兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

「サブカルの逆襲」と「萌えの死」(前編)

2021-04-24 21:51:21 | 弱者男性


 みな様、『Daily WiLL Online』の記事はご覧いただけたでしょうか。
 今月は以下の二つの記事を書かせていただきました。

・むしろ女性に横暴?「男性フェミ」のダブスタを検証する
・呉座勇一氏「炎上」:人の感情まで糾弾する「ミソジニー」(女性嫌悪)論の矛盾

 上は『映画秘宝』の例の問題に絡めて、サブカルとフェミニズムの関係について。
 下は呉座氏に差別的な扱いを受けたと称する北村紗衣師匠が心酔する「男性根絶協会SCUM」について書いています。
 より以上の応援をよろしくお願いいたします。
 さて、この上の記事を書くに当たり、久し振りに『嫌オタク流』を読み返す機会に恵まれたので(恵まれたというか、魂への拷問を受けたのですが)、今回はもうちょっとその辺り、つまり、サブカルというものの本質について、書いておこうと思い立ちました。

・『映画秘宝』の逆襲

 さて、『Daily WiLL Online』の記事において、『映画秘宝』のライターたちの異常性をご紹介しました。素行は女性に対して横暴なものであるのにもかかわらず、彼ら自身はフェミニズムの信奉者であり、恥ずかしげもなくフェミニズムという棍棒でオタクへと殴りかかってくる。全くもって理解に苦しみます。
 同記事を書くに当たり、ぼくははてなの「『映画秘宝』の記憶」一連の記事を参考にしました(『映画秘宝』の記憶(5) など)。ここでは『映画秘宝』の「ホモソーシャリティ」が執拗に語られます。何でも高橋ヨシキが本誌の前面に出るようになってから、「女子供から映画を取り戻せ!」というスローガンも誌面に踊るようになった、とのことで(もっとも、ウィキペディアによれば町山師匠自身も創刊の動機としてほぼ同義の理由を語っているのですが)、まあ、そんなのが「オタクは女性差別主義者だ」などと泣きわめいていたのだから、開いた口が塞がりません。
 が、いつも言うようにぼくは「ホモソーシャリティ」そのものが悪いとは思いません。同じくウィキによると同誌の売りは「「中学生男子」感覚を爆発させた編集方針」だそうで、これもまたぼくとしては否定すべきではない、愛おしむべきものだと考えます。
 上のはてなの一連の記事は大変興味深く読んだのですが、とにもかくにも町山師匠たちの言動に対して「女性差別!」「ホモ差別!」「ホモソーシャル!」と声を荒げるという感じで、その点についてはいささか辟易ともします。問題の(岩田元編集長に被害を受けたとされる)女性のツイートからして、『映画秘宝』のホモソーシャリティを批判するものだそうで、こうなるとそもそも編集方針がそうなんだから、読むなとも言いたくなります。
 おわかりかと思いますが、ぼくの本意はそうした彼ら――これは大島薫師匠の出演した妙なAV含め――の言動を批判することにはありません。記事でも少々同情的なことを書いたのはそれで、編集長のメールの件、謝罪文を女性ライターにアップさせた件、いずれも仮に不当なことをしたのだとしても、それを「女性差別」と直結させるのはまさに森元会長や呉座氏などが受けたのと同じ、「女性という棍棒を使った冤罪」でしょう。ぼくは、しかしそんな「女性という棍棒」を、彼らもまた敵に対して振るっていたことをこそ、批判しているわけです。
 彼らの本質は極めてDQN的です。それはまさに高橋の「切り株映画」に対する心酔ぶりが顕しているでしょう。岡田斗司夫は『映画秘宝』を「童貞の強がり」と評しましたが、彼らはDQNに憧れ、DQNを装って「オタク君、女を抱けよ」とイキっている童貞であり、そこにこそ、彼らのようなサブカルとどこかおぼっちゃん、のび太的で自己韜晦的なオタクとの差異があると言えます。

・エログロの逆襲

 しかし、ならば、では、彼らのその粗暴さは何に端を発するのでしょうか?
『WiLL』でも述べたように、70年代のカウンターカルチャーは「性の解放」と称し、レイプ描写を(まさに「切り株映画」のように)何だか「人間の真実」を描くものだと勘違いして、得意げに振り回していました。
 当時のそうしたムードを象徴する作品に、『ヤスジのポルノラマ やっちまえ!!』があります。これは71年に映画公開された「ポルノアニメ」。ヤスジとは谷岡ヤスジのことで、言うまでもなく「萌え」とは一兆億光年くらいは遠く隔たった絵(ご存じない方は検索してみてください)。そのストーリーはというと、非モテが女をレイプしたり惨殺したり、幼女姦したり獣姦したりするといったもので、最後は日本刀で割腹自殺するという三島事件を想起させる内容。パンフレットには製作者の「声明文」が掲載されていたのですが、それが以下のようなもの(安藤健二『封印作品の憂鬱』より一部抜粋)。

「われわれの製作意図は既成の歪んだエロティシズム、つまり、支配者が目論んだ性の管理統制だ」
(中略)
「東京テレビ映画は、常に未来にむかって前進しています。エロス革命の戦士として活躍するヤングウーマンを控えて、未来にむかってとどまることをしらない会社―は、きっと若者の真の解放を達成することでしょう」
(73p)


 何が何やらわかりませんが、当時は「解放」とか言いながらエログロをやれば格好がよかったのだなあ、ということは伝わってきます。レイプと体制への反抗が、ここではパラレルに語られているのですね。
 後、細かいことですが「われわれの製作意図は~性の管理統制だ」というのは「性の管理統制の破壊だ」とかの間違いではないでしょうか。まあ、プロットを見る限り、まさにこの映画こそが「歪んだエロティシズム」を描いているように思えるので、これで正しいのかもしれませんが。
「エロス革命の戦士として活躍するヤングウーマンを控えて」というのも意味不明ですが、アニメーターの若い女性たちは女性器マークの頻繁に出てくる本作にかかわり、恥ずかしかったそうです。製作者はその時、自分の奥さんを上司に差し出してご満悦の高橋ヨシキみたいな笑顔を浮かべていたのだろうなあと思うと、ムカムカ来ますねw
 事実、この当時、学生運動の盛んであった60年代から70年代にかけては、驚くほどにレイプや殺人の多い時代でもありました。そうした「時代精神」をありがたがっている人々が呆気に取られるほど温厚で事件を起こさない現代の、しかも一番おとなしい存在であろうオタクを狂ったように罵っている姿は、大変に滑稽であるというしかありまぜんね。
 何せ本作、近年DVDになったのですが、Amazonでコメントを寄せている連中が見事に『映画秘宝』関連で、お察しという感じでした。

 ――待て兵頭、それを言うならオタクだって厨二ではないのか。

 はい、ぼくもそれを否定するものではありませんが、むしろオタクはさらに幼い小三病とでもいった部分がある。実はこれについてはやはり岡田氏が「上のヤツらの若者文化がどうにもウザいので、敢えて幼児文化に留まった」と表現していました。
 同書においてオタクは(まさに当時全盛期を迎えていたkeyのゲームを根拠に)幼さ、ピュアさを持つ存在であると認識されています。著者の一人、中原昌也は「ゴリラに萌えキャラのスーツを着せて街にはなったら面白い(大意)」など、世にも下らないことを実に嬉しげに繰り返し続けており、どうもこれは、萌えキャラを貶めてオタクを悔しがらせたいとの情念に根拠づけられているようです。
 が、例えばですが『ときメモ』の美少女キャラを『北斗の拳』風のキャラにする同人誌など、オタク界ではもう何十年も前から存在しているわけで、それに比べ中原の発想はもう、残念ながら見ていて気の毒になるくらいセンスが悪く、周回遅れです。
 藤子・F・不二雄の作品は夢溢れるものながら、同時にその夢の裏面をも見据える理性を持ったものであり、とあるマニアはF氏を「冷めた夢想家」と評しましたが、オタクもまた幼さと、その幼さに自覚的な老成ぶりを共有している面があり、同様の評価ができるように思えます。上に「自己韜晦」と書いたのは、まさにオタクのこうした部分を指したものです。
 しかしサブカル側は(まさに自分たちが認めるように)中学生レベルに留まり、驚くほど生硬に頑迷に古臭い正義を振り回すとともに、それとは180度真逆の不良キャラで暴力を称揚し、園田ブスタに気づかずにい続ける。同書はそんな彼らの幼さを実証するものになっているように思えます。
 これは同時に、「政治の時代」が「オワコン化」した80年代にオタク文化が黎明期を迎えたことと密接に関連しており、サブカルのオタクへの飽くなき憎悪は、弟分になってくれなかった者への、ストーカー的感情だったわけです*1

*1 これについては「「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件」も参照のこと。

・『嫌オタク流』の逆襲

 上にも書いたように、『嫌オタク流』は本当に品のない罵詈雑言集という他はありません。サブカルというのが力もセンスもなく、クラスのボス格のパシリをしながらオタクを見下している連中であることが、よくわかりますね。
『WiLL』様の記事でも述べた通り、高橋は同書で美少女ゲーム『ONE』を「知恵遅れを搾取するゲーム」などと罵りました。他にも同作のみさき先輩(盲人の美少女キャラ)にいたくご立腹で、以下のようなうわ言をほざいておいでです。

高橋 でも、そのゲームの売り上げが盲学校に寄付されるわけじゃないんでしょ?
海猫沢 あ! ……それはオレも今初めて気付いた。
高橋 本当に目が見えなくて困っている人のことはどうでもいいんだ。さっきから可哀想な話だって言ってるけど、要は盲人をダシにして儲けてるやつがいて、それにオタクたちが無自覚に乗ってるということだよ。それは最低だ!
中原 それこそ盲人たちが怒るべきですよ。杖を武器に大挙して押し掛けるべきだ!
海猫沢 そこはもう、「オレたちオタクはそういうもので楽しんでいる人でなしなんだよ!」って開き直れる強さを持つしかないですね。
(84p)


 もう、何が何だかさっぱりわからない、真面目に反論するのも馬鹿らしい言いがかりですね。
 悪意でオタク文化を貶めるため確信犯で詭弁を弄しているのであれば、まだわからなくもないのですが、海猫沢が(こんな信じられないほどに頭の悪い指摘を)「あ、気づかなかった」とさも大発見でもしたかのように素で感嘆している辺り、この人たちは徹頭徹尾天然なのでは……との疑念が頭をかすめます。
 このリクツであれば彼らは『ハイジ』のスタッフである高畑勲、宮崎駿、富野由悠季は悪魔だ、と糾弾すべきなのですが、それはしない(……などと書いても、若い方はわからないかもしれません。『ハイジ』の後半は車椅子の少女、クララが立ち上がれるようになるまでを感動的に描いているのです)。
 何故か。
 それはもちろん、彼らの矛先は絶対に弱者にしか、向けられないからなのでしょう。同書中で一同は「オタクは体制に従順だ、従順だ」と(根拠なく)繰り返しておいでなのですが。
 もう一つ、同書の著者に名を連ねていないのが不思議なくらいオタクへのヘイトスピーチを繰り返している人物に、宇野常寛がいます*2。宇野もまた、自著(『ゼロ年代の想像力』)において、

 批評の世界における東浩紀の出現とその劣化コピーの大量発生は、弱めの肉食恐竜たちが(実際には肉食以外に興味がないにもかかわらず)矮小なパフォーマンスで「僕らは草食恐竜です」と宣伝しながら、自分よりさらに弱い少女たち(白痴、病弱、強化人間など)の死肉を貪っているような奇妙な言論空間をサブ・カルチャー批評の世界に醸成した。
(211p)


 などと泣きわめいています。この「白痴」は『AIR』に登場する少女、神尾観鈴を指しており、同ゲームは『ONE』と同様に麻枝准氏によって製作されたもの。もちろんこの「白痴」は「天然キャラ」をそう強弁しているだけなのですが、ともあれ、この主張は高橋や更科とそっくりで、その統制ぶりは共産圏のダンスのようです。彼らのコネクションについては知りませんし、知ったことでもありませんが、彼らは恐らくお友だち同士で「願望」を語りあううちに、それを「共有」して「現実」と混同するという悪癖を持っているのではないでしょうか(考えるとフェミニストと全く同じ特徴ですね)。
 いえ、それよりも不思議なのは、あれほどまでにレイプをこよなく愛するサブカルが何故、上のようなことを言うのか、ということです。
 高橋の「知恵遅れを搾取するひどいエロゲー」との評も、むしろそのようなゲームであればこそ称揚する方が彼の普段の言動に適っているし、むしろ心情としてはそれに近かったのでしょう。つまり、「女をレイプもせずに交流するゲームなど無価値だ」という本音を押し隠し、オタクを「女性差別者」に仕立て上げて罵倒したいがために(他のページもそうですが、ここではいよいよ)支離滅裂な主張になってしまった――と、そんなところではないでしょうか。
 呆れたことに同書後半で、高橋は以下のように絶叫します。

高橋 結局、オタクの立脚しているメンタリティって一般人のメンタリティとまったく同じで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。
(191p)


 はい、「一般人を敵に回すのは恐いので、叩いてもいいオタクを叩きます」宣言いただきました。
 これは左派全般に言えることですが、彼らは内心では幼稚なエリーティズムで結ばれた仲間以外は見下し、呪っている。同時に俗物性の象徴とも言える市井の女たちのことも、実際には憎悪しているのでしょう。しかしフェミニストだけは、彼らの歪んだ理念を共有してくれる存在であるから(という、どう考えてもあり得ないような勘違いをして)崇拝している。
 サブカルもフェミニズムもイデオロギー的には左派の一派です。
 だから両者は歩調をあわせていた時期もあったけれども、末端では本件のような醜い「内ゲバ」が起こっている。
 そういう図式なのではないかと思います。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(最終回)

2021-04-17 19:38:56 | アニメ・コミック・ゲーム


 みな様、目下『Daily WiLL Online』で兵頭の記事が公開されております。
『映画秘宝』の例の問題ということで、それなりに話題性はあると思うのですが、話が少々マニアックで難しいかもとも思え、反応が気になっています。
 ランキングは目下のところ、五位。
 より以上の応援をよろしくお願いいたします。

 ――さて、いよいよ感動の()最終回です。
 元は匿名用アカウント氏の本作品評への感想であり、まずは本ブログの前回前々回前々々回前々々々回前々々々々回前々々々々々回前々々々々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨したいところですが、まずは匿名氏のnoteをご覧いただいて、そっから(お気に召したら)辿っていただくことを推奨します。
 まあ、気が向きましたら、上の第一回から辿ってください、すごい長編ですが……。
 それとおわかりでしょうが本作のファンの方、ネタバレを回避したい方はお読みになりませんよう。
 ものすごい勢いでネタバレした上、貶しますから

・肉、やっぱ食っちゃダメだってよ

 さて、記者会見でルイが「肉食を認めよう」と語ったため、街には大暴動が巻き起こります。
 が、肉食獣は決して牙を立てようとはしない。殴りあいはするものの、そこに食うという選択を持ち込まずにいるのです。ここも意味がわかりませんが、「市民たちは意外に理性的であった」という「いいシーン」のようです。
 そんな最中、いきなり発生する大規模停電。
 メロンは大量食殺が起こる、などと言うのですが――復旧してみると草食も肉食も仲よく手をつないでいました。よかったね。要は和解が成立したという描写なのですが、過程がすっ飛ばされているので、何だこりゃとしか。
 大体、クライマックスがメロンとのバトルというのが微妙と言えば微妙。本来であれば草食と肉食の双方の大物が争うみたいな話であるべきですが、そうした役目を果たすはずのヤフヤとゴーシャは、終始傍観者ですし……。
 さらに、ルイの演説につられ、草食が裏市へと入ってくるのですが、それを見た裏市の住人たちは「草食にこんなものは見せられない」と街を壊し始めるのです。草食にも武器を手渡し、一斉に裏市そのものを壊し始める一同。草食的な優しさを持つ、平和的な暴動でいいと思いま~す。
 要するに肉食が自らを省みて恥じ入る、ということのようです。
 で、この騒動の後、裏市は正式に取り壊されることに。
 メロン自身が最後まで改心しなかったり、また裏市は別に作られてしまうだろうとの言葉があったりで、そこまで甘ったるいラストではないのですが。
 結局、ルイの発言の真意はよくわかりませんが(本気だったのか、何故いきなりあんなことを言ったのか)、そしてまた、ハルがメロンに自分を食べていいと言ったことも回収されてないように思うのですが、話としては「肉食否定」で終わるんですね。
 まあ、植物性タンパクを取っていれば死にはしないので、「お前らがそれでいいんならそれでいいんだろうな」以上の感想は湧きません。卵とか昆虫を食う選択もありますし(それらについてはここでは言及されないのですが)。
 ただもう一つ、最後にはクジラとヤフヤの会見がなされ、「これを食ってはどうか」とクジラの差し出した魚肉ソーを(手もないのにどうやったんだろう)、ヤフヤが「貿易は争いを生む」と断る様が描かれます。海生生物は死生観が違う(死をあまり悲しまない)ため、海生生物を食うならば問題ない、という選択肢があったのですが、どういうわけかヤフヤは(自分は肉食でもないくせに独断で)それを断るのです。
 何だよそれ! 海生生物出した意味ねーし!
 上の経緯と並行してレゴシとお隣さんであったセイウチとの別離も描かれるのですが、一度は海へ戻ろうとしたこのセイウチはあっさり「やっぱりやめた」と元の鞘に納まる。もうわけがわかりません。「海生生物とは棲み分けよう」というヤフヤの判断からして意味不明ですが(だってその前に肉食と草食が棲み分けろよと思いますから)、そう結論づけた上でセイウチが陸上に永住するんじゃ、さっぱり意味がわかりません。
 正直、「草食対肉食」の対立構造を、本作が描き得たとはとても言い難いと思うのですが、作者の感情レベルでは「男は女の肉体を得られないまま、ただ女に奉仕せえ」といった辺りが結論なんじゃないでしょうかね。
 これを現実世界で喩えるとするならば、アレですかね、頼んでもいないのに女が男の場(例えば、少年漫画誌)に入ってきて、「エロがけちから~ん」とか言って、で、男の中のチンポ騎士が「女性様をお迎えしなければ~」と彼女らに平身低頭して武器を与え、ともにエロ漫画の打ち壊しをするとか、何かそんな感じの話だったんじゃないスかね。

・恋人たちのオチ、つけるってよ

 はい、もう数話で終わりです。
 もうちょっとです、ガンバりましょう。
 ルイ×ジェノ。結局ルイはエラいさんの娘かなんかと政略結婚せざるを得ず、ジェノとは別れることに。ジェノは「私とのキスはよかったでしょ(忘れられなくなったでしょ)」的なことを言って、自分からルイの下から立ち去り、一人になって「食らえ! 可愛いオオカミの呪い」などとつぶやきます。
 かあぁぁぁぁっっっっこいい~~~~~!!(大爆笑)
 だぁぁぁぁいてぇぇぇぇ~~~~~~!!
 ジェノが当初はレゴシに惚れてたとか、作者自身忘れてそーだなー。
 後、当初はこの人、「私がビースターになる」と言ってた(肉食であり政治的にも上の位置に立つことを目指すという、「男」足らんとした)とかも、作者自身忘れてそーだなー。
 さて、最後はハル×レゴシ(嫌味でレゴシを後にしました)。
 えぇとね、もう書くのもヤです。
 平和になった中、デートする二人ですが、その最中、ずっとハルは耳をおっ立てています。これはウサギが不機嫌でいる証拠。ハルも顔は終始ニコニコなのですが、レゴシはずっとおろおろしています。
 案の定、最後に「イラつく」と切れ出すブス。
「レゴシ君、結婚しよ。そしてすぐ離婚しよ。そうすればあなたは一生私を追いかけてくれる。今のあなたは歴史を変えたヒーローであり、私には勝てる部分が何もない。そこが苛立たしい。あなたが私を追ってくれれば対等になれる」。
 あぁ、そうですか。〇ねばいいと思うよ。
 一応、この後、レゴシがそれを一度拒否して、自分からプロポーズをする、ブスが自分の負けを受け容れるというオチにはなります(「また負けたわ」とぼやく程度であり、自分がいかに身勝手なことをやり続けたかについての反省があるわけでは一切、ありません)。
 まあ、何かいずれにせよ最後までこのままです。
 あとがきでは作者からハルへのメッセージとして、「絶対浮気すんなよ! 世界一幸せになってね」と呼びかけています。これ、最低最少限の倫理を説いているようにも見えるんですが、まさか反語的な意味で言ってたりは……いやいやいやいやいや、さすがにしない……よなあ……?

 ……以上、読後感は「やれやれ」以外のものがありません。
 以前述べたヒツジも似たことを言っていましたが、結局「草食獣は肉食獣に勝てないからイキっていい」という倫理観がわけがわからない、無残なものとしか言いようがありません。
 メロンの母親についても当初は肉食獣の女性という存在を登場させ、価値感の転換を狙ったようにも思えるが、手に負えずに結局父親をクズにすることで母親を免責してしまいました。
 それに対し、ゴーシャの妻はゴーシャの毒で死んだわけで、それは男の「原罪」を強調するため、男に罪悪感を植えつけるためそうしたように読めます。
 先にも書いたように、ハルがそこまで「レゴシに敵わない」ことが気に入らないなら、自分も戦場に出ればいいのです。しかし彼女は、前にも述べたように食殺事件篇では最終決戦の夜、家でテレビを観てましたし、このクライマックスでも姿を見せません。キューというウサギは妙な超能力で肉食以上の力を得るのだから、「ハルにはそれができない」との言い訳は効きません(考えればこの能力もクライマックスでは登場せず、尻すぼみです)。まあ、「女は守られるべき」「その上で守られたことに文句を言うべき」なんでしょうね、レゴシの(テンとの戦いの時の)言からするに。
 一体、どこまで甘えきってるんでしょうか。
 時々書くように、オタク文化以前の漫画界では少女漫画が聖書のように持ち上げられていました。まあ、価値ある傑作も存在することは別に否定はしませんが、基本、少女漫画ってすごい若い子が描くんですよね。だからぶっちゃけ稚拙だったり節度がなかったりするものもあったりしました。しかし何より読者の少女たちに同世代感覚を持ってもらうことが大事だとされ、そのためそうした欠点もよしとされてきたのだと思います。要するにラジオDJだったんですね。
 ぼくが時々オタク文化を「裸の男性性」と形容するように、オタク文化もそれに倣ったもので、実のところ昔の同人誌とか、クオリティ非道いの多かったんですわ。描きかけで投げたようなのをぼったくり価格で売ってたり。でもそれも、友だちとだらだらしゃべってるような面白さがあったわけです。DJの別に面白くもないアドリブが親しみを感じさせる感じですね。
 だから、本作についてもクオリティが低いとか道徳的にけしからん、といった文句をつける気は、ぼくには全然ありません。少女漫画誌に連載されていたら、文句を言うこともなかったはずです。『ガガガ』でも全く同じことを言っていましたけど。
 しかし漫画界は女性様へと男性向けメディアを明け渡してしまいました。テレビとかが女性向け一色なのは、マーケティングでやってると思うんですが(何しろ日本人女性ほどテレビを長時間観る民族はいませんから)、漫画界ってフェミイデオロギーで無理からに女性を重用してる感じがします。
 もう四十年以上前の話ですが、内田春菊とかがそうですよね。「女の子のホンネ」とやらに多大な意味と価値とがあると勘違いした人たちが、単なる馬鹿女の戯言が並んでいるだけの落書きを聖骸布のように崇拝した。時々言うようにそれは「萌え」の台頭により消え去った……はずが、オタク文化の衰退と共に、彗星のようにカムバックし始めたのがこの十年でした。
『ガガガ』について書いた時、ぼくは「おもちゃのかんづめ」の男の子向けと女の子向けの違いがなくなっていることを漫画界の現状に準えました。
 そう、今の漫画界は「女の子向け」のおもちゃを男の子に押しつけることが「ポリコレ」になってしまっているのです。
 それはきっと、漫画界を、否、人類を衰退させる役にしか、立たないことでしょう。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その7)

2021-04-10 19:01:01 | 弱者男性


 ――さて、長らくお待たせしました。例のヤツです。
 元は匿名用アカウント氏の本作品評への感想であり、まずは本ブログの前回前々回前々々回前々々々回前々々々々回前々々々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します……とここまで書いただけでもう、ぐったりとしました。初見の方はまず匿名氏のnoteをご覧いただいて、そっから(お気に召したら)辿っていただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、まあ、そこはお好みで……。
 それとおわかりでしょうが本作のファンの方、ネタバレを回避したい方はお読みになりませんよう。
 ものすごい勢いでネタバレした上、貶しますから。

・ギリギリでぶっこまれた牝キャラ、またイキるってよ

 前回記事、つまり(その6)において、本作の21巻までをご紹介しました。その時はラスト間際に投入された新女性キャラ、キューの不快さについてぐちゃぐちゃと私見を述べさせていただいたかと思います。
 先日、ようやっと最終巻である22巻を読んだのですが、念のためと思って21巻を読み返してみて、肝をつぶしました。
 21巻にも新女性キャラが投入されていたのです。裏市を取り仕切るヤクザのボスの一人である牝ギツネ、テン。いや、出て来たこと自体は覚えていたけれども、読書メモにも書かれておらず、まさかこんな不快なキャラだったとは驚きでした。
 ラストバトルにおいてレゴシとテンとの戦いが描かれるのですが(一応メロンとの最終決戦なのですが、裏市の縄張りを決めるための「裏市一武道会」のようなものです)、それがまあ、本当に「女社会のボスが男を悪し様に罵る漫画(時々言及する、半目でタバコ吸ってる女が威張ってるようなヤツです)」を切り抜いてきたようなもの。
 まずそのテン、すらりとした体躯を持ち、顔も「ケモナー」が喜ぶようなデザインを保っている、ジュノと同等の、まあ「美形」と言っていいキャラ。
 それがバトルの最中、レゴシを「童貞でしょ」と煽ってきます。彼女は「男って下品」などと言うのですが、そういうことを言う女の方が下品だと思いま~す。いや、一応レゴシがスカートをはいたまま戦うその女に欲情しているのを感じ取って、不快感を感じたということなのだと思うのですが、しかし命懸けのバトルの時に勃起なんかするかなあ。
 テンは女を武器に勝負を有利に運んでいるようにしか見えないのですが、レゴシは「やっぱり女相手に本気になれない」と感じ、その上で「これも差別と言われたらそれまでだが」などとつけ加えます。
 ここ、意味がおわかりでしょうか。
 或いは若い人ほど、このレゴシの言っている意味がわからないのではないでしょうか。ぶっちゃけ本作が「炎上」しないのって徹頭徹尾何が描かれているかわからない、男の子から見れば宇宙語で展開しているような物語であるからでは、とすら、ぼくには思えます。
 レゴシは女性は女性であるが故に守らなければならない、しかしその責務を果たすこと自体が女性を対等に見ない女性差別である、と言っているのです。
 レゴシは、正しい。
 女性差別がないことが判明し、しかし女性差別がないと「シコれない」女性たちは、男性に対して「自主的に女性に全てを差し出した上で、その行為を女性差別であると認識し、謝罪して自死すること」を要求してきました。自死するところまでがフェミニズムです。
 で、レゴシは「今まで出会った女性たちに敬意を表する」などと称し、スカートをはいて戦うのです!! 本作はとにもかくにも全体的に説明不足でよくわからないのですが、どうも相手とフェアに戦うためということのようです。テンがスカートをはいてるのは自主的な判断だと思いま~す。
 だって驚くべきことに、レゴシに「何でそんなスタイルをするのか」と問われ、テンは「スタイルよく見えるから」と答えているのですから。そう、決して男に媚びるためではなく、自分の意志でスカートをはいているけれども、スカートをはいたことによるデメリットは全て男の責任ですよね、わかります。
 このテンの返答に、レゴシは「適う気がしない」と漏らします。
 男性が読めば恐らく十人中十人は「女の自己中にはとても敵わない」という意味に取ると思いますが、もちろんそうではありません。ここは「本当に素晴らしい女性様への賛美」というシーンなんですよ、ちゃんと読み取れてますか?
 何せご丁寧に、レゴシはここで「ハルもいつもスカートで大変だったんだなあ」などとつぶやくのですから。ハルちゃんはバトルとかしてないと思いま~す。
 いえ、そのバトル中にすら、レゴシは急襲してくるメロンからテンを守ります。念のために申し上げておきますが、両者、敵同士なんですけどね。

・イキり牝キャラ、こんなにいるってよ

 さて、まあ、何か、そんなわけで、えと、本作には以上のように綺羅星のような敬愛すべき女性たちがこれでもかと登場してくるわけですが(棒)、まあ、前巻までのも含め、扱いきれなかったキャラの総ざらえをちょっと。

 1.ニワトリ
 そもそも本作、大勢にはかかわらない閑話休題的なエピソードが時々、合間に挟まります。このキャラも三巻において、丁度裏市が扱われる手前の、そんなお話に登場するキャラ。
 ニワトリであるが故、産んだ卵(無精卵)を売るバイトをしており、その卵の美味さにプライドを持っています。仲間たちはバイトごときに熱を入れる彼女をバカにしているのですが、本人はレゴシに卵の美味さを評価されたことで、いよいよバイトに誇りを抱きます。
 終わり
 正直、特にこれといった話ではないのですが、「裏市が描かれる前に挟まれた、道徳的にも法的にも問題のない動物性タンパク摂取の話」に深い意味がないとも考えにくい……とずっと思っていたのですが、最終巻まで読んだ後では、「作者は何となく描いているだけで意味はない」が正解ではないかとw
 ただ、周知のとおり作者の自画像もニワトリで描かれており、このニワトリを敢えて雑に比喩的に表現するならば「女流エロ漫画家」なのではないでしょうか。
「聖母のように男たちに寄り添い、それを癒してやるワタシ」という自己イメージ。
 しかし実際には「安全地帯でまがいものの自己犠牲を提供したことで何とはなしに自分を崇高な存在だと思い込んでいる女」。
 美味い卵を産んでくれるニワトリは、そんな作者の歪み切った自己認識が迸り出たキャラだったのではないでしょうか。

 2.ストリッパー
 上のニワトリ同様、一話限りの一発キャラで、裏市でストリップをやっている牝ヒョウだか何だか。読まずとも想像がつくかと思いますが、ジェノ、テン同様の肉食獣のデザインが施された、つまり一応性的な肉体を与えられた、いわゆるケモナーなら萌えるであろうキャラ。
 えぇと、何か男たちに自分の肢体を見せて、優越感と自己愛に浸ってるだけで、別段どってことのない話。
 が、ニワトリが「ご飯を与えてくれるお母さん」であることを考えると、この「肉体性を与えてくれる娼婦」の位置づけは明白でしょう。作者はそうした女に与えられた役割を平成ライダーのようにモードチェンジしつつ、自在に楽しんでいるのではないでしょうか。

 3.メロンの母親
 はい、ここから最終エピソードにかかわるキャラの登場です。
 メロンは一応、それなりに内面について掘り下げようとした形跡の見られるキャラで、ぼくの方にセンスがあれば、それなりに読み取れるものがあったのかもしれませんが、正直、言わんとするところはあんまり伝わってはきませんでした。
 要するにメロン、肉食獣と草食獣のハーフとして生み出された出自を呪っており、言わばレゴシとハルの恋愛のアンチテーゼとして作られたキャラ。
 母親の方が肉食獣であり、愛の重さ故に父親を食い殺したと語られていました。これは食殺事件篇のリズのような立ち位置を女性に演じさせているとも言え、ここにいかなる答えを出すかは注目すべき点でしたが……肝心のクライマックス、メロンとレゴシのバトルの最中、いきなりメロンの父親が顔を出します。「あれ、うちのメロンがどうかしたんですか?」。
 そのしょぼくれたサラリーマンのような姿で描かれる父親、若い頃ふらふらと肉食獣(メロンの母)との間に子供を作り、責任を取るのが怖くなり、逃げたのだったぁぁぁぁぁ~~~~~ッッッッッ!!!!!
 何だそりゃ!?
 罪悪感を感じる様子もなく、肉食獣の愛の重さに辟易としたと語り、メロンと再会するでもなく、(会いたいとも考えておらず)そのまま父親は劇中からフェードアウトします。
 このドラマツルギーの無視はいっそすがすがしいほどで、要するに女を悪者にした作劇などそんな難儀なことできないと考え、「やっぱり男が悪者ですた」と大慌てで宣言し、放り投げたのでしょう。
 いや、連載スケジュールの都合で考えていた展開を描けなかったとか、裏事情はあるのかもしれませんが、しかし見る限りは当初予定していたドラマ(女の愛の重さを肉食に準えること)を、それもものすごいぶん投げ方で放棄したようにしか、見えません。

 4.レゴシの祖母
 後半のストーリーについてあまり語ってないので、理解しにくいかもしれませんが、レゴシにはゴーシャというドクトカゲの祖父がいます。いくら何でもトカゲとオオカミが子供を作ったってのはどうなんだって感じなのですが、とにかくそういう設定なのです。
 ゴーシャは毒を持っているため、妻とキスをした後も消毒薬でキスの跡を拭き取らなければならなかった存在として描かれます。まさに「男性は悪そのものだ」との作者の強固な信念を端的に表現したキャラと言えましょう。
 上のメロンの父親の無責任さにブチ切れたゴーシャは妻との生活を説明する長い回想シーンに入り、

夢のような毎日だった
心優しくて美しい種族とされる
オオカミの彼女が
怪物扱いされるコモドオオトカゲの私と共に家庭を作ってくれて


 などと言い出します。
 ところが妻はその消毒薬の中身をだんだん希釈していました。
 そして毒にやられて笑って死んでいきます。
 正直、よくわかりません(とにかく最終回近くってページがないのか全てにおいて説明不足で何とはなしに進んでいきます)。
 敢えて言えば「愛する人に殺される歓び」を描いているのだと思います。と同時に当然、「男は女に対して罪悪感を持って接しよ」との作者の道徳律をも。
 女性がレイプ物のBLやレディースコミックが大好きなのは要するにそういうことで、自分は一切の責任を取らないまま、男が全てのお膳立てをした上で快楽を与えてくれ、罪悪感をも引き受けてくれるからです。
 ただ、本作のあらゆる牝キャラが「殺されてもいないのに殺されたとわめく」行為を繰り返している(例えば自分でスカートをはいて男を詰るテンも広い意味でそうでしょう)のに比べ、実は生命を投げ出すという意味では、唯一責任を取った女性ではあります。
 しかしここにはある意味、女性のジレンマが描かれてもいるわけです。つまり「男に食われる」ことは「快楽」である。しかし自分の性的価値を際限なく上げていけばいくほど(「快楽」は強まるが)実現に至るまでのコストが高くなる。
「たかだか男にやらせるくらいのことを、死というメタファーで描くことで、ハイグレードなオナニーを実現することができたが、そのせいで実際に男とやるハードルは無茶に上がった」という、どこかの星で起こっている事態と同じことが、ここでも起きています。
 ルイが「肉食獣は肉食をすべき」と演説したのは「男に掘られる快感に目覚めた」からでした。腐女子がエグいBLを描くように、男のルイにだから「食べられたい」との本音を言わせることができたからでした。
 しかし少年誌でそれを描くと(男に罪悪感を抱かせるため、また快感を大きくするため、「殺人」に準えたはいいが、その上で「やらせる」とすると)エグいものになりすぎる。
 その自縄自縛のまま、どうにもならなくなっている女性たちの現状を、本作は描いたと言えるのです。

 ――とまあ、今回はこんなところで。
 次回、いよいよ最終回です。
 まあ、何と言うか驚き(呆れ果てる)のクライマックスがあなたを待っておりますので、乞う、ご期待!!