマスコミデビューとなってしまったという事件だったのです。
 その時にもオタク界隈では「宮崎くんはオタクではなかった」的な言が流通したのですが、そんな中で大塚英志氏は「そうじゃない、宮崎くんはオタクだった。それを引き受けた上で彼が好んだオタク文化を擁護しよう」との主張を展開したのです。
 確かに大塚氏の言はいささか宮崎くんに肩入れしすぎのものであって(これは逮捕当初の流れがいかにも冤罪っぽいものであったことが関係しているように思われます)、文化人連中や彼が愛して止まない大少女漫画家から「格好つけやがって」「殺された少女を蔑ろにしている」といった(完全に不当な)言いがかりをつけられていたことを思い出します。
 前者は、確か糸井重里。大塚氏の「ぼくの中の宮崎くん」的な表現に噛みついたものでした。
 もちろん、犯罪者に対して「切断処理」をすることを旨とする目下の「サヨしぐさ」からすれば、大塚氏のやり方はいささか「宮崎萌え」のすぎるものではありました。今こう書いて気づきましたが「宮崎萌」ってタレント、いそうですね。
 しかし大塚氏の主張は、あくまで宮崎くんの犯行そのものは裁かれなければならないけれども、彼の愛したオタク文化は守らねばならないというものだったのです。更に言えば、オタク文化と事件との間に一切の関係がないとするのもムリがある、「エロ漫画に刺激を受け、犯行を」といった因果関係論は否定すべきかも知れないが、「ロリコンだからロリコン漫画を読んでロリコン犯罪を犯した」といった相関関係までは否定できない。そこをそれなりに引き受けていくことが誠意ある態度だ……まあ、これはぼくの解釈も入っているかも知れませんが、当時の彼の主張は、要するにそういうことでした。
 その後、オタク文化が隆盛するようになって、大塚氏は「俺はお前らがでかい顔するために身体張ったんじゃねーぞ」などと憎まれ口を叩いておりましたが、そう言いたくなる気持ちもわかるのです(ただし、彼の言う「お前ら」は恐らく岡田斗司夫氏辺りが想定されていたと思います。ぼくとしてはそこに、また別な人たちの名前を入れたいところなのですが……)。

 ともあれ、目下の「ペドファイル被差別者論」はそうした考えるべき諸々を見事なまでに切り捨て去った、最近のリベラルに顕著な「仲間内でだけ盛り上がることだけが目的化した、まかり間違っても外の世界では通用しないレトリック」にしか思えません。
 そして、繰り返しになりますが、「在特会」のノウハウが左派のパクリであるのと同様、「彼ら」の論法はLGBTのパクリで成り立っています。ぼくはずっと、「オタク=セクシャルマイノリティ」論者のもの言いを批判して来ました*3。「彼ら」の狙う、オタクの「LGBT」への仲間入りは絶対に叶わないし、万一叶ったとしてもそれはオタクに決して益するものではない、と。
 LGBTは「名誉女性」として「被害者力」を獲得しましたが、オタクは決して、「女子力」の主ではありません(もっとも、「オタク=草食系男子」の図式は成り立つとは思います。ですが、逆にこうした図式を、一体全体どうしてだか「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」は狂ったように否定し続けています)。
 つまり、ぼくたちが殊更に被害者意識を声高に叫んだところで、LGBTの獲得している「女子力」というスキルを持っていない以上、彼ら彼女ら以上にウザがられる、「自分をセクシャルマイノリティだと思い込んでいる一般人」になるのがオチなのです。
 更に、上に挙げたような非現実的な世界観を振りかざすようになったら、それは本当に、「単なるヤバい人」となってしまいます。ここから見て取れるのは、「被差別者バッヂ」さえ身につければ、自分はいついかなる場合も正しい側に立てるのだという、「彼ら」ののぼせ上がりようです。それは、全てを被害者/加害者の二元論に還元しようとするあまりにも幼稚な試みであり、その過程で、何よりも忘れてはならない「ペドファイルの加害者性」をすっぽりと置き去りにしてしまっているのです。
「男性学」研究家である伊藤公雄師匠は拙著『ぼくたちの女災社会』を「男性を完全に被害者という位置に置いた書」と評しましたが*4、これはかなり的確な形容です。拙著のしたことは端的に表現すれば、世間が、分けてもフェミニズムが男女ジェンダーの両価性を全く顧みず、「女性を完全に被害者という位置に置い」ていることへの疑問の提出でした。拙著はそうした「片手落ち」に対する相互補完を目指した書である、と言えます。
 しかし今、フェミニズムに忠誠を誓った「彼ら」が「ペドファイルを完全に被害者という位置に置」きつつあるのです。「彼ら」が拙著と異なり、相互補完を目指していないことは、例えば上に挙げた空想科学的な現状認識が象徴していると言えましょう。
「自分たちは被害者だ」という甘美な自意識は一度持ってしまうと、そこから動くのは困難です。それはフェミニズムがそうであったように阿片であり、しわ寄せは「更なる弱者へと行く」ことはもう、決定事項なのです
 ぼくたちは『薔薇族』の編集長が小学生とのセックスを称揚している証拠を目の前に突きつけられても、頑として認めなかったフェミニストたちのことを思い出し、他山の石とすべきでしょう。

*3「新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク」を読む
*4 夏休み男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』

2016年女災10大ニュース

2017-01-06 22:04:31 | 時評

 みなさん、年の瀬押し迫る今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
 波瀾万丈の2017年も早くも六日を過ぎ、残すところ後、僅か十二ヶ月足らず(ry
 というわけで恒例の10大ニュースです。もっとも、一般的なトピックスはあまり扱いません。
 あくまでぼくの目に止まった、ぼくが重要であると感じたネタが採り挙げられることになるのは、例年通りであります。

【第10位】日本死ねブーム

 はい、第十位はこれです。
 確か、最初は年度初頭にとあるブロガーさんが書いたフレーズ、「保育園落ちた、日本死ね」が話題になり、そしてまた年末、流行語大賞で蒸し返された、という経緯じゃなかったでしょうか。
 そもそも保育園自体が増やされている、また育児施設が足りないと行っているのは都心のパワーカップルだけではないか、などといった疑問*1を全てスルーして、左派の人々が全力でこの「流行語」を支持している様が、大変に奇観でした。
 もちろん左派思想とフェミニズムは完全にイコールではないし、あまり「左派ガーーーー!!!」みたいなことは言いたくないのですが、本件は近年、いよいよ左派が依って立つ根拠を失い、フェミニズムという今にも沈みそうな小舟にたかっているということの、一つの例ではないでしょうか。彼ら彼女らの姿は見ていて気の毒であると共に、いよいよ船の沈むことが確定した時、ものすごい逆切れを始めそうだとの予兆も感じさせ、何だかきな臭いですね。

*1 詳しくは「なぜ保育園を増やしても子供の数は増えないのか ~少子化問題の本当の原因~」などを参照してください。


【第9位】『シン・ゴジラ』ブーム
【第8位】『君の名は』ブーム


 これらについてはASREAD様で詳しく書かせていただきました*2。
 基本的には両者とも、大衆が一般的な男女ジェンダーに基づいた物語を求めていたことの証明である、とまとめてしまうことができるかと思います。その意味でぼくは『シン・ゴジラ』は『シン・レッドマン』、『君の名は』は『シン・トリプルファイター』である、と論じました。
 もっともそれ故、『君の名は』はロマンチック・ラブ・イデオロギーに忠実な、ある意味では「萌え」以前の物語となってしまっています。
 岡田斗司夫氏は「萌え」の本質を「男女平等」であると喝破しました。ロマンチック・ラブ・イデオロギー(という名の、リアル世界のルール)は「女の子をゲットするために、男の子は犠牲を払う必要があるのだ」という「女尊男卑」だから、というわけです。
 基本、良作とも極めて優れた作品であり、またヒットは大変喜ばしいこととは言え、『君の名は』の成功により、閉塞感の漂うオタク業界が「萌え」を捨て、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに回帰するのでは……と考えると、ちょっとぼくとしては不安です。

*2 以下がASREAD様の当該記事へのリンクと、取りこぼした所見です。
http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1135329
http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1088024


【第7位】ヒラリー終了
【第6位】町山師匠終了



 これも「左派が云々」といった類の話題ではあるのですが。
 まず、ヒラリー。何しろ政治に興味が無く、この人がガチガチのフェミニストだということ自体を、ぼくは知りませんでした。しかし今回の大統領選でトランプを支持した比率は、男性よりも女性の方が高かったとのこと。左派もフェミニズムも、完全にご神体にしていたはずの女性から見捨てられているということです。
 この大統領選における町山師匠の立ち振る舞いも、いささかお粗末なものであったことは、これもASREAD様の記事に書きました*3。ここで師匠はオタクを悪役に仕立て上げ、映画に対する女優さんが美人じゃないというブーイングを「女性差別」であると言い立て、左派がオタクの、「表現の自由」の敵であるという事実を誰の目にも明らかにしました。
 が、この後の師匠は「大麻を吸えばアニメキャラが動いて見える云々」といったツイートをして、また批判を浴びておりました。「ピンチになって慌ててオタクに媚びを売っている」ようにも、「自分がオタクから反感を買ったとは夢にも思わず、いまだオタクは格好いい俺様に憧れているのだという妄想に浸り続けている」ようにも思え、心配になってくるのですが、いずれにせよ見ていて気の毒であると共に、いよいよ船の沈むことが確定した時、ものすごい逆切れを始めそうだとの予兆も感じさせ、何だかきな臭いですね。

*3 「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その1 トランプを支持するオルタナ右翼とは?

【第5位】男性差別ブーム
【第4位】男性学ブーム



 すんません、いよいよ強引になって参りました。
 四位の「男性学ブーム」についてはおわかりかと思います。
 一昨年も本ブログでは「男性学祭り」を開催し、「騙されるなかれ」との警告を発しました*4。
 実はニコブロの方では去年も開催したのですが、こちらの方ではまだ反映していません(早急にしますので待って)。
 が、一昨年は田中俊之師匠の大活躍と、かつてのメンズリブについてのみ語っていたのに比べ、去年は田中師匠以外の著作が目立ったことが、採り挙げた書籍からもおわかりになるかと思います。即ち、「男性学ブーム」にそれなりに広がりがあったのでは……と思われるのです。
 五位の「男性差別ブーム」、そんなことはなかったぞと言われるとまさにその通りで、ぶっちゃけネタがなかったがためのでっち上げなのですが、例えば以下のようなニュースはどうでしょう。

3人に1人が「男性差別」感じていることが判明 「女性専用車両」や「レディースデー」に不公平感を抱く人も

 ニコニコニュースで採り挙げられたものです。
 まあ、正直内容としては今更な感じではあるんですが、一般的なニュースサイトで、しかもイデオロギー色のないこのようなニュースが採り挙げられたこと自体は、それなりに価値があると思います。
 また同様に、去年は(想像するに先行する「男性学」と称する書籍のブームに影響を受けて)女性の書き手による「男性の辛さ」を語る書籍が何冊か出されました。

海原純子『男はなぜこんなに苦しいのか
奥田祥子『男という名の絶望 病としての夫・父・息子


 まあ、ぼくは『こんなに苦しいのか』と、奥田さんが大分前に出した『男はつらいらしい』を読んだだけで(奥田さんは一昨年も『男性漂流』というのを出されていました)、これらはあくまで女性が男性に取材したルポタージュ以上のものではなく(つまり、批評性という点において特筆すべき点はなく)正直、ぼくからするとあまり語ることはないのですが、これらは同時にフェミニズムやその下部組織たる男性学界隈の影響の希薄な、バイアスの比較的ないモノが多かったように思います。
 恐らくこれからもしばらくはフェミニストの使徒である「男性学」者か、そうでなくとも女性の書き手によってしか、男性についての本は書くことが許されない状態が続きましょう。
 いずれにせよ、こうした声はフェミニズムに回収され、抹殺されるというのが今までの流れであり、今回もまたそうなって行く可能性は充分にあります。
 ですが、ホンの僅かな可能性もあるのでは……みたいな期待で、一応本件を五位としてランキングさせた次第です。

*4 一昨年のものは「夏休み男性学祭り」。去年のものは「秋だ一番! 男性学祭り!!」。読みたい方はすみませんが、これらワードでググってみてください。

【第3位】ツイッターレディース、まなざし村ブーム
【第2位】リベフェミブーム



 はい、三位、二位とも「非実在なもの」に対するブーム、一種の「怪獣ブーム」とでも言えましょうか。
「表現の自由クラスタ」の流布させ続けているラディカル/リベラルフェミニズムについてのウソについては、多くを繰り返しません*5。彼らがまた、それと類似の「フェミニズムの延命策」として、「ツイフェミ」だけが悪者で「真のフェミ」という名の正義の味方が他にいるのだ、とのデマを流していることについても、繰り返し述べています。
 が、上の「まなざし村」は恐らく一昨年の年末頃、そして「ツイッターレディース」については去年になって言われ出したことなので、ここにランクインさせました。
「まなざし村」については以前の記事を見てもらうとして*6、「ツイッターレディース」について。
 実はぼくは具体的な「ツイレディ」について多くを知りません(追っかけている人たちに聞けばいい話なんですが……)。しかし「キンタマつぶし云々」であるとか「ジャップオス」であるとか、並外れて口汚く男性への憎悪が度を超している人たちを、そのように呼んでいるようです(商業誌で「男は死に見あうだけのメリットを得ている」「男は産業廃棄物」などと絶叫する「プロフェミ」の方が遙かに並外れて口汚く男性への憎悪が度を超しているように思うのですが……)。
 ぼくも一度絡まれたことがあり、恐らくこの人たちが「ツイレディ」なのかなと思われる共通項が何となくわかったのですが、彼女らには「アカウントは数ヶ月前に作られたもの」「フォロワー数などはごく僅か」といった特徴があるようです。あくまで想像ですが、これはフェミたちの「毒吐き垢」なんじゃないでしょうか。
 そしてまた、去年は「リベフェミ」ブームでもありました。
 そう、「表現の自由」クラスタは「リベフェミ」としてピルつき師匠を神であるかのごとく持ち上げているのですね。何しろ、原田実師匠すらもが彼女のデマを信じ、RTしていたのですから。実のところピル師匠についてはかつての(70年代頃の)ウーマンリブの事情について詳しかったり、業界で古株なのかな、と思えることがあります。その意味では、彼女は世代的に「リベフェミ」であると言えなくもないかも知れません。また、彼女の主な主張はピルについてのもので、となると彼女を「ピルにまつわる法整備を目指しているフェミニスト」と解釈した時、彼女を「リベフェミ」と呼ぶことは不可能ではありません。
 しかし、それだけでは、「表現の自由クラスタ」が彼女を殊更に持ち上げる理由が理解できません。彼女はものすごい限定的な主張をしているだけの、しかも社会的影響力のほとんどない人なのですから、彼女を持ち上げれば持ち上げるほど、「彼女以外、持ち上げるべきフェミがいない」ことがバレてしまう。
 また、そもそも、彼女はおっぱい募金に反対しており、またバッドフェミニストについても肯定的なことを言っておりました。「表現の自由クラスタ」は「リベフェミ」という言葉を意図的に「エロに寛容なフェミ」という意味にねじ曲げ、またピル師匠自身、そのイメージ戦略に乗っかっていますが、別に彼女はエロに寛容でも何でもなかったわけです。そうした人物を、「我らオタクの味方」と御輿に担ぎたい人たちの気持ちが、ぼくには全くわかりません。
 ぼくは彼女を、「テレビ番組に面白半分に採り上げられた田舎のラーメン屋」に例えてきました。事実、多摩湖師匠(最近目立ちませんが、持ち上げられているもう一人の「リベフェミ」です)が「これからリベフェミの時代が来る」的なツイートをしていたのを見たことがあります。
 しかし……言うまでもなくテレビ局の扱いというのは面白半分なもので、ラーメン屋は使い捨てにされる運命にあるのです。
 ぼくが彼女らの運命を案じる理由。それは、「表現の自由クラスタ」には他にも身近に「プロフェミ」がいるにもかかわらず、彼女らを「真のフェミ」であるとして担がないことが、極めて不自然だからです。
 著作がいくつもあり、学会や出版界での実績があり、オタク界に地位と影響力を持つ大勢のフェミニストたち。そんな彼女らの名前が「表現の自由クラスタ」の口に上ることがなく、翻って田舎のラーメン屋特集ばかりしている理由とは?
 そしてこれは、仮定に仮定を積み重ねた推論ですが、「ツイレディ」とやらがここ数ヶ月でいきなり「爆誕」した事実。それらはどう符合するのでしょう?
 一昨年、オタク界でそれなりの地位を持つ腐女子フェミニスト、柏崎玲於奈師匠がエロフィギアを批判して、「オタクの敵」として集中砲火を浴びました。
 誰かが、この悲劇を二度と繰り返すまいとして、策を講じた――といった空想を、ついしてしまいたくなるのです。

*5 「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について
*6 「まなざし村という言葉を使いたがる人たちをまなざしてみる
京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?


【第1位】ミサンドリーブーム

 一位はこれです。
 前回述べた通り、世間で使われている「ミサンドリー」という言葉を調べていった時、そのほとんどは「男性差別」の言い換え、程度のものでしかないと思います。それは丁度、「ミソジニー」が「女性差別」の言い換えでしかないという、世にもお粗末な単語であるのと同様に。
 しかし「ミソジニー」という言葉にはある種の新しさがありました。それはフェミニストがこの言葉を発する時、例外なく「ワタシを、ワタシの望む形で愛さない男」という意味でのみ使っているということです。即ち、「ミソジニー」という言葉はフェミニズムが被愛妄想そのものであり、全男性が自分の欲望を満たすためのみに存在しているのだという妄想であるという事実を、どんな馬鹿にでも理解できるよう提示して見せてくれる役割を果たしたわけです。
 それと同時に、「ミサンドリー」という言葉は、元から男性と女性に「愛され格差」があるのだとの事実を指摘する意味たり得るわけです*7。
「ミサンドリー」とは「ツイレディ」とやらの特徴ではなく、フェミニスト全体の特徴であること、否、フェミニストのみならずリベラル君全体の特徴であること――いえ、それも正確ではないでしょう、彼ら彼女らフェミニスト、リベラル君はミサンドリーに取り憑かれた人々ではありますが、そこまで重篤ではなくとも、全男性、全女性が患っている普遍的な病であること。
 それをまず、認識するきっかけになるとすれば、この「ミサンドリー」ブームには決して少なくない価値があると言えるわけです。

*7 詳しくは「秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)
サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?