兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

恋愛氷河期

2015-09-25 19:05:27 | 男性差別


「この世は神様が作ったんだから、ちゃんとした法則性があるに違いないンゴ」
「よし、その法則性調べるため、“自然科学”というツールを考えたンゴ」
「それによって神様がいないことがわかったンゴ」


 以上、三行でわかる科学の歴史でした。
「自然科学」は「キリスト教」の子供です。
「キリスト教」を殺した、親殺しの息子です。
 そして「フェミニズムの息子」たる勝部元気師匠もまた……というのが今回のお話です。もっとも勝部師匠が、ご自分のおっしゃっていることと聖書との徹底的齟齬に自覚的であるかどうかは、いささか心許ないのですが……。

 さてこの勝部元気師匠、「KTB」との愛称で親しまれる、twitter芸人としても著名な方です。チャラいホスト風のルックスで古拙なフェミニズムのロジックを振り回す、というのが芸風で、
LUMINE(ルミネ)が女性蔑視のセクハラCMを作って炎上中
いい加減ナンパを禁止にしてくれませんか?キャッチより怖いんです。
 といった珍論奇論を展開しては、まあ、はっきり言って男性女性問わず広範囲の人たちからブーイングを受けています。
 笑ってしまうのは本書の帯。

ナンパ禁止論や「反・不倫」論で話題を呼んでいるコラムニストが断言


 とあります。むろん、ブーイングであろうが何であろうが商売に利用できるものはする、という態度は正しいとは思うのですが。
 そんなわけで処女作である本書を、手に取ってみたわけですが……。
 とにもかくにも本書は、女に対して「恋愛、結婚ができないのは貴女のせいじゃない」、と繰り返します。帯にもまえがきにも本文でも最初の1p目から、そうした主旨の文章がとにかく何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返されます。
 では、何が悪いのか。
「貴女が結婚できないのは社会が悪い、結婚というシステムが社会の変化に対するアップデートができていないのだ」というのが師匠の主張です。
 師匠はプロローグから、「恋愛文化の終焉」との節タイトルを掲げます。おわコン化したのは結婚だけでなく、恋愛もまたそうだ、というわけです。
 師匠はまるで本田透の本でもパクッたかのごとく、ヴェルナー・ゾンバルトを引用し、資本主義、恋愛至上主義を糾弾します。

お金儲けを企む企業や人が、「モテないと負け組だぞ? 異性に選ばれたければ努力しろ! お金を使え! オシャレしろ! プレゼントしろ! ダイエットしろ! キラキラしろ! アイテムそろえろ! 女子力・男子力を磨け!」という圧力をかけます。それによって、恋愛・結婚のハードルがみるみる高くなってしまったのです。
(20p)


 なるほどなるほど。
 或いはKTB師匠は「電波男」の後を継ぎ、この世に「真の愛」を求めようという愛の戦士なのか?
 更に読み進めると、師匠は「なんと、一人暮らしの若者は女性のほうが、可分所得が高いのです。(57p)」と指摘。
 おぉ!
 いいぞ、KTB、もっと言え!!
 第1章では現代の恋愛が長期化し、仮に交際した時も「別れ」が念頭にあるために、結婚の困難さがあると指摘していますが、これは全くの正論でしょう。また婚活などの場でも「代わりがいくらでもいる」気安さから関係が安易になりがちであり、また打算で相手を見てしまいがちだと批判。その意味で、「打算」の部分を親や上司が引き受けてくれたかつての見合いを、彼は評価します。
 時代の流れであり、不可逆的なこととはいえ(例えばぼくも自分ではあまり見合いをしたいとは思いません)、これはこれで正しい指摘でしょう。
 第2章「恋愛のステップアップ術」では、出会い系サイトなどで「よい出会いを期待します」などの定型句があるが、受け身で期待していてはいけない、関係は作っていくものだとバッサリ。
 おぉ! いいぞKTBアニキ!!!
 また「男らしいタイプ」「尊敬できるタイプ」が好きという女性は相手のお金、権力、地位が目当てなのだから危険だと、いちいち大仰に頷かずにはおれない正論の嵐。
 輝いてます、アニキ!!
 第5章のタイトルは「ホテル代を割り勘する女性が幸せなわけ」。
 ホテル代を割り勘にする女性、男性に支払わせる女性、どちらがいいかと男性に聞いたところ、全員が「割り勘女子」の方を選ぶと言っていたぞ、とアニキ。「(男にばかり支払わせていては)ステキ男子の支持を失う」との節タイトルもステキな、アニキの正論!

 1つは、「お姫様願望を満たすためにお金は払ってほしいけれど、発言権はしっかり確保したい」というご都合主義に陥ること。これでは自立した魅力ある女性とは言えないですし、都合よく女性の体を消費しようと考えている男性から狙われても致し方ないと言わざるを得ません。
(148p)


 ステキです、アニキ!!
 感激に打ち震えながら、もう一度パラパラと目次をめくると――目に留まるのは節タイトル。

スマート女子とガラパゴス男子
マトモな男はいなくなった
女性の成長を邪魔するお荷物男子たち
男のプライドはどんどん傷付けよう


 ん……?
 何だかきな臭いものを感じつつ「スマート女子とガラパゴス男子」を眺めてみると、

 ファッション、食生活、趣味、キャリアコースなど、女性の価値観や生活行動は、時代の変化とともに急激に変化しています。一方で多くの男性がその変化に追いついていません。
(24p)


 う~ん……以前も採り挙げましたが、この種の「女は変化している」論ってバブルの遺物なんですよね。「女はファッション/食生活/趣味が豊かだが男は貧しい」とドヤ顔の師匠ですが、それ、女がカネ持ってるってだけやん。若年層では女性の方が可分所得が高いことを指摘したページでも、女性のコミュニケーション能力の高さを掲げ、これからもその傾向が強まるだろうと得意げですが、女の方がカネを持っているのは、女が男を養うことがないからでしょう(ちなみに本書には「主夫」という概念は登場しません)。
 また、ファンタジーであるコンテンツが日常に溢れる現代にはファンタジーリテラシーが必要となるが、男性はそれに乏しく、異性に対する歪んだ認識を持ちがちだ、との主張も。むろん、その主張を裏付ける根拠はどこにも記されていません
ロクでもない男の親はだいたい毒親」の節では、恋愛のハードルが上がったのはモラルの低い男性が増えたからだ、とご高説。そして、そうした男性の親は毒親だそうです。
 なるほど、母親が悪いのだな。また、当然女性のモラルも低下しているのだな……と思っていると、もちろんそうではなく、社会が女性を主婦に追い込んだから悪いのだそうです。う~む、均等法が施行されて三十年近く経つ今は、素晴らしい男女が増えていそうなものですが……。
 そうした男性は人格が未成熟なため、被害者意識で自らを武装し、攻撃性を発露させるとのことですが……それみんなフェミのことやん!!
 さて、ここで師匠は「モラル、モラル」と繰り返しています。また、「DV」「ストーカー」「リベンジポルノ」などといった性犯罪を例に持ち出してきています。
「レイプ」などを持ち出さず、「モラル」というどうとでも言えるモノや、近年の概念ばかりを例示するのは、「レイプ」などでは「減った」という数字が出るため、指摘されないための用心ではありましょう。師匠も満更、バカではありません。
 こうした男性の未成熟さの原因を、師匠は核家族化など現代社会の状況に求めていますが、しかし昔の方がDVやストーカーなど(そうした言葉がなかっただけで)非道かったはずだと思うのですけれどもね。
女性の成長を邪魔するお荷物男子たち」では「家庭的な女性がいい」との男性の恋愛観に従うと、女性の成長が止まる、婚活本などもそうした男性側の女性観を女性に押しつけている、男が悪い、と主張。
 いや……婚活本などを書いているのは大体女性でしょうし、そうした本が売れている以上、そうした女性観は男性が押しつけたものとばかりは言えないのでは……。
 男が「家庭的な女性がいい」と言うことをマザコン的甘えで、それが女性を傷つけていると主張するページでは、驚くべきことに「東南アジアの屋台文化に学べ」と提案しています。貧しい東南アジアを天国のように偽り、「日本よりも女性の社会進出が進んでいる、家事のアウトソーシングが進んでいるからだ」とするお馴染みの主張ですが、そんなモノに学ばなくても日本にはコンビニがあるでしょうに。それとも師匠、その存在をご存じないのでしょうか……?
 ひょっとすると師匠は大富豪で毎日ステーキの生活をなさっているのかも知れません。羨ましいですね
 補足しておけば、「ホテル代を割り勘する女性が幸せなわけ」の節においても、「割り勘を好む男ばかり」ではあるものの(それならば理論上、「男の方が女より先進的である」と言わざるを得ないと思うのですが、そうではなく)「そうした男子の中にも女性の人格を認めるが故に割り勘を選ぶPC的に正しい男子と、単に安くやりたいPC的に悪い男子がいるぞ」と「ワルモノ作り」の心を忘れない辺り、さすがの腕前です。
 とにもかくにも本書では「結婚できないのは貴女のせいではない」と「自己責任論」悪い主義を振りかざすその返す刀で「男が悪い、男が悪い」と繰り返しており、このダブルスタンダードぶりはいっそ潔いほど。

 第7章のタイトルは「結婚できないのは、あなたが悪いんじゃなくて結婚が悪い」(またかよ!)。
 ここでは「結婚は2億7645万円の損失」だとされます。これは女性がずっと働いた時の生涯賃金らしく、結婚はそれを諦めると言うこと。それ故、非婚化が進んでいるのだそうです。何と言いますか、「男にとって結婚は1億円の無駄遣い」というコピペを思い出します。
 ちなみに「女性はその全員が社会進出を望んでいる」は師匠にとっての大前提であり、専業主婦志望の女性という概念は、本書には存在しません
 この章でも、またまえがきでも、師匠は日本生命の調査を持ち出し「結婚したくない女性が男性の2倍になった」「結婚にプラスのイメージが持てないからと回答する女性が男性の2倍になった」と吹聴します。
 これはネットでも結構あちこちに書かれ、師匠自身もtogetterでまとめているのですが(「結婚したくない」女性が男性の2倍!増える結婚ボイコット)、これは実は70代、80代といった高齢のの女性の答えをも含めたデータであり、20代に絞ると男性の方が結婚したがっていないんですね。これは加齢と共に葡萄が酸っぱくなっているだけで、むしろ結婚願望の高さの表れでしょう。ちなみにそうしたデタラメさはtogetterでも指摘されているのですが、それを改めないどころか著書にも引用する辺りに師匠の不誠実さが見て取れます
 また、「個の時代だからみな結婚しない」と現状を(古市師匠の本をも持ち出して)肯定。少子化は「仕事と家庭の両立という無理ゲー」を強いる社会のせいだと続けます。いえ、それを女性に強制しているのはあなたのボスだと思うのですが。
 終盤に入ると、「なぜ、日本人男性はフランス人男性の10倍以上浮気をするのか?」という節が登場します。十倍という数値に驚いてよく読めば、師匠がこう主張する根拠は、買春のデータだけです。つまりここでは先と同様、「買春=浮気」という詐術でこうした主張がなされているのです。
 フランス人男性/女性と日本人男性/女性の比較は図にもなっており、要するに「日本の男はセックスをアウトソーシング、家庭機能を伴侶に求めるが、フランスの男は逆」。また、そこから導き出される必然として日本の女は母親役を強いられ、フランスの女は「母親である前に女性」であるともしています。
 ぼくは日本人男性の方がまだマシな気がするのですが、これ、女性には魅力的に映りそうですよね(大体、フランスって国を出された時点で女性はメロメロって気がしちゃいますし)。
 ところが、そこまで言っておきながら、フランスやスウェーデンでは結婚しない女が増えていることを称揚するので、こっちはひっくり返りそうになります。本書も最後の最後になって登場するこれが、どうも師匠の本音と言えそうです。
 それはつまり、「結婚も恋愛もおわコン、みなさん、一生"個"として生きていきましょう」というものですね。

 ――さてみなさん、いかがお感じだったでしょうか。
 勝部師匠が男の敵である、という事実は十全に伝わったかと思います。
 が、重要なのはネット上で、師匠は必ずしも女性に受けてはいない、ということです。
 この、ホスト面が。
 上にもある通り、師匠は「ナンパを法で禁止せよ」と署名運動を展開していらっしゃる面白い方です。また、「サニタリーボックスを汚物入れと呼ぶのは女性蔑視の現れ」とのまとめを作り、女性にどっ退かれたという経験もおありです。後者は発言をあっさり削除してしまったのですが、何と言いますか……「ジェンダーフリーを真に受けたガリ勉君の暴走」という微笑ましい感じが、どうしてもしてしまいます。師匠はきっと、「ジェンダーフリーなフェミニストの女性たちは、ボクの主張を冷静に理論的に受け止め、誉めてくれるはずだ」との思いがあったのではないでしょうか。
 本稿の冒頭、ぼくは師匠を誉め殺しました。例えば「デートの時に割り勘にせよ」的な主張はそれこそ「男性学」「マスキュリニズム」と称する先生方も時おりなさり、ぼくもそれ自体は賛成です。しかし同時にぼくは、「だが、とは言え、そうした主張をしながらもフェミニズムのダブルスタンダードに気づけない彼らは信頼できない」といった主旨のことをずっと言い続けてきたはずです。
 勝部師匠の言もそれと同様なのですが、それに加え、上のサニタリーボックスの件のような「女性の機微を理解しないマジメ君の失態」的な振る舞いがどうにも多く、ぼくは何だか師匠を憎めません。
 師匠の主張のうち、ぼくが誉めたモノも上の「サニタリーボックス云々」も、実はフェミニズムやジェンダーフリーに則れば、正しいこと、のハズなのですから。
 ひるがえって見合いを称揚したり、不倫を否定したりはフェミニズムに反しますが(フェミニズムは家族制を否定するので不倫はむしろ正義のはずです)、しかし「女性のため」を思えば決して間違った主張ではない。彼が持続的な愛情を重要視し、「腰や肩を抱えながら一緒にホームパーティーで来客を出迎えている海外の中年夫婦(123p)」を称揚しているのもそれで、これは欧米の強烈なカップル文化、ロマンチック・ラブ・イデオロギーのタマモノであり、フェミニストにとっては気の狂うほど憎らしいモノのはずです(あ、俺もここだけはフェミに同意だわ)。

 ぼくも勝部師匠のファンの一人として、ネット上でついつい彼をいじってきました。
 そんな中、ぼくは彼にはプロデューサー的なフェミニストがいると想像してきました。今時、バックアップがなければ無名の作家が本などなかなか出せませんし。だから権力を持つフェミニストが一般層にアピールする戦略として、こうしたチャラ男に本を出させたが、彼自身はフェミを超えたビッグさで、一般層もフェミ自身もどっ退き、といった図を想像していたのですが、こうして見るとその想像は当たっていないように思います。
 恐らく、彼は独学です。
 そのため、先の「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」といった概念はご存じではない。コンビニをご存じでないように。
 ただただマジメなガリ勉君であるがため、フェミニズムの主張を鵜呑みにし、フェミニストの見ている方が気恥ずかしくなるような輝かしいな自己像を真に受けてしまった。そのため、一方ではフェミニズムに則った(一般の女性からは総スカンを食う)高邁な主張をする。
 一方では「常識的女性」の感覚に則った反フェミ的な主張をする。
 彼の珍論奇論はそれぞれ一つ一つは「フェミニズム、或いは女性の利」に敵っており、奇しくもフェミニストたちのダブルスタンダードぶりを明らかにする破壊力を持つに至ってしまった。
 それが、実態なのではないでしょうか。
 ぼくが先に挙げた比喩の意味も、もはやおわかりでしょう。
 我らがKTB師匠は神殺しの兵器、ロンギヌスの槍だったのです。

夏休み男性学祭り(最終回:『見えない男性差別 ~生きづらさの理由~』)

2015-09-19 01:56:32 | レビュー


 何だかすっかり涼しくなって来ましたね。
 ローソンとセブンイレブンがおでんの安売りの予告なんかしてましたが、毎年こんな早くから売り始めるモノでしたっけ? それとも冷夏だから特別?
 さて、そんなわけでこの夏を通して行われた「男性学祭り」も今回が最終回。
 そもそも「男性学」「マスキュリニズム」復活のきっかけになったのはこの御仁の活動がきっかけではないか……とぼくが睨んでいる、久米泰介師匠。その『日経ビジネスONLINE』での連載を、祭ってみましょう。
 なお、この連載の前フリとも言える記事についてのぼくの所見は、「「女は「ガラスの天井」、男は「ガラスの地下室」男性の「生きにくさ」は性差別ゆえかもしれない」を読む」を参照してください。
 また、それぞれの記事に「第○回」と付しましたが、これは元の連載にはなく、こちらが便宜上につけたものであることをお断りしておきます。

第一回 タイタニックから逃げられない男たち 「男性は強者である」という神話

 まずはこの表題、そして


 男性差別を可視化するには、まず「男性=強者、女性=弱者・マイノリティ」という構図が「神話」であるということを解明しなくてはならない。


 といった箇所が象徴するように、スタート地点ではぼくと久米師匠は全くの同意見、師匠のおっしゃることに100%賛成です。
 しかし記事後半、「フェミニズムもマスキュリズムもゴールは同じ」という節タイトルを見るに、脳裏にふと不安が過ぎり……そして大変に悲しいことなのですが、その予感は的中することになってしまいます
 師匠は「欧米の軍隊においても女性は守られている」というご自分の訳書には書かれていた*1事実を伏せ、

 例えば兵役が男性だけに強制されていることを、マスキュリズムは「男性の命を犠牲にする男性差別だ」と批判するし、フェミニズムは「女性が指導的地位に就けないから兵役が男性だけなのは女性差別だ」と言ったとしても(後者は男性への差別を見て見ぬふりをする言い分のようにも取れるが)、いずれにせよゴールは一緒で、兵役を男女平等にするということだろう。


 と書きます。上野千鶴子師匠が兵役について問われた時、答えをはぐらかしたことなど、彼はご存じないのでしょうか。

*1 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問

第二回 男性のレイプ被害者「ゼロ」の日本 口に出せず、ケアも受けられない

 ここでも師匠は

男性差別撤廃のゴールは、政治家の男女比、管理職の男女比、自殺者における男女の割合、片親家庭の父母の割合、離婚後に親権を取る父母の割合、これらがすべて等しく5:5になることだろう。


 と飛ばしまくります。
 ぼくはそんなことは目指すべきではないし、「ジェンダーフリー」の失敗を見るに、目指してもムダだと考えるのですが(しかし「自殺の男女比も平等にせよ」などとぎょっとすることを平然と口にする蛮勇ぶりは、ちょっとステキです)。
 彼のスタンスは徹底的なジェンダーフリーであり、

 もし男性差別を感じたり、その当事者になったりしても、「復古主義者たち」にはならないでほしい。フェミニズムを批判すると復古主義者に吸収されたり、同調してしまったりする人が結構いる。しかしそれでは男性差別はなくならないし、解決しない。時計の針を元に戻すことなど不可能だし、性差別の根本的な解決にはまるでならない。


 と腐します。
 しかしぼくには、彼らのような特殊な偏向を持った人々が口にしたがる「復古主義者」というのがどこにいるのか、全く見えてきません
 恐らくですが、久米師匠には兵頭新児が「復古主義者」に見えていることでしょう。
 しかしぼくは殊更にかつての日本が素晴らしかったとのヴィジョンに取り憑かれているわけではなく、彼らの脳内では「あったこと」になっているジェンダーフリーの無効性を鑑み、ひとまずそのイデオロギーには退場していただく他ない、との考えを持っているだけなのです(或いは、彼らにとっては「さすがに共産主義はないだろう」というスタンスの人も復古主義者に見えているのかも知れません)。

 さて、この回は表題が示す通り、少年の性被害の多さについて嘆く箇所がメインです。その志自体は賞賛するにやぶさかではありません。ですが、しかし、それならば、フェミニストたちが少年への性被害を必死になって隠蔽し続けていることに対して、少しは憤ってほしいのですが……。

第三回 「女も戦場へ」は何をもたらすか 兵役という男性差別

 女性が戦場に行くべきかという問いについて、実のところぼくは理念としては賛成です。
 恐らく軍隊においても男性がやることが望ましい力仕事以外の作業はいくらもあるでしょうし、今時、女性の生命ばかりを優先して守ることはない。
(その意味で、やはりぼくは「復古主義者」ではないはずなのですが、師匠はそう言っても納得しないだろうなあ……
 南北戦争で起こったエピソードを、師匠は挙げています。

 南部の男性たちの徴兵反対運動は、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けた。その後、南部の徴兵反対運動は挫けてしまう。


「女性は平和的な生物だ」などという神話を打ち砕くこの指摘は、非常に重要です。またそうした南北戦争で戦った男たちを、フェミニストが後年「男たちの暴力」と糾弾したこと、そのダブルスタンダードの卑劣さをも、師匠は指摘します。
 ノルウェーの徴兵制の男女平等化に諸手を挙げて賛成する師匠。
 その勇気は賞賛に値するとも、アカデミズムというバックボーンがあるだけで、ここまでの「危険思想」の表明が許されるのかとため息が漏れたりもします。だってぼくが言ったらきっとこれ、袋叩きですよね。
 もっとも、欧米のフェミニストが軍隊に進出しようとしている様を採り挙げ、無批判で賞賛するのはどうかと思いますが(実態は先にも挙げた通りであると、師匠も知っているハズですから)。

第四回 「恋愛をリードできない男は逸脱者」という男性差別 性役割の不平等が生む「デートレイプ」と「草食男子」

 今回、久米師匠は真っ先に「デートレイプ」の問題を持ってきます。
 それはまるで、『女災社会』の一章が性犯罪冤罪について、に割かれていたのと同様に。
 以降も「「加害者」は必ず「男性」」という節タイトルが象徴するように、久米師匠の筆致は男性の「加害者扱いされることの被害者性」をラディカルに論じていきます。もっともそこまでラディカルに「真実に気づいて」しまった人であれば、フェミニズムが完全なる妄論だと気づくはずなのですが。ちなみに「妄論」という言葉は今、ぼくが作りました

 実は今回、正直なところ表題を見た時点できな臭いものを感じとってしまいました。
 結局、ここへ来て久米師匠、ジェンダーフリー論者の言説はその「無効性」を露呈せざるを得なくなるわけです。
 要は、「ジェンフリ論者」は「モテない」からです。
 いえ、「女災」論を学んでもぼくたちは「モテ」るようにはなりません。しかし「ジェンフリ」をフォーマットとする「マスキュリニズム」は(商売の都合上)あり得ない未来のヴィジョンを提示し「こうすればモテるよ、何となればもうすぐジェンダーフリー社会が到来するのだから」とのウソを垂れ流す「来る来る詐欺」に、どうしてもなってしまうベクトルを持っているのです。
 その結果何が生まれるのか。
 泣きながら「女性のみなさん、ぼくたち草食系男子です、つきあってください!」と哀願する森岡師匠*2、そして「女性のみなさん、『スラダン』の木暮君のファンになってください!」とストーカーのようにつきまとう田中師匠*3が生まれてくるだけです。

 結局、そこに気づけなかった師匠は以下のように結論します。

 だから恋愛における性役割でも、そのコストやリスクについて男女が等しく引き受け、恋愛において男女のどちらも、アプローチをかけたり受け身でいたりすることが共に許される社会にすべきだろう。


 それは「反原発」同様に、理念としては大変に結構なのですが、どのようにすればそのような夢の社会が来るのかが、全く見えてきません(また、いつも指摘する通りにこうした男女ジェンダーが消失した社会では「萌え」も「BL」も消え果てていることでしょう)。
 久米師匠はスタートラインでは「女災」理論に辿り着いた。しかしどこをどう間違ったか、結局は「ジェンダーフリー」を持ち出してお茶を濁さざるを得なかった、「復古主義者」なのです。

*2 最後の恋は草食系男子が持ってくる
*3 男がつらいよ


最終回 母系社会がはらむ、語られない男性差別 日本が抱える社会の不思議な二重構造

 要は「日本は母系社会なのでそもそも男尊女卑ではない」との主張なのですが、正直、ぼくにとってはあまり興味の持てる話ではありませんでした。父系社会であるらしい欧米も当然、男尊女卑社会などではないのですから。
 とは言え、これについては以前も一読し、当ブログのコメント欄で好意的に評しました。
 というのも師匠が

要するにフェミニストには、男女平等を目指す者と、女性優位をどこまでも求める者の2タイプがいるのだ。後者に対しては学問上で徹底した批判が必要だろう。


 と断言しているからです。

 そろそろ結論をまとめることにします。
 上の師匠の発言、大変に賛成できる、頼もしいモノです。
 しかし同時に思うのです。少なくともこの師匠の言に添った文脈で言うのであれば、この世に「男女平等」を目指すフェミニストなど、どこにもいないのではないか、と。
 フェミニズムとは「男性が根源的絶対的徹底的に女性を搾取し、利を得ているのだ」という世界観を前提とするガクモンです。ぼくはこれを全く認めませんが、いささかなりともフェミニズムを認めるのであれば、フェミニズムが「女性優位をどこまでも求める」ことは当たり前であり、正当であるとしか言いようがないのです。
 ぼくが最近よく言う、「ツイフェミ」を、「ラディフェミ」を批判する「表現の自由」クラスタも同じような過ちを犯しているように思います。
 彼らはグルに頭にはめられた緊箍児(孫悟空の頭のアレね)のせいか、フェミニズムは正しいのだ、ツイフェミは、ラディフェミは悪だが、真の、正しい、善なるフェミニストがどこかにいるのだと言い続けます(が、そのフェミニストの具体例が挙がったことは一度もありません)。
 しかし彼らの(それ自体は大変に正当で鋭い)フェミ批判自体、そもそもフェミニズムを理解していれば出てくるはずのないモノ。
 フェミニズムを適切に批判し、フェミニズムを盲目的に擁護し、フェミニズムを全く知らない。
 それが、彼らの摩訶不思議な実態です。
 ぼくはついつい彼らを攻撃してしまいますが、彼らは「悪の洗脳を抜け出そうと葛藤を続けているライダーマン」なのかも知れない、もう少し優しく接してやるべきなのかも知れない、とも思います*4。
 久米師匠にも全く同じことが言えましょう。
 本連載がきっかけで始まった「男性学祭り」ですが、伊藤公雄師匠、田中俊之師匠などといった「男性学」を称する人々の筆致からは、いずれもフェミニズムへの無制限無批判無限大の忠誠心、男性への無条件無軌道無反省の憎悪が溢れていました。
 それに比べ、久米師匠の筆致からは男性への愛情を、フェミニズムへの懐疑を、何より「女災」理論に一歩近づく先進性を感じ取ることができました。
「後、もう一歩」と感じると共に、ジェンダーフリーへの無思慮無勘定無定見の信仰心は危うくも感じます。
 最終回での頼もしい宣言のごとく、久米師匠はこれからフェミニズムに対して知見を深め、堂々と批判をしていくのか、それとも大人の事情で、それはしないのか。
 ぼくたちは温かい目で、それを見守っていくべきかも知れません。

*4 『仮面ジェンダーV3』第44話「ツイフェミ対弱者男性」参照。

夏休み男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』

2015-09-13 01:31:36 | レビュー


 レイプ被害者の小学生男児の存在を抹殺するのみならず、「弱者男性」のバッシングに邁進してきたフェミニストが最近「メンズリブ」「男性学」などと口走っているのを見て、失笑を漏らしている方も多いと存じます。
 そう、それほどに昨今「男性学」といった言葉を彼ら彼女らの口からよく聞くようになってしまいました。今夏のこの「祭」は「男性学に騙されるなかれ」との警告を発するため、二十年ほど前の男性学黎明期の様子を見直しておこうとの意図の下に催されたものでした。
 先月末も『日本のフェミニズム別冊 男性学』を採り上げましたが、同書は2009年に改訂版が出ているのです。というわけで、今回はそちらの方を簡単に採り挙げてみたいと思います。

 ページをめくると旧版にあった上野千鶴子師匠による端書き「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」が削られ、伊藤公雄師匠の「男性学・男性性研究の現在・過去・未来」に差し替えられています。男性学の流れを概観し、本書に収められたそれぞれの論文を軽く批評するという体裁は上野師匠のものと同じなのですが……何故差し替えになったのでしょう?
 あの過労死者を嘲笑する上野師匠の低劣な文章が問題になったから?
 何だかマネーの理論のウソがバレた時、それまでマネーを金科玉条のごとく振り回していたフェミニストが手のひらを返したのに憤り、近所の女性センターの資料室に行って「女性学事典」の類を見てみると軒並み改訂版に変わっていて、マネーを肯定する文書がほとんど見つからなかった時のような驚きに駆られます。
 あ、いやいやいやいやいや!
 何せ十五年ぶりの改訂版です。男性学の世界にも動きがあったはずです*1。端書きが差し替えられるのは当然のことですよね。
 実際、意外に増補部分が多いく、ボリューム的には1.5倍くらい増量してるんじゃないかなあ。そんな増補された論文の一つが多賀太師匠「「男」をどう見るか」です。
 師匠はぼくがいつも名を挙げる男性学の始祖、渡辺恒夫教授について言及しつつ、


 その後、彼の主張は、男女間の権力関係や社会的不平等に対する目配りが足りないとして、フェミニストからは批判された。
(261p)


 としています(伊藤師匠も「権力問題から意識的に距離をとった渡辺さん」と繰り返しています)。
 要は「男が権力を有してきた事実から目をそらしていて許せぬ」と言いたいのですが、足りないも何も、女性が「美」という、そして「生命の安全」というものを独占している不平等を指摘し、それらもまた権力であることを指摘したのが渡辺教授だったのですが、こうしてみると「男性学」とはフェミニズムに逆らう者を絶対に許さない思想であるようです。
 師匠の主張は

 このように、フェミニストが「家父長制」(patriarchy)と呼んできた男性支配の社会構造は、少なくとも現代の多くの先進産業社会においては、すべての男性がすべての女性を同じように支配するという単純な構造なのではなく、特定のタイプの男性性が、女性性と他のタイプの男性性を従属させることによって、全体としての男性による女性支配を正当化するという構図なのである。
(268p)



 と続きます。ざっくりまとめると「男性にもいろいろいるでヤンス」「だから男性同士にも支配/被支配の関係があるでヤンス」と言っているわけです。
 いえ、賛成できる考え方なのですが、それって「ジェンダーは人類最大の支配装置」というフェミニズムの根本から逸脱する異端思想なのでは……?
 師匠は更に


 同時に、ヘゲモニックな位置から疎外された男性と女性が、ヘゲモニックな男性性の定義に対する抵抗運動を通じて、そうした支配体制を変革できる可能性も残されている。
(269p)


 と言います。「だから弱者男性はフェミニズムに帰依することで救われるでヤンス」というわけです。
 何というか……読んでいてイヤ~な気分に陥りました。
 旧版のレビューで、ぼくは「男性学」者はフェミニズムに媚びる「心のオカマ」「ゆう君ちゃん」である、と指摘しました。ここで多賀師匠がしているのは「弱者男性」という符牒を持つ自分たちは「名誉女性」としてオカマと同様の待遇が受けられるのではないか、との切ない期待です。
 オタクの中の意識の高い方々にも時々、似た物言いをされる方がいます。彼らは「萌えフォビア」などという造語を持ち出し、自分たちをホモに並ぶ存在にしようと頑張っていらっしゃいます。
 ぼくは「やめとけやめとけ」と思います。それは格好が悪い上に、仮に「女性軍」に入れてもらえたとしても恐らく一軍に入るまでに十年くらいパシリをやらされ、その十年の間にフェミニズムはもうどうしようもないくらいに失墜しているのではないか……との予感がするからです。ぼくたちが女性軍に入れてもらうためのデメリットと、そうしてもらうことで得られるメリットを斟酌して、どれくらい利があるかというと……。
 結局、彼らに賛同できない理由は二つあります(いや、いつも言ってることでもう繰り返すのも面倒なんですが)。
 一つは「リクツはともかく、フェミニストたちは男性への憎悪が具現化したような存在であり、彼らの夢の中にだけ存在する女神のような清く気高く、凛々しくしなやかな聖者としてのフェミニストの存在を前提とした物言いが、どうしても理解の範囲を超えていること」。
 もう一つは、彼らが頑なに渡辺教授を否定し続け、フェミニズムの微調整でことを済ませようとしていることからもわかる通り(いや、それで既に崩壊してしまうほどにフェミニズムは危ういロジックであるのは上に書いた通りですが)、結局は「強者男性」をラスボスであると言い立て続けていることです。
 渡辺教授が指摘した「美の権力性」、ぼくの指摘した「女性性の加害者性」から頑迷に目を背け、「でも強者男性が」と言い続ける限り、男性学は「フェミニズムという泥舟に更にもう一つの穴を開けたもの」以上のものにはなり得ません。

*1 フェミニズム自体に動きがないのに男性学に動きがあるはずないだろう、などというツッコミはシリーズ全体を否定することになるので、御法度です。

 更に読み進めると沼崎一郎師匠「殺す男たち」という論文に行き当たります。この沼崎師匠は「膣内射精は暴力だ」などと正気の沙汰とは思えないことを真顔で主張している御仁*2なのですが(フェミニズムにとっては「定説」ですが)、本論は当時まだ記憶に新しかった秋葉原テロ事件を持ち出し、「男はマッチョだ(大意)」と言うだけという、驚くべき無内容なもの。

 恥をかいてもいいじゃないか。誰もバカになんかしていないよ。そういう「ゆるーい」社会になれば、男も「沽券」なんかにこだわらなくなるはずだと思うのだが……。
(306p)


 フェミニストの、自分たちの政治的立場を守るためには小学生男児へのレイプをも擁護し、相手に恫喝とデマの流布の限りを繰り返す、誰よりも強い攻撃性をスルーして、こういうことが言える人の感性が、ぼくには理解できません。
 凶悪な犯行に及んだ犯人を許すことはできませんが、そこに至るまでに追い詰められたこと自体には理解を示すべきだと思うのですが、沼崎師匠にかかっては「許せぬ」とばっさりです。結局、フェミニストも「男性学」者も、に弱者男性を救う気など毛頭ないのだとの宣言に、ぼくには読めてしまいます。

*2 草食系男子と性暴力

 さて、こうなると「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」が削られた理由も見えてくるのではないでしょうか。
「男性学」は「オヤジにならなかった」者を自軍へ取り込むための、フェミニズムの生き残り戦略の一環である。多賀師匠の論文に書かれているのは、要するにそれです。
 しかし「秋葉テロ事件」という「時事ネタ」を持ち出した瞬間、沼崎師匠はフェミニズムの底の浅さを露呈させてしまった。
 それは旧版のレビューで申し上げたこととパラレルです。
 ぼくたちは「オヤジ」にならずに「オタク」になった。しかしそれに対し、フェミニズムは好意的評価をしない。結局、口先だけの空論だとバレてしまったわけです。
 前宣伝とは異なり、フェミニズムは弱者男性を救う気はなかった。
 追い詰められ、逆ギレ気味に犯罪に走った秋葉テロ犯を沼崎師匠がそのマチズモ故に断罪しているのと、目下のフェミニズムが「オタクのマチズモ」を必死に必死に、一生懸命に探し出して叩いている様とは、「完全に一致」しています。
 それはまた、古市憲寿師匠の牛丼福祉論、海燕師匠のオタクリア充論、また黒子のバスケ犯への冷酷な舌鋒とも一致していることはもう、指摘するまでもないでしょう。

 実のところ、今回本書を読んで初めて気づいたのですが、伊藤師匠の端書きには「被害者としての男性」を論じる著作も増えてきたとして、小谷野敦博士の『もてない男』に並び、ぼくの著作も採り挙げられています。

 最近は、とうとう兵頭新児さんの『ぼくたちの女災社会』のように、男性を完全に「被害者」の立場におくような議論も出始めている。たぶん、若い世代を軸に、こうしたトレンドは、今後それなりのひろがりを持つような気がする。
(19p)



 まさに、無名のライターであるぼくが上の著作を出せたのは、当時の空気が大きかったように思います。
 男性の危機と、それに対するフェミニズムその他のイデオロギーの無力。
 そのたじろぎの中で拙著も本書も、出て来たように思えます。
 そして、伊藤師匠は「今後それなりのひろがりを持つような気がする。」とおっしゃってくださっていますし、確かにそうした徴候はちらっとだけあったはずです。
 が、ぼくの活動は事実上、上の著作以降、途絶えている。
 一方、フェミニストたちが「男性学」「メンズリブ」などと盛んに口走るようになって来ている。
 こうしてみると今度の「男性学」の流れも、サブカルがしゃしゃり出てきて『エヴァ』がおかしなことになったように、フェミがしゃしゃり出てきて少年への性的虐待が隠蔽されたように、フェミがしゃしゃり出てきて海女さん問題がねじ曲がったように、おかしな方向へ持って行かれ、つぶされるんだろうなとの意を強くしたのでありました。
 終わり。