兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む

2020-06-21 14:39:44 | 弱者男性


※この記事は、およそ11分で読めます※

 さて、前回の続き、「少女型ラブドール」問題です。
 まず、ツイッター界隈でツイフェミらしき人たちが少女型ラブドールの存在を知って怒り狂い、それに表現の自由クラスタのみなさんが噛みつきだした、というのが経緯です。
 概論めいたことは前回既に済ませてしまっていますが、今回は表題にある通り、青識亜論のnoteに対するツッコミ。
 ↓以下ですね。


論点整理:少女型ラブドール規制論|青識亜論


 ――ただ、何というか……彼らの文章とつきあう時に避けては通れないのですが、正直そのアジテーション色の強さには閉口します。
 まずまえがきのしょっぱなから

 十年越しに亡霊がよみがえろうとしている。

「児童ポルノ規制法改正案」の亡霊である。


 とおどろおどろしく始め、児ポ法で「非実在少年」を描いた創作物(即ち漫画やアニメなど)までが規制されようとした過去の動きについて、語ってみせます(それを阻止した運動の成果もまた、誇らかに語られます)。
 そしてまえがきは

 これは、死せる規制論を再び黄泉へと送り返す鎮魂の文書である。


 と締めくくられるのですが……この時代がかった文体、個人的にはもうこれだけでおなかいっぱいです。
 ぼくは時々、オタク文化の発祥を80年と定め、それまでのカウンターカルチャーと異なり、政治性をなくした文化であるとの指摘をしてきました。それは同時に、ことさらに拳を振り上げて自己主張する一本調子さとは裏腹の、一種のニヒリズムを伴ったものでした。
 が、青識のこの文章は、本当に70年代活動家のアジ文書のような趣き。一体、どこのどなた様の薫陶を受けて、こんな文章を書くようになったのでしょうか?
(いや、純粋に疑問です。知ってる人がいたら教えて)
 もうちょっと冷静な、抑えた文章の方がいいと思うんですが、やっぱりこういうアジ文の方が衆目を引くんですかね?
 そもそもフェミはずっと絶えることなく、規制論を(表現の自由クラスタはこの十年のことと信じていますが、実際には数十年に渡って)ぶち続けてきました。反対運動で取り下げさせられてしまった表現だってありますよね。
 つまりこの「亡霊が蘇った」とかいう表現が既に現実に即しておらず、何だか奇妙です。
(まあ、青識がポルノ全否定派の著作を絶賛していたことは、今回は見逃してあげるとして……*

* これについてはひとまず、以下を参照。

野原ひろし リベラルの流儀 第1話 真のフェミでガッツリ!


青識フェイズ1.ポルノは、ヘイトスピーチである

 さて、本稿(と、ここでは青識の記事を呼称します)は「規制論①」「規制論②」と敵の主張を分類し、それに対して各個撃破する体裁。
 前回も書いたように、ぼくは別に「少女型ドールを規制せよ!」と考えているわけではないし、見ていて基本は頷ける部分が多いのですが、そこは軽く流すとして、どうにも不穏に感じる箇所について、重点的に見ていくことにしましょう。

規制論① 少女型ラブドールは性犯罪を誘発する
 →反論 性犯罪を誘発する証拠はどこにもない

規制論② 犯罪の原因にならないという証拠はない
 →反論 証拠がないことは規制理由にはならない


 この辺はまあ、特段反論もありません。
 表現の自由クラスタが「創作物に人心への影響は断じて、全くないんだ」と断言するのはどうかと思いますが、しかし悪影響があろうともガス抜き効果の方が遥かに大きいだろうと、ぼくは考えますから。
 しかし、では、以下はどうでしょう。

規制論③ 少女型ラブドールはヘイトスピーチである
 →反論 ラブドールは「憎悪扇動」ではない


 いや、まず、人形はスピーチじゃないのは当たり前なんだけど、そこはノーツッコミのまま話が進んでいくので、何だか笑ってしまいます。

 ラブドールに限らず、ポルノグラフィ=「女性へのヘイトスピーチ」という主張は、ラディカルフェミニストのポルノ規制論では定番のレトリックだ。


 この指摘は誠にもっともという他ありません。
 例えば千田有紀師匠などもポルノを「ヘイトスピーチ」として禁ぜよと主張しています。
 論敵は「白人が黒人人形を殴るパフォーマンス」を持ち出し、ラブドールはそれと同じだとするのですが、青識は、「そのことがヘイトスピーチであることは論を待たない。しかし文学となると、例えば差別反対といった意味性が込められることもあり、ヘイトスピーチとは断ずることができない。大事なのは文脈なのだ(大意)」といった論理で、それに反駁するのです。
 これは大変まずい物言いだと思います。
 そこまで「文脈」が大事なら、少女型ラブドールというものの「文脈」を考えなければなりませんが、そりゃ「少女とやりたい」くらいのメッセージ性しかないでしょう。
 つまり、少女ドールは青識が二分して見せた黒人人形/文学の、前者の方にこそ近いというしかない。
 フェミがポルノをヘイトスピーチだと言い募るのは、ポルノにそうしたメッセージ性があるから実行につながるぞ、との理由によるものであることを、青識はいまだに理解していないかのようです。
(例えば『名探偵コナン』は殺人犯が捕まるので、殺人は肯定していない。しかしポルノにはセックスを肯定するメッセージ性があることは、否定できません。ただ、だからといって見た人間が簡単にそれを鵜呑みにするはずもない、との理由から、ぼくはフェミに反対しているだけなのです)

 そもそも何にせよスピーチじゃないというツッコミは置くとして、「ブンガクは複雑な意味があり得ます」というのであれば、パフォーマンスや人形そのものだって同様のことがいえるでしょう。何と、「規制論④」では黒人をモデルにしたパンチ人形(キックボクシングなどの練習用の殴るための人形)があるぞとドヤっているのだから、何をかいわんやです。「ボクシング用だから殴る」も「黒人ボクサーって何か強そうじゃん? というステロタイプ的ものの見方」もいうまでもなく「文脈」に他ならないのですから。
 一方、青識は軽率千万にもブンガクの例として『アンクル・トムの小屋』を挙げているのですが、それを持ち出して「文脈によるのだ」では、「明確な反差別のメッセージを込めたブンガクだけがヘイト表現ではない」とのロジックが成り立ち得る。「ブンガクは高尚で意味の多重性があってハイコンテクストの何やらかんやらなので、一見、ヘイトっぽくてもそうじゃないかもしれません」と言うのであれば、先のパフォーマンスだって同様です。実は一見してわからない深い意味があるかもしれん、と言われたらそれまでです。

 しかし、青識はさらに軽率に続けます。

 もちろん、公衆の面前で少女型のラブドールを使い、「児童をレイプしろ」と叫んだならば、黒人人形の例と同じように、ヘイトスピーチとしての性質を有するかもしれない。

 しかし、自らの性欲を解消するために、自室でラブドールを使うことが、いったいいかなる排除的・憎悪扇動的メッセージにつながるのだろうか。


 この論法は、提示したシチュエーションがあまり論点と重なってないという意味で、欺瞞のあるものなのです。
 ここでは「衆人環視の中でのヘイト活動」と、「部屋の中でドールを使うこと」が対比されていますが、そもそもそれが適切ではない。
 フェミ側は商店で少女ドールが売られ、「合法レイプ」などと書かれていることを問題としていたわけなのですから。
 青識は「合法だから(人形だから罪にならないぞとの煽り文句だから)いいじゃん」と言っており、それはもちろんその通りです(事実、この店のポップには「犯罪撲滅」といった文句も、きれいごとではあれ、書かれています)。
 しかし、店はアダルトショップであろうからゾーニングはされていようが、公衆であるといえば、いえる。フェミがよく言うネットのエロ広告もまた、しかりです。
「規制論⑤、⑥」ではゾーニングはなされているぞとの反論がなされていて、これもまあ、正しいとは思うのだけれども(では「コンビニでエロ本を売るのは止めます」といわれて顔を鼻水でパックして泣き叫んでた人たちは一体何だったんだというのは、ここでは不問にしてあげましょう)、重要なのは公衆の面前で「児童をレイプしろ」と叫ぶ行為と今回問題になった件とは、青識の詐術よりは隔たったものではないということなのです。
 少女をモデルにしたドールを使って「児童をレイプしろ」と叫ぶのは「ヘイトであり、好ましくないものである」と、青識自身が認めているのですから、そんなドールを売るのは、このリクツでは殴るために作られた黒人人形を売る程度には「ヘイト」と言わざるを得ない。
 エロ漫画だって「女をレイプしろ!」などと言っているのはいくらもある。となると、それを売る行為は青識のリクツでは、「ヘイト」と言わざるを得ないのです。それとも先に書いたように「ブンガクみたく高尚なので、セフセフ」というのが青識の見解なのでしょうか。
 つまり、ここで青識は「ヘイト」という「物理攻撃ではないが、メッセージとしてけしからぬ」という概念を否定しきれず、いきなりドールを「部屋の中」に封じ込めて「いいじゃん」と誤魔化してしまっている。
 これでは「ポルノはヘイトだ」と認めたことに、なってしまうのです。
 もちろん、青識はヘイトスピーチ規制派ではないはずだし、上の状況(公衆の面前で「児童をレイプしろ」と叫ぶ)をも、法で規制せよとは考えていないでしょう。
 しかし、青識の立場がそうしたものであるのならなおのこと、「ヘイトだけどいいじゃん」「好ましいものではなくとも、世には必要悪もあるんだから、法規制まではするな」というのが、立てるべき理屈であるはずなのです。

兵頭フェイズ.1 ポルノは、ヘイトスピーチではない

 さて、ちょっとここで話のフェイズが変わります。
 今までの言はあくまで青識本人、「表現の自由クラスタ」当人たちの価値観を前提してのお話でした。彼らの論法を前提視して考えても矛盾があるよ、との指摘です。
 しかし、ぼくの目からは――いや、恐らくは一般的な感覚に照らせば――「児童とセックスしたい」とのメッセージは「ヘイト」なのかが、まず、よくわかりません。「レイプしろ」となると「悪意」めいたものが感じられますが、それにしたって「性欲」が前提されるでしょう。
 この発話者は、少女を「憎悪」しているのでしょうか。
 いえ、仮定の話だからどうとでも言えますが、しかしいわゆるエロ漫画のレイプ物を見ても、実際のレイプとされる犯罪を見ても、被害者を憎悪していた例というのはそれほど多数派じゃないはず。
 ましてやこのドールが「成人女性」であると仮定するならば、そこには(セックスは全てレイプであるとのフェミニズムを導入しない限り)「悪」と呼べる要素はなくなる。
 ただ、「幼女」であれば、そこにはインモラルさが、先に書いたように「黒人の人形を殴る」程度のネガティビティは生ずる。しかし、それすらも「憎悪」を根底に置いたものではない。そもそも問題を「ヘイト」概念ですくい取ることが間違ってるのです。
 先にも書いたようにフェミがポルノをヘイトスピーチだと断じるのは、「ポルノがレイプを生んでいる」という前提があるからこそなのだから、そこを否定すればいいのに、青識はしない。或いは、青識の中でフェミニズムの価値観が無意識に前提視されており、それができなかったということなのかもしれません。
 しかしさらに勘繰るならば、もっと嫌な予感も頭をもたげてきます。
 青識は「敵」をこそ「憎悪者」認定するために、「ヘイトスピーチ」という概念を捨てたくなかったのではないか。それは即ち、彼がペドという「被差別者」を「爆誕」させ、その「擁護者」の立ち位置に収まるために、「ヘイト」という概念を運用しようという計算が、あるのではないか。
 見ていると青識は

 ヘイトスピーチの本来の意味を没却した、外形的なイメージだけで同一視することは、ラブドール産業に関わる従業員や消費者への不当なレッテル張りであるばかりでなく、本当にヘイトスピーチをぶつけられ、切実な苦痛と危害を受けている人々の問題を軽んじることにもつながる。


 などとも言っているのです。
 言わば「お前こそヘイターだ」という返しをしているのですね。
 前回、モトケン師匠という弁護士の奇妙なロジックをご紹介しました。
 そこにわらわらと集まってきた人々を見ると、ペド差別に憤る人々には「ヘイトスピーチ法規制派」が多いのかなとの懸念を覚えずにはおれませんでした。
 しかし本稿を見ていると、青識もまた、何か、変節しつつあるのかなとの疑問を拭い難い感じがします。
 或いは「ペド差別」を仮想して、LGBTとおんなじ商売を始めようと考えるうち、「敵」を殴る棒としての「ヘイトスピーチ」という概念を欲し始めているのかもしれません。
 もしそうだとすれば、仮に彼が「法規制せよ」と言うことは踏み留まり続けるとしても、あまり好ましい状況であるとは思えません。

 ――というわけで、まあ、長くなりそうなので、続きは以降。
 もったいぶってもしょうがないのでここでまとめめいたことを書いておけば、青識の文章は(以前からそうなのですが)「論点整理」との看板とは正反対に、コソクな論点をずらしたレトリックに留まっているという他はない。そしてそれは、彼が左派として、フェミニズムの手のひらの上を出るわけにはいかないからなのでは……と、ぼくには思われます。
 次回はそれが、いよいよ明確になっていくことでしょう。

『ペドファイル利権を作ろう!』(愛称・ペドつく)

2020-06-15 19:59:30 | 弱者男性



※この記事は、およそ11分で読めます※

 よい子のみんな!
 みんなが待っていた、『LGBTツクール』の最新版が遂に発売だ!
 その名も『ペドファイル利権を作ろう!』(愛称・ペドつく)

表現の自由クラスタはペドファイルを幸福にしない

 ――と、まー、掴みのギャグはこのくらいにしまして。
 できればしばらくは『腐女子の心理学』関連の再掲記事でつなごうと思っていたところ、動画にあんまりコメントもつかないままに新ネタに移行するのは(こちらの時間的精神的余裕を鑑みても)好ましくないのですが、まあしょうがありません。



 そう、「少女型ラブドール」についての件です。
 まあ、これはきっかけの一つに過ぎず、ここ数年、表現の自由クラスタがこぞって過剰なペドファイル擁護をしており(それがまた非道いものばかりで)、きな臭いなあとは感じておりました。
 ただでさえぼくは(彼らの界隈では)評判が悪いので、一応先に申し上げておきますが、少なくともラブドールそのものを、ぼくは規制すべきとは思いません。ただ、表立って見せびらかす趣味ではないので、こそこそと陰で楽しむようにするのが最善策だろうと考えます。
 そこを、ことさらに騒ぎを大きくするのは、逆効果としか思えない。これは欧米のスタイルをそのままパクったLGBTの解放運動に対しての、「そもそも日本にはホモ差別とかなかったんだから、過剰に大声を出すやり方に効果があるとは思えない」といった批判と、全く同じです。
 仮にあなたがペドファイルだとしても、「ペド差別」みたいなことを声高に叫ぶのは逆効果だろうし、少なくとも、今、表で騒いでいる人(青識亜論や、今回採り挙げるモトケン師匠のような、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人々)の後について行っても、恐らくあなたの利になることは何もない、何か妙な政治運動の手伝いをさせられるだけではないかなあ……という危惧をして、ぼくが今、この文章をしたためていることをご理解いただければ幸いです。
 なお、ペドファイルの無理筋の擁護をしたがる人々について、今回、ひとまずは「表現の自由クラスタ」と総称することにします。
 ネット上を見る限り、ほぼこの両者は重なっていると考える他、ないからです。

弁護士は一般的大衆感覚を反映しない

 さて、数日前、モトケン師匠という御仁(弁護士さんで、大変多くのフォロワーのいらっしゃる方です)が以下のようなことをつぶやいていました。

普通の異性愛者の男が魅力的な女を見て「セックスしたい」と思ったときというのは、同意の有無なんか関係なしに「したい」と思うんじゃないの?
でも大抵の場合は同意を得られる見込みはないし、同意を得ずにしたら強姦罪になるからしないんでしょ(一部の例外はあるが)。
小児性愛者とどう違う?
― モトケン (@motoken_tw) June 4, 2020

成人の女性(または男性)相手のセックスについては、口説く余地がある点で小児性愛とは違うけど、同意が得られなければ大抵の人はしない、という点では成人相手も小児相手も変わらない。
ところが、小児性愛者については性的魅力を感じたらみんなやってしまうと考えている人がいる。
これは差別ですよ
― モトケン (@motoken_tw) June 4, 2020


 弁護士さんと思えぬ粗雑な物言いに呆気に取られ、ぼくは引用RTで

「どう違う?」とか聞いてるけど「断るだけの判断力がない」という点で全然違うだろう。
それこそ昨日の「マスキュリニストが完全にフェミニズムのパロディである」のと同様、彼らもまたフェミのパロディなんだよね。
フェミは「あらゆるセックスを否定するため」、
― 兵頭新児@『女災』10th year! (@hyodoshinji) June 5, 2020


 とつぶやきました。
 が、師匠はどうしても理解が及ばないご様子。

>「断るだけの判断力がない」という点で全然違うだろう。

問題になるのは、被害者の判断力ではなく、加害者の判断力。
小児性愛者だからといって判断力が低いまたはないという根拠はなにもない。
― モトケン (@motoken_tw) June 5, 2020


 もちろん、小児性愛者は判断力が低いのでは……とする根拠はあります*1。ぼくはNAMBLA(少年とのセックスを認めよと運動している組織)などを例に挙げましたが、「日本の法制度が前提。」との答えが返ってきました。
 わけがわかりません。
 ガイジンと日本人のペドで、メンタリティが相当違うとする根拠でもあるならともかく、何で日本が前提なのか(ただ、こうした組織が堂々と活動をしているのを見ると、やっぱり「ガイジンは我が強い」という通念はある程度正しいんじゃないか……とは思えます)。
 また、そこを不問にしても「法制度」が出て来る理由がさっぱりわからない。
 しかしさらにその大前提として、「被害者の判断力がない」ことを何故不問にしなければならないのかが、全く理解できません。
 仮に、ペドと一般人の判断力が同じとの仮定を導入しても、被害者の判断力のなさを鑑みれば、「危険性」ということでは前者が上がってしまう。ペド当人に落ち度がなくとも、子供の親などの危機意識が大きくなるのは仕方がない。
 これは、男であればホモに対し、女であれば男全般に対し、ヘテロセクシャルや女に対する時よりも、リスクを考えて行動するのと同じことでしょう。
 もっとも、確かにだからと言って、何もしていないホモやペドに攻撃を加えることが正しいことにはなりません。
 師匠は

ところが、小児性愛者については性的魅力を感じたらみんなやってしまうと考えている人がいる。


 と続けていて、正直それが「真」なのかどうか、ぼくにはわかりかねるけれども、仮にそうだとするならば、それに続く、

これは差別ですよ


 も頷ける。
 しかしいずれにせよ先の「小児性愛者と一般人の危険度は変わらない」との詭弁とは飛躍がありすぎる。
 ぼくはそこを批判したつもりなのですが、師匠はあっさりと逃亡
 まあ、反論できるわけもありませんしね。

*1 これについては、かつてからずっと述べているのですが、

春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない
春一番 日本一の認知の歪み祭り! 「小児性愛」という病――それは愛ではない(その2)
「創作子どもポルノ」と子どもの人権
和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検(及びイオン系列のアダルト書籍販売中止)について

 辺りを参照。
 今回は詳述する余裕がありませんが、「表現の自由クラスタ」の中でも(実写の、実在の子供を被写体とした)児童ポルノを観ることを肯定している者がおり、まあ、お察しです。


「ペド差別」は残念ながら、存在しない

 そんなこんなで表現の自由クラスタの詭弁の例としてtogetterにまとめたのですが*2、お仲間がわらわらと湧いてきて、いろいろとコメントをくださいました。
 その中でも一番しきりに書き込んでいた御仁(仮にYさんとしましょう)のコメントはどういうわけか消えてしまったのですが、記憶で再現するならば、

・「お前はペドファイルをどうしたい、死刑にしたいのか」などとこちらが言ってもいないことを根拠に罵ってくる。
・「少年とセックスすることを認めよなどと言っている組織があるのか」などと、こちらが明確に述べていることを、ちゃんと精読もせずにエラそうに質問してくる。「既に述べた」と返しても感謝も謝罪もない。


 といった次第。
 また、これは他の方ですが、NAMBLAの例に対しては、「ペドファイルの全員がNAMBLAの考えに同意しているのか」などと難じてくる。もう、100%じゃない限り0%なのだという典型的な詭弁ですね。
 こうした言い方をする方が、この界隈、非常に多い。
(ただし、「では何%がそうした考えの主なのか」を提示しにくいという事情がある以上、こちらもこうしたことを述べる場合、慎重であるべきとは思います)
 彼らの夢想するペドファイルというのは、世間の迫害に遭いながら自らの欲望を抑制し、悩み苦しみ続ける、驚くほどに神聖で清浄なマイノリティらしいのですが、ではその具体的な差別とは何かと尋ねると、Yさんの答えは「ネット上の激しいヘイトスピーチに苦しめられており、このままでは具体的な身の危険に発展するかも」というもの()。
 要は「ペド差別」というのはネット上での罵倒しか、現時点では存在していないらしいのです。
 どうもこの御仁はヘイトスピーチ規制賛成らしいですが、この主張は表現の自由クラスタとしては採用できない(したとしたら軽蔑するしかない)ものですよね。
 さらに、これらヘイトスピーチ()の発話者は、そのほとんどがフェミニストだと想像できる。しかし彼女らは「あらゆる性的欲望」を否定しているのだから、別にペドだけを特別扱いしているわけではない。
 つまりモトケン師匠の仮説は最初から間違っていて、「フェミは、普通の男もペドも性的魅力を感じたらみんなやってしまうと考えている、平等主義者」だったのです。
 そう考えるとどこに「ペド差別」とやらがあるのかが、ぼくにはどうにも見えてきません。
 Yさんがぼくに対して、舌舐めずりをせんばかりに「ペドを死刑にしろとでも言うのか」と難詰してきたことが象徴するように、結局今はまだ「被差別者としてのペド」像を確立するため、冤罪込みで必死でアリバイ証明をしようとしている段階である、と言えましょう。
 そう、彼らは『LGBTツクール』(正式タイトル、『LGBT利権ツクール』)の最新版、『ペド利権ツクール』のプレイの、真っ最中なのです。


*2 モトケン師匠vs兵頭新児


彼らの運動にはまだ、ビジョンがない

 ヘイトスピーチについては一応、「法的には規制すべきではないが、許されるべきではない」との理屈は成り立ち得るし、その意味でヘイトスピーチを批判する書き込みもまた、否定されるべきではない。
 しかし逆にいうと、それ以外に、彼らがなし得ることは何もないわけです。
 例えばですが、フェミがドールの発売中止に追い込もうという運動でも始めれば、「開戦」の口実はできる。しかし残念ながら、いまだそうした状況には至っていない。
 恐らくですが、フェミにとってはもっとメジャーな場でなされる萌えキャラによるキャンペーンなどを中止に追い込むことの方が大事なのでしょう。もしここで大袈裟に「ペド差別けしからぬ」と騒げば、かえってペドの存在を可視化し、フェミを刺激するし、また他の一般的な人々の反感を招くのではないでしょうか。
 表現の自由クラスタにとっては、ことを大袈裟にした方が、利は大きい。「差別」が明確化した方が自分たちの主張に説得性が出るし、イベントをやったりで小銭が稼げますし、ゆくゆくは(LGBTがそうであるように)もっと大きな利権を育てられるかもしれない。しかし当のペドにとっては、黙っていた方が得なのではないでしょうか。
 そもそも、彼らは世間が(ペドに対して)どうあるべきだ、と考えているのでしょうか
 ぼくはコメント欄で彼らに繰り返し、「ならば、どうしたいのか。どのようなビジョンを持っているのか」と問いただしましたが、残念なことに答えは返ってきませんでした。
 例えばですが、引っ越し先のアパートの隣人に「ペドで~す」と挨拶しても普通に接してもらいたいんでしょうかね。「ホモ」の運動では、それに近いビジョンが理想とされますが、そんなことを言ったら頭がおかしいと思われるのは当然であること、両者共に変わりません。ホモやペドが「腫れ物」的に扱われるのはまあ、面白くないかもしれないが、それはオタクやブスがモテる社会というのは恐らく到来しない、辛いがそれは仕方がない、ということと同じです(先にネタバレをすると、実のところ「ジェンダーフリー」こそが、これが解消されるパラダイスが訪れるのだ、との空手形なのですが)。
 結局、黙ってりゃわからないんだから、わざわざ周知することじゃないとしか、ぼくには思えないのです。
 これはまた、少し前に炎上した杉田水脈氏の件を思い起こさせます。
 彼女の指摘は大変にラディカルで、「LGBTたちは不遇感を感じている、しかしそれは家族関係や友人関係などのパーソナルなことであり、法の改正などで解消するものとは思えない」といった視点を提示するものでした。
 キリスト教文化圏で法的に同性愛行為が禁じられていたのと異なり、日本にはそうした意味での差別はない。
 もちろん、一般的なヘテロ男性は「ホモ」を「キモい」と思うけれども、そうした感情の問題を持ち出しても仕方がない。上に書いたようにあまり表立ったことをせず、共存するのが利口だ、というのが一般的な考え方ではないでしょうか。

彼らとフェミニストには違いが、ない

 さて、先にちょっとネタバレしましたが、「表現の自由クラスタ」――これはオタク界隈をうろちょろして、表現の自由を守ると称する運動を展開している、左翼思想にずっぽりと染まった人々のことですが――はフェミニストたちを批判するようなポーズを取りながら、実のところフェミとズブズブで、裏では癒着しています*3。モトケン師匠もちょっとツイを覗いたら、案の定、「ツイフェミ」に対し「自称フェミ、自称フェミ」と繰り返していました。だから彼らはフェミニズムの提示して見せた「ジェンダーフリー」を信じている。
 これはぼくたちの持つジェンダー(そしてそれが前提となっているとされるセクシュアリティ)を根底からリセットするという、非現実的な大革命思想です。ぶっちゃけるとそもそもどのようにすればそんなことができるのか、青写真すらでき上っていなさそうなのですが、今のところ男の娘ものの漫画でも読みながら「ジェンフリ」とかつぶやくと、満足できるご様子。
 しかしそもそもジェンダーをリセットすれば、恋愛も結婚もなくなってしまうしかない(仮に存続しても、今とは根本的に形が変わっているとするしかない)。オタク文化のみならず、あらゆる文化はなくなってしまうしかない(仮に存続しても、今とは根本的にその形が変わっているとするしかない)わけです。
 全く、検討するにも足りない空論です。

*3 これについては枚挙にいとまがないですが、まずは以下をご覧ください。



 また、先にLGBTについて盛んに繰り返しました。
 表現の自由クラスタがペドについて論じる時には常に、決まって「ホモもかつては差別されていたが云々」との言及があります。つまり彼らの運動は完全にLGBTの運動に倣ったものであり、またこのLGBTの論理的支柱になっているのはやはり、フェミニズム発のジェンダーフリーなのです。
 さらに、マジョリティに対して、顧みられないマイノリティを持ち出して来て「可哀想だろう、さあどうだ」と騒ぎ立てるというのがその方法論であり、そこには非常に往々にして「無知で冷酷な大衆」への憎悪と傲慢な優越心が伴います。
 これは障害者や黒人などの人権運動にもつきまといがちではあるものの、LGBTの運動はさらに「ジェンダーフリー」という「これから訪れるべき、新たなパラダイム」を提示するという性質がその傲慢な優越心をより露呈させがちであり、しかしそのビジョンの中身は残念ながらんどう――という辺りが、より以上に運動を空疎なものにしているのです。

 そう、表現の自由クラスタと「ツイフェミ」とは、全く変わらない人たちでした。
 彼ら彼女らが一見、戦っているように見えるのは同じ区画でファミマとローソンが陣地取り合戦している……どころか、同じファミマ同士で戦っているようなもの。どちらが勝とうと、こちらには被害しかありません。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第8回『腐女子の心理学2』【ゆっくり解説】

2020-06-07 15:46:51 | オタク論




https://youtu.be/JhPcqL2_qoI

 フェミニストユーチューバー・須藤えみにのライバル、アンチフェミユーチューバーの風流間唯人です。
 今回は前回採り挙げた山岡重行『腐女子の心理学』の続編、『腐女子の心理学2』。
 テーマはずばり、山岡重行は仮面ライダーである!
 本動画を観ることで、ぼくたちはまた一歩、フェミニズムの影響から逃れることができるよ!!

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『ぼくたちの女災社会』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。