兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

田岡尼「セクハラやじ騒動にネトウヨ猛反発! いまの社会は女尊男卑か?」を読む

2014-07-18 11:14:11 | レビュー

 さて、気になる記事があったので、ごく簡単に。
 本当に短いモノですが、実は今、大変忙しくてヒマが全然ないんです……。


 最近、またフェミニズムが勢力を盛り返しつつある気が、ぼくにはします。
 民主党がおわコンで、反原発がおわコンで、もう担ぎ上げるネタが何にもない、彼ら彼女らの深刻なネタ不足が原因であるように、ぼくなどからは見えてしまいます。
 例えばですが、塩村議員の騒動など、そんな感じですよね。
 7月5日の『東京新聞』ではその二匹目のドジョウを狙えとばかり、自民の大西英男議員が維新の上西小百合議員にセクハラヤジを飛ばしたとして一面と社会面、計3pで大キャンペーンを張っていました。1p目には


女性蔑視やじ また自民


 とあり、その意図は明らかです。
「ヤジはよくない」という一般論自体は賛成できますが、同記事では「身体的問題で子供を産めない女性」をいきなり担ぎ出し、「我々への配慮に欠けた発言」と言わせるなどしており、もうわけがわかりません。別に塩村さんや上西さんが子供を産めない女性というわけでもないのに。
 そもそもそんなことを言い出したら、「少子化対策一般」自体が「女性一般」への攻撃にすり替えられかねません。むろん、去年あった女性手帳への過剰反応などを見てもわかるように、フェミニストたちの目的は最初からそこにあるのですが。
 本当に女性への差別を悲しむなら、こんなふうに女性を「人権兵器」にするのはやめてあげた方が、と思うのですけれども。
 どうもここしばらく左派の中で「やっぱりフェミという大ネタを捨てるのはもったいないのでリサイクル」という判断の人が増えたように見えます。
 ずっとフェミニズムの信奉者で居続けた人たちはまだ一貫していますが、彼らの振る舞いからは、塩村議員を担いで自民党を倒すためには、「フェミが正しくなければならない」ので、急遽やっぱり「正しいこと」にし出した、そんな裏事情が見え隠れします。もちろん、本人たちに聞いても絶対に認めないでしょうが。


 さて、そんな人たちの一人(あくまで「女性を人権兵器化している」だけで、リサイクル派かどうかは存じ上げませんが)、田岡尼師匠がぼくの著書を採り上げてくださいました。
セクハラやじ騒動にネトウヨ猛反発! いまの社会は女尊男卑か?」。塩村議員騒動の文脈で、いわゆる(彼ら彼女らが言うところの)ネトウヨの、男性差別クラスタをdisろう、という意図の記事です。
 田岡師匠は竹田恒泰氏の「自分も田嶋陽子師匠に『結婚しろ』と言われたぞ」との発言を持ち出します。「なるほど女性側にも問題がある」という結論を導き出すのかと思いきや、どうもそういうわけでもないらしい。
 エピソードを紹介するだけで、特にそれを評価することもなく他の話題に移っているのですが、(竹田氏に続き田母神さんの発言を紹介したりしているその文脈から推察するに)、どうも田岡師匠的には「保守派どもがこんな間違ったことを言っていたぞ」と言いたいご様子。
 むろん議会とバラエティという場はまた違うとは言え、どうにもアンフェアな話です。
 ちなみにこの件については、田嶋師匠自身も弁明していました。その主旨は「私は結婚そのものに否定的なのでこのようなことを言ったとしても結婚をよきものとして言っているはずがない」というもので、それをフェミニストたちが「さすがだ」と賞賛していました。発言者の意図によってセクハラがセクハラでなくなるのなら、「元気を出してもらおうと思って」女性の尻を触ることもセクハラではなくなるはずなのですが。


 拙著についても、こちらの記述を恣意的にねじ曲げて紹介するというお約束通りの手法が使われています。
 ぼくの、痴漢冤罪についての記述に対し、


当然ながら、起訴されると有罪率が99.98パーセントという検察の異常さは、ここでは批判対象ではない。どうやら女は検察庁まで牛耳っているらしい。


 とありますが、ぼくは有罪率の異常さをこそ批判しているのだし、検察が「女性の証言」を鵜呑みにすること(つまりこれはまさに「女は検察庁まで牛耳っている」ということです)こそが問題だと指摘してもいるのですが。
 男女の犯罪について、ぼくが「男性が加害者になりがちであること」については認めつつ、それは両者の身体能力に還元されるのでは、との意図で「子殺しは女が多い」と挙げたデータへも


なぜか子どもへの虐待による死亡事例を引っ張り出し、70パーセント弱が女性が加害者ではないかと力説。


 と反論なさっておいでで、こちらの意図を理解できないご様子。
 また、北原みのり師匠が「女ばかりが男に殺されている」という明白な嘘を述べていることへの反論として挙げた件についてもそうした文脈を隠したまま、


さらに殺人事件での女性被害者の割合が30~40パーセントに留まっている数字を掲げ、〈圧倒的にオトコの人だけが殺されすぎています〉と胸を張る。……「それ、男が男を殺してるってことじゃん」なんてツッコミは、もうすでに野暮というものである。


 とドヤ顔です。
 一貫して、文脈をねじ曲げるという戦略が取られ……あ、いや、単純にぼくの書いたことの意味が
理解できなかっただけでしょうか。
 いわゆる男性差別クラスタには「女モー」派とでも言うべき人々がおり、こうした人たちは田岡師匠が誤読した通り、女性の子殺し率などのデータを挙げただけでドヤ顔だったりも、確かにします。
 しかし本書におけるぼくの主張は「女性の、被害者というスタンスの加害者性/男性の、加害者というスタンスの被害者性」を指摘するところにあり、師匠がそこを全く読解できなかったのは、非常に残念でした。
 師匠は恐らく「男が男を殺していること」を指摘した時点で満足して「どうだ、女は悪くないぞ」とガッツポーズになってしまったのでしょうが、そんな指摘をしたところで、男の弱者性に変わりはないわけです。


 しかし、今までぼくに対する誹謗中傷をしてくる連中というのは「読まずに全否定」がお約束だったので、こんな絶版になって久しい本を読んでもらえただけで(内容の理解はおぼついてないとしても)ありがたい話ではあるのです。
 また、フェミニストというのはもはや、
明らかな嘘を並べ立てて相手を誹謗中傷するやり方がスタンダード化しており、その意味で田岡師匠は「文脈の意図的なねじ曲げ」で終わっているのですから、それに比べれば非常に良心的と言えましょう。


 さて、師匠はその後


 保守系の政治家や論客が「男女平等」を目の敵にし、猛烈なジェンダーフリー・バッシングを巻き起こしたのは06年、第一次安倍内閣時だった。こうした“女尊男卑”思想がネットを中心に蔓延るようになったのも安倍政権の復活が引き金になっている──そう見る向きもあるらしい。


 と続けます。
 師匠の意図は明らかですが、これは残念ながら事実と違うように思います。
 ネットでは――これは「大衆」と言い換えていいと思うのですが――ずっと女尊男卑に、フェミニズムに憤る声が溢れていました。ただ、彼ら彼女らが血眼で安倍さんを叩く口実を探していた折に、こうしたトピックスが浮上してきた、と言うだけのことです。
 しかし、上に師匠が書いている通り、ゼロ年代半ば、フェミニズムはその欺瞞を保守派によって暴き立てられ、かなり勢力を縮小させました。調子に乗っていると(?)また、手痛いしっぺ返しをそろそろ食うんじゃないかなあ……という気もします。
 さて、上に続き、師匠は続けます。


だが、そうした遠因よりも、ネット上の書き込みやこの本を見ていて感じるのは、社会に押しつけられた「男らしさ」に絡め取られることに息苦しさを覚えながらも、どうすればいいかがわからないという“足掻き”だ。


 何だかため息のでる文章ですね。
 これはフェミニストが(まさにドヤ顔で)この種の「男性差別クラスタ」にぶつける、お決まりのフレーズであり、ここだけすくい取れば、取り立てて間違ったことが書かれているわけではありません。そもそも近いことはぼく自身が拙著にも、このブログにもさんざん書いている通りです。
 しかも、フェミ発の「ジェンダーフリー」が「使えない」という指摘は、前回の『
男性権力の神話』にも述べたばかりですよね。フェミニストの言説は常にこちらの二周、三周遅れをどたどた走っているのです。
 いや、しかし、そもそも、そこまで田岡師匠が「男らしさに絡め取られた男性」に対して深い理解を示していらっしゃるのであれば、上にある田嶋師匠の発言の「セクハラ性」を認めるべきだという気が、ぼくにはするのですが。
 ぼくはここしばらく、「
左派は弱い者いじめばかりしている」と書いてきました。
 しかし彼ら彼女らは、そうした自覚が恐らく、夢にもない。恐らく、死ぬまで一生、自覚のないまま終わる。
 そのメンタリティを、田岡師匠の記事は見事に現している気がします。
 それは

 近所のガキをカツアゲし、そのガキが「おこづかいがなくなった」と泣き出したのを見ておもむろに、「ならばお前も、今俺がこうして努力したように、がんばってカネを稼げ」と心優しくアドバイスをする

 といったものです。

 ちなみにこの田岡師匠、ググってもこの記事以外、同サイトの別記事、「
秋元康の五輪演出にあの小説家がNO!「AKBは児童ポルノ」」しかヒットしません。
 ここではオタクに敗北したルサンチマン(と、師匠同様の「ネトウヨ」への憎悪、弱い者への嗜虐心)から『
嫌オタク流』というウルトラトンデモ本を出した作家・中原昌也を持ち出し、表題通りの主張を展開しています。
 きっと萌え文化など児童ポルノ扱いなのでしょうね。


 

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男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)

2014-07-12 15:23:29 | ホモソーシャル

 ――さて、前回記事はいかがだったでしょう。
 数々の引用に衝撃を受けていただきたいような、いや、それくらいのことは大前提として知っておいてもらわねば困るぞと言いたいような、複雑な気持ちで筆を進めておりました。
 今回は一歩進めて、「結論」と題されている最終章からの引用をすると共に、著者であるファレルのスタンスについて、考察を進めていきたいと思います。


 全ての男性に共通してある傷は、彼らの使い捨てという心理的傷だ。兵士として、働く者として、父親としての使い捨て。彼らが他の誰かを助けて生かすために殺して死ぬことで、愛されると信じているという心の傷だ。(p381)


 男性運動が効果的な貢献ができるかどうかは、全ての世界中の悪は男性の責任ではないことを説明する能力にかかっている。それは戦争の起因は男性ではなく、生き残るためだったこと。男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。それを男性が守らなければ、もっと多くの権利を得るため誰もここにいることもできなかっただろうこと。(p382)


 フェミニズムは「全ては男性の責任である」との陰謀論ですが、それは一般的な人々の感覚とも、少なからず親和性がある。しかしそれも、「男は能動的に動くことが期待されるので同時に責任をも取らされているだけ」の話でした。
 確かに、「九条を掲げていれば誰も攻め込んでこない」が真であれば大変に望ましい話なのですが、やはり「能動的に動くこと」が必要とされる側面はどうしてもある。
 フェミニストたちがそうした考えを持たないのは、或いは彼ら彼女らがあちらから来た兵隊さんに殺されることなく、
チョコレートやチューインガムがもらえるという「自信」を持っているから、なのかも知れませんね。
 さて、ではそんな女災社会で、ぼくたちはどのように生きていけばいいのか。
 ファレルはどのように考えているのでしょう。
 実のところ本書を見る限り、ファレルもそこまで明確な指針を提示しているとは言い難いのですが。
 ですが一つに、ロバート・ブライという人物の提唱した「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」というものが語られています。
 これは(あまり明確な説明がなされておらず、想像するしかないのですが)どうも推察するに、男性同士で集まり、感情を吐露しあうことで自らの欲求に気づき、ステージⅡ*の入り口に立とうとするエンパワメント運動めいたもののようです。


 これまでの社会において、男性は自分の心の感情を詰めた卵を全部、愛した女性が持つバスケットの中に入れて共有してきた。(中略)しかし、男性の週末はその代わりとなる感情の源を与えるので、男性は孤独を恐れずに、感じたことを主張できる勇気を得られる。(p390)


 これもどうやら、男性たちが週末をそうした男性解放運動に費やすことを現しているようです。
 さて、皆さん。
 彼らにぶつけるべきフレーズが何か、おわかりでしょうか?
 さあ、皆さん、ごいっしょに。


 ――ホモソーシャル!!


 事実、どうもこの運動はかつての「男性結社」を思わせます。
 この話題は、実のところ不勉強で今まで言及せずに来たのですが、中世ヨーロッパを発祥とするフリーメーソンのような「秘密結社」というのは、どうもそのようなものらしいのです。この種の結社の入社資格はキリスト教を信ずる成人男性とされ、察するにこれら組織の主旨は「仕事仲間とはまた別な、男同士の友だちと親交を深めよう」というもののようなのです。
 二十年ほど前、まだ「ホモソーシャル」という言葉が一般的でなかった頃、現代思想系の雑誌でフェミニストが「
男性結社はホモ」とひたすら書き殴っている電波妄想系の論文を読んで眩暈を覚えたことがあったのですが、今から思うとこれは「男性による秘密結社はホモソーシャルな存在である」と言いたかったのでしょう。その意味で、「フリーメーソンは世界征服を企む悪の組織」という陰謀論とフェミニズムとは、全く同質のものなのです。
 そしてまた「オタクサークル」もそうした、一種「男同士の秘密結社」であることは、論を待ちません。
 いつだったかぼくは「オタク」というものを「裸の男性性」と表現しました。ぎょっとされた方もいたかも知れませんが、「オタク」とは今まで「父親」「息子」「社員」といった社会的役割を「鎧」にしてきた男性の、その役割を剥ぎ取った、史上ぼくたちが初めて見る「裸の男性」である、オタクは史上初、「自分の好きなことを始めた男性」である、史上初、ステージⅡの世界への潜入を初めて成し得た男性である、といった意味の言葉だったのです。
 しかしそうした男性のあり方をフェミニズムが「ホモソーシャル」という言葉で苛烈に糾弾していることが示すように、女性は「自分への奉仕をしない男性」を、必ずしも好ましく思いません。
 そしてまたぼくが幾度も「ホモソーシャル」を「冷蔵庫の中の干からびたタクアンの尻尾」と形容してきたように、こうしたオタク文化もまた、一種、「性犯罪冤罪で全てを喪い、刑務所にぶち込まれた男が飯粒で何とか作りだしたサイコロ、そのサイコロを使った遊び」のようなもので、必ずしもそれだけでぼくたちを「リア充」化するものではありません。


*本書では「ステージⅠ/ステージⅡ」という言葉が繰り返されます。これはわかりやすく言い換えれば


 ステージⅠ=生存欲
 ステージⅡ=自己実現欲


 といったようなことです。


 さて、では他に何かいい手はないのでしょうか?
 これも想像ですが、(繰り返しますが、彼はあまり明瞭な言葉を述べていないのです)ファレルは恐らく「ジェンダーフリー」をもって、「男性解放」を成し遂げようとしているのではないか、と推察します。
 ぼくは「女災」という概念を提唱しました。それは、


 女性が被害者性を発揮することにより手にする加害者性/男性が加害者性を発揮することにより負わされてしまう被害者性


 と端的にまとめられますが、ファレルも当然、その程度のことは言っています。


 全ての性的な行動の判断における問題は、自身で判断を下すことに刺激を感じない人たちによって判断を下されるということだ。(中略)男性は、レイズ社がポテトチップスを意図したより食べ過ぎてしまったことで誰かに後から訴訟を起こされるように、女性に意図していたよりも多く彼女がセックスしてしまったことで後から訴えられている。(p318)


 わかりにくい文章ですが、要するに女は性的な場においては、相手に判断を任せておきながら後々全てをジャッジする権力を持っているぞ、ということです。
 そしてそうした男女ジェンダーの歪なあり方を、彼は「ジェンダーフリー」によって超克できると考えているフシがあります。「ジェンダーフリー」という言葉そのものは出てきませんが、本書の端々に例えば


必要なのは女性運動でも男性運動でもなく、ジェンダーを変化させる運動であったのに。(p46)


 などといった記述が見つかります。
 しかし今となっては、フェミニストたちが莫大な予算をぶんどって強行したジェンダーフリー運動の失敗は、明らかです。
 その失敗の理由についても、ぼくは今まで幾度も述べてきたかと思います。


 1.そもそも、「ジェンダーアイデンティティの獲得は後天的である」との学説が虚偽であったこと。
 2.「ジェンダーフリー」そのものが具体的ビジョンのまるで見えない、空理空論でしかなかったこと。
 3.いや、ビジョン以前にまず、フェミニスト自身が「ジェンダーフリー」を地に着いた問題としてリアルに捉えているとはとても思えなかったこと。
 4.何よりも、ファレルの書が余すことなく明らかにしたように、男性こそが生命に関わるような悲惨な「ジェンダー規範」に縛られた存在であったにもかかわらず、フェミニストがそれを全く見てこなかったこと。


 思いつくままに理由を挙げるとこんなところになるでしょうか。
 1.については長くなるので、『バックラッシュ』に関する一連の記事*を参照していただきたいのですが、一つだけ言っておくと、学説のウソがばれた時のフェミニストたちの対応が不誠実極まるものであったこともまた、この運動に対する不信感を募らせる結果となりました。
 2.と3.は被りますが、結局彼女らの目指す世界がどんなものか見えてこないこと、そしてまた、彼女らの方法論に説得力がないことです。例えば彼女らは、ジェンダーフリー教育で「男が青、女が赤とは限りません」などと説くだけでジェンダーフリー社会が到来すると思っているのでしょうか。どうにも彼女らは自分たちの感覚が世間一般の女性とずれているという自覚に乏しく、ちょっと言えばみんな自分たちに従ってくれると思い込んでいるフシがあります。
 いや、そんなこと以前にそもそも、ぼくにはフェミニストたち自身が「ジェンダーレス」を望んでいるとは全く思えないのです。彼女らが「社会進出」を志向する一方、主夫を養う気が全くないことが象徴するように、またBLがジェンダーの再生産であると指摘されるように、彼女らは都合のいい場面では「男らしさ」を自らのものにしたいと思っている一方、「女らしさ」の旨味を手放そうとしているようには、全く見えないわけです。


*バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(始末記)
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(仁義なき戦い編)
2012年女災10大ニュース


 ――だがちょっと待って欲しい。フェミニストの「ジェンダーフリー」が欺瞞でしかなくとも、4.を鑑みるならば、「男性の視点をも取り入れた、真のジェンダーフリー」はあり得るはずではないか?


 或いは、ファレルの答えがまさにそうしたものかも知れません。
 彼は男女の能動/受動的ジェンダーについて、以下のようにも言っています。


 もしそれが機能的でないなら、より強い生物学的傾向はより強い変化が必要である。もし女性の受動性が生得的なものであると立証されたなら、それは、女性が自信を持って自己主張するトレーニングの必要性を増やすだろう。もし男性の攻撃性が根深いものなら、それは、男性が自信を持って自己主張するトレーニング(攻撃性のトレーニングではなく)の必要性を増加させるだろう。(p103)


 また彼は「男女平等憲法修正条項」というものを仮想し、こう言います。


その法律は、男性だけにいかに誤った行動をしないように講義するのではなく、女性にセックスについての主導権を握り、セックスを拒否されるリスクを負う平等な義務があることを教育するインセンティブを学校に与えるだろう。(p395)


ステージⅠではスーパーマンは外の世界で地震を調査し、彼の愛する女性の命が失われることを防ぐ。ステージⅡのスーパーマンは彼自身の内部の地震を見つけ、彼の愛する女性とコミュニケーションをする。(p386)


 正直、この「地震」という比喩がどこから出てきたのかわかりませんが、本書を読んでいくと1993年という冷戦終結直後に出された本であるが故の、ある種の楽天性のようなものを感じないでもないのです。
 しかしこの「地震」というフレーズが今となっては予言めいていることが象徴するように、今のぼくたちはまさに「地震が起きたため、男だけが調査に行かされている状況」を生きているのです。
 つまり、「男性の解放をも念頭に入れた、真のジェンダーフリー」を考えるならば、それこそえふいちの作業員が男女同数になるくらいを目指さないと、どうしたってリクツにあわない。
 しかしそれは、可能なことでしょうか。
「真のジェンダーフリー教育」でそうした能動性のある女性を増やせばいいのでしょうか。女性が泣こうがわめこうが、アファーマティブアクションでえふいちに送り込めばいいのでしょうか。
 いずれにせよ、現実性があるとは思えません。
 結局、男性の過酷な状況を見据えれば見据えるほど、「真の男女平等」を素描するとなると、「ジェンダーフリー」などと口走っている人々がショック死するようなビジョンしか、描くことはできないのです。
 バブル期、フェミニズムに影響を受けた一部論者たちは「男たちよ、鎧を捨てよ」と脳天気なことを言いました。
 しかし男が女に倣い、鎧を捨て始めたら、誰が地震の調査に行くのでしょう。
 ファレルは


 男性運動はおそらく多くの運動の中で最も長きにわたるものになるだろう、なぜならそれは単に黒人やヒスパニックの人たちを既存のシステムに融和させることを提案するのではなく、システムそのものに革命的移行を与えることを提案するからだ。それは「保護される女性」と「保護者としての男性」を終わらせる。(p397)


 と語ります。
 この「長きにわたる」との予測は大いに賛成ですが、それは同時に、「男女のジェンダーをそのような状態に持って行くには、どうすればいいのか」という方法論も、「そのような状態になった社会とはいかなるものなのか」というビジョンもまだなく、そもそもその前段階として現状を認識することすら、ぼくたちはまだおぼつかない、ということでもあります(何しろ現状を認識するためにはフェミニズムによって行われた「現状修正」を正さねばなりません!)。
 つまり「真のジェンダーフリーによって、男性を解放する」という発想は、純粋な理念としては大いに賛成できるものの、しかしその「真のジェンダーフリー」とは一体どのようなものなのか、その像は、今のところSTAP細胞の一億倍くらい、結ぶことが難しいのです。
 にもかかわらず、翻ってみるにジェンダーフリー論者たちがそうした困難さに気づいているとは、とてもとても信じられない。
 本書の最後は「訳者あとがき」で締められています。
 そこには


それ(引用者註・ファレルの考え)には長年のフェミニズム活動の経験が役立っている。男女平等運動に与し、リベラルであったからこそ(つまり人種差別反対運動にも協力的)、男性差別というものをフラットな視点でとらえることができたのだ。(p408)


 と書かれていますが、フェミニズムが反面教師以上のものにならないことは、明らかでしょう。
 しかし一体全体どういうわけかどうしたことか、リベラル寄りの人たちの中には「男性差別」と詠唱しつつ、何とかフェミニズムを延命させたいと考えている人々が一定層、いらっしゃいます。
 このあとがきには


 (引用者註・ファレル氏のスタンスは)性役割の維持を目指し、フェミニストに反発する保守派と一八〇度立場が違う。(p404)


 (引用者註・この書について)フェミニストはどのような態度をとるだろうか? おそらく本当に男女平等を目指し、人が本人の生まれつきの性別によって得も損もしない社会の実現が目標である、そのようなフェミニストは男性差別の解消にも協力してくれるだろう。(p406)


 とファレルの主張とは一八〇度違ったことが書かれています(ただし、このあとがきもフェミニズムに全く問題がないと言っているわけではなく、またファレルも匂わす程度ではありますが、理解あるフェミニストの存在を示唆してもいます)。
 ぼくがジェンダーフリー論者に対して感じる違和は、彼らのどう考えても非現実的という他ない、フェミニストへの傾倒、過大評価です。
 フェミニストのジェンダーフリーは無惨としか言いようのない失敗を呈したと同時に、そもそも男性側の悲惨な状況は、全く勘定に入ってはいなかった。何よりフェミニストたちの正気とは思えない男性憎悪の念を見れば、彼女らが男性を救うことは、宇宙人がUFOに乗って救いに来てくれることの一億倍くらい、想像しにくいことです。
 今回、ぼく以外に本書のレビューしている人はいないかと調べてみると、後藤和智が


本書は「女性よりも男性のほうが差別されている」と主張しているものではなく、それぞれの性に対してそれぞれ違った差別と抑圧の構造が存在すること、そして「女性」に対して過度にそれが重視されてきたことを問題視し、「男性」についても同様に見るべきだ、というのが趣旨と言える。


 などととんでもないことを書いており、腰を抜かしそうになりました。
 もうこうなると、単純にこの種の人たちは自らの願望が現実を超克してしまって目の前に書かれていることも全く見えないのだ、と考えた方がいいのかも知れません。
 ちなみに上の文章は


そして性別以外の社会的要因などにも目を向け、真の意味でのジェンダー解放のために何が必要かと言うことを述べている点では有益だろう(本書はどちらかと言えばジェンダーフリーを志向していると言える)。


 と続いており、後藤のスタンスは明らかです。
 彼らのフェミニストを信仰する心理がいかなるものなのか、ぼくには見当もつきません。既存の社会システムへの憎悪が先行しているのか、或いは「あのキビしいフェミニスト様がボクにだけは優しくしてくれた」といった宗教体験に根差しているのか、いずれにせよ「選ばれし者」にしか理解の及ばない世界であることだけは、確かでしょう。


 ――少し寄り道が過ぎました。
 いろいろ書きましたが、しかしぼくはファレルを「ジェンダーフリー論者」として糾弾しようとしているわけではないのです。
 確かにファレルは(後藤の指摘通り)ジェンダーフリー的なスタンスを取っているようにも見えるのですが、同時に上に引用した言葉は長い長い大著の中からようやっと見つけてきたモノであり、全体を見渡してみれば殊更にジェンダーフリー推しであるという印象は受けません。そもそも、これは1.で書いた「ジェンダーアイデンティティ後天論」が覆されていない年代に書かれたものです。
 また、「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」では「男性に感情の吐露をさせること」が説かれており、それは従来のジェンダーフリー論者の言うような、「女性に倣う」ことを志向するものではあります。しかし先に九条を比喩に出したように、むしろファレルのスタンスは「男も女に倣いマチズモを捨てること」ではなく「女も男に倣い積極性を身につけること」であるように思われます。女性側に男性を倣えとするスタンスは、フェミニズムとは完全に一線を画するものです。
 彼の「夫の代わりとしての政府」との指摘(前回記事参照)もまた、家族解体を志向するジェンダーフリー論者の主張とは、親和性が低いでしょう。
 ただ、いずれにせよ本書はデータ中心であり、ファレルの真意は掴みかねるとも、またファレル自身が適切な戦略を打ち出しかねているとも(そしてまたそこを逆手に取って
ファレルの主張をねじ曲げようとする論者がいるとも)言えるのです。


 最後にちょっとだけぼくのスタンスを書いておきましょう。
 ぼくが言っているのはジェンダーフリー論者の主張が許容しにくいと言うことで、ジェンダーフリーを全否定しているわけではありません。「女性に倣う」ジェンダーフリーもまた、全否定はしません。
 日本には「マイソポエティック(神話解釈)男性運動」の代わりに「オタクサークル」があり、ぼくたちは近いことを知らず知らずのうちに実践している。しかしそうした草食化的な男性解放のあり方は、フェミニストを含めた女性の側こそが否定するものであり、女性の方こそが変わらねば「やむを得ず選択された、窮余の策」に留まる、そして果たして女性が変わることを期待できるのだろうか、というのがぼくの考えです。
 だから結局、「地震への調査」の任務から、ぼくたちが解かれることは期待しにくい。
 ファレルの「地震」の例えは非常に象徴的なもので、震災後、自衛官が婚活パーティなどで人気、といった話も伝え聞きます。
 日本は恐らく「ステージⅠ」に逆戻りしつつある。
 こうなると未来は、それ故、男が(今に比べればまだ多少はマシな程度に)復権する、という展開になるのかも知れません。そしてそれは、赤木智弘氏の「希望は、戦争。」という言葉が象徴するように、「それでも今よりはいい」と言わざるを得ません。
 しかしながら、それは同時に男性がファレルが再三強調するように
「使い捨ての性」であることの証明に他ならないわけです。
 ぼくとしてはせめて、「ステージⅠ」におけるアドバンテージをキープしつつ、将来また「ステージⅡ」に至った時も多少は女性に言うことを利いてもらえるよう、いろいろと準備をしておこうくらいの提言しかできないのです。
 それはステージⅠ的生き方をしつつもステージⅡ的なオタライフをも充実させる、ジェンダーレスどころか超両性具有的生き方となりましょうか。


 

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男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

2014-07-04 07:01:58 | レビュー

 著者のワレン・ファレルは全米女性機構(NOW)に参加した初の男性学者であり、元はフェミニストだったそうです。
 ところがやがて「男性差別問題」に開眼し、モノしたのが本書。
 1993年(二十年前!)の著書であり、累計三十万部のベストセラーということなので、この分野の古典的名著、と呼んでいいでしょう。
 が、邦訳は長らくされることがなく、ぼくも今回、初めて目を通しました。
 同時期の類書に『
正しいオトコのやり方―ぼくらの男性解放宣言』があり、これもまた大変にラディカルなモノだったのですが、こうしてみるとその「二十年前の著作」がいまだ全然古びていないことに慄然とせざるを得ません。
 想像するにアメリカでも、そして言うまでもなく日本でも、男性の置かれた状況はいよいよ凄惨なモノになっているばかりなのですから。
 今回、本書についてレビューすると言うよりは、気になったところの引用が主になると思いますが、それは本書が評論と言うよりは資料中心であるためで、ご容赦いただきたいと思います。また、引用中、本文で点々がルビとして打たれている箇所はアンダーラインで表現していますので、そちらもお含み置きください。


 さて、ぼくは時々、こんなことを言っていたかと思います。


 仮に女性の生命、尊厳には男性のそれの何千、何万倍もの価値がある、との前提を導入すれば、フェミニズムは驚くほどに整合性の取れた理論として、ぼくたちの前に立ち現れる。
 そしてまた困ったことに、その前提はこの社会では、満更間違ったモノではないと認識されている。


 また、(文章化したことはなかったと思いますが)以下のようなことも言っていました。


 近代的な人権観は、ようやく女性に対してのみ適用されるようになったばかりだ。


 そしてこれらのフレーズは、奇しくも本書の主張を、極めて端的に言い表しているように思います。
 本書では「ステージⅠ/ステージⅡ」という言葉が頻出します。これは


 ステージⅠでは、多くの夫婦はロールメイト(役割分担し合う仲間)であた。女は子どもを育て男はお金を稼いだ。ステージⅡでは、夫婦はソウルメイト(魂を分け合う仲間)になることを望む。(p40)


 といった言葉が象徴するように、わかりやすく言い換えれば


 ステージⅠ=生存欲
 ステージⅡ=自己実現欲


 とでもいったことです。
 今まで男性は「食うために、そしてまた女性や子供を食わせるために」仕事をしてきた。
 その結果、社会が豊かになったため女性は「社会進出」し、「自己実現のために」仕事をするようになった、ということです。
 いまだ男性は「食うため、食わせるために」仕事をしており、そこには(以下に引用するように)しばしば非常な危険が伴う。
 
それらのリスクは男性に負わせ、「自己実現」というゲインだけを得よう。それが、フェミニズムの本質だったのです。
 本書ではフェミニズムの欺瞞が、男性の凄惨な実態がこれでもかと、読んでいて気が滅入るくらいに執拗に指摘されていきます。
 近代化に伴い女性が危険から守られ、長命化したことを指して、ファレルはこう言います。


私たちが「男性の権力」と呼んできたものは実際には女性の権力を作りだしていた。それは文字通り女性に人生、寿命を与えた。産業革命から自己成就革命への最初のバスに乗れたのはほとんど女性だけだった。(p190)


一九二〇年、合衆国の女性の平均寿命は男性より一年長かった。現在女性は七年も長く生きている。男女の寿命スパンのギャップは七倍にも増えている。(p19)


 誰が権力を持っているかを知るための平均寿命ランキング


 女性(白人)七九歳
 女性(黒人)七四歳
 男性(白人)七二歳
 男性(黒人)六五歳(p20)


 もっとも、こうなると男女の寿命の差は医学的な理由に還元し得るかも知れません。
 それをもってファレルは


皮肉にもフェミニストたちが家父長制システムによる女性への性差別と呼んできたものは女性の寿命を、男性の寿命より一年から男性の寿命より七年長くした。(p202)


 と言います。近代医学の発達の前には女性の寿命の方が短かったこと、また「女性の社会進出」の進んだ近年では僅かながら男女の寿命の差が再び縮まり、ささやかではあるもののフェミニズムの「成果」として「男女平等」に近づきつつあることなどは拙著にも書きましたので参照してください。
 しかし、男性が女性に尽くしたのは医療面に留まりません。生活の全場面においてそれは言えるのです。
『タイム』誌が銃の被害者について特集した時、


被害者たちは多くの場合、社会の中で最も弱い人たちである。貧しい、若い、孤児である、病気の人、高齢者の人たちである。(p22)


 と書き、女性だけを採り挙げたが、事実として被害者の多くは(上に挙げたような弱者属性を持つ)男性たちでした。


マイク・タイソンの裁判でのこと。陪審員が静かに過ごしていたホテルが燃え上がった。二人の消防士が彼らを救うため死んだ。(p28)


 しかしこの裁判は性犯罪者としての男性のイメージを強めるばかりで、救済者としての男性のイメージを強めることはありませんでした。


(消防士など危険な任務に就く男性は)その代償として彼らは感謝を求めるが、与えられるのは無視である。(p28)


仕事上での死亡者の九四%は男性だ。(p116)


より危険な職業は、非常に多くの男性がパーセンテージを占めている。いくつかの例を示す。


危険の高い職業


消防士 九九% 男性
伐採作業員 九九% 男性
トラック運送 九九% 男性
建造業 九八% 男性
炭鉱夫 九七% 男性


安全な職業


秘書 九九% 女性
受付係 九七% 女性(p116)


 身の回りを見ると、昨今はブルーカラーにも女性は増えているような気がします。が、これは単純に不況のせいでホワイトカラーにしか目を向けないフェミニズムの「成果」では、恐らくない。そろそろフェミはそうした女性に恨まれ、と言って今更「女性を危険な目に遭わせるな、専業主婦を増やせ」とも言えず、本格的に支持を失うのではないでしょうか。


例えば、海軍の新兵訓練は歩兵訓練や障害物訓練から女性を免除しなければならなかった。その結果? 湾岸戦争では、女性がトラックのタイヤを交換したり、砂地から自動車を押し出したり、重い燃料缶を運んだり、怪我をした兵士を運ぶことができないとき、男性はしばしば緊張の糸を張り詰めている期待をされた。しかし、もっと重要なのは男性がこの差別について文句を言ったとき、彼らのキャリアが大きく損なわれたことだ。(p152)


 一方、犯罪を犯してしまった場合にも、女性は守られ続けて来ました。


妻たちは夫がするよりも配偶者に暴力を振るうことが報告された(これは家庭のランダムサンプリングを行った全米家庭内暴力調査による)。(p219)


 私たちが児童への性的虐待を考えるとき、十中八九被害者として女児を思い浮かべる。本当の所は少年と少女の割合は一:一.七だ。(中略)本当の所は、少女への虐待者は常に男性だが、少年への虐待者は常に女性だ――母親や、姉や、ベビーシッターや、親戚の女性だ。(p222)


 正直、「常に女性」というのは信じにくいのですが、しかし同性愛者の男児への性的虐待にすら、頑なに目を背け続けてきたフェミニズムが、女性の男児への虐待に目を向けるはずもありません。教育や福祉の分野から一刻も早くフェミニズムを一掃せねば、男児への被害は永久に救済されることはありません。


 一九五四年から、そう、約七万人の女性が殺人を犯してきた。彼女らの被害者には約六万人の男性が含まれている。しかし、本章の二つめの資料で見てきたように、一人の女性として男性だけを殺しただけでは死刑になっていない。(p249)


マージョリー・フィリパークと一六歳のヘス・ウィルキンズは、共に殺人の共謀者であったと罪を認めた。どちらも前科はなかった。ヘス・ウィルキンズは死刑になった。そしてマージョリー・フィリパークは釈放された。(p250)


ヘス・ウィルキンズが児童性的虐待の被害者であることが発覚したとき、それが彼の死刑の判決を止めることはなかった。ジョセフィン・メイサが児童虐待の被害者であることが見つかったとき、陪審員団は彼女を無罪にした。ジョセフィン・メイサは彼女の二三ヶ月の息子をトイレのつまりを直すきゅっぽんで殺した。(p250)


 最後の例は象徴的です。
「内面」とは「女性」だけが有している。それがこの近代社会のコンセンサスであり、フェミニズムはそうした歪みが生んだ思想なのです。


男性が刑務所行きの判決を受ける一方、女性が執行猶予で釈放されたとき、合衆国ジェンダーバイアス委員会はその女性はその男性より期間が長い執行猶予の判決を受けたから女性は差別の被害者だと言った。(p252)


 このジェンダーバイアス委員会はまた、女性刑務所の数が少ないことを理由に、慰問に行きにくい、女性差別だとも言いがかりをつけます。むろん、そもそも女性受刑者は(女性に甘い司法のおかげで)絶対数が少なく、男性受刑者の倍の予算が投じられ、設備も天国のようなものなのですが。


 興味深い……というか、近代的人権観の根本に抵触する、極めてデリケートな問題として、PMS(月経前症候群)があります。生理中や更年期の女性ホルモンが女性の意志決定に与える有害な影響のことを言うのですが、それを唱えたエドガー・バーマン医師は案の定、フェミニストたちのバッシングに遭いました。


 しかし一九八〇年代になると、一部のフェミニストは、PMS(月経前症候群)は故意に男性を殺した女性を釈放する根拠であると言い始めた。(p272)


 それにより(というか、PMSの症状を抑える注射を打っていたというだけの理由で)、実際に複数の女性殺人犯が執行猶予の判決を受けました。


 一九七〇年代は、フェミニストたちは「私の体は、私が選択する」と言い続けてきた。八〇年代、九〇年代になるまでに彼らは「私の体は、私が選択する、もしそれが、私が殺す自由を増やすなら」そして「私の体には、私の選択権はない、もしそれが私が殺す自由を増やすなら」と主張し続けた。(p273)


 しかしファレルの主張が秀逸なのは、女性の殺人すらもがPMSバイアスによってこんなにも正当化されるのならば、男性もTPバイアス(テストステロン中毒)を用いることを許されるのではないか、としているところです。
 そう、フェミニストは今まで攻撃性を司るとされる男性のテストステロンを、半狂乱で憎悪し続けてきました。しかし女性側のホルモンについてはそれが殺人を引き起こそうと正当化するのです。彼女らの、テストステロンを持っていないにも関わらず発揮される攻撃性には、いつもいつも慄然とさせられます。


 ――いや、しかしそれにしても女性は被害者となることが多い。まずその原因である男性の攻撃性をこそ矯正せよ。


 そうでしょうか?


夫を殺害して服役している女性の中には、夫によって虐待(DV)を受けていた者もいる。しかし、コーラメイ・リッキー・マン教授(イリノイ大学刑事司法学部、女性)が、夫や恋人の殺害で六つの主要都市で投獄された何百もの女性に関する研究を行った際に、男性によって虐待されていたことが判明した女性は一人もいなかった。それゆえ、一部の女性は先に虐待を受けることもなく実際に人を殺すのである。(p281)


 一方、「女災」、即ち女性が「被害者として振る舞うことで加害者性を発揮すること」に対しても、ファレルは鋭いメスを入れていきます。


(フェミニストの調査によると)四〇%近くの女子大学生は「彼女たちがしたいことを意味するときに」さえ、セックスの際に「いや」と言ってきたことを認めた。十五万人の女性と男性にわたる私自身の調査でも――その内、半分は独身だった――その答えはまた「したことがある」であった。
(中略)
 私たちは少し前の文章でこれをデートレイプと呼び、デート詐欺と呼んだことを忘れている。(p321)


 この「デート詐欺」は要するに上のような女性の、「口頭での発言とボディランゲージの矛盾」を指す、「デートレイプ」に対応する概念です。ファレルはこの後、女性向けのロマンス小説の多くが「強姦者との結婚」というモチーフを持っていることを指摘します。
 また、男性だって望まぬ性行為をしていることにも言及。その比率は九四%とも、六三%とも言われ、後者の調査では男性の比率が女性のそれを大きく上回っています。


 定義の拡大を伴うデートレイプに関する法律は、まるで時速五五マイルのスピード制限だ――誰をも違反者にすることで、彼らは本当の交通違反者を軽視する。(p326)


 しかもデートレイプについては(男性の方がより被害に遭っている、との調査すらあるのに)男性にだけ適用されるのです。


レイプの定義の拡大の法律は時速五五マイルのスピード制限を男性に設け、女性にはどんなスピード制限も課さない法律だ。(p326)


 ええ、全国で、現在「進歩的」と呼ばれる大学――バークレーからハーバード、スワースモアにかけて――は既に酔った女性が昨夜「イエス」と言ったとしても翌朝レイプされたと主張することを許可している!(p327)


 男女平等の時代に、私たちは彼女が酒に酔っていたから責任を与えず、彼もまた酒に酔っていたにもかかわらず彼に責任をとらせる。フェミニズムがこの新しい不平等のパイオニアであるというのは皮肉なことだ。(p328)


 そしてファレルはいよいよタブー中のタブーへと足を踏み入れます。


 とても残念なことだが、私たちは全てのレイプ疑惑の少なくとも六〇%が虚偽であることを発見した。(p331)


 アメリカ空軍が五六六件のレイプ疑惑を調査したとき、最終的に二七%の女性が(嘘発見器の検査を受ける前やまたはそれにひっかかたあとに)嘘をついていたことを認めた。他のケースは真偽があまり確かでなかったため、空軍は三人の第三者である調査者にこれらのケースを再調査させた。彼らは嘘をついたことを認めた女性に共通する二五の基準を用いた。もし調査者が三人ともレイプ疑惑は虚偽であることに同意したら、そのケースは虚偽であると位置づけられた(p331)


 六〇%という数字はつまり、その結果、出たものです。
 調査者のマクドウェル博士は、いや、これは空軍だけの特殊事情では……と考え、中西部と南西部の主な都市の警察のファイルについても調査したのですが……やはり結果として出てきたのは六〇%(は虚偽の告発である)という数字でした。
 メリーランド州のプリンスジョージとバージニア州のフェアファックスにおいても、それぞれ三〇%と四〇%の虚偽、または「根拠なし」の事例を記録していたと言います。
 本書には虚偽の報告をする女性たちの動機についても表が作られており、妊娠したことの社会への言い訳がその主要な理由の一つであるとわかります。ファレルはこれを


 社会がセックスを彼らがしてもよいと考えるより前にした女性に責任を下すとき、それはその責任を避けるため女性に虚偽の訴えをさせる。(335p)


 と表現しています。


 実際の話、女性が男性をレイプで訴えたとき、FBIや警察は男性の性的過去における女性たちを探し出し、彼女らに彼がレイプで訴えられたことを伝え、彼にレイプされた(デートレイプを含めて)と感じたことがあったか尋ね、もし彼女らが「ええっと、ひょっとしたらあのとき一度……」と言えば彼女らは「他の女性にこれが起こらないように」証言を促される。反対に、最新の最高裁判所の判決によれば、男性は、被害女性の性的過去や彼との性的関係の証拠さえ、始めに裁判所に許可をもらわない限り提出できない。(344p)


 配偶者間レイプの法律は行使されることを待っている脅迫状である。もし男性が離婚を申請する必要を感じたとき、妻は「もしあなたがそうするなら、あなたを夫婦間レイプで訴えるわ」と言うことができる。(p352)


 そして言うまでもないことですが、女性は経済的にも、圧倒的な優遇措置を、今まで受け続けてきました。


アメリカ合衆国の国勢調査局は、世帯主である女性の有している資産の額は、世帯主である男性の資産の額の一.四倍であることを明らかにした。(p22)


 むろん、女性世帯主は絶対数が少ないじゃないか、という反論が予想されますが、世帯主でない女性の多くは、男性に食べさせてもらっているわけです。男性を食べさせている女性世帯主の数は、極めて少ないでしょう。
 また、それにも関わらず、家庭という社会では母親が専ら権力を握ってきたことは、日米共通の事実です。日本においてはのみならず、女性が財布を握っていることをも、ファレルは指摘します。


それは、一九九二年に日本の株式市場が破綻し、数千人の女性が夫が知らない間に投資して何十億ドルを失ったという事実で多くのアメリカ人に明らかになった。(p26)


 本書の第三部は「夫の代わりとしての政府」と題されています。


 今日、雇用者が女性を雇うとき、彼らは妊娠の支援コストを支払い(妊娠差別禁止法)、出産育児休暇の費用を支払い、(土地のコスト、高額な保険料、子どものための保育士や管理者を雇うコストを新たに招く)保育所を運営しなければならない圧力をおそらく感じる。(p368)


 ということで、これは保守派が「フェミニズムは共産主義のバリアントである」と指摘するのと、意を同じくしています。ある程度裕福な男性は女性を主婦にも労働者にもすることができますが、貧困層の男性にはそれができないので、


だから国が女性に、貧困層の男性が与えられる収入より多くのお金を与える。彼女は貧しい男性とではなく国と「結婚する」。政府は夫の代わりである。そして貧しい男性は使い捨てられる。(p372)


 というわけです。ぼくは


「女災」とは「女性に尽くすことでぼくたちが被る厄災」であり、フェミニズムとは「男が悪者である、女が被害者であるという虚構を温存することを目的としたジェンダー固定化運動」である。


 と主張してきました。ファレルもこれと同様のことを言っています。


 あるグループが五〇%以上の選挙権を持って、自らを被害者と呼んでいる例を歴史の中で見つけるのは難しいだろう。または、被抑圧者のグループが自分たちのメンバーに選挙で走り回らなければならない責任を与えないように彼女たちの“抑圧者”に投票する例を。女性たちは唯一のマジョリティであるマイノリティグループである。そして女性たちは全国のほとんど全てのコミュニティーの公職員を選挙で選ぶことによってコントロールすることのできる唯一の、自身を“被抑圧者”と呼ぶグループである。(p32)


 フェミニズムの欠陥は、支配と性差別が一方通行のものであるという前提である。フェミニズムは、この点で、非常に伝統的な運動であった。男性が責任を負い、何が起こっているのかを知り、女性は責任をとらないという根本的な信念を保持した。その信念は、本当かどうかは別にして、女性が本質的に劣るか、または愚かであることを含意している。
(中略)
しかし、おそらく重要なことだが、男性が女性の束縛に責任を負うという信仰は、王子が彼女を救出するだろうという信仰の裏返しである。(p102)


 法が整備され差別がなくなったにも関わらず、女性の社会進出がはかどらないことを、フェミニストは「ガラスの天井」のせいだとします。「女性は見えないバリアに阻まれているのだ」との言い分であり、こうなると「証拠を出せ」と言われても「見えない」と返せば済むのですから、もう無敵の理論です。
 が、ファレルはこれに「ガラスの地下室」という言葉で返します。男性は見えないバリアによって、地下室に閉じ込められているのです。
 もっとも、この「ガラス」の正体を「ジェンダー規範」と解釈するならば、(「ガラスの地下室」が実在する程度には)「ガラスの天井」もまた実在するのだ、とは言えます。しかしその場合もこの「ジェンダー規範」は、男性側の責がゼロとは言わないものの、主婦志向に象徴されるように選択肢を与えられた女性側の主体的自己決定の結果である、と考えざるを得ないでしょう。


 ――いかがでしょう。
 みなさんいい加減、ウンザリ来ているのではないでしょうか。
 ぼくもウンザリ来ています。
 本書は400pを超える大著であり、ファレルの粘り強い調査には脱帽せざるを得ません。
 しかし彼の能力の高さは、調査能力にばかり特化しているわけではないのです。
 細かい考察は次回に譲りますが、最後にちょっとだけ予告代わりに、まとめめいたことを書いておきましょう。
 ファレルはゴミ清掃業者、現金輸送のガードマンなど、危険な職業に就く男性たちの惨憺たる状況について、心を痛めます。男性がただ、女性の愛を得るために危険な職業に就くこと、その逆は決してないことを、彼は繰り返し指摘します。
 本書を見ていくと愛が、結婚が、家庭が男を殺したのだということがわかります。
 翻って現代の日本。ここでは既に草食系男子たちが結婚という選択を捨て始めています。ぼくたちは女性に気に入られることがコストに見あわないと見抜き、金銭的なメリットを捨てました。
 男は愛に、結婚に、家庭に、女に三行半を突きつけたのです。
 しかし両者はそれで、本当に幸福になれたのでしょうか?
 これから、ぼくたちの女災社会はどうなるのでしょうか……?


 

 

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