兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

風流間唯人の女災対策的読書・第45回「オールジェンダートイレから見える狭い風景」

2023-05-27 19:10:05 | セクシャルマイノリティ

 

 第四十五回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第45回「オールジェンダートイレから見える狭い風景」

 LGBT法、オールジェンダートイレが話題になっています。
 ことに後者はこうも早く時代が動いていることに、行政がLGBTの走狗に成り下がったことに、驚きを禁じ得ません。
 しかしあまりにも急進的な動きの反動でしょうか、フェミニストが保守派に擦り寄る光景も見られるようになり……。
 こんな時こそ、冷静にフェミニズム、LGBT思想の悪辣さを知ることから始めましょう。


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家

2023-05-14 19:11:39 | アニメ・コミック・ゲーム

 

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 さて、シン企画第二弾は『キカイダー』です。
 少し前、You Tubeの配信で『人造人間キカイダー』をやっていたので、ちょっと語っておきたかったんですね。
 細かい設定などは折に触れ最低限説明するに留めますが、最初に言っておくと本作は1972年に放送開始した特撮ヒーロー番組。ロボットのキカイダー・ジローが悪と戦う物語です。
 久し振りの視聴だったのですが、今回、「やたら女が出てくるなあ」との感想を持ちました。本作は夜八時からの放映であったため、お父さん向けの要素を多くしたのではと思われます。
 この時期のこの種の番組、普通であればジジイの博士が敵に狙われるというのが定番の展開です。ジジイが古典的物語の「お姫さま」の立ち位置にいるわけですが、これは丁度博士の頭脳、科学こそが地球の命運を左右するという高度経済成長期的世界観の反映だったと言え、そんなところからも特撮ヒーローものは男の世界だと言えるわけです(バリアントとして、今回語るように博士の秘密を託された男の子が「お姫さま」というパターンもあるわけですが……)。
 しかし本作ではやたらと若い美貌の女性科学者、或いは自然保護活動家が狙われることとなります(悪の組織ダークはやたら自然保護活動家を狙います。まさに公害などが悪の代表として認識されていた時代だったわけです)。
 またそもそも、作品テーマ自体が「世界の平和を守る」ことと共に「父親捜し」というパーソナルなものであるのも、本作の特徴です。キカイダーを作った光明寺博士が記憶喪失でさまよっており、それを博士の子供であるミツ子、マサルの姉弟と共に探すことがジローの目的であり、毎回のエンディングナレーションにも謳われていました。
 ミツ子は博士譲りのメカニックとしての腕の主で、ジローを助けると共に、一人の男性として愛してもいる。いつも泣いているような表情の幸薄そうな美女がミニスカートで常に苦難に耐える、そしてジローに助けられるがジロー自身は(ロボットと人間という「身分」の違いも理由ですが、同時に)悪の怪人と戦う使命を優先させ、これまた常に苦悩の表情で彼女につれなくする。
 女は男をケアし、求愛するが男は使命(≒仕事)に夢中というのはこの頃(高度経済成長期)のドラマによく見られたもので、男女ジェンダーを考えた時、ある意味健全なあり方だなあとも思います。
 さて、この『キカイダー』、当初は『仮面ライダー』のメインライターを務めていた伊上勝がやはりメインで書いていました。それは『ライダー』の同工異曲でやや平板……というのがマニアの間で囁かれる通説で、それも間違いではないのですが、見ているとそれなりに「大人向け」の作劇がされていることがわかります。
 ただ、途中参加し、後半のメインを務めた長坂秀佳という脚本家の仕事があまりにも印象深く、それで「後半は神だが前半は今一」との世評を形作っているのでしょう。
 そう、前回「ホモソーシャルの作家」と評した脚本家です。

 その、ハカイダーを中心に据えた後半戦が名作であることは論を待ちませんが、ここで語りたいのは作風のホモソーシャリティ。いえ、「ホモソーシャル」というフェミ用語は「悪いこと」として価値づけられており、あまり使いたくないのですが、「友情」とも「父子愛」とも呼びがたい微妙な関係が長坂作品では描かれることになるので、ここでは敢えてこの言葉を使うことにします。
 ハカイダー・サブローの出現と共に、ジローは光明寺博士を殺した犯人として疑われることになります。官憲にも追われるとあって、ミツ子、マサルの心中も穏やかではありません。ミツ子はとにもかくにもジローへの愛でその無実を妄信し続けますが、マサルはついにジローは犯人だと信じるようになります。
 敵は博士の偽死体まで用意しており、またそもそもジローは不完全な良心回路の弱点を突かれ、実際に博士を襲ってしまっており、疑うのが自然という状況。ただ妄信するミツ子よりも、葛藤に葛藤を重ね、父の敵ジローを破壊しようと決意するマサルの方がむしろ複雑な心境であったことでしょう。何しろマサルは小学校高学年くらいの年齢で、ジローは頼もしいアニキ代わりでした。
 ジローは赤いギターにジージャンジーパンといった、明らかに当時の反体制的な若者のファッションを意識したスタイル。即ち「(流行の文化の最先端をいく)格好いいアニキ」といった存在だったのです。ぼくは時々サブカルをホモっぽいと罵りますが、それは逆に言えばこの当時はそうした「格好いい、憧れの青年文化」というものがリアルに存在していた(サブカル君は今もそうだと勘違いしている)からこそなわけですね。
 さて、そのマサルの下へと現れたのがサブロー。正体は敵であるハカイダーなのですが、それを隠し、「自分はジローが壊れたことを察知して、身代わりとしてマサルたちを守るために現れたのだ」と語り、マサルの歓心を買います。ハカイダー自身は卑劣な手を嫌うキャラなのですが、何故だかマサルには嘘をついてまで近づこうとするのです。
 ただ、マサルの主観で考えれば、ジローが頼りにならない時に現れたサブローは頼もしい存在として映ったはずです。それがまた、ジローとは少し違った不良っぽい格好よさを持ったタイプであり、それが妙に自分には優しくしてくれる。池田憲章(という、最近物故した特撮評論家)の文章では、サブローの頭部には光明寺博士の頭脳が埋め込まれており、意識などは直接反映されていないはずですが、どこかでその影響があったのではないか……といった指摘もなされています。
 自分の潔白を証明しようとマサルに訴えるジローの前にサブローが現れ「マサル君には手出しさせん」と啖呵を切るシーンもあり、まさにこれはマサルという少年を中央に据えた三角関係。今なら間違いなくミツ子を巡っての争いになるでしょうが、別に性的、BL的な意味ではなく「憧れるような格好いいお兄さんに優しくされる」という男の子の欲求を、本作は見事に満たすもので(あり、それは同時に先に述べたようなミツ子の「妄信」ではなくいたいけに「葛藤」を重ねたマサルへのご褒美といった側面も)あったように思います。
 さて、そんな葛藤の末、マサルはゲストの少年に「君、本当はジローが好きなんだろ」と見抜かれ、またジローにも「君に疑われてまで生きていたくない」と、生死を委ねられ(「自分が信じられないなら、サブローを呼んで俺を破壊してくれ」)最終的にジローを信じるように。
 それ以降もハカイダーとの勝負、光明寺博士の復活、ダークとの決戦といくつも波乱がありますが、最終回はジローが(マサルというより)ミツ子の下を去るという、どちらかと言えば男女のドラマが中心。
 とはいえ、「女を捨てても使命に身を委ねるのが男」という男のドラマを、長坂は最後まで描いてみせたわけです(ジローが去っていく時、ミツ子たちには何も言わず、光明寺博士とまるで父子のような会話を交わすのも象徴的です)。

 ――さて、一人旅立ったジローですが、半月くらいで帰ってきます
 そう、次週からは『キカイダー01』が始まり、助っ人としてすぐに再登場するんですね。
 ただ、さすがにあくまで主役はキカイダー01・イチローにバトンタッチしているので、ジローについて書くことは多くありません。
 それでも、敵に狙われる少年アキラが逃亡生活に疲れた、悪の組織の手の届かない世界に連れて行ってくれとジローに泣きつくシーンは印象的です(16話「恐怖!ミイラ男のニトロ爆弾」)。先に助っ人と書いたものの、ジローがそれを超えるような比重で同作に登場していた証拠と言えましょう(もっともこの話、脚本は長坂ではありません)。
 イチローは体育会系的で悩むことのないキャラ。だから上のシーンもナイーブなジローに甘えた方が気持ちをわかってくれると、アキラなりの計算もあったのかも知れません。実際に役者さんもジローが寺山修司か何かの劇団にいた文芸畑の人なのに対し、イチローは殺陣師の息子さんで、言わば藤岡弘型です。ともあれ戦隊などと違い、ピンでも充分活躍できるヒーローがタッグを組む、しかもそれが兄弟というのは他に例がなく、男の子の心を掴むに充分。
 他にも本作の初期設定ではホモソーシャリティを象徴するような作劇が考えられていました。そもそもアキラが敵に狙われるのは、最終兵器の設計図を身体に隠し持っているから。そんな彼を狙う悪の組織と彼を守護するイチローとのバトル。ここまでなら普通なのですがそこに謎の美女が絡み、イチローとの対立が描かれます。
 この謎の美女、リエコは隙あらばイチローからアキラを奪取しようとする第三勢力。或いは敵のスパイかと思いきや、実はアキラは前作の悪の組織ダークの首領の遺児であり、だからこそ最終兵器の秘密を託されており、そのダークの養育係であったリエコは(ダーク壊滅後でもあり)純粋なアキラへの愛情から、彼を保護しようとしていたことがわかります。
 対立時にはイチローへと「人間の子供は人間が育てるべきだと思います」とアキラの養育権を主張し、これは要するに「子供をどちらが引き取るかの両親の争い」、男の子を巡っての成人男性と成人女性の争いなのですが、同時に男の子と共に戦場に身を置こうとする男性(≒息子を厳しく鍛えようとする父親)と、庇護しようとする母性の対立とも言える。
 この時期は『仮面ライダー』でも『ウルトラマン』でも怪獣や悪の組織を信じない「教育ママ」と子供、ヒーローの対立という図式がしばしば描かれました。この怪獣や悪の組織は女性が認めたがらない戦いの世界(男社会)をこそ象徴し、ヒーローは男の子を母親の引力圏からさらって、そこへと連れて行ってくれる王子様だったとも言えましょう。
 何しろ核家族化が進む一方、お父さんは会社に時間を取られ、子供を世話するのは専らお母さんの役目。母親の情熱と時間の多くは子供への教育へと注がれた時代で、それこそそうした過剰な母性を持つ母親を揶揄し、「ママゴン」と怪獣呼ばわりすることも当時、流行っていたのです。
 このリエコは企画書では「次第にイチローを愛し始める」とあり、愛憎劇も予定されていたのでしょうが、途中で大幅な路線変更があり、あえなく「実はロボットだった」として爆死する運命を迎えます(まさに人間側を象徴するキャラがロボットだったとオチをつけたのですから、長坂も結構路線変更に対してヤケになっていたというか、あまり快く思ってはいなかったのでしょう)。

 それ以降はむしろファンの間では評価の高いロボット同士の人間ドラマが描かれ、もちろんぼくも評価するに吝かではないのですが、女性ロボットビジンダーの比重が高くなるなど、今回のテーマからは外れていくこととなります。
 これは随分前にツイッターでも書いたのですが、同作の後期では80年代の戦隊を作り上げた曽田博久がデビューしてもいます。曽田の評価は不当に低く思え、いつか採り挙げたいという思いもあるのですが、このもう一人の特撮界の帝王のデビュー作は人魚姫ロボットという女怪人の話(28話「狂った町 恐怖の人魚姫大逆襲」)。この話で悪の組織は人間社会の価値観を逆転させるという作戦を敢行し、大人と子供の対立、おまわりさんが横暴になるといった描写がなされます。要は曽田がものすごい左寄りの人であり、価値観の転換というのをやりたくて仕方がなかったのでしょう。
 ここでは同時に「ロボットは善と悪が、美と醜が逆に感じられる」という今まで聞いたこともない設定が唐突に登場し、「じゃあ01は主観では悪のために戦っていたのか!?」とのこちらも疑問もスルーして、ハカイダーが人魚姫ロボットに恋をしてしまいます。醜悪なロボットがハカイダーには美女に見えるということなのですが、もう一つ特筆すべきは人魚姫ロボットがヒーロー側をも手玉に取ること。彼女の催眠攻撃でイチローも惑わされ、アキラの首を絞めてしまいます。さすがに性的なニュアンスは(イチロー側には)ないのですが、完全無欠のヒーローであるイチローが子供を襲うのは衝撃的で(良心回路が麻痺した時のジローの振る舞いに似せたのかも知れませんが)、これは人魚姫ロボットからイチローへの、「私といっしょになりたいならば、その子供は邪魔よね?」とのメッセージであるわけです。
 ともあれ、本作では正義と悪の逆転を書いた後、そのいずれをも女が掻き回すという図式が成立しているのです。だからこそハカイダーもいかに弱体化したとはいえ、ヒーロー打倒という彼なりの「悪の正義」に忠実だったはずが、「愛する人魚姫のために」戦うようになってしまったわけです。

 ともあれ、この時期は(視聴率対策でしょうか)やたらとお色気描写が多くなった時期でもあります。人魚姫ロボットもイチローを惑わす時は美女(……???)の人間体となりますし。
 他にも『エクソシスト』か何かをモチーフにした「女子学生の血液でロボを作る」話も登場します(21話「吸血の館 美人女子寮の恐怖!!」)人間の血でロボットができるのかと問われても、実際に劇中でできてるんだから仕方がありません。
 冒頭ではハカイダーたちが夜の街で女性を襲っては合格だ不合格だと言っており、また女子学生たちを救おうと女子寮に潜り込んだ主人公たちに文句をつけるお堅い(いかにもオールドミスの)寮長も、敵に捕まり血を吸われてロボットを誕生させてしまう様がコミカルに描かれます。
 つまりこれ、言葉としては当然出てこないけど、「ロボット誕生には処女の血でなくてはならない」「寮長でもオッケーでした」というお父さんにだけわかるギャグなのですな。
 ともあれ、そうした話を消化しつつ、本作後期には先にも述べたビジンダーが登場します。彼女もまた随分といやらしい設定を配したお色気要員であると共に(ご存じない方は調べてみてください)、何しろ志穂美悦子ですから、男勝りのアクションを披露します。
 ぼくもヒロインとしては彼女が一番好きなのですが、同時に彼女は言わばミツ子という「守られ、耐えるヒロイン」に始まった『キカイダー』が「ジェンダーフリー化」してしまったことを象徴するキャラでもありました。もちろんお色気描写含め、ビジンダーもまた「男社会の紅一点」であり、作品の「男の世界」度は今からでは想像もできないほどに高いのですが。
 ともあれ、「男の世界」としての『キカイダー』は、そうした「女性の社会進出」に伴い縮小していったのです。先の「人魚姫ロボット」はその転換期に登場し、そんな作品世界の変質を哀れんで、嘲って、皮肉って、予言してみせたのだと言えます。


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑 ①『ウルトラマンA』――は、ジェンダーフリーではなかった

2023-05-06 19:49:45 | 弱者男性

 

 さて、ちょっとした新企画です。
 流れとしては『シン・仮面ライダー』評の続編と言える部分もあるので、そちらを読まれた方は是非。
 それと、お報せを一つ。
 先日、評論家の小浜逸郎さんが亡くなられました。
 フェミニズム、ポリコレを鋭く批判した、ぼくたちの大先輩とも言うべき人物で、兵頭新児も小浜さんの主催する日曜会に出席させていただいておりました。
 明日、その日曜会で小浜さんの遺作となってしまった『ポリコレ過剰社会』が扱われます。
 ご興味のある方は、ご来場ください。
 詳しくは以下を!

政経研究会・えん | Mysite 3 kohamaitsuo.wixsite.com

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 今までも時々、『ドラえもん』をフェミ的に解説する本などを槍玉に挙げてきました。
 現状でオタク文化評論というのは、そうしたフェミ的価値観を前提したものしか存在し得ません。
 そうした状況はむろん,好ましいものではないし、やがてはぼくたちが親しんだコンテンツも、次々と封印、ないし修正される未来が待っていることは間違いがありません。
 そういうわけでアフターフェミ時代においてはその存続が危ぶまれるオタクコンテンツについて、時々語っていこうかと思います。

 詳しくはまた別の機会に述べますが、まず昭和特撮は「ホモソーシャリティ」をこそ、テーマとしていました。男の子たちはこうした番組を視聴する時期(つまり大体小学生の頃)、ギャングエイジと呼ばれ、同性同士の絆を重視する年代なのですから。
 そんなわけで今の主婦受けを狙い、媚び続ける特撮とは全く裏腹に、当時のヒーローは「男の子を母親の引力圏から連れ出す王子様」だったわけです。
 ……さて、とは言え、『ゴレンジャー』(1975年)にモモレンジャーが登場したことからもわかるように、ある時期からはこの種の番組でも女性戦士が活躍するようになります。『仮面ライダーストロンガー』(1975年)のタックル、『カゲスター』(1976年)のベルスターなどが有名ですが、それより少し前には、「男女合体変身」という新機軸が試みられたことがあります。
 その一つが今回ご紹介する『ウルトラマンA』(1972年)。
 いわゆる怪獣やっつけ隊であるTACの隊員、北斗星司と南夕子がウルトラタッチで合体し、ウルトラマンAになって怪獣(本作では「超獣」)と戦うという物語です。第一話で二人は超獣の襲撃の中、劇的な出会いを果たすのですが、企画書では「恋人を失った北斗が恋人との思い出の山へ登り、そこでやはり恋人を失ったばかりの南と出会う」といった導入が考えられていました。しかも、互いは互いの失った恋人と瓜二つ。山の天候の急変により山小屋で一晩を明かした二人は、ウルトラマンAの啓示を受け、変身能力を得る……となっていたのです。
 しかしこの展開には相当にストレートな性の匂いがしますよね。恋人を失っているという設定にどうした含みがあるのか、ぼくには理解ができないのですが、二人が山小屋で一夜を共にするって……。

 さて、実はこの企画案そのものは有名で、ぼくも子供の頃から知っていたのですが、内包された性的ニュアンスには、最近ようやく気づきました。本作の舞台裏を調べ上げた『ウルトラマンAの葛藤』という著作が去年に出版されているのですが、これを読んでいてのことです。
 企画書にも北斗と南の性格は、北斗を「動」とするならば南は「静」、沈着冷静な南が猪突猛進な熱血漢である北斗のストッパーとなると記述され、これは実際の映像作品においても反映されていたのですが……同書を読むと、本作についていささか印象が変わってきます。企画書には上に続いて「血気にはやる北斗はすぐに南に変身を迫るが、南はなかなかそれに応じようとはしない」とあるのです。
 何というか……これももろに性を意識した記述ですよね。
 企画書には「男の勇気」と「女の平和を願う心」が合体することで性を超越した完全無欠のヒーローが誕生するのだと説明されていますが、これらは要は能動性/受動性と言い換えてもほぼ意味が通るわけです。
 ――こうなると表題の「『ウルトラマンA』はジェンダーフリーではない」という言葉の意味は、もうおわかりになってきたかと思います。
 フェミニズムによる作品評なんてのはもう、見ているだけでがっくりとくるようなお粗末な、女が活躍しているというだけで諸手を挙げて絶賛するだけのものですが*、本作はそんな単純なジェンダー観の遙か先を行っているのです。
 確かに性を超えた存在であるウルトラマンAですが、それにはあくまで男性の美質、女性の美質がまず前提としてあり、それらが合体することで完璧になるというのが本作のテーマなのですから、ジェンダーフリーを称揚する作品などでは、全くないのです。
 この「男女合体変身」というコンセプトを提示した、本作の企画担当者である市川森一はクリスチャン。そもそもウルトラマンAの合体はアダムの肋骨からイブが生まれたという聖書の記述を元にしたものなのです。
 さらに言うなら女性の受動性という美質を「平和を願う心」として繰り返し強調する辺り、市川のジェンダー観はフェミニストたちの何十、何百、何千年も先を行く先進的なものであったことでしょう。

*余談ですが、国語の授業の副読本にも引用された斎藤美奈子『紅一点論』は、初代『ウルトラマン』のフジ・アキコ隊員を妙に称揚し、『ウルトラマンティガ』のイルマ隊長という女隊長にも言及があるのですが、どういうわけか『ウルトラマンA』はノーチェック。どうも、ご存じなかったようです。

 ここは少しわかりにくいところかも知れませんので、ちょっとだけ細かく見ていきましょう。
 実のところ、この「男女合体変身」はこの時期、妙にあちこちで見られた(逆に言うと近年は全く顧みられなくなった)パターンです。
『トリプルファイター』(1972年)でも『魔人ハンターミツルギ』(1973年)でも三兄弟が合体変身するのですが、その三人目が妹。『アイゼンボーグ』(1977年)ではやはり兄妹二人が合体変身します。
 そう、『A』を除くとあくまで「合体」は兄妹によるものとされ、ここに性的ニュアンスを排除しようとした作り手の意図が透けて見えるのですが、ぼくが指摘したいのはそんなことではなく、この種の番組の持つ男女観がどのようなものであったか、です。
『トリプルファイター』においてはグリーンファイター、レッドファイターがそれぞれ長男、次男であり、「知性」と「力」を司っていたのに対し、妹のオレンジファイターは「心」を司っていました。心を持っていたのは女だけなのですね。
 ぼくは以前、『君の名は』を『シン・トリプルファイター』であると評しました。恋愛映画ながら(そして形としては両者の視点を交互に入れ替える作りとなっているにもかかわらず)本作は徹底して女の子の視点で描かれ、男の子はひたすら女の子に奉仕する存在でした。
 妹が「心」を司り、妹だけがその心情を露わにする(いえ、兄が私的感情を見せる話もないわけではないのですが)本作は、『君の名は』のご先祖様だった、否、「それが、そもそもの世間一般のジェンダー観」だったわけです。
『ミツルギ』においては長男が「智」の、次男が「仁」の、妹が「愛」の剣を持ち、これら剣でミツルギに合体変身します。この「仁」も「愛」も心理的徳性を示すものと言えましょうが、「仁」には公の匂いがするのに対し、「愛」は私的なものを感じさせます。
『アイゼンボーグ』は兄妹の名前そのものがそのまま「善」と「愛」。これもまあ、「仁」と「愛」といっしょと言っていいでしょう。
 翻って「勇気」と「平和を願う心」を対置させた(繰り返すように「能動性/受動性」と換言し得る)Aは、いずれも心理の性質であると同時に、ただそれらはそれ単一では不足であり、相互補完の関係にあるのだとの考えがまず、前提にある。
「男もまた情緒の生き物である」と鋭く、そこで市川は断言してしまっているのです。
 そこが本作の先進的な面でもあり、しかしやはり、あまりにラディカルで受け入れられにくい面でもありました。

 そもそも――という接続詞は、この場合ふさわしくないかも知れませんが――この男女合体変身の設定は、途中で放棄されます。
 番組の丁度中盤で、南は(実は月から来た宇宙人であったという設定がいきなり登場し)地球を去り、以降は北斗が単独でウルトラマンAになるのです。
 先に北斗と南の関係は性的だと述べました。事実、市川の構想では最終回、二人はウルトラマンAであることを捨て、ただの男と女として結婚するというものが考えられていたといいます。
 しかし市川自身が比較的初期の段階で本作を降板しており、上の南退場のストーリーは別な脚本家によって書かれ、北斗は南を「君は月の妹だ」と述べます。「月の妹」って何? と思われるかも知れませんが、要するに地球は月の兄、月は地球の妹だということらしく、つまり本話によって意図してかせずしてか、市川の配した性の匂いは周到なまでに消されてしまっているのですね。
 この南夕子退場については今に至るまで様々な説が語られており、その根本的な理由は判然とはしません。
 内部資料では子供の遊びに取り入れられにくかったと語られ,これが長らく公式見解となっていました。ウルトラマンAごっこで南隊員役を(男の子はもちろんやりたがらないだろうし)女の子が男の子に交じってやりたがるかとなると微妙でしょう。
 しかし近年は一時期、南役の女優さんが自分のわがままで役を降りたと言っていたりで、真偽はわかりません。上に挙げた『Aの葛藤』ではプロデューサーの言などから、ドラマを作りにくかった(主役が二人いて、変身する時にいっしょにいねばならないのではストーリーを拡げにくい)といった理由が推測されています。
 ただ、普通に考えれば、やはり半分女のヒーローという存在は男の子に受け入れられにくかったのではないかと思います。
 Aは(中性的と評する人もいますが)声が納谷悟朗であったり、デザイン的にも(あの耳の処理が揉み上げに見えるんですよね……)やはり極めて男性的ですし、男として描かれていたように思います。
 本作は「男女合体変身」以外にも「ウルトラ兄弟」の登場が新機軸として掲げられていました。Aはその末弟で、ウルトラ兄弟も男ばかりの五人兄弟であると捉えられられていたことでしょう。
 これは先にも述べたギャングエイジの男の子にとっては魅力的な設定であり、そこに女要素はノイズだったのではないでしょうか。
 南降板と共に、本作には極めて皮肉な要素がいくつか入り込みます。
 まずは降板の直前に、ウルトラ五兄弟が大ピンチを迎え、それを救うべくウルトラの父が初登場します。この父は大変人気のあったキャラだそうで、やはり先の本によると父の存在のおかげで本作の視聴率も盛り返し、次回作につながったのだと言います。
 そして南降板の次の話には、新キャラ梅津ダンが登場します。これは『帰ってきたウルトラマン』における次郎と同様の、主人公を兄貴のように慕う少年。
 そのダン登場回を描いたのが、これは次にでも詳しく述べたいところですが、「ホモソーシャルの作家」と評するべき長坂秀佳。実は『帰ってきた』においても番組後半の主人公と少年キャラの絆の再確認話が長坂によって書かれており、おそらくですがプロデューサーも彼の資質を知って、わざわざ招聘したのではないでしょうか。
 南夕子は「父」と「弟」の登場によって「女」から「妹」へと降格させられ、番組から追放された。この南、美人の女優さんが演じており、大人の特撮ファンから見れば惜しい話なのですが、男の子からすれば好ましい存在ではなかったのでしょう。
 こうして、本作は「男女共同参画」に待ったをかけた作品となったのです。

 ――え~と、キレイに終わりそうなところナンですが、最後にちょっと、ちゃぶ台をひっくり返さねばなりません。
 本作の次回作はご存じ『ウルトラマンタロウ』。
 前作の父の好評を受け継いで……だか何だか知りませんが、ここではウルトラの母が初登場します。作中で直接に登場するのは数回にすぎないのですが、ともあれ一話でタロウを誕生させるなど、助っ人に過ぎない父よりも遙かに重要度の高いキャラとして描かれ、三話ではピンチの息子を助けに現れ、共に怪獣を倒します。
 つまり、元からサラブレッドのお坊ちゃんという設定のタロウは、常にママに守られているひ弱な子供という印象を、どうしても与えてしまう。
 変身前の東光太郎は、丁度少し前に小山晃弘氏がdisった大谷翔平を連想させるキャラです。つまり、お母さん受けのいい、よい子。
 当人はさわやかイケメンで、郷秀樹に次ぐ見栄えのいい主人公であり、設定的にもボクサーで風来坊など、男性度は高いはずなのですが、それでも甘えん坊の末弟のイメージが、どこかつきまとう。
『タロウ』では「母子で見るウルトラシリーズ」といったコンセプトが導入されていたのではと見るファンもおり、ファミリー志向でタロウもあまり怪獣を殺さない。
『帰ってきた』、『A』は反体制の時代の若者として、主人公が上層部に楯突く、独断専行するなどといった描写も多く、そこが「青年」の匂いを感じさせたのですが、『タロウ』にはそれがない。
 有り体に言えば、「平成ライダー」のご先祖様になってしまった。
 ぼくには、そのように思われます。