兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第14回「のび太=インセル論」

2020-10-27 19:03:52 | 弱者男性


 さて、今回は『BEASTARS』評はちょっとお休みして、動画の紹介になります。

風流間唯人の女災対策的読書・第14回「のび太=インセル論」


 それと共に、例の「SAVE JAMES」問題について『Daily WiLL Online』様に書かせていただきました。

 9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている【兵頭新児】

 本国でもスルーされているというこの問題の一助とするためにも、どうぞ拡散にご協力をお願いします!

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その3)

2020-10-17 18:54:39 | アニメ・コミック・ゲーム


※この記事は、およそ13分で読めます※

 ――というわけで、続きです。
 匿名用アカウント氏の『BEASTARS』評の感想であり、まずは本ブログ前回前々回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読んでいただくのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと第一部とも言える六巻までを読んだばかりで、本稿もあくまで匿名氏の批評を根底に置いたものなので……。

・兵頭、四巻まで読んだってよ

 さて、上にあるように六巻までを読んだのですが……何というか、匿名氏のnoteではここでひと段落つくようなことが書かれていたのですが、何か次回への引きで終わってしまっており、全然話としては片がついていません。
 一応はハルがシシ組というヤクザに捕まり、食われそうになるのをレゴシが助け出す(その後、期せず「外泊」となり、ベッドを共にしかけてレゴシが臆する)のがクライマックスなのですが、その後、一巻分日常話を続けた挙げ句、ぶった切ったように話が終わってしまいます。
 そう、シシ組というからにはこのヤクザ、ライオン集団。そして彼らが根城にするのは「裏市」の最奥部。
 この「裏市」が描写されるのが三巻で、レゴシたちが仲間で繰り出す話が描かれます。前回挙げた悪役のトラは、ここでクッソ汚い老人が自分の指を売っているのに出くわし、大枚はたいて指を食ってしまう。嫌悪を覚えたレゴシは裏市から出ていく。
 裏市で売られているものの多くは病院や葬儀屋から流されてきた死肉であり、非合法であれ、殺害は(シシ組がいるような最奥部では行われているけれど、浅い部分では)行われていない。
 トラがここを「平和を保つために存在する必要悪」であるように語り、また作者が大体の肉食獣がここを利用していると書くように、また匿名氏が評していたように、ここは歌舞伎町のようなニュアンスで描かれています。
 ここでこの裏市の顔役ともいうべきパンダのキャラクターが登場します。彼はこの裏市でパニクっていたレゴシを見て殺獣経験のある者だと判断、彼を拉致して肉食の悪を解き、ハルと別れろと諭します。「お前は狩猟欲を愛と勘違いしているだけだ」と。
 ここもまた匿名氏が評していたところで、ここで語られるのは「悪しき性欲」と「真の愛」は別という世界観だ、というわけです。
 パンダちゃんは「若いヤツらはロクなモンじゃねえ。何にかにつけて恋愛だ何だとはしゃぐ」と嘆きます。
 80年代に恋愛資本主義というものが生まれ、女性は社会の主役になりました。しかし苦界で女が辛酸を舐めているという設定でしか「シコれない」女性たちはレイプ物のBLを生み、レディコミを生んだ。そして、本作もその一つなのです。
 パンダはレゴシに「小動物物のエロ本」を渡し、語ります。「これに反応したらお前は特殊性癖だ。しかしそうでないのにハルにこだわっているなら、むしろそっちの方がヤバい」。そう、ここで本作はペドファイルをダシに男全体を叩くフェミニズム本であると明らかになるのです。
 ウサギであるハルは、背丈もレゴシの1/3ほど。レゴシは「幼女に欲情するヘンタイ」であった(事実、七巻で「ロリコン」と呼ばれるシーンが登場します)。ハルは精神的には自立している女のように描かれつつ、何故だか幼女のように弱者という聖性を持つ女であった、のです。
 で、このダークな巻を読み終えると描き下ろしページで「ハルのひみつ!」みたいな企画をやっててうんざり。ハルは自分に嘘をつかない、思っていることをずけずけ言うところが魅力なんだそうな。
 あ、はい。
 四巻に読み進めるとハルの描かれ方はいよいよ妙なものになります。
 ハルが安易にレゴシと寝ようとしたことを、レゴシは「安っぽく自分を差し出さないでほしい」と諭すと、ハルは、「常に死と隣り合わせの動物の気持なんか知りもしないくせに」と見開き大ゴマで怒り出すのです。
 そんなこと言ったって、「死と隣りあわせ」だったら、なおのこと、「安っぽく自分を差し出すな」というお説教が正しくなるもんなー。
 この後、揉めた二人を見た周囲の連中が「暴行を加えているのか」と騒ぎだし、二人は逃げ出す。「あなたなんて捕まったら少年院行きだ」とハル。
 そう、ここでハルはまた、支離滅裂な理論を展開してしまっているのです。
「死と隣りあわせ」なのは女ではなく男の方であると、ハルは知りながら、気づかずにい続けているのです。
 また、レゴシもレゴシでここでハルの手を引きリードすることで(別に抱きかかえているわけでもないんだけど)「初めてオオカミの自分を肯定できた」と感じます。いや、でもそこで逃げる必要が生じたのは自分の「肉食」性が原因では。
 この辺、どうも何が描きたいのかが、よくわかりません。
(この後のお茶してるだけのシーンにわざわざ「レゴシのおごりです」と説明を付け加えるのもいい感じです)

・兵頭、六巻まで読んだってよ

 何やかんやで五巻、シシ組編に入ります。
 先に書いたようにシシ組はボスに献上するため、ハルを拉致するのですが、ボスは彼女を食べる前、羞恥の感情が肉を美味にするなど、かの国の人のようなことを言い、その身体を「検品」します(要するに服をひん剥いて〇〇〇を覗き込むのです)。しかしハルはそこで強がり、「私は冷静だから、もう肉は美味くないぞ」と言うのです。
 何だかよくわかりません。いや、羞恥が肉を美味くするという設定があるので一応、強がりとして成り立っているのですが、それはこの瞬間にいきなり出てきた設定に過ぎません。現実と対応させれば、レイプされそうな女性が「私は恥ずかしくない、イヤじゃない」と強がるのと同じです。強姦者が「羞恥せずに身体を開いたので興醒めだ」と感じることはあるかもしれませんが、それは同時に「レイプされる側の痛み」の否定でもある。フェミニストってよくこういうマウント取るけど、あまり意味ないんじゃないかなあと。
 まあ、何やかやで現れたレゴシが「愛のパワー」で勝利、ハルを助け出すのですが、その時、思わず「ハルは俺の獲物だ」と口走ってしまう様が見事です。これはいまだレゴシが潔白な正義ではなく「悪」の側にいるぞとの保険を、作者はここでかけているのですね。
(もう一つ、このエピソードでも、またこれ以前にも、劇中に銃が登場します。そりゃあ、スマホすらある世界で銃がないのも不自然ですが、これを持ち出すとパワーバランスが崩れちゃうんじゃないのかなあ)
 五巻終わりから六巻にかけて、ハルとレゴシが帰宅手段もなく、ホテルで一夜を明かすのですが、ここでハルは(レゴシを誘うと共に)自然とレゴシに飲まれるような体勢を取ってしまい、「捕食本能があるように、被食本能もある」などと言うのです!
 ねえよ!!
 いや、もし「ある」という世界観にするのであれば、これはこれで前回挙げた『ミノタウロスの皿』に近い価値観が設定されているといえましょう。「草食獣もまた、一方的な被害者ではないぞ」と。しかし、果たして作者はこれ以降、そこまでを描くのか。現段階では甚だしく疑問という他ありません。
 このホテルのエピソードそのものは、まあ微笑ましいというか生々しいというか、レゴシにそれなりに感情移入して読めるんですが。

・兵頭、最終回書くってよ

 ――さて、先にも書いたようにこの六巻までが一つのまとまりであるかのように語られつつ、話はばっさりと終わります。まだ先がどうなるのか読めないのですが……ただ、一つだけ匿名氏のnoteに戻りたいと思います。
 前々回、ぼくは「本作は細かい世界観設定などないのではないか、フィーリングで描かれているのではないか」と繰り返しました。
 が、物語が進むにつれ、この動物たちの社会の形成の経緯がちょっとだけ匂わされるそうです。
 驚くべきことに、それは「かつて、別々に生息していた肉食獣は草食獣に出会い、そして草食獣を守る対象として認識した」というもの(!)。
 自然界において、肉食獣は「罪もない植物さんを屠る草食獣という悪魔から、植物さんを守る正義のハンター」として、神様に配置されています。そう、肉食獣が草食獣を食することこそ、正しい「共生」なのです。
 ですが、本作では当初は両者は棲み分けていた、ところが肉食獣が草食獣へと奉仕したくて、「共生」を選んだといいます。
 普通に考えて、「共生」する意味などないのに(肉食獣もそれ以前は肉食獣同士で食いあっていたのだから)。
 肉食獣が、共食いするより草食獣の方が「美味い」から、ないし肉食獣同士のホモソーシャルな結託を強化したくて、下位存在(食べるための存在)としての草食獣を欲した、というのであれば、辻褄はあう。
 ところが驚くべきことに、「守らなくてはならないから」、自主的に草食獣との「共生」を望んだのだ、というのが本作の世界観なのです。
 もうおわかりでしょう、「私は男なんかキョーミないのに、男どもが寄ってくるのよね」というわけです。
 この社会では草食獣も充分権力を持っているわけで、だったら、ゴタゴタが起こらないよう、肉食獣と草食獣を棲み分けさせればいいのです。
 本作の学園では「草食動物寮」「肉食動物寮」が設定されています。ここまで来て、これが「男子寮」「女子寮」のメタファだと理解できない人はいないでしょう。
 しかし、寮を分けるのであれば、そもそも別に暮らせばいいものを、何故、それをしない?
 そう、肉食獣が草食獣に奉仕したくてしたくてならないので、頭を下げて「共生」を望み、草食獣は半目でタバコを吹かしながら、「寮は分ける」という妥協案の下、それをお許し下さったのです!!
 ここにあるのは、女性の果てしない被愛妄想です。
 そもそもが動物が立って歩き、スマホをいじっている時点でフィクションなのだから、こうした支離滅裂な、女性の「情緒的整合性」にのみ則った設定もまた、許されるのでしょう。
 一方で草食獣と肉食獣の間で戦争があった、との歴史も語られはするのですが……。
 ――さて、いい加減、最終回を語ってみましょう。
 いや、何か実際本作、ちょっと前に最終回を迎えたらしいのですが、以下は「ぼくのかんがえたさいきょうのびーすたーさいしゅうかい」になります。
 一応、上の設定もお含み置きの上、お読みください。

 動物たちの世界に、宇宙船が降り立つ。
 そこから現れたのは、裸の猿を思わせる生物。彼らは自らを、「地球人」と名乗った。
「申し訳ないことをした。かつて我々の祖先がここを訪れた時、『文化汚染』を行ったのだ」。
 地球人のリーダーが動物たちのリーダー、ヤフヤに謝罪する。
 その様子に、ヤフヤたちは不思議がる。自分たちが異星人と接触した歴史など、残ってはいない。いや、そもそも彼らにとって過去の歴史は極めてあやふやなものだった。かつてあった大戦争のため、歴史を失った民族であったのだ。
「場所を隔てて生きていた草食動物の下へ、肉食動物が奉仕をするために現れた」といった記述が、聖書でなされてはいたが……。
 地球人は説く。その聖書とは、この星を訪れた地球人の書いたものだ。
 彼はこともあろうにこの星の家畜、「ウス」に恋愛感情を抱き、「ウスを食べるのはよくないことだ」と指導者たちに弁舌を揮い、それでも通じぬとなるや民意に訴えようと、自分の主張を本にして出版した。そこには「ウスが優れたよき存在であり、そんなウスに対し、ズン類は奉仕しなければならないのだ」といった内容が書かれていた。同時にそこにはウスに対する訴えも書かれていた。「君たちは食肉とならずとも、ただそこにいるだけで賞賛されるべき存在なのだ」。
 この主張を受け容れるウスたちが現れた。多くは肉の固くてまずい種族だ。彼ら彼女らはこの本を信じ、自分たちはただ、そこにいるだけでその見返りを得るに足る存在と信じ始めた。
 その結果、ウスとズン類との徹底した断絶が起こった。
 ウスたちの娯楽として、「ズン類が自分の美しさのあまり、食べることなく自分を愛で、奉仕の限りを尽くす」という「不味コンテンツ」が流行した。一部論者が、「本来であれば美味故に得られる栄誉を、何のコストもかけずに得られるべきゲインと勘違いしている」として、そうした欲求を「負の食欲」と呼んだり、ウスに媚びたいズン類がウス批判者の著作を自著でデタラメな根拠によってあげつらったり、こっそり裏市でウスを食っていることがバレたが、ウス側の糾弾からは逃れたりといったことが起こった。
 やがてウスから得られる利がゼロになった時、ズン類はウスと接触を断つ道を選び――しかしズン類の称賛を必要とするウスはそれを押し留めようとし、両者が武力衝突。「第一肉草大戦」が勃発した。
 ついには禁断の「D兵器(多様性兵器)」が投入された。遺伝子を変換するその兵器のためにウスもズン類も多種多様な姿に変貌してしまい、両者のボーダーは曖昧となった。
 ウスは「草食獣」と呼ばれるように、ズン類は「肉食獣」と呼ばれるようになって、その中でも巨大獣、小型獣といった多様性のある種族が溢れ、それぞれの種の都合を忖度して生きねばならない非常に高コストなエココレ(生態学的正義)社会が現出。元の文明も忘れ去られ、永い時が経った。
 生存するため、再びウスとズン類は共生関係を築き上げ、しかし草食獣は数の少なさから(希少な自分たちを巡って肉食獣を争わせることで)優位性を得、政治権力を握るようになっていた。彼らの中でも有力者は自ら動物たちの長、「ビースターズ」と名乗り、肉食獣を支配するに至った。彼らはあの地球人の出した本を「聖書」として崇め、その記述はいつしか「肉食獣は草食獣に尽くすために、共生を望んだ」と解釈されるようになっていった――。
 草食獣たちは、肉食獣に引き金を引かせた時点で自分たちが勝利するシステムを作り上げた。自分たちの肉体を小出しにすることで、相手にそれを求めさせ、そして求めたとたん、相手を糾弾し、優位に立つ支配のシステム。
「肉食獣が草食獣に奉仕するために現れたのではなかった、草食獣が奉仕されたいがために肉食獣へと働きかけていたのだ」との歴史を白日の下に晒され、パニックに陥る草食獣たち。
 いずれにせよ、肉食獣が肉食を止めたことは今までなかった。また、草食獣の中に自分の肉体の美味さに対するナルシシズム――食べられることで、相手の心を捉えたいという衝動――はあった。
 ならば、互いの欲望を詳らかにして、肉食獣と草食獣は今一度、共生するか分立するかを見直すべきではないか――。
 ようやっと、大戦以降初めて、草食獣と肉食獣は異質にして対等なる者として、この星に並び立ったのだ――。
 ――とまあ、こんなところです。
 ぼくは、本作は女性性の持つ大いなる利、即ち男性にモテることで自己承認欲求を満たせるとの「事実」を隠蔽した上で成り立っている、と指摘しました。女性側は、自らの欲望を隠し、綺麗なままでいると。
 ハルは「自分に被食本能がある」と語り、また後の話ではレゴシ以外の男に食われようとする。そこに、彼女の「汚れる覚悟」を見て取ることができるのかは今のところ、判然としません。
 後、本作にはもう一匹のキービーストが登場しますが、それについてはいまだ述べることができていません。
 そんなわけでまあ、ぼかしたオチになってしまいました。
 つーことで『BEASTARS』評、もうちょっとだけ続きそうです。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む(その2)

2020-10-10 19:07:27 | 弱者男性



※この記事は、およそ9分で読めます※

 ――さて、続きです。
 匿名アカウント氏の『BEASTARS』評の感想であり、まずは本ブログ前回、及び匿名氏のnoteを読んでいただくことを推奨します。
 さらに、そもそもの『BEASTARS』も読むのがベストなのですが、ぼく自身、先日ようやっと二巻を読了したばかりで、本稿もあくまで匿名氏の批評を根底に置いたものなので……。

・エモン、『BEASTARS』を予言してたってよ

 前回、『BEASTARS』を予め「風刺」し、「論破」した作品がある、と述べました。それは一体何か、というところから始めましょう。
『ミノタウロスの皿』という藤子・F・不二雄のSF短編です。
 簡単にあらすじをご説明しましょう。

 主人公の青年は21エモンみたいな顔をした宇宙パイロット。事故でとある星に不時着したが、幸運なことにそこは地球型の惑星であるばかりか、高度な文明と温和な性格を持つ住人たちがいた。
 彼らに歓待され、主人公は無事、助けが来るまでの時間をその星で過ごすことができる。
 ただ……その星には一つだけ地球との違いがあった。
 その星は「牛の惑星」であり、文明を築いているのは牛――否、自らを「ズン類」と称するその星の人間たちは地球の牛とそっくりの外見をしていた。
 人間は彼らの家畜であった――否、彼らの家畜である「ウス」という動物は、地球人とそっくりであった――。
 ウスはズン類の食肉用として、飼育されている存在だったのだ……。


 いえ、まあ、「価値観の転換」がSFの醍醐味であり、そこにそこまで堅苦しい風刺性を求めるべきではありません。何よりこの「ウス」は高度な知能を持ち、主人公とも普通に会話を交わします。そんな存在を食っているズン類はやはり野蛮とも思え、「両者の立場を変えたことによる風刺」と呼ぶには少々厳しいし、別に藤子Fも食肉は野蛮だと訴えたかったわけではないはず。
 ただ、主人公はこの「ウス」の美少女ミノアと心通わせ、何とかズン類に食肉を止めさせようとするのです。
 何しろミノアは「ミノタウロスの皿」に選ばれて、大祭の際に食べられてしまう運命なのですから。
 しかしウスは「食べられること」を栄誉と考え、ズン類はウスを愛護し、食べられるまでの生活の保障をすることでそれに報いている。
 つまりここには両者の合意が形成されており、それは正当とも言えるし、またぼくたちの食肉文化の「戯画」と取るにはやや現実離れしているとも言える。
 つまり「風刺として見るにはやや無理がある」という意味では本作に近いのですが、この両者を対置させてみると、思わぬ化学変化を起こすのです。
 従来、この『ミノタウロス――』については「価値観の違いを描いた作品云々」といった評価ばかりが与えられてきました。いえ、それは決して間違いではありません。
 しかし上のミノアは美少女として描かれ、祭典では神輿の上に全裸で鎮座しています。
 また、ウスにとっての価値観は「ズン類に美味しく食べられること」に集約され、ハムやソーセージ、さらには肥料として扱われることを不名誉と感じています。
 作中、男の「ウス」も(むしろ女よりも)多く描かれてはいるものの、実際に食べられようとする描写があるのはミノアのみであり、ここからは両者の関係に男女の性の暗喩が見て取れるのです。
 いえ、作品としては恋仲になるのは主人公とミノアであり、ズン類とウスの間にそうした感情があるとは思えない。ただ、「価値が認められ、選ばれる栄誉」を本作では「女性の性的魅力」のアナロジーで描き出しているとは言えるわけです。
『BEASTARS』は食われる者にとっては「加害」でしかない「肉食」という行為を「セックス」のアナロジーとして描くことで、「セックスは女にとっては一方的な加害でしかないのだ」といった「嘘」を捏造することを目的とした漫画である、と言えます。
 ひるがえって『ミノタウロスの皿』は「食われること」を敢えて「栄誉」とし、そのシーンに女性の裸体を描くことで、本作に五十年前に「おいおい」とのツッコミを入れた作品であった、ということができるのです。

・兵頭、二巻読んだってよ

 さて、『BEASTARS』に戻りましょう。
 上に二巻までを読了したと述べましたが、この巻では主に二人の男性がレゴシと対比するように描かれます。
 一人はルイ。彼は当初よりレゴシに「強い者としての責任を引き受けろ」と説いています。彼は演劇の主役を怪我を押して務めているのに、レゴシが自分の強さを押し隠そうとしているのが不快なようです。力のない草食獣と力のある肉食獣の対比というわけなのですが、しかし、怪我で困ってるのと牙(攻撃用の武器)があるというのとは話が違うし、対比になってない。文句を言われたレゴシも困るしかないなあと。
 そして劇の二日目、倒れたルイに代わり、トラのキャラクターが代役に。このトラは肉食獣である自分(たち)が草食獣に遠慮していることを不満に感じ、肉食獣らしく生きようとしているキャラなのですが、それでも舞台のプレッシャーはハンパなく、それに耐えるために「ウサギの血」を密かに飲んで、レゴシの怒りを買ってしまいます。
 レゴシは芝居を越えてトラをボコり、しかしトラは「お前も敏感に反応した以上、ウサギの血を知っているのだ、ウサギを殺したことがあるのか」とささやきかけ、レゴシの心を乱し、「ともに業を背負おう」とBL的演出と共に誘惑します。
 すんでのところでルイが現れ、トラをやっつけてレゴシに「お前は正しい」と告げるというオチですが……これ芝居、台なしなんじゃないでしょうか。
 要するに「悪しき男性性の持ち主」をやっつけるのが「力を持って生まれた男の務め」というのが作者の道徳律なのでしょう。
 それはまあ、わかるのですが、こんなにレゴシを負い込んで強要するような話ではないし(本作では「ゾウなどの巨大獣はネズミのような小動物に道を譲るのがマナー。ただし、小動物も感謝の心を持つことが大事」と語られます。しかしこと肉食獣に対してはこの後者が完全に忘れ去られているのです)、この「ウサギの血」というのは瓶詰で登場し、そもそも合法非合法、その血の主の同意の有無が(現時点では)描かれません。
 そもそも少量なら採血しても死なないんだから、実は本作は「吸血」をこそ、テーマにすればよかった(女性って吸血鬼物が大好きですよね、あれ、レイプの暗喩ですから)。しかし、そうするとまさに『ミノタウロスの皿』同様、女性側に「利」があることがバレてしまうので、あくまで「食殺」という欺瞞のある設定に逃げたのでしょう。
(その意味で、上の「血の主の同意の有無」などについても、恐らくこれ以降、描かれないんじゃないかなあと、ぼくは推察します)

・レゴシ、去勢するってよ

 さて、以降はまた匿名氏のnoteを元にした考察に戻ります。
 話の後半、いよいよ本作は「フェミ沼」の深みに入っていくのです。
 そもそもがこの「ビースター」というのは動物たちの中でも英雄的なエリートを指す言葉なのですが、壮年の草食獣であり、ビースターでもあるという、ヤフヤというキャラが登場するのです。そのエラい人にレゴシは

「肉食獣に生まれたことの謝罪」


 をしろと言われ、

「もう俺には牙はいりまふぇん」


 と、自らの牙を捨て去ってしまうのです。
 匿名氏はこれを「去勢」のメタファであると喝破し、



 と、例の「ジェイムズ事件」のぼくの動画にリンクを張ってくれています。
 レゴシは「負のポルノスター」です。
 女を求め、それが叶わず煩悶に苦しむという描写を女性様に献上し、ご満足いただく「汁を出せないことが仕事の汁男優」です。
 以前もぼくは何故腐女子たちは、よりにもよってギャグ顔でニート、童貞などという『おそ松さん』のキャラクターたちにハマるのか、それはダメ男たちがトト子ちゃんという女の子に恋い焦がれてそれが敵わぬ様を見て、トト子ちゃんに感情移入して楽しんでいるからなのだ、と分析しました。
『CLANNAD』の春原、『スーパーダンガンロンパ2』の左右田が主人公の悪友として常に道化を演じ、女性に手非道く扱われて嘆くといったシーンを、女性たちが楽しんでいる、ということもご報告しました。
 彼らに連なる、レゴシは「ヴァーチャル汁男優」なのです。

 ハルは後半、悪役の草食獣に「私を食べていい」という約束をするといいます。
 レゴシはハルと結ばれるために何もかもを犠牲にしているのに、ハルはあっさりとその関係を破綻させる。その理由は……「レゴシが自分を湛え、丁寧に扱うことの窮屈さに耐えかねた」から。
 何だかよくわかりませんが、要するに「夫は誠実に私に尽くしてくれる、でも私はまだ母になりたくない、いつまでも女でいたい」ということでジゴロと浮気をするという、これは凡百のレディースコミックですよね。
 そう、彼女は当初、「誰よりも弱いがため、性行為を通してしか、相手と対等になれない」と言っていたはずですが、その状態に戻りたいと言うのです。
 婚活女性が自分よりも稼ぎが上の男性にしか反応しないことは、よく知られています。ハルは「私を対等に扱え」と言っておきながら、いざレゴシが自分を対等に扱うとそれを不満に感じ、「対等に扱わない者」のところへと走ってしまったのです。
 そうして見ると作者にとっての理想は当初のハルということになりそうです。匿名氏が指摘するように、何せ「ハル」は作者の名前から取られているのですから。
 仕事にかまけるあまり婚期を逃し、婚活にハマる今の女性たちは、「誰よりも(女子力が)弱いがため、性行為を通さなくても、相手と対等になれる」存在です。そんな今の女性たちはハルのような生き方にこそ理想を見て、羨望するのではないでしょうか。
(ハルが自ら「食べられたい」と願ったのは、先の『ミノタウロスの皿』で指摘したような「食べられることの利」に、作者が自覚的になった……といった仮定も成り立ちましょうが、前後から見るに「どうかなあ」の念を拭えません。いえ、そこまで言うなら実際読んでみろという話ですが)
 しかし、このハルに対し、ルイ(先に書いたように、彼もまたハルと性関係がありました)が放った言葉は――。

「いくらでも愚痴を言っていい。泣いてもいい。落ち込んでもいい! でも絶対に生きろ! 小さいウサギが心置きなく落ち込める社会に……俺たちが必ずしてやるから!」



 あ、何かハルちゃんは作者の中では絶対的な聖性を持ったお姫様、ということらしいです、何でかはよくわかりませんが
 ――と、まあ、またかなりの字数を費やしてしまいました。
 すんません、予告していた「最終回」は消化できませんでした。
 次週、またちょっと巻数を読み進めると共に、「最終回」を展開してみたいと思います。

「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」を読む

2020-10-03 18:47:58 | 弱者男性


※この記事は、およそ12分で読めます※


 え~と、すみません、例のジョン・マネーについての記事の再掲をしばらく行うつもりが、また新ネタ。再掲の方は後に回すので、しばしお待ちを……。
 さて、匿名用アカウント氏のnoteが話題になっています。
『BEASTARS』という『週刊少年チャンピオン』連載の漫画を材に採ったもの。
 が、当然ぼくは未読だったがため、大慌てで漫画喫茶に飛び込むことになりました。

・兵頭、『BEASTARS』読んだってよ

 読んでみると巧みに描かれた、それなりに興味を惹く漫画だとの印象を持ったのですが、しかしぼく的にちょっととっつきにくい絵。
 また、登場キャラクターは全員が擬人化された動物という、子供向けのアニメでよくあるパターン。これ、かなりチャレンジブルですよね。ヒロインはウサギで、正直、萌えるには厳しいとしか。
 また、「動物たちによって構成される世界」となると、その「世界観」がどうしても気になりますが、それがなかなか描写されない。例えばどうしてさまざまな種の、食性も違う動物が共通の文化を持ち、共に暮らすようになったのかの経緯など。今時は世界観の説明を出し惜しみするのが通例なのでしょうが、とっとと説明して欲しいタチであるぼくにとってはそこが歯がゆく、それもちょっとマイナスとなりました。
 しかし、恐らくですが本作に関して「精緻な裏設定が練り上げられている」のではなく、「わりとフィーリングで描いてる」んじゃないかなあという気が……。
 そんなこんなで一巻を読み終えたところで挫折。『るろ剣 北海道編』と『トネガワ』に手を出すという、いかにもな「時代についていけなくなっている」ムーブに。
 というわけで本稿はあくまでも本作を一巻まで読んだ上での、匿名アカウント氏のnote記事の感想、という体裁になります。
 お読みいただく方も、(漫画の方は難しいとしても)まず匿名氏のnoteを読んでいただくことを、お勧めします。

 さて、匿名氏のnoteタイトルは「漫画『BEASTARS』から読み取る、女性に内在するフェミニズム的性向」であり、展開されるのは、

『女性にとってフェミニズム的な考え方はあまりにも自然なので、特に注意しないでいると、いつの間にかそのような思考に陥る』


 といった命題です。
 というのは、本作はフェミ的な作品である。それにもかかわらず、作者の板垣巴留氏(板垣恵介さんの娘さんです)について調べてみても、ことさらにフェミ的な主張をしているとか、そうした気配がない。
 ということは、本作のフェミ的主張は、自然発生したものである。
 女は生まれながらにフェミなのではないか……というわけです。
 これは、ぼくの『トクサツガガガ』評と全く同じですよね*
 あれもまた、「単なるワガママ女が身勝手な愚痴を垂れ流している」だけのもの。
(しかし板垣氏は漫画の中では鶏の被り物をしているというが、『ガガガ』の作者も自画像を鶏として描いています。何か関係があるのかな)
 これら作品は期せずして、「女のワガママ」が「フェミ」とほぼイコールで結ばれてしまうことを如実に立証してしまっています。
 ただ、『ガガガ』の方は「女の子に赤いランドセルを背負わせようとするのは抑圧」など、よりフェミの言語に近い主張がなされており、本作の作者よりはフェミ度合いは高く、その手の本も一、二冊は読んでるかもなという感じがします。一方、本作にはそうした気配が希薄で、これは逆に言えば本作の方が「フェミの自然発生の過程がナマの形で表出されている」ということでもあります。
 さて、ではそれは一体、具体的にはどのようなものか。

* 去年はずっと、この作品について書いておりました。
 おかげで随分なテキスト量ですが……。

フェミナチガガガ
フェミナチガガガ(その2)
フェミナチガガガ(その3)
ショウジョマンガガ
ショウジョマンガガ(その2)


・女性作家、「共生」について考えるってよ

 簡単に説明しますと、本作は「肉食動物」と「草食動物」の対立が柱となった物語と言えます。
 冒頭、舞台の学園において肉食動物が草食動物を食い殺す事件が起こり、しばらくはそれにまつわるごたごたがストーリーの主軸になります。
「文明社会」である彼らの世界で「肉食」は最大のタブーとされます。人間社会なら「動物」を食えばいいわけですが、何しろ動物なのだから、共食いはご法度というわけですね。
 では肉食獣が何を食べているのかとなると、植物性の蛋白とミルクを摂取していると語られます。正規に流通するミルクは、メスの動物の「正当な労働」による産物と思しく、裏では非人道的な搾乳をさせている(さらには草食獣の肉の闇市場がある)との描写もあり、唸らされます。
 こうした作劇は考えようによっては、『仮面ライダー01』や『ウルトラマンタイガ』などの多文化共生礼賛の「次」に来るものといえなくもありません。
 例えば、『仮面ライダー01』では「ヒューマギア」と呼ばれるロボットが人間社会に溶け込んでおり、一方では排斥しようとする者、一方では兵器利用しようとする者がいる、という図式ですが、いずれにせよ「ヒューマギア」という素晴らしい存在との共生はよきこととして描かれ、それに否定的な者は、ライダー側にもいるとは言え、悪役として描かれるわけです(まあ、ぼくはまだ前半半分ほどしか見てないのですが……)。
 しかし本作では肉食獣と草食獣の軋轢が描かれ、主人公はレゴシと呼ばれる肉食獣の青年。即ち、「共生」がただいいこととして、それに反対する悪者をやっつけることが目的とされる(ないし、「共生」に水を差す悪者をやっつけることで、状況は改善されるとする)のではなく、「予め加害性を持っているとされる側の、内面」を描くことそのものが、本作のテーマとなっているのです。
 ここでは邪気のない「共生礼賛」に来る、「次」の物語が模索されているように思われます。
 また、そろそろお気づきの方もいらっしゃいましょうが、この冒頭の草食獣殺害事件が象徴するように、肉食獣の「食欲」は明らかに「性欲」のメタファーとして捉えられている。
 匿名氏自身も以下のように指摘しています。

「漫画作品『BEASTARS』のテーマは、性に根差した生きづらさという問題と、その克服にある」


 そして作品はレゴシの自らの欲望にまつわる苦悩を延々と描くことになる……いかがでしょう、結構いいと思われた方もいらっしゃるのではないでしょうか。ぼくも「あ、いけるかな」と思いました。

・肉食、悪だってよ

 ――が!
 その期待はあっさりと覆されることになります。
 あ、いや、何しろ一巻しか読んでないので、これはあくまで匿名氏のnoteを読んでの意見になりますが……。
 ある意味、未読のままでの批判になり、申し訳ないとは思うのですが、一応そこをお含み置きの上、お読みください。
 本作においては、肉食獣の全員が男で、草食獣の全員が女というわけではありません。実はエリート的な男が草食獣だったりで、肉食獣=ブルーカラー、草食獣=ホワイトカラー的なムードも漂っています。
 ここを単純に「男=肉食/女=草食」という図式にしてしまったら、作品構造が非常に安易で単調な、「わかりやすい薄っぺらな風刺漫画」となっていたでしょう。
 ただ……ではその辺りの構造を作者が精緻に考えていたかと言うと、それはそうではなく「何とはなしに、感覚でやっている」のではないかなあと。
 上の「草食系エリート男子」であるルイにしてもそうで、匿名氏は彼を、「形として男性として描いてるだけで、実質的には女性なのだ」とでもいった解釈をしているように思えますが、果たしてどうなのかなあと。
 未読分ではレゴシがこのルイの足を食う描写があるといいます。ルイは裏市の食肉として育てられていたという過去があり、足にはその印としての焼き印がある。そのため、レゴシにその忌まわしい印ごと、足を食ってくれと頼むというわけで、一応、これは「同意の上でのセックス」と取れなくもないですが、果たして両者に性的な感情があったかとなると、ぼくには何とも言えません。いえ、ちゃんと読んでから言えって話ですが。
 作者は「何とはなしに、感覚でやっている」と想像したのは、この辺りがそこまで煮詰められないままに描かれているのではと思ったからです。ルイが「BLの受け」のような存在、つまり「事実上の女性」として描かれているようには、ぼくには思われない。

・草、食っても悪くないってよ

 ――ルイの話は少々、余談めいていたかもしれません。
 本作でレゴシに次ぐ重要なキャラと言えば、ヒロインであるウサギのハルでしょう。彼女はもちろん草食獣であり、彼女へと「食欲」を感じたレゴシが彼女を殺害しそうになる場面が、一巻中盤のクライマックスになります。
 以降、まあ、ご想像通りハルが饒舌にモノローグを展開するのですが、それが「誰よりも弱いがため、性行為を通してしか、相手と対等になれない云々」といったもの。
 そう、彼女はとんでもないビッチウサギで、上のルイとも性関係を持っている、ヒロインにあるまじき存在。そんな彼女がレゴシと恋愛関係となるのですが、ハルがレゴシを誘惑し、レゴシがたじろぐといった描写がなされるようです。
 このキャラクターについては言いたいことがありすぎて、整理が難しいのですが……まず、先に書いた「動物漫画」とは随分思い切った設定だ、という疑問に対する答えがここで提出されているのです。
 どういった目的を持って、作者は本作を「動物漫画」としたのか。
 それは第一に、「ビッチの漂白化」です。仮にですが、これが人間のキャラクターの漫画として展開されたらどうでしょう。読者の男性はヒロインに「萌え」を(仮にどんなけったいな絵で描かれていようと多少は)感じるものであり、「ビッチ」性に拒否感を覚えることでしょう。
 つまり、「ビッチがヒロイン」はまさしく、動物だからこそ許されたといえるのです。
 一方では作者にとっても、「動物化」には「BL化」に近しい作用がある。BLとは言うまでもなく女性が自らの性欲から目を反らし、外在化させたまま、性的快感を得るための表現です。
「性には全く疎い私が、自分ではそんな気は全くないのに、男の子たちが勝手に寄ってきて、モテモテ」というわけですね。
 それなりに自分の容姿に自信のある女性ならば、主人公を女性として描く(即ちTLなりレディースコミックなりの作家になる)わけですが、ご当人がそうでない場合は、主人公を男の子にして、自分と心理的に「分離」するという一手間が必要になるわけです。
 本作の「動物化」も同じなのでは……というのが、ぼくの想像です。
 しかし、だからこそ、「動物化」には「作者の性的欲求の顕在化」という作用があります。それは丁度、BLに普段は窺い知れない作者の性癖が現れるのと同じです。
 何せ、一度明確に肉食獣の草食獣への「性欲」を「食欲」へと転化させたはずの本作なのに、ハルが登場したとたん、いきなり「恋愛」「セックス」という概念をまたよいしょと引っ張り出してきている。
 ハルは「食物」としても「女」としても、肉食獣からも草食獣からも、求められる相手として描かれている。
 即ち本作は「性欲」を「食欲」に置換した物語などではなく、「都合によってセックスを食欲に置き換えたり、そのままで提示したり」する漫画なのです。
 ぼくが本作を「感覚で描いているのだろう」としたのはそれで、この辺りの描写には「当初は食欲という暗喩で性欲を描こうとしたけど、何かヒロインが動物なので、その辺を気軽にストレートに描いちゃいました」という感じが、すごくするのです。
 そしてハルのビッチ的振る舞いは「何か、生き難いのでしょうがありません」と(よくわからない理由で)聖化されている。
 永野のりこという漫画家さんがいます。ぼくの好きな漫画家のベスト5に入るほどに入れ込んでいる作家さんなのですが、彼女の『土田君てアレですね!』という作だけはあまり好きになれません。
 ヒロインがかつてエロ本のモデルになっていて、それをネタに悪人にゆすられるというお話です。もちろん、その悪人の行動は肯定できないものの、ヒロインは自分の過去を「そこでしか自分を肯定できなかった」とのワンワードで免責している。
 その他にも作品のあちこちに男性性に対する嫌悪感(というよりも、それを悪としての断罪)が匂わされ、正直、永野作品はそれが通奏低音になっているものの、この作については少々、バランスの欠けた作品だなとの読後感を持ちました。
 本作もそれに近い構造を持っています。
 ビッチウサギは免責されつつやりまくっているのに、肉食獣は「セックスとは別枠の原罪としての食欲」を、頼んでもいないのに抱え込まされ、悩まざるを得ない状況に追い込まれている。
 何故、作者はこのような設定を配したのでしょうか。
 それが、作者の道徳律だからです。
 フェミニストが非常にしばしば、「レイプは支配欲によってなされる」と称することを、ここで思い出すべきでしょう。
 そう、「性欲」と「レイプ」は違うのだというのがフェミニストの、そしてこの作者の世界観です。
 この世には「愛」という尊いものがある。
 そして「愛」とは「ワタシが気持ちがいいこと」である。
 他の定義は、ありません。
 だから本作において、「食欲」と「性欲」という二つのコードが必要とされたのだし、それは匿名氏が繰り返すように、「女性の主観では正しい」こと。
 匿名氏は以下のように形容しています。

つまり、板垣巴留先生の中では、男の性欲と愛情は、分離可能なものだということになっているようなのだ。


 即ち、女性様絶対的被害者史観漫画、として成立しているのです、本作は。
 そう、本作の最大にして最悪の欺瞞は、この「食欲を性欲と言い張っている」点です。
 いえ、「寓話」なんだから、そんなことを言うのは「オオカミが服を着ているのはヘンだ」という言いがかりに近いとお感じになるかもしれませんが、しかしそれはそうではない。
 さっきから歯に物の挟まったような言い方をしていますが、結局、「食べたら死ぬ」以上、「食」を「性」に準えるのには限界があるのです。
 何となれば「性的対象となること」は女性にとって一方的な被害では全くなく、それが栄誉となる、自らの承認欲求を満足させる大きなメリットなのですから。
 そこを、「食べられると死ぬから」という理由で「性的対象となること」を一方的な被害であるとするのは、大いなる欺瞞なのです。
 これは「レディースコミック」です。
 自分の意志で、男が美女をレイプする漫画を描き、その快楽(承認欲求の充足)を散々味わった上で、その男に制裁を加えてみせる「負のポルノ」そのものです。
 しかし、さて、本作を予め「風刺」し、「論破」した作品が、大家によって描かれていることを、みなさんはご存知でしょうか。
 ――とまあ、今回はこんなところで。