兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

新春ホモ三題噺

2013-03-30 18:51:01 | 時評

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 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。新春とあるように、今年の初めにアップされたものでした。

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

 それともう一つ。

 拙著『ぼくたちの女災社会』が復刊ドットコムの「復刊リクエスト」にエントリされています。どうぞ、ご協力をお願いします!


     *     *     *     *

 

「2012年女災10大ニュース」の中で、ラディカルフェミニストとリベラルフェミニストにまつわるネット言論のウソについて指摘しました。それはごく簡単に言ってしまえば、「確かにラディフェミが悪者というのは本当だけど、そういうことを盛んに言ってるあんたら(オタク系文化人)がつるんでる女性にこそラディフェミが多いじゃん」という話でした。
「ラディカルフェミニズム」というのは、wikiから引用すると、

現代社会における女性抑圧の源流をあくまでセクシュアリティに求め、時に結婚や家庭も女性解放の障害と見なし、階級闘争の構図へと還元する姿勢

 を持つフェミニズムと言うことです。
 リベラルフェミニズムはそこまで切り込まずとも法整備などをすれば男女平等は実現できる、と考えるスタンスであると、ひとまずは言えます。
 考えれば均等法などが施行されるに及んで男女平等は進んできたはずで、それでも満足できない人々はどうしたってラディフェミという過激な考えに縋る他、ないわけです。
 男性論の世界での名著『男はどこにいるのか』の中で小浜逸郎さんは

 ところが、社会における男女平等が、不充分とはいえある程度実現されてきたり、また実現が具体的日程に上ってくると、今度は家庭における男の支配とか、性別役割分業の事実とか、それにかかわる女性の過重な労働負担(家事も仕事も)、また日常性のなかでの男の差別意識とか、さらには性行為における男性の優位性とか、イメージにおける隠れた性差別などのとらえ方によって、女性の「劣位」を確認し、問題視しようとする動きがことさら前面に出てくることになった。


 と指摘して、

 さて、ここら辺りから、フェミニズムはなんとなく少し無理をしているような感じがつきまとうものとなり、


 とおっしゃっています。
 この論文の初出は1990年。「行動する女たちの会」などがポルノ的広告やミスコンを相手に派手に暴れ回っていた頃です。
 この頃まだ「ジェンダーフリー」といった言葉は人口に膾炙していなかったと思うのですが、以降、そうした理念やセクシャルマイノリティの話題がメディアで流行し、インテリたちが盛んに語るようになりました。
 そう、女性誌『CREA』で特集が組まれ、また「ゲイ文化人」と称される伏見憲明さんの『プライベート・ゲイ・ライフ』がベストセラーとなり、ゲイブームが起こったのがこの頃(1991)です。ゲイブームはセクシュアリティ論、ジェンダー論と連動して一部のインテリたちに影響を与え、またフェミニストたちもそれを大いに利用しました。事実、伏見さんの本を見ると当時のフェミニストへの盲目的な傾倒がこれでもかと語られています。
 つまり、まさにラディカルフェミニズム的な論調が日本で盛んになったのがこの頃であり、小浜さんの文章はある意味そうしたラディフェミ上陸前夜に行われたラディフェミ批判、とも言えるわけです。
 ぼく自身は別にラディフェミだけが悪者、というスタンスを取っているわけではありません。フェミニストなんてみんないっしょだ、というのがぼくの考えですから。
 が、年末から年始にかけて、ツイッター上でホモに関する話題がいくつも浮上し、それらを眺めている間に「考えるとホモの地位が上がったのってその頃だよな」ということに思い至ったのです。
 つまり、ホモはこの頃にラディカルフェミニストたちによって、「人権兵器」として利用され出したわけです。
 以下、順序立ててみていきましょう。


 トピックス1:「#タイトルの一部をホモに変えると恐ろしさが増す」というタグについての諸相


 先月26日、ツイッター上で「#タイトルの一部をホモに変えると恐ろしさが増す」というタグが大流行しました。案の定、これに「差別的でケシカラン」との物言いがついたのですが、その論旨が「ホモが恐いなどと思うのは間違っている」というもの。
 ぼくはその主張に、頷けないものを感じ、
togetterにまとめました
 このタグをはやらせた(&乗っかった)者の正体は、ぼくにはわかりません。
 しかし仮に腐女子だとするならば、彼女らはホモが「恐くないから」こそBLに耽溺するのだし、同様にタグの「恐い」には「恐くない」との意が込められているはずです。それはイヤでないからこそ「いや~ん」というのと同様で、女性ってよくそうした反応をしますよね。ならば、そうした女性の業にまで問題意識を掘り下げなければ、正論を吐くだけでは無意味です。
 そしてまた仮にはやらせた(&乗っかった)者がヘテロ男性だとするならば、残念なことに彼らにとってホモの「ホモ性」は「恐い」ものでしかない。むろん、その「ホモ性」をホモが誰彼構わず発露するとは限らない以上(つまりホモといってもヘテロ男性にセクハラなどするのは少数派であろうから)「だからと言って、ああした遊びが許されるのか?」との批判は成り立つでしょう。が、ただ「ホモは恐いとか思うな」と叱責したところで、問題が解決されるはずはありません。
 結局、「やめろ」と高圧的に言うだけでは問題は解決しないし、言いたい者は言い続けるでしょう(それを力で押し留めることなど、絶対にあってはならないことです)。
 だから結局、これを広めたのが腐女子であると仮定するなら、「恐い」といった言い方はやめて「萌える」みたいな表現にしよーぜ、くらいのことを言っていくしか、ないわけです。


 トピックス2:「セクシャルマイノリティの告知ポスターがパロられた件


 これは昨日の話でしょうか。
 セクシャルマイノリティのNGOが告知ポスターを作ったのだけれども、ネットでそれをパロディ化した者がいた、というお話です。
 トップに挙げたのがそのポスターで、男女のカップル、女性同士のカップル、男性同士のカップルの三組が幸福そうにしているイラストであり、「多様なあり方を認めよう」といったメッセージを込めたものでした(ただし電話番号は既に無効とのことで、消しておきました)。
 が、何といいますか、敢えて言えば「萌え絵」で描かれていたそのイラストの、男性同士のカップルだけが「ガチムチ兄貴」同士のカップルに改変され、それがネットで「晒し上げ」られたのです。
 それが以下ですね。

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 これに対して関係者の方が「悪意ある改変で許せない」と憤ったのです。
 が、考えてみれば改変後のイラストも(いや、むしろそちらの方が)ホモに受けそうな絵です。これに対しては「多様性を認めようと言いつつ、悪意ある改変とは何事、お前の方がガチムチ系のホモを差別しているのだ」との意見が殺到したようです(実はぼくも送ってしまいました)。
 そしてまた、関係者の方も反省すると共に、「しかし絵を改変した者(或いはそれを嗤った者)には悪意があったではないか」といった感じのことをおっしゃっていました。
 まあ、それは確かだと思います。
 件の改変ポスター、改変者に悪意がない可能性もゼロではないとは言え、普通に考えればあのパロディの意図は「要するにホモはきめーんだよ!」の一語に尽きます。だから「悪意あるからかい」と受け取ってしまうことも、ムリはないといえばムリはない。
 しかし更に言うならガチムチ系に嫌悪を感じる感覚は、ぼくたちの社会の動かしがたい美的感覚でもある。更に言えば、元のポスターのさわやかな筆致は、それを鑑みたからこそのある種の美化とも言えます。
 ぶっちゃけ改変後の絵は、ぼくの感覚からすれば「キモい」。ある種、元のポスターはそこを見越して、萌え絵を採用した、ある意味「あざとい美化」を施していた。
 それは悪いことだとは全く思いません。「戦略」としては全く正しいでしょう。
 でも「多様性」を謳っておいて改変後のポスターはまかり成らぬと言うのもまた、リクツが通らない。事実、イラストは両方、ホモの漫画家さんによって描かれたモノらしく、その一方だけを否定するというのはセクシャルマイノリティのNGOとしては本末転倒です。
 しかし、だからこそこのパロディが「非常によくできた批評」であることも否定し得ないのです。
 言ってみれば、このポスターはものすごいブスが一生懸命お化粧して、可愛く写した写真のようなものでした。心を込めたラブレターをしたため、それに同封した、「勝負写真」だったのです。
 それに対して、あのパロディポスターはお断りレターに「お前は本当はこうだ!」とばかりに同封されていた、その女性のすっぴん写真だったわけです。
 すっぴんの顔を盗撮したこと、そしてわざわざそんなものを送ってきたことの是非を問うことはできるけれども、結局彼女を傷つけたのはそんなことではなく、自分がブスであるという事実、そして「拒絶された」という、それ自体はどうしようもない事実なのです。
 相手に愛されたくて一生懸命ラブレターの文面を考え、頑張ってお化粧して可愛い写真を撮ったその娘のその時の気持ちを考えた時、非常に痛ましく気の毒でもあるが、また一方、断られることそのものはどうしようもないことでもあります。
 要は、相手がどう感じるかをコントロールできない以上、仮にあのパロディ的なポスターを法的に訴えたにせよ(ちょっと難しいでしょうが、仮に強引にそうしたとしても)、ヘテロ側のホモへの忌避感が変わるわけではないのです。
 件の女の子はまたタフに婚活パーティに出かけるか、或いは「おひとりさま」でいいじゃん、と女の子の友だちと遊ぶか、どちらかしかないわけです。
 ある意味、日本は新宿二丁目というホモのための場の用意された珍しい国でもありますし、またネット普及後は、そうしたネットワークはいくらでも容易に作ることができます。だからぼくとしては後者がお勧めな気がしますが、しかしそれでもヘテロセクシュアル側に働きかけたいというのであれば、やはり勇者として、戦いで傷つく運命を、我が身に受け止めざるを得ないでしょう。


 トピックス3:「コミケの淫夢デマネタに翻弄されるノンケとそれに対するホモ淫夢民の反応まとめ」


 これは冬コミ開催中の話です。
 ツイッター上で「コミケ会場に薬物入りの紅茶を飲ませる変質者が出たぞ」との噂が拡散されたのですが、実はそれがホモの流したデマであっったらしい、というのが経緯です。これもまた、
togetterにまとめられています
 どうもこの噂話の元ネタがホモの間ではやっているAV発祥のジョークらしく、そうしたネタを知るホモであれば、容易にウソとわかる性質のものだったらしいのです。「そうしたデマを流したのがホモだという証拠はないではないか」との指摘もありましたが、togetterを見る限り、少なくともこうしたデマにホモ側が快哉を叫んでいます。つまり「ホモがノンケに性的な悪戯をして、まんまとノンケが騙されたことにVサイン」という状況。
 しかし奇妙なことなのですが、少なくともぼくが知る限り、流されたデマには「男が男を誘う」という箇所が全くない。つまりデマを聞いたら普通であれば「男が女を誘っている」と解釈するのが普通であろうと思われるのです。つまりホモは勝手に「相手を騙した」と思い込み、Vサインを掲げていたわけです。
 例えるならば男子校の生徒が女子校に忍び込み下着ゲット、しかしそれは中年女教師のものであった。普通なら柄でわかるものを、女に対する免疫がなかったがため、というような状況でしょうか。
 見ていて面白いのはホモ側に(知恵ばかりか)屈託がなく、ここからは「偏見に苦しむ聖者」といった一部の人間が脚色した政治的色彩は感じられないことです。タチが悪いとは言うものの、中学生のバカなガキのようなもので、ぼくは彼らをどうにも憎むことができません。一方、感心するのはそのデマを知った側のリアクションです。「キモい、ホモ死ね!」でも「ホモを差別するな」でもなく、極めてニュートラルにデマを飛ばした側を批判しています。
 ホモにまつわる政治的言説は、実は本当はごくごく限られた一部の人間だけ間で効力を持つ「呪文」でしかなかったのだなあと実感した瞬間です。


 ――以上、ホモネタを三つほど見ていただきました。
 三つ目はいささか異色であり、またそれぞれぼく自身のスタンスも統一されておらず、混乱した方もいるかも知れません。
 が、ぼくの言いたいことはそれほど難しいことではなく、「差別はダメ」という絶対正義にモノを申すつもりはないが、だからと言って個々人の感じ方にまで文句をつけるのはそれ以上の悪だよね、ということです。
 ポスターの件は何とはなしに沈静化する方向に向かっているようですが、これはある意味、「ブスが、自ら抱えているブス性をどう捉えているか」を試された、非常にタチの悪い、しかし優れた「批評」でした。
 しかし一部のインテリたちは「ホモフォビア(ホモ恐怖症)」などといった造語を作り、「感情そのもの」を圧殺せんとしています。
 それは丁度ラディフェミが登場してきた頃と時期が「
完全に一致」しており、彼女らもまた昨今では「ミソジニー(女性嫌悪)」にこそ女性差別の原因を求めようとしています。
 これはつまり、「体制」とやらへモノ申しても少しも事態が好転しないので、こうなったら俺らが「体制」になって個々人の心をいじっちゃおうぜ、というシャア・アズナブル的な、圧倒的に傲慢な、おぞましいエゴでしかありません。
 自身も被差別の出身者であり、差別問題を研究している灘本昌久教授は著作『ちびくろサンボよすこやかによみがえれ 』の中で、「被差別者」たちのテンプレである「踏まれた足の痛みは踏まれたモノにしかわからない」という言い方に、

しかし、俺にはお前の左足を踏んでいるのは、お前自身の右足に見えてしかたがないんだよな。


 と痛烈な一言を浴びせています。
 おわかりでしょうか。
 ぼくの例えに準えれば、ブスの左足を踏んでいるのは、彼女自身の「ブスさ」だったわけです。
 それに対しトピックス3の何と健全でニュートラルなことか。
 多分、インテリの皆さん以外は、実はホモもノンケも両者共が、トピックス3という健全な世界の住人だったのです。


■補遺■(2013/01/22)
 本論に関して、現時点でも基本的に考えは変わってはいません。
 今回奇妙なことに、専らコメント欄では「淫夢」関連のことばかりが取りざたされました。
「兵頭は“淫夢厨”全員がホモだと決めつけたのだ」といった残念な読解力を発揮する方もいらっしゃいましたが、読めばわかるように、ぼくはあくまで「一連の騒ぎ(冬コミ当日のデマ)ではしゃいでいたのはホモだと考えるのが自然だろう」と言ったに過ぎません。
むろん、「ホモに濡れ衣を着せるためにヘテロが仕組んだのだ」と考えることは不可能ではありませんが、ことさらそう考える根拠は薄く、また、にも関わらずヒステリックに、特に根拠を上げることなく後者の説を採る人が多いことが、ぼくには恐ろしく感じられました。
 が(こっからが本題なのでちゃんと読むように)。
 上に挙げた「まとめ」をまとめた人物について、プロフィールを辿ると、確かにホモではないように思われます。
 むろん、だからと言って「はしゃいでいた他の連中もまた、ヘテロだ」と決めつけることはできませんが、とは言え、あのまとめ自体は「ヘテロ側の仕業」の可能性は高いように思われます。
 ちなみにこの件についてぼくに示唆を与えたのは、普段は当ブログを荒らす怨敵、SKYLINE嬢です(笑)。
 以上、補足すると共に感謝の念、ここに表明させていただきます。

 

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『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」

2013-03-17 04:42:01 | アニメ・コミック・ゲーム

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。文中に「本日」とありますがこれは当然、そこにアップされた3月1日を指しています。

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 文章自体は変わらないので、一度お読みになった方は、再読される必要はありません。

 それともう一つ。

 拙著『ぼくたちの女災社会』が復刊ドットコムの「復刊リクエスト」にエントリされています。どうぞ、ご協力をお願いします!

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 本日付の『朝日新聞』朝刊に載った記事です。
 森美術館で開催中の「会田誠展 天才でごめんなさい」に市民団体が

子どもへの性暴力や障害者差別を助長

 するものとして抗議をしたという、例の件についてです。
 これについて美術館の南條史生館長が

日本では少女を題材にした性的表現のマンガが溢れている。

 

社会が見ないふりをしている問題のフタを開け、議論が生まれることに展示の意味がある


 と語ったのですが、ツイッター界隈ではこれについて「何だかエロ漫画にケツを持っていこうとしているようだ」「芸術側がポップカルチャーをパクっておいて、問題が起きたら責任は丸投げかよ」といった感想が囁かれました(田亀源五郎氏もそうした主旨のことをおっしゃっていました)。
 ぼくもそれに賛成です。「何だ、このアートとやらは日本にエロ漫画が溢れていることをテーマとしているのか?」「それをもし否定的に表現していると称するなら残念ながらそのような表現には見えないし、肯定的に表現しているとするなら、それって単なる『模写』じゃねーの? 表現かそれ」と思えます。だってそれってリンゴの絵を描いて「日本にリンゴが溢れていることを肯定的に表現してみました。」と言っているようなもので、「バカじゃねー?」以上の感想が湧いてきません。
 が、恐らくこの館長も特に深く考えず、テンプレ文を脊髄反射で口にしただけでしょう。そもそもアートとやらがオタク文化の残飯漁りで食う業界となって久しいのですから(それはちょうど文学界がそうであるように)何を今更、という感じがしないでもありません。

 

 簡単にこの問題に関するぼくの立場を表明しておけば、「一応、ゾーニングがなされているからいいじゃん、しかし反社会的な作品を発表する以上、文句を言われるのは当たり前だし、また美術館という場で発表することに問題があるというのはわからないでもないな」というものです。
 本件にフェミニズム団体がクレームをつけたと聞いた時、ぼくは『ポルノ・ウォッチング』という本を思い出しました。もう二十年以上前でしょうか、フェミニストによる反ポルノ運動が盛んであった頃、そうした中でも大きな勢力であった「行動する女たちの会」が編んだ本です。
 ポルノを見れるのかとドキドキワクワクしながら読んでみたのですが、期待に反して取り扱われているのは主にスポーツ紙、電車の中刷り広告など。また、新聞四コマ(『フジ三太郎』などサラリーマン漫画で「セクハラ云々っていうけど、『ただしイケメンはおk』だろ」とぼやくような他愛のないもの)なども確か、採り上げられていたように記憶します。
 完全にタイトル詐欺です。
 この時の期待を裏切られたことに対する深い深い怒りが、ぼくのフェミニズム批判の原動力になっていることは言うまでもありません
 むろん、「ポルノ=女性差別=なくすべき」といった単線思考は、全く賛成できないものです。上にあるように会田誠展に対する彼女らの言い分には「障害者差別」とありますが、これこそ障害者を「弱者兵器」として運動のダシにする行為としか言いようがないでしょう。
 とは言え、「私の目の届くところでムカつく表現をするな」という単純さには、ある種の真実が含まれてもいます。
 通勤中のオッサンの広げるスポーツ紙がウザい、ということが女性の社会進出の盛んになったこの時期に言われ出したのは象徴的で、「勝手に男の陣地に入ってきた挙げ句それかよ」といった感情も湧きはしますが、マナーの問題としてわからないではありません。
 この本と時期を同じくして起こった有害コミック騒動も「一流出版社の大きな雑誌で」エロ漫画が描かれたことこそがきっかけでありました(ちなみにこれはマイナーなオタク業界がやっていたことを大手出版社がパクって小銭を稼ぐという、現状のラノベブームと近しい構造を持っているように思います)。
 何にせよエロは、(ことに今回のようなエロでも萌えでも何でもないグロは)裏モノである、との感覚は重要であるし、そうした感覚の欠如が本件の発端であるとも言えます。フェミニスト側の主張が「美術館という公共性の高い場でこの表現はいかがなものか」というものであるとするならば、その意見はわからないでもないと思うわけです。
(ただし、彼女らはそもそもポルノは根絶すべしとの思想の主ですし、「一貫したポリシーからゾーニングがなされていないものを批判している」というよりは「目についたものを当たるを幸い叩いている」と考えた方が事実には恐らく、近いのですが)
 記事によれば、展示会場では会田センセイの声による「こそこそ見てください」との音声ガイドが流れているとのことですが、「じゃあんなもん、グロ専門のエロ漫画誌で描けよ」と言いたくもなってきます。むろんこの解説自体、確信犯の挑発でしょうし、彼のそうした紅白でのDJ OZMA的な、ダチョウの「押すなよ」的な振る舞いが、オタク文化をパクった上でなされていることへの不快感が、上に挙げたツイッター上での反発の本質であったように思います。
 ただ、更に言うと美術館というメディアに公共性があるのか。
「今時よっぽどの物好きしか行かないじゃん、そんなところ、そもそも今時はエロ漫画のパクリで食ってんだぜ、こいつら」と言ってしまうと、公共性が高い低い、裏モノか表モノか、もうそうした二元論が機能しにくいところまで社会がカオス化してしまったところにこそ問題があるよなあ、とも思います。

 

 最後に。
 今回、本件にクレームをつけたフェミニストの中には、澁谷知美師匠が名を連ねていました。彼女は『平成オトコ塾』という本の中で男性の包茎手術に異様とも言える興味を示し、知人男性が包茎手術の失敗でペニスに非道い傷ができたことを
大いに笑いものにしています。残酷な表現を捨て置けず、会田センセイに文句をつけるフェミニストの方の人権感覚はやはり、ひと味違うなあと深い感慨を憶えたのでありました。

 

 

 

 

 

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