兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

男が働かない、いいじゃないか!(再)

2020-12-27 23:20:22 | 弱者男性


※この記事は、およそ12分で読めます※

 前回同様、動画の補足とも言える記事の再掲企画です。

風流間唯人の女災対策的読書・第15回「これからの男性学たちへ」


 今回は五年ほど前に気を吐いていた田中俊之師匠の著書を評した記事です。
 今回はキホン、改訂はありませんが、仕事へのグチは新たなものに改められているので、お楽しみいただければ幸いです
 では、そういうことで……。

*     *     *


「男が働かない、いいじゃないか!」とは何とも頼もしい宣言です。



 いやあ、まさにおっしゃる通り。
 何しろこう景気が悪くては



「働いたら負け」と思ってしまうのも無理からぬこと。
 ぼくだってもう○○なエロゲの○○な仕事を○○KB○○円で受けて、こちらが明確に描写した点について全く理解の及ばない○○に勝手に内容を書き換えられ、「私は○○の点について明確なプロットを組みましたが」とドヤられた挙げ句、それにあわせてリライトしろとムチャ振りを繰り返されるのはうんざり!

 何とか働かずに生きていく方法はないものか……と思っていたら!
 見つけたのが本書です。帯にはでっかく「若者男子を全面擁護!!」とあるのも頼もしい。
 早速買って読んでみることにしましょう。
 ……え?
 はい?
 作者が?
 何ですって?
 作者の名前をどっかで見た記憶がある?
 知るかうるせーバーカ!!

 さて、本書の第一章は「就職できなくたって、いいじゃないか」。
 頼もしいタイトルに期待が高まります。
 章の中の節タイトルも


 正社員として就職できないと人生終わりですか
 フリーターよりもブラック企業の正社員のほうがましですか
 働くなら中小企業よりも大企業ですよね
 無職って恥ずかしくないんですか
 ひとつの会社で働き続けるべきですか


 などなど、ぼくたちの知りたい疑問が目白押し!
 希望に胸を膨らませて読んでいくと、上の各設問に対する回答は……?
「そんなことないよ(大意)」。
 ですよねー。
 で、具体的には……?
 結論から申し上げましょう。
 本書に具体策は、ゼロです
 例えば「無職って恥ずかしくないんですか」の節では「無職だっていいじゃないか!」と力強く言ってくれているのですが、さて、無職でどうやって食っていくかについては一切の言及がありません。
 とにかく「偏見はいかんので働かない男性を悪く思うのは止めましょう」といったレベルの話が延々、延々と最後まで続きます(ロクにデータもないので本当に中身が薄いです)。

 本書では「主夫」についても、あまり言及されません。
 いえ、ちょこちょこと話題には出て来るのですが、「主婦を女の幸せと決めつけるな」というお説教と共に「主夫になるのは勇気ある決断」とか「日本の経済状況を考えると共働きが安心」とか「男が働かないという選択は難しい」と書いてるだけです(80P)。
 いえ、それはその通りなのだけれども、だったら「男は働かないと死ぬ」のが真理であり、間違ってもお気楽な顔で「男が働かない、いいじゃないか」とは言えないはずです。
 とにかく本書は(あらゆるフェミニズムの書がそうであるように)「べき論」のために客観的事実から全力で目をそらすことにばかり、注力しています。
低収入の男性は結婚できないって本当ですか?」の節では、年収の低い男性は結婚できない、というデータについて、

 しかし、この議論はあるデータの存在を隠しています。20~30歳代の男性では、だいたいどの年収でも、「既婚」と「恋人あり」を足した割合は50%以上の数字になっているのです。したがって、年収の低い男性は独身かもしれませんが、年収の高い男性と比べて極端にモテないわけではありません。女性は男性の年収を気にして恋愛をするというのは、一部の女性には当てはまるかもしれませんが、全体としては単なる偏見であることが分かります。
(73P)


 と言うのですが……意味わかります?
「隠しています」と憤っていますが、「結婚」を主題にしているのにいきなり「恋人」という概念を自分で持ち出しておいて、相手はそれを「隠している」ぞと言われても困ってしまいます。既婚者に加え、恋人を持つ者の数をもカウントすれば、その比率は年収とあまり関係がないのだ、と言いたいようですが、そもそも「50%を超える」という基準が大ざっぱすぎます。後半を読むと「女性が男性の年収を値踏みする」という事実を否定したくて書いていることがわかりますが、いずれにせよ「年収の低い男は結婚できない」という事実は全く揺らぎません。
 さて、師匠は今までもデータを、詭弁を弄してねじ曲げてきました*。
 ――そう、冒頭では惚けて見せましたが、本書の著者は田中俊之師匠。
「男性学」の旗手、即ち「フェミニズムの使徒」です。
 そんな師匠の挙げるデータ、容易には信用できませんよね。
 で、調べてみると見つかりました。以下です。



内閣府のデータなのですが、色がついていてわかりやすい、別なところで引用されている表を孫引きしています。
 ただ、田中師匠がこのデータを根拠にしているかどうかはあくまで不明であること、後、このデータの「既婚者」は「結婚後三年以内」の人だけが対象になっていること(つまり、二十代で「既婚者」になった人の多くは三十代のデータでは弾かれている)ことを申し添えておきます。


 上の「20~30歳代の男性では、だいたいどの年収でも、「既婚」と「恋人あり」を足した割合は50%以上の数字になっているのです。」というのが、はっきりとウソだとわかりますね。20代は比較的低収入でも既婚率、恋人持ち率が高いですが、これは女性もまだ若いのでまだ余裕があるのではないかと想像されます。一方、30代となるともう、かなり悲惨なことになっていますね。

* 『男がつらいよ』では男の幸福度が女のそれよりも低いという調査を否定しようと、意味のわからないことを書いていましたし、『<40男>はなぜ嫌われるか』では聞き取り調査で「女性は男性に奢られたがっていない」と決定づけています。つまり本人の顔を見て直接聞いたそんな調査で、女性の本音が聞けるという前提なのですね。

 さて、ぼくは去年の夏、「男性学祭り」を催しました。
(当然、この「去年」は本稿を発表した2016年の前なので、上の『男がつらいよ』辺りから見て行ってみてください。)
 そこでも繰り返した通り、「男性学」者たちは男性を、なかんずく男性の作り上げた企業社会を深く深く憎悪しています。

 企業社会と言えば、近年「ショッカーの戦闘員をブラック企業の社員のメタファーとして描写するセンスのないCM」とか、よくありますよね。つまり企業の暗喩としてショッカーを持ち出すことは、むしろ世間一般にも理解されやすいように思います。
 しかし、ぼくは時々、「フェミニズム」たちをこそ、仮面ライダーの敵に準えてきました。少なくとも本書の田中師匠は戦闘員たちにただ「我らが偉大なショッカーの目的のために死ね」と特攻を命じているショッカー幹部、以上のものには見えません。
 例えば本書では、やたらとイクメンについて語られます。
 何を言い出すのかと思えば、「イクボス」という概念を広めようと、師匠はおおせです。管理職男性が率先して育児をすればイクメンが普及できていいぞと。そんなの、師匠が味方しているはずの若者男子にとってはことさら、過酷な要求でしょう。男性によけいな負担をいくつもいくつも上乗せするだけの提言なのですが、それについては何も考えているご様子がありません。
 笑ってしまうのは

本来、イクメンを広めるために尽力した人たちは、「仕事と家庭を両立しようよ!」と明るく呼びかけていたはずですが、一般的に使用されているうちに、「仕事と家庭を両立すべきだ!」に変質してしまいました。
(93P)


 などと真顔で書いている箇所です。明るく言いさえすればええんかい
 本書もまた、「働かなくてもいいじゃないか」と「明るく」言っているわけですが、それって「明るく」「死ね」と言っているだけですよね。
『かってに改蔵』のギャグでキツい発言も(笑)をつければ大丈夫というのがあったのですが、それを思い出します。
 死ねよ(笑)。

 いつも書くことですが、フェミニズムはバブル期のあだ花でした。
 景気がよかったので女性を労働力として使う理屈づけとして、フェミニズムは重宝されました。そのフェミニズムのコバンザメになればいいことがあるのでは……との期待から90年代の中盤に男性学(メンズリブ)が唱えられ、速攻でおわコン化した。
 しかし去年辺りから、死んだはずの男性学がまた復活の兆しがある……ということで、ぼくは去年、「男性学祭り」を執り行いました。そこでわかったのは、男性学が千年一日の進歩のなさで、二十年前から一切のアップデートを行っていなかった、という事実でした。
 本書はその果ての、無残な結果であるように思います。
 ぼくも「無残」といった激しい言葉は使いたくないのですが、こと本書については(田中師匠は本当に善意100%で、「若者男子を全面擁護」しているおつもりなのだと思いますが)そう言われても仕方のない、非道いものだと考えるからです。
「働きたくても職がない」、或いはニートや引きこもりなど「精神的な問題を抱えて働けない」男性が溢れている現代に、こんなタイトルの本を出して、タイトル詐欺をするその精神構造とはどういうものなのでしょう。
 藁にも縋る思いで本書を手に取って裏切られたと知った多くの人々は、どんな気持ちでいるのでしょう。

 いえ、そんなことを言っても詮ないことかも知れません。
 そもそも、「男性学」とは、「男性を殺すことを目的としたガクモン」です。
 師匠の男性への憎悪は今までの著作をご覧になってもご理解いただけると思うのですが、本書でも「男を一律に決めつけるな」と言っておきながら、ご自分はバシバシ決めつけているのです。
 38pでは男は「乱暴、不真面目、大雑把」であることが許される(が故にマジメに勉強しない)とか、45pでは男はちょっとおだてられるとすぐ調子に乗る、48pでは男は女よりも「自分は特別な人間だ」という幼稚な妄想を引きずり続けると、とても当たっているとは思えない思い込みでバシバシ決めつけ。
 もっともその前に

 ちなみに、本書では男性は一般的にこのような傾向があるという話をしている部分があります。あくまで傾向について言及しているだけで、男性を一つの集団として扱っているわけではないので注意してください。
(19p)


 と予防線が張られ、事実、77pでは「男は馬鹿だ」と笑いを取ることは、男性へのハラスメントだと述べているのですが。
 しかしこれって、「全員がそうではありませんよ」との予防線さえ張れば、何を言ってもいいということにすぎず、何だかなあとしか思えません。
 ことほど左様に、男性学の語る男性像は(フェミニストの目を通過したものであるためでしょう)非常に時代遅れであり、その振る舞いは100%「今時いない男性像を仮想して、それに対して勇ましく石を投げる」という自作自演です。
 そして、これもいつもの繰り返しですが、そういう彼ら「男性学」者自身はマチズモを、何の内省もなく振り回します。
 85pでは師匠がぎっくり腰のために、駅の階段を手すりに捕まって昇っていたとのエピソードが語られます。すると上から中年男性が降りてきた。相手が道を譲ろうとしないのでやむなく「すみません」と断ってその男性の肩に捕まって迂回したら怒鳴られた、とあります。
 まるで自分が被害者であり、「これだから男はダメだ」と言いたげなのですが、それ、単純に相手に腰の状態を説明すればよかったんじゃないのか(何しろこの著者、まだ四十になったばかりです)。
 古典的(欧米などで語られる)男性論では「男は寡黙をよしとされるが、それはコミュ症でよくない」とされます。これ、昔の男性は本当に寡黙だったのか欧米の男性は寡黙なのか、以前から不思議だったのですが、このことは田中師匠にこそ当てはまるのではないでしょうか。
(ちなみに、この言説そのものは女性とのディスコミに黙り込まざるを得ない男性を、女性から主観的に評価した言葉なのではないか、と思います)

 本書も終盤に差しかかると、こんな記述が登場します。

 男性はフルタイムで働き、結婚して妻子を養うのが「常識」とされています。(略)男性が働かないという選択肢を考え出すと、このシステムが揺らいでしまうので、仕事を続ける中で直面する男性が男性だからこそ抱える悩みや葛藤は「ないこと」にして社会は回ってきました。ですから、男性の生き方が変われば、間違いなく社会は大きく変わります。
(172p)


 いや、世の中がどう変わるかではなく、ぼくとしては明日のパンをどうやって手に入れるかを知りたくて、大枚はたいて本書を買ったんですが。
 むしろ男性が働かないと収入が途絶え、飢えて死ぬというシンプルな事実を「ないこと」にしているのは本書の方ではないでしょうか。
 師匠は「普通」や「当たり前」に疑問を呈する自分に酔いしれ、読者にもそうあれと押しつけてきますが、それが税金をじゃぶじゃぶと投入した講義で食べていられるという恵まれた環境にいるからこそできることだという認識は一切、ありません。
「社会をひっくり返したい。だからお前ら、労働を拒否せよ。」
 師匠のホンネは、そんなところでしょう。
 そのリクツづけのために働くことにまつわるネガティビティがいろいろと並べ立てられている(といっても、今の企業社会はおわコン化するぞという脅しだけで、例えば男性がいかに過労死で殺され、女はそれを糧にしているかなどという本当のネガティビティについては頑なに口をつぐんでいるのですが)という仕掛けです。
 それで誰かが飢えて死んでも、我が理想には仕方のないコストなので、どうでもいいのでしょうね。
 この節は最後で

自分を変える勇気を持って、一緒に社会を変えていきましょう。
(175p)


 とアジ文書のようなことを言って終わります。次のページをめくると、「さいごに――男が働かなくてもいいですか」との節タイトルが。ここは本書でも最後の節なのですが、このタイトルに答え本文は

もちろん、働かなくても大丈夫です。
(176p)


 と続きます。
 もちろん、この最後の最後に及んで、働かずに糧を得る方法については何一つ書かれていません
「大丈夫です。」との力強い叫びは、「読者は死ぬが俺は金持ちだから大丈夫」との田中師匠の揺らがぬ確信の叫びなのでしょう。

平成オトコ塾(再)

2020-12-20 18:16:34 | 弱者男性


※この記事は、およそ7分(課金コンテンツを含めると15分)で読めます※

 前回同様、動画の補足とも言える記事の再掲企画です。
 今回は十年前に出ていた、澁谷知美師匠の著書を評した記事です。
 これは前回記事にもリンクを貼ってはいるのですが、今の目で読み返すとやはり、説明不足や意味の通りにくい文章も多いので、多少の改稿を加えました。ことさらに新たな内容をプラスしたわけではなく、あくまで読みやすさを考えてのリライトです。
 では、そういうことで……。

*     *     *


 女性の手になる「男性論」の書です。
 茶化してしまうなら、草食系男子とか非モテとかに対する「フェミニズム勧誘本」といったところでしょうか。
 本書を読むきっかけとなったのは、YOUTUBEに上がっていた本書の著者、澁谷知美教授と上野千鶴子教授の対談でした。Mixiの某コミュでそれが話題に上ったのですが、実はぼくはその対談を見る限り、比較的澁谷教授に好感を持てると感じたのです。


YouTube: 上野千鶴子vs澁谷知美トークショー1

 対談において、澁谷教授は上野教授の「男の友情はダメだ」論にかなりしつこく食い下がり、反駁していらっしゃいました。繰り返す通り、フェミニストたちはとにもかくにも男の友情を貶め、女同士の連帯を尊ぶ傾向にあります。そこに疑問を表明した澁谷教授の実直さと勇気とを、ぼくは大きく評価したいと思います。実際、本書においてもブルセラ学者や萌え精神科医のセンセイ方がママのお言いつけ通り、お利口さんに男の友情を全否定なさっているのを一蹴する箇所があり、読んでいて痛快でした。
 まあ、残念ながら、教授の意見に賛成できた点はそこ以外あまりなかったのですが。
 というか、以上は第一章「その「男の友情」は役に立つか?」という、基本的には男の友情を否定している章の中で述べられたことなのです。この、宮台師匠、斉藤師匠(あ、加筆していて名前出しちゃった)を腐す個所は単に両師匠をやっつけたくて書いてみただけなんじゃないかと……。
 もう一つ、澁谷教授は「男の友情は素晴らしい」「女は嫉妬の塊」「女は男の話を聞かない」などなど、「一般論」をまず提示し、次にそれを否定するという論の展開の仕方をなさっています。「通念はこれこれだが、実のところは違って……」というわけですね。
 これは彼女が「一般論的には男の友情は強いものだと見なされている」とご存じであり、象牙の塔にお住まいのちぇんちぇー方と違って、世事に通じていらっしゃることを示しています。
 また、この論理展開は「男の友情」のネガティビティをあげつらいさえすれば何となくそれを否定できたような気になり、「あれ? 女の友情だって同じネガティビティがないか?」といった疑問を読者に生じさせにくいという点でも、極めて優れた手法であります。奇しくも同書の別な箇所に(以上とは全く文脈の関係ない個所で)

不思議なことに、「一般的にいわれているのとは違うこと」は、妙な信憑性を持つものです。


 と書かれているのですが、まさしくそのテクニックを応用した物言いですね。
 結局、教授は男の友情は「競争心」故に成立しにくいものだ、との「彼女たちの業界の中だけで流通する一般論」を踏襲していらっしゃいます。「女同士には競争心ってないの?」といった疑問に答えてくださることは、もちろんありません。
 他のトピックスにおいても、基本的に教授は同じような論理のすり替えという手法を多様なさっています。
 例えば教授は男が女を「守る」という時、「経済的サポート」のみを考える「単線型」サポートと、それに加え「情緒的サポート」をも考える「複線型」サポートのふたつの種類があるのだという、実に奇妙な定義を持ち出します。
 何かと思って読んでいけば、教授は「単線型」の場合、失業するとぽっきりと心が折れますよ、という理由で「複線型」のサポートを勧めてきます。では、その「情緒的サポート」とは具体的に何を指すのでしょうか?
 はい、「家事育児をすること」でした。
 これ以降、論調は「日本の男は働き過ぎ」という、主張としては頷けるものに移っていくのですが、読んでいる側はもうどうでもいいという気分に陥ります。

「非モテ」についても語られているのですが、これもどうにもピントがずれているように感じられます。
 従来の非モテ言説(格差社会に原因を求める説)は教授にとって「男が稼ぐ前提で立てられた理屈だから許せない(大意)」もののようです。そんなこと言ったって、そもそも女が稼いで男を養う(せめて共稼ぎする)気概があれば、非モテや非婚化自体が発生していないと思うのですが。
 ぼくも著作で展開した「女は金に寄ってくる」という理屈に対しても一応、反論が試みられているのですが、「モテない理由はいろいろある(大意)」とかハナシをすり替えているようにしか、ぼくには読めませんでした。

「そうはいっても、年収が上がれば婚姻(恋愛)率も上がるのは確かじゃないの」「男性の年収を上げれば、今よりも数多くの人たちに恋愛が保証されるってことでしょ。だったら、すべての人間に恋愛を保証できないからといって、格差解消は不要ってのは暴論なんじゃないの?」
(84p)


 という反論を仮想して、それに対して

 格差解消はむしろ必要です。ただし、すでに述べたように、格差是正は格差是正として粛々と追求していけばよいことであって、そこに恋愛や結婚を持ち込む必然性はまったくありません。
(84p)


 と答える下りなど、メチャクチャとしか言いようがありません(相手に無理矢理二種の疑問を提出させて、二次的な一方の疑問だけに答えて誤魔化している!)。
 また、非モテ問題を若年労働者問題とパラレルで考えている箇所など、ただひたすら「社会」(という抽象的で捉えどころのないもの)に責任を押しつけ、「女」に不備があるかどうかなど、まず夢にも考えない態度はいっそ清々しいとすら感じてしまいます。

 まだまだあるのですが、トピックスが多義に渡っている本であるがため、レビューもまとまりのないものになってしまいました。この辺でやめておきましょう。
 ただ、最後に。
 例のMixiではYOUTUBEでのやり取りが「男の性的なコンプレックスを嘲笑ったもの」であると評されていました。包茎手術の問題などが語られていたのですが、正直、ぼくはそこまでの悪意は感じませんでした。ところが本書を開いてみると、なるほどYOUTUBEでも話題にするだけあって、男性間の性的いじめや包茎手術の失敗について、妙に子細にページを割いて書かれているのです。
 むろん、渋谷教授は男性に対して親身になるが故に、そのような話題にも果敢に挑まれたのでしょう。というか、ご本人はそのように信じていらっしゃるはずです。包茎手術に潜む恐怖について、過剰な熱意でもって書かれているのですが、ここもご当人に尋ねたら、そうした動機をもって書いたのだと言い張ることかと思います。
 包茎手術の失敗で無残なことになった男性のペニスについて、大はしゃぎで、子細に描写する箇所があります。
 少し、引用してみましょう。

 そのペニスは二色アイスのように上と下で色がはっきり分かれているうえに、チョコ部分とバニラ部分の間を大ざっぱなジグザグの境界線が走っています。(中略)気を取りなおして「新撰組の羽織の模様みたいでカッコいいじゃん!」と励まそうかとも思いましたが、異国の人ゆえ新撰組の説明からしなくてはいけないので、黙らざるをえませんでした(図.1)。
(150p)


 包茎手術、恐ろしいですね。
 この(図.1)に対応させ、「新撰組の羽織」の画像が掲載されています。親切ですね。
 ちなみに本書に載った表以外の図はこれと、「包皮再生グッズ」を取りつけた男性器の写真のみでした。教授の熱意が伝わってきますね。
 これを男女逆転して考えるとすれば、女性がレイプで受けた傷を男性が面白おかしく書き立てるようなもので「氏賀Y太みたいでカッコいいじゃん!」と思ったのですが、氏賀Y太の説明からしなくてはいけないがとてもできないので、黙らざるをえませんでした*1

*1 氏賀Y太氏というのはものすごいグロ描写を得意とする漫画家さんです。当初、この注釈の代わりに(図.1)としてそのグロ画像を貼りつけていたのですが、公序良俗に反するということで、当記事、長らく閲覧禁止となっておりました。まあ、無理もありません。

*     *     *


 ――以上です。
 さて、もう一つ「再掲」すべき記事があるのですが、まあ、いろいろ事情がありまして……。
 ともあれ、おまけとして久し振りにnoteの方に課金コンテンツを用意しましたので、←をクリックして補完していただければと思います。ただ、これはいつも言っていることなので、ここまで読んでピンと来られた方は、読むほどのこともないかと存じます。
 では。

『現代思想 男性学の現在』(その3)(再)

2020-12-13 15:43:46 | 弱者男性
※この記事は、およそ19分で読めます※

 どうも、以前うpした動画はご覧いただけたでしょうか。

風流間唯人の女災対策的読書・第15回「これからの男性学たちへ」


 そこでいくつかご紹介した書籍は、既に当ブロマガでレビューをしています。
 というわけでここしばらくは、そんな関連記事の再掲載でつないでいこうかと。
 まずは金田淳子、澁谷知美両師匠の記事です。
 この『現代思想 男性学の現在』については、何と(その4)までありまして、これの他はそれぞれ、(その1)(その2)(その4)といった具合なので、ご興味がありましたら、そちらの方もどうぞ。 では、そういうことで……。

*     *     *


 前回、(その1)を戦闘員に、(その2)を怪人に例え、そして今回は大幹部の文章をご紹介すると予告しました。
 しかし考えれば、上の比喩は「一般信者」「教祖」「ご神体」と言い換えた方がいいかもしれません。(その1)でご紹介したのは「シスヘテロ男性」の文章、すなわち「一般信者」であり、彼ら彼女らの「組織」では最下層。いえ、そもそも「男性学」自体が「組織」への勧誘のための『エヴァ』の上映会のようなものでした。
 そして(その2)では「ガイジン」や「トランス」様についての文章をご紹介しました。彼らは男性ではあれ、階級が上の人々でした。
 今回は彼らがさらに仰ぎ見ている「ご神体」をご紹介します。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○澁谷知美 金田淳子 新たなる男性身体の〈開発〉のために

 ――あ、もうタイトルだけでおなか一杯っス。
 お名前を見ただけでお察しの二人組の座談会。とはいえ、表紙を見ても何だかメインコンテンツみたいな扱いですし、ここは多少、深く突っ込んでいきましょう。
 その前にちょっと。
「男性学」の世界では「男は感情から疎外された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレが語られ、ぼくもそれ自体は賛成だ、といったことは何度も(その1、その2でも)語ってきました。それと同時に「男は身体性からも阻害された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレもあり、ぼくはそれにも賛成します。これらは言うまでもなく、拙著における「男/女は三人称/一人称的存在だ」という指摘とぴたりと重なるものですね。が、「男性学」者たちのそれは口先ばかりのものであり、信用ならんということは(その2)のVtuberについて述べた論文を読んでも明らかでしょう。
 タイトルからもわかる通り本稿もまた、この後者のテンプレを前提したロジックが展開されるわけですが、さて、どうなりますやら……。

澁谷 なぜ男が快楽を与える側であることが前提になっているのか、ということですね。
金田 そうです。私はそのアホさ加減への憤りからジェンダー研究を始めたところもあるのですけど、とはいえ本当にアホが描いているわけではないでしょうし、(中略)二〇世紀の初めごろには、セックスにおいて男がリードすべきだという盲信に、身体的に根拠があるのだということを医者や知識人たちが大真面目に言っていたわけですよね。
(163p)


 師匠たちは青春時代をバブル期に過ごしたのではないでしょうか。
 ぼくがいつも言うように、当時は雑誌やテレビで「女が強い」「女はセックスにおいても能動的になりつつある」と病人のうわごとのように繰り返されていました。そしてその根拠としてトレンディドラマの女性のセリフが、幾度も幾度も幾度も幾度もびっしりと手垢がついたまま振り回されていた、ということも、何度か指摘していますね。この頃のムードって、今となってはお伝えすることも難しいのですが、ともあれ両師匠の上のようなやり取りが、当時は滑稽ではなかったのです。
 しかし今となっては、かなりの違和感のある物言いなのではないでしょうか。女性は婚期を逃し、婚活に血道をあげるのみ。当時の論調では今頃、男の子はみんな可愛らしくなって女性に主夫として養われてそうな勢いだったんですが、ヘンですねえ。
 これ、事情は欧米でも同じようです。ぼくが時々言及する『正しいオトコのやり方』はアメリカの男性解放運動初期の名著なのですが、ここに収められているフレドリック・ヘイワード「「男の子」は「男」に」では、コンパで男子生徒に女子生徒への働きかけを禁じてみた、という実験が述べられています。そこでアプローチしてきた女子生徒は一人もいなかったという結果を得て、「これでまた一つの神話が死んだ。(195p)」と痛烈に締めくくられています(ちなみに、この実験自体がいつのことか判然としませんが、原著が出たのは1985年のことなので、その頃だと思われます)。
 もう一つ、両師匠を見ていていたたまれないのは、彼女らが腐女子であり(あ、澁谷師匠は違うのかな)、上のような文脈でBLを持ち出し、ドヤっていること。
 ぼくはキホン、腐女子の悪口は言いたくないのですが、それでも腐女子がモテる女か、能動性、男性性を獲得した女かとなると、それは……と言わざるを得ない。しかしそこについて、両師匠は驚くほどに屈託がないのです。
 2009年、「草食系男子」という言葉が流行っていた頃、便乗本で『肉食系女子の恋愛学』とかいう本が出ました。著者は桜木ピロコ師匠といういかにもな女性ライター。師匠はそこで(当然、当時としても古すぎるバブルな強い女性像が語られているのですが、その一端として)BLを紹介し、「腐女子たちは男たちを性的消費の対象にしている。女が貪欲に、肉食になっているのだ」とドヤっていました。が、腐女子というものの実態を知るぼくたちから見ると、「おいおい」と言わずにはおれない。腐女子は「私は責めに感情移入しているのだ」と自称する傾向にありますが、それも虚栄心からの嘘であろうことを、ぼくたちは直感的に知っているのですから。
 また、ピロコ師匠の本はまだそれほど腐女子という概念が人口に膾炙してない時期に、一般ピープルに向けて、騙し通せるだろうと踏んでその話題を持ち出してきていたのに対し、金田澁谷両師匠は今の時期に、当事者でありながら臆せず振り回すのだから、見ていてはらはらします。両師匠は「男の身体に興味津々の肉食系女子」とでもいった「キャラ付け」で座談会を行っていますが、上に書いたように腐女子のマジョリティは決してそうではない(し、そのことはオタク男子にはバレてしまっている)のですから。
 いくら何でも平成も終わろうという世の中でいまだ「強い女」像を、しかも一番演じちゃいけない人たちが演じているという場面を目撃して、何だか「映画本編の前にニュース映像を流している映画館がいまだある」と知った時のような驚愕を覚えずにはいられないわけです。

 ――ちょっと、解説が必要かも知れません。
「果たして腐女子は、男の肉体に欲望を抱く、能動的なセクシュアリティの主か?」。
「BLというテキスト」を根拠に、それを肯定するような論調が一定、ある。しかし「腐女子というナマモノ」を見てみると、それは違うんじゃないかと考えざるを得ない。
 ぼくの知りあいの腐女子で、オッサンキャラにメイド服を着せるのが好きなヤツがいました。田亀源五郎先生……ほどリアルな絵を描くわけではないけれども、まあ、感じとしてはそんなのを連想していただいて結構です。しかし、では、彼女は田亀的なキャラの肉体性に「欲情」していたのかとなると、それは十中八九、そうではない。オッサンにメイド服を着せる行為自体に「男の肉体性の滑稽さを笑う」という目的が秘められていることは、否定できません。何しろ、その腐女子は一方で女性のヌードを描き、「男の裸より女の裸を描く方が楽しい」とも言っていたのですから。
 恐らくですが、オタク男子はかなりの高い比率でこれに近しい見聞をしているのでは、とぼくは思います。
 言うまでもなく腐女子はシスヘテロ女性であり、男と女で、美しいのは女の肉体だと考えている。男の娘などを例に挙げるまでもなく、二次元では「女性より美しい男性」の描画も容易ですが、それはあくまで「女性性をまとった男性」であるからこそ。だからこそそうしたものを描く腐女子が多いわけです。ひるがえって上のオッサンのメイド服を描いている腐女子はオッサンを美しいと考えているのかとなると、そうではないことが、それに続き引用した言葉からもわかる。
 金田師匠は

 異性愛ものに限らないとすれば、BLには、暴力的なものもありますが、思いやりをもって向かい合うセックスを、二人の関係性の変化を絡めつつじっくり書くものが多いですよ。
(170p)


 とおっしゃっていますが、何をまあ、よくぞここまでいけしゃあしゃあと、と言わずにはおれません。腐女子はレイプものが大好きだし、前にも書きましたがぼくは(美少女ものも描く)腐女子の「残酷なネタも女の子で描くのは可哀想だが、男の子なら描ける」という主旨の言を複数人から耳にしています。
 BLとは「全てを男に負わせる」という女性ジェンダーの行き着く果ての表現でした。もちろんフェミニストとは違い、腐女子は実際の男児への性被害についてまでは肯定しないはずですが……(リンクと本文とは一切関係がありません)。
 しかし、両師匠はそんなこちらの疑念は歯牙にもかけず、男の肉体性について嬉々と語り、「男の性を消費する女」という自己イメージをあどけなく吐露し続け、はた迷惑な男性ヌードの資料画像を挿入する。
「男の乳首について語るイベント(何だそりゃ)」に来た男女から統計を取ったら「男の乳首を舐めたことのある」女、「乳首を舐められて感じた」男が七割いたとか、もう心の底からどうでもいいハナシを延々延々延々延々延々語り続ける。
 これらは最初に書いた「男は身体性を取り戻すべき」とのテーゼから出発し、そのテーゼを解決する処方箋として、ドヤ顔で持ち出してきたものであるわけですが、しかし上の腐女子についての考察を踏まえると、やはり一種のポーズであるとしか思えないわけです。

 金田師匠は(渡辺直美など、女性の中に太っていてもいいという価値観が生まれつつあるという事例を出して)

 男性のほうも「太っていても、貧弱でも、背が低くてもいい。他人と比べなくてもいい。自分の身体は愛おしいものだ」という流れに向かうこともありえたかもしれませんね。
(173p)

 ただそれよりもまずは包茎も含めて男性が自分の身体のあり方をもっと肯定できるようになればいいなと、やはり思いますね。
(179p)


 などと世にもテキトーなことを垂れ流します。
 繰り返しますが、ぼくは「男も身体性を取り戻せ」との掛け声そのものは賛成します。しかし彼女らの言に、どれだけ価値があるのでしょうか。
 斜陽のテレビは、ただひたすら女性に媚びるだけが生き残り戦略ですから、独身のブスやデブといった弱者女性たちに「そのままでいいんですよ」と甘言を垂れ流すコンテンツを大量に送り出しています(ぼくはあんまりテレビを見ないのですが、それでも伝わってきます)。上の「太っていてもポジティブな女像」というのもそれで、一つには「単に弱者女性への甘言」であり、もう一つは視聴者の女性に優越感を持たせるための「自分よりもブス」枠なんじゃないでしょうか(渡辺直美さん、明らかにそれっぽいですよね)。

 対談は次第に、「非モテ男性論」とでも称するべきテーマへと移行していきます。
 しかしなされるのはミニマリスト(できるだけモノを持たないで生きていく主義の人)を礼賛するだけの、お気楽なもの。そう、もうぼくが無限回数繰り返している、フレンチとウナギを食いながらの「お前らは牛丼食っとけ」論ですね。
 澁谷師匠は上野千鶴子師匠の「マスターベーションをしながら死んでいただければいいと思います」発言が叩かれたことが不当であるとし、

上野さんは生身の人間とセックスをしたいという欲望には「抑圧と支配の欲望」と「コミュニケーションの欲望」の二種類があって、前者にかんしては「そんなものを社会が保証してあげなければいけないという「性的弱者の権利」なんかない」と言っており、後者にかんしては「愛し愛されるためのコミュニケーション・スキルを磨いていただくしかない」というきわめて当たり前のことを言っているにすぎない
(176p)


 などと平然と口にします。まさにフェミニズムが男への憎悪だけを根拠にした思想であることが明瞭に示された名文です。
 確かに、「コミュニケーション・スキルを磨くしかない」は正論かもしれません。しかし両師匠はこれ以降、「男どもは自助をせず助けろ助けろとほざきみっともない(大意・176p)」と腐しますが(ではフェミが莫大な国家予算をぶんどっているのは何だ)、そもそも恋愛においてコミュニケーション・スキルが要求されるのは専ら男ですよね。それは上野師匠自身が以前に言っていたことすら、あります*1。また仮に、もし両師匠が夢想するように女性が積極的になっているのなら、そうしたバイアスはなくなっているはずなのだけれども、実際にはなくなっていない。
 結局、自分たちは「女は強い、女は強い」と根拠の怪しい妄想を振り回し、しかし男女格差(女尊男卑と言っても、ぼくの嫌いな言葉ですが男性差別と言ってもいいのですが)はひたすらに無視して男の(女が強くなっていないからこそ出てきた)主張をねじ曲げ、荷を背負わせたまま、みっともない、不当な要求をしているのだとインネンをつけているだけなのです。

*1 チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”

 両師匠はまた、「メディアが幸福な独身男性像を発信していない(ことが悪いのだ)」などとも言います。「四〇代以上の異性愛男性が恋人も妻もいないけれど充実した毎日を送っているというような作品(177p)」というのが全く思いつかないそうなのですが、それはフェミニズムの成果として、「必ず、女を出さなければならなくなったから」でしょう。そう、横山光輝とかその時代の漫画を見ると、本当に女は全く出てこないのが普通だったり(下手すっとBL的に、「少年」が一般的な「女性」の性役割を果たしていたり)します。そこを女性の社会進出が絶対正義なので、男性向けの漫画にも女性がいっぱい出るお約束になったと、ただそれだけのことです。昔の作品をリメイクした時、よくぶっ込まれますよね、新しい女性キャラが(一方で女性性が「相対化」され「紅一点」の図式が崩れ出したことも時々指摘していますが、冗長になるので今回は置きます)。
 一方、何でも「幸福な独身女性像」を描いたコンテンツというのはいくらもあるのだそうな(176p)。まあ、女流漫画家などにはフェミが多いから、そうした女性像(何か、独身でも男を蹴落としてバリバリやってるキャリアウーマンの漫画とか)が多いのは事実でしょう。しかし、圧倒的多数は男にモテることを楽しむ漫画でしょう。藤本由香里師匠の漫画論とかもそうですが、この人たちって膨大なテキストから自分のお気に入りのものだけを取り出してさあどうだとドヤっているだけなので、何とでも言ってしまえるんですね。
 結局、本稿は専ら「男を貶める」という目的のためにロジックが展開されていきますが、それを分析していくと、根拠がないのは言うまでもないとしても、「フェミニズムは結婚制度、恋愛そのものを否定することで弱者女性をも追いつめているのだ」ということがつまびらかになっていくばかりなのです。これはこれで極めてエキサイティングな対談と、言わねばなりませんがw
 最近も漫画家の松山せいじさんがツイッターで「女性のひきこもり」が「家事手伝い」という名前の後ろに隠れ、可視化されていないので親の死と共に大問題になってくるだろう、との指摘をしていました。そう、女性が秘めている問題というのは一つにフェミニズムが自分にとって都合が悪い故に隠蔽し、二つ目には女性本人の虚栄心、三つ目に男性の女性への遠慮という心理が働くため、表に出てこないんですね。例えば「高齢処女」というのは「高齢童貞」よりも闇が深いと言われますが、ならば「高齢処女」の調査をお前がやれ、取材とかしろと言われても、気後れしてちょっとできませんよね。そうした事情が「女は元気でモテるので、非モテ問題など抱えていない」という耳に快い空論にすり替えられていっているのです。
 フェミニストたちはそうした女性こそを救うべきだと思うのですが、まあ、それができればフェミニズムとは言えません。結婚もセックスも全否定するのがフェミなのですから。

 さて、言わばミニマリズムに相対する概念としての、インセル(的なるもの)も話題に上ります。

金田 「女を手に入れることだけを考えて三〇年、四〇年生きてきたのに、いまさらそんなことを言われても取り返しがつかないんだよ!」ということ?
澁谷 そうです。(以下略)
(175p)

金田 そのことに関連して、ネットなどでよく目にする「非モテがつらい」言説などを見ていて私が思うのは、もちろん女性でも非モテがつらい、恋人がほしいと思っている人はいるのですが、それで「私を選んでくれない男のせいだ!」といって男を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんです。ところが男性の場合「俺が非モテで選ばれないのは女がわがままだからだ」と言う人がすごく目立つ。
(175p)


 奇遇です。ぼくも「私を選んでくれない女のせいだ!」といって女を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんですが。
 いつも繰り返している通り、これは「女は主夫など養わない、ならば女に主婦に収まってもらった方がいい」というネット世論が彼女らの目を透過したがため、情緒によるノイズが混じりこんで歪められてしまったものでしょう。
 そもそもそこまで男が女にがっついてれば、男性向けの恋愛マニュアル誌って今も毎週出てますよね。一方、女性向けの結婚情報誌って驚くほどに分厚いんですが。ここからは逆説的にむしろ、「男のそういうところだけを執拗に執拗に探し出し、ガン見している被愛妄想者のストーカーぶり」が立ち現れています。「男たちが私を求めている、求めている!!」と彼女らが叫ぶ度、どっちがどっちを求めているのかが、いよいよ露になるという、フェミニストおなじみのの自爆芸です。
 一方、「男を憎む女性がいない」という物言いも、当ブログをお読みのみなさんにしてみれば、失笑をもって迎える以外、手のないものかと思われます。ここ三十年来、あれだけ「いい男がいない」と女の喚き声が聞こえてきたのは幻聴だったんでしょうか。「草食系男子」という言葉からして、そうした罵倒語として解釈されることの方が、むしろ多いですよね。
 要するに、「高齢処女」の話題の時に挙げた女性の虚栄心、男性の遠慮がフェミニズムを肥え太らせ、マジョリティ女性を苦しめているのです。それは「テレビのブス向けコンテンツ」を鑑みても、そしてこの両師匠の振る舞いを見ても、明らかです。
 そして、彼女らの物言いとは裏腹に、ネット上ではおびただしい「男を憎む女」たちが惨憺たる有様を見せています。いえ、確かにそういう女たちは「モテないから男を許せない」とは明言せず、「女性差別」、「男の性犯罪」を批判するというテイを取っています(もちろん、それを言えば「モテないから女を許せない」と明言している男性も、先に書いたように見かけないのですが)。しかし、フェミニストのそれと同様、彼女らの糾弾する対象には非常に往々にして実態がない。ならば彼女らが本当に憎んでいるものが何かはもう、お察しなのではないでしょうか。
 両師匠は「結婚したい男たち」、「女が手に入らないが故に女を憎む男たち」というトピックスについて極めて饒舌に語り続けますが、裏腹に女性の婚活ブーム、専業主婦願望についてはついぞ語ろうとしません。当たり前です、語ったら自説が崩れてしまうのですから。

 こうして、前回も今回も、とにもかくにもフェミ、男性学側の主張には理がなく、一方で彼ら彼女らが理がないとしている反フェミの主張には、理がある、そして反フェミが提示している主張の根拠すら、フェミ側が隠蔽しているようにしか思えない、そんな惨状ばかりが映し出される結果になってしまいました。
 しかし……彼女らの物言いは驚くほどに上から目線であることに加え、何だか自己陶酔的です。先の上野師匠の問題発言を擁護した上で、澁谷師匠は続けます。

恋愛やセックスにかんして「自分(たち)で解決せよ」と言われた際に男たちが見せるヒステリックな反応は研究に値すると思います。
(176p)



 続いて金田師匠も。

たしかに「なぜ女がケアをしてくれないんだ」という不満がありそうですね。
(176p)



 彼女らは口では脱恋愛、脱結婚を語っているが、情緒のレベルでは、実はそうではない。
 フェミニズムの本質は「性犯罪冤罪」である、そして「女災」とは「性犯罪冤罪」を広義に解釈した概念である、とはぼくが常に述べていることですが、さらに言えばこの「女災」の本質は上にも述べた「被愛妄想」です。彼女らは現実を歪めることで、「男たちに求められる」というポルノ的幻想を体感している。だからこそ彼女らは楽しそうであり、また恐らくその脳裏には「幼い、駄々っ子のような男を癒す、女神のような女性」としての自己イメージが結ばれているのではないでしょうか。それは

 そうですね。私が『平成オトコ塾』の包茎の章で伝えたかったのもまさに「自分の体を愛してあげよう」ということだったんです。
(179p)



 などという澁谷師匠のお言葉からも明らかです。
 では、お二人は(言っていることの妥当性は置くとして)悪意のない善人なのでしょうか。
 いえ、自分が悪意を持っているということの自覚ができずにいる、とでも表現するのが正しいのではないかと思われます。
 澁谷師匠は包茎手術の失敗でペニスがズタズタになった男性を著作で笑いものにしている包茎手術マニア。一方金田師匠がどんな方かは、当ブログの愛読者の方はご承知の通り(リンクと本文とは一切関係がありません)。男性への悪意がないと言われても、信じろという方が無茶です。もっとも、「男性学」者たちやリベラル様たちはどういうわけかあどけなく彼女らを「女神」であると信じていらっしゃるご様子ですが。
 この女神のように慈悲深いワタシという自意識、それを盲信する男性支持者、そして、しかし実際に彼ら彼女らの胸に秘められているのは悪魔のような憎悪、という三点セットは、そもそもフェミニズムの一番の特徴であり、また「終末カルト」と全く同じ構造を持っていることは、以前にも指摘しました*2

*2 トンデモ本の世界F

*     *     *



 ――以上です。上にもちょっとありますが、渋谷師匠の著作は、男性の不幸を笑いものにする非道いもの。実は旧ブログでレビューしていたのですが(上にもそこへのリンクがあるのですが)、実はあまりにも非道い内容のため(いや、それはまあ、ウソですが)長らく閲覧禁止にされておりました。
 次回はこの記事の再掲を行ってみたいと考えております。
 どうぞ、お楽しみにお待ちください。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その5)

2020-12-05 22:39:57 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――ご無沙汰しておりました、『BEASTARS』評の時間です。
 正確には匿名用アカウント氏の本作評への感想であり、まずは本ブログ前回前々回前々々回前々々々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと十五巻までを読んだばかりでまだ読破はできていない状況なので、今回はその中間報告になります。

・兵頭、十五巻まで読んだってよ

 本作に関しては既に十一巻までをレビューしていますが、十二巻以降は「種間関係篇」と呼ばれる、言ってみれば最終章へと入ります。
 この最終章より、壮獣ビースター(といってもよくわかりませんが、悪い肉食獣をやっつける、街のヒーロー的なエラい人です)ヤフヤが登場、レゴシに接近します。
 彼は馬であり、強い草食獣。肉食獣を深く憎む存在であり、そのため悪い肉食獣をやっつける一匹狼のヒーローのようなことをやっているのです(ビースターという存在がいかなるものか今一不明であり、ヤフヤは権力者ともつながってはいるものの、フリーの自警団のような存在として描かれます)。
 その初登場シーンはというと――ブラックミルクメーカーで、四十代のメス牛が薬を飲んで母乳を絞られ、苦しんでいる。査察に来た役所の人間(?)も、何とか丸め込んでお引き取り願おうとするメーカーのエラいさんだったが……その役人はエラいさんの首根っこを引っ掴み、恫喝する。

この社会が成り立っているのはすべての草食獣が寛大だから、そして…僕がいるからだ


 この役人は実は……ヤフヤの変装(?)だったのだ~~~!!
 番場壮吉かよ!*
 この後もタンクを蹴り潰して脅したりオバさんを「淑女」と呼んだり、もう見てられません。
 このヤフヤ、レゴシの祖父とのBL的因縁もあり、彼がレゴシを自分の右腕にしようとし、レゴシもまた街の悪に戦いを挑むという展開が、この種間関係篇の主軸となります。


* https://www.youtube.com/watch?v=TkMllPpVt1E


 街に「麻薬の売人」ごとき者が現れる話があります。飲んだ者の肉食の衝動を高めるような薬をエナジードリンクと称して売る連中。レゴシは正体を見抜き、正義の怒りを燃やします。「このドリンクになった草食獣の痛みを知れ」。
 暴れ回り、レゴシはふと気づく。
 読んでいてここは当然、「暴力衝動もまた肉食獣の業だ……」とレゴシが内省するという展開が描かれるのかと、ぼくは思いました。
 が、レゴシが言うことには――。
「俺は草食獣フェチだ」。
 何だそりゃ?
「俺は正義のために戦っていたのではない、草食獣が好きなだけだ」。
 負傷したレゴシは見舞いに来たルイを見てまた「草食獣ってなんてきれいなんだろう」などと宣います。
「俺は草食獣フェチの変態だ」と自虐するレゴシに、ルイは「変態だろうと何だろうとそれで誰かを守れるならば正義だ」とか宣うのです。
 何というか……種間関係篇に入ってから、本作はいきなり(BL及び)無国籍活劇になってしまったかのようです。
「無国籍活劇」というのは(日本としか思えない場所なのに)登場人物がフランクに鉄砲を持っていることからそのように呼ばれるやくざ映画の類であり、これに影響を受けた特撮ヒーロー番組が『快傑ズバット』です。そんなこんなでレゴシも
 早川健かよ!*2
 と言いたくなるような活躍をするようになるわけです。
 要はこのシーン、自分の暴力性に対して内省があるのかと思いきや、そうではない。
 もちろん、フェミニズムは男性の攻撃性を非現実的なまでに恐れ、罵倒するものであり、それは全く同意できませんし、レゴシが自らの暴力性を内省する描写があるべきだとも全く思いませんが、あれだけ草食獣への暴力性をとがめてきた本作にしては、何だか肩透かしでした。
 言わば作者は「食欲」という形で「男の性欲の中の、暴力性」だけを恣意的に「悪だ」として切り取り、一般的な意味での「暴力」は「何か、格好いいアクション(であり、女性を守るための力)」としてあっさり免責しているように見えてしまうのです。
「女は暴力を揮う男が大好き」という本田透や近年の非モテ論者(小山氏とかあの辺)のようなことを言いたくなってこようというものです。

*2 https://www.youtube.com/watch?v=nzEEfDRXQjU


 さて、十四巻に至り、レゴシはヤフヤに招待され、その下を訪れます。
 ヤフヤはレゴシの友人の脚を食った過去を知り、謝罪しろと暴力で抑えつけます。もっともヤフヤは犯罪者の肉食獣の死体でニンジンを育てているような人物であり、言わば草食獣側のタカ派。レゴシもまた、罪を詫びるかのように自らの牙を抜くのですが、ヤフヤが全面的に正しい存在として描かれていないのは自明で、レゴシもその後、ヤフヤに殴りかかります。
 そう、匿名氏のブログでも重要視されていたこのシーンは、ここで描かれるものなのです。そこにあるのは、明らかに「肉食獣=男性」の原罪への激しい告発なのですが――しかしいかに大ゴマとはいえ、いきなりな描写の上、あっという間に義歯をつけるので「何だこりゃ」感が残ります。
 そんなこんなで、現時点でヤフヤはあまり印象的なキャラとも思えません(考えてみれば「草食獣側の悪者」というのを描くのは、作者の手に余るんじゃないでしょうか)。

 一方、印象的な悪役がメロン。彼は肉食獣草食獣ハーフであるがため、言わば「レゴシとハルの未来の子供」のネガティビティを負った存在。「いかに多文化共生は素晴らしいと言ったところで、生まれて来る者が背負う苦難に、お前は責任を取れるのか」という、これはかなりラディカルな問いかけを象徴したキャラになっています。
 ヤフヤと共にメロンを捜索し、レゴシはいったん、彼を捕縛。しかし言葉巧みに相手の心を掴むメロンに、レゴシは手錠を外してしまうのです!
 アホか!?
 ここ、匿名氏も「作者が消耗していたのではないか」と書いていた箇所なんですが、普通であれば「油断させ、手錠の鍵をすり取る」とかでいいんだから、やはり作者が天然というか、元々こうしたことにあまり深く気を回さない人なんじゃないかなあ。

・女性キャラ、全員ビッチだってよ

 ――さて、今までぼくが行ってきた、本作への評を一言で言うと、「多様性」「多文化共生」とでもいった自分の用意したテーマに自縄自縛に陥った作品、とでもいったことになるかと思います。
 基本、本作に対するツッコミのほとんどは、「そもそも肉食獣と草食獣とが何でいっしょに暮してるんだよ、別々に棲め!!」というものでしたから。
 ただ、種間関係篇において、レゴシはうどん屋をバイト先にしてボロアパートを住居と定め、これ以降本作はちょっとだけ「下宿物」の楽しさの片鱗を覗かせることになります。
 前にもちょっと書いたことがありますが、70年代の漫画作品には「まだ何者でもない青年」が「仮住まい」としてのアパートで暮らすというジャンルがありました。『マカロニほうれんそう』や『めぞん一刻』のように、そこは往々にして非常識的な住人との「ハレ」的な非日常の空間として描かれます。
 本作も、例えば独自の死生観を持つ海生生物などの個性豊かなお隣さんとの生活という、楽し気なムードが漂い始めるのです。いや、ホンの一瞬漂うだけですが……。

 しかし何といっても顕著なのは「ムカつくメスキャラ」の台頭。
 他にもお隣さんとして雌羊が登場し、延々「自分語り」を始めます。毎朝「雑種専用車両」に乗って会社に出かけるOLなのですが、本人の語るところでは「男と対等になるために」、その車両に乗っているというのです。
 何が何だかわかりません。この世界で存在すべきなのは「草食獣専用車両」であり、話の流れを考えれば、肉食獣と対等になるために「肉草共用車両」に乗る、となるべきだろうに、「雑種」ってナニ? 単純に「共用」の意味で「雑種」と言っているのか?
 まあ、要は「男社会で男に負けまいとガンバるOLへの応援歌」的な話なのですが(或いは、ひょっとして、「少年漫画誌で孤独に奮闘する自分」を投影しちゃってたりなんか、するのかなあ……)、ともあれこの女はレゴシと出会うことで気づきを得、「自分を罰して欲しくて雑種専用車両に乗っていたのだ」とか言い出します。何だそりゃ。
 これは後の巻のあとがきで、作者自身の経験談を元にした話だと書かれます。女子高生時代の作者は現実のストレスから逃げ出したくて、「通学電車の隣のおじさんに誘拐してもらおうと、何か媚びた仕草をしてみた」ことがあるそうなのです!
 何というか、随分幼い行動ではあるものの、「そのおじさんにも失礼であった」と自分の愚行を内省する作者の筆致は極めて冷静で、好感が持てるのですが、正直、漫画だけ読んでいるとよくわからない描写です。
 考えようによっては「女が、女の武器を利用して男に加害性を発揮する」というかなりラディカルな女性批判足り得るシーンのはずなのですが、これ以降もこの羊、何だかエラそうなことばかり言っています。
 この人、スポーツ用品のメーカーに勤めており、若い男性の意見を求めてレゴシをスポーツシューズショップに誘います。
 そこで(かつての)同僚に出くわし、「女の子だから」とからかいを受けるのですが、その元同僚たち、レゴシに注意されると、一転してしゅんとなります(肉食獣もいたのですが、狼はその中でも強いってことなんでしょうか?)。
 あぁ、やだやだ、「何ら落ち度のない私が悪の男にいじめられていたが、現れた正義の男の騎士的行動に救われる」との嘘松話だよ……と思っていると!
 この羊、レゴシに対して「子供のくせに何でエラそうに私を助けるのだ」と激昂するのです!!
 何で?
 自分が頑張ってきたのに肉食獣の迫力に敵わないことを思い知らされ、不快だと。
 知るかよ、そんなこと!!
 レゴシもまあ、「草食獣の騎士」ですからひたすらへこへこするばかり。フェミ様の癇癪におろおろと頭を下げ続けるチンポ騎士そのままです。
 落ち着いてからの羊はレゴシに「あなたは悪くない」と言ったりもしますが、相も変わらずウエメセ。せめて怒鳴ったことを謝罪しろよ! 助けてもらったことに礼を言えよ!!
 とにもかくにも読んでいてこちらが感じるのは、話の本筋よりは、こうした「女の天然な傲慢さ」ばかりです。

 一方、当初はセカンドヒロインのように設定されていたジェノ、すっかり影が薄くなってしまいます。そりゃ、メインヒロインであるはずのハルだって影が薄いんだから、当たり前なんですが。
 このジェノ、食殺事件篇ではビースターを目指すと宣言したり、重要キャラになっていくのかなあ……と想像していたのですが、再登場時に描かれるのは、ルイの義足を見て思わずルイへとキスをする、というシーンです!
 何だそりゃ!
 また、これは十六巻の描写ですが、何とまあ、レゴシのボロアパートを訪ね、「恋愛相談」をするシーンが描かれます。つまり、彼女はもうはすっかりルイを恋愛相手として定めているのです。
 あまりのことにページを飛ばして読んだのかと思ったくらい唐突な展開です。
「女はいつでも男をとっかえひっかえする権利があります」がこの作者の道徳律なんでしょうね。

 もう一つ、これも十六巻にまで渡って描かれる描写ですが、レゴシの母の霊のエピソードも登場します。
 実はレゴシ自身もトカゲとオオカミのクオーター(いくら何でも爬虫類と哺乳類が普通に混血するって、どうなんだ?)。母は美しいメスオオカミだが、身体に鱗が生えてくるのに耐えかね、レゴシが12歳の時に自殺を選んでしまいます。同情すべきとはいえ、レゴシの立場になって見れば、幼い日に自分を捨てて死を選んだ非道い母親です。
 しかし(他のあらゆる女性様作品と同様)レゴシは母にも従順な騎士のように誠実で、また母も(気の毒とは言え自殺した人間なのに)妙にエラそうに達観した言葉を垂れます。
 全てが間違っているように、ぼくには思われます。

 あ、メインヒロインのハルちゃんは大学へと進学。キャンパスライフで「目指せキラキラ女子!」をしていたら、友だちがライオンとの異種族カップルであることを自慢気に押しつけてきて、つい本音でdisってしまいう、といったエピソードで活躍しますw
 あぁ、はいはい。
 で、その直後、見るからに温厚なライオンの彼氏は、見るからに嫌なヤツであるそのメスウサギに苛立たし気に「キスしてよ」と求められ、悪気なく牙を立ててしまうのです。
 まさに地獄。肉食動物にとっての。
 だから、要するに棲み分けてればいいんですよ、両者。
 正直、このエピソードをどう解釈すべきかは今一、わかりません。
「意識高い系」の獣たちが上っ面の「ダイバーシティ」を謳い、きれいごとの「共生」を謳歌しているのだ、といったエピソードは実は以前にも描かれ、ここではその因果応報で事件が起きたのだという、一応、本作の深みだと、評価しなければならないのかもしれません(事実、この後ハルがそうしたきれいごとを嫌い、レゴシに裏市へと連れて行ってもらう描写もあります)。
 しかし何というか、ぼくには単にブスが「リア充爆発しろ」と怨嗟の念を吐露し、そして彼女の思い通りに「リア充が爆発した」というなろう的幼稚な描写に見えてしまうのですが。
 つーことで『BEASTARS』評、もうちょっとだけ続きます。