兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ろりともだち(その3)

2011-08-13 04:19:46 | アニメ・コミック・ゲーム

 前回のお話は、一言で言えば「ろりともだち」という怪作のために男性フェミニストと女性フェミニストの間に亀裂が生じてしまったのだ、という指摘でした。
「ろりともだち」は「男の友情」を描いた物語でしたが、フェミニスト村で生まれ育った東師匠は「友情」という概念を知らず、それを「ホモセクシャリティ」と表現した。それに対してフェミニストたちは「違う、まさにその漫画で描かれた心理こそホモソーシャルである、それは決して認めてはならない、悪しきものなのだから」といきり立った、という経緯です。
「ろりともだち」の赤井と山崎君の行動は決して許せないものではあっても、その心情は汲み取ってやりたいと考える東師匠と、何より「女を無視して男同士で仲良くしている」そのことが絶対に許すことのできないフェミニスト、という構図です。


 とは言え前回のエントリ、まとめきれずに投げっぱになっていたので、読んでいてよくわからない箇所もあったかと思います。
『ときメモ』の下りなど、意味不明ですね。
 要は「女の子に全方位でいい顔をするとしっぺ返しを食らうよ」と言いたかったのです。
 女というのは嫉妬深いものですし、中でもフェミニストというのは細かい流派に分かれ、互いにいがみあっている存在です。だからちゃんと「攻略キャラ」を絞って行動しようよ、ということを、老婆心ながら申し上げたわけですね。
 さて、では東師匠(そして有村師匠)の攻略キャラとは、一体誰でしょうか。
 昨今、「ラディカル・フェミニズム」と「リベラル・フェミニズム」との違いが強調される傾向にある、ということは幾度か書きました。
 ウィキペディアで「フェミニズム」の項を見ると、


フェミニズムは、近年、リベラル・フェミニズムと、ラディカル・フェミニズムとが対立している。フェミニズムの思想は多様であり、一本の思想と考えることはできない。


ラディカル・フェミニズムをフェミニズム全体を代表するものとして一般化するのは間違いである。リベラル・フェミニズム勢力のように女性が楽しめるような非暴力的なポルノを肯定する勢力もある。


 とあり、リベラル・フェミニストたちがぼくたちに対してまるでローゼン閣下よろしく、「我々はあなた方の味方ですよ、秋葉原のオタクのみなさん」と揉み手をしている様が瞼に浮かんでくるようですw
 なるほど、と思われたかも知れません。リベラル・フェミニストの忠実なしもべである東師匠、有村師匠を口汚く罵っているのはラディカル・フェミニストなのだな、と。
 事実、例のtogettrを見るとフェミニストたちは東師匠を


宮台よりましだと言ったことを撤回します。


宮台の友達にやはりろくな奴はいないな。。


「AVレイプ斡旋家 宮台真司」 「ペドレイプ激賞家 東浩紀」 何でどいつもこいつもレイプが好きなの?.


 などと罵り、また、有村師匠のウォッチスレでも確か、「有村は宮台に対して肯定的だが、宮台も既にフェミニストに否定された人物だ云々」といった意味あいのことが書かれていたように記憶しています。要はポルノ規制派のフェミニストは、ポルノ擁護派の宮台センセイや師匠たちが疎ましくてならないのですね。
 昨今、児童ポルノ規制法に対してオタク側の規制反対派が異を唱える時、「ポルノを規制しようとするフェミニストども」を敵視する論調が目に着きます。
 が、それに対しては規制反対派のオピニオンリーダー的な層が、「いや、フェミニズム自体は決して敵ではないのだ」と論調の舵取りをする傾向にあるように思われます。
 そうして見ると、東、有村両師匠の「攻略キャラ」はリベラル・フェミニストであり、それ故ラディカル・フェミニストたちに攻撃を受けているのだ、と解釈すればひとまずの辻褄は合います。
 しかし、とは言え、ではリベラル・フェミニストたちは本当にぼくたちの味方なのか、となるとそれは疑問です。一応リベラルの側であり、エロ漫画などのヴァーチャルなポルノに対しては容認派のように(現時点では)振る舞っている上野千鶴子センセイも、まず男女の性差そのものを認めていない、その意味でラディカル・フェミニスト以上にラディカルな思想の主であると言うことは「チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”」などでも書きました。
 ぶっちゃければ、ぼくにはラディカル・フェミニストとリベラル・フェミニストの差異というのはポルノと国家権力とを秤にかけて、(政治的な計算から)ひとまず表現の自由に重きを置いている(ふりをしている)のが後者というだけで、その本質に変わりがあるとは思えないのです。
 こう考えるとリベラル・フェミニストたちは左派の大きな勢力側に取り敢えずついた、立ち回りの巧妙な人たち、という見方も可能です。その意味で師匠たちはむしろクラスで人気のある女の子、詩織ちゃんの攻略に成功したがため、ブスに疎まれている人たち、まさに憎むべきリア充どもであると捉えた方が正しいのかも知れません。
 そうして見ると、本当に「(´;ω;`)ウッ…可哀想すぎます。」と同情してみせるべきは師匠たちではなく、師匠たちに憎悪を向けるラディカル・フェミニストたちである、とも言えましょう。繰り返すようにリベラル・フェミニストたちだってポルノを好ましく思っているとはとても思えないのですから、ラディカル・フェミニストたちからは上野センセイたちは男性たちに媚びて利益を得ている、裏切り者のように見えているはずです。


 さて、前回の予告では「今回はロリ側の悪口言います」とか書いていた割に、結局長々とフェミ側の悪口を続けてしまいました。
 とっととロリ側の悪口を始めましょう。
 ぼくたちの住むこの近代社会は、個々人の人権をできうる限り尊重することを至上の価値にしています。しかし当たり前の話ですが、個人の欲望、エゴは往々にして他の個人のエゴとぶつかりあいます。近代における国家の役割はその仲裁役であるとすら言えます。
 では個と個のぶつかりあいをどう仲裁するのか、と考えた時、(これは大は国家から小は子供のケンカの仲裁をするお母さんまで)どうしても、「弱者性の強い個こそ率先して守られるべきである」という判断がなされてしまう傾向が出てくるわけです。
 女性という存在に対して弱者、尊重されるべき「個」としてのキャラづけを与え、ヒット商品として世に出すことに成功したフェミニズムは、まさしく近代社会の徒花とも、必然的存在とも言える……といったようなことは拙著でも述べました。
 そしてまた、フェミニズムは男性という存在を全て一枚岩の悪者に仕立て上げることで、女性という存在の仮想敵として設定することに成功した陰謀論でもあります。
 しかしそれは何もフェミニストだけの異常性癖というわけではなく、「個が一番尊いのだ」というイデオロギーを持つぼくたちの社会では、誰しもが自らのエゴを正当化したいがあまり、極めて容易に、「ワタシのエゴを受け容れないやつは国家権力の手先」という陰謀論へと導かれてしまうのですね。
 左派は往々にして物事を「国家権力を振りかざす悪者/キヨラカな弱者である我々個人」の対立構造で把握したがりますが、それも同じ理由によります。
 これらの構図を今回の騒動に当てはめると、「幼女とセックスするのは(例え漫画と言えど)許せぬ/漫画を自由に楽しみたい」というそれぞれ個人のエゴがぶつかりあったものである、と取り敢えず考えることができます。
 いずれにせよ本件については漫画を誉めただけの東師匠をレイプ犯呼ばわりしているフェミニストたちにどう考えても落ち度があり、理詰めで考えれば、彼女らの擁護はなかなか難しいと言えます。
 しかし、よくよく考えてみれば、東師匠を「ローゼン閣下くらい俺らの仲間」「ツイッター芸人」「エロ漫画評論家」「
鍵儲」と正しい認識で見ていたのは、ぼくたちくらいのものです。
「何だか知らないけれども東大のエラい先生が日本全国を幼女をレイプして回る漫画を激賞していたらしいぞ」と聞いたら、どうでしょうか(むろん、師匠は「行動は肯定できない」と言っているのですから、そこを無視するフェミニストたちはどうかと思いますけれども)。
 結構以前の話ですが、児童ポルノ規制法の反対派が、「
赤いランドセルと黄色い帽子、靴以外は全裸の女子小学生が、その全身の肌を切り裂かれて赤い傷を作っている」という大変に素晴らしいエロ同人誌の表紙をテレビだか何だか公の場で掲げて、オタク間からも顰蹙を買った、という一幕があったはずです。
 本人たちにしてみれば、「表現の自由の素晴らしさ」を謳いたかったのでしょうが、そしてぼくたちの目から見ればそれは確かに「
素晴らしい表現の自由の結果」なのですが、果たしてそれを一般ピープルがみたらどう思うか、です。
 反対派のコアな人たちは、「表現の自由」という絶対正義に寄りかかるあまり、そうした感覚が麻痺しきっている人たちが多いように、ぼくには思われます。
 今回の漫画についても、まず普通の人であれば生理的嫌悪を覚える種類のものなのだから、清々しい顔で「正義は我にあり」とばかりも言いにくいように思います。
 確かにフェミニストたちは「レイプは許せない」という正義に依拠するあまり、バランス感覚を逸しています。しかしぼくたちも「表現の自由」という正義に依拠するあまり、バランス感覚を逸している部分が大いにあるのではないか。
 そうした正義と正義のぶつかりあいは、傍から見れば、それこそ『仮面ライダー電王』ファンと『仮面ライダーW』ファンの大バトルと同レベルの、「何バカなことで争ってるんだ、あいつら」なものに見えてしまうのでは……いや、そうした場末のバトルになればなるほど、世間はまだしも了解可能なフェミニスト側の味方をしてしまうのではないか。


 そして、もう一つ。
 ぼくは前回のエントリでこの場末バトルに対して


 何だかフェミニストたちと東師匠が先を争ってホモのご機嫌伺いをしている光景が見えてくるようで、気分が悪くなってきます


 といった感想を漏らしました。
 おわかりになるでしょうか。
 物語用語に「マクガフィン」というものがあります。お話の中でイイモノとワルモノが奪いあうお宝を指す言葉です。ことに特撮やアニメの世界では「ふっふっふ、これさえあれば世界が征服できるのじゃ」なアイテムが度々マクガフィンとして登場します。
『仮面の忍者赤影』でいうところの「デウス・マリア・サタンの鐘」であり「黄金の仮面」であり『マシンロボ クロノスの大逆襲』でいうところの「ハイリビード」であり『世界忍者戦ジライヤ』でいうところの「パコ」です。
 今回のバトルは、ぼくには師匠とフェミニストたちが「ホモ」というマクガフィンの争奪戦をしているようにしか、見えませんでした。そこでは「ホモ」というアイテムを手に入れた者に正義の女神が微笑む、とのルールがまるで、あらかじめ決められているかのようです。
 そもそも、女性や子供という立場に立っているフェミニストたちは最初から、「自らが、マクガフィン」な存在でもあります。
 ぼくたちに必要なのは、そうした議論の持って行き方自体に欺瞞があるのだ、と気づくことなのですが、少なくとも師匠たちの振る舞いはフェミニストたちを羨望し、「ボクたちも自らがマクガフィンな存在になりたい」と考えているようにしか、見えません。
 東師匠が「ロリコン」と「ホモ」とを同じ「セクシャルマイノリティ」だからと、妙に寄り添わせたがっていることと、フェミニストたちがそうした師匠の手つきにこそ、怒り狂っているように見えることは、実に示唆的です。
 ぼくは以前、フェミニストたちの「マクガフィン性」を「フェミまんじゅう」と表現しましたが、ここではフェミまんじゅうのシリーズ商品としての「ホモまんじゅう」の奪いあいが行われていたのだと言えます。
 しかしぼくたちはフェミまんじゅうやホモまんじゅうによって飢えを満たすという選択を、毅然と拒まなければならないのではないか。
 師匠たちの振る舞いを見ていると、そう思えてならないのです。


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ろりともだち(その2)

2011-08-09 03:16:09 | アニメ・コミック・ゲーム

 フェミニズムに対してある程度厳しい批判をした拙著が、フェミニストたちに陰口をたたかれたことは今までにも幾度か書きました。むろん、それ自体は想像のできたことではあります。
 が、そうした中でも「男性フェミニスト」たちの罵詈雑言たるや、ある意味では女性フェミニストよりも支離滅裂な感がありました。
 有村悠さんという、『ユリイカ』に書いていらっしゃるライターの方は、(ご本人のブログをちらちらと見ると、若い男性なのですが)典型的古典的なフェミニストのご様子。ぼくや、Amazonで拙著に肯定的な評価を下してくださった方々までを


バカか?

 

どっから湧いてきたんだお前ら。まあどこぞで見たようなネットスラングがレビュー内に出てくるあたりからも、どういう層が読んでいるのかは手に取るようにわかるのだが。


 とこき下ろすという男らしさ。更にぼくの本をご覧になっていないようなので「読んでから貶してくれ」とブログで申し上げたのですが、ご本人は意にも介さないご様子で、


バカじゃねえの?

 

残念ながらこの本にそんな必要は認められない。表紙からわざわざネガキャン張ってくれてありがたい限りだ。(引用者註・読む必要はない、表紙も読む気を起こさせるものではない、との意味のようです)


 などと得意げに絶叫しておいででした(しかしこの種の「読まずに貶す人」って、往々にして貶す点に困って表紙に言及したりしますよね)。
 いずれにせよ読まずに貶すことに全くブレのないこの侠気、『ユリイカ』のライターはやはりモノが違う、と申さねばなりません。
 しかし。
 ここまでフェミニズムの全てを受け容れようと必死の彼なのですが、ちょっと調べてみるとフェミニストたちに蛇蝎の如く疎まれているご様子なのです。
 いえ、ぼくもそれほどちゃんと調べたわけではないのですが、彼は2ちゃんねるのネットウォッチ板にスレッドを立てられ、そこで彼を監視しているのがどうもフェミニスト諸氏であるご様子。
 (´;ω;`)ウッ…可哀想すぎます。
 
思考の一切を停止してまでフェミニストに媚びを売り続けてきた彼が、何故そのフェミニストからすら、一片の愛すらも与えてはもらえないのか。


 さて、ここでぼくたちは彼と似た境遇にある人物のことを、想起せずにはおれません。そう、ツイッター芸人の東浩紀師匠ですね。
 彼もまた思考の全てを放棄してフェミニズムの理論を受け容れておきながら、フェミニストたちから「
性犯罪者、死ぬべき」とまで言われてしまいました。
 (´;ω;`)ウッ…可哀想すぎます。
 何故彼らはここまで報われないのかを考え、脳裏にかすめたのが『ときメモ』です。
 恋愛シミュレーションゲームの先駆けとも言える本作、女の子とつきあって親密度を増していくゲームなのですが、複数の女の子と親密度を高めすぎると、「嫉妬爆弾」が膨らみ、女の子へのフォローを怠るとそれが爆発してしまうのです。どうも、この辺りに秘密がありそうです。「女の子には親切に」と思って女性に分け隔てなく接している男の子は、或いは決してモテることなく、生涯を終わってしまうのではないでしょうか。ましてや、自分以外の女性の全てを深く深く憎んでいる女の子が、攻略ターゲットの場合は……。


 東師匠をバッシングしているフェミニストたちの言を、少し詳しく見ていきましょう。
 と言ってもぼく自身、前回は「(フェミニストの言は)採り上げるべき価値のあるものはほとんどありません。」と書きましたし、その見解は今も変わっていません。
 彼女らの罵詈雑言はとにかく東師匠がペドファイルに親和的なことを言った点に向けられており、ただその時点で絶対的に許すことができないのだとの彼女らの意見は、「作中の行動を肯定しているわけではない」としつこいくらいに前置きして、「しかし胸を打つ点がある」としている師匠の発言とは見事なくらいに噛みあっていません*1。


*1余談になりますが、東師匠はペドファイルというものを成人女性からの逃避であるという前提で、


成人女性の面倒くさいセクシュアリティに直面するのが男性にとっての正義だとは、まったく思いませんね。(だって性別逆にしたら、女性もそう言うんじゃないの?w)


 とおっしゃっています。
 これはなかなかラディカルな女性批判です。そしてまたここには、「ジェンダーフリーを謳うフェミニストであれば、男だって男らしさを強いられてつらいのだとの自分の意見にも賛同してくれるはずだ」との、男性フェミニストにありがちな女性フェミニストへの仄甘い幻想も垣間見られます。
 しかし残念ですが、フェミニストはここに真っ先に、「女のセクシュアリティから逃げるな」と噛みついていらっしゃいました。フェミニストを含めた全女性は、「女性性の旨味は捨てず女性性の不利さには青筋立てて金切り声を上げる」という筋金入りのダブルスタンダードの塊であり、彼ら男性フェミニストたちの純情な正義感は、女性フェミニストには決して通用しないものなのです。


 ただ、とは言え。
 しかし東師匠にも瑕疵はあります。
 見ているとフェミニストたちの発言には


セクシャル・マイノリティの人は怒っていいと思うよ「一緒にすんな」って


共謀して連続ロリレイプする性犯罪者を描く児童輪姦漫画を「セクマイの話し」という東浩紀。大学教授なのに性犯罪者とセクシャルマイノリティの区別もついてない。


 などといったものが散見されます。
 確かに漫画で描かれたキャラクターは性犯罪者でもあるけれども、同時にペドファイルでもあるのだからセクシャルマイノリティじゃん、区別がついてないのはお前らじゃん、と思ったのですが、しかし。
 ぼくもこの話題について女性フェミニストとちょっとだけ話したのですが*2、その方は東師匠が「ホモ」と「ホモソーシャル」とごっちゃにしていることに、大層お怒りでした。


*2経緯は論争相手が「痴漢冤罪と自意識過剰について」(http://togetter.com/li/164764)にまとめてくださいました(どうもこの相手は恣意的に自分の発言を削除している気がするんですが……)。


 面倒なので、未読の方は前回のエントリでぼくが引用した、東師匠の発言を見ていただけるでしょうか。師匠は「その場面は実にゲイ的。」「非モテ若者におけるホモセクシュアリティ」と繰り返していますが、ここは普通に考えれば、「友情」との言葉が入るべきところです。
 そこを彼は、「ゲイ的」「ホモセクシュアリティ」との言葉を間違って入れてしまっている。
 何故でしょう。
 国語の時間に昼寝していて、「友情」という言葉を教えてもらえなかったのでしょうか。
 そこを踏まえてもう一度フェミニストたちの言葉を読み返してみましょう。


東浩紀周辺と唐沢俊一岡田斗司夫山形浩生周辺のホモソーシャル軍団同士で合戦してとっとと両方滅びてくれ。


きっとあずまんはホモソーシャルな関係が大好きだと思う。


 といった具合です。
 ホモソーシャルという言葉が最初から政治的意図を持って捏造された造語であることは、ここでは繰り返しません(『友達がいないということ』、『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』、また東師匠がオタクをホモソーシャルであると言い立てた経緯について書いた『東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言』、『東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)』を参照のこと)。
 この経緯は、フェミニストたちが「男の友情」をネガティブな「ホモソーシャル」という概念へと貶めたという背景がまずあり、その後に男性フェミニストが「良き男の友情」(という、彼らの世界観の中ではあり得ない概念を彼らの世界観にそぐうボキャブラリィで)を表現するため、やむを得ず、「ゲイ的」、「ホモセクシュアリティ」と形容し、教祖サマたちの憤激を買った図、という具合に考えることができます。
 何だかフェミニストたちと東師匠が先を争ってホモのご機嫌伺いをしている光景が見えてくるようで、気分が悪くなってきます(そもそもペドファイルが成人女性からの逃避だと断ずるなら、ホモだって女性からの逃避でものすごくケシカランことのような気がするのですが、彼女らがそういう主張をするのを耳にしたことは一度もありません)。


 しかしただ、実際にこの「ろりともだち」を読了した後では、ぼくにはまた別な感想が沸き上がってきます。
 前回のエントリで書いたように、本作は大変に優れた、友情の物語です。
 やっていることは幼女レイプというどうしようもないことですが、そこには「ダメな形でしか築けないダメな友情」というものが余すことなく、描破されています。
 もう一度確認しましょう。「ホモソーシャル」という概念を戯画的に表現するのであれば、例えば、


 男同士が「勝負だ! 今日こそ決着をつけてやる」と殴りあっているその傍らで美少女キャラがパンチラして「いや~ん」と言っている。


 と、そんな感じでしょうか。
 フェミニストたちは今まで、そんな他愛のない漫画に対して「
絶対に許せぬ」と舌鋒極めて攻撃を繰り返していました。
 が、上の例と「ろりともだち」の構造ってすごく似てないでしょうか。
 よく考えると本作に登場する何人もの幼女たちは、ある意味、「赤井」と「山崎君」の友情のダシにされているだけで、「愛」を受けていないのです。
「愛」しているのなら、幼女をレイプしてもいいのかと言われれば、むろんそんなことはあり得ません。しかし例えば、アブないペド男が女子小学生に「ホンキの恋心」を抱いてレイプしてしまう、そんな漫画だって恐らく『LO』を読めば転がっているはずです。
 むろん、ここで東師匠を叩いているフェミニストたちがそんな漫画であれば評価する、というのは考えにくいですが、しかし彼女らがそうした漫画よりも本作にこそ、憎悪を燃え立たせてしまったことは事実です。
 町田ひらく先生がフェミ系の女性たちにも大人気なのと、えらい違いです。
 これらを考えあわせると、何となく彼女らのメンタリティが仄見えてくるのではないでしょうか……?


 最後にスペシャルボーナスです。
 もう一つ、連想したことを書いて本エントリを締めたいと思います。
テルマ&ルイーズ』という映画をご存じでしょうか。
 ご存じない方はリンク先を辿っていただきたいのですが、要は主役の女性たちが自分をレイプしようとした男性を射殺してしまったことをきっかけに逃避行を開始する、
女性版アメリカン・ニューシネマ。「ろりともだち」のフェミニスト版とでも言いましょうか(当然、何の罪もない幼女をレイプしている作品とは質が全く異なることは、言うまでもありませんが)。

 これが公開された時、フェミニストたちは大喜びでこれに飛びついて、上映会を兼ねたシンポジウムなども開かれたと言います。当時山崎浩一さんがこの現象を『男女論』で採り上げ、フェミニストはマチズモの塊だ、と批判なさっていたのを思い出します。
 
フェミニストたちに「いかに相手側に非があると言えど、殺人犯を称揚するような態度はどうか」と言ったら彼女らはどんな顔をするのでしょう。
「これは映画だ、現実と虚構の区別くらいつけろ」と、冷静におっしゃってくださるでしょうか。

 いいえ。
「レイプ未遂男など殺されて当然だ、二人は何も悪くない」
 そんなことを、彼女らはおっしゃるのではないか……との不安を、ぼくは拭いきれないのです。


 ――さて、また随分と文章量を費やしてしまいました。
 フェミニストへの毒は大体吐き終わりました。
 が、ぶっちゃけこの種のレイプ漫画は行き過ぎではないか、との感情はぼくにもあります。
 次回は更に、ロリコン側の支持をも失うべく、そっち方面を叩く文章で行こうかと。もう少し、おつきあいいただければ幸いです。


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ろりともだち

2011-08-08 03:41:20 | アニメ・コミック・ゲーム

 当ブログは百合男子・兵頭新児の百合萌えブログです。
 幼女同士の百合に萌える方、マイキャラ交換しましょう。


 profile
 名前:兵頭新児
 性別:?
 セクシュアリティ:アセクシャル


 以下の項目に当てはまる方の入室はお断りします。

・18歳未満である
・現実と虚構の区別をつける判断力や理性が未熟である
・責任能力がない
同性愛に理解がない。GLの意味を理解できない
・自分の考えを他人に押しつけなければ気が済まない
・「男子」のクセに性別不明なのは何故かとか、アセクシャルのクセに何故百合萌えなどと言っているのかとか、非常識な質問をしてくる
 以上の注意書きを無視して入室された場合、いかなる精神的・肉体的不利益を被っても当ブログは一切の責任を負いません。
 了承できる方のみ、enterからお入りください。


 ――というわけでゾーニング責任を果たしたところで、「ろりともだち」について語ることにしましょう。
 いえ、正確には、ここで語られるのは「ろりともだち」ではなくそれを巡る諸相について、なのですが。
 今回の騒動はツイッター芸人・東浩紀師匠が「ろりともだち」を絶賛したことに端を発してします。
 詳しくは「「東浩紀は性犯罪者、死ぬべき!」と絶叫する人達
」を見ていただきたいのですが、要はエロ漫画評論家でもいらっしゃる東師匠がツイッターでエロ漫画を誉めた、それを見たフェミニストがファビョった、ただそれだけのことです。
 とは言え、師匠が絶賛したのが幼女をレイプしまくるかなりえげつないペドファイル向け漫画であること、そしてまた師匠がかつてより恥も外聞もなくフェミニストに媚びを売っていた人物であることなどが、事態をややこしくしているわけです。

 まずは問題の漫画「ろりともだち」を(そのバックグラウンド含め)詳しく見てみることにしましょう。
 そもそも本作、雑誌『LO』に掲載されたものである、ということが重要です。最近すっかり元気をなくしてしまったオタク系のエロ漫画雑誌の一つなのですが、本誌はロリコン物に特化した、かなりピーキーなものなのです。
 オタク文化について詳しくない方には意外なことかも知れませんが、いわゆるオタク的な萌え絵で描かれるエロ漫画は巨乳物あり、人妻物あり、女教師物あり、ショタと呼ばれる美少年物ありで、実は「ロリコン物」ばかりが描かれているわけではありません。一番多いのは恐らく女子高生物でしょうし、それをロリコン物と言ってしまえばそうなのかも知れませんが、いわゆる異常性愛としての「ペドファイル」とはかなり隔たりがあります。
 また、いかにキャラクターが低年齢に見えても、アニメキャラ的なアンリアルなディフォルメのなされたキャラクターが非現実的な世界観で活躍する漫画と、(仮に萌え絵の範疇でも)比較的リアルなタッチで描かれたキャラクターがリアリティのある世界観で描写される漫画とでは、やはり全然違うわけです。ものすごく乱暴な喩えかも知れませんが、『プリキュア』と『中学生日記』の違いとでも言いますか。
 さて本作は、そうした中ではかなり本格的なペドファイル物です。
 ストーリーは主人公の「赤井」が大学で「山崎君」という「ろりともだち」を得て、道を踏み外していく、というもの。「ロリ」とは言っても生身の、それも小学生の幼女に興味を持ち、そうした明らかに違法な児童ポルノを収集しているという時点で二人は明らかなペドファイル。オタク的萌え的世俗的意味あいでの「ロリ」とは全く異なっています。
 そして二人は「ともだち」を得たことで行動をエスカレート。ついには日本全国幼女レイプの旅に出かけてしまうのです。エロ漫画としてのメインはここにあり、凄惨な幼女のレイプが繰り返し描かれ、最後には二人は練炭自殺をします。
 ぶっちゃけるとこれ、『ボニーとクライド』とか、あの辺のパロディですよね。アメリカン・ニューシネマというか(この辺についてはhdk46さんにご教示いただきました。ありがとうございます)。ぼく自身、この漫画を一部だけ見ていた時点では、「あぁ、この二人、ラストは車で崖に突っ込んでいくんだな」と信じていましたし(いや、冗談じゃなくマジで)。
 これについて、東師匠が絶賛のツイートをしたというのが、事件の発端だったわけです。
 彼は、


どうすごいのか。それは端的に言えば、非モテ若者におけるホモセクシュアリティとロリコン的被虐欲望の関係を驚くほど正確に抉り出しているからです。むろん全体は小学生レイプもので良識的に絶対に許されるものではない。しかし「おまえがいたから、おれレイプできた」という台詞は胸を打つ。


 とおっしゃっていました。
 ぶっちゃけると、ぼくも東師匠と同意見です。
 マイノリティがようやく得た仲間と共に“青春”を謳歌することが、本作のテーマと言えます。事実劇中、二人で幼女にいたずらをするシーンには、赤井の


“青春”って/感じがした


 というモノローグが挿入されています。
 もう一つ言うと、彼らが「オタクにもなりきれない」落ちこぼれであると設定されているところがまた、秀逸です。作品の前半では二人がエロ同人誌を作ろうとして挫折するシーンがあり、また『LO』を読みながら「最近マジ使えね――」とぼやくシーンもあり、念の入ったことに自殺の直前の赤井は「二人でコミケで売る同人誌を作る」夢まで見てしまうのです。
 リア充に怨嗟の念を吐きながらエロ同人誌を作っているのがオタクであるはずなのに、彼らにとっては「気のあう仲間と共に同人誌を作る」こと自体が「叶わぬ夢」なのです。

 ある種、今時オタクになれるだけ、しかも「友だちと同人誌を作る」機会を持てる者だけ、それは恵まれている方なのでしょう。気持ちはわかります。

 オタ充爆発しろっっ!!


 そんな夢を見て、「お前に出会えてよかった」と語りあい、最後に手と手を握りしめあって「心中」してしまう赤井と山崎。
 圧巻のラストは見ていて言葉になりません。
 ひょっとするとこの夏、この二人の薄い本が並ぶんじゃないでしょうか。
 東師匠もこのラストには、


主人公は相棒に出会って始めて自分のロリコンを真の意味で自覚し、そして最後は相棒と手を繋いで死ぬのです。その場面は実にゲイ的。セクシュアルマイノリティの話だと思いました。掲載誌がロリコン誌なので紹介するのもどうかと思いつつ、しかし優れた作品だったので批評家として紹介しておきます。


 と絶賛なさっています。
 ぼくも、この意見に賛同します。
 ここで更に、一部の方には不快な思いをさせるであろう例え話を持ち出したいと思います。
 ホーキング青山さんという障害者芸人がいらっしゃいます。
 彼のライブなどは見たことがなかったのですが、しかしちょっと気になる存在だったため、彼の著作『差別をしよう!』をふと手に取ったことがあります。
 結論を言えば、つまらない本でした。刺激的な書名も形だけのもの、つまらぬ半生記と身辺雑記に過ぎない退屈な本でした。
 が、一つ大変印象に残った箇所があります。
 彼が芸人に成り立ての頃、ナーバスになっていて、彼を買ってくれた芸能マネージャーに対して「本当に俺と組む覚悟があるのなら、彼女と別れてくれ」と懇願した、という箇所です。自分を評価してくれたマネージャーに依存するあまり、青山さんは彼の恋人に「妬いて」しまったのです。
 ここに描かれているのは障害者という名の聖者の受けた受難でも何でもなく、「大変に痛い、しかし痛いが大変によくわかる」誰しもが陥ってしまいかねない心理状態です。
 本作における赤井と山崎の間にあった情も、これと全く同じものでしょう。

 ここで赤井と山崎の関係性を「性犯罪者だから」という理由で否定し、青山さんの心情を「障害者だから」という理由で神聖化する者がいるとしたら、それは「エラい人は何をやっても許される」と言っているのと同じです。


 しかし、それでは収まらないのがフェミニストたちです。
 彼女らの発言に、残念ですが採り上げるべき価値のあるものはほとんどありません。
 要はただ東師匠を「ペドレイプ激賞家」などと呼んで幼稚に罵っているだけです。
 ここで、しかしぼくはいささか複雑な心情に陥ってしまうのです。
 ――と、ここまで書いたところで結構な文章量を費やしていることに気づいてしまいました。
 実は前回予告していた『Rewrite』(ギャルゲー)と戦隊を比較しての論考も棚上げしっ放しなのですが……以下次号。


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