兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)

2010-08-29 15:30:36 | アニメ・コミック・ゲーム

 ポストモダン評論家の東浩紀センセイが元・2ちゃんねる管理人のひろゆきさんに論破され、逃走した事件がネットを騒がせたことは、記憶に新しいところです。
 ……と言いたいところですが、この件、誰もほとんど騒がないうちに「なかったこと」扱いになっちゃっているようですね。
「なかったこと」にするのもまた、「逃走」の一種ではあるのですが。
 さて、それでは何故にセンセイはここまで「逃走」がお好きなのか。
 それは別にセンセイが
スキゾ・キッズのお弟子さんだからということではもちろん、ありません。


 前回ぼくは東浩紀センセイを、オタクに数々のネガティブなレッテルを貼った犯人である、と申し上げました。はて、それでは彼はどこで、具体的にはオタクをどのように評していたのでしょうか。
 実はセンセイの主著をめくってみた限りにおいては、それは(露骨な形では)発見することができませんでした。あるいは昨今の、「オタクの味方」として売っているセンセイ的には、かつてのそうした発言は黒歴史なのかも知れません。
 あちこち探して、ようやく見つけてきました。雑誌『Quick Japan vol.21』に掲載された「オタクから遠く離れてリターンズ」がそれです。
 センセイはここで


 たとえばコアな男性オタクには、妙な硬派意識があるでしょう。現実の女とチャラチャラ飲みにいったり、イタリア料理食いに行ったりはバカにして、むしろプレステで格ゲーやってるほうが「かっこいい」、みたいなね。エロ同人誌を描いていて硬派とはどういうわけか、僕は長いあいだ謎だった。ホモソシアル、がその答えではないか。


 とおっしゃり、対談相手の伊藤剛さんはそれを受けて


 オタクのコミュニティって、妙に体育会系っぽかったりするもんね。


 と答えています。
 オタクに硬派意識があるとも、オタクのコミュニティが体育会系であるとも、ぼくは長年オタクをやっていて一度も感じたことがないのですが。
 この「ホモソシアル」という用語はやはりフェミニストが作り上げたものなのですが(「ホモソーシャル」と表記するのが一般的ですが、一応、センセイに倣って「ソシアル」で行きます)、ごく簡単に説明しておけば「男性同士のホモセクシュアル的な、しかし性的な意味での同性愛は慎重に排除された連帯」を指します。意味がおわかりにならないかも知れませんが、書いているぼくもよくわかりません。あそこまで女性同士の連帯を重要視する(その割には派閥争いばかりしている)フェミニストたちが、男同士の連帯となると何故否定してしまうのか。伝わってくるのは、専門用語まで作り出して貶めてやろうという、その昏い男性憎悪の情念ばかりです。
 要は自分の努力不足で社会的地位を得ることのできなかったフェミニストが「男同士がつるんでいるのが悪いのだ」と責任転嫁した挙げ句、「けど彼らはホモでもない、ホモ的であるにもかかわらずホモを排除するとはホモへの差別だ」という結論に達してしまった、何と言いますか砂の上に楼閣を力業で十段重ねにしたような、無理やりなリクツというわけですね。
 その意味で「ニッポンのミソジニー」(
http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/index.html)における上野千鶴子教授の


 こういう男同士の強い絆を、わたしは長いあいだ、同性愛とかんちがいしていた(引用者註・が、実はそれはホモソシアルだったのだ)。


 という邪気のない告白は実に象徴的です。
 今まで自分の不遇感を「男たちがホモだから」と妄想していたフェミニストたちが、「政治的な正義」を斟酌して、「ホモじゃないのにホモみたいだから」と言い換えた、ただ男たちをキューダンするという目的のためだけに論理的な無理を二重にも三重にも重ねて生まれた奇怪なワード、それがこの「ホモソシアル」なのです。


 この後、東センセイの論調は、「しかし女性のオタクは男性よりも進んでいて素晴らしい(大意)」と展開していきます。とにかく男性性は全て悪であり、女性は全て善というのが大前提なのですから、それも当たり前のことですね。*
 続いてセンセイの言は、オタクはナショナリストだとの(これもよくわからない)方向へと向かいます。要はセンセイにとって「悪」であると認識されるレッテルを、何でもかんでも男性オタクへと貼りつけているだけの動物化した行動のようです。
 この対談の発表された九十年代後半は、まだフェミニズムが学問の世界でかろうじて命脈を保っていました。そんなおり、センセイは取り敢えず男性を叩く「攻撃呪文」として、「ホモソシアル」という単語を深い考えもなく採用したというのが実際のところであり、その延長線上にあるのが今回の発言というわけですね。


*ホモソシアルがそれほど唾棄すべきものであるなら、その男の友情に憧れている腐女子たちは見下げ果てた最低の女たちのはずですが、東センセイにかかっては


 まさにホモソシアル性をからかう態度だよ。


 そのことを女の子たちは敏感に感じ、それをやおいというかたちで表現して批評していたわけだから、その方が明らかに認識は高い。


と解釈されてしまいます。
 この人、会社勤めでもして社長の悪趣味なネクタイを誉めてた方が、ご自身のスキルを発揮できるんじゃないでしょうか。



 今回の騒動において、東センセイはひろゆきさんの「処女厨はオタクに限らない」との指摘に言葉を失い、慌てて逃走しました。
 この対談でもセンセイは


 いきなり論壇人みたいになっちゃうけど(笑)、オタクの行動はその意味で、日本社会の醜さを凝縮している。しかし彼らはそれでいいわけ?


 日本の「悪い場所」を一番象徴しているのは、明らかにオタクだよね。


 と繰り返しています。
 つまり彼は自らの言説が、実は男性に(上の場合は「日本人」という括りですが)普遍的に当てはまることに気づいていて、しかしそれをオタクという特定の人種を叩く口実にするために、「オタクにはそれが一番悪い形で現れているのだ」と言い訳しているという順序になっているわけですね。
 しかし本当に日本人の、男性の中でもオタクが一番悪いのか、それを論証するだけの力はセンセイには、ない(というかそんな実態は、ない)。
 だからちょっと批判を受けると、センセイは小
動物化してあたふたと逃走するより他、ないわけです。
 今回の騒動は、巷に溢れる――いいえ、センセイが悪意を持って世間に流布した――「オタクはマッチョ/ホモソーシャル/ミソジニーである」言説に根拠がなかったことが証明された、記念すべきモニュメントになったということですね。


ブログランキング【くつろぐ】 


にほんブログ村 本ブログへ


人気ブログランキングへ


東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言

2010-08-08 03:36:05 | アニメ・コミック・ゲーム

 ポストモダン評論家、東浩紀センセイのTwitterでの発言が波紋を呼んでいます。
 人気声優、平野綾さんの非処女疑惑(という表現で正しいんだろうか?)に対して、センセイは


 最近平野綾が騒動になってますが、そもそも処女を求める男性なんてオタクしかいないんじゃないのか疑惑

 39歳で、『付き合っている女性が自分以外と性経験があってショック』とか言っているやつは、もしいるとしたらかなり厄介だ


 などと発言したということです。
 これに対してはひろゆきさんが


 中国人の金持ちが「絶対、処女と結婚する。」「今の彼女は?」と聞くと、「処女じゃないから結婚はしない。」って言ってた。イスラム圏も婚前交渉とかありえないわけだし。カトリックも厳しい。処女信仰=オタクってのは視野が狭いと思われ。


 とレスを返していて(http://twitter.com/hiroyuki_ni/status/20382367757)、どう見てもこれはひろゆきさんの圧勝です。
 仮にも学者センセイが、一般人に比べて唖然とするほどの視野狭窄ぶり、これではまずいでしょう。
 さて、センセイのTwitterを見てみると


 またひとり、「疑惑とついていようがなんだろうがオタク=処女信仰というレッテルを張ったんだから誤魔化すな」的ツイートが来たので、ブロックした。日本語を読めないやつは相手にしません。Twilogで該当ツイート読んでみ。


 しかししつこく言っておくけど、「処女信仰はオタクだけ」なんてぼく言ってませんからね。ひろゆきのツイートで広まったみたいだけど、それって、申しわけないけどひろゆきがまとめサイトに釣られたって話でしかないよ


 などと書かれていたので、そのTwilogとやらを捜してみました(http://twilog.org/hazuma/date-100805)。


 そもそも処女を求める男性なんてオタクしかいないんじゃないのか疑惑。


 ……………。
 言ってますよね、思いっきり。
 センセイはひろゆきさんが「疑惑」を抜いて引用したとお腹立ちのようですが、まあ、何と言いますか、「そりゃ言い訳にもならんわ」と普通は思うんじゃないでしょうか。

 もし本当に、ひろゆきさん(や、ぼくたち)がセンセイの真意をねじ曲げて解釈したのだというのならば、センセイは発言の意図を表明すべきでしょう。
 しかし、そもそもセンセイは昔からオタクに対する悪意に満ちた無根拠な独断と偏見を書き飛ばしてきた方なのですから、
今更慌てる必要もないと思うのですが*1。


*1と言いつつ、もう随分昔の講演でもオタクを否定的に語っていたところを反論された東センセイが、あたふたと頭を下げていたのを見た記憶があります。

東「コミケに取材に行ったらサークルに冷たくあしらわれた、オタは閉鎖的だ!」

客「コミケというのはオタにとって大事な時間なんだから、そうそう取材に快く応じられるとは限らない」

 といったやり取りであったでしょうか。きっと本当はいい人なのだと思います。


 さて、某氏が憤る通り、昨今では「オタク=処女信仰というレッテル」はもう既にある程度のコンセンサスを得ているように思います。
 他にもこれに類するレッテルは、
 曰く「オタクはマッチョである」
 曰く「オタクはホモソーシャルである」
 曰く「オタクはミソジニーである」
 などなど、各種取り揃えられた充実のラインナップぶりを示しております。そして実はこの種のコンセンサスの種蒔きを、もう十年以上も前になさっていたのもまた、東センセイなのです。その仕事の速さには、舌を巻かずにはおれませんね。
 しかし、これらオタクの「処女厨認定」にも「マッチョ認定」にも「ホモソーシャル認定」にも、そしてまた「ミソジニー認定」にも、奇怪なことに今までそう認定した根拠が示されたことは、ぼくの知る限りありません。あったとしても「自分がオタとつきあってそう感じたから」以上のものではありませんでした*2。


*2ちなみにぼくも、mixiでオタクをミソジニストだと言い立てる人と議論になったことがありました。その人物は終始、「オタクは女性に対して印象だけで決めつけているのだ」との、「オタクに対する印象だけの決めつけ」を続け、議論が決裂すると2ちゃんねるでぼくのmixiアドレスを晒してデマを流すという豪快な手段に出られましたw


 さて、上の諸々のオタクに貼りつけられた不名誉なレッテルですが、これらは全て、どう考えても一般的な男性に共有されているごく普通の心理を殊更オタクの特徴であるかのように、(明らかな悪意を持って)ミスリードさせて成立させたものであることに気がつきます。
 オタクへの「ミソジニー認定」は、昨今のネットで女性に対する批判が多くなされていること以外に、どうしてもその根拠を思いつくことができません(それら批判の中には正当性のあるものも充分にあるとぼくは考えますが、ここではその是非は問いません)。もし彼らが「ネットユーザー=オタク」という、今時白寿を迎えた老人でもしなさそうな短絡をしているとするならば、それはもう、バカにされても仕方がないでしょう。
 今回の平野綾事件についても、(すみません、興味がないので調べてないのですが)恐らくは痛いファンがバカな振る舞いをしたことがきっかけで上の発言になったのでしょうが、そんなことは恐らく、70年代の(アイドルがまだオタク向けのものではなく、国民全体のものであった頃の)アイドルの時代からあったことなのではないでしょうか。
 むろん行き過ぎた行動に出たファンは諫められて当然ですが、ひろゆきさんの指摘通り、処女を好む心理そのものは(是非は置くとして)男性共通のものであり、どう考えてもオタクを槍玉に挙げる根拠が薄弱であるとしか言いようがないのです。


 さて、では何故オタクたちは殊更に叩かれてしまうのか。
 拙著にも(山崎浩一さんのコラムから引用して)書きましたが、アメリカではデブで貧乏な白人男性、「プア・ファット・ホワイトマン」が「差別の許された、最後の聖域」になっているのだそうです。「白人男性」という一種タテマエ上の「強者」の中から体型や貧富によって実質的には「弱者」である者を選び出し、そいつを嬲りものにするという、どう見てもどう考えてもどう言い訳をしようとも卑劣としか言いようのない行いであり、日本で言えばオタク叩きがそれにあたるのだと、ぼくは考えます。

 日本ではオタクが「差別の許された、最後の聖域」になっているわけなのですね。
 フェミニストたちは昨今のネットでの「女性叩き」を「窮地に立たされた男性が、弱い者へと暴力を振るうことで憂さを晴らしているだけだ」と主張していますが、こうしてみると「オタク叩き」こそが窮地に立たされた女性(や、それを救うナイトを気取ろうとする男性)が、弱い者へと暴力を振るうことで憂さを晴らしているだけなのだということは、もはや否定できないでしょう。


 周知の通り、センセイもまたコアなエロゲオタでいらっしゃいます。
 そのため、センセイに親近感を抱くオタもまた、少なくはありません。
 では何故、こうまでセンセイはオタを無実の罪に陥れようとするのか、不思議に思われる方もいるかも知れません。
 しかしセンセイの代表作『動物化するポストモダン』を開いてみると、オタクはキャラに萌えているだけで物語の世界観に拘泥などしていないのだ、などとオタクがひっくり返るようなことが書かれています。先生も大好きな『エヴァ』において、死海文書の謎とかにファンが拘泥してたような気がしたのはみんな幻だったのでしょうか。物語の謎が解かれないまま、(しかしキャラにだけは救済が与えられるというケリをつけて)テレビ版の放映が終了した時、ファンが怒り狂っていたのはみな夢だったのでしょうか。
 つまり、センセイは自分の帰依してる「ポストモダンの神様」が「物語は失われた」とお告げをおっしゃったのでそれを反芻しているだけで、神様のお告げと現実が一致しているかいないかなどは、
どうでもいいのですね。
 それと同じに、神様をお守りするためにであれば、男性の中の一番の弱者であるオタクに罪を着せることなど、センセイにとっては何でもないことなのです。
 また同時に、センセイの中に抑え難いオタクへのヘイト感情が渦巻いていることも、想像できます。オタクの自らの同胞に対する同族嫌悪の感情は、ここでは詳述しませんが筆舌に尽くし難い強烈なものであり、(昨今の若いオタクはもう少し淡泊なのですが)センセイのような古いタイプのオタクにはことにそれが顕著なのです。しかしそれすらもまた、元を辿れば上に書いた「男性の中の弱者である自分」に対する嫌悪、憎悪が根源となっていることは言うまでもありません。


 センセイや、彼に唱和する男性方の「オタク叩き」はみな、自分だけが助かるためのスケープゴートの製造法に他ならないのだ、ということです。


ブログランキング【くつろぐ】 

にほんブログ村 本ブログへ 

人気ブログランキングへ