兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ダメおやじ

2012-01-28 01:24:21 | アニメ・コミック・ゲーム

 だ~めだめだめだめおしじ♪
 だ~めだめだめだめお~し~じ~♪
 と書いてもみなさん何のことかおわかりにならないと思いますが、大昔のアニメ誌で『VOW』的なラテ欄などの誤字を投稿するコーナーがあり、そこで『ダメおやじ』が『ダメおしじ』と誤植されていたのが載っていたのです。忘れ難いので、特に記しておくことにしました
 ――というわけで『ダメおやじ』です。
チャージマン研!』ブームが去り、『スーキャット』の全話マラソンをあっという間に完走し終えたぼくにとって、今のマイブームは圧倒的に『ダメおやじ』ですね。ひらがな+カタカナというタイトルも『まどマギ』と共通するところであり、今年は「本当の意味での『ダメおやじ』ブーム」が来る、とここで私は力強く断言するものであります。

 と言っても、お若い方にはあんまり馴染みのないタイトルかも知れませんね。
 70年代の『週刊少年サンデー』に連載されていた「大人向け」漫画で、いいとこなしの中年サラリーマン、ダメおやじが妻であるオニババ、娘のユキ子、息子のタコ坊、そして職場の仲間からひたすらにいびられる、というお話です。アニメ版ではダメおやじを大泉滉が、タコ坊を雷門ケン坊が当て、これもまた(作画的にしょぼいのはまあ、仕方がないとして)大変な傑作に仕上がっています。
 ご存じない方はちょっと調べてみていただきたいのですが、しょぼくれた貧相な風体のダメおやじに対してオニババは巨漢、身体能力的にも後者が前者を完全に圧倒しています。そのいびりは回を追う毎にエスカレート、ダメおやじは台風の中を裸で放り出され、風邪で熱のある中、ピラニアの入った水槽にぶち込まれ、額に釘を打ち込まれたりします。
 連載当時、児童文学作家の上野瞭先生が本作を「従来のマンガにあった父親像を、徹底して踏みにじろうとした」と評しています。


 さてみなさん、ここでちょっとトンチを効かせてみてください。
 何ちゃら動画でこれを見てみると、コメ欄に「田嶋陽子推奨動画」といったギャグが並んでいます。
 しかし果たして、本作をフェミニストたちに見せたら、どういう反応をするでしょうか。
 大喜び?
 お前は何を言っているんだ?
 半狂乱で怒り出すに決まっているじゃないですか。
 何故か。
 それは、ダメおやじが、「女性差別主義者」だから、です。
 何しろ、いかにダメだと言ってもおやじは会社員で、オニババは専業主婦なのですから。事実、オニババが家事をする様も描かれています(おやじとオニババ、普段どちらが家事をやっているのかは、漫画版、アニメ版共にどちらとも取れる描写が混在していて判然としません)。
 一方、給料日だけはおやじも優しくしてもらえます。オニババもダメおやじが出世することを望んで、時には『夫を出世させる本』を購入し、その指南のままにおやじを大事にしてみるし、おやじが課長になれそうになると大喜びでそれを祝いもします。むろん、常にどんでん返しが用意されていて、ラストではおやじがいびられるオチが待っているのですが。
 夫がカネを運んでくれば平身低頭し、しかし男がカネを運んでこないとなるといびり倒す恐妻。それは当時の男女関係を端的に描いたものです。むろん、漫画としてのデフォルメはありますが、しかし本作が共感を持って迎えられたのは、本作が漫画なりのリアリティを獲得していたからこそのことでしょう。
 上野瞭先生も


 このマンガは、「家庭」という枠をこわさない。(中略)しかし、そうした賛否両論を口にしながら、実は、このマンガに、ぼくたち読者は、マイホーム絶対の発想をどこかで感じとっているのだ。


 と極めて重要な指摘をしています。


 しかし、打ちのめすことによって、ダメおやじの家族は、もうすこしましな父親の恢復を願っている。そのことは、ダメおやじが課長になることを願ったり、すもうで勝つことを願ったりするエピソードでわかる。


 アニメのエンディングでは「憎いはずがない」「本当は愛している」「愛が憎しみに変わる」「親子で労りあって暮らす日を夢に見る」と言ったフレーズが並び、本作のテーマが「家族愛」を裏から描くことであると、これ以上はないくらいに強調しています。また、アニメ版は何しろ地上波のゴールデンですから、いびりの描写がかなり抑えられ(残酷描写は漫画で淡々と描く分には受け容れられても、それをアニメでやってしまうと「きつい」ものになるのは当たり前で、この判断は妥当なところでしょう)、また子供の視聴者を意識してかタコ坊とおやじの絆が度々描写され、野良犬ロクベエがおやじを励ます描写が挿入されるなど、大泉滉の名演も相まってドライな原作をペーソスの感じられる良作に昇華し得たと、本気で感じます。
 また一方、よく知られるように原作版では、連載後半でダメおやじが成功者になりオニババも良妻となるという展開が待っています。
 ここには、「女は力のある男は愛する/力のない男は愛さない」という一面の真理が描かれているわけです。
 つまり
オニババは、「普通の、女」なのです
 繰り返しますが、オニババが直接的に暴力に訴えているのは、漫画的なデフォルメです。一般の女性たちはこうした「体術」で男性を虐待したりはしませんが、逆にそれよりも有効で陰湿な「イヤミ」という武器を持っているのではないでしょうか。事実、80年代のACの「言葉の暴力で子供を傷つけてはいけない」的なCMで、オニババはおこごとやイヤミで子供を虐待する母親役で登場しています。


「オニババというれっきとした原作付きのキャラクターである。それを教育的主張のダシに使うなんていったいどういう神経なのだろう。これを描いた御仁は本当にアニメを、オニババを愛しているのか。虐待がどうとかということをダシにして叫びたいだけではないのか。私はそのような疑問を強く持たざるを得なかった。」(若者論評論家・談)


 フェミニストたちは「競争原理で動く男たちと違い、女性は調和的」などと真顔で主張しますが、果たしてそれは本当でしょうか。本作ではオニババがクラス会に出かけ、見栄を張っておやじに「社長になれ」と無理難題を突きつけるエピソードも描かれています。高度経済成長期に過労や事故で死んでいった男性がどれだけいるのか、見当もつきませんが、それは全て企業(ひっきょう、企業社会を作り上げた男性)が悪であり女性には罪が一切ありません、というわけでしょうか。
 何ちゃら動画を見ていると本作について「まだ父親の権威があった時代だからこそ、こうしたギャグが成り立ったのだ」といったコメントが並んでいますが(むろん、今に比べれば遙かに権威はあったでしょうが)、決してそうではなく、本作の描写は当時の空気を反映してこそのものだったわけです。何しろアニメの宣材ではオニババを「ヒステリックな女房族の典型」と紹介しているくらいなのですから。
 この作品が終了した80年代に「家庭の崩壊」が囁かれ出すのは象徴的というか、本作が時代を先取りしていたというか、何だかそんな感じもします。


 さて、ここでぼくたちは、フェミニズムがそうした「家庭」というものを何よりも深く憎悪する思想であることを、どうしたって思い出さないわけにはいきません。
 もう何度目の繰り返しになるかわかりませんが、上野千鶴子師匠が過労死する男性たちを指して、「それに見あうだけのメリットを得ているのだ」と絶叫したことを、そして男性が女性を「守る」という時、それは「囲いに閉じ込めて一生支配する、という意味だ」と泣き叫んだことをやはり、もう一度指摘しておく必要が、やっぱりありそうです。
 たまたま手元にあった『東京新聞』12月23日からの引用ですが、東電が公表した報告書には、311の福島第一原発における作業員たちの様子が生々しく記述されていました。


結婚指輪が汚染されるのを嫌い、一度は外したが、「最悪の事態が起きたときに、自分だと分かるよう」考え直し、はめて作業に出た人もいた。


故郷の父親に電話で「俺にもしものことが起きたら、かみさん、娘をよろしくと伝えた。


 何と恐ろしいことでしょう。
 前者がこの期に及んでここまで結婚指輪を大事にしているのは
「家父長制支配」により女性を縛りつけておきたいが故ですし、後者に至っては自らの死後にまで、妻と娘の支配を父親に託しています。「家父長制支配」により女性を縛りつけておきたいのです。こうしたおぞましいホモソーシャルミソジニーとによって男たちが結びついているという事実に、筆者は戦慄を禁じ得ません*。
 つまり、上の記事に書かれた作業員たちは許されざる忌まわしい憎むべき「女性差別主義者」であり、そしてまた、オニババに虐待を受け続けながらも、決して別れようとはしないダメおやじもまた、許されざる忌まわしい憎むべき「女性差別主義者」である。
 それが、フェミニズムの世界観です。
 いえ、自らは陰に隠れ、男を矢面に立てて責任を取らせる。それは女性の基本戦略であり、フェミニストの専売特許ではありません。
 いや、それも正しくはないでしょう。男に責任を取らせるのはフェミニスト以外の女性、即ちオニババの専売特許であり、フェミニストは「結婚」によりそうした「権利」を手に入れられないがため、オニババの「言動」を「学問」によって再現することで利を得ている存在なのです。
 拙著を読んでいただければ「女災」とは、「女性が、被害者を装って加害者性を発揮すること」であるということがおわかりいただけるかと思いますが、そうした女性の詐術を、本作は漫画的デフォルメによって暴いてしまっているのですね。
 ダメおやじが(仮にいかにダメおやじであろうと)「家庭」というものを否定しない存在である限り、フェミニストはその正義の刃を、ダメおやじに向けるのです。
 オニババに虐待し抜かれ、息も絶え絶えで、それでも給料日にはタコ坊におみやげを買って帰ろうとするダメおやじ。そのおやじを、物陰から現れたフェミニストの凶刃が刺し貫き、ダメおやじはとうとう真の死を迎える。
 それが平成に描かれるべき、『ダメおやじ』のトゥルーエンドです。
 え?
 いくら何でも、腐ってもフェミニストであるならば、嫁にDVを働いている悪い旦那に刃を向けるのではないか?
 残念ですが、それはありません。
 事実、昨今のフェミニストたちの言動を見ても、専ら「弱者男性」への攻撃性で満ちているではないですか。
 では一体、どうしてこうまでフェミニストたちは「弱者男性」を憎悪し、排撃するのか。
 それについては、次回に。


*遠からず、こうした実話を元にした『プロジェクトX』的な映画なり何なりが作られることでしょう。お利口なフェミニストたちはダンマリを決め込むでしょうが、北原みのり師匠辺りは何か軽率なことを口走ってくれそうです。楽しみに待ちましょう。


【後藤和智師匠アクションタイム】

 さて、ここでちょっと後藤師匠の動向について。

 前回書いたように、最初にtogetterをまとめて以降、師匠はずっと沈黙しており、さすがに失言だったと内省なさったものかと思っていたのですが、少し前、また付記的なtogetterをまとめていらっしゃいました。コミケのチラシ問題についての後始末的見解 by 後藤和智です。師匠は以降もブログで本テーマについて扱われるようですので、楽しみに待ちましょう。


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不惑のフェミニズム

2012-01-09 00:21:38 | レビュー

 みな様、早いものでもう1月9日です。年末まで後僅か356日。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やるry
 さて、そんなわけですっかりおなじみになりました、今年の十大ニュースの第一位を発表いたしましょう。


 【第1位】後藤和智師匠、togetterで「表現の自由」を根源否定

 大変なハナシです。
 事件の発端は去年の冬コミで人権侵害救済法案とTPPとを批判したチラシが配られたことでした。
 チラシの表紙には「
二次創作禁止ってなんで? コスプレも禁止? コミケ、終わっちゃうの?」と何だか既視感に満ちた文字が躍っています。
 しかしこんな他愛もないチラシが、どういうわけか絶対に許すことのできないものだったらしく、後藤師匠が猛然と噛みついたのです。(コミケで見かけた看過できないチラシ by 後藤和智

 師匠のツイートを(ぶつ切りになってしまいますが)引用してみましょう。


いずれもネット上の過剰反応と言える言説がさも事実であるかのように書かれていたのだ。


博麗霊夢というれっきとした原作付きのキャラクターである。それを政治的主張のダシに使うなんていったいどういう神経なのだろう。しかも緊縛された姿*1で。


これを描いた御仁は本当に同人を、東方を愛しているのか。二次創作がどうとかということをダシにして叫びたいだけではないのか。私はそのような疑問を強く持たざるを得なかった。


 お前は何を言ってるんだ?

 このチラシは発行者の記述のない匿名のものであり、以降、師匠はそこに噛みつき、印刷所の人間などに「こうしたチラシを許すな」と呼びかけています。
「匿名は好ましくない」という点のみについては一般論として頷けるのですが、見ていくと師匠の情念がどこに向けられているかは明らかでしょう。
 それはつまり、自分の意に添わぬ表現は圧殺してやるのだという、恐るべきものです。
 そうでないというのであれば「匿名」である点、或いはチラシの内容そのものに対してのみ、正々堂々と批判するべきです。
 そもそもこの博麗霊夢と言う美少女キャラは上海アリス幻樂団というサークルの作った『東方Project』というゲームに登場するキャラクターで、このサークルは製作物の
二次創作を許可しているのです
 更に言えばコミケそのものが元より「れっきとした原作付きのキャラクター」を「緊縛された姿」どころではない、強姦、強姦致死、四肢切断、死姦と何でもアリの同人誌にして売ることを「表現の自由だし」という理由で受け容れている場なのですが、そこで「政治的主張のダシに使」ったとたんに狂ったように噛みつくなんて「いったいどういう神経なのだろう」。
 そもそもコミケなんて昔っから政治的主張をする人がいっぱいいる場で、「児ポ法反対」といったチラシはいくらもあったし、そこでもアニメキャラは使用されていました。後藤師匠が参加されている「評論」というジャンルにおいては、政治家の写真のコラージュなどを多用した同人誌がいくらでも並んでいます。
 しかし恐らく師匠はそれらに文句をつけたりは、しないでしょう。
 師匠の情念がどこに向けられているかは、あまりにも明白ですから。
 とは言え実は師匠自身、togetterで例のチラシを「晒し挙げ」て以降、沈黙を守っています*2。
 さすがに師匠も
「しまった」と正気に返り、ダンマリを決め込んだのだと信じたいところです。
 とは言え、この師匠の恐ろしい発言について、名のある人からのリアクションは今のところ、ありません。
 恐らくすぐに風化して、「なかったこと」として扱われるのでしょう。
 それは丁度、上野千鶴子師匠の暴言の数々を、優しい皆さんがスルーしているのと、全く同じに(おぉ、やっとつながった!)。


*1師匠は「緊縛された緊縛された」と扇情的に繰り返していますが、チラシそのものはそんな卑猥なものではありません。とにかくこの人は、ただひたすら気にくわないものに感情的に噛みついているだけなのですね。
*2ツイッターでは知人と思しき人物に「私も政治的主張を版権キャラに行わせた事ありますw」と言われ、


いや、私の主な主張は「扇情的なことを」「扇情的な図柄で」「匿名で」行ったことを問題視したいのであって、決して政治的目的で既存のキャラクターを使うな、と言いたいわけではないです(笑)。


 と言っていました(https://twitter.com/#!/kazugoto/status/154562492733992960)が。しかしこれもまた、当初の発言と明らかに異なるのだから、随分と見苦しい言い訳としか言いようがないですね。


 というわけで年末に予告した、上野師匠の話題です。
 そう、オタクの味方、後藤師匠くらいローゼン閣下くらいオタクの味方でいらっしゃる上野師匠の、去年に出た『不惑のフェミニズム』というご本です。
 タイトルで大体おわかりかと思いますが、要するにフェミニズムの四十年に渡る歩みを、上野千鶴子師匠の文章を時系列で並べることで概観しようとの、「お徳用」なご本。
 注目したいのはDV法関係についてですが、その前に概要を掻い摘んでご紹介させていただきます。
 前半部分に収録されているのは80年代に書かれたもの。それを読んでいて印象的なのは、「我々は男並みに落ちることはしない」的なマニフェストが繰り返し繰り返しなされることです。イギリスのサッチャー首相は「男並みに落ちた」女性なのだそうです。気に入らない女性は全てこう形容すれば片がつくのですから、楽なものですね。
 一例として(1999年の文章なのですが、意味あいとしては一番まとまっていると思うので)ちょっと引用してみると、


 現実には男なみにがんばっても男なみには報われないことはだれでもよく知っている。それなら、もっともっとフェアな競争を、ってフェミニストは要求していることになるのだろうか? まっぴらごめんだ。その結果は「男もすなるカローシというものを女もしてみんとするなり」だった。


 などとおっしゃっています。
 おやおや、「男は過労死に見あうだけのメリットを独占しているのだ」とおっしゃっていたこと(「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」『日本のフェミニズム別冊 男性学』)はすっかりお忘れのようです。
 見ていて感じるのは、彼女らの「女」に居座った、男への上から目線です。
 当時は「女の時代」などといった惹句が総合誌に毎号、踊っておりました。
 そこでは「男たちが独占していた企業社会に『いきいき』『のびやか』『かろやか』な女性たちが進出することで素晴らしい世界が訪れる」的な軽薄な展望が、真顔で語られていたのです。
 要は均等法が通った時代の文章なので、「男並み」は達成された、さあこれからは「男以上の旨味を味わってやるぞ」との余裕と楽観とが、当時の彼女らにはあったのですね。が、大変残念なことですが、その未来予測は今となっては、無残に外れた、と言わざるを得ないでしょう。
 ぼくは拙著においても、フェミニズムの失墜ぶりについて大いにからかうような文章を書きました。本書を読んでいると思わず上野師匠を
「ねえ、今どんな気持ち?」とからかいたい気持ちも沸いては来ます。とは言え、よく考えればこちらも女性をからかってる場合じゃあ、ないわけです。フェミニズムは女性たちも大いに不幸にしましたが、男性側はその数千、数万倍、不幸にしたのですから。


 さて、最初は景気のいい発言を繰り返していた本書ですが、三分の一も読み進め、九十年代の文章になってくると少々勢いが落ち、更にゼロ年代に至ると、カラーは明確に変わっていきます。
 ゼロ年代前半は、フェミニズムやフェミニズムが推し進めてきたジェンダーフリーに対する批判が盛んになった時期でした。この時期の上野師匠は、そうした批判をただひたすら、「バックラッシュ」だ、「反動」だと称して、ヒステリックに書き立てるばかりになります。
 ぼくは今まで、フェミニストたちが「ミソジニー」、「ホモソーシャル」というフレーズを濫用することに対かなりしつこく絡んできました。しかし考えれば「バックラッシュ」も「反動」も、それと全く同様な思考停止ワードです。そもそもこんな言葉、「自分たちの側こそが絶対的な正義なのだ」という大前提なしにはまず、出ては来ないでしょう。こういった言葉を不用意に、涼しい顔で連発できる心臓は、大したものだという他はありません。
 さて、ここでようやっとDV法関連の話題です。
 本書では2008年1月6日に起きた、つくばみらい市における男女共同参画講演会が直前に中止されてしまった件が、「バックラッシュ」の例として繰り返し採り上げられているのです。そもそもこの反対運動は改正DV防止法の施行を目前に盛り上がっていたものであり、その点については上野師匠も言及なさっています。
 が、師匠はその反対派の意見を「誹謗中傷」「威嚇」「暴力」と言い募るばかりで、DV防止法は冤罪事件を起こしている悪法であるとの反対派の意見を一切紹介していません。
 これは、いささかアンフェアなのではないでしょうか。
 しかしこの人たち、同じ「市民運動」でも自分たちのやることは「キヨラカな草の根運動」、反対派のやることは「暴力」なんですね。
 
まるで、どこかの若者論の先生みたいですね。
(文中では呆れるくらいに暴力、暴力と繰り返されているのですが、はて具体的にはどんな暴力行為があったのか、には
言及がありません。反対派の一人が別件で有罪判決を受けたことはあるらしいのですが……)
 同様に市立図書館がBL本を「排除」したことも当然、「バックラッシュ」です(これについては「今さら堺市立図書館BL本問題
」を参照)。
 図書館にエロ本置いちゃまずいだろ、というだけの判断を、ひたすら「ホモフォビアホモフォビア」と繰り返し、セクシャルマイノリティを人質にとって自分たちを正当化するその手つきは卑劣の一言です。
 ちなみにふと思いついて調べたのですが、件の図書館には『YES・YES・YES』が置かれておりました。恐らく他の図書館でも、この本が意図的に排除されたことはないでしょう。つまり「同性愛描写のある書籍は排除される、同性愛者差別だ」というフェミニストたちの言いがかりは最初から根拠がなかったわけです。
 更に、ここまで表現の自由を正義の御旗として振りかざしているにもかかわらず、フェミニスト仲間である渡辺和子*3さんの追悼文では、彼女が『まいっちんぐマチコ先生』の反対運動に精力的に取り組んだ人物であることが好意的に紹介されており、いよいよ師匠のお考えが理解不能になります。
 まるで、どこかの若者論の先生みたいですね。
 彼女の中ではきっと、
・女性が胸を触られたり、着替えを覗かれたりする漫画は「セクハラ」。
・幼い男児が、中年男性にレイプされまくる小説を図書館から排除することは「ホモフォビア」。
 ということなのでしょう。
 まるで、どこかの若者論の先生みたいですね。
(一応言っておきますと、図書館に置かれていたBL本にそのような内容があったかどうかは、ぼくの知るところではありませんので、念のため)


*3余談ですがこの方、(同姓同名のフェミニストが他にいない限りは)「「母なる大地」が強姦され、環境が破壊され」「広島に爆弾を落とした人は男だった。」など電波全開のフェミニズムポエムを書いた方だと思われます。


 最後に。
 この本で一番面白いところがどこかと聞かれたら、何を置いても「初出一覧」を挙げたいと思います。
 八十年代には『朝日新聞』『朝日ジャーナル』『サンケイ新聞』とそうそうたる紙名、誌名が並んでいたのがゼロ年代に至るや『信濃毎日新聞』『創(笑)』と何だか微妙なラインナップに。
 この企画、上野師匠に対するいじめだったんじゃないでしょうか。


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