兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ドクター差別と詰られし者たち(その2)

2013-02-17 22:00:56 | 女性専用車両

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想と同時にアップされている記事です。


     *     *     *     *



 最初に告知させていただきます。
 拙著『ぼくたちの女災社会』が復刊ドットコムの「復刊リクエスト」にエントリされています。どうぞ、ご協力をお願いします!


 さて、前回アップした動画について、「後日何か書く」と言ったきりになっておりました。ぶっちゃけ大したリアクションもなく、またドクター差別(以降「ドクさべ氏」と呼称)について今までも結構書いてきたので、結局それの繰り返しになっちゃうしなあ、ということで筆が鈍っておりました。
 が、一つ訂正。
 動画内でぼくは


 

「女性専用車両」に法的根拠がないというのはどうやら本当らしい。


 と書きました。
 が、健次郎氏にご教示いただいたのですが、民法第206条に使用収益権というものが規定されており、車両は法律上、鉄道会社の私物だそうです。言ってみればぼくがぼくの私物である漫画を嫌いな人物に貸さない権利を持つのと同様、女性専用車両への男性の乗車を禁ずるのも、鉄道会社の自由というわけです。
 ただドクさべ氏たちが繰り返す通り、鉄道側が「任意の協力をしてもらっている」と謳っているのも事実。
 つまり現状を例えるならば、のび太から漫画を脅し取ったジャイアンが、「話しあいにより、無期限に借りることを、のび太に承諾させたのだ」と言っているようなもので、ある意味、弱気なのび太も悪いよなあという感じです。

 ぼくが今回感じたのは、ドクさべ氏たちは「差別」というものを「世を動かしている権力を持ったワルモノ」が作り出していて、その「ワルモノ」をやっつければ世界に平和が来る、という世界観を持っているのではないか、との印象です。
 これはぼくたちより上の全共闘運動とかをやっていた世代が色濃く共有していた世界観で、オタク界にもいまだその頃の「ノリ」から目覚めてない方も多いのですが、そうしたやり方は古い上に、少なくともこの問題に関しては一番無力な方法論であると言えます。
 いえ、「この問題」を「女性専用車両」に限るなら、或いはある種の力押しで解決できるかも知れません。
 さらに彼らの言う「男性差別」を制度上の差別であると規定するならば、例えば政治家に働きかけるといったやり方も功を奏するかも知れません。例えば、「疑わしきは罰せず」の原則を透徹させることで性犯罪冤罪をなくす、アファーマティブアクションをなくす、など。
 が、それでは「女災」はなくならないのです。
 何故か。
 例えばですが、現行の法律上、男性が主夫をやっても全然構わないはずですが、ところが男性を養う女性などほとんどいません。
 つまり、システムを変えても人間の意識はそう簡単に変わらないからです。
 ぼくは幾度か、二十年ほど前のフェミニストたちがポルノやミスコンテンストを女性差別であるとして派手なパフォーマンスを繰り広げ、そして
冷笑を持って迎えられて消えていったことについて書きました。ドクさべ氏たちの振る舞いが、それのリプレイに過ぎず、同じ道を辿るで煽ろうことについても繰り返し述べているかと思います。
 では、それ以降のフェミニストはどうなったか。
 ラディカルフェミニズムという、「人間の心を強引にいじくる」思想に耽溺し、「ジェンダーフリー教育」などに走りました。が、それによってぼくたちの意識が変わったとはどうにも思えない上に、そうした力押しのやり方は、結局人々の反発しか生まないことが明らかになっただけです。
 ドクさべ氏たちの中ではありがちな「目的」のすり替わりが起きていて、「女性専用車両廃止」という手柄こそが彼らの最終目的になっている感も大いにありますが、仮に彼らがそれを達成したとすれば、「女災」は今の数倍に非道くなっていることでしょう、女性たちは今よりもっと頑なな男性への敵意を持つことになるでしょうから。


 ではどうすればいいのか。
 ドクさべ氏はぼくを評して(
http://blogs.yahoo.co.jp/sabetsu5555/archive/2013/2/10のコメント欄)


②私らの活動を「時代遅れ」と言いながら、効果的かつ具体的な(代替の)啓発手段を全く提示できていない


 

 とおっしゃっています。
 これについてはある意味、正しい。ぼくは女性たちの意識を変えることは絶望的であると思っていますから。
 が、「代替案を持たない」からと言って、明らかにマイナス方向にしか物事を動かさない彼らのやり方への批判はまかり成らぬ、という考えは通らないでしょう。
「女災」の本質は「
男性が加害者にされてしまうこと/女性が被害者になれること」です。
 例えばですが、「男性と女性がもめている現場」というものを想定した時、男女とも、どうしたって女性側につく傾向が強くなる。
 秋葉通り魔事件など、逃げ場をなくした被害者が加害者側に転じてしまった悲劇であり、こうした事例はやはり女性よりも男性側に圧倒的に多い。
 ある意味、「痴漢冤罪」はそうした「女災」の本質をあまりにもラディカルに炙り出した事例でした。
「痴漢冤罪」という概念がメディアを賑わせた時、ぼくたちが何とも言えないムズムズ感、治まりのつかなさを覚えたのは、この事例がまるで「仮面ライダーが子供をいじめている時に怪人が現れてライダーをやっつけた」といった場面でも見せられたような、ぼくたちの中のコンセンサスの揺らぎを感じたからです。
「痴漢冤罪」を見れば、
女性の被害者性/男性の加害者性がいかに男性を殺す毒薬になっているか、誰の目にも明らかでした。
 ぼくらは「男性の被害者性/女性の加害者性」を学ぶ、千載一遇のチャンスを与えられていたのです。
 しかし、そこへ持ってきて「一般の女性を口汚く恫喝」というドクさべ氏のやり方は、「男性の加害者性」を一般人にむしろ一番悪い形でアピールすることにしかならない。「ほら、やっぱり男はワルモノでしたよ、さあ、男を批判してくださいね」と言わんばかりに。
 ぼくたちは天から与えられた千載一遇のチャンスをみすみす逃し、「しかし女性も被害者だ」「しかし痴漢が一番悪い」といった論理のすり替えで心を落ち着けてしまいつつあります(まあ、これ自体はドクさべ氏のせいというわけでは全くありませんが)
 ドクさべ氏お望みの「代替案」をぼくが提示するとするならば、男性を啓発し、自らの被害者性に自覚的になるよう促すことでしょうか。しかしドクさべ氏の恫喝運動はまさに「女性を自らの被害者性に目覚めさせ/男性を自らの加害者性に目覚めさせ」る最悪の手段を取っていると言えます。
 ドクさべ氏の少数の支持者は彼らのパフォーマンスを見て、「選ばれし者」の道を歩くことでしょうが、多くの男性は「あぁ、やっぱりああいう主張はダメだったんだ」「ああなってはいけないんだ」「男性はやはり加害者だったんだ」とそこで考えること、感じることをやめてしまうでしょう。


 最後に。
 上の引用先では、ドクさべ氏による兵頭新児批判が語られています。
 そこでは彼が「兵頭新児の発言」を勝手に曲解し、デタラメ極まる解釈を吹聴していますが、それはああした人々のお約束で、取り立てて騒ぐことでもありません。
 ぼくが見ていて大変奇異に感じたのは、(以下、本当に細かい断片の引用になりますが)


私らの洗練された啓発活動を(はなから)否定的にしか見られない


私ら「選ばれし者たち」のことをアレコレ言っているのですから、「笑止千万」です(汗)


 と、何と言いますか、文章にものすごくあどけない自己肯定感が溢れていることです。
(ぼくはこのブログの「選ばれし者」というタイトルを「ひょっとしてそれはギャグで言っているのか」と思っていたのですが、彼らはどうやら大マジメなようです)
 ちょっと思いついて、彼のブログを「正義」で検索してみると、101ページ分ヒットして、恐れをなしてしまいました。1ページ
で見るのをやめてしまったのですが、その1ページ分だけを以下に引用すると、


私らは「悪人」でも何でもない、と言うか、あえて言わせていただければ、「正義の騎士」である


「理」はこちらにある。「正義」はこちらサイドにあるのだから、何も臆することはない。相手が誰であれ、「世の中のウソ、デタラメ、インチキを正す」というのが「選ばれし者たち」に託された「使命」である。


 といった具合です。
 ぼくは今まで生きてきて、ここまでまっすぐに「我こそは正義」と断言する人を初めて見ました。
 こうした思い込みの強さが、相手との対話を許容しないドクさべ氏の硬直したやり方につながっていることは、もはや言うまでもないことでしょう。
 そしてそのうっとりするほどの「
血のたぎったたくましい硬直」はホモソーシャルな連帯()を生み、敢えて言いますが信者同士の快い共同体を作り上げる。
 事実、ドクさべ氏の支持者の彼への崇拝ぶりは「信者」と呼ぶにふさわしいものです。
 新興宗教の教祖は、往々にして「スプーン曲げ」などの超能力のパフォーマンスでもって、人を「虚構の世界」へと引きずり込み、「信者」にしてしまいます。
 その意味で「女性専用車両乗り込み」もまた、一種の超能力であると言うことは、言えるのかも知れません。


 

 

 

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ドクター差別と詰られし者たち

2013-02-09 12:15:22 | 女性専用車両

 以下はニコニコチャンネルのブロマガ、兵頭新児の女災対策的随想において既にアップされた記事です。 

 目下、兵頭新児は活動の軸足をそっちに移そうかと考えているのですが、或いはアカウントを持っていてそちらを見られない方もいらっしゃるかもと思い、こちらにもアップしてみることにしました。

 こちらを完全に廃墟にしてしまうのも何だか寂しいので。

 ただ、従来執筆順に数ヶ月のタイムラグを経てこちらにupしてきたのですが、今回はちょっと話題になっているネタということもあり、昨日upした記事をこっちにも載せることにしました。


     *     *     *     *


  すみません、実は今日丸一日かけて動画を作りました。
 大したものではないのですが、長いために結構な手間を要しました。
 正直いまだ当ブログの扱い方を理解しきれているとは言い難く、どうしていいのかわからないのですが、まずはアップした動画「ドクター差別と詰られし者たち」をご覧ください。

<noscript>【ニコニコ動画】ドクター差別と詰られし者たち</noscript>

 後、どうもブロマガ経由の投稿だとコメント不可になるので、通常版も上げてみました。

<noscript>【ニコニコ動画】ドクター差別と詰られし者たち・改.wmv</noscript>

 また、見たことのない人は是非、彼ら自身が上げた動画「ワガママ女の巣窟」もご覧ください。



更に(「選ばれし者たち」の栄光)において彼らの批評が書かれておりますので、そちらの方もどうぞ。
 こちらの方にも多少、記事を書こうとも思ったのですが、もう体力の限界です。
 反応なども見つつ、それは後日……。
 

 

 

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「選ばれし者たち」の栄光

2012-07-14 23:32:43 | 女性専用車両

「ドク○ー差別」という名を名乗り、女性専用車両に乗り込む運動をやっていらっしゃる方が、います(「○」には「タ」が入ります。以降、「ドクさべ氏」と呼称)。
 ですが、ぼくはかねがねそうした「強硬策」に対して「賛成できない」というスタンスを取ってきました。
 そこで両者が激突してしまいました。
 きっかけはぼくがツイッターで「乗り込み運動」に否定的なつぶやきをしたことに対して、彼が絡んできたことでした。
 それは以下にまとめられています。

  

大女尊男卑空中戦 兵頭新児対ドク○ー差別
 

 正直、ぼくは彼を存じ上げた頃から「通じないだろうなあ」と感じ、積極的に話をしたことはなかったのですが、いざ対話を持ってみると、やはり彼はひたすら「我々の行いは合法だ」と繰り返すばかりで、「大衆にアピールするのに効果的でないのではないか」とのぼくの疑問に答えることは最後まで、ありませんでした(これは「運動」が「目的化」してしまった人にありがちな転倒です)。
 更に、「そんなことをしていて痴漢冤罪でパクられたらどうするんだ」といった危惧に対しても危機感を持っていらっしゃるようには、あんまり見えません(これについては「2011年女災10大ニュース(その2)」においての彼自身のコメントを参照)。
 他人様のやることですから「ヤメロ」とも言えませんが、しかし彼らが軽弾みに振る舞って、それが大事になったら……という危惧は、決して非現実的なものだとは思えないのです。

 

 彼のサイトでも関連したエントリが作られ、またコメントがされております。

 

「ドク○ー差別と選ばれし者たち」
拝啓 兵頭新児殿 いつになったら乗れるのですか?

 

 この「拝啓 兵頭新児殿――」を見ると女性専用車両に乗り込んだ自分たちを難詰した女性を警察に突き出し、また示談を成立させたと述べられており、さすがに行きすぎではないかと感じ、問い質そうとしたのですが、彼は事情を説明することなく、とたんに言葉を左右にし始め、ついにはこちらの発言は削除されてしまいましたw
 そのコメント欄におけるやり取りはかなり膨大なものになるので上のリンク先を見ていただきたいのですが、これを見る限り、彼が信頼に足る人物だとは、ぼくにはとても思えません。
 この話しあいにおいて、ぼくは専ら事実関係を明らかにすることに腐心しました。

 

 1.「まず、現場に警官がいたのは何故か。誰が呼んだのか」

 

 についてはまともに説明をしないまま、ぼくがやむなく想像で「こうだったのですか?」と問い質すのに対して、相手をバカにしたような返答を繰り返すのみ。
 これは例えれば、
 A「俺、昨日の晩、何食ったかわかる?」
 B「わからん。カレー?」
 A「ブー。バカじゃね?」
 B「じゃあハンバーグ?」
 A「ブー。そんなこともわからないの?」
 といったやり取りと同じで、何故彼がこんなことでここまで心理的優位に立とうとしているのか、どうにも理解に苦しみます。

 後々、彼はぼくが事実関係を問い質そうとしているのを

 

反論されて「分が悪くなる」と、「インタビュー」などと下手に出て、

 

 と形容しています。
 インタビューが「下手」だとは初めて知りました。
 どうも彼の文章からは、往年の市民運動家が新聞社のインタビューに(
実は見下されているのだと気づきもせずに)横柄に応じるような邪気のない傲慢さが濃厚に漂っています。

 

 次に

 

 2.「示談があったのか」

 

 ですが、これも話を聞くと当初は

 

私の知る限り、5人の女性が警察に突き出されております。あと、2人は「逃走中」。
とは言え、基本的に、警察には「男性排除=強要罪」という認識はございませんから、「男性排除犯」の女性は、侮辱罪や暴行罪を絡めて警察に突き出します。しかし、女性に対しては、「男性を排除した」ということを認めさせ、「二度としない」と約束させます。そういう約束をした女性は、示談とし、告訴はいたしません。今のところ、5人全員が謝罪し、「二度としない」と約束しております。

 

 と言っておきながら、ぼくが詳しいことを尋ね出すと、

 

警察が「示談にしてはどうか?」と言ったらしいですよ。
 
 と言葉をひるがえしました。
 この辺りから彼は、ぼくの問いかけに答えるのを避け、話を左右にし出しました。
 もし女性たちと彼の間に話しあいがあり、女性たちが約束したのであれば、それはそれで簡単ながら「示談」と呼べなくもないでしょう。
 が、ここで話を変えたというのはやはり、彼にとってつつかれてまずいネタであったのではないでしょうか。
 最後期に彼は、

 

①私らを強制排除しようとした女性がいて、
②私らに警察に突き出され、
③警察署で調書を取られ、
④始末書を書かされ、
⑤警察官に示談を促され、
⑥示談に応じて、私らに謝罪し、「二度としない」と約束した、
⑦だから、私らは、その女性を告訴せず、許した、

 

 と説明しました。
 こうなれば、一応の辻褄はあいます。むろん、本当のことだったのかはおくとして、ですが。
 しかし、ならば「警察が示談にしたらと言ったそうですよ」といった発言はいかにも不自然ですし、
ぼくが再三尋ねていた時に、「示談はあったのだ」とちゃんと説明しなかったのか、疑問は残ります。
 また、普通、示談と言えば書類が取り交わされるはずですが、それについても繰り返し繰り返し尋ねて最後の最後に「それはない」と答えたのみ。確かに「示談」そのものは「話しあい」以上の意味はなく、書類の作成が必須では恐らくないはずですが、そうしたことを手柄であるかのように喧伝するくらいなら、書類くらい作っておくべきでしょうに……。
 むろん、これをもってぼくは彼らの発言を「ウソだ」と断じているわけではありません。
 要するにまあ、「警官がうるさいことを言う市民に対して『まあまあ』となだめるために『示談』というそれらしい単語を使って話しあいによる和解を進めた」という
ありがちな経緯はあったのでしょう。
 ぼくが疑問なのは彼が徹底して言葉を左右にして、明言を避け続けたことです。
 或いは、ぼくとドクさべ氏のどちらか(或いは両方)のコミュニケーションスキルの欠如が、不幸な誤解を生んだのかも知れません。或いはまた、彼もぼくに挑発されたように感じ、素直に「事実関係」を開示する気になれなくなったのかも知れません。
 しかしいずれにせよこうした態度は不誠実に取られます。
 もし彼に後ろ暗いところがないのであれば、なすべきことは「相手の発言の削除」ではなく、「できるだけ詳しく、当時の事情を説明する」ことでしょう。

 いえ、以下のように、それは後ほど、第三者によって一応、果たされました。

 しかしそこでも、彼らが主張する、女性からの「侮辱罪・脅迫罪・名誉棄損罪」の被害というものがどんなものであったか、具体的な説明はなされていません。

 悪いですが、「自分にちょっと手が触れたのを『ぶたれたー!』と騒ぐ市民団体」といったものを、ここで連想する人はかなり多いのではないでしょうか。

 

 さて、その「発言の削除」についてです。
 彼は最後に

 

まあ、大抵の賛成派、アンチがそうですが、言い返せなくなると、相手の誹謗・中傷に走る輩がいます。残念ながら、兵頭氏もその1人のようです。2つ上の、投稿の一部に「不適切な表現」がありましたので、その投稿は削除されました。

  

ということに納得がいかないようであれば、今後、書き込みはご遠慮ください。

 

 

 と言い捨てて対話を拒否しました。
 しかしぼくは彼を誹謗中傷した覚えはないし、仮に「誹謗中傷」したのならそれはぼくの下劣さを世に知らしめることになるのだから、ドクさべ氏もむしろ削除しないことで自分の優位性をアピールできることでしょう。これは
彼が「削除」したことで「兵頭が何やら悪質なことを書いた」とミスリードさせてしまうようなやり方です。

 何しろ、彼の言い分が振るっていて、


誹謗・中傷だけでなく、相手を揶揄するのも、このブログのルールでは「削除対象」になりますので、お気をつけ下さい。「w」とか「笑」などのマークも、管理者に揶揄と見なされれば、「削除対象」となります。


 というのですから、これでは自分の発言をつつかれたくなく、強引に話をリセットして誤魔化してしまったのだ、と言われても仕方がないのではないでしょうか。
 いえ、彼がそうした狡猾な人物だといっているわけではありません。彼は良くも悪くも天然で、自分の正義を、相手側の悪を100%信じているのでしょう。

  しかしその「天然」な性格は容易に独善に陥り、「我々に賛同しない者は敵」といった危険な二元論を呼び起こします。
 だから彼は敵対的な人物については憶測と妄想で罵倒を続けておきながら(彼はぼくの著作「所詮、「自費出版」の域を出ない」と評しているのですが、そんなことすらも妄想で書き連ねているのか、それともクオリティ的に自費出版レベルだと言いたいのか……)、自分が何か言われると

 

礼節と申しますか、礼儀と申しますが、大人として最低限度のマナーは必要でしょう。

 

 などとぬけぬけと言ってみせるほどに傲慢になれるのでしょう。
 また、彼はぼくの「兵頭新児」という名義がペンネームであると(何故か、誰もそんなことは言っていないのに)断じ、

 

つまり、自分は何の危険も冒さず、安全な立場にいて、高みの見物よろしく、アレコレ言っているだけ。責任を持っての発言でもないし、そもそも、責任を持つ気もないのでしょう。

  

 などと言い立てます。

 

 じゃあ「ドク○ー差別」という名義はどうなのか、との疑問が沸きますが、多分「自分は正義だからおk」なのでしょう。


では、「兵頭新児」なる人物が、一皮むけるには、どうすべきか? 一にも二にも、まず、責任感を持つことです。そうすれば、ネット情報に頼らず、自分の足で情報を得よう、とするはずです。

 

 むろん、彼はぼくの著作を読まずに、こうしたありがたいアドバイスをくださるのです(何故か、彼はぼくがネット情報をコピペして本を作っているのだと信じきっています。彼の脳内の「マスゴミ」イメージの投影なのか……)。

 上に市民運動家とインタビュアーの例を挙げましたが、こうした「市民運動家」にとってマスコミとは自分の手足として動く奴隷みたいな認識なのかも知れません。彼らにとって、新聞を飾る「当事者である自分」の写真が重要であって、「評論」などというジャンルの存在も、ご存じないのではないでしょうか。

 彼らをオウムに喩えるのはあまりにも安易かも知れませんが、そもそもが世間にあまり受け容れてもらいにくい価値観を持っている者という点では彼らも、オウムも、そしてぼくたちも大差ありません。
 オウムは珍奇なパフォーマンスと共に選挙に打って出て、世間の失笑を買いました。
 しかし彼らは「自分を客観視」する目に欠け、世間の失笑を「自分たちへの快哉」であると感じていたフシがあります(これはオカルティストには極めて普遍的な特徴であるように思われます)。
 しかし結果は惨敗。彼らは世を拗ね、閉鎖性、独善性の中へと引き籠もり――そしてそれが何を引き起こしたかは、皆さんよくご存じでしょう。
 繰り返しますが、ぼくは気に入らない者に対して「やーい、オウムといっしょ」と言っているわけではありません。マイノリティとして、オウムの失敗は他山の石にすべきだ、と言っているのです。

 

 ぶっちゃけ、ぼくはデモも含めた「市民運動」と呼ばれるものに、強烈な嫌悪感があります。だから、ぼくの反応もまた、やや過剰なものであることは否定しません。
 しかしそれを鑑みた上で、それでも「選ばれし者」だけで集まり続ける彼らの言動は、そうした70年代的「市民運動」の傲慢さを色濃く受け継いでいると、判断せざるを得ないのです。

 最後に、オウムのついでにフェミニズムにも言及しておきましょう。
 80年代末から90年代初頭にかけて、フェミニズムバブルがあった、ということは幾度も述べています。しかしそこで、「女性差別」的な広告、CMなどに文句をつけるといった活動を続けた「行動する女たちの会」は世間からの嘲笑と反発を受け、消滅してしまいました。
 しかし、思想的には彼女らと何ら代わりのない上野千鶴子師匠たちはアカデミズムの中で地位を築き、近年もベストセラーを出し、「勝ち組」となりました。
「男性差別」業界の中にはフェミニズムに心理的に親和性があるかどうかはともかくとして、彼女らの方法論(というか、70年代の市民運動的方法論)を見事なまでに踏襲している人々がいらっしゃいます。
 しかしやはりそれは「おわコン」であるということを、ここで強調しておかないわけには、どうしてもいかないでしょう。
「選ばれし者たち」は、どこにも到達することはできなかったのですから。


☆補遺☆

 

 彼らのサイトで(ドクさべ氏ではない、彼の関係者による)書き込みがありました。

 

私と男性2人で女性専用車両に乗車していた際、侮辱罪・脅迫罪・名誉棄損罪などの被害を、女性乗客から受けました。駅に停車したところで現行犯逮捕し、警察に引き渡しました。

  

 警察は女性の身柄を受け取り、警察署に連行しました。私たちは最寄りの交番で事情を聞かれた後、警察署に自由意思で行きました。

  

 警察は私たちからと女性から、それぞれ事情聴取し紙に録取しました(女性については、警察官からその日に聞いています)。警察は女性に示談を勧め(同じくその日に警察官から聞いています)、女性が私たちにもう二度としませんと誤ったので示談にしました。

  

 まあ、要するにそういうことだったのでしょう。


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2011年女災10大ニュース(その2)

2011-12-26 00:20:27 | 女性専用車両

 みな様、早いものでもう12月26日です。クリスマスまで後僅か364日。
 クリスマスツリーやクリスマスプレゼントの準備は整っていますでしょうか。
 ――わかりにくいので書いておきますが、以上は歌丸師匠が毎年やるry


 さて、前回に引き続き、今年の女災10大ニュースのランキングを発表して参ります。
 前回はどちらかと言えば私事の愚痴メイン、といった感じでしたが、今回は比較的、「女災業界」(むろんそんなものはないのですが)全般を見渡して感じた大きな変化について、多少まとめて起きたいと考えております。
 というわけで第5位、4位は同時に発表してしまいましょう。


 【第4位】『中国嫁日記』が人身売買であると、フェミニストに噛みつかれる
 【第5位】「ろりともだち」を絶賛した東浩紀師匠、フェミニストに噛みつかれる

 もうさんざん語ってきましたし、ずっと当ブログをご覧いただいていた方からすると、もう飽き飽きのトピックスかも知れませんね(「ろりともだち」「同(その2)」「同(その3)」、『中国嫁日記』、『同(その2)』)。
 フェミニストたちは、見ていけば見ていくほど奇怪としか表現し得ない主張を繰り返しています。
「オカマは(本人は女性としての自意識を持っているのだから)女湯に入る権利があるのだ」という者。
「女性の性的尊厳は男性の生命に優先されるべきだ」と言う者。
 ホモが小学生の少年と性交渉を持つことを肯定的に紹介した本を、絶賛する者。
 実にびっくりな、面白い人たちに出会えました。
『中国嫁日記(その2)』においてぼくは、そうしたフェミニストたちに対して「確かに、ツイッター上で話題になるフェミニストたちはお決まりのメンバーであり、彼女らがフェミニストの中でも少数者である、ということは言えるのかも知れません。」と書きましたが(そしてそれは別に間違ってはいないのですが)彼女らのような過激なフェミニストはトゥギャッターの餌食になっている数名の有名人だけであり、本当に例外的な人物なのだ、ということでは決してありません。
 今までは表に出てくる機会のなかった、少数派とは言えそれなりにフェミニズムの中で一つの勢力になっている人々が、ツイッターの「バカ発見器」としての機能によって真の姿をあぶり出されてしまったというわけです。恐らく「商業フェミニスト」であれば世間の受けを考えて隠している本音を、彼女らはついつい漏らしてしまった、というのが実情なのではないでしょうか。今ここで「ツイッターでつい、言った」という駄洒落を思いついたので特に記しておきます
 ネットというのは、自分の好みのコミュニティに自分の好きにコミットすることが可能な世界です。結構なことですが、一歩間違えると似た者同士が狭い世界で頷きあっているという自らの置かれた状況に気づかなくなるという罠があります。2ちゃんねるの、例えば『ドラえもん』スレに入り浸っていると、世間と自分たちドラえもんマニアの温度差がわからなくなってくる、といったように(一般人は「オシシ仮面」とか知ってるの? 知らないの?)。
 いや、オタクはむしろその辺りに妙に自覚的なのですが、その他のマイノリティたちにとっては(仲間に出会えるという多大な恩恵の反面)自分たちが日常生活では隠している感覚が社会性、市民権を得たという錯誤を抱くというデメリットを持っています。ニコ動にアップした自分たちの姿を賞賛しているのは実は自分たちだけだと気づけないままになってしまう、ということですね。
 恐らく、これを押し留める方法はありません。
 みなさん「みんな違って、みんないい」と物わかりのいいことを言って、他人様には口を出してはいけないというルールを遵守なさっていますから。2ちゃんねるなどの「ファンスレ/アンチスレ」の妙にお行儀のいい共存ぶりなどはその一例と言えるでしょう。
 が、ここで何故フェミニストに限ってはその特異性があぶり出されてしまったのでしょうか。
 その答えは次項で。


 【第3位】進歩派たち、謎のフェミニスト擁護

 これも結構繰り返していることです。
 ネット上でフェミニストの特異性が露わになるにつれ、「いや、彼女らは似非フェミ/ウヨフェミ/ラディカルフェミニストだ、本物のフェミニストではない」といった「擁護」を行う人々が目立ち始めました。
 そうした主張の出どころは左派の、反児ポ運動の論理的支柱になっている人々だと想像できます。彼らはフェミニストたちと極めて親和的である反面、フェミニストのアンチポルノ運動に深い憎悪を抱いており、その両面性が彼らをしてそうした矛盾に満ちた言動に走らせているわけですね。
 例えば、上野千鶴子師匠。
 彼女は表向き「表現の自由」を尊重するような主張をしているが(或いは、心底その価値観を信じているが)、同時に売買春を否定する主張もまた、繰り返しているのです。しかし売買春を否定するならAVも否定せざるを得ない。それは殺人を否定するのであれば、「映画撮影のために殺人を行う」ことを否定せざるを得ないのと同じです。
 彼ら彼女らがこの矛盾について説明したことは、ぼくの知る限り一度もありません。恐らく深層心理下では薄々気づき、そのため思考を停止してしまっているのではないかと想像できます。
 閉鎖的な共同体にいる限り、そうした矛盾は「何となく」スルーしたままでいられる。が、なまじ児ポ法反対運動という形で「オタク」という大勢力を取り込もうとしたため、彼ら彼女らのカルト性が表に出てきてしまった。そういう構図なのではないでしょうか。
 オウム事件当時、上祐がテレビ関係者に「麻原彰晃の空中浮遊能力について信じているのか」と問われ、気まずげな顔になって口を閉ざしてしまったという一幕がありました。恐らく彼は空中浮遊について信じているわけでも信じていないわけでもなく、「何か、考えないようにしておこう」というスタンスでいたのでしょう。
 フェミニズムがいかに矛盾を露呈してもダンマリを決め込み続ける進歩派たちの内心もまた、これに近いものなのではないでしょうか。


 【第2位】女性専用車両反対運動盛り上がる
 この一年くらいでしょうか、ことにツイッター上では賛否共に、本当に盛り上がってきたと思います。
 ぼくもツイッター上でしか知らないのですが、彼らはオフにおいて、
 1.街頭演説
 2.実際に女性専用車両へと乗り込む運動
 の二種の運動を行っているようです。
 1.については、女性専用車両に限らず、「男性差別」をテーマにして演説を行っている人たちもいるようです。
 2.については、実際に乗り込むことにより事実上の廃止に追い込もう、というのが狙いのようです。
 とは言っても、ぼくをフォローなさっている方はおわかりかも知れませんが、この「盛り上がり」について、ぼくはどうにも評価しにくいのです。或いはぼくの中にある市民運動アレルギーが原因かも知れませんが、それにしても、と思います。
 ツイッター上には運動家たちがリツイートしたとおぼしき、運動に対する反応が並んでいます。
 反対意見を述べる人たちの「リクツ」は、要は「女性専用車両ができたのは痴漢のせい、即ち男のせいだ、自業自得だ」というもの。これは、それこそ「男は男として生まれた瞬間、悪者なのだ」というフェミニズムを援用しない限り正当化し得ない、全くの詭弁です。
 しかしそれよりも問題なのは、フェミニストでも何でもない一般の人々によるものと想像できる、リクツではなく「感覚」的なリアクションです。
 即ち、「何だありゃ」「みすぼらしい男どもばかり」といった反応。
 ツイッター上ですらわざわざそう呟かれてしまうのだから、恐らく演説や運動を見る者の大多数は、そのような印象を抱いていることでしょう。
 現代の日本人の中で、思想としての「フェミニズム」を信奉している人々の割合は恐らく、1%も満たないことでしょう。しかし残りの99%はやはり、「女性はいたわらねば」と素朴に信じている人、或いは疑問を感じつつも「女性には逆らわない方がいい」と考えている人たちであることが想像できます。少なくとも、フェミニズムそのものには賛同できなくとも、「男性差別」と言われてしまうと拒絶反応を示すのが大多数であると、考えざるを得ません。
 彼らの強攻策はそうした潜在的な層の疑問を、引っ込ませてしまう効果こそあれ、目覚めさせる効果は極めて薄いと言わざるを得ない。
 それはやはり、今時市民運動など「みっともない」という意識が働くからです。
 フェミニズムもまた、そうした「みっともない」という目で見られ、廃れていった思想なのですから。
 しかし運動家たちと話してみても、どうにもそうした意識が薄い*。

「私の主張は正しい、だから受け容れられるはずだ」「大衆は我々の運動に賞賛の拍手を送っているはずだ」といった素朴な信心に、彼らは支配されているようです。
 そうした、言ってみれば彼らの楽観主義、ナルシシズムがぼくにはどうにも理解しがたい。


*「では反原発デモはどうなんだ」と言いたい人もいるかも知れませんが、あれは東電というわかりやすい悪者がいたからこそなし得たことです。そうした仮想敵のないパフォーマンスをやってみせても、フェミニストがそうであったように、世間はパフォーマーの姿しか見てはくれないのですね。


 例えば、『ちび黒サンボ』。
 今では普通に出版されていることと思いますが、市民団体がこれを「黒人差別だ」として、回収騒動を起こしたことがあります。『ウルトラセブン』の第十二話しかり、こうした市民運動は70年代から80年代にかけて盛り上がりを見せ、やがて支持されていないことが判明し、力を失っていきました。
 これら市民運動が批判される時に決まってなされるのは、「彼らは本物の黒人ではない」といった、いわゆる「ホンモノの弱者、マイノリティ」と言われる人々と「分離」しようという試みです。『ちび黒サンボ』の排斥運動については好ましく思わないものの、ぼくたちは「ホンモノの黒人」に逆らう勇気は持てず、「運動家が黒人ではない」ことに胸を撫で下ろしつつ、彼らをバッシングする。
 極めて倒錯した構図ですが、ぼくたちはこうした迂回路を通じて、どうにかこうにか市民運動に対する嫌悪感を表明してきました。
 が、今回「我こそは弱者だ」と名乗っているのは「男性」です。世間は安心して、何の心配もなく市民運動を叩けます。
 近い例に、例えばテレビなどでタレントが声優などをバカにした時、オタクがそのタレントのブログを炎上させ、謝罪騒動などを起こすことが度々ありますよね。
 が、世間にとっては、これもまたオタクを叩く絶好の機会となってしまうわけです。
 同じことをフェミニストが、ホモが、何らかの病者などの団体が行った時、ぼくたちはその行動に嫌悪を感じつつ、どうも拳を振り上げにくい。しかし
「弱者」マークのついていないオタクであれば、安心して叩くことができる(まあ、逆に言えばこうした事件は既にありふれすぎていて、わざわざ叩こうという人も少ないかも知れませんが)。
 それと同じことが、「男性差別運動」にも起こることは必然なのです。
 例えば、女性専用車両に乗り込んだ「運動家」が痴漢したと訴えられ、逮捕でもされたら。
 それが冤罪でも、圧倒的にこちら側が不利です。
 そうなったら、世間はここぞとばかりに、攻撃の刃を「弱者」マークのついていない者たちに向けてくるのです。
 はっきり言えば彼らの運動は「さあどうぞ叩いてくれ」と言わんばかり、赤ずきんちゃんが狼の寝るベッドに全裸でダイブしているようなものです。
 ぼくたち男性は「弱者」です。
 しかし、「弱者」マークはついていない。
 この両者の違いを、もう一度よく考えてみる必要があるのでは、ないでしょうか。


 最後にちょっとだけ、彼らの(やり方ではなく)言い分に対するぼくの感想を記しておきます。
 彼らの言い分は「女性専用車両には法的根拠がない(或いは憲法違反だ)から男性が乗っても構わない」といったもののようです。むしろ誰かがこれを指摘してから、水を得た魚のように運動が活発化した印象さえあります。
 しかし企業サービスが法的に根拠のない約束事を顧客に課すことくらい当たり前です(当店では○○はご遠慮いただいております)。それに法的根拠がないだの憲法だの基本的人権だのを理由に文句をつけることは無意味だ、といった反論がなされており、ぼくもそれに賛成します。
 ただし、鉄道は公共性の強さ、代替物のなさなどからレストランや小売店とは違う、といった論法で女性専用車両の不当性を(実力行使ではなく対話で)訴えること自体はおかしなことではないと思います。ただ、法律だ憲法だを大上段にドヤ顔で一本調子に振りかざすやり方には賛成できませんし、一般人には賛同されるよりは退かれる可能性が大変に高いわけです。
 また、普通に考えればこの問題の落としどころは、銭湯のように男性車両と女性車両を分けてしまうことでしょう。しかしそれを誰も言わない(賛成派からも反対派からも出て来ないのが不思議です)。いえ、進言されても「それは許せぬ」と一蹴してしまう。
 そうした硬直性、運動自体が自己目的化してしまっている「運動ヲタ」的なムード。それこそが一番、一般人をして退かせる要因になっているということを、一度考えてみた方がいいのではないでしょうか。
 エコロジーブームからこっち、昨今の「運動」はとにもかくにもまず実行、「わたしにもできること」があるはずだという前提から出発して、それが何を引き起こすか考えずに軽率にやらかしてしまう、やらかして達成感に浸る辺りに本質があるように思います。
 ただ、こうした傾向の一因は、ぼくたち男性が自分たちのための思想を、言葉を深めてこなかったことにある、とは言えそうではあります。だからあんまり深みのない、わかりやすいだけの言葉に、限定版を見つけた萌えヲタのごとくに飛びついてしまう。
 少し前、何とか言葉を紡ごうとしてぼくたちの何とか社会みたいなことを言った人がいた気がするのですが、どうも上のようなタイプの人々は、そもそもご本をお読みにならないような感じがするところが、大変に残念です。


 【第1位】DV冤罪に対する反対運動の声が上がる
 ほい、堂々の第一位はこれです。
 目下、最も目立って、深刻で、また「アツい」女災の話題は間違いなくこれでしょう。
 ――などと言いつつ、すみません、不勉強で詳しいことは知らないのですけれども。
 要は妻と悪徳カウンセラーが結託して夫をDV冤罪に陥れ、夫婦を離婚させようとしている、或いはそうした濡れ衣を着せられ、親権を剥奪されて実の子に会うことすらできなくなった男性が大勢いる、そうした男性たちが今、悪徳弁護士やカウンセラーなどに対して声を上げ始めているのです(むろん女性の被害者もいるわけですが、圧倒的多数は男性です)。
 これは昨今、ハーグ条約への加盟に絡んで語られることが多くなっています。ハーグ条約とは国際結婚が破綻し、一方の親が自国に子どもを勝手に連れ帰った場合に元の国に戻すことなどを定めた法律(日本は未加盟ですが、本年加盟方針を打ち出しました)なのですが、米国のキャンベル国務次官補がDVから逃れてアメリカから帰国する日本人の元妻らがいるが、「実際に暴力があった事例はほとんど見つからない。相当な誤認だ」と語ったというのです。
 これはセクハラ、ストーカー、痴漢といった他の性犯罪冤罪と全く同じ構造を持つと共に、悪徳カウンセラーが妻を唆しているという現実があるそうで、だとするとかつてアメリカでフェミニストが引き起こし、何万という家庭を破壊した、幼児虐待冤罪といよいよそっくりです。
 またこれは、ぼくたちが「女性の訴えは証拠がなくても信じよう」という宗教的情熱を燃やし続けてきたことに対するしっぺ返しでもあります。こうした優位性、言ってよければ権力を握ってしまえば、そこには必ず腐敗が生ずる。今の女性たちの腐敗ぶりを、ぼくたちは真摯に見つめる必要がありそうです。
 ただ、この問題については可能性を感じつつ、二つほど不安要素もあるように思います。
 第一にこれは「子供のため」といった大義名分があるために主張に説得力を持った、という側面があることは否定できません。フェミニズムの嘘が暴かれればそんな経緯はどうでもいい、と言うこともできますが、ぼくたちが本当に目を向けるべきなのは「男=加害者/女=被害者」という、それこそフェミニズム以前からずっとぼくたちの心に根を下ろしている「偏見」なのです。
 第二に、こうした運動をしている人々の中には(フェミニズムを批判する人も多い一方)やはり児ポ運動と全く同じに「いや、悪いことをしているのは似非フェミニストだ」といった主張をする者がやはり、存在することです。彼らは
自らの子供を奪われながらも、それでもフェミニズムを守ろうとし続けています。
 痴漢冤罪がそうであるように、この問題も物事の本質を突くより、司法を悪者にする方が容易である上に世間の理解を取りつけやすいことは言うまでもなく、「司法を司る男こそが加害者であった」というオチがつきそうな気がします。
 ぼくたちが本当に目を向けるべきなのは「男=強者/女=弱者」という、それこそフェミニズム以前からずっとぼくたちの心に根を下ろしている「偏見」にあるというのに。
 そんなこんなで、「女災」そのものに人々が目を向けるのはまだ当分先になるかも知れない、という気も残念ながら、どうしてもしてしまうのです。

 ちなみに……この「DV冤罪」についてはあのオタクの味方、ローゼン閣下くらいオタクの味方でいらっしゃる上野千鶴子師匠がケッサクなリアクションをしていらっしゃいます。

 そのリアクションとは……来年に続く。


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