兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

2013女災10大ニュース

2013-12-27 21:05:49 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、毎年恒例の一年のまとめです。
 正直、今年もあんまり華々しい成果を得たとは言い難く、一方で思わぬ方面から致命的な打撃を受け、しょんぼりもしております。
 というわけであまり盛り上がりのないままに、だらだらとやっていきましょう。

 ニコブロの方では二回に渡ってお届けしたものを、こちらでは一挙に大公開いたします。


 ところで今回、「とん祭り」というフレーズが何度か繰り返されます。
 これはみうらじゅん氏が提唱した概念で、思わずツッコミたくなる珍祭・奇祭、つまり「とんまな祭り」を表現した言葉です。
 さあ、「面白い人たち」の開催した「とん祭り」を見物して、今年の笑い納めと参りましょう。
 

 

【第10位】女性手帳、発表と共に廃案
【第9位】橋下徹、女性パワー()でおわコン化


 

 10位と9位は新聞など表の世界で取り沙汰された、フェミニストたちがいまだに暴れて影響力を発揮していることを象徴する事件です。
 両者とも、話題になった時に当ブログでも採り上げましたが、結局どうなっちゃったんでしょうね。女性手帳については、今ちょっと調べてみましたが、結局話題になった五月に配布見送りとなり、それまでだったようです。
 これで連想するのは、やはり70年代のフェミニストたちの行動です。
『放送禁止大全』的なコンビニ本でもよく話題になっていますが、1975年、ハウス食品のインスタントラーメン、ハウスシャンメンのCMが放送中止に追い込まれたことがあります。「
放送事故、ハプニングタレコミコーナー」によれば、


姉妹が遊びに来た妹のボーイフレンドの為にラーメンを作ることになり、
女の人「わたし、作る人」 (結城アンナ)
男の人「僕、食べる人」 (佐藤祐介)
とのやりとりになる。

 

放映開始から一か月余り過ぎた9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」のメンバー7人がハウス本社を訪れ、「男は仕事、女は家事・育児という従来の性別役割分業をより定着させるもの」とCM中止を要請。
制作側は蔑視の意図はないと反論するも二ヶ月後放送中止。


 とのことです。
 上のフレーズは藤子Fも漫画で使ったことがあり、人気CMだったことが伺えます。70年代から80年代にかけては「サベツ反対」を錦の御旗に、こうした市民団体が企業を恫喝して正義感を満足させることが大流行しました。が、90年代というオタクの時代になってよりは、こうした人たちは「表現の自由を奪う悪者」となってしまったのです。
 かなり大ざっぱな見方ではありますが、日本の生活が豊かになった70年代、大企業を巨悪とすることにはそれなりのリアリティがあったはずですが、90年代にもなると、そうした人々によって漫画などが封印されることに疑問を感じる層が出てきたというのが経緯ではないでしょうか。単純な正義と悪の図式が揺らいでしまった、ということですね。
 むろん「女性手帳」はお役所主導であり、「市民VS企業」という図式から「マスコミ(御用達文化人)VS国家」という図式にスライドしているわけではありますが、一部の人が権力を持っているとされる存在を相手取って暴れ、民意に反する形で成果を上げることで何ごとかを成し遂げたという幻想に浸る、という意味では同じです。
 従軍慰安婦発言も同様でしょう。橋下さんのTPOや、そもそも橋下さんの政治家としてのスタンスは置くとして、発言をねじ曲げてメディアでネガキャンを張るやり方は、やはり似たようなものです。まあ、本件だけが原因というわけでもありませんが、それにしてもあれだけ騒がれていた橋下さんがここまで地味な存在になってしまったのには、何だか感慨を覚えないではありません。
 しかし同時に、ぼくたちはこうした方法に対しての疑念も、育てつつあるのではないでしょうか。麻生さんのナチス発言も同様で、逆に言えばマスコミというのは政治家の発言の揚げ足を取る簡単なお仕事をする人たちなのだから仕方ない、と思う一方、秘密保護法案を巡るドタバタを見ても、マスコミ自体がおわコン化しつつあるなあと思わずにはおれません。


 

【第8位】腐女子テロがネットを賑わす

 


 これ、どうもいまだやってるみたいですなあ……。
 詳しくは以下をご覧になってください。

 

【悲報】腐女子が俺たちの聖地にテロに乗り出した件wwwwww【くさそう】

 腐女子フェミニストである和紙子師匠が「ネット上でBLがサベツされている!」とニコニコ動画やpixivなどへのBL画像の集団投稿を計画したのですが、まとめサイトなどで「腐女子テロ」と騒がれ……といったことがあったのです。
 これもいろんな見方が可能ですが、まず腐女子の大多数はこの和紙子師匠の偏狭な考えに、決して同意できないであろうこと、そして一体全体どうしたわけか、「腐女子の団結」を夢見る和紙子師匠はそうした現実が全く見えていないらしいことが、本件では一番奇妙でした。
 北原みのり師匠は『フェミの嫌われ方』の中でフェミニズムの失墜について、「女たちの連帯が阻害されている」と繰り返します。それはむろん、フェミニズムという思想そのものの幼稚さが原因だと思うのですが、どうも見ていると彼女はそれを「男たちの仕業」であると考えているフシがある。「細かいリクツはともかく、とにかく男がワルモノなのだ」と信じ続けている限り、彼女らは自らの誤謬から永久に目をそらし続けることができるわけです。
 これは9位10位のトピックスで語られた事例が、結局「弱者であるワタシが強者であるワルモノに物申す」ことで何かが変わる、という理念で行われていることと全く同じです。
「ワタシがそんな弱者たちのトップとして力を得て、チヤホヤされる」という化石化したサクセスストーリーが本件のバックボーンとなっていることに、何だかため息を漏らさずにはおれません。
 彼ら彼女らはこれからも無反省なまま、いつまで経ってもエネルギーチャージの終わらないダメ元気玉の発射準備をし続けたままなのではないでしょうか。


 

【第7位】渋谷智美師匠「表現の自由」を否定
【第6位】千田有紀師匠「表現の自由」を否定

 


 はい、これもまとめて。
 前者は森美術館で開催された会田誠展に澁谷知美師匠などフェミニストが女性サベツだと噛みついた件です(
『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」。
 これについては、単なるエロ絵なら「いいじゃん」としか思わないのですが、萌え絵で女子高生の足を切断しているといったグロいものを描写していることも、ハナシをややこしくしました。それを残忍で許せないという心情はわかると共に、オタクとしては「アートクラスタ」が俺らのパクリをやった挙げ句妙な騒動を起こしやがって、と言いたい気持ちもあります。フェミニストたちもにとっても、「何だかエロマンガみたいなものがゲージツ扱いでムカつく」といった情念が動機になっていることも恐らく間違いがないことでしょう。例えば本件で、描かれるモチーフが同じでも絵のタッチがピカソみたいなら、或いは浮世絵みたいならどうでしょう。そんなものに「萌え」ようがないわけで、逆に言えば「萌え」を喚起する絵で残忍なものを描いたことが、鑑賞する者に強い刺激を与え、問題になったという側面が強いわけです(それはウンコをリアルに描くのとピカソっぽく描くのと、どちらがこちらへと不快感を催させるか、といった問いと同じです)。
 しかしここで突っ込まずにおれないのは(当時も繰り返し突っ込んだのは)澁谷師匠自身が自著である『平成オトコ塾』において、包茎手術の失敗でペニスに酷い傷ができた知人を
笑いものにしていたことです。しかしそれはあくまで「弱者たる女性の強者たる男性へのカウンター」だから許されるというのが彼女らの理論なのでしょう。
 一方、千田有紀師匠は(新聞を賑わすような騒動になったわけでは全くないものの)もう少し悪質です。千田師匠は上野千鶴子師匠の弟子筋の社会学者であり、ぼくは今年の夏、ずっと
彼女の著作を追いかけていました。そのきっかけは彼女の『東京新聞』における「ヘイトスピーチを法規制せよ」との主張でした。ここで師匠は「ポルノもまたヘイトスピーチである」との考え方を紹介、断言はしていないものの、どうみてもポルノ自体を規制したくてたまらないご様子。
 オタク界のリベラルたちは彼女らフェミニストを表現の自由を重んじるオタクの味方であると際限なく繰り返していますが、言うまでもなくそれは真っ赤なウソなのです。
 フェミニストの主張はただ一つ。
 自分たちにとって不快な表現は絶対に認めない。
 それが男性に向けられたものであれば、性的虐待などの暴力も無限に許容する。
 それだけです。


 

 

【第5位】「リベラルクラスタ」が必ず遁走する問題


 

「リベラルクラスタ」というのも大ざっぱな括りなのですが……今年、リベラルとおぼしき人々と腰を据えて議論をしようとして、こちらとしては誠意を持って議論に取り組もうとしたつもりなのだけれども、相手は遁走してしまった……という経験を五、六回ほどしたのです。
 彼らの多くは「男性差別クラスタ」の中の左派寄りの人々であったと、確か思います(すみません、当ブログを読んでくださっている方は何とはなしにおわかりと思いますが、ぼくはあまり記憶力が優秀ではなく、悪し様に罵った相手のこともちょっと時間が経つとすっかり忘れてしまう人間なのです)。
 今までも、それこそフェミニストを含め「議論をしたが話が噛みあわず、決裂」といった経験は無限にしてきました。しかし「この人とはちょっと話せるかな」と思った相手に見事に裏切られ……といった経験はあまり覚えがなく、それが立て続けに起こったのはいささかしょんぼりでした。ツイッターのせいでスタンスの違う人間と絡む機会が増えてしまったせいでしょうかね。
 ぶっちゃけ彼らとの論点がいかなものであったか、いちいち覚えてもいないのですが、多くは「表現の自由クラスタ」に、「フェミニストは口先では表現の自由を認めると言ってはいるが、著作などを見るとポルノを否定している。彼女らの味方をするのは得策ではない」といった言葉をぶつけたところ、相手は口を閉ざしてしまった――といった経緯を辿ったように思います。
 彼らの中には、さわやかなまでの「思考停止」、そして「グル様への絶対的帰依」しかない。
 小型の草食動物が大きな物音を聞くと、その脳のキャパを超えてフリーズしてしまうように、彼らは「聖書」に書かれていたことと異なる事実をぶつけられるとフリーズしてしまう
 でも、そんな人々の執り行う「お祭り」にどこまでの人々が乗ってくれるのか。それは反児ポ運動の現在を見れば、火を見るよりも明らかなのではないでしょうか。
 そして――上に「グル」と書きましたが、彼らの「グル」であるフェミニストたちが更に「グル」に選んだ人たちこそが第4位に選ばれた――。


 

【第4位】セクマイがプチおわコン化

 


 これについて、詳しくは「オカマがミスコンに出れない問題」、「障害者とオカマと、バリアフリー社会」を参照してください。
 既にいろいろ書いたのでそれほど付け加えることはないのですが、要はツイッター時代になり、彼ら「セクシャルマイノリティ」の生の声を、ぼくたちが聞くことができるようになった、と同時に彼らの主張にもクエスチョンマークをつけざるを得ない局面が増えてきた、といったことです。
 繰り返すように、彼らのロジックは基本、フェミニズムのバリアントと言っていいものです。時々例に出す、「
オカマは女湯に入る権利があるのだ」と主張したフェミニストの例が象徴的で、申し訳ないけれどもセクマイとは、フェミニストにとっては自分たちの主張のダシとして利用するための「人権兵器」である面があることは否定できません。ある種、その意味で今の彼らの姿は、フェミニストたちが陥っている状況のデフォルメであると言えます。
 つまり、「ものすごい絶海の孤島におけるものすごい狭い共同体」でだけ行われていたお祭りに外部の目が入ることによって、そのお祭りがぼくたちにとって受け容れがたい「とん祭り」であることが知れ渡ってしまったという。
 この傾向に、これからいよいよターボがかかることはあっても、歯止めがかかることは、恐らくないでしょう。
 ちょうど現時点でも
フェミニストが人工知能の学会誌に美少女アンドロイドが描かれていることに噛みつき、オタク層のリベラルクラスタにまで呆れられていましたが、これからこうしたことは数限りなく起こり、リベラルクラスタのフェミニスト、セクシャルマイノリティからの離反は顕著になっていくことと思います(ちなみにこの問題はそのイラストを描いたのが女性であった、というどうしようもないオチがつきました)。
 そして――上に「オカマが女湯に」と書きましたが、そうしたフェミニストたちのやり口を真似て、それと同じ奇矯なお祭りをしている人たちこそが第3位に選ばれた――。


 

【第3位】「女性専用車両乗りたいクラスタ」がフェミニストの味方だった問題


 

 さて、一方、まさに「ものすごい絶海の孤島におけるものすごい狭い共同体」でだけ行われていた「とん祭り」でありながら、あまりにも孤島すぎていまだほとんど観光客が訪れていないのがこちらです。
 今年の最初、ぼくが彼らの「とん祭り」をネットにアップしたことをきっかけに、いよいよぼくと彼らとの対立は激化してしまいました。詳しくは「
ドクター差別と詰られし者たち」、また「ドクター差別と詰られし者たち(その2)」をご覧ください。
 彼らとは最近もちょっともめてしまいました。ドクさべのブログでは「
コソコソ本を出し、コソコソ撮影し、コソコソ文句を言う」というエントリが設けられ、ぼくへの「批判」がなされています。この「コソコソ本を出し」という、意味不明なタイトルだけでドクさべの「面白さ」は十全に理解できましょうが、本文を見ていくと、ぼくの


ドクターが果たしてフェミニストの敵かとなると、大いに疑問です。そもそもフェミニズムに対する知識もないでしょうし。


 との発言に対し、以下のような「反論」がなされていました。


しかし、「フェミニズム」なんてものは勉強しすぎると、「女性学」を勉強しすぎると、ミイラ取りがミイラになりかねません。実際、「兵頭何がし」の発言には、その「傾向(=「女性様」に媚びる傾向)」が見られます(汗)

 

 ちなみに、私・ドクター差別は、「フェミニスト(=男女平等論者)」の敵ではありません。「ワガママ女性」及び「似非フェミニスト(=ワガママ女性に媚を売る輩)」の敵です。


 驚きました。
 よもや差別の専門家であらせられるドクターがフェミニストを「男女平等論者」と認識していたとは。
 驚くべき無知ぶりです。
 というか前段は「女性学」「フェミニズム」が女性に媚びる悪しき学問であるとの認識で書かれているのに、後段では「似非フェミニスト」だけが敵であると言っており、もうこの時点で論理は完全に破綻しているのですが、まあドクターに論理的整合性を求めるのはフェミニズムに論理的整合性を求めるのと同じくらい無意味なことです。
 こうした「似非フェミニスト」といったフレーズは「(田嶋陽子先生には賛同できないけれど)本来のフェミニストは男女平等論者であるはずだ」と素朴に考える、知識のない層や、或いはフェミニストの欺瞞を知りつつそれを隠蔽しようとするリベラル寄りの人々が持ち出しがちなものですが、ドクさべの場合は間違いなく前者でしょう。
 ドクさべの脳内における「フェミニスト」の理解は完全に七十年代のレベルでストップしてしまっているわけです(まあ彼の「市民運動」そのものが七十年代からタイムスリップしてきたものであり、それも道理なのですが)。
 物理学の初歩の初歩も知らないままに「相対論は間違いだ!」と称してトンデモ理論を唱える人がいますが、ドクさべのあり方は、彼らとあまりにも「
完全に一致」しすぎています。
 ぼくは彼ら「女性専用車両乗りたいクラスタ」を皮肉って、「ジェンフリ厨」である、と表現してきました。いや、ジェンフリ厨も何も、彼らは下手をすると「ジェンダーフリー」という言葉すら知らないと思うのですが、しかし無思慮で一本調子な「平等」を要求し続ける時点で彼らはフェミニストの同類であり、ジェンダーフリー派である……といったことは既に何度も書いているかと思います。
 まさにドクさべは「女性学」を勉強しなさすぎたがため、ミイラ取りがミイラになり、その行動や思想がフェミニストとまでも「完全に一致」してしまったのです。
 そして更に、ここへ来てとうとう彼らが専ら「一般女性」へのテロだけを目的とし、フェミニスト――アカデミズムの一角に牙城を築き、(彼らの言葉で言う)「男性差別」を遂行し続ける人々――を敵と考えていない、ということが彼ら自身の口から語られてしまいました。
 ぼくは彼らを揶揄し、「フェミニストの食い残しのおまんじゅうを食べようとしている」と言ってきましたが、彼らはそう言われても(理解はできないでしょうが、仮に彼らに理解力があったと仮定しても)「はいそうです」としか言わなさそうです。
 どうぞ、頑張ってください。
 そして――上に「グル様への絶対的帰依」、「セクマイの人権兵器化」、「ミイラ取りがミイラに」と書いてきましたが、それらの全てに当てはまってしまう人たちこそが第2位に選ばれた――。


 

【第2位】I問題その後

 


 さて、この件は大変に微妙な問題を含んでおります(笑)。
 悩んだ末、本件に限り、イニシャルトークにさせていただくことにしました。
 ここに採り挙げられた方々、万一これをお読みになり「事実と相違する」というのであれば、どうぞご指摘ください。
 本件については既に「
Iの問題発言について」、「ホモ雑誌の編集長が子供とのセックスを肯定しすぎな件、そしてフェミニストがそれをスルーしすぎな件」で書くべきことは書いたのですが、ここではこれ以降の経緯について簡単に、できる限り冷静に淡々とまとめてみることにしましょう。


 

 1.K師匠
 師匠はこちらと辛抱強く話していただき、かなり渋々という感じとは言え、Iの危険性を認めてくださいました。その経緯は「
Iの「子供とのセックス肯定」について(改訂版)」にまとめられています。
 が!
 その後、ぼくが他の人との議論中、


K師匠は一応、Iが子供への性的虐待を肯定していることを認めたのだけれどもね。


 と書くと、彼女はそれに対し、


「肯定していることを認め」てはいません。曲解に基づいて話を広げられるのが迷惑なので、ブロックいたします。


 と言い出しました。どうも、実のところ何もわかってくださらなかったのでは……としょんぼりさせられました。


 

 2.I.M師匠
 彼女はN.M師匠との議論中、横からちょこちょことこちらを攻撃してきた方です。
 その時のぼくの「批判」に対しての彼女の言い分がとんでもなく、


まず最初に『Iさんの全著作、全発言を資料として用意して』『それを共有できる場をセッティングして』その上で特定の誰かに『この発言についての意見を聞きたい』という段取りなら『あり』だと思う。 


一人の物書きの全著作、全発言を網羅するってかなり大変だよ。でもそれをやらないで、一部分だけ抜き書きして批判するのは失礼でしょ。自分が同じことされたら嫌でしょ。 


それが最低限度の礼儀


 といったものでした。
 そんなことは現実問題として不可能なのは、言うまでもないことです。
 この「全発言」というのを一応、「公の場でなされた発言」、いえ、大まけにまけて「書籍としてまとめられた発言」とでもいった意味に取れば「不可能」とまでは言いませんが、しかしいずれにせよそこまでしなければ批判はならん、というのは空論とも言えない妄論です。それを常に遵守して「評論活動」をやっている研究家など、この世にはいないでしょう*。
 そして、それにもかかわらず、あろうことか。
 呆れたことに彼女はここまで言っておきながら、上の言葉に続きぼくを以下のように腐していたのです。


本田透さんの二番煎じを狙ってコケた無名のライターさんが同じ企画を出していても私なら見ないわ。つまらなそうだから。


 ここまで矛盾に矛盾を積み重ねた発言をして、彼女は何もおかしいと思わないのでしょうか。
 後、ついでに書いておくとぼくが本田透氏に多大な影響を受けていることは事実ですが、彼の著書と拙著とでは、内容的にはあんまり被ってないんですよね。読めばわかることですが
 それと最後に。
 余談ですが、彼女は「実在児童の人権擁護基金」の
理事を務めていらっしゃいます


 

*ちなみにぼくは彼女らと話した時、Iの著作の問題発言のあったページをネット上にうpし、「確認してみてくれ」と言いました。彼女に対しても、個別にそう進言しました。それで充分だと思うし、それだけではどうしても納得できないのであれば彼女らが図書館で本に当たればいい話なのですが、それをなさったご様子はありません。
 当時、彼女らが口を揃えて「兵頭がIに直接インタビューをしていない」ことを根拠に(いや、ぼくが彼にインタビューしたことがないというのも、別に根拠はなく、「単に彼女らがそう思った」というだけのことなのですが)ぼくが不当であるかのように言い立てていたことは実に象徴的です。彼女らは「自分たちの耳に快い結論に至るまで」相手の取材は不足だと言い続けるのでしょう。


 

 3.C師匠
 彼に関しては、上の方たちとは直接の関係はありません。この問題でもめている時に出た新刊で彼が石原慎太郎氏とIを比較し、後者を称揚していたのを見て、ちょっと声をかけたのです。
 彼はぼくの訴えに対し、「『薔薇族』の編集者と知りあいなので問い質してみる」と言い、そのままになっていたので最近になってDMを送ろうとしたら、いつの間にやらブロックされておりました。そもそも彼とは二、三言交わしただけで、言い争いなどにはならなかったと記憶しているのですが。
 ちなみに余談ですが、彼はと学会のメンバーであったりします。

 

 そして――上に挙げた人たちとは縁もゆかりもない萌えオタたちの間で今年に巻き起こった、ささやかなムーブメントこそが第1位に選ばれた――。


 

【第1位】喪女ブーム

 


 はい、堂々の第1位です。
 ここしばらく、『わたモテ』に代表されるように、萌えの世界では「喪女」萌えが来ている、ということですね。
 これについては「
これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!」に書きました。ごく大ざっぱにまとめれば、ある種の「聖性」に守られていた「女性性」というものに対して、よりにもよって萌え文化が批評性を持ち始め、鋭いメスでもってその腑分けをし始めた、とでもいった感じのことです。
 ツンデレが「ムカつくタカビー女」というバブル的女性像の「萌え化」ならば、喪女萌えは「冴えない地味女」というゼロ年代的女性像の「萌え化」です。
 では『わたモテ』に対して女性が必ずしも好意的な目を向けているかとなると、それはそうではないようです。
 前にも書きましたが、はてなでとある女性が本作について、憤死しそうな勢いで怒っているのを見たことがあります。彼女が言うには「もこっちには男性作者の自己が投影されている」とのこと。確かに、そういう側面は大いにあると思います。が、続けて言うには「女に自らのネガティビティを仮託している作者は許せない、何せ非モテ男子と違い、
喪女はモテないルサンチマンで世を恨んだりはしないのだから」とのこと。
 おいおい、いくら何でもそれは女性を美化しすぎやろ。
 何しろぼくたちは今、男に自らの欲望を仮託している女の表現が、コミケに溢れているのを目の当たりにしているところなのですから。
 そしてぼくたちは今、モテない女のルサンチマン体系が国家を滅ぼしつつあるのを目の当たりにしているところなのですから。

 さて、そのまた一方で、昨今「ミソジニー男子」というのがある種の認知を得つつあります(この「認知」は「肯定されつつある」という意味ではなく、「そういうヤツがいるんだと知られつつある」ってことだよ)。何しろ先日に出た唐沢なをきの名作、『まんが家総進撃 』にも「女の描く漫画は全てダメだ!」とネットで大暴れする「ミソジニー君」みたいな話があり、ちょっと驚きました。
 そうした「ミソジニー男子」は「キモオタ」どもである、というのがネット世論におけるコンセンサスであるように思います。
 確かにぼくたちは「ムカつく三次元女子を捨て、二次元女子と添い遂げることを選択した」
選ばれし者たちです。そしてぼくたちのカリスマ、本田透氏はミソジニーの権化のようにも言われました。しかし『電波男 』を丹念に読んでみると、その主張は「俺たちはモテない、だからといって秋葉テロに走るのもまずいし、二次元に引きこもっていようぜ」というものであることがわかります。
 つまり、「オタク=ミソジニー論」は「女性から撤退しつつある草食系男子」に対する、女性の逆切れ気味の言いがかり、という側面が強いように思うのです。
 この「オタク=ミソジニー論」を、先の「『わたモテ』許せない論」と結びつけてみるとどうでしょうか。
「男性が女性から撤退したこと」も、「男性が喪女に萌えていること」も、女性たちからしてみれば「私がブスだとでも言うの!?」と思え、不快なわけです。後者は結構辛いです。その女性がモテていなければ「もこっちのような喪女よりもブス」と言われているも同然であり、モテても「ブスだからモテたのだ」と言われ兼ねないのですから。
 だからまあ、ぼくも女性に無理して『わたモテ』のDVDを貸そうとは、思いません。
 しかし考えて欲しいのですが、ぼくたちがもこっちに萌えているのは――つまりこの「喪女ブーム」はある意味で、「(ムカつく女も多いけれども、)それでも女性を愛そう」というぼくたちの意思表示の表れです。
 考えてみれば本田氏はかなり早い時期から「喪女萌え」を提唱していた人でもあり、何とも象徴的です。
 一方、もこっちに対して、ミソジニーなオタク男子に対して憤る女性の中にあるのは、端で見ている方が恥ずかしさに顔から火を噴いてしまいそうになるような、晴れがましい自己像なのではないでしょうか。
 少し前、「婚活」がブームになりました。
 ブームの火つけ役、白河桃子さんの『「婚活」時代 』を読むと、それは本来「結婚も難しいご時世だから女性も積極性を持とうぜ」というものだったのですが、その要点が履き違えられ、「婚活で玉の輿を」と考える女性たちが大量に溢れる結果となりました。
 オタクはここまで苦労して、女性を愛そうとしている。
 しかしいまだ女性は、昇り詰めた高みの上で、木の枝から降りられなくなった仔猫のごとくに狼狽し続けている。
 女性も、つまらないプライドを少し下方修正する必要があるのではないでしょうか。


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今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

2013-12-20 18:30:32 | アニメ・コミック・ゲーム
 ここしばらく、ずっと『ダンガンロンパ』ばかりやっていて、全く読書をしておりませ(ry
 後、ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせるセンスのない週刊誌のリード文風タイトルをつけて(ry
 ……というわけで今回もまた『ダンガンロンパ』(今回で最後になると思うので許して)。採り上げるのは一作目に登場した山田一二三。オタクキャラです。
 一応表題を『ダンガンロンパ』としてはいるけれども、通例通り、要は「オタク史」を概観し、その最先端に『ダンガンロンパ』の山田一二三(や、『絶望先生』の万世橋君など)を位置づけ、またその種の「オタク論」を広げ、「男性論」へと敷衍しようとの試みなので、話題としては前半、及び後半には出てきません。
 以上、お含み置きください。


*     *     *


 一時期、ぼくはよく海燕師匠に噛みついていました。
 いろいろ理由はあるけれど(話しあいを途中で遁走されてムカついたとか)、一番の理由は彼が「オタクヘイター」だからです。
 というか、従来「オタクヘイター」として東浩紀師匠辺りをやり玉に挙げていたのに、最近、目立つところでそうした発言をする人間が減ったようなので、その代わりに彼を叩いていたといった感じなのですが。
 言うまでもなく、彼らの「オタク批判」に内実があったことは、今までただの一度もありません。『
俺の妹がこんなに可愛いわけがない』でも(海燕師匠のご友人である)ペトロニウス師匠の行った「オタク批判」を採り上げましたが、これなど「オタクは自己承認欲求を持っているからけしからぬ」といったすさまじさで、こうなると「オタクは食欲を持っているから(あんパンを盗んで食ったのではなく正当に購入して食ったけれども)けしからぬ」とか、「オタクは性欲を持っているから(幼女をレイプせずに、エロ漫画も読まずに空想でマスターベーションをしたけれども)けしからぬ」とかもアリになってしまいます。恐ろしいですね。
 ――いや、しかしですね、考えてみれば今更驚き憤るほどのことでもないのですな。
 例えばですが、ドラマに障害者と健常者が出てきた時、障害者が悪役というのは稀でしょう。多くの場合、「その存在を肯定される」という役割を担って登場してくるはずです。
 では、黒人と白人が出てきたら? 同性愛者と異性愛者が出てきたら? そして、女と男が出てきたら……?
 むろん、今時女性の悪役もまた珍しくないとの事実は、ある種の「女性の社会進出」や「ジェンダーフリー」の成果であるとも言えます。が、日常を舞台にしたドラマで、男性と女性が対立したら、多くの場合に女性が肯定的に描かれることでしょう。『ドラえもん』などで女子が優等生に描かれるのが基本と、
腐川さんの記事で指摘した通りです*1。
男は、男だから、ワルモノ」なのです。
 つまり実のところ、通俗的なドラマがそうであるように、極言すれば「ヒョーロン」とか「シャカイガク」とかいうモノはそもそも、「最初っから男を叩くことを目的とした文章」という程度のモノだったのですな。「評論や社会学はドラマとは違うぞ」と言いたい人もいましょうが、逆に言えばイマドキのヒョーロンやシャカイガクなんぞ三文ドラマ以下、ということです。

*1事実、この記事では70年代以降の作品について述べましたが、更に時代を下ると「社会に出ようと生意気なことを考える女が、いろいろあって女は家庭に入るべきと悟る」みたいなストーリーは普通に作られていました。

 そしてオタクというのは(いろいろと定義はあるでしょうが、ここで極言するならば)男を丸裸にして、その社会的属性、つまり地位、権力などを剥ぎ取った存在です。
 むろん今までの男性への攻撃はその社会的属性に対して向けられることが通例ではあったものの、逆に言えばだからこそまさに「オタク批判」は「裸の男性性への純粋な攻撃」と言えるわけです。これは例えばドラマなどで「女社長」が「男のように権力を振り回す」から断罪され、「女としての弱さを見せる」から免責されるのと好対照であると言えます(また逆に、オタク男子への批判とは対照的に、オタク女子へは全く反転した肯定的評価が与えられますよね)。
 さて、「オタク批判は、男性性への純粋な攻撃である」。
 おkでしょうか。
 それ故、ヒョーロンカはオタク男子を決して肯定しません。
 同様に、オタク界の上の方にいる人々は、オタクが大嫌いです。
 ラノベの編集者とかと話していても、それは痛感します。今回採り上げるようなオタクキャラ、オタクネタはオタ作品に溢れかえっていますが、かなりの割合で、送り手の中にはそれを好まない人々がいるわけです。お断りしておきますが「編集者は作家が安易なオタク的な小ネタに走るのを好まない」といったことを言っているのではありません。彼らはオタクという存在そのものを直視させられることを、好んでいないように思います。
 さて、そのことを考える補助線として、今回、『さよなら絶望先生』の万世橋わたる君、『ダンガンロンパ』の山田一二三君、二人のオタク少年キャラにご登場いただきましょう。
 まずは万世橋君。いつも通り、キャラについてはウィキからコピペってきました。


万世橋わたる(まんせいばし わたる)声:上田燿司2年ほ組(へ組の隣)の男子生徒。硬派なオタクで、オタクとしてのアイデンティティーの一般化・低俗化を憂いている。二次元世界への理想が強いゆえに現実の女性には興味を持たぬ恋愛観を貫き、また「万世橋仮面」として現実世界で不逞な行為に及ぶオタクを成敗することも。(以下略)


 絵をググっていただければわかりますがこの万世橋君、「漫画で揶揄気味に描かれるオタク」そのままの姿をしており、別に男前な人物として描かれているわけではありません。が、「万世橋仮面」の活躍などに伴い、人気キャラとなっていきました。ちなみにこの「万世橋仮面」って呼称自体は、劇中には出て来なかったはずですが、確か幼女誘拐犯をやっつけ、「二次元だけにしておけ」と諫める、みたいなエピソードに登場したと思います。
 上に「硬派なオタク」とあるように、彼は「一般人が秋葉へ来んなよ!」といった発言をよくします。恐らく作者の久米田康治氏はそこにオタクの自閉性を揶揄する意図を込めたはずですが、ファンはその発言に邪気なく快哉の声を上げた。比較的古株のオタクが若干の自虐を含めて作り出したオタクキャラが、(想像するに)若い世代には屈託なくヒーローとして受け容れられた。
 上に書いた経緯は、まとめてしまえばそう言うことになるように思います。
『絶望先生』の単行本では読者の送ってきた似顔絵が掲載されるコーナーがあるのですが、万世橋君はそこでも人気キャラで、確か読者が彼に「オタクを舐めるな!」と叫ばせる似顔絵を描いてきて、作者が若干退き気味に「いや、別に彼はこんなことを言わないと思うよ」とコメントしていたことが印象的でした。
 そしてまた、山田一二三も近しい受け止められ方をしているように、ぼくには思えるのです。山田君についてもウィキをコピペりましょう。


山田 一二三(やまだ ひふみ)声 - 山口勝平超高校級の「同人作家」。身長170cm。頭部は栗のようになっており、丸々と太った下ぶくれ体型をしているが、足だけは妙に細い。いつも着用している丸眼鏡とリュックも特徴。以前在籍していた学校の文化祭で、自作の同人誌1万部が完売したという偉業を達成した伝説を持つ(ただし山田曰く「僕の芸術を理解しないクラスメイト達」からの「文化祭が汚された」とのクレームもあったという)。(中略)相手を「フルネーム+殿」と呼称する癖がある。パロディ発言やネタ発言も多いが、対人関係に壁を作ったりせず、周囲には溶け込んでいる。女性は二次元限定と決めており、三次元の女性には一切興味がないと豪語するが、実際は密かに三次元の女性に興味を抱く様子も見られる。


 彼もまた、絵をググっていただければわかりますが「漫画で揶揄気味に描かれるオタク」そのままの姿をしており、別に男前な人物として描かれているわけではありません。性格も同様で、上に「周囲に溶け込んでいる」とあるのもウソではありませんが、基本的には「主人公が山田君にオタク話につきあわされて困る」的な描写がなされています。
 つまり万世橋君同様、山田君の描写にもまた、作り手の自虐的なオタク観が見て取れるのです。
 以前も書いたように、山田君は萌えアニメにハマりつつも、「ぼくは本作を萌え目的で見ているのではなく作品としてのクオリティを云々」といった言い訳を盛んにします。しかし、彼と親しくなると本音を露わにして萌え作品への傾倒を吐露し、しかもそれがかつてのダークサイドに陥っていた自分を萌えが救ってくれたことに起因することを告白し出すのです。この辺り、前者はどうも『ハルヒ』に対する批評文のパクリらしく、後者は明らかに『電波男』の影響を受けています。そして感心しかける主人公に対して――「だからこそぼくは愛を込めてこの萌えキャラ○○タンを辱める薄い本を作るのです」などと宣言するのです。
 また、山田君は本田透以降ポピュラーになった「リアルな女にキョーミはない、ぼくは二次元へと飛翔したエリートだ云々」といった主張を繰り返すのですが、見ていくと上にあるように女湯や女子更衣室に他の男子たちよりも積極的な興味を持つ描写が、あちこちでなされているのです。これもまた、オタの上記の発言が一種のポーズであるとの作り手の認識を表しているように思います。もっとも最終的に山田君がハマったのがアルターエゴ、つまり二次元の男の娘である辺り、やはり「萌えエリート」である気もしますが、その時の彼の心情が「お母さん以外で自分の話を熱心に聞いてくれた初めての女の子だったから」というものであるのがまた、泣かせます(いや、相手は男の娘なのですが)。
 が、ブログなどを見る限り、ファンたちは妙に山田君に対して、高評価であるように感じるのです。上に書いた「オタク話をして退かれるキャラ」といった解釈よりは、むしろ「人当たりのいいヤツ」との解釈が主流であるように思います。
 例えば本作にはセレスという高飛車な女王様的キャラが登場します。この少女はかつての学園生活ではぼっちであった、しかし山田君とは妙に絡んでいた、といった描写があります。ぼくの見る限り、それは山田君の「三次元女子」への興味、または「ヘタレ」としてのキャラ描写であるように思うのですが、とあるブログでは山田君がセレスのことを気遣って、仲間たちの輪へと誘ったのではないか、といった憶測が書かれていました。正直、ちょっとあばたもえくぼ的な推測だと思うのですが、そう考えると山田君、すごくいいヤツです。
 ――ぼくの言わんとしていることがおわかりでしょうか。
 ぼくの感性そのものは、『絶望先生』や『ダンガンロンパ』の作者たちと近いところにあります。
 オタクを憎悪する層(先に挙げた編集者など)に対して深い怒りを抱きつつ、手放しに「オタクイズビューティフル」と叫ぶのもためらわれる、というどっちつかずなところに、ぼくはいるように思います。
 が、若い受け手たちはそうした言わば「オタク自虐史観」を恐らく、共有どころか理解すらしていない。
 感性は上の作家たちに近いと言いましいたが、ここでどちらが正しいの間違っているのという価値判断はひとまず、保留したいと思います。てか、実は正直なところ、判断しかねているのが実情です。
 ともあれ古株のオタクは「自虐的感性」を持っている。若い世代は持っていない。それ故、アニメなどのオタクキャラの活躍に、邪気のない快哉を送る。
 数年前、『となりの801ちゃん』などを皮切りに「腐女子ブーム」というものが起こり、(貴腐人たちがそれに苦々しげなリアクションを取るのとは対照的に)若い腐女子たちがそれに快哉を送っていたことを、ふと思い出します。ぼくはかねてより、腐女子たちはそれこそ『絶望先生』の藤吉さんなど、腐女子キャラに快哉を送る傾向があるが、男子にはそれがない、と感じていたのですがそれがここ数年、少し変わってきた印象です。


 さて、以降はハナシが一般的な男性女性論に、女災論に転じます。
 つまり、今書いた若手のオタクたちの傾向の変化と同じ感性が、「男性差別クラスタ」にも感じられるのではないか、というハナシです。
「女性専用車両」、「女性優遇サービス」について、ぼくは女性ジェンダーに根差したサービスだ、「あなたの性別という属性故にサービスしますよ」という甘言に飛びつくのは女性ジェンダー特有の現象だ、と論じてきました。恐らく「男性優遇デー」を設けても「女性優遇デー」を設けるよりも集客は見込めまい、ということですね。
 だから「男性差別クラスタ」はそうした男女のジェンダー差を鑑みてモノを言うべきで「差別だ差別だ」と繰り返すばかりでは解決しないよ、と今まで言ってきました(だって企業も商売ですもんね)。
 しかしこうした「男性差別クラスタ」というものの年齢層をもし調べて、仮に若い連中が多い、という結果が出たとしたら*2。それはもう、「セックスや結婚を忌避する男子が急増云々」と昨今の若年男性の性意識の変化が語られるように、男性たちの内面が変動しているのだと考える他はありません。
 そう考えれば近い将来、男たちが「女並に」自分の権利を要求し出すようになり、「男性差別」は自然に解消されることになるのかも知れません。
 が、それは手放しに喜ぶべきことでしょうか。
 それは他力本願に「サベツガー!」という人間の、おびただしい増加という事態に他ならず、それで日本が住みよくなるかというと、とてもそうは思えないのです。
 ぼくは何度も、「サベツガー!」と騒ぐやり方は「男性の中の、真のワルモノ」役を自分たちよりも弱い者に負わせることになりがちだ、と書いてきました。アメリカではそれが「プア・ファット・ホワイトマン」であり、日本ではオタクだ、という言い方をしてきたと思います。
 福島の第一原発での作業など(これはまあオタクとは関係ないけれど)結局一番危険で、しかし誰かがやらねばならぬ作業など、「強者ということになっている者の中の弱者」がやらされるのは自明なわけです。
 山田君、万世橋君のファンの方には念を押しておきますが、ぼくはこの二人やそのファンをdisってるわけではありません。ただ、このキャラの作り手たちはオタクに対しての冷静な目も失っておらず、そうした視点も大事だよね、というお話をしているわけです。
 そして、更にそれを敷衍して、「男性のケンリ」を主張する人々は余計に、そうした内省的な精神を失ってはならないわけです。でなければぼくたちは、あの国家主導で何兆という予算を食いつぶす、内省がゼロの人々に近づいてしまうのです。
『ウルトラマンレオ』では変身能力を失ったウルトラセブンが、背水の陣で新米戦士のレオを厳しく鍛えます。その時のセブンのセリフにこういうものがあります。


「男が外へ出て戦うのは何故だ? それは女の子が背後で、優しくお花摘み*3をしていられるようにするためではないのか?」


「男性差別クラスタ」は自分も戦いなどごめんだ、お花摘みをしたいと言い出した、男女平等()な草食系男子()です。
 そしてまた、それは大変によくわかります。
 ぼくたち男性も、お花摘みを楽しむ権利くらいはあるはずです。
 しかし問題は、今の日本ではいまだ、怪獣が大暴れしているということなのです。
 ぼくたち全員がお花摘みを始めた後、怪獣と戦うのは一体、誰なのでしょうか……?


*2こうした調査はないでしょうが、昨今こうした声が大きくなっている以上、若い連中が多い、と考えるべきでしょう。ドクさべのせいで何とはなしにオッサンが多いような先入観を持ってしまいますが。
*3今になって「お花摘み」じゃなく「おままごと」だった気もしてきましたが、割とどうでもいいので訂正しません。


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被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!

2013-12-13 17:17:31 | アニメ・コミック・ゲーム

 ここしばらく、ずっと『ダンガンロンパ』ばかりやっていて、全く読書をしておりません。
 大してアニメも一般的なテレビ番組も観ないぼくが、ちょっとPSPvitaを買ったらこのザマです。そうしたモノに詳しい上に教養もある人たちって一体どうなってるんでしょう。やっぱりぼくなんかとは頭の作りが違うんでしょうか。
 まあ、そんなわけで読書が滞っておりますので、今回はまた『ダンガンロンパ』ネタを、前回のネタにこじつけてちょっとだけ。
 後、ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせる
センスのない週刊誌のリード文風タイトルをつけてみましたが、いかがでしょうか?

 


*     *     *


 

 というわけで『スーパーダンガンロンパ2』。
 今回はその中の罪木蜜柑というキャラをご紹介しましょう。
 と言ってもこの『ダンガンロンパ』、ジャンルとしてはミステリであり、罪木への言及がそのまま壮大なネタバレになってしまいます。知りたくない方は、以下は読まれませんよう。
 しかしこのネーミング、『積み木崩し』と「腐ったミカン」からの連想なんでしょうかね。その手の(連想されるスケバン的)キャラでは全然ないんですが。
 キャラ設定をニコニコ大百科、及びピクシブ百科事典からコピペっておけば、


人にご奉仕する事をいきがいとする超高校級の保険委員。負傷や病気に倒れた仲間を率先して介抱する。
また、コロシアイの捜査パートでは検死を行う事ができるため、学級裁判において重要な役割を担う。
しかし、自己評価が極端に低く、いつもオドオドしている。それが災いし、これまで一切友達に恵まれずにいじめを受けていた。髪型がざんばらなのは、いじめられていた時に勝手に切られたからであり、当時の状況は、自由時間やアイランドモードで、彼女と話す事で聞く事ができる。


 

いじめらていた名残で、事ある事に脱ごうとしたり体の好きな所に落書きする事を勧めるが、そういう趣味がある訳ではなく、相手に嫌われたくないからである。
(ニコニコ大百科)


 

常に怯えているような態度を取り、とにかく「ごめんなさぁーい!」と謝る少女。
表情パターンも怯えや泣き顔の表情が多い。
何故か、自分が悪いと思ったときはとりあえず
脱ぐ。その他、相手が望んでもいなくても『体に落書きをすることを勧める』などをする。そして必死に許してもらおうとする。
結果、嫌われないように頑張りすぎて失敗し盛大に空回りしてしまう。
当然だがこれは趣味ではなく、イジメられた経験を下地とした彼女なりの対処法である。そして、何もない場所でどうやったらそうなるのか分からない派手な転び方をする。
(ピクシブ百科事典)


 以上、ちょっと笑えないようないじめに遭い、そのせいで卑屈な性格になったというキャラクターなのです。
 何かと言えば服を脱ごうとするぽっちゃり体型の「お色気要員」であり、そうしたキャラがいじめられっ子というのもリアルと言いますか、いかにもな感があります。
 さて、以下からいよいよ大きなネタバレになるのですが、『ダンガンロンパ』をアニメで観るなどして、作風が何となくわかっていらっしゃる方は、ふと思ったのではないでしょうか。
 本作は人間の暗黒面を活写する作風。
 となれば、罪木の暗黒面は一体いかなるモノかと。
 上に「コロシアイ」とあるように、本作は『バトルロワイアル』的な、閉鎖空間での殺しあいがテーマです。
 彼女は作品途中で、二人も人を殺してしまうのです。
 そう、いじめられっ子の逆襲的なストーリーというわけなのですが、ちょっと納得がいかないのは、彼女をいじめていた西園寺日寄子を殺したのは口封じ目的であって、最初に殺した澪田唯吹は別に彼女に辛く当たっていたわけではない(殺人の動機がない)という部分。
 プレイ時はポカーンとなってしまうのですが、話が進むにつれ、これは彼女がラスボスの拡散させた「絶望」というものに取り込まれたのが原因だとわかるようになります。この辺、説明が難しいのですが、カルトに洗脳されて無目的な殺人を犯したというイメージが近いでしょうか。
 むしろ彼女は(これは他のキャラも、前作もそうなのですが)殺人の加害者と言えど、状況の異常さに翻弄された被害者という側面が強く、そこを強調するために怨恨殺人色を消したのかも知れません。
 本作の見せ場である「学級裁判」において殺人者としての本性を現す罪木ですが、そこでもやはりあくまでいじめられて、耐え兼ねて逆ギレした可哀想な少女、という印象を強く持ちます(同時にカルトの教祖への圧倒的な信仰を吐露する辺りもまた、哀れと言えば哀れです)。


 

 上にもあるように普段の彼女は看護婦のような存在であり、怪我人、病人に奉仕することが生き甲斐の優しい少女です。
 例えばですが、こんなシーンをつい、想像してします。
 劇中で怪我人が出た途端、今まで卑屈にしていた罪木が前に進み出て、テキパキとみんなに指示を与え、怪我人を介抱する。
 そうしたシーンは(いかにもありそうなのですが、ぼくの記憶では確か)実際にはありませんでした。
 が、しかし。
 ダンガンアイランド(殺人の起こらないギャルゲー的モード)で彼女に話しかけると、彼女は自らの「超高校級の保健委員」としてのスキルについて、とんでもないことを言い出すのです。


怪我しても誰も治してくれないから自分でやってる内に得意になりました。


 

私…ずっと、自分の為に治療をやってました…
でも…ある時、気付いちゃったんです。


 

病気や怪我をした人は…私より弱いって。

 


だって…病気や怪我の人って、放っておいたら痛みに耐えられなくなったり…
下手すれば、死んじゃったりするんですよ?
だから適切な処置を知ってる人間の言う事は
絶対なんです。
と言う事は…つまりですよ?
この私が誰かに必要とされるんです。
私に全幅の信頼を寄せてくれるんです。
だから…怪我や病気の人を見ると
放っておけないんです。
だって…みんな
私の言う事を聞いてくれるから…


 ここ、ぽーっとプレイしていると「あぁ、優しい娘なんだなあ」で終わってしまうかも知れません。しかし主人公は敏感に感じ取り、


少しずつ罪木の事を
理解できていると思っていたのは…
どうやら、まったくの幻想だったようだ。


 

なんとなく…弱ったところを見せたら
お終いのような気がした…


 と戦慄します。
(そして実際、彼女が殺人に及ぶのは、澪田が病に倒れたことがきっかけでした!)
 つまり彼女は「自分以上の弱者」として「病人」や「怪我人」を「必要」としていたわけですね。


 

 ――さて、以上をお含み置きいただいた後、前回の話題を振り返ってご覧になっていただきたいと思います。
 いろんな見方ができるかと思います。


 

「母性愛などウソだ、そんなものは支配欲だ」
「殺人犯も実は本来、罪木のような優しい心を持っているのかも知れないのだ」
「しょせん、罪を犯すかどうかなど紙一重なのだ」


 

 それぞれそれなりにもっともだと思います。
 が、結局ぼくとしては殺人に及んだ者を許すわけにはいかないけれども、上に書いたような加害者性/被害者性というモノの両義性について、考え及んでいないぼくたちの見識の低さこそが、一番憎むべきものだなあと思います。
 上に「怪我人を前にした罪木がテキパキと行動する」という二次創作SSをお読みいただきましたが、罪木の中の支配欲、S気質はそのように発揮されるべきであった。
 一方で、罪木の弱者に奉仕したいという優しい気持ちも気持ちも、ウソではなかったのだと思います。しかし同時に、弱者を支配したいとの念から医療に携わったことも事実でしょう。それは表裏一体の、全く同じものなのです。
 彼女は結果的に殺人者となりました。しかし異常な状況下にさえ置かれなければ、「優しい看護婦さん」として周囲の尊敬を集める人物になっていたかも知れない。そうした人間心理の両義性をさりげなく描いているところに、本作のシナリオの洞察力の鋭さがあります。
 彼女は残忍だったから、殺人を犯したわけではないし、慈愛の精神に欠けていたから、殺人を犯したわけでもない。残忍さも慈愛の精神も、根っこは同じなのです。
 そこがわからないから、女性性や母性に盲目的な信仰心を抱き、殺人を肯定してしまう。
 それはホモは被害者に決まっているのだと、子供へのレイプをスルーした人たちと全く、同様に。
 今までぼくは度々、女性のネガティビティと男性のネガティビティを比較し、「男性の方はまだ、自覚がある」的なことを言ってきたと思います。
 それはつまり、(フェミニストが指摘するように)男のマチズモ、攻撃性が一面の悪であることも事実だ。しかし「攻撃性」を「能動性」と読み替えても同じで、それが社会を発達させてきた面もあれば、それがあるからこそ女性に積極的にもなれたわけであり、それは両義的なものなのだ、と。
 事実、日本では性犯罪が驚くほどに少ない。日本の男性たちが自らの攻撃性を内省し、御している証拠でしょう。
 ひるがえって女性性はいまだ未知の部分が多く、いまだ彼女らが自らのそうした「業」を制御し切れているとは言い難い。「古代人の遺した未知の兵器」みたいな、コントロールできていない危険なエネルギーです。
 その意味で、政治家の唱える「我が国は女性の力を上手く活用できていない云々」といった文言は正しくはあるのですが、あんたら、原子力よりも遙かにそれを暴走させてる現状で何を、と言いたい気もします。

 


 文月メイもフェミニストたちも、そして彼女らを批判しない一般の人々も、「残忍」だから幼児虐待を肯定しているわけではありません。
「不道徳だから」というわけでもありません。
 敢えて言えばただ、「愚か」なだけだったのです。
 そしてぼくたちは、女性の持つエネルギーのいい面悪い面に思いを馳せるだけの見識がないからこそ、今までそうしたことをスルーし続けて来た。
 さて、ではどうすればいいのか。
「わかれば」いいのです。
 じゃあ、どうすれば「わかる」ようになるのか。
 一つには、罪木のようなキャラをまた出せばいいのではないでしょうか。
 一昔前なら、このような多重性を持ったキャラはとても出て来れなかったでしょうが、ある種、萌え文化の隆盛がそれを可能にした。
 だったらまた彼女のようなキャラを出せば、それだけぼくたちは女性性の業について洞察を深めていけるのです。
 そう、罪木蜜柑ちゃんは、「超高校級の保健委員」は、文月メイに立ち向かい、幼児虐待を食い止めるために生まれた
愛の使者であったのです。


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女宮崎勤の歌う「感動的」な幼児殺害ソング

2013-12-06 19:46:15 | レビュー

■注意!■
タイトルでおわかりになるかと思いますが、今回かなり刺激的な内容です。
ショックを受けないよう、注意して読んでください。
しかし何か、宇宙刑事のサブタイトルみたいなタイトルですなあ。


 *     *     *


「ママ」という歌が話題になっています。
 シンガーソングライター、文月メイによる児童虐待をテーマにした歌で、内容を一言でまとめてしまえば、以下のような感じです。


母親に虐待の末に殺され、ゴミ袋に入れて捨てられた男の子が「そんなことをせざるを得なかった弱いママ」を守れなかった自らの無力さを贖罪するため、またこれからはそんなママを守ってあげるために天使になった。


 萌えるショタソングですね。
 いわゆるエロゲー、エロ漫画の中には幼女を誘拐し、監禁し、酸鼻を極める陵辱を繰り返した挙げ句殺し、
ゴミ箱に捨てる、といったものもあります。命乞いをする少女を嬲り殺しにして楽しむものもあります。
 それと同じくらい
萌えますね
 詳しい歌詞は曲名、アーティスト名でググってご覧になってみてください。
 ググると同時に「過激な歌詞内容のため、予定されていた有線放送を見送られることになった」との情報も目に入る仕掛けになっており、要はそういうステマで売り出されたということのようです。
 ちなみに公式サイトでご本人のバイオグラフィを見ると、


本当の愛を知りたいというテーマで曲を作っているシンガーソングライター。
混沌とした現代社会の中で、楽しくもあり悲しくもありうる全ての出来事の中に、
本当の愛があると信じ続けて歌います。


 とあります。
 格好いいですね。
 さて、本作品についての評価についてネットを漁ったところ、手放しの絶賛が多いことに慄然とします。


この歌聴けば、(引用者註・幼児虐待を)やめようと思う人だって絶対にいるんじゃないかな。


全ての母親が聴くべき歌だ。有線放送見送りを決断した担当者は虐待犯予備軍ではないか


亡くなったその子が一番悲しいんだろうなと思った。。ママを助けたくて、ママを幸せにしたくて生まれてきたのに、ママにそれを伝えることができなかった。反対に、ママを苦しませてしまった。自分の力不足を悔やんでいるんじゃないかと。。


 こうした人たちは「感動的」「泣いた」とひたすら書き綴っており、そこに正否の判断は実のところあまり見受けられません。この人たちはテレビで垂れ流されるワイドショーに反応するごとくに、動物的にただ「泣いた」だけなのではないでしょうか。本件でキモチワルイのは、歌い手も支持者もその「涙の渦」に呑み込まれたまま、自分たちのキモチワルさについて無自覚なことです。
 むろん加害者が居直っている身勝手な歌だという冷静な分析もまた多く、ぼくは当然、そちらに全面同意します。更にぼくの感想を付け加えるならば、この歌はまさに上のような感想を漏らした人たちに向けられた商品なのだなあ、というものです。


 宮崎勤という人物がいます。
 世間では忘れ去られ、オタ論壇では「こいつのためにオタクが差別されるようになったのだ」と言われるばかりで、幼い女の子に性的ないたずらをして殺した、凄惨な事件があったことを覚えている人は少ない(かも知れません)。
 が、実はこの人物、自分がいたずらして殺した四人の女の子たちが草原か何かを裸で駆け回り、自分に向かって「ありがとう!」と手を振る夢を見ているのです。そこにあるのは「ボクがこんなにキモチヨかったんだから、幼女タンも喜んでいないはずがない」という無邪気な確信です。
 死ねばいいのに、と思います(あ、死にました)。
 しかし考えれば、このメンタリティって上の歌とそっくり同じですよね。
 フェミニストは全ての男性が性犯罪者予備軍であるかのような主張を頑迷に繰り返しますが、ぼくはそれに今まで「留保つきの肯定」をしてきました。
「ある種の暴論としてならば、わかる」と。
 誰だってかっとなって人を殺す可能性はある、という程度でならそうしたことも言える。そして女性から男性へのレイプもあるとは言え、男性ジェンダーの性質を鑑みるに、「性犯罪者予備軍」との称号が女性よりも男性に冠せられることはまあ、理には適ってるよなあと。
 しかし同時に、それと同様な意味であらゆる女性は「性犯罪冤罪を男性に着せる予備軍」でもある、といったことを、ぼくは主張し続けて来たはずです。
 今回、ぼくはここにもう一つ、全女性に対して「児童虐待予備軍」との称号をも冠したいと思います。
 それは一つには、単純に「女の方が育児する率が高い」ということでもありますが、本作に現れている子供との同一化、子供の私物化というのはやはり、女性に普遍的に見られる傾向であるように思えるからです。
 フェミニストは男性が性欲故にレイプをするから、男性の性欲は全て悪だと説きます*1。
 それはむろん暴論であり、性欲があるから男性は女性に優しくもするし、会社で働きもするということは、フロイト先生に聞かずともわかりきったことです。
 それと同様に、母親の子供との同一化という傾向も基本的には子供への愛情という良き方向で顕れているはずですが、何かの加減で一歩間違えれば、今回の歌のような悪しき表出の仕方もしてしまう。
 それはまどかちゃんが愛の心で世界中の人々の内面へとアクセスし、「希望」そのものとなってあげられたのと裏腹に、ほむほむがまどかちゃんを愛するあまり「悪魔」と化し、彼女を自らの中に取り込もうとしたのと全く、同じに。


*1彼女らは「レイプの原因は性欲ではなく支配欲」と言うのがお決まりですが、ぼくはその論拠を一度も読んだことがありません。彼女らは単純に「男の悪しき性欲」を「支配欲」と読み替えているだけなのではないでしょうか。


 当たり前ですが、ぼくは「全ての母親が文月メイと同レベルだ!」「女なんてみな幼児虐待犯だ!」と言っているわけではありません。
 しかし、その「萌芽」は普遍的にあるよ、と言っているだけです。
 それはほとんどの男性は性犯罪者ではないが、「萌芽」はみな持っているというのと、全く同様に。
 まずそれを前提にした上で、女性が自らの欲望を肯定され続ける現代において、そうした萌芽が悪しき発露の仕方をしてしまう可能性が増えているのではないか、ということを、ぼくは指摘しているのです。だから女性全員が悪者ではなくとも、欲望の悪しき表出は、相対的に多くなりつつあることが想像できる、と。
 それを示唆する材料として、もう一つその萌芽の悪しき「萌え方」をご紹介しましょう。


<iframe src="http://rcm-fe.amazon-adsystem.com/e/cm?lt1=_blank&amp;bc1=FFFFFF&amp;IS2=1&amp;bg1=FFFFFF&amp;fc1=000000&amp;lc1=0000FF&amp;t=kaimido-22&amp;o=9&amp;p=8&amp;l=as4&amp;m=amazon&amp;f=ifr&amp;ref=ss_til&amp;asins=4022614323" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" style="width: 120px; height: 240px;"> </iframe>


『ママでなくてよかったよ―小児がんで逝った8歳 498日間の闘い』。
 丁度十年前に出た本です。内容は尼からコピペしておくと、


「ママ、教えてくれてありがとう。僕、絶対に死なないから、がんばるから大丈夫」―絶望的ながん(横紋筋肉腫)を告知する母と、それを真っ正面から受け止め、精一杯生き抜いた6歳の子。運命と呼ぶにはあまりにも壮絶な親子の闘病記。


 しかしぼくはこれ、何とはなしに母親本人の手記だと思っていたのですが、そうじゃなかったようです。
 タイトルの「ママでなくてよかったよ」はもちろん、「死ぬのがぼくでよかった、ママじゃなくてよかった」といいう意味ですね。この言葉、本当に「言わせた」にしろ「薄い本」における「二次創作」にせよ、何ということを言わせているのでしょうか。
 何よりも両者とも、遺児が女の子であれば成り立たなかった種類のものであることを、見逃すべきではありません。
 両者とも自らの息子が「男性ジェンダー」を背負い、女性である自らのために死んでいくことで成立するスナッフフィルム*2なのです。
 文月メイとこの本の著者は宮崎勤と全く同じであるということを、ここでぼくたちは心に留めておきましょう。
 本作に批判的な感想の中には「こんな歌は我が子を虐待している母親には届かない」との声もありましたが、それは全くそうではない。我が子を殺した母親たちはむしろ、「我が子が裸で手を振って『ありがとう』と言う」夢を見るために、この歌を誰よりも欲することでしょう。
 この歌は子供を殺した親のための、極めて実用的な、殺人体験をより楽しむためのマスターベーションツールだったのです。
 本件で一番キモチワルイのは、この歌をそのようなものであると、「児童虐待ポルノ」であると位置づけることのできない、ぼくたちの見識の低さではなかったでしょうか。
 ぼくは先に、胸クソの悪くなるエロゲや漫画について述べました。
 ぶっちゃけこういうものを作る者も楽しむ者も全員しょっ引いて磔にし、腹を割いて腸に鉤針を引っかけ、一方を馬に結わえて全力疾走をさせることで内蔵を引きずり出すなどして、こちらも楽しませていただきたいと思います。
 しかし。
 それでもまだ、実のところ、こうしたものは「インモラルなもの」という前提の下で流通し、また作り手もよほどの薄らバカでない限りは自身の作品のインモラルさに自覚的であるわけです(まあ薄らバカが結構いるのでは、という話は置くとして……)。
 だから恐らく、そうしたポルノの作り手たちはよほどの薄らバカでない限りは、「我々の表現が公共の図書館など、陽の当たる場所に出せないことは許せない」とまでは言わないでしょう(まあ薄らバカが結構いるのでは、という話は置くとして……)。
 しかし話が「女/母性」にまつわることになると、「殺人」までもがどういうわけか聖化され、おぞましいものであるとの認識が、放棄されてしまう。
 本件で何よりキモチワルイのは、本件における「感動」クラスタの「ピュアネス」さです。
 この歌の母親の、子供を殺しておきながらたちどころにその子供に「憑依」することで自らの加害者性から目を背ける、おぞましい無責任さです。
 一部の女性に徹底的に欠けているのは、そうした自分たちの性向に対する内省です。
 フェミニストたちが往々にして、こちらが唖然とするような邪気のない「ピュアネス」な自己イメージを抱いていることも、これらの傾向と決して無縁ではないはずです。
 いつも言うことですが、フェミニストたちの男性観は極めて歪んだ、時代がかったものです。彼女らの脳内には「今時いないだろ」としか思えない傲慢で高圧的で女性を蔑ろにする凶悪な、つまりは「男性ジェンダー」に居直った、ティーンズラブコミックのヒーロー然とした男性たちでいっぱいです。
 フェミニズムとは、死滅した「男性ジェンダー」を保存することを目的とした、一種のティーンズラブでありボーイズラブなのです。
 が、現実世界では残念なことにそうした男性はおらず、いるのは「女性ジェンダー」に居直った女性たちばかり。
 でなければそもそも、今回のような歌は表には出て来なかったはずです。
 ぼくたちの社会は、「男性が威張り散らして女性をレイプし放題のヒャッハー社会」を反転した「女ヒャッハー社会」です。しかしその社会を捉え、動かすツールであるはずの「言葉」はそれに全然追いつけずにいるため、まだ「男ヒャッハー社会」にしか対応できていない。最新のソフトをWINDOWS95で動かそうとするかのようなムチャ振りを続け、動作不良を起こし続けている。それが、この女災社会の実情です。
 一刻も早く新たなOSの開発が待たれますが、旧来のソフト会社が貧乏ライターを恫喝するなどの妨害活動を続けているので、多分無理でしょう。


*2娯楽用途に流通させる目的で行われた、実際の殺人の様子を撮影した映像。往々にしてポルノ的消費がなされると言われています(ただ、これは都市伝説レベルの話で、実在するかどうかは不詳ですよ)。


 

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