兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

2017年度女災流行語大賞

2017-12-29 22:41:27 | フェミニズム
 みなさん、遅ればせながら明けましておめでとうございます。
 ご挨拶が十一ヶ月ほど遅れてしまいましたが、いよいよ2017年の始まりです。
 これからの三日間をよい年にするよう、お互いに頑張っていきましょう。
 今回は新年を祝って、本年度の「女災流行語大賞」をお送りします!
 今までも「日本死ね」「女性が輝く社会」など流行語を捏造して参りました当大賞ですが、本年度は一体いかなる斬新な「流行語」が飛び出すことになるでしょうか。乞う、ご期待!!
 ちなみに挙げられた「流行語」はそれぞれ、それについて詳しく語った本年度記事、或いはソースそのものとリンクされていますので詳しくお知りになりたい方はそこで確認してください。中には言い回しを短くするなど多少、変えてあるのもありますので。

第10位 せんずり村
――北原みのり


 はい、栄えある第10位は北原師匠の名言からの受賞です!
 いえ、厳密には北原師匠発の言葉ではなく、いわゆる「ツイフェミ」とか「レディース」と称されるTomica師匠という方が言い出したことのようなのですが(ちなみにこの方はアカウントを凍結されているようです)、北原師匠は本年出版されました名著『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の中で以下のようにおおせです。

今、ネットで怒る女性たちの勢いが希望です。だって、やっぱりエロ漬けされてオナネタを必死で手放さないとする男たちを「せんずり村の住人」と名付けたりとか、楽しい。


 そ……そんな……フェミニスト様は「ツイフェミ」「レディース」などといった存在とは全く違い、ボクたちオタクの味方だって、リベラル君もおっしゃっていたのに~!
 あ、いやいやいや!! 北原師匠、そして本書のもう一人の筆者、香山リカ師匠のことは海燕師匠も「ダメ左翼のダメフェミニストの代表格」と評しておいでです*1。この二人はフェミニストの中でも例外です。そうに決まっています
 何しろ同書では香山師匠もオタク文化をdisっているのですから!

*1「弱いなら弱いままで。「萌え文化は宮崎勤がつくった?」北原みのりと香山リカの対談集がすごい。

第9位 日本のアニメは幼女が活躍するものばかり
――香山リカ



 え~ん、せっかくリベラル君が、「アニメは女性が強いのでジェンダーフリーだ」とフェミ様に手もみしていたのに~!
 え? 日本のアニメが「幼女の活躍するモノばかり」というのはおかしい?
 そんなことは些末な問題です。
 師匠はこの言葉の前後で「たとえばアメコミではグラマラスな格好良い女が出てくる一方で」「欧米では年を取った女性もオシャレで派手な服も着るし、男性もパートナーとして女性を大事にしている。それに比べて日本は若い女ばかり追い求める」とおっしゃっており、日本人の性意識をこそ問題視しておいでなのです。師匠はこれ以降もコスプレする女性を批判し、女子大生がAKBを好むことを悲嘆しています。
 オタクはまさに「叩いてもいいから」矢面に立たされているスケープゴートにすぎず*2、彼女らの否定しているのは「ごく、一般的な人々のセクシュアリティそのもの」としか言いようがありません。その証拠に、彼女らは実のところ「一般的なセクシュアリティと乖離した、反社会的な性表現」であればいきなり支持し出します。香山師匠も本書の中で会田誠の少女を凄惨に虐待し、惨殺する表現は「体制への抵抗だから」という理由で肯定的に語っておいでです。
 これはぼくの発見したことなのですが、実は香山師匠や北原師匠はフェミニストの中でも、「ラディカルフェミニスト」という悪しき例外種であったのです*3
 な、なんだってーーーーー!!
 彼女らは一般的な人々のセクシュアリティ、ジェンダーを深く深く憎んでいます。「ジェンダーフリー」という名の「ジェンダー解体」を唱えているのも彼女らラディカルフェミニストです。「フリー」というと「自由」でいいことのような気がしてしまいますが、「カロリーフリー」が「ノンカロリー」の意であるのと同様、「ジェンダーフリー」はジェンダーそのものを否定する思想なのですから。
 彼女らにかかれば「萌え」に代表されるオタク文化も、それに留まらず一般的な文化も、否定されることは言うまでもありません。『サザエさん』がことある毎にフェミの攻撃対象に選ばれていることを、ぼくたちはここで思い出すべきでしょう。ラディカルフェミニズムとは「反社会性の発露であり、文化を破壊することそのもの」であることだけは、確かなようです。
 ともあれ、ヤツらはオタクの敵です! こうなったらリベフェミ様、否、ネオリブ様に帰依しましょう!!
 というわけで以下はネオリブ様の金言からの受賞です!

*2 この構造って、こっちからしたらAKBなんてオタクと何ら関係ないのに、世間一般からするとオタクの定義なんて、「AKBが好きな男」程度のモノであることと、「完全に一致」していますよね。
*3「リベラルフェミニズム」と「ラディカルフェミニズム」の本当のところについてはもう、口が酸っぱくなるほど繰り返しているのですが、詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照してください。


第8位 日本のフェミニズムの夜明けを目指すべく立ち上がったネオ・リブの女たち
――さすが多摩湖♡ナルコレプシー


第7位 2017年にネオリブが生まれたことは歴史的必然、大きなうねりに成長していく
――ピルとのつきあい方(公式)



 何という頼もしい宣言でしょう!
「ネオリブ」の具体的な理念、方針は全然わかりませんが!!
 さてこの「ネオリブ」、ウィキにも掲載された、れっきとした……え~と、すみません、ウィキにはまだ載っていません。どうも、ウィキに載せようとしたモノの、断られた形跡が見て取れるような*4……何てケツの穴が小さいんだ、ウィキ! みんなで根拠のないデタラメを書き込むことで嘘を真実に変える、『ダンガンロンパV3』みたいなところがウィキの醍醐味だったのに!!
 しかし、それにしても、そのウィキにすら否定されるネオリブは……あ、いやいやいやいやいや!!
 ともあれ、ウィキには適わなかったモノの、ピル神は「碧志摩メグを規制したのは武田邦彦氏の発言がきっかけ」といったデマを流して信者(原田実師匠)に信じさせたり、或いはおっぱい募金を全否定しながら、その事実を信者から批判されなかったり*5といった数々の「超力」を発揮していらっしゃいます。彼女らに帰依することでぼくたちもまた、「超力」を得ることができるのです!
 もう一つ、彼女らの優れた政治性について指摘しておかねばなりません。彼女らは従来のフェミニズムの批判者、というスタンスを気取っていますが、専ら「まなざし村」とやら言われる「野良フェミ」について述べるだけで上野千鶴子師匠とかについては何も言わないのですな。いえ、彼女らも北原師匠や確か、千田有紀師匠も批判していたはずで、その意味ではまんざら「野良フェミ」にだけケンカを売っているわけではない。しかしこれは、むしろ彼女らの「後退」を示しています。
 少し前まで「ツイフェミ」は悪者、アカデミズムには真のフェミがいる、というのがリベラル君の口癖だったのが、だんだんと名のあるフェミも擁護しきれなくなり、今年はとうとう牟田和恵師匠をも批判せざるを得なくなりました。牟田師匠もアカデミズムの世界にいる、上野師匠に近いフェミであり、この人までダメならもう、フェミニズムそのものがダメであるとしか言いようがないと思うのですが、彼ら彼女らはそれだけは決して認めようとはしません。ピル神など、ぶっちゃけ非常に古い人で(その意味でリベフェミという自己申告は半分くらい当たっているのかも知れません)、リベラル君が彼女を担ぎ出している現状は、にっちもさっちもいかなくなり、お古を整理ダンスから引っ張り出してきたようなもの、というのが本当のところです。
 ピル神や多摩湖師匠の「ネオリブ」宣言は本当に捨て身のダイブだったのですが、しかしそれでは彼女らはフェミの根本理念、分けても彼女らが批判している(はずの)ラディカルフェミニストの「ジェンダーフリー」などに対し、どう思っているのかがさっぱりわからない。「ネオリブ」はリベラル君たちの大好きな「女性差別が許されぬのであれば男性差別も許されない」といったふわっとした観念論は大いに唱えますが、それならばそもそもフェミニズム(この社会にはまず、絶対的な男女格差がある、という世界観)自体に意味がなくなることについては、徹底的に無関心なのです。
 い……いや、そんなことはありません!
 何しろ一流文化人であらせられる宮台真司師匠、そして山本師匠も彼女らの重篤な信者なのですから!

*4「ノート:ネオ・リブ
削除依頼/ネオ・リブ
*5「おっぱい募金への反対論者との議論


第6位 フェミニズムはこの世界が全ての人にとって優しい世界になることを目指す運動
――山本弘



 いや、本当はこれを1位にしたいくらいに強烈な名言なのですが、師匠がおっしゃる以上、間違いはありません。「フェミニズム」は疑いを差し挟むこともまかりならぬ絶対正義なのです! オタク第一世代辺りの感覚では、これは突出した奇抜な意見でも何でもなく、「まるで空気のような常識」であることでしょう。
 何しろ師匠はこれの前に牟田師匠に対して、

すごいなあ。「ジェンダー研究者」を名乗る人が、ツイッターでだいぶ前から話題になってる「まなざし村」界隈のことを何も知らないらしいよ。


 などとイキっておいででした。アカデミズムの世界にいらっしゃる正真正銘のフェミニストにすらこんな口の利けるほどに博識でおいでの山本師匠の主張が、間違っているはずもありません*6
 そう、海燕師匠がおっしゃるように、山本師匠がおっしゃるように、フェミニストたちはオタクの味方であり「相性が悪い」などという香山師匠、北原師匠こそが間違っているのです。
 本年度の当ブログでは、フェミニズムを正しく理解するオタク界の賢人たちの良書をいくつもご紹介してきました。5位と4位はそうした人々の声に耳を傾けることにしましょう。

*6『愛のトンデモ本(上)』で山本師匠は

TSFはゲイや女装趣味とはまた違う。ゲイというのは肉体が男性なのに精神が女性であるため、その矛盾を解消するために女装や性転換を望む人たちだ。
(254p)



などと書いています。いくら何でもメチャクチャというか、知らないなら書かなきゃいいのに……と思わずにおれない記述です。
 ちなみにTSFは「トランスセクシャルフィクション」の略で、超自然的な理由で性転換を起こしてしまう作品を指す言葉だそうです。師匠はこれを「心は男のまま女の肉体に変身する」と定義づけていますが(そして厳密な定義は別にないことでしょうが)これもちょっとなあという感じです。男の娘が必ず男性ジェンダーを持っているかとなると、それは微妙でしょう。

第5位 腐女子は洗練された形で男性中心主義的な世界観に異議を申し立てている
――北田暁大



 なるほど!!
 北田師匠の名著『社会にとって趣味とは何か』からの引用です。
 そう、師匠の言うとおり、BLとは従来の性規範にノーを突きつけた表現です。
「受け/責め」の関係性がそのまま「女性/男性」であるのは何故かとか、イマドキの腐女子たちが『801ちゃん』に喜々としている――それはつまり、自分が「女子」としてスポットを浴びて喜んでいる――のは何故かとか、美人と自称したがるのは何故かとか、『おそ松さん』を見ているとトト子ちゃんが六つ子たちに恋い焦がれられており、また彼女はアイドルでもあるのですが、それに快哉を叫んでいるのは何故かとか、そんなことを指摘した者は表現の自由クラスタから訴えられますので、疑問に思うことは厳に慎まねばなりません。
 フェミがオタクの味方である以上、腐女子がフェミであるのは自明ですよね。
 オタク男子は旧態依然とした男性ジェンダーに囚われているゴミクズですが、オタク女子は先進的なフェミニズムの闘士なのです。
 絶対に、疑っては、なりません

第4位 のび太は非モテのくせに、童貞ネット民並みに上から目線で女子を品定めする
――稲田豊史


 そう!
 オタク男子のクズさは、こんなところからも実証が可能です。
 上は稲田師匠の名著『ドラがたり』からの引用。
『ドラえもん』とは、ゴミクズにも劣るネトウヨ中年童貞ネット民どもを肯定するためにこそ生まれた、唾棄すべきコンテンツでした!
 そもそも藤子Fの生前にネトウヨとかいう概念はないだろ……などと考えることはまかりなりません。Fはデジタルサイネージの出現をも予知していた偉大な予言者なのですから!
『ドラえもん』なんて女性ファンが多そうだけど、その理屈から言うと「男の身勝手な欲望を肯定するために作られた作品」を好んでいる女の方こそバカなのではないか……などともゆめゆめ考えてはなりません。
 師匠は女子たちの『ドラえもん』の読みは浅い、とおっしゃっておいでですが、同時にサブカル女子はジャイ子にシンパサイズする高尚な存在なのですから! 意味がおわかりにならないと思いますが、師匠がおっしゃっていることが理解できないとしたら、それは理解できない人がバカなのです!
 ぼくたちは今こそ稲田師匠に続き、「ママ、ごめんなさい、もう見ません!!」と泣きじゃくりながら『ドラえもん』に墨を入れていかなければならないのです!!

第3位 サブカルはホモソーシャルでミソジナスだが、オタクよりはマシ
――ロマン優光



 また名言が飛び出しました!
『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』における言葉です。全てが著者の身辺の二、三の見聞を元にした思い込みだけで語られるこの名著によると、オタクはホモソーシャルでミソジナスだそうです。しかしそれは奇しくも北田師匠の指摘と一致しました。稲田師匠もホモソーシャル、ミソジニーを理由にのび太系男子を糾弾なさっておいででしたが、この「のび太系男子」も「オタク男子」と限りなく「=」に近い「≒」で結んでいいでしょう。
 そして「サブカル男子」はそんな「オタク男子」に比べ、自分たちのホモソーシャリティやミソジニーを内省するだけの知性と誠意を持った、「真の草食系男子」でした。ぼくたちダメなオタク男子の憧れのアニキです。早くアニキたちにアナル処女を捧げたいですね
 というわけで、「オタク男子」が「絶対悪」であることは「確定」しました。

 ――だがちょっと待ってほしい。その根拠となっているのは「ホモソーシャル」、「ミソジニー」といった男性の内面をこそ批判した概念であり、それらを正さねばならないという考えは、「オタクどころか男の敵」であることはもちろん、「ジェンダーフリー」とも同様な、ラディカルフェミニズムの考えそのものではないか?

 え? ううううううううううううううううううううううううううううううううるさい!
 こまけーことはいいんだよ!!
 宮台師匠が「上野千鶴子師匠はラディカルフェミニスト」だと明言しており*7、上野師匠がオタクの味方なんだから、実はラディフェミも味方だったんだよ!! お前ら萌えブタどもは俺たちの政治運動の下準備のために社会的地位のないツイッターフェミ相手に消耗してりゃいいんだよ!!
 と……とにかく、今まで挙げた名言から、一つの真理が浮かび上がってきます。
 それは「フェミニスト」様は悪の権化であるぼくたちオタクを啓蒙し、善導してくださる「正義の味方」であるということです。フェミニスト様たちの「性と文化の革命」が成就した暁には、ぼくたちはオタク文化も萌え文化も捨て、正しいサブカルになることができるはずです。フェミニストはオタクの味方であるというリベラル様のお言葉は、正しかったのです。
 それは第2位の名言を見れば、更に確信できるはず。

*7「宮台真司が妄想とデマの糞フェミ擁護!'2017 みんなー!宮台師匠の布教が始まるよー!


第2位 児童ポルノを所持してるだけなら誰の権利も侵害しない
――鈴折@sin_Lv98



 素晴らしい!
 いえ、基本、当大賞は知名度、影響力のある人物のモノからセレクトしていきたいと思っているのですが、こればっかりは有名人が口にしにくい種類の主張でしょうから、仕方がありません。
 上のものは鈴折師匠というツイッタラーの主張です。が、彼もツイッター界隈ではそれなりによく見る方ですし、近しい主張は多々見られましたし(上のリンク先を見てください)、この名言は「表現の自由クラスタ」の一定層のホンネをすくい上げている、と言っていいのではないでしょうか。
 いえ、もちろんですが「オタク界のトップ」と呼ぶような人々がみな、ホンネでは上のような考え方を抱いているのかとなると、それはわかりません(山本師匠は抱いてそーだな)。ただ、オタクも世代を上に遡るほどリアルなペドファイルとの接点が多くなっていることもまた、事実なのです。
 しかし香山師匠の言葉を思い出してください。萌えアニメは絶対に許せないのに、美少女を惨殺する表現は「反社会的なので正義」である。フェミニストの中でもラディカルフェミニストこそが反社会的性表現と親和性が高い。それと同様、先に述べたようにオタクもリベラルな考えを持つ傾向にある上の世代こそペドファイルと親和性が高い。
 そう、「反社会的であればあるほど正義」というのがリベラルの価値観であり、それを前提するならば、彼ら彼女らこそが「真の正義」であったのです!
 何しろ体制は表現の自由の圧殺のためには何でもするのであり、体制に逆らう反社会的な振る舞いは、その全てが表現の自由のために正当化されます。ぼくたちはペドファイルと、ラディカルフェミニストとがっちり手を結び、ぼくたちに逆らう言説を、表現の自由のために圧殺せねばならないのです!!

第1位 自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ
――兵頭新児



 はい、今年の栄えある流行語第1位はこれに決まりました!!
 みなさん、よくお聞きになりましたよね!?
 一般人は聞いたこともないかも知れないが、特定ブログの読者にしてみれば五秒に一回は耳にしていた流行語であること、「日本死ね」の如しです!!
 え~と、移り変わりの早い世の中ですからちょっと(こういうの、野暮だとは思うんですが……)ご説明しておきます。本年、『クレヨンしんちゃん』のお父さん、ひろしを主役に据えた漫画、『野原ひろし昼メシの流儀』が話題になりました。この種のスピンオフ流行りの昨今とは言え、いくら何でも無理やりだろうと。で、この漫画の主人公は野原ひろしではなく、「自分をひろしだと思い込んでいる一般人」なのではといったジョークがネット上で流行ったのです。いや、そもそも野原ひろし自身がどうということのない一般人だと思うのですが。
 つまり件の「流行語」はそれをもじったもののわけです。今まで乱用していた「オタク界のトップ」「表現の自由クラスタ」と、実のところほとんど同じような意味あいの言葉ではあるのですが、「サブカル君」同様、「ぼくたちとは実際には違う価値観の下に行動している連中だろ」といった揶揄が含まれています。
 いえ、実際には彼らの多くはぼくなんかの十倍くらいは今のアニメを観ている、「真のオタク」なのかも知れません。しかし彼らの価値観は(まさに、稲田師匠が証明したように)オタク文化を否定するものそのものであるとしか言いようがない。ならばそれは「自分をオタクと思い込んでいるだけの、単なる頑迷なリベラル」ではないのか……?

 ――さて、本稿のみならず、当ブログでは今年の一年を通して「フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか」という問いについて考え続けてきた、といっても過言ではありません。
 しかしその答えは、実のところ大変に簡単なものであって、それは「両者とも、近代的個人主義社会においてこそ誕生し得た双子であるから」ということにでもなりそうです。
 だから当然、その要求はバッティングして当たり前である、ということは何度も指摘してきました。しかし、オタク第一世代までは“他者に帰依するのが男”という性役割意識が生きていた。そのため、その世代のオタク男子たちはフェミニズムに帰依することで自分を殺しました。
 これは、「仕事」を「食うために、家族を養うために、やむなくなさねばならない苦役」としてこなしていた男性と、それを「自己実現の手段」と解釈し、男性たちが作り上げた道を通り始めた女性という「ジェンダー格差」と実のところ「完全に一致」している。
 また、そうした上の世代の多くはオタク界でそれなりに力を持っていたがため、ある種「女を甘えさせる甲斐性があった」、まさしく「オタク界のトップ」であった、ということもその理由として大きそうです。それはつまり、「オタク文化」は草食的なモノだが、第一世代にはまだ肉食的、「サブカル」的価値観を内面化していた、タイムラグがあったのではないか、ということですね。
 しかし、そのボロがさすがに出始めたのです。
「オタク文化」が史上初めて、その辺のどうでもいい男の子が自らの内面を紙にぶつけることで表現し、それが市場性を得たことそのものであること、それよりも世代を遡るサブカルが他者の価値観をありがたく受け入れる「他者指向」そのものであることも、今まで指摘してきました*8。それに加え経済的事情も絡み、オタクはこれ以上、他者のエゴを受け止めるだけの余力を、失ってしまったのです。結婚して女を養うよりは自分の趣味にカネを投じるというセレクトをする者が増えてきたのは、そういうわけです。
 自分自身のエゴには忠実でも、それに対しての内省を持ち得ないのがフェミニズムであるのに対し、自分のエゴ(を率直に紙にぶつけるがため、そのこと)に自覚的であったのがオタクであると言えます。その意味で、近年、「我こそはオタクという名の弱者なり!」とやたらと喧しく主張を始めた「彼ら」もまた、本当はオタクではなく、少し前までオタクをdisりながら近年、急にすり寄りだした「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」がその正体なのでは……という気もしてしまうのです。
 リベラル君とフェミニストは単に同じ星からやってきた侵略宇宙人であり、横の連携が取れていないために、下っ端が現場でもめているだけの存在でした。
 リベラル君が「ネオリベ」といった非実在フェミを大慌てで振りかざしてみせたのは、何とかフェミニズムを延命させる必要があってのことでした。彼ら彼女らは現場での小競りあいはあっても、ボス同士はがっちり手を結んでいるのですから。オタク文化人たちが盛んに語る言説に「ミソジニー」だの「ホモソーシャル」だのといったラディカルフェミニズムの影響が濃厚なのは、その証拠です。
 そこで「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」たちは「ツイフェミ」を、そして北原師匠たちを次々と仮想敵として設定し、手下の目をそこに引きつけておいて、自分たちは相も変わらずフェミニストたちとデートを続けているのです。今年ぼくが取り上げてきた諸作は、まさにそうした彼ら彼女らのデート現場の生中継であったのです。

*8「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?

和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検(及びイオン系列のアダルト書籍販売中止)について

2017-12-08 23:33:52 | オタク論


 前回は香山リカ師匠と北原みのり師匠の「敗北宣言」について、ご紹介しました。
 いや……記事自体、そういうトーンの評にはなってなかったかも知れませんが、表題の「オタク」に切り込むこと全く適わず、「ツイフェミ」と歩調をあわせる宣言をしている彼女らこそ、フェミニズムの終焉を象徴する存在と言っていいかと思います。
 こっちもモチベの上がらない身体に鞭打ち、頑張って読破し、レビュったのですが……そうなればそうなったでまた別な大きなトピックが二つも持ち上がり、件の書のことなど誰も彼も忘れたご様子
 そう、一つにイオン系列の店舗がアダルト書籍の販売を中止した件、もう一つは和月伸宏が児童ポルノ所持により書類送検された件ですね。これらには一体、どんな意味があるのか……いや、単なる偶然で起きたことに過剰な意味づけをすることは望ましくないかも知れませんが。
 しかし実は場合によっては、この二件は「表現の自由クラスタ」の「敗北宣言」につながるのではないか……とぼくは考えています。

 事件についてはみなさんご存じでしょうから詳細は省きますが、まずは和月氏の件についてです。本件についてのぼくの感想は、まず単純に「残念だな」と。何しろ『ジャンプ』作家さんです。『るろうに剣心』はアニメ化もしました。90年代の半ばという、ちょうどオタク文化がメディアを制するちょっと前くらいの微妙な時期、『ジャンプ』そのものが「オタク世代でない人の漫画」によって占められていたところにオタク作家が入っていった、かなり初期の人であるように思います。
 単行本のフリートークコーナーではアメコミフィギュアに対する嗜好や伊集院光のラジオの小ネタが語られ、またキャラ造形についての裏話も語るなどしていて、当時のぼくは親しみや憧れめいた感情を持って、それを読んでいました。つまり和月氏は庵野秀明に近い、「俺たちの中から出た出世組」といったイメージの強い人だったのです。
 が、作品そのものはそこまでにオタク色は強くない。本件にかこつけて取り沙汰された燕(『るろ剣』のキャラ)も作中珍しいローティーンの美少女というだけです。そう、作品自体にそこまで性的な(「萌え的な」と言ってもいいのですが)匂いがなく、だからこそ、「小学校高学年から中学二年生くらいまでの女の子が好きだった」発言は余計にショックとも言えました。腐女子人気の高い作家さんですから、そっちへの影響も強そうですよね。
 が、更に言うならば「こんな位置の人が」という感慨も、覚えないではありませんでした。先に書いたように彼はオタク的とは言え、一般向けの作家。更に、先に庵野氏を挙げましたが、そこまでの大物では、申し訳ないけどない。つまり和月氏は、ぼくとしては「比較的一般的な会社に就職して、縁遠くなっていた昔のオタク友だち」とでもいった印象だったのです。「エラくなっちゃって、子供なんかできちゃって、休日も家族サービスとかしてんだろーなー」と思ってたら、家族サービスどころではなかったわけです。『ジャンプSQ』での『剣心』の「北海道編」の連載開始の直後にこんな事件が起こってしまい、何とも間が悪いとしか言いようがありません。
 しかし、不謹慎な言い方ではありますが、報じられる児ポ販売サイトはかなりの大手のようで、そこの顧客にもし「もっと、露骨にオタク的な作家」がいたとしたら? との想像もつい、してしまいます。仮にですが、今回逮捕(いや、逮捕じゃないんですが)されたのが深夜のエロ満載アニメの原作を書いたラノベ作家だったとしたら? オタク界に対する打撃はかなり強かったことでしょう。そうした事態に至らずほっとしている、というのも正直なところです。
 いや、或いはですが、そういう事態に陥らなかったこと自体には、必然性があったのかも知れません。47歳という和月氏の年齢を考えた時、そんな考えも浮かんでくるのです。
 言うまでもありませんが、現行法では児童ポルノの単純所持が禁じられている。しかしホンの少し前までは違法ではなかった。黎明期のネットにはそれなりに児ポが溢れていたし、更に時代を下れば一般書店で結構えげつないモノが売られていた時代もあります。
 違法でない時代なのだから仕方ないと言えばそれまでですが、二十年ほど前の同人誌にはエロ同人作家が裏モノの児童ポルノをやりとりした近況報告などが時折、書かれていたものです。コミケがそうした裏モノのやりとりの場となっていたこともあります。もちろん、同人誌自体は準備会が審査し、違法なものは売られない体制が築かれていますが、隠れてこそこそやられたら防ぎようがありませんし、これは今でもなされていることかも知れません。
 美少女コミック誌の先駆けである『レモンピープル』にコラムを連載していた蛭児神建は当時のリアル幼女ヌード、ポルノ情報満載の児童ポルノ誌『ヘイ!バディ』でも児ポビデオ紹介記事を書いていました(ちょっとウィキで見てみたのですが、そうしたリアル関連の仕事については記載がありませんでした。どうも黒歴史のようです)。この蛭児神氏、今ではあっさりフェミニストに転向し、今のオタク文化のメイド萌えなどを腐しているのが笑えますが……。
 つまり、ある時期までは、オタク文化とペドファイル文化はそれなりのつながりがあったのです。そのこと自体は(対外的に声高に言う必要はありませんが)忘れるべきことではありません。和月氏の年齢は、そうしたつながりの残滓を残している、ギリギリの世代ではないか……と思えるのです。
 だから乱暴でシンボリックな表現になりますが、先の児童ポルノサイトの顧客名簿に、「もっと若い、今時のオタク丸出しの作家」の名は、或いはなかったのかも知れない。何となれば彼らは生粋の二次元世代であり、「児ポ何それ美味しいの?」と思ってる比率が、上の世代より比較的に高いからです。
 イヤな言い方をすれば、和月氏はぼくたちの尻尾でした。
 その「イヤな言い方」を敵に投げつけるならば、「表現の自由クラスタ」はそうしたことに対する危機感がまるきり欠落しているとしか、言いようがない。
 前回、「エロはけしからぬと主張しているクセに、しかし残酷表現になったとたん、それは反社会的なので正義だとする」という「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」の幼稚極まる価値観をご紹介しました。しかしそうした価値観は、「表現の自由クラスタ」もまた……と言わざるを得ないのです。それは丁度、リアル幼女をレイプしまくっている児童ポルノを面白おかしく紹介しておきながら、「メイド喫茶は女性差別」と口走る、誰かさんのように。

 ちょっと話を、イオン系列のアダルト書籍問題に移しましょう。
 この話題に関してツイッターで度々聞かれた意見に「そもそも(コンビニはまだしも)量販店としてのイオンの書店に、エロ本などほとんど置いてなかったぞ」といったものがありました。しかしそうなると、これは元から大した事件じゃなかった、ということでもあります。コンビニは元からエロ本の置かれる場ではあったけど、ミニストップなんてそこまでメジャーなコンビニじゃないですしね。
 更に言えばこれは「一般的なご家族の立ち入る店にはアダルト書籍は売っていない」という当たり前のことであり、仮に売っている店があるのであれば、「それは止めた方が」と考える者が多いことが予想できるわけです。
 或いは「イオンに置いてあるのはBL、レディコミだけだ、自分で自分の首を絞めやがって、ざまあ見ろ」という声もありましたが、そもそもフェミニストはレディコミなど好きではありません(前回取り上げた本でも、師匠らが少女漫画、レディースコミックの「レイプ神話」を腐す箇所があります*1)。もちろん、イオンでの夕食の食材の買い物帰りに書店でレディコミを買う主婦というのがそれなりの比率でいるのであれば、その人たちが本件を問題にするという可能性はありましょう。が、よく言われるスマホでのBL、レディコミ、乙女ゲーの隆盛を鑑みるに、堂々と書店でそうした物を買いたい女性というのは存外に少ないのではないでしょうか。
 つまり、本件の是非は置くとして、ぶっちゃけ世間的にそこまで重大なトピックとは思えず、一般社会と表現の自由クラスタの温度差を感じずにはおれない。
 本件に限らず、「表現の自由クラスタ」もフェミ同様、どうにも浮世離れしていて、世間一般と自分たちの世界観のずれに気づいていない、「お友だち同士でつるんでるうちに世の中も自分も見えなくなった人たち」であると思えることが多々あります。一方ではこれもフェミ同様、「今そこにある危機に気づいていない愚民ども、しかし自分だけがそれに気づいている」といった世界観をもお持ちでいらっしゃるような気がするのですが、それこそ先に挙げた「反社会的なので正義」な、幼稚極まる価値観の最たるものでしょう。

*1 香山師匠の言い分がものすごく、

香山 (前略)ちょうどその頃レディコミでも、セールスマンが来て、玄関で無理やり犯すとかいったシチュエーションが多かったけども、それを私たちが「ファンタジーで楽しんでいるだけなのよ」って言っても、作品の世界を鵜呑みにするおじさんもいるかもしれないじゃないですか。
(30-31p)


などと言っています。対談ということもあってか話が論理的につながってないことの多い本書ですが、どうも香山師匠は、「女が読む分にはファンタジーを楽しんでいるだけだからOKだが、おじさんはそこを理解できないからNG」とでもいった考え方を持っているようです。そもそもレディコミをおじさんが読むと、この人はどうして思い込んでいるのか……(ヒント:病的被愛妄想)。



 そうした「浮世離れ」というワードを踏まえた上で和月事件に立ち返ると、あることに気づきます。本件をきっかけに「ちょっとヤバげな人たち」が盛んにツイッターで発言し、一般人(含む、オタク)をどっ退きさせているのです*2
 曰く、「児童ポルノの単純所持の禁止自体があってはならぬ、被害者など誰もいないのだ」、曰く「同性愛者もまた、かつてはこうした扱いを受けていたのだ、ペドファイルもまた同様に、そうした正義の味方たちに悪のレッテルを貼られ続けて来た、清浄なるマイノリティなのだ!」。
「表現の自由クラスタ」は児童ポルノの単純所持に激しく反対論を唱えていましたが、しかし「児童ポルノの所持自体が被写体の児童への虐待となる面がある」という側面について彼らが所見を述べているのを、見たことがありません。彼らの大御所のサイトでも、その旨の意見が書き込まれたとたん、コメントが消されるといったことが起こっています。
 彼らの中には明らかにペドファイル寄りの人も含まれています。上に挙げたような、「一般人(含む、オタク)をどっ退きさせる、ヤバいペドファイル」がどれだけいるかはわかりませんが、海外ではNAMBLA(北米少年愛協会)のような子供と大人のセックスの合法化を目的にしているペドファイルの組織も存在しています。ペドファイルは自らの性欲の発露それ自体が犯罪になってしまうが故に、「いや、子供とセックスすることは何も悪いことではないのだ、子供もそれを望んでいるのだ」と主張(そうした幻想に逃避)する傾向にあるわけですね。
 日本でも伊藤文学が長らく子供へのレイプを推奨し続け、それを批判した者は「表現規制推進派」として謎の組織からの恫喝を受けたことが知られています(笑)

 ――なるほど、許せぬ! しかしペドファイルがペドファイルであること自体が悪なのではない。彼らを男性攻撃の口実にするフェミに対抗するためにも、ペドファイルを守ろう!


 ……いえ。
 その心配には及びません。
 何となれば、フェミニストはペドファイルの味方なのですから
 ぼくは度々、以下のようなことを言ってきました。
「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベの中に、オタクをLGBTのメンバーに加えていただこうと主張する者がいる。しかしそれは悪手だ。何となればLGBTというのはあくまでフェミニズムをフォーマットにした歪んだ思想を持つ者たちであり、このレズ、ホモ、バイ、オカマというセレクト自体がぶっちゃけ“名誉女性”という政治性を持ったものでしかない、二次元性愛症という非実在セクシャルマイノリティがその仲間にしてもらえるとは思えない」*3
 しかし、では、ペドファイルはどうでしょう?
 幼児とのセックスが認められるはずもない性癖である以上、ある種の政治的目的を持った彼ら彼女らが自軍に迎えるはずがないのでは?
 いや、それがそうでもありません。そもそもフェミニズムはフリーセックスと縁が深く、例えば性科学者のジョン・マネーは(女性ではありませんが)フェミニズムに傾倒していた人物です。彼は人間のジェンダーが後天的であると主張し、同時に子供とのセックスを認めよとも唱えていました。
 当ブログの読者の方は周知かと思いますが、このジェンダー後天論の根拠となった実験がインチキとバレて、フェミニストたちも手のひらを返してマネー批判に回りましたが、彼の子供とのセックス容認発言を批判したフェミニストの話は、聞いたことがありません。
 いえ、そればかりではありません。先のNAMBLAなどに比べればマイナーですが、欧米では女性少女愛運動というモノもあり、フェミニズムに強く関わっています*4。フェミニストが病膏肓に入るとレズに至ることは比較的知られているかと思いますが、更に病むと「幼女タンとヤりたい!」となるのですね。例えば、「結婚もセックスもその全てが女性の男性への隷属である!」といった狂った思想を持つフェミニスト、ケイト・ミレットもまた、子供とのセックスに肯定的な一人です。
 では、そのミレットは「俺たちと幼女タンとのセックス」を肯定するのかとなると、それは疑問という他はない。ぶっちゃけ、フェミニストの言うことなどまともに理解することなどできないのですが、敢えて言えば、「フェミニスト女性と幼女タンのセックスはおk、少年愛者とショタっ子とのセックスもおk、しかし成人男性と幼女タンのセックスはまかりならぬ! 後、成人男性と成人女性のセックスもまかりならぬ!」が彼女の考えであるとしか、言いようがありません。論理的には、そうならざるを得ないのですから。
 まあ、この辺りはさすがに日本のフェミニストでは主張している者が見当たらず、詳しいことはぼくもわからないのですが、ともあれフェミニストをセックスヘイターとして罵ることは論理的にも倫理的にも歴史的にも政治的にも、完全な間違いであ(り、勘繰るならば一部勢力はだからこそ盛んにそうしてい)ると言えます。
 前回は「表現の自由クラスタとフェミニストは線対称だ」と表現しましたが、こうしてみると、ある意味では「裏返すことなく、完全に一致」しているとも言えることが、おわかりになるのではないでしょうか。
 セックスヘイター、ホモフォビア、ミソジニー。いずれも口にするだけで頭の悪くなる、ファシストの用語であり、口にする者はみな、「志を同じくするお友だち」なのです。

*2「そもそも児ポ規制は正しい法律なのか? 「被害者が可哀相」VS「所持するのは個人の自由」 和月先生の事件を受けて
社会的に受け入れられない性的嗜好を持つことについて
*3「「新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク」を読む
*4「少女愛運動


 先に、『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』をフェミニストの「敗北宣言」としました。オタクというスケープゴートを叩くという戦略であったはずが、AKBに憧れる女子大生をも敵に回すという失態が、そこでは演じられていました(もっとも、書けば書くほど墓穴を掘るのがフェミニズムです。香山師匠の著作『結婚がこわい』でも、女子大生に就職を勧めて拒まれ、ついにはゼミに来なくなってしまったと嘆く箇所が出てきます)。
 先の書籍がいかな計算の下に出版されたか、ぼくに知る由はありません。しかし場合によっては「オタクという異常者の異常性癖を糾弾する書」としてある種の支持を得られたかも知れない。もし今回の事件が本書の出版前に起きていたら、そのような「ワンチャン」もあったかも知れないわけです。
 しかし「オタク」をターゲットにするつもりの師匠らのガバガバなターゲットスコープは、無残にも「ごく一般的な女子大生」を誤射しまくってしまった。件の書は、そんなフレンドリーファイアの記録に読めます。仮に師匠らがこれを読んだら、「いや違う。同じ女性でも過ちは正さねばならぬ。だから歯に衣着せぬ物言いをしたまでだ」との反論がなされるかも知れません。しかしでは、「自分たちの意見がどれだけマイノリティのモノであるか」について、師匠らが自覚を持っているかとなると、それは疑問と言わざるを得ないのです。
 そう、大戦末期の日本軍部とか日本赤軍とか韓国とかオカルトとか、みんなピンチになればなるほど「自軍の統率のために過激で非現実的なことを言わざるを得なくなり、先鋭化、自滅」という道を辿ります。殊に追い詰められると、内部で「裏切り者」を捏造し、そいつを処刑することで結束しようとします。
 先の女子大生批判はまさしくそれです。となると、「表現の自由クラスタ」もまた、そうなるのでしょうか。ぼくも彼らから幾度となく「事実を捏造しての裏切り者認定」を受けています(笑)。考えると「彼ら」が必死で岡田斗司夫氏を「仮想敵」にすること自体、どうした政治的意図があるのか……と思えてきますね。
 本件では、実のところあまりにセンシティブな事態であるせいか、いつもなら騒いでいそうな連中が沈黙を守っていて(あくまでぼくの観察であり、見ていないところではしているのかも知れませんが……)、ある意味賢明な対応を見せている気がします。
 が、彼らが「自分たちの意見がどれだけマイノリティのモノであるか」についての自覚を欠落させ、「非常識なセックスヘイター」とやらの幻に向けて誤射を繰り返している以上、いずれ彼女らと同じ轍を踏むのでは……というのがぼくの懸念です。
 まあ、問題は、彼らが支持を失った頃には彼らの誤射でオタク界に相当な被害が出て、また彼らが去った後は全ての責任がオタクにひっ被らされていることが、想像できてしまうことなのですが……。

フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか

2017-12-02 19:51:32 | オタク論


 いや、本書が出版された直後から、まるでそれが契機にでもなったかのように、世の中大変な騒ぎです。
 イオン系列のアダルト書籍の販売中止、和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検など、オタク分野で大事件が頻発しています。
 まあ、当ブログをご愛好いただいている皆さまにはおわかりの通り、これらトピックスに対しても、ぼくは単純に被害者ヅラで騒ぎ立てるつもりはないのですが。
 ただ、それにしても、こうした事件をきっかけにフェミがアンチオタクキャンペーンを張るのではないか……そうした不安を抱く方もいらっしゃるかも知れませんが、本書を読むとこんな感想が湧いてくるのです。「攻撃は外から来るとは限らない」と。

 と、思わせぶりなマクラを終えたところで、本編です。
 さて、とはいえ本書についてはこっちが何か言う前から海燕師匠がネタにしてあちこちで話題になり、読んでもいないだろう連中が一言居士ってらっしゃるのを見て、早くもレビュるモチベがモリモリ下がっているのですが。
 もっとも本書は北原みのり、香山リカ両師匠の対談本。その時点で確かに、読まずともお察しではあるのですが、それにしても本書の出版はぼくの目にはそれなりの衝撃をもって映りました。というのも、この「フェミニストvsオタク」という対立構造はネット社会では周知でも、リアル社会で言及されるようなことではありませんでしたから。
 だから一応はオタク側の批判に対してフェミニストがいかなる反論を試みているかについて、多少の期待を持って本書を開いたのですが……残念ですが、その期待は叶えられることはありませんでした。
 読んでいくとオタクについての話題はほとんどナシ。
 全体の一割もないでしょう。5%あったかなあ……という程度です。
 その他は旧態依然としたアラフィフフェミニストの十年一日のごときだらだらしゃべり。こうしたモノでも本になり、懐が潤うのですから、本当にフェミニスト様は特権階級であらせられますなあ!
 何にせよタイトル詐欺の批判は免れませんし、「どう形にすんだ、これ!?」な素材を敏腕編集者がキャッチーなタイトルでまとめた、みたいな舞台裏を想像したくもなります。
 まあ、そんなこんなで、ネガティブな意味での期待をも外してくれた本書、お二人の思想的スタンスを考えれば容易に想像のつくとおりヘイトスピーチがどう、C.R.A.C.がこうと言った話題も盛んに登場します(言うまでもなく野間さん全肯定です)。下手をすると「オタク」より「ネトウヨ」というワードの方が頻出しているかも知れません。ただし、その両者を接続する言説は、残念なことにどこにもない。二人がその両者について、心の底から何の関係もないと考えているのならともかく、そうでないなら(そうでないとする証拠もないのですが)極めて不誠実というか、片手落ちです。「オタクvsフェミ」という問題にがっぷり四つに組む覚悟があるなら、ここ(「ネトウヨ≒オタク論」とでも称するべき左派の中の通説)は大変に重要なはずだからです。

 さて、そんなわけで正直、本書についてはどうアプローチするか迷っているのですが、ここは一応、表題になっている「オタクvsフェミ」をメインに、本書を紹介していくことにしましょう。
 本書では北原師匠によるまえがきから宮崎事件について語られ、オタクについての話題の半分くらいはこの事件についてに費やされております。
 既に海燕師匠の指摘があちこちに流布されており*1、ご存知の方も多いことでしょうが、ここで師匠らは「宮崎勤はオタク文化を誕生させたカルチャースター」とでも言うべき捉え方をしており、その無茶苦茶さが批判されたのです。
 が、敢えて師匠らの立場に立って言うならば、彼女らの言は「幼女を性的対象として消費する文化が大手を振ってまかり通るようになるなんておかしい!」ということに尽きます。「宮崎がそうした文化を産んだわけではないけれども、この時に、文化人が「表現の自由」を錦の御旗に論陣を張った。それがオタク文化の隆盛に一役買った。ある意味、宮崎は間接的功労者とでもいうべき人物だ」。師匠らの言いたいことをなるべく彼女らの親身になって翻訳するならば、まあ、こんなところになるのではないでしょうか。
 もちろん、それがどこまで正しいかは疑問です。別にこの時に表現全体が大幅にフリーダムになったわけではないでしょう。「今までは考えもしなかった表現が、この時期に出て来た」だけのことです。いや、美少女コミックの黎明期は80年代ですが、広がって行ったのが90年代という見方は、それほど外していないはず。そう考えると、これは構造としてはむしろブルセラに近い。まさか女子高生が自主的にそんなことをするとは、という。ヘアヌードや援助交際もこの頃に出て来た「まさか」でしたが、ブルセラがそれら以上にトリッキーなのは、使用済み下着というエロのカテゴリに入れにくい、今まで思ってもみなかったようなものが商品化されたという意外性です。エロ漫画にしたって、まさかアダルトビデオなどが普及してそれほどタイムラグもないというのに、二次元の美少女の方がリアルよりいいと言われるとは、予想外だったはずでしょうから(そしてまた、ロリコン的表現それ自体が今までは知られておらず、これまた意外だったはずです)。
 これらはつまり宗教的縛りもない日本において、村社会的共同体意識が解体されて、リベラルな考え方のみが専ら正義とされ、道徳心がストッパーにならず云々……みたいなことこそが原因であり、上の諸現象はその結果として立ち現れたと見るべきなんですね。
 端的に言えば、これら現象とフェミとのバトルは、左派、言ってみれば個人のエゴをスタート地点とする思想の、自己主張同士のバッティングというどこにでもある、敢えて言えば「ただのケンカ」でしかありません。要するに、彼女らの敵は宮台真司なのです。実際、本書では宮台師匠についても否定的に言及されています。
 いずれにせよ、両師匠の発言は事実を踏まえているとは言い難いのですが、当時は美少女コミックが成年マークもつけずに売られておりましたし、現代でも『To LOVEる』とかはまあ、子供が読めるのはどうかなあ……と思います。その意味で、言い分には5%くらいは賛成できるわけです。コンビニの成人雑誌も「子供に見せるべきではない」という主張はわかるので(本書もその旨が書かれています)、ゾーニングせよというのであれば、大いに賛成できます。
 しかしもちろん、フェミニストは「それだけでは足りぬ、ポルノは根絶せよ」と主張する。そしてまた表現の自由クラスタも「ゾーニングはまかりならぬ、子供からエロ本を奪うな」と主張する。両者はぼくの目から見れば、「何か、ワンイシューな正義の御旗を振りかざす似たもの同士」に見えてしまうんですね。本書はオタク文化を客寄せに掲げているが、本丸は別のところにあると表現すべき内容でしたが、それを言えば「彼ら」のやっていることもまた……。

*1「北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の論があまりに酷い【歴史修正主義】(11/20追加)

 さて、宮崎事件(という、今時フェミニストと表現の自由クラスタと大塚英志以外には誰も興味関心を持っている者がいなさそうなトピック)以外で、本書で語られるオタク関連の話題となると、やはり碧志摩メグになるでしょうか。
 ただ、トピックが変わっただけで、言っていることは別段変わりません。
 逆に言えば、その変わらなさが彼女らのダメさを示してもいるのですが。

香山 たとえばアメコミではグラマラスな格好良い女が出てくる一方で、日本のアニメは幼女が活躍するものばかり。欧米では年を取った女性もオシャレで派手な服も着るし、男性もパートナーとして女性を大事にしている。それに比べて日本は若い女ばかり追い求める。
(112p)


 本書では「萌え美少女」が終止「幼女」と表現されます。果たして何歳までを「幼女」と呼ぶのか、別に定義などは存在しないでしょうが、碧志摩メグは「幼女」ではないでしょう。上の言葉も碧志摩メグ自身を「幼女」と明言しているわけではありませんが(そうした箇所はなかったかとは思いますが)、文脈としては碧志摩メグ(や、会田誠やAKB)の話題に続いて出てきた箇所です。これ以降も話題はおニャン子クラブへとつながり、「セーラー服に興味を持つこと」が断罪されています。
 ご存知の通り、碧志摩メグについてはその胸の表現こそが云々されました。本書でも、両師匠がそこをこそ問題にしているのです。

北原 こういう萌えキャラって、骨格よりもむしろスカートのシワや乳房の膨らみを表現する影で体を表現している。どれだけエロティックな皺や影を描けるかが肝なんでしょうね。
香山 この、ヒモをほどくような手がツヤ感ですね。
(104p)


「胸もない幼女を好むとは異常だ」ではなく、「少女の胸が強調されている絵を好むとはけしからぬ」との言い分です(しかし、「ヒモをほどくような手がツヤ感」って何だ?)。つまり、「幼い子供を性の対象にするとは許せぬ」という主張はタテマエで、彼女らが本当に憎悪しているのは「ごく一般的な男性の好み」という他はない。
 もちろん、「ごく一般的な男性の好み」を全否定することがフェミニストの使命であることは、当ブログの読者のみなさんは周知だと思うのですが、こうなると師匠らはそのためにオタクをダシにした」と言われても仕方がないわけです。

香山 私、碧志摩メグもうな子*2も、大学の授業で触れたんです。女子学生でも、うな子のほうは「こんなのよくある、なんでダメなんですか」という感じで、メグのほうは「かわいい。私も好き」と言うんです。「あなたが男性の欲望の対象になったらどう思いますか」と聞くと、「私はこんなことしない」と。同じ女だからどうにかしなきゃっていう発想もあまりないんです。
(120p)



 いやはや、女子が碧志摩メグを見て「かわいい」と思うことはまかりならん。むしろ見た瞬間、「同じ女だからどうにかしなきゃ」と思わねばならないそうです(どうにかって何をどうするんだ?)。

香山 (前略)「でも彼女たちは男の人の欲望の対象なんじゃないの?」と言うと、「そんな言い方しなくても良いと思います!」とか言って。
北原 こっちの見方が汚いと思われるんですよね。
香山 そうなんです。それで、「可愛いし服も参考になるし」なんて言っている。
北原 AKBがエロに見えないのも、この行政の萌えキャラがエロに見えないのも、どれだけ日常が悲惨でエロが溢れているかという証拠だと思うんですよね。
(123-124p)


 師匠らはペドファイルに怒っているわけでは全くなく、オタクを叩きやすいから叩いているわけでも全くなく、男性全体の性欲を根源否定しているだけでした(ただし、ぼくもよく知らんのですがAKBって結構露骨にパンチラしてるそうで、そういうのはちょっとどうなのかなあ……という気はします)。
 もう一つ、敢えて論点を提示するのであれば、彼女らのオタクへの憎悪は「クールジャパン」的な認められ方にあるように思えます。碧志摩メグが騒がれたのもやはり、お役所の公認キャラであったことが大きい。こうした国家権力へのツンデレ的愛情もまた、フェミニストと「彼ら」との共通点と言えそうです。

*2 鹿児島県志布志市のPR動画で、スクール水着の少女をうなぎに見立てたとして炎上。てっきりうなぎのPR動画と思っていたら「ふるさと納税」のものだそうです。

 さて、またちょっと、「表現の自由クラスタ」たちの物言いに立ち返ってみましょう。ツイッターなどでちらちら見た意見には、「お前(北原師匠)こそバイブ屋のくせに」「若い頃はさばけていたと思っていたが、このセックスヘイターぶりはどうだ、老いたせいか」といった評も散見されました。
 これは上に書いたぼくの指摘と大意を同じくしているかのようですが……実はそうではなく、的外れなものなのです
 上にもあるように、また当ブログの愛読者の方は周知でしょうが、北原師匠の本業はバイブ屋でいらっしゃいます*3。が、彼女の目的は最初から「女にとっての快」であり、バイブもまた「男不要の快楽」として称揚されているわけです。彼女はセックスが大好きだが、しかし世に溢れている性的な価値観は全否定しているだけなのです。ジェンダーフリーなどを顧みるまでもなく、これが師匠のみならずフェミニズムそのものの基本姿勢であることは、今更指摘するまでもありません。
 フェミニストたちに、ぼくたちは非常に往々にして「萌え文化には女性のファンも大勢いて……」などと語りかけますが、そんなことに何ら意味はないのです。レディースコミックなども専ら女性のニーズに沿って作られたメディアですが、そこに描かれるセクシュアリティは男性向けのポルノとさして変わりがない(レイプ描写に溢れているなど)。つまり、フェミニストが「男性に都合のいい」と形容する性文化は実のところ男女共にとって快い、両性が共犯関係によって作り上げてきたモノであったわけです。彼女らが「男の欲望」と強弁し続けているのは、それこそ女子大生とのAKB談義でも明らかなように、女性の欲望でもありました。だから、師匠らは「人類の欲望」を根源否定しているだけなのです。
 フェミニズムは全人類へのヘイトそのものだったのです。
 事実、本書でも男のセックスに対しさんざん罵った後には、「何で日本はこんなセックスレスなんだ、気持ちのいいセックスがしたいのに」と言い出す節が入ります。自分たちの好まぬ性表現はダメ、一方セックスから撤退するのもダメというのだから、男女逆にして言えばクラスの隅っこでおとなしく『おそ松さん』に萌えているブスに襲いかかって「お前がブスに生まれついたのが全部悪い!」とボコってるようなものなのですが。
「表現の自由クラスタ」は往々にして、彼女らを「セックスヘイターだからけしからぬ」と批判しますが、それは間違っていました。上を見てもわかるように、フェミニストはセックスヘイターではないのですから。そしてまた、「一般人」は多かれ少なかれ「セックスヘイター」なのですから。更にまた、「ロリコンであること自体は何ら罪ではない」という彼らの大・大・大・大・大好きなレトリックを援用するのであれば、「お前はセックスヘイターだからけしからぬ」という物言いは一切、意味を持たないはず(こんなことにすら思い至れないことが、彼らの問題なのですが……)。
 繰り返しますが、彼ら彼女らは互いに自分の好みを押しつけあっている、似たもの同士です。そこを理解できず、お互いに背を背けあいながら全く同じゴールへの道を併走しているのです。

*3『アンアンのセックスできれいになれた?

 ……ちょっと、「表現の自由クラスタ」の悪口を書きすぎだとお思いかも知れませんが、もうちょっとだけ続きます
 彼らは専らネット上に立ち現れる存在であり、その実態を、ぼくは知りません。何とはなしに若い連中である気がしているのですが、それは彼らの主張の生硬さが原因でもありますし、「オタク差別」を危惧する物言いの屈託なさ*4が理由でもあります(これはフェミニストにただ「ミサンドリー」という言葉をぶつければ勝てると思っている人に対しても感じることです)。
 が、彼らが実のところ、かなりの高齢者と考えるとどうでしょう?

 ――おい兵頭、そんなことはどうでもいいだろう。仮に若くてもSEALD'Sよろしく上の世代の影響を受けていようし。


 それはそうなのですが、仮に「オタクの代表者」をもって任じている彼らの「イデオロギー」ではなく「カルチャー」の部分が、もし高齢者のそれであったら?
 今までぼくは「サブカル」にさんざんっぱら毒を吐いてきました。一つには単純に彼らがぼくたちにケンカを売ってくるからであり、もう一つは彼らが古色蒼然たる左派的価値観を深く内面化しているからですが、更にもう一つには、彼らの文化が極めてDQN的だからです。暴力的な表現で何かを破壊することに意義があるとの素朴な信仰が、彼らの本質です。
 つまり先の仮定がもし正しいとすれば、彼らはオタクではないし、そもそも「オタク的心性」が丸きりわかっていない。となると、彼らが本書に対して物申すことは(いえ、そもそも彼らがオタクの代表者であると自称し続けることは)オタクにとって、大変にマイナスになると考えざるを得ないのです。
 今までもぼくはオタクを「草食系男子」に近しいモノとして語ってきました。皮膚感覚で感じることでもあるし、レイプの認知件数が年を追う毎に激減していることなどを考えてもこれはまず、間違いがない。
 何よりもオタク文化は基本、草食的なものです。「美少女コミック」自体がそうで、ある種、少女漫画に影響を受けた内省的な作風は、KEYの「泣きゲー」に象徴される美少女ゲームへとつながっていきました。もちろん、陰惨なレイプ物、猟奇的表現などもまた、一方では存在はしていましたが、しかし「萌え」という言葉がオタク文化を席巻したことを考えれば(過激で暴力的なエロを「萌え」とは言わないでしょう)何がオタク文化の本質かは自明です。
 そう、本書に対する批評には、「オタクと言う名の草食系男子を、あなたたちはどうしてそこまで気に入らないのか」という視点がどうしても入らざるを得ないわけです。
 引用した箇所で充分おわかりいただけるかと思いますが、本書では旧態依然とした「女を搾取するモンスター」としての男性像が透徹されています。もちろん「草食系男子」などといったナウい単語はご存じでないのであろう、一言も出てきません。
 確かにオタク文化は「幼女」を性の対象にする側面があり、ぼくはここを全面的に問題ナシと考えているわけではありません。しかしこれは、「オタクの草食男子性」と表裏一体なものです。それはフェミニスト様のお言いつけ通りに「男性性を降りた」男たちが、フェミニズムに物申すようになったことと実は全く、同じ構造を持っています。
 しかし恐らく左派の、悪いけど古くさい言説の力で、そこをちゃんと語ることができるかとなると、それは怪しいと言わざるを得ない。

*4 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

 ツイッターでの、左派とおぼしい方の意見には「北原は非道いが、香山はそこまででもないよ」といったものもありました。もっとも、上の引用を見ているととてもそうとは思えませんが、全体的には北原師匠の方が過激ではあります。確かに、北原師匠は過激なフェミニスト、一方、香山師匠はそれほどフェミニスト色はない。北原師匠自身がまえがきで「香山さんがオタクを、私がフェミを代表する、というわけじゃない。(8p)」と書いていますが、同時に続けて香山師匠を「「オタク」文化の言論人」と評してもいますし、あとがきでは香山師匠が

 おそらくゲーム、漫画、プロレスなどのサブカルにどっぷりつかっていた私は、人間をあえて「オタク」と「非オタク」に分けると明らかに前者なのだと思う。
(245p)


 とも言っています。「お引き取りください」と懇願したいところですが
 しかし上に「サブカル」という言葉が使われていることにこそ、ことの本質が現れているように、ぼくには思われます。
 そう、先の「香山はマシ」論者の気持ちは、本書を通読すると一応、理解ができるのです。香山師匠、会田誠にはかなり好意的なのですから。

香山 社会全体が受け入れているというより、あくまで制度としてのアートの中で、と考えてはダメですか? 会田さんは安倍政権を批判しているといわれる作品もありましたが、デモではなくてアートとしてのレジスタンスということではないのでしょうか。
(108p)

香山 ある種の権力、制度、倫理への挑戦のシンボルではないですか。
(108p)


 会田というのは萌え絵をパクったような絵*5で「女の子をジューサーにかけたり」といった胸糞表現をしている御仁ですが、彼女はそれを上のように称揚しているのです。ならば草食的なオタク表現などもっと許されるべきだろと思うのですが、何故かそうではないのは、既に引用した箇所でおわかりの通り。即ち、香山師匠は反社会的で残酷であればあるほど、それは望ましいとのサブカル≒左派的価値観の持ち主なのです。
 サブカル≒左派的価値観がオタクの敵であると共に、大衆の支持も得られないモノであると、はっきりと示された瞬間です。
 事実、あっさり北原師匠に「オルグ」される箇所もあります。

北原 (前略)昭和時代にエロをカウンターカルチャーとして抵抗してきた延長で、今のAV文化を捉えるには無理がありすぎる。表現の自由というのは民主主義で揉んでいくものだと思うんですが、揉む力さえなくなっていると思います。
香山 表現の自由って言いながら、結局は市場主義的に売れる物が優先されているだけなんですよね。萌えキャラを商売にする人は「自由を守れ!」と思いながらやっているわけではなく、「これやっといたほうが売れるから」くらいの安易なものなんです。
(90-91p)


 売れた「オタク文化」への憎悪でいっぱいですね。商売で儲けようとするのが悪いと言われても困りますし、ましてや日陰者だったオタク的表現がここまで社会に広がるまでにはどれだけのエネルギーが費やされたか、考えるだけでも気が遠くなるのですが、香山師匠はそんなことは、絶対に認められないご様子です。
 以前ご紹介した『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』*6には「なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか」という節タイトルがありました(もっとも、その節にも本全体にも、この疑問に応えている箇所はありませんが)。これは至言であり、サブカル君はオタク文化を深く憎んでいるにもかかわらず、世間に対してはオタクを自称したがる。彼らは後輩の名前だけで食っている売れない先輩ですから。香山師匠が本書でとっている態度もまた、同じでしょう。
 師匠の中にあるのは、サブカル君たちのオタクに対する憎悪と同じものではないかと想像できます。一つには滅び行く存在の、商業的成功を得たオタクへのはらわたの煮えくりかえるような嫉妬の感情でしょうが、もう一つはオタクが「カウンターカルチャー」としての自分たちの文化の特質、要は左派的価値観を継承しなかった点にあります。
 だからこそ、香山師匠はオタクという場から出て行ってくれたし、萌えにも否定的になった。これはちょうど、ピル神が「オタク界はリベラル女子のためのサークルですよ」と騙され、召喚されている状況と、完全に線対称です。

*5「『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」」。ここにも引用しましたが田亀源五郎先生の、「オタク文化をつまみ食いしやがって」との感想に、ぼくも賛成です。
*6『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに


 うまく論理を展開できているか、いささか心配なのですが、そろそろまとめましょう。
 先に書いたように本書は(北原師匠が留保をつけているモノの、実質的には)オタクである香山師匠とフェミニストである北原師匠の対話という体裁を取っており、その内容はフェミニストがオタクをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
 それと同様に「表現の自由クラスタ」とピル神の振る舞いはオタクである「表現の自由クラスタ」とフェミニストであるピル神の対話という体裁を取っており、その内容はリベラルがフェミニストをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
 いずれも、オタク男女も一般的な男女も放り出されたまま、密室で「何か、変わった人たち」による談合が進んでいるという点については変わりません。
 彼ら彼女らはどこまでも線対称の、しかし相似形な存在であったのです。
 冒頭に挙げた、「攻撃は外部から来るとは限らない」の意味は、もうおわかりでしょう。
 彼ら彼女らは共に、「人間の性意識を改造することで地球侵略を企む、悪い宇宙人」でした。ただ、たまたま出身星が違ったがため、その改造プランのベクトルが異なり、利害が一致せず、地球を舞台にバトルを繰り広げているだけなのです。地球人におびただしい被害を出しつつ、互いに「ヤツこそ侵略宇宙人、我こそは地球を守りに来たウルトラ一族なり!」と主張を続け、おずおずと「よそでやってください」と懇願する地球人たちに対してだけは口を揃え、「このネトウヨ星人め!!」と絶叫を続けながら。
 最後に、ぼくが本書で一番笑ったところを紹介しましょう。



 北原師匠が楽しそうで、何よりです。
 もちろん本書、「まなざし村」と言った言葉も全く、出てきません。
 危機感は一切、ないのでしょう。