兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

夏休み男性学祭り(その1:『男性学入門』)

2015-07-31 19:21:34 | 男性差別


 ファレルの著作にヘンなレビュー 都合の悪いやつぁ黒歴史
 自治体の予算をありがとさん 男子学生disりまくり
 楽なモンだぜ 男性学音頭~♪


 というわけで今年もやって参りました、ドラえもん祭」に代わってすっかりおなじみとなりました「男性学祭」!!
 男性学と言えば、当ブログでは渡辺恒夫、伊藤公雄という人物の名前を今まで幾度も挙げてきました*1。
 簡単におさらいしておくと、渡辺氏は1986年に『脱男性の時代』を著し、また89年には『男性学の挑戦』を編んで日本で最初に「男性学」を提唱した人物です。前々回記事にもあるように、「男を脱する」のはよきことだ、という考えには疑問符を着けざるを得ませんが、論調は「男性は悪」とするものではなく、「男性は恐るべきデメリットを背負っている」ことを指摘したものであり、大いに頷くべき点の多い快著と言えます。
 彼は『脱男性の時代』の冒頭で

 最初に一つの予言をさせていただきたい。それは、
 二〇世紀が女性問題の世紀であったとすれば、
 二一世紀は男性問題の世紀になるだろう、
 ということである。
(p1)


 と述べていました(アンダーラインは、元の文ではルビとして点々が打たれている箇所です)。
 が、千田有紀師匠の著書、『女性学/男性学』には、伊藤師匠が近しいことを言っていた、という下りがあるのです。

日本において男性学というジャンルを打ち立てるのに大きな役割を果たした伊藤公雄は、「一九七〇年代から八〇年代にかけて「女性問題の時代」の開始があり、それが今後ともますます深化しようとしているとすれば、一九九〇年代は「男性問題の時代を告げる時にならざるをえない」といいます。
(p132)


 つまり、言ってみれば伊藤師匠のパクリ疑惑が、この時浮上したのです。
 しかし、有紀師匠の本は引用が多い割に引用元の書名が書かれておらず*2、伊藤師匠が本当にこのように言っていたかどうか、未確認でした。
 さてこの伊藤師匠、主に90年代のメンズリブで活躍した「男性学の専門家」です。彼については永らく、『〈男らしさ〉のゆくえ〉』しか読んだことがなかったのですが、先日、何とはなしに『男性学入門』を手に取ってびっくりしました。これは96年の出版なのですが、「はじめに」に以下のようにあるのです。

 ぼくは、一九八九年の暮れ、一つの「予言」をしたことがある。
 それは次のようなものだった。
「一九七〇年代から八〇年代にかけて、“女性問題”の時代があった。この女性問題は、今後、さらに重要な課題となるだろう。そして、こうした動きに対応するかたちで、一九九〇年代は、“男性問題”の時代がはじまるだろう」
 この「予言」は、どうも的中したようだ。
(p1)


 何と言うか……全くいっしょですよね*3。
 もちろん、年代設定は違います。
 渡辺氏が20世紀と21世紀と言っているのに対し、伊藤師匠は80年代と90年代。
 結果、伊藤師匠の予言だけが外れてしまったのはお気の毒ですが(当人は的中したと豪語していますが、「男性問題」の時代なんて来てませんものね)、しかし「他人の発言をパクって、手柄をいち早く我が物にするため、年代設定までも早めて記述した」ように見えるのはぼくだけでしょうか……?
 そもそも自己申告を見る限り、伊藤師匠が「予言」したのは89年で、86年に渡辺氏の著作が世に出た後。自分で「パクリました」と言っているようなものです。
 むろん、こうした(学術的データによる「予測」ではなく、印象や直感による)「予言」にパクリ問題が発生するものかどうか、ぼくは知りません。恐らくノストラダムスの後に「1999年に地球は滅びる」と予言した人も、パクリ扱いは受けてはいないでしょう。
 しかし、渡辺氏が伊藤師匠よりも早く「男性学」を提唱したにもかかわらず、フェミニストのバッシングを受け、黒歴史扱いを受けている*4ことを思うと、やはり納得できないものを感じます。
 呆れたことに伊藤師匠は『〈男らしさ〉のゆくえ』の中で参考文献として『脱男性の時代』、『男性学の挑戦』を挙げ、また『男性学入門』でもその研究について(ホンのチラッとだけですが)言及し、「読書案内」では『男性学の挑戦』を挙げています。知らないはずがないのです。

*1 「夏休み千田有紀祭り(第一幕:メンリブ博士のメンズリブ教室)
*2 とある人物が、有紀師匠の著書を「フェミニズムの良質なテキスト」として紹介していたので、ぼくのレビューにリンクを貼ったところ、「引用するなら出典元書誌情報とページ数を書いてくれ」とお叱りを受けました。師匠に言ってあげて!
*3 さらに摩訶不思議なのですが、この一文は、同書の28pでも全く一字一句違わず、繰り返されています。
*4 「夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)」の「■付記1■」をご覧ください。有紀師匠は伊藤師匠が最初に「男性学」を提唱したようなことを言っていますが、それはちょっとないでしょう。


 ――さて、それでは、自分たちに都合の悪い研究者の存在を抹殺してまで立ち上げた、伊藤師匠の「男性学」とはいかなるものか。まあ、「フェミニズム」を絶対の正義として前提し、男のあり方をdisる以上の内容はないのですが、せっかくですから簡単に表題の『男性学入門』をレビューしていくことにしましょう。
 伊藤師匠も前々回の田中師匠同様、大学で教鞭を執っていますが、第3章の「授業での学生たちの反応」という節を読んでいて腰を抜かしそうになりました。
 大学での男性学の講義に対し、女子の反応は多様性、具体性があるが、男子学生は一般的かつワンパターンな返答しか返ってこない、と師匠は嘆きます。
 男子学生のレポートが引用されるのですが、それは性別役割分業を肯定する内容。師匠はそれに対し、「旧来の意識から抜け出していない」と腐し出すのです。
 最初は「多様性、具体性の有無」を問題にしていたにもかかわらず、話がすり替わってしまっています。これでは「俺の押しつける考え以外はNGだ」と言っているだけで、そんな基準で男子の程度が低いと言われても、困ります。
 第1章冒頭でも「今の男の子は軟弱だ、ふにゃふにゃしていて頼りない、しかしその中身は旧態依然とした性役割に支配されている」などと書いていますが(この当時はお天気の挨拶でもするみたいに、とにかく「男が弱い」と繰り返すのが流行りでした)、そりゃ、自分の考え以外は認めない人に対してはそれ以外のリアクションはしようがないでしょう。
 3章では、欧米での男性学についても語られます。
 アメリカでは必ずしも親フェミニズム的な男性運動ばかりが一般的ではなく、反フェミニズム的な勢力が優位である印象もある、といった記述がされ、ワレン・ファレルもややそっちに行きかけていると腐してもいます(ちなみに本書では「ワレン・ファレル」「ウォレン・ファレル」と表記が一定しません)。
 第4章ではジェンダー論が概観され、ミードが引用されます*5。もっともこの時点でも、既にミードの過ちは明らかで、師匠も気が引けたのか、懐疑論との両論併記といった感じの書き方をしています。が、マネーについては(「読書案内」で『性の署名』が採り挙げられているだけで)言及なし。この時期に、既にウソがバレていたのでしょうか。
 第8章のタイトルは「もっと群れよう、男たち!」とされ、仕事以外の男たちのネットワークを作ろうとの提案がなされます。まだバブルの余韻冷めやらぬ当時としては、「仕事人間」のオッサンを嘲笑う論調が、ある程度の説得力を持っていたのでしょう。
 しかし「ホモソーシャル」などという概念の捏造を始めたフェミニズムにとっては、これももはや古びた主張ではないでしょうか。
 また、他の章でも「男は女に比べて共感的コミュニケーション能力に欠ける」といったこの当時よく言われたロジックが繰り返し語られているのですが、それもまたホモソーシャル論とは齟齬が生じます。

*5 文化人類学者、マーガレット・ミードの研究は一時期、フェミニズムによって「男女のジェンダーが環境によって左右される」ことの論拠として採り挙げられていましたが、ミード自身によって「いや、そんなことは書いていない」と否定されてしまいました。

 第6章は「「働く主夫」の生活と意見」と題され、自分は「働く主夫」であるとドヤ顔の師匠。しかし、見る限り大学に通勤もしているし、「専業主夫」というわけではなく、一家の稼ぎ頭が師匠なのか奥さんなのかは判然としません。朝食は師匠が作るけれど、夕食は奥さんが作ることが多いとかで、こうなると「主夫」の定義がよくわからなくなってきます。どうも師匠がとにもかくにも「ワタシは主夫です」と言ってみたかっただけなんじゃ、という気が……。
 268pに書かれていることが象徴的です。男性は(他の家事もそうだけれども、とりわけ)洗濯という行為を嫌がる、しかし自分は洗濯が好きだ、と大いばり。自治体で講演を請け負った時、(こうした人たちはこういう税金をじゃぶじゃぶ投入した利権に与れ、本当に羨ましい限りでございます)とある職員が「私は家事を進んでやるよき夫」とアピってきたので洗濯について口にすると、その職員は呆然となって、「なるほど、洗濯はできない」と告白したそうです。師匠の、どうやら洗濯は男にとって最後の障壁らしい、と語る口調には、「この職員のような似非と違い、我こそは真の解放された男性なり」との得意さが感じられます。しかし、師匠の家庭のご事情は存じ上げませんが、一般的には仮に旦那がやると言っても(ましてや年頃の娘でもいれば)、下着の洗濯など、嫌がられるのではないでしょうか。
 先の「もっと群れよう、男たち!」との理念が『ホモソーシャル』との概念とバッティングする件と併せ、何だか勝部元気師匠を思い出します*6。
 それはつまり、男性フェミニストがバカ正直にフェミニズムを実践すると、それが女性フェミニストへのブーメランとなってしまい、女性フェミニストからのお叱りを受けてしまう、との気の毒な構図です。いえ、伊藤師匠がこの後、女性フェミニストに叩かれたかどうかは知りませんが、いずれにせよこうした男性フェミニストを、そして主夫を、女性フェミニストが必ずしも歓迎しないことは、みなさんご承知の通りです。
 そもそも、この洗濯論、目下のぼくたちには極めて奇異なものに映ります。フェミニズムの華々しい成果としての非婚化がここまで進行した現在では、少なくとも自分一人の分の洗濯を行う男は、世に普通になっているはず。つまり「洗濯」は意識の高い人にのみ許された特権的行為でも何でもなくなったわけで、何というか、まあ、おめでとうございます
 さて、主夫についてまだまだ続きます。

「専業主夫」たちの体験記を読んで感じるのは、「家事・育児」という労働が、それまでの仕事に追われる生活と比べれば、それなりの楽しさや新しい発見をもたらす労働であるということだ。
(p277)


 へえ、だったら是非、女性たちにもその楽しさを分けてあげたいですね……と思っていると、とたんに家事について、無力感を感じる、イライラが生じる、評価されないことで不満が募るとその苦痛を語り出します。

 実際、「働く主夫」の生活をしているぼくも、このたいへんさは身に染みてよくわかる。
(中略)
 いわば二四時間労働なのだ(まあ、これはこれで息抜きになって、楽しいところもないではないのだが)。
(p277-278)


 どっちじゃい!!
 二四時間労働じゃ息抜きになんかなんないでしょうに(先には男性の労働こそ「仕事に追われる」非人間的なものだと言っていたばかりなのだから、もうメチャクチャです)。まさに筆致が一行毎に千変万化、何を言いたいのかさっぱりわかりません。
 結局、「家事労働などという苦痛なものを女性に押しつけてすみませんでした、贖罪のために家事をやります」というのならば辻褄はあいます。もっともそれが正しければ、女性たちはその男性の選択を大いに歓迎して、専業主夫を養うようになるはずですが。
 或いは「家事労働がことさらに悪いわけではない、性別役割分業という思い込みこそが許せないのだ」、といった主張も考え得る。しかしそうなると「女性が搾取されてきた(=主婦業が損)」という前提が揺らぎます。また、女性たちの専業主婦志向を説明できません。結局、「主夫普及運動」は他のフェミニズムのあらゆる主張と同様に、「意識の高い我々がお前らの洗脳を説いてやる」というものになるしかないのです。

*6 「サニタリーボックスを汚物入れと呼ぶのは女性蔑視の現れ」。チンポ騎士を気取ってトイレの汚物入れについてインネンをつけたはいいが、女性からは総スカンという勝部師匠の気の毒な姿にみんなで涙しましょう。

 いえ、それでも「フェミニズム」は「とにもかくにも男が得をしている、男が全部悪い」と言っておけば話が済みました。
 しかし「男性学」はいささか事情が複雑です。「この世は絶対的男性優位社会である」という前提から出発して、「男性を解放しよう」という結論に至らねばならない、根本的絶対的矛盾を抱えた、奇妙奇天烈摩訶不思議な学問なのです。
「男は男らしさの縛りに苦しんでいる」。
 ここまでは、ぼくも全面賛成です。
 しかし、それによってデメリットを被っているのであれば、男は被差別者と考える他はありません。
 そして、男が男らしさを捨てたら、「誰かがやらねばならない」その役割はどうなるのか。エラいエラい男性性に富んだフェミニスト様がえふいちに行ってくださるのでしょうか。
「ジェンダーは男が陰謀で捏造したフィクション」であると主張しながら、一方ではコミュニケーション能力など、女性ジェンダーの美質を持ち上げ、男も女並みになるべきだと言っておきながら、しかし女は男並みになるべきだとの幾重にも幾重にも矛盾を折り重ねた主張しかしないから、読んでいるこちらは頭がおかしくなりそうです。
 結局、彼らの過ちは「フェミニズムから出発したこと」にあるとしか言いようがありません。
 一般的な男性(女性)は、恐らくですが言語化はしないまでも、何とはなしにでも女性のメリット、女性の業(女性にも悪いところ、男性を利用している面があること)についても、認識できているはずです。
 それらの直感を、フェミニズムは全て否定し、覆い隠してしまう。
 結局、これはやはり(あんまりこういうことばかり言いたくないのですが)「何か、体制が悪い」という彼らの習い性がするっとフェミニズムにハマり込んでしまったがために、起こってしまった過ちなのでしょう。
 90年代当時はフェミニズムや男性学が「既存の、マッチョな男性」へのカウンターであると自称することに、今に比べればまだしもリアリティがありました。もっとも、「今時の男は軟弱だ」との男性へのバッシングもまた、今より遙かに酸鼻を極めるものではあったのですが。
 本書には世間がフェミニズム、ジェンダーフリー論を支持し始めたと誇り、以下のような記述が度々登場します。

 さて、われら男たるもの、この文明史的転換を、「客観的に」見つめなおし、それこそ「男らしく」「いさぎよく」、古い〈男らしさ〉のこだわりから自由になれるのだろうか。
(p194)

 これは、男性にとっては、ちょっと悔しいことだけど、そのへんは、「男らしく」(?)フェアーネスの態度を貫きたいものだ。
(p257)


 これらはこの当時の彼らの決まり文句でした。つまり自軍の勝利に酔い、「お前ら、男らしさにこだわるなら『男らしく』男らしさを捨てる覚悟をしろよな」と皮肉っているつもりなのです。
 が、彼らはそもそもその「男らしさ」を否定しているのですから、復讐史観*7と同じ、ダブルスタンダードなんですよね。
 事実、男が、まさにフェミニスト様のご命令通りに「男らしさを捨てた」ことで、目下の男たちは「女ばかりずるい」と言うようになってきたわけです。しかしフェミニストたちはそうなると一転して、それへと罵詈雑言を浴びせるようになりました。
 今までひたすら十年一日の言葉を吐いてきた「男性学」者たちは果たして、これからそうした男性、そしてフェミニストたちへと届く言葉を、新たに紡ぎ出すことができるのでしょうか……?

*7 やられたからやり返していいのだという論法ですが、これは非常にしばしば、当人は悪いことをしていない人物であろうと、男という属性を持っているだけでその相手への攻撃をも正当化してしまう、手前勝手な理論です。

『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」

2015-07-24 21:15:54 | フェミニズム


■絶対に許さないよ。

 昨今のツイッター界隈を見ていると、フェミ批判喧しいですね。
 いや、むろん、ツイッターというのは任意に好きなアカウントをフォローするシステムですから、ぼくがフォローしている人々がそうした発言をしたり、リツイートをしたりするのは当たり前ではあります。が、その種の発言がtogetterでまとめられる度、多くの人々が注目し、コメント欄が賑わう光景を見ていると、これはあながちぼくの周囲だけの状況ではないように思われるのです。
 彼らはぼくなどではとても敵わないような豊富な知識、熱心な観察ぶり、理路整然とした分析力でフェミニズムの欺瞞を暴いています。

 ――なるほど、それならばフェミニズムはもう終わりではないか。

 いや、それが、どうも微妙なんですね。
 彼らは見ていると、「ツイフェミ」という言葉を使いたがる傾向があるように、ぼくには思われる。そしてぼくが感じる微かな違和が、その「ツイフェミ」という言葉に象徴されているように思うのです。
 ぼくは何度も、「ラディカルフェミニスト/ズム」という言葉を批判してきました*1。そして、そうした言葉を使いたがる人たちは、いわゆる「表現の自由」クラスタが多いのではないかと想像してきました。
 彼らは、グルの命令でフェミニストに逆らうことは許されていない。しかし同時に、フェミニストの非道さに腹を据えかねてもいる。そのダブルバインドに窮し、「法の盲点」を突くために生み出したウルトラCが、定義をねじ曲げた上で「ラディカルフェミニスト」という言葉を流布する、という作戦だったのではないでしょうか。
 ぼくは時々、彼らのことを「ライダーマン」と呼んできました。
 ライダーマンは『仮面ライダーV3』に登場するV3の相棒ですが、当初はV3の敵として姿を現します。本来は正義感の強い科学者だったのですが、人がよすぎるため、世界征服を企む悪の組織デストロンを正義の組織と信じ切って、その一員として活動していたのです。
 組織内の権力争いでヨロイ元帥に重症を負わされ、復讐を誓うのですが、それでも「デストロンそのものは正義の組織だ」→「デストロン基地で子供たちが殺されていくのを目の当たりにする」→「それでもデストロン首領だけはいい人だ」となかなか事実を受け容れることができません。子供を殺したりレイプしたりするくらいで悪者と決めつけるなんて短慮ですよね、わかります。



■絶対に許さないよ。

 彼は仮面ライダーV3と出会うことでようやくデストロンと戦う決意を固めるのですが、いざV3が首領にキックを放つと、思わず身を挺してかばってしまったりもします(V3は切れそうになりつつも、大人の対応でライダーマンを丸め込みます。社会人として、見習いたいところです)。
 そして、上の差し詰め「ツイフェミハンター」とでも呼ぶべき人たちもまた、ライダーマンなのではないか、とぼくには思われるのです。

*1 「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」など。

 さて、話が前後しましたが、この「ツイフェミ」そのものは(当たり前ですが)フェミニズム用語でもないし、例えば「ネット用語一覧」などに載るような人口に膾炙したワードではなく、かなりローカルな言葉です。
 要するに「ツイッターフェミニスト」の略称であり、「ツイッターのフェミニストのつぶやきはちょっと、非道いよな」と思った人々が、彼女らをカテゴライズするために作った言葉なのでしょう。
 しかしそうなるとツイッター以外のフェミニストはまともだ、というリクツに、自動的にならざるを得ない。そしてその「ツイッター以外」というのは、どうも学者などをやっているプロのフェミニスト、ということらしいのです*2。
 どうにも支離滅裂な話です。プロフェミだってツイッターくらいやっているでしょうに。
 彼らの発言を見ていくと、どうも自分たちのグルのガールフレンドたちはポルノ(或いは萌え的表現)に理解を示している(フリをしている)が、ツイフェミたちはポルノにインネンをつけてくる、許せぬ、というのが「ツイフェミ批判」の動機になっているようです。
 もちろん、リベラルのガールフレンドであるフェミニストたちも、ポルノを好ましく思っているとはとても思えない、ということはぼくが幾度も幾度も主張してきましたが*3、彼らはそれだけは認めるわけにはいかないようで、ぼくがいかにご注進申し上げても、決して聞く耳を持ってはいただけません。
 その意味でこの「ツイフェミ」という言葉は、「プロフェミを延命させる」という目的を持って生み出された、「ラディフェミ」「ウヨフェミ」などと同様の、捏造された新たな造語であると言わざるを、ひとまずは得ません。
 念のために申し添えておきますと、「ツイフェミ」という用語を採用している人たちも、一枚岩ではありません。彼らの中にはほとんど同意できない人、かなりの部分が同意できる人、同意できないものの人柄的には好感の持てる人、いろいろな人がいます。
 が、しかし、どうしても気になるのは、彼らが「ツイフェミ」と呼ばれる市井のフェミニストたちだけは執拗に叩く割に、権力を持ち社会的発言力を持ったプロフェミたちにはさほどの執着を見せない、というのは何だか違わないか、ということです。

*2 一番ラディカルなのは、「ネットにはびこる自称フェミニストはみんな偽物」でしょうか。残念ですが表題の主張の根拠になっているのはまとめ主の「願望」だけのようです。
 ちなみにぼくは既に四年前に、こうした傾向について指摘しています。
*3 「夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)」など。



 昨今、ツイッター界隈では「弱者男性」と「フェミニスト」という対立構造を論じることが盛んです。フェミニストは強者男性には楯突こうとしないのに、「弱者男性」は躍起になっていじめていると。
 しかしこうしてみると、「ツイフェミ」を叩こうとしている人たちにも同じことが言えるのではないでしょうか。
 彼らは「ツイフェミ」の度を超した男性憎悪の感情について批判することが多いのですが、むしろそれを出版物で垂れ流してきたのはプロフェミの方です。ツイッターは媒体の特質上、それがいささか過剰に表現されるだけで、「学問」を装ってヘイトを垂れ流すプロフェミの方がよほど悪質でしょう。
 そして、ここが肝心なのですが、彼女らの「男性憎悪」はフェミニズムを正しいと仮定すれば、正しいのです。「男性がいついかなる場合も女性を圧倒的に抑圧し、搾取している」のであれば、女性が男性を憎悪することは、不当とは言えなくなるのですから。ツイフェミたちが比較的ポルノや萌えなどに否定的なのもそれで、むしろ、論理的整合性を保っているのは彼女らの方です。
 正直、「ツイフェミ」を場当たり的に批判する行為というのは、彼女らのバックにいるプロフェミに対する考察が、いささか欠けているように思えてなりません。
 先日、三十路茄子氏から、フェミニストの兵頭新児へのバッシングは度を超している、島本秋(現・食人族)氏の方がよほど過激なことを言っているのにそれに比べてもそうだ、と言われました*4。
 これはまあ、恐らく著作があるのでランドマークとしやすいから、ということがあるのでしょうが、更に言うと兵頭はその割に島本氏などと比べて支持者が少なく、デマを流布してつぶすことが容易だとの計算が、彼ら彼女らにはあると思われます。
 しかしもう一つ言うと、ぼくに比べて「ツイフェミハンター」たちがフェミから叩かれないのは、彼らはあまりプロフェミの著作の批判はしないから、ということも一因なのではないでしょうか。
 こうして見ると、「ツイフェミハンター」たちの振る舞いは、何だかデストロン首領に生命懸けの忠誠心を保持したままでデストロンと戦い、そのくせやっつけるのは戦闘員ばかりがせいぜいの、ライダーマンに見えてきます。

*4 主なものを上げると「ガンダム事変」「伊藤文学事変」でしょうか。ことに「ガンダム事変」をきっかけにぼくのストーカーになった人々はものすごく、「ちくわ」などといった狂人は最近では「兵頭が誰それをスパブロ依頼した」とのデマを流しているのですが、そのデマの根拠となっているのは、「兵頭が、スパブロ依頼をした誰それという人物に、『DMをくれ』とリプしていた」と言うだけのことです。本当、キチガイの考えることはわけがわかりません。

 ちなみにライダーマンはデストロンに在籍していた頃、学者としての腕を生かし、怪人を製造していました。その一体、タイホウバッファローは背負った重火器で味方の戦闘員もろとも、仮面ライダーたちを葬り去ろうとしました。そしてデストロン首領はその怪人を作っていたライダーマンすらも、用済みになれば殺すつもりであったと語っているのです。


■とことんブラックな職場です。

 きっと、ツイフェミハンターとツイフェミが争いを繰り広げている中、タイホウバッファローはその両者を皆殺しにするという無差別爆撃作戦を展開するのではないでしょうか。
 番組の最終回、ライダーマンは悪に荷担していた自らを恥じ、デストロンの東京全滅作戦を阻止するために爆弾ロケットを宇宙で爆発させると共に、大空に散っていきました。仮面ライダーV3はその勇気ある行動に感動し、「俺は君に仮面ライダー4号の名前を贈るぞ」と叫びます。
 それでは果たして、ツイフェミハンターたちは、仮面ライダーになれるのでしょうか
 それともデストロンハンター*5みたいに、いつの間にか消えている人、になってしまうのでしょうか……?

*5オタク特有のものすごい細かいネタで恐縮です。ライダーマン登場の直前、V3の相棒として「デストロンハンター」というのが登場したのですが、役者さんも大根で、大した活躍もしないまま数話で消えてしまいました。KTB師匠も似たような運命を辿りそうで、今から心配です。

■次回予告■

 とう! おっす! はぁ~い、兵頭新児だ。
 やっぱり君、今日もまた読んでくれたね。
 さて、次回は「男性学の専門家」と名乗る男性解放論者が出て来るんだ。
 男性を解放すると称しつつ、力のない中年男性ばかりを狙って殺していくんだ。怖いぞ~。
 そして、今週のお約束。プロフェミが怖いからってツイフェミばかり叩いてちゃダメ。プロフェミの本は「えいや」って読んでブログにレビューを書いちゃうんだ。
 わかったね、約束したよ。
 それじゃあね、今度は「おっす」じゃなくて、ぶいちゅり(はぁと


【予告編】仮面ライダーV3 次回予告別バージョン【音声のみ】


お知らせ

2015-07-18 00:01:21 | お知らせ
ネットマガジン『ASREAD』様での連載、随分と間を開けてしまいましたが、遂に今回で最終回です。
ドクター非モテの非モテ教室(最終回)」が掲載されました。

前回に引き続き、「自ギャグの詩」についてご説明していますが、最後では軽く今までのお話をまとめ、伊集院のトークの本質が「喪男の仕事」≒「喪の仕事」であると語っています。

希望を胸に、すべてを終わらせる時…! 妹の勇気が世界を救うと信じて…!

■オマケ■
すみません、以前は記事にあわせた動画を紹介していましたが、ちょっと現状では新規の動画を用意するのは困難です。
今回の記事にある放送を聞きたくなった方は以下を見てみてください。

自ギャグの詩7
(8:25~)
自ギャグの詩8
(52:10~)

夏休み男性学祭り(その0:『男がつらいよ』)

2015-07-04 23:51:57 | レビュー


 みなさん、ご存じですか?
 これからは「男性学」の時代です。
 ぼくたち男性は、知らず知らずのうちに「ジェンダー」というものに縛られ、生きています。
 ジェンダーとはぼくたちが社会から刷り込まれた、「男らしさ/女らしさ」という悪しき価値観。
 しかしこれからの時代、「男らしさ」より「自分らしさ」です。
 自治体の方々、年度予算の捨て場に困ったら、市民セミナーで私の「男性学講座」などいかがでしょう?
 高齢者からお年寄りまで、ためになる講義をご提供できること請けあいです。
 ほら、蕎麦打ちの講習とかもういいでしょ? お願い、子供の養育費も払わなきゃいけないし、ね、お願いっ!!

 ――というわけで、以前から繰り返しているように、バブルのちょっと後くらいに「メンズリブ」というのが少しだけ流行した時期がありました。彼らは「男の生きがたさについて考える」と称しつつ、しかし結局は「フェミニズムに平身低頭すれば、お前たち罪深き男性も救われるぞ」という結論しか用意しておりませんでした。
 言ってみれば「脱成長」ならぬ「脱男性」。いや、事実そうしたタイトルの本が、この当時にあったのです。
『エヴァンゲリオン』の上映会に行ったら、ヘンな宗教に誘われた、といった感がなきにしもあらずです。恐らく当時はフェミ予算が潤沢で、事業拡大のために荷物持ちが欲しかったんでしょう。
 そんな「メンズリブ」運動では当時、伊藤公雄師匠が「男性学」の第一人者と自称しておりました。
 が、実際に日本で一番最初に「男性学」を構築しようとしたのは渡辺恒夫教授だったのです。彼は『男性学の挑戦』という本も編みましたが、しかし「男性の生命が女性のそれより遙かに軽視されていること」などを指摘し、フェミニストたちにバッシングを受け、表舞台から姿を消していったのです*1。
 むろん、この「メンズリブ」の流行は数年で過ぎ去り、フェミニストたちも「フェミニズムは男性をも救う」などとはすっかり口にしなくなりました。
 ところが実は、去年辺りからこれがまた、復活の兆しがあるようです。 昨今は「メンズリブ」という呼称は聞かれず、「マスキュリニズム」と呼ばれることが多いような気がしますし、本書においては専ら「男性学」とのフレーズが連呼されていますが。
 しかしここまでフェミニズムが撤退戦を続ける中、何故男性学がまさかの復活を遂げたのでしょうか……?

*1 千田有紀師匠『ジェンダー論をつかむ』では

日本で男性学を提唱したのは,伊藤公雄です。


 と書かれていますが、さすがにこれはアンフェアだと思います。
 ただし、先に挙げた「脱男性」を唱えたのはこの渡辺恒夫教授でした。今にして思えば彼も左派寄りではあったのですが、しかしその思想は決して男性を憎悪するものではありませんでした。


 さて、そんなわけで今回ご紹介するのはつい先日に出版された、田中俊之師匠の『男がつらいよ』。ですが、まあ、何と言いますか、先に挙げた伊藤師匠の90年代の著作、『〈男らしさ〉のゆくえ』とキホン、言っていることは変わりません。
 例えば、「男は黙ってサッポロビール」、「24時間戦えますか」といったキャッチコピーを持ち出し、「そうした頑固さ、マチズモアピールは古い」と腐すなど。若い方はご存じないでしょうが、それぞれ70年、80年代のCMのキャッチコピーです。しかし実は、この論調は既に二十年前の「メンズリブ」で盛んになされてた「古い」モノであり、このこと自体が彼らがこの二十年間一歩も先に進んでいないことを雄弁に物語っています。
(ただし、バブル期に打たれたリゲインの「24時間戦えますか」のCMが今風に改訂され「3、4時間」になったこと、本書がそれに好意的に言及していることなどを見ると、彼らのまさかの復活の裏事情も、何とはなしに透けて見えてきます)
 この種の本の通例通り、師匠は男性への苛烈な憎悪を隠そうとはしません。
 師匠は「男は好戦的だ好戦的だ」と繰り返し、ガンの飛ばしあいに終止符を打つべく、「目があったら微笑みかけよう運動」というものを提唱します。しかし、見ていくと好戦的に他人へと攻撃を仕掛けているのは師匠自身の方であるように、ぼくには見えるのですが。事実、この運動について書かれた箇所でも「誤って女性がやると軽くストーキングされる恐れがあります。ご注意ください。」と男性を犯罪者扱いすることを忘れません。
 オッサンの間で「最近の若年男性は草食系男子だからオヤジがモテるぞ」との風説が流布しているが(してるんでしょうか?)真に受けるな、女の子に若いと言われたあなた、うぬぼれるな、今の子は優しいからお世辞を言っているのだ、などと根拠のわからぬ断定をしたりします。

言葉通りに真に受けて積極的にアプローチすればセクハラ間違いなしです。
(中略)
アルバイト先などで問題が起こらないように。女子学生には中高年男性に年齢を聞かれたら、語気を荒げて「年相応だよ!」と答えるように指導しています。(p166)

 これ、ぱっと見では「女の子が自分の年齢を聞かれた時」と読めるのですが、どうも文脈からするに、「オッサンが女の子に自分がどれくらいの年齢に見えるかを聞いた時」という状況を想定しているようです。しかしこんな「指導」では起こらなくてもいい問題が起こるだけだと思うのですが、今の子は聡いですから、こんな愚かしい「指導」は黙ってスルーすることでしょう。

 私は大学でジェンダー論を教える立場ですから、講義で学生に、「女性が男性を無意味に持ち上げてしまうから、いつまでたっても男女平等が実現しない面があると伝えました。(p41)

 すると女子大生から「女が男に『すごい』というのはバカにして言っているのだ」とのコメントを頂戴し、「目が覚めるような思い」がした師匠は、

「すごいね」の後ろに隠された「バカだね」を省略せずに、「すごいバカだね」とはっきりいってあげるのは有効な手段だと思います。(p44)

 と絶叫するのです。
 一つだけ言えるのは今時、他人に無用なケンカを売って歩くマッチョな男は絶滅危惧種ですが、田中俊之師匠こそがその貴重な一人である、ということでしょう。
 すごいバカだね(ニッコリ

 暗澹たる想いでページをめくり続けると、二章は「仕事がつらい」と題され、男の幸福度が女のそれよりも低いという『平成26年度版 男女共同参画白書』の調査を持ち出します。
 ん? 少しは期待できるかな?
 が、師匠は

性別よりも就業状態が幸福度に大きな影響を与えているのですから、この数字は男性が不幸かどうかを判断する上で、それほど参考にならないといっていいでしょう。(p74)

 と断言してしまうのです。
 失業者の幸福度が最も低く、男女差があまりないことを論拠にしているのですが、おかしな話です。パラメータに「主婦」の項がある以上、ここでいう女性の失業者は未婚女性に限られるはずだし、主婦の幸福度が高い(正規雇用者の倍近い)こと、また女性においては「退職者」の幸福度が主婦と同じくらいに高い(当たり前ですが、男性のそれは極めて低い)ことを考えると、全く非論理的な主張と言うしかないでしょう。




 上の図は本書からの引用ですが、これを見ても一目瞭然であるように、また師匠も指摘する通り、正規雇用者以外は全て、圧倒的に女性の幸福度が高いのですから、誰がどう見ても、「女性は男性よりも幸福である」、「働くことは幸福にはつながりにくい」という結論以外はないはずです。
 どうもこの「男の方が不幸だ」という数字がNHKの番組で話題になったようで、この箇所自体、その火消しのために大慌てで書かれたもののようです
(それにしても「主婦」の項と「退職者」の項があるということは、女性のそれは旦那のいない一人暮らしのみの数字なんですかね)
 その後は日本の就労形態はおかしい、「社会人」という呼称はおかしいなどのご高説が続きます。要は「日本人は働きすぎだ」というアレですね。なるほど、それ自体は異を唱えるつもりはありません。となると、女性に対しても盲目的な社会進出をよしとはしないのかな……と思っていると、「女の非正規の方が多い、女の方が大変」などと言い出しており(102p)、まあ、お察しです。

 一方、SMAPのバラドル路線を称揚していることが象徴するように、本書はキホン、「若者たちの味方」といったスタンスを取り続けます。
 しかし、いかに師匠が草食系男子を持ち上げようとも、当の女性が草食系男子を愛さないのは事実です。女性誌の特集におけるそうした傾向を腐している辺りはまあ、評価できるのですが、この種の論者に共通の致命的欠陥で、師匠には女性こそ伝統的ジェンダー規範から一歩も動かず、その旨味を存分に味わっている側だ、という視点が決定的に欠落しています。そこを見ずに男性ジェンダーだけを腐し続けたところで、解決する問題は何一つないでしょう。
 読んでいて奇妙なのは、『スラムダンク』*2の木暮君を持ち出し、彼に人気がない、女性のみなさん、ファンになってやってくれと哀願する箇所です(節タイトルは「木暮君の良さを理解してもらいたい」です)。

 地味です。確かに地味ではあります。しかし、魅力的だなと思った女性もいるのではないでしょうか。そうした判断をもっと信じてください。世間でいわれている理想の男性像がどのようなものであっても、自分と相性があうかどうかは全く別問題なのです。(p144)

 木暮君にここまで萌える人というのを、ぼくは初めて見ました。
 ここは、「草食系男子」という概念に萌える森岡正博師匠が「女性たちよ、目覚めて(草食系男子のよさをわかって)くれー!!」と哀願し続ける奇書、『最後の恋は草食系男子が持ってくる』を想起させます*3。
 何と言うか、女性に「本当は俺のこと、好きなんだろ? 素直になれよ」としつこくつきまとうストーカー男みたいで、見ていてキモいです
 彼らから見て取れるのはフェミニスト村で村の掟を盲信して育ってきた者たちが、いよいよその掟と現実との齟齬を無視できなくなり、どうつじつまあわせをしていいか悩んでいる、痛ましい姿です*4。
 事実、第3章は「結婚がつらい」と題され、男性が女性の「優しくて、自分をリードしてくれる人がいい」というダブルスタンダードな欲求に苦しめられていると指摘しており、まあまあここは評価できますが、「今まで男が勝手だったのだ」などと言い逃れるのは忘れません。以降も「女に夢を見すぎるな、お前の女に対する理想は本当のお前のものではない(メディアなどにすり込まれたものだ?)」との珍妙なお説教が続きます。

*2 師匠は妙に『スラダン』が好きで、わざわざ「今の若い子に『スラダン』の話は通じない」と嘆き、また

 ただ、若い人にいいたいことがあります。このマンガを読んでいないなんて人生を損しています。上司と話をあわせるためにも、ぜひ学生のうちに全巻読破しておいてください。よろしくお願いします。

 とまで言っています。あまりに唐突な『スラダン』推しが奇妙でつい引用してしまいましたが、田中師匠、ご当人自身が嫌悪している「ウザいオヤジ」そのままではないでしょうか。
*3 『最後の恋は草食系男子が持ってくる』
*4 時々、ぼくはリベラル寄りの御仁でフェミニズムの欺瞞に気づきつつ、捨てきれない人々をライダーマンに準えてきましたが、その意味で彼らもまた、ライダーマンであると言えます。


 いえ、とは言え、「若年男性を誉めてるんだからいいじゃん」といった評も可能かも知れません。
 90年代当時の「メンズリブ」では論者たち(多くは団塊の世代だったでしょうか)が目上の「老害ジジイ」どものマチズモを叩き、返す刀で若者たちをも一刀両断、裏腹に自分たちだけは男の中でもマシな部類だと強弁する(彼らのヒーローであろう健さんがCMなどでソフト路線になったことを持ち上げるなど)という醜悪奇怪な論調が目立っておりました。本書のスタンスは、それよりマシだとも言えるでしょう。
 事実、第4章「価値観の違いがつらい」ではオタクについても語られていますが、キホンは肯定的です。
 なるほど、田中師匠はオタクの理解者なのだな。
 ……いえ。
 実のところ、ぼくが田中師匠の著作を採り挙げるのは、これが初めてではありません。
 随分昔、『男性学の新展開』という本についても採り挙げたことがあります*5。
 しかし……ここで師匠は、「オタクはホモじゃないのでケシカラン」と書いておりました。いえ、これはかなり大幅な意訳ではあるのですが、要するに「オタクは男性のヒエラルキーの中では下だ。しかし同性愛者のような真のマイノリティとは違い、しょせんは罪深きヘテロセクシャル男性の一味なのだ」といった摩訶不思議な「評論」がなされていたのです。
 さすがに今回、そうしたdisがナシなのは、オタクの社会的地位の向上の結果ではあるでしょう。
 が、もう一つ、理由があると思うのです。
 昨今、「脱成長」を唱えたい左派が、貧困に喘いでいる人に「清貧を貫け」と心ない言葉をぶつける傾向があるように思います。これは「弱者」と称する金蔓からの既得権益が捨てがたく、今更「弱者地図」のアップデートができない人々にも、全く同じことが言えるでしょう。
 それは上野千鶴子師匠の子分である古市憲寿師匠が「牛丼福祉論」を唱えたり、或いはオタクブロガーの海燕師匠が「オタクはリア充だ、不平を言うな」と絶叫したり、或いはまた弱者男性の「このままでは死にます/一生童貞です」との訴えに、左派やフェミニストが「はい死んでね/童貞でいてね」と返していたりといった状況として、顕在化しています。
 それこそが目下、いきなり「男性学」が復活してきたことの原因ではないでしょうか。
 本書の第1章の節を見ていくと「競争を宿命づけられて」「競争の果てに残ったもの」と題され、とにもかくにも競争原理が悪しきこととして否定されています。第3章「結婚がつらい」では「結婚ばかりが幸せではない云々」と下らないお説教が続きます。先に引用した女子学生への「指導」は男女関係を破綻させるものではあっても、豊かにするものではありません。第4章「価値観の違いがつらい」では、よりにもよってオタクの生き方を「アトミズムだからエラい(大意)」というトンデモない理由で称揚しています(192p)。
 自分以外の男性には「脱男性」を説きつつ、自分一人だけは無反省にマチズモを振り回す「脱男性ニキ」、田中俊之師匠。
 そして、自分以外の人々には「脱成長」を説きつつ、自分たちだけは既得権益を守ろうとする「脱成長ニキ」たち。
 脱成長ニキたちから「男たちよ、成長戦略はもう止めよ」と言ってほしくて、脱男性ニキにおこずかいが行っている
 想像ですが、それこそが「男性学」復活の原因なのではないでしょうか。

*5 『男性学の新展開』