兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

男が働かない、いいじゃないか!

2016-04-29 21:22:48 | 男性学


「男が働かない、いいじゃないか!」とは何とも頼もしい宣言です。



 いやあ、まさにおっしゃる通り。
 何しろこう景気が悪くては



「働いたら負け」と思ってしまうのも無理からぬこと。
 ぼくだってもう○○なエロゲの○○な仕事を○○KB○○円で受けて、こちらが出した○○についても半月ほど音沙汰なく、その間もやむなく別なメーカーからのオファーを断ったりもしながら待っていたら、結局仕事自体が○○になり、三ヶ月間の労力が一切の○○○○に……などといったことが繰り返されるのはうんざり!
 何とか働かずに生きていく方法はないものか……と思っていたら!
 見つけたのが本書です。帯にはでっかく「若者男子を全面擁護!!」とあるのも頼もしい。
 早速買って読んでみることにしましょう。
 ……え?
 はい?
 作者が?
 何ですって?
 作者の名前をどっかで見た記憶がある?
 知るかうるせーバーカ!!

 さて、本書の第一章は「就職できなくたって、いいじゃないか」。
 頼もしいタイトルに期待が高まります。
 章の中の節タイトルも


 ・正社員として就職できないと人生終わりですか
 ・フリーターよりもブラック企業の正社員のほうがましですか
 ・働くなら中小企業よりも大企業ですよね
 ・無職って恥ずかしくないんですか
 ・ひとつの会社で働き続けるべきですか



 などなど、ぼくたちの知りたい疑問が目白押し!
 希望に胸を膨らませて読んでいくと、上の各設問に対する回答は……?
「そんなことないよ(大意)」。
 ですよねー。
 で、具体的には……?
 結論から申し上げましょう。
 本書に具体策は、ゼロです
 例えば「無職って恥ずかしくないんですか」の節では「無職だっていいじゃないか!」と力強く言ってくれているのですが、さて、無職でどうやって食っていくかについては一切の言及がありません。
 とにかく「偏見はいかんので働かない男性を悪く思うのは止めましょう」といったレベルの話が延々、延々と最後まで続きます(ロクにデータもないので本当に中身が薄いです)。

 本書では「主夫」についても、あまり言及されません。
 いえ、ちょこちょこと話題には出て来るのですが、「主婦を女の幸せと決めつけるな」というお説教と共に「主夫になるのは勇気ある決断」とか「日本の経済状況を考えると共働きが安心」とか「男が働かないという選択は難しい」と書いてるだけです(80P)。
 いえ、それはその通りなのだけれども、だったら「男は働かないと死ぬ」のが真理であり、間違ってもお気楽な顔で「男が働かない、いいじゃないか」とは言えないはずです。
 とにかく本書は(あらゆるフェミニズムの書がそうであるように)「べき論」のために客観的事実から全力で目をそらすことにばかり、注力しています。
低収入の男性は結婚できないって本当ですか?」の節では、年収の低い男性は結婚できない、というデータについて、

 しかし、この議論はあるデータの存在を隠しています。20~30歳代の男性では、だいたいどの年収でも、「既婚」と「恋人あり」を足した割合は50%以上の数字になっているのです。したがって、年収の低い男性は独身かもしれませんが、年収の高い男性と比べて極端にモテないわけではありません。女性は男性の年収を気にして恋愛をするというのは、一部の女性には当てはまるかもしれませんが、全体としては単なる偏見であることが分かります。
(73P)


 と言うのですが……意味わかります?
「隠しています」と憤っていますが、「結婚」を主題にしているのにいきなり「恋人」という概念を自分で持ち出しておいて、相手はそれを「隠している」ぞと言われても困ってしまいます。既婚者に加え、恋人を持つ者の数をもカウントすれば、その比率は年収とあまり関係がないのだ、と言いたいようですが、そもそも「50%を超える」という基準が大ざっぱすぎます。後半を読むと「女性が男性の年収を値踏みする」という事実を否定したくて書いていることがわかりますが、いずれにせよ「年収の低い男は結婚できない」という事実は全く揺らぎません。
 さて、師匠は今までもデータを、詭弁を弄してねじ曲げてきました*。
 ――そう、冒頭では惚けて見せましたが、本書の著者は田中俊之師匠。
「男性学」の旗手、即ち「フェミニズムの使徒」です。
 そんな師匠の挙げるデータ、容易には信用できませんよね。
 で、調べてみると見つかりました。以下です。


内閣府のデータなのですが、色がついていてわかりやすい、別なところで引用されている表を孫引きしています。
 ただ、田中師匠がこのデータを根拠にしているかどうかはあくまで不明であること、後、このデータの「既婚者」は「結婚後三年以内」の人だけが対象になっていること(つまり、二十代で「既婚者」になった人の多くは三十代のデータでは弾かれている)ことを申し添えておきます。


 上の「20~30歳代の男性では、だいたいどの年収でも、「既婚」と「恋人あり」を足した割合は50%以上の数字になっているのです。」というのが、はっきりとウソだとわかりますね。20代は比較的低収入でも既婚率、恋人持ち率が高いですが、これは女性もまだ若いのでまだ余裕があるのではないかと想像されます。一方、30代となるともう、かなり悲惨なことになっていますね。

* 『男がつらいよ』では男の幸福度が女のそれよりも低いという調査を否定しようと、意味のわからないことを書いていましたし、『<40男>はなぜ嫌われるか』では聞き取り調査で「女性は男性に奢られたがっていない」と決定づけています。つまり本人の顔を見て直接聞いたそんな調査で、女性の本音が聞けるという前提なのですね。

 さて、ぼくは去年の夏、「男性学祭り」を催しました。
 そこでも繰り返した通り、「男性学」者たちは男性を、なかんずく男性の作り上げた企業社会を深く深く憎悪しています。
 企業社会と言えば、近年「ショッカーの戦闘員をブラック企業の社員のメタファーとして描写するセンスのないCM」とか、よくありますよね。つまり企業の暗喩としてショッカーを持ち出すことは、世間一般にも理解されやすいように思います。
 しかし、ぼくは時々、「フェミニズム」たちをこそ、仮面ライダーの敵に準えてきました。少なくとも本書の田中師匠は戦闘員たちにただ「我らが偉大なショッカーの目的のために死ね」と特攻を命じているショッカー幹部、以上のものには見えません。
 例えば本書では、やたらとイクメンについて語られます。
 何を言い出すのかと思えば、「イクボス」という概念を広めようと、師匠はおおせです。管理職男性が率先して育児をすればイクメンが普及できていいぞと。そんなの、師匠が味方しているはずの若者男子にとってはことさら、過酷な要求でしょう。男性によけいな負担をいくつもいくつも上乗せするだけの提言なのですが、それについては何も考えているご様子がありません。
 笑ってしまうのは

本来、イクメンを広めるために尽力した人たちは、「仕事と家庭を両立しようよ!」と明るく呼びかけていたはずですが、一般的に使用されているうちに、「仕事と家庭を両立すべきだ!」に変質してしまいました。
(93P)


 などと真顔で書いている箇所です。明るく言いさえすればええんかい。
 本書もまた、「働かなくてもいいじゃないか」と「明るく」言っているわけですが、それって「明るく」「死ね」と言っているだけですよね。
『かってに改蔵』のギャグでキツい発言も(笑)をつければ大丈夫というのがあったのですが、それを思い出します。
 死ねよ(笑)。

 いつも書くことですが、フェミニズムはバブル期のあだ花でした。
 景気がよかったので女性を労働力として使う理屈づけとして、フェミニズムは重宝されました。そのフェミニズムのコバンザメになればいいことがあるのでは……との期待から90年代の中盤に男性学(メンズリブ)が唱えられ、速攻でおわコン化した。
 しかし去年辺りから、死んだはずの男性学がまた復活の兆しがある……ということで、ぼくは去年、「男性学祭り」を執り行いました。そこでわかったのは、男性学が千年一日の進歩のなさで、二十年前から一切のアップデートを行っていなかった、という事実でした。
 本書はその果ての、無残な結果であるように思います。
 ぼくも「無残」といった激しい言葉は使いたくないのですが、こと本書については(田中師匠は本当に善意100%で、「若者男子を全面擁護」しているおつもりなのだと思いますが)そう言われても仕方のない、非道いものだと考えるからです。
「働きたくても職がない」、或いはニートや引きこもりなど「精神的な問題を抱えて働けない」男性が溢れている現代に、こんなタイトルの本を出して、タイトル詐欺をするその精神構造とはどういうものなのでしょう。
 藁にも縋る思いで本書を手に取って裏切られたと知った多くの人々は、どんな気持ちでいるのでしょう。

 いえ、そんなことを言っても詮ないことかも知れません。
 そもそも、「男性学」とは、「男性を殺すことを目的としたガクモン」です。
 師匠の男性への憎悪は今までの著作をご覧になってもご理解いただけると思うのですが、本書でも「男を一律に決めつけるな」と言っておきながら、ご自分はバシバシ決めつけているのです。
 38pでは男は「乱暴、不真面目、大雑把」であることが許される(が故にマジメに勉強しない)とか、45pでは男はちょっとおだてられるとすぐ調子に乗る、48pでは男は女よりも「自分は特別な人間だ」という幼稚な妄想を引きずり続けると、とても当たっているとは思えない思い込みでバシバシ決めつけ。
 もっともその前に

 ちなみに、本書では男性は一般的にこのような傾向があるという話をしている部分があります。あくまで傾向について言及しているだけで、男性を一つの集団として扱っているわけではないので注意してください。
(19p)


 と予防線が張られ、事実、77pでは「男は馬鹿だ」と笑いを取ることは、男性へのハラスメントだと述べているのですが。
 しかしこれって、「全員がそうではありませんよ」との予防線さえ張れば、何を言ってもいいということにすぎず、何だかなあとしか思えません。
 ことほど左様に、男性学の語る男性像は(フェミニストの目を通過したものであるためでしょう)非常に時代遅れであり、その振る舞いは100%「今時いない男性像を仮想して、それに対して勇ましく石を投げる」という自作自演です。
 そして、これもいつもの繰り返しですが、そういう彼ら「男性学」者自身はマチズモを、何の内省もなく振り回します。
 85pでは師匠がぎっくり腰のために、駅の階段を手すりに捕まって昇っていたとのエピソードが語られます。すると上から中年男性が降りてきた。相手が道を譲ろうとしないのでやむなく「すみません」と断ってその男性の肩に捕まって迂回したら怒鳴られた、とあります。
 まるで自分が被害者であり、「これだから男はダメだ」と言いたげなのですが、それ、単純に相手に腰の状態を説明すればよかったんじゃないのか(何しろこの著者、まだ四十になったばかりです)。
 古典的(欧米などで語られる)男性論では「男は寡黙をよしとされるが、それはコミュ症でよくない」とされます。これ、昔の男性は本当に寡黙だったのか欧米の男性は寡黙なのか、以前から不思議だったのですが、このことは田中師匠にこそ当てはまるのではないでしょうか。
(ちなみに、この言説そのものは女性とのディスコミに黙り込まざるを得ない男性を、女性から主観的に評価した言葉なのではないか、と思います)


 本書も終盤に差しかかると、こんな記述が登場します。

 男性はフルタイムで働き、結婚して妻子を養うのが「常識」とされています。(略)男性が働かないという選択肢を考え出すと、このシステムが揺らいでしまうので、仕事を続ける中で直面する男性が男性だからこそ抱える悩みや葛藤は「ないこと」にして社会は回ってきました。ですから、男性の生き方が変われば、間違いなく社会は大きく変わります。
(172p)


 いや、世の中がどう変わるかではなく、ぼくとしては明日のパンをどうやって手に入れるかを知りたくて、大枚はたいて本書を買ったんですが。
 むしろ男性が働かないと収入が途絶え、飢えて死ぬというシンプルな事実を「ないこと」にしているのは本書の方ではないでしょうか。
 師匠は「普通」や「当たり前」に疑問を呈する自分に酔いしれ、読者にもそうあれと押しつけてきますが、それが税金をじゃぶじゃぶと投入した講義で食べていられるという恵まれた環境にいるからこそできることだという認識は一切、ありません。
「社会をひっくり返したい。だからお前ら、労働を拒否せよ。」
 師匠のホンネは、そんなところでしょう。
 そのリクツづけのために働くことにまつわるネガティビティがいろいろと並べ立てられている(といっても、今の企業社会はおわコン化するぞという脅しだけで、例えば男性がいかに過労死で殺され、女はそれを糧にしているかなどという本当のネガティビティについては頑なに口をつぐんでいるのですが)という仕掛けです。
 それで誰かが飢えて死んでも、我が理想には仕方のないコストなので、どうでもいいのでしょうね。
 この節は最後で

自分を変える勇気を持って、一緒に社会を変えていきましょう。
(175p)


 とアジ文書のようなことを言って終わります。次のページをめくると、「さいごに――男が働かなくてもいいですか」との節タイトルが。ここは本書でも最後の節なのですが、このタイトルに答え本文は

もちろん、働かなくても大丈夫です。
(176p)


 と続きます。
 もちろん、この最後の最後に及んで、働かずに糧を得る方法については何一つ書かれていません。
「大丈夫です。」との力強い叫びは、「読者は死ぬが俺は金持ちだから大丈夫」との田中師匠の揺らがぬ確信の叫びなのでしょう。

まんが家総進撃

2016-04-15 19:52:46 | レビュー



 さて、タイトルを変えてみましたが、引き続き『まんが極道』です。『まんが家総進撃』はその続編……というよりは改題されただけの同作品です。
 今回も(のっけからショッキングな)ネタバレ全開です。実際に漫画を読んでみたい方は、そこのところをお含み置きいただきますよう。

 さて、『極道』の第1巻には「センス オブ ワンダーくん」という作品があります。「俺のことをわかってくれるSF好きの女性を彼女にしたいが、そんな女、いるはずがない!」と嘆くSFマニアの新人漫画家、ゾル山浩が主役になっています。
 彼は担当のつくプロ作家ではあるものの、今時SF漫画など流行らず、描きたいものが描けずにいます。彼の友人たちも「ダース・ベイダー」だの「アヤナミ」だの軟弱なことを言うのみで、彼を理解しようとはしません(既に『スター・ウォーズ』自体が三十五年前、『エヴァ』ですら二十年前ですが、堅物のハードSFマニアにとってはこれらすら「真のSF」とは呼べぬまがい物のようです)。
 しかしそんなゾル山の下に彼の大ファンである美少女がやってきて、全てを理解してくれるように……恋愛や結婚に頑なな態度を取っていた彼の心も解れ、またとうとう担当に自作を理解させて連載を勝ち取り、彼女とも結婚――あぁ、夢じゃないか! あ、夢か!
 本当の本当に、主人公が夢から醒めるところで本作は終わります。
 漫画家のダークサイドを描く本作とは言え、この冷酷な突き放しっぷりは異彩を放っています。
 本作、オタク男子にとっては非常に身につまされる話です。「SF好きの女などほとんどいない」と嘆くゾル山の姿はぼくたちの姿そのままです。しかしそれって、「男女のジェンダー差がある」という男女観が前提されてはいないでしょうか。それって現代社会では絶対に許されぬ、仮にMSのAIが表明したりしたらそのAIの破壊が義務づけられているような、危険思想なのではないでしょうか。

 以前、オタク界の正義の味方たちは「『ガンダム』に女性ファンは少なかった」と言った(という彼らの脳内現実を根拠に)兵頭新児に嫌がらせとデマコギーによる風評被害拡散の限りを尽くしました。ISISにも負けぬ正義っぷりと申さねばなりません(実は少し前、またツイッターで蒸し返していた連中がおり、感心させられました)。
 この「ガンダム事変」の本質は「男女のジェンダー差はない、ジェンダー差はないとすることが正義である」とのイデオロギーに「乗っかる」ことでオタクとしてのアイデンティティを守りたい人たちの正義の振る舞い、というものでした。言わば、永遠に夢から醒めずにいるゾル山です。
 しかし、それならば、当然、彼らにとって「夢から醒めて」終わる上の作品は許せぬものであるはず。
 ……ところが、一体全体どうしたことか、どういうわけか彼ら正義の味方たちが唐沢なをきさんを叩いているのは見たことがありません。
 彼らの「正義の刃」は発言力のない弱者にだけ向けられることはもう、皆さんにもおわかりのことかと思います。
(むろん、漫画であるとか文学であるとかは、「正義の味方」の目をくらます役割を往々にして果たすものではありますが。また、フェミニズムが男性文学者を縦横無尽にバッシングしているのに比べると、オタク左派は比較的自分たちの「弾」として使える漫画作品などについては都合の悪い点について口をつぐむ傾向にある、とは言えますが)。

 さて、というわけでひとまず今回、本作に絡めてワタクシの申し上げたかったことは、「ホモソーシャル」という概念の不毛さであります。
 なをさんは少なくともそうした論者に比べれば遙かに鋭く男女の現実を見据えており、そしてまた、本シリーズでは以降もそうした価値観を前提としたエピソードが描かれていくことになるのです。
 例えば3巻の「サークル」。
 時代設定は「十年と少し前」とされ、世を挙げた『オバンデスヨン』(言うまでもなく『エヴァンゲリオン』の読み替えですね)ブームの渦中にある「創作系」オタクサークルの姿が描かれます。
 一口に説明しにくいのですが、この「創作系」というのは何かのパロディではなく、あくまで元ネタのないオリジナルの漫画で勝負する人々を指し、ある意味では「意識高い系」ではありますが、方や美少女系の二次創作同人誌と比較するといささか地味な存在でもあります。同人界を舞台にしたギャルゲー、『こみっくパーティー』でも「創作系」である長谷部彩は「実力はあるが、描くものにはいささか華が欠けている」と設定されていました。ましてや『エヴァ』ブーム(これはオタク界では同時に『エヴァ』同人誌ブームでもありました)の頃は余計にそうだったでしょう。
 さて、本作のヒロイン、蓑竹ヨブコはそんなサークルの紅一点として地味に真面目にやっていた、地味で真面目な女性だったのですが……何かの間違いでギャルっぽい女の子、小路町鱮がサークルに入ってきて、イベントでは『オバンデスヨン』のヒロインのコスプレをして同人誌は完売。サークルの男性たちの心は彼女に掴まれてしまいます。
 そして――鱮自身もまた男性たちと関係を持ち、将来性のありそうな男を査定していたのです(メンバーをルックス、セックスの相性、男性器、将来性で査定したノートを作っている!)。
 最終的には鱮の行状がバレ、サークルはクラッシュしてお終い。
 そう、この頃、「サークルクラッシャー」、略して「サークラ」ということが盛んに言われておりました*1。要するに「ホモソーシャル()」なオタクサークルに女性が入ってくると、生態系が崩れてサークルがクラッシュしてしまう、ということですね。男性を破壊することが絶対の正義であると信ずる瀬川深が、こうしたサークラを絶賛していたことも懐かしいトピックスです。そこでは「ホモソーシャル」が女性を不当に利益から遠ざける許されぬ悪なのか、それとも「女性の性的魅力によってクラッシュすることが大前提の、彼ら彼女らの優越感、破壊衝動を満足させるためのデク人形」なのかが曖昧模糊としたまま議論が進んでいきました。
 が、ここではまず、「男女は全く別な生き物であり、関わることで様々な緊張が発生し、それには悪い面もあるよね」という自明な真理が、まずなをさんの中で前提されているということを、ぼくたちは確認しておきましょう。そうした真理を否定するフェミニズムという邪教に入信した者が、なをさんの漫画を読んでも、その意味はさっぱり理解できないのである、ということも。

*1 この「サークラ」という概念はその意味で「ホモソーシャリティ()」そのものが「ない」ことの証明でもあります。が、次第にこの言葉は(この言葉の前提概念であるところの)「オタサー姫」という概念へとすり替わって語られるようになっていきました。言うまでもなく「オタサー姫」は「オタクサークルの紅一点で姫のように振る舞っている者」のことであり、本来は「オタクというリア充に比べて劣った業界で威張っている二軍落ちの女性」といったネガティビティをも内包していたはずが、昨今では純粋に女性のハーレム願望を叶えるためだけの言葉として機能しているようです。オタサー姫を描いた『私がモテてどーすんだ』の略称は『わたモテ』であり、喪女を描いた本家を「乗っ取って」しまった辺り、大変に象徴的と言わねばなりません。

 そうしたことに対してさっぱり考えの及ばない、「ジェンダーフリー」とやらに理解ありげな上の正義の味方たちは、丁度、上の漫画のサークルの男性たち同様、「オタサーの姫」を持ち上げるチンポ騎士に他ならないということも、こうして見るとわかって来るのではないでしょうか。
『総進撃』の3巻「新担当」には、そのことが描かれています。
 痛い非モテ漫画家である佐藤ゲルピンに若くて可愛い女性の担当がついた、というお話ですが、「痛い非モテ」というと、例えば前回にご紹介した「女総屑くん」や、『極道』6巻「アシの条件」に出て来るアシスタントの話が思い出されます。後者のアシはオタク的コミュ障として描かれ、新しく入った可愛い女子のアシスタントを「こういうのに限って非処女だ、非処女がウチの漫画を描くのは許せぬ」と難じ、彼女のポーチから盗み出した口紅をちんちんに塗り出すという描写があります。
 これらはいわゆる「童貞こじらせたミソジニー」的描写なのですが、その一方でこの佐藤は若い女性の担当がついたことで浮かれ、(身だしなみに気を遣うなどすると共に)その担当者に「ぼくの作品の本質は男性優位社会を批判することにあり云々」などとぶち始めるのです。
 一方、佐藤はその振る舞いが「痛い」ことを自覚し、後悔する常識も持ちあわせており、その意味で見ていて可哀想なのですが、結局は調子に乗って、漫画の主人公とその恋人に自分と担当の名前をつけるという暴挙に出てしまい、最終的には「ぼくのことをわかってくれなかった」担当に切れて刃傷沙汰を起こし……揉みあった挙げ句、自分のおちんちんを切り落としてしまう、というオチ。これ、敬愛するフェミニストたちに裏切られ、「まなざし村」と名づけて攻撃し始めている人たちと同様です。
 先の「男性優位社会云々」という演説では「(クソオタどもと違って)女性を理解した漫画を描きたい、ついてはあなたの意見を聞かせてほしい」と言っており、なをさんは「ミソジニスト」とやらと「女性の理解者」とやらは両者全くいっしょなんじゃないの、とでも言いたいのでは、と勘繰りたくなってきます。
 そして……本話はちんちんを切った佐藤の連載にジェンダーフリーな魅力が加わり、「奇跡の大ヒット」となった、(そして今度は男の担当に色目を使い出す)というオチで終わっています。

 そう、なをさんの「自らの業」に対する視線は極めて冷静です。当たり前ですが彼の中にも「女性に媚びたい/女性は疎ましい」という感情はあり、そこを見つめているからこそ、こんな漫画が描けるのでしょうから。
 しかし彼の視線は同時に、女性に対しても冷徹です。前回の夢脳ララァは「オタサーの姫」になれない女性でしたが、4巻「漫画家の妻」はオタサーの姫を真正面から捉えた話です。
 ここで描かれるのは人気漫画家の妻、閂タイコ。
 旦那が取材を受けていると、それに乗じてインタビューでも写真撮影でも必ず割り込んできて「でね! でね! 私はね!」と一方的に捲し立てる。漫画に何ら関係のない、地獄のようにつまらない単なる日常の出来事を開陳するだけのダラダラしゃべりが、大きな大きな吹き出しに詰め込まれた長い長いネームによって表現されるのがまた、見事です*2。
 旦那が甘々なのをいいことに、アシスタントの前でも女王様のように振る舞い、コラムニストだの漫画評論家だのの肩書きの名刺を作り、ばらまき始めます。その名刺に描かれている似顔絵が、なをさんの妻であるよし子さんであるのがまた、すごい自虐ギャグなのですが、信頼感あればこそであり、またきついお話なので予防線を張っての処置でもあったのでしょう(『仮面ライダー』のプロデューサーさんは、お話の中で怪人に殺される人物などの名前が取引先のエラい人と被らないよう、率先して自分の名前を使っていたと言います)。
 キリなしに逆上せ上がり続けるタイコですが、クライマックスでは大物少女漫画家、迷中マリ(パーティに幸子フルなものすごいスタイルで出現する)に「亭主の威を借りる糞女房」と的確に罵られ、また同時に旦那の漫画の人気がなくなり、あっと言う間に落ちぶれるところでおしまい。
 富野由悠季監督が何かの雑誌で漫画家志望の少年に相談を受けた時、「『まんが極道』を読みなさい。あれば全部実話です」と答えたといいます。そう、本シリーズは漫画的ディフォルメはあるし、当然固有名詞などは変えてはいるものの、恐らくどれもこれも実話が元だろうと想像できる、リアルな話ばかりです。
 タイコは本当に実在します。
 タイコのような人物は、本当によくいるのです。
 ただし、本作においてはアシスタントたちが内心ではタイコを疎ましく思っており、また、最後は旦那とも離婚したとナレーションが入って終わるのですが、実在するタイコは「本当に、周囲に溺愛されている」ことが多いように思います。
 何か重篤な勘違いによるカルト的カリスマ性を獲得したオタサー姫というのは、この業界には本当に多い。こういう人々は正常な人間性を持っていれば間違ってもしないような低俗で下劣で卑怯で完全に狂った振る舞いを平然と行い、周囲もまたそれを、格好のいい行為であると信じきって賞賛し続ける、というのが特徴です。ISISにも負けぬ正義っぷりと申さねばなりません。
 こういうのは、(単純に大物作家の妻という人もいるのでしょうが)出版社、出版業界そのものを「亭主」にしているとでも形容した方がいいように思います。内田春菊に端を発する「性を描く」ことを売りに出て来た(内容のないつまらぬ)女流作家って、そういう感じですよね。こういう人たちは亭主が落ちぶれることがないため、余計にしぶとく、タチが悪いんですな。

 *2 もう一つ言うと、彼女は「夫の受け売りでよく理解しないまま、他の漫画家に対する批評」を並べ立てては酒の席で「タイコさんの毒舌にはまいっちゃうなぁ」と言われています。この業界、とにかく女性、特に「男前」と称して下品な振る舞いをする女性に弱い人々が多く、舌を巻くほどリアルな描写です。

 ――さて、ちょっと遠回りになりましたが、再び「蓑竹ヨブコ」についてです。
 前回、彼女について、「夢脳ララァ」と対になっていると申し上げました。
 彼女の名はまさに「夢脳」の対極の「身の丈」。
 先に挙げたエピソードで、ヨブコは「オタサーの姫」にオタサーを追われました。
 その後*3、中堅漫画家の亀島洞洞のアシを務める話があり、この亀島は女性アシスタントを愛人としてハーレムを形成していたキャラクターなのですが、そこからも(ハーレムに加わらないまま)ドロップアウトし、6巻「ステキな人だから」では再び主演を務めます。
 彼女は上のエピソードを見ても「マジメだが生硬」、「技術はそこそこだがプロとしては今一歩及ばず」といった描かれ方をされてきたのですが、ここへ来てそれなりの作画力を得て(事実、絵が下手に描かれていたのが、このエピソードでは上達しています)、連載を持つも打ち切り、というのが話の発端になります。
 プロとして一皮むけるには……と悩んでいるところをバーで知りあった男と関係を持ち、そうした経験が作品にもいい意味で反映され、編集者にも評価されるように。
 で、まあ、本作のカラーを知ってる方なら何となく想像がつくと思うのですが、その男がタチの悪い人物で、騙されて企画物AVに出る羽目に。しかしそうした男性経験を肥やしにして、彼女自身も一皮むけたことを暗示して話は終わります。
 一方、ラストの一コマで「男性関係を肥やしにできないタイプの女」としてララァが(同じ男に引っかかっているシーンが)登場するのも示唆的です。
 つまりある種の熱血根性物として、ノブコはいい女、格好いい女として描かれているわけですね。
 何故、ヨブコは格好いいのか。
 それは「男みたいだから」格好いいのではなく「女である自分から逃げてない」から格好いいのです。
 もっと言えば、ヨブコをララァやタイコと対比させていくと、各々が「女から逃げていない女」と「女に逃げた女」という好対照であるとわかります。
 リベラル君には「男みたいだから格好いい女」であると捉えられているフェミが、どこまでも「女に逃げた女」であるということはもはや、語るまでもないでしょう。
 だから、彼女らは格好悪い。
 ヨブコは男に頼ることなく、女から逃げることもなく向きあい続け、一人で泥にまみれ、そして格好いい女になったのです。

*3 実は上に挙げた「サークル」の次のお話もまた、「駄目サークル」というヨブコの主演話で、ここでは一転して(エロ)同人誌サークルとして活動はしているものの、およそ非生産的なオタ話ばかりしているサークルが舞台になっていました。そのサークルに関わってしまい、切れるヨブコ、というお話なのですが、このエピソード自体は特にサークルクラッシュが描かれることもなく、終わってしまいます*4。

*4 このお話のラストでは、ヨブコが「マジメにやれ」と切れたことにサークルの中のインテリ君が逆切れして刃物を振り回し、死人が出るところで終わっています。その時点で話がバッサリと終了し、以降が描かれていないために「サークルクラッシュが描かれない」と解釈しましたが、考えればこの展開は前作「サークル」と全く同一なので、本作においても「サークルはクラッシュして終わった」と解釈すべきかも知れません。ここでは専らこの女性慣れしていないインテリ君が悪いのですが、善悪はおくとして、女性が加わることで男性の共同体には緊張が生まれるよな(だからやっぱ「ホモソーシャル」なんて概念はバカげてるよな)、という当たり前のことこそが、ここでは描破されていると考えるべきかも知れません。

お知らせ

2016-04-08 21:27:23 | お知らせ
ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
朝霞市の少女誘拐事件が男女のバトルにすり替わった件」。
 例の事件についてです。
 男性ジェンダー、つまり能動性の被害者性、との意味あいである意味、「女災」という概念をかなりラディカルに突いた話題になっているかと思います。どうぞご一読を!

まんが極道

2016-04-01 19:07:39 | 男性学


 本作の作者、唐沢なをきさんはマニアに絶大な人気を誇るギャグ漫画家。普段から「今時、よくこんなの描けているなあ」と舌を巻かずにはおれないアナーキーな作品を発表し続けている作家さんですが、本作は中でもその度合いの強い問題作。
 要は漫画家にまつわる悲喜交々をセキララに描いた漫画です。
 女性そのものを描くことが目的となっている作品ではないのですが――しかし、と言うか、だからこそ、と言うか、本作の女性を描く筆致はどうにもこうにも容赦のないものとなっているのです。近年、タイトルを『まんが家総進撃』と改題していますが、それをあわせ単行本十冊にもなる長期連載であり、また一話完結型のオムニバス作品の(つまり、決まった主役も舞台もない)ため、一口では説明しにくいのですが、今回はまず、「夢脳ララァ」というキャラクターについてご紹介することにしましょう。
 いつも通り、ネタバレされたくない方は、以下はお読みになりませんよう。

 さて、先に「決まった主役はいない」と書きましたが、本作には度々、同じキャラクターが登場します。中でも夢脳ララァはウィキによると「作中で最も登場回数が多い人物」。
 以降もウィキの記述を引用すると、

時には「小学生のラクガキ」と言われるなど、漫画の実力はあらゆる面において水準以下であるが、自分の作品に大きな自信を持っている。酒の勢いで担当編集者と一夜を共に過ごしたことをきっかけに、メジャー雑誌の『少年赤虫』で読みきり作品が掲載され、その後は枕営業にドップリとハマってしまう。(中略)自尊心が強く、ことあるごとに「自分はメジャー雑誌に載ったことがあるプロ」と称し、細かいカットなどは「コッパ仕事」と呼んでやりたがらなかったり不遜な面も多い。


 といった次第。
 このエピソードは初登場の「枕営業」(1巻)で描かれたものであり、そのラストは中年になって仕事を失ったララァが心を病み、派手な格好で「私の漫画見てください、いいことしてあげるから」と呟きながら街を徘徊する、というところで終わっています。つまり彼女は「漫画家であるワタシ」という職業アイデンティティに対する過剰な拘泥と、それとは裏腹に「女の武器」を使うことに何らためらいのない狡猾さの間で揺れている……ではないな、彼女の中でその両者が何の矛盾もなく同居している、そうした存在として描かれるのです。
 上のエピソードは一種の「バッドエンド」ですが、以降も彼女は「パラレル設定」的に他の話にもゲスト出演、或いは主演し続けます。
 売れっ子漫画家のアシストに入る話(1巻「箱舟まんが丸」)では他のアシスタントに対しては「私はもう漫画家なんだから!」と威張り散らし、先生に対しては「同じプロとして」と同調するキャラとして描かれています。
「リセットくん」(6巻)、「ララァという女」(7巻)、「ララァ故郷に帰る」(『総進撃』1巻)では東京直下型地震から逃れ、或いはホームレスとなって、ララァが漫画家仲間や実家にたかろうとする様が描かれます。が、毎回オチでは失火するなどで相手側の生活環境をも破壊し、罪悪感も反省もゼロで妙にポジティブな「夢に向かって頑張るぞ」的な宣言をして、次のたかり先を探すところで終わります。
「ララァという女」の出だしでは、女流漫画家のアシをやっていたところ、あまりに仕事ぶりが非道くて追い出されており、その後は男にたかり続ける、つまりは女社会ではやっていけない女性が男性へと寄生し続ける様が描かれ、この種の女性の本質を表現しているようにも思います。

 事実、これらの前に描かれた「女の園」(5巻)ではララァがふたりの女性漫画家志望者に出会い、意気投合し、結局は関係が破綻する様が描かれます。
 冒頭の意気投合する若い意気軒昂さはまぶしくもあるのですが(「私たちでこの膠着した漫画業界に突破口を開くのよ!」)、いざララァの絵を見たふたりがそのヘタッピーさに愕然、一計を案じて「ウェブ広報担当になってくれ」とララァを作画から外します。ウェブ上で自分たちの漫画を宣伝するララァは「買ってくれたらパンツ見せちゃうよ」「自分のエッチな体験談を元に描いた漫画なの」と早速、女を武器に使うのです。
 ララァの徹底した、「漫画家というアイデンティティ」と「女の武器」とのダブルスタンダードが、ここでも貫かれているわけです。これは言うまでもなく「男性並」を求め社会進出に乗り出しながら、しかし「女の武器」を捨てることなど夢にも考えなかったフェミニストたちと「完全に一致」しています。

 ちょっと話が前後しますが、唐沢なをきさんの漫画についてご存じで、しかし本作については読んだことがないという方は、このキャラ名で画像検索をしてみてください。眼鏡に三つ編みという、お馴染みのキャラデザイン。即ち、彼女は唐沢作品の女子キャラとしてはもっともスタンダードなデザインが与えられた、本作のヒロインと言っていいキャラなわけです。
 そしてこの種のキャラは、かつての唐沢作品では主役格の「性格の悪い眼鏡のインテリ男性」にただひたすらいじめられるという役割を担っていました。ギャグ漫画の中、「いじめられる、可哀想な女の子」という役割を果たすことで彼女らは女性ジェンダーを発揮していた。また、そうした唐沢ヒロインはオタク界における地味子キャラの先取りをしていたと言えるわけです。
 ところが、比較的近年に描かれた『ヌイグルメン!』の乙梨キミエは、そうしたデザインを与えられ、また気の弱い泣き虫といった基本性格は従来のままでありながら、しかし立場が変わるや図に乗って威張り出すなど多少、腹黒い面を見せるキャラとなりました。これは『ヌイグルメン!』が従来の作と異なる、青春ドラマの側面を持ちあわせているが故でしょう。端的に言えばキミエは「従来の唐沢ヒロインが青春ドラマの中、キャラの掘り下げが行われ、内面を獲得するに至った」存在と言え、その先に誕生したのが夢脳ララァである――とひとまず、そんな分析が可能なわけです。
 唐沢なをきさんがデビューしたのは80年代の最中。言わば雇用機会均等法などに象徴される「フェミバブル」の時期に敢えて(というより、ギャグ漫画を描くにはそうせざるを得なかっただけかも知れませんが)古典的ヒロイン像を描き続けていたなをさんが、いざリアルな社会を描破してみせる必要に迫られた時、採った手法が「いつものキャラデザのヒロインに、職業漫画家という男性ジェンダーに対する熱望(言い換えるならば、「男に認めてほしい欲」でしょうか。見る限り、ララァさんは男性向け漫画誌にばかり持ち込んでいるようでもありますし)と、女性ジェンダーのネガティビティを宿らせる」というものであったのです。
 また、彼はオタク第一世代であり、本作に限らず彼の作品にはオタク第一世代としてのメンタリティが横溢しています。オタクとは、言わばそうした「フェミニストのダブルスタンダード」に翻弄されてきた世代と言えます。

 ちょっと、お話は夢脳ララァからずれるのですが、『総進撃』の1巻には「女総屑くん」というエピソードが描かれます。
 木下笄蛭という女流漫画家を激しく憎む読者が、ただひたすら女流漫画家を否定し、それをネットなどに書き込み続ける、というお話です。逆に言えば、ネットにおけるそうした論調は、本作の材とされるほどに目立つものになりつつある、ということでもありますね。
 笄蛭は「やっぱり女の描く漫画ってインクに汚れた血がまじってるよね生理の」と語り、また女流漫画家が「色仕掛けで仕事を採ってきているに違いない」と勘繰り、そしてまた実は「女性を屈服させる」エロ同人誌で人気を得ている人物であると描かれます。
 笄蛭の根本には生理的、また童貞的な女性への嫌悪があることが感じられます。
 ――ただ、実のところ、少なくともぼくは「女流漫画家批判」においてこのような言い方がされるのをあまり見たことがありません。
 ぼくが見聞する限り、女性作家への批判は「(少年漫画というフィールドで、それにそぐわない)鬱展開を始めること」などについて向けられることが主であるように思われます。もっとも、笄蛭が言及しているのと同じ、「女性キャラ無双が不自然」といった論調も見かけますが。
 しかしむしろ、ララァが繰り返している「女性作家が女の武器を使い、実力に見あわぬ仕事をすること」について、実はネットで論難されているのを、少なくともぼくはあまり見たことがない。このことは「女流作家批判」が、傍から思うほどに女性蔑視的でも反フェミニズム的でも非理性的でもなく、むしろニュートラルであることを示唆しているように、ぼくには思われます。
 つまり、正直なところ、この描写は必ずしもネットでの実際の言説をリアルに反映しているとは言えず、「その言説への女性側の解釈」をこそ反映しているように思えるのです。笄蛭は女を屈服させる漫画を描いていますが、それ自体が男性の言葉に「女にモテないヒガミだろう」と勘繰る、女性側の価値観を反映しているように思われます。また、そもそもコミケで行列ができるような作家はオタクの中の勝ち組であり、描いているものが陵辱物であろうと女性にモテるはずで、ここはちょっとリアリティがありません。

 このエピソードではなをさん自身が幾度も登場して「これはフィクションです」「ぼくはこんなふうには考えていません」と断った挙げ句――ラストでは「男総屑さん」という女性が登場、彼女もまた「男の描く漫画は全てダメ!」と言い立て、また彼女が「女王様がM男性を屈服させる」漫画を描いていることを暗示して終わります。
 一応、お話としては「お互い様だよね」とでもいった「正論」*を結論としているわけです。
 そして、この「正論」がなをさんのホンネだったかどうかは置くとして、ぼくは以下のように思います。
 もし、ネット上が「女叩き」とやらで溢れているのだとしたら、それは「女性が男性の分野に進出することこそが絶対正義」との歪んだ価値観が疑いもなく世に浸透していること、そしてまたそれがあまりにも疑ってはならぬ正義であるがため、女性側のスキルへの査定、ここで言うならそうした女流漫画家たちが本当に「男性作家と比べて遜色ない(=男性向けの)作品」を描いているかどうかを問うことがタブーとなっていること自体が原因ではないか。そこを鑑みずに「女叩き許せぬ」とだけ言うことには、あまり意味がないのではないか。
「女性が、男性のフィールドに入ってきて、しかしそのクオリティには疑問が残る」という状況。これは「いや今まで男性が女性を排除してきたことが悪いのだ」と説明され、女性の非を問うことはタブーとなっています。女性の管理職の少なさについての議論などがそうですね。
 一方、「男性が、女性のフィールドに入ることは相変わらずタブー視され、仮にそれにより男性が不利益を被っても、『何か、男が悪い』という結論にされてしまう」状況。
 例えば、男性による少女漫画は(よほど上の世代を辿らない限り)かなり珍しく、またそれに対する女性読者の視線の厳しさは、男性のそれの比ではないはず。
 これは「専業主夫」が増えない事実から目を逸らしたまま、ただひたすらに「女性の社会進出素晴らしい論」が語られている現状と、全く同じことです。

* おわかりかと思いますが、この「正論」はあらゆる意味で不自然です。何となれば「このような女性読者」が実在するかどうかは甚だ疑わしい。それは「女性の方が男性よりも心が清い」からではなく、上にあるように「そもそも男流少女漫画家が少ないから」でしょう。また男性への怨みから男性へのS的なプレイを望む女性というのもどれだけいるのか、疑問です。

 さて、話を夢脳ララァに戻しましょう。
「女流漫画家叩き」とやらは、フェミニズムがそうであるように「男性の領域こそが本道であり、女性がそこに進出することは絶対正義」という歪んだ価値観が生んだ悲劇でした。そしてその価値観には実のところ、タテマエとは裏腹に、「女性的な価値、女性的武器をそこで発揮しても非は問われない」という見事なダブルスタンダードの抜け穴が用意されていた。
 そのダブルスタンダードをこれ以上ないくらいに明確に体現したのが、夢脳ララァでした。
 単行本で見る限り、目下のところの彼女の最後の出演作は「ララァ爆走」(『総進撃』3巻)。彼女はとうとう自分がデビューできない理由を「闇の組織の陰謀だ」と思い込み、テロを企てます。しかしその場ですら、支援者を集めるために色仕掛けを使い、とうとう逮捕されてしまいます。それでもなおポジティブに獄中からのデビューを狙っているところに、破滅が近いことを暗示させるナレーションが入って、話は終わっています(ただ、この「新人漫画家が妙にポジティブでやる気満々」なのは男女問わずであり、迷惑な存在として描きつつも、そこにはどこかなをさんの新人に対する羨望が込められているようにも、見えなくはありません)。
 最初の作品の、「精神を病んで街を徘徊するララァ」に、もはやリーチがかかっている状態ですが……さて、どうなることでしょうか。

 お断りしておきますと、本作の本質は漫画業界の裏事情をブラックユーモアを交えて描くことであり、別にララァだけがタチが悪いわけではありません。男女とも(誠実で清廉な人物もいる一方で)言語に絶するクズのような人間が大勢登場します。
 エロ漫画家の原稿をただひたすら嘲笑するムカつく女の登場するエピソードもあれば(6巻「エロチック街道」)、女性ばかりをアシにして、才能のない者ばかりをやり捨てる中堅漫画家の話もあれば(3巻「女喰い」)、漫画家にDVを受ける妻の話(6巻「DDDの女房」)もあります。
 ただし、「クズな漫画家」の女性版を描こうとした時、それは必然的にこうした女性ジェンダーのネガティビティを背負った存在となる。そして、そのネガティビティはどうしてもフェミニズムの構造的欠陥と共通したものになってしまう。そういうことなのだろうと思います。
 ――さて、本作についてはまだ語りたいことがあるのですが、長くなってしまいました。
「夢脳ララァ」と対になっている「蓑竹ヨブコ」というキャラクターもいるのですが、彼女については、また次回。