兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『怨み屋本舗DIABLO 悪魔のフェミニスト編』――「悪魔のフェミニスト」という言葉は「頭痛が痛い」みたいなヤツかと思ったらそうじゃなかったけど、そうじゃないのは間違ってるのだの巻

2023-07-22 18:53:18 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、今回は漫画のレビュー。
 上の写真にはありませんが、帯には「悪魔のフェミニスト編」と大書されており、まあ、「そういうヤツ」なわけです。
 ネットで話題になっているのを見て、尼でポチっちゃったんですが……こういうの、業者の量産した粗悪な時事系動画みたいなもので、ひとまず話題のトピックスに飛びついただけのことが多いんですよね。ぼくもあまり期待せずに読んだし、結論を先に書いておくならば、その予想を大きく外すものではなかったんですが……まあせっかく読んだので、軽くレビューしましょう。

 まず、本書は復讐屋を営むチームの活躍を描く、言うなら現代版仕事人。元締めの美女、頭脳役の男性に次ぐ、実働部隊的な三番手がオタクキャラ。これが眼鏡で長髪、パンツインネルシャツにリュック、ドライバーグローブという90年代のテレビドラマに出てくるようなデザイン(読者からも言われているのか、他のキャラに「昭和のオタクか」と突っ込ませているのがおかしい)。この人、どういうわけかやたらと妙なポーズを取って語尾に「~チュ」とつけてしゃべるというキャラで、「オタクのフリークス性」を頑張って表現しようとしてこうなったのかも知れません。ただ、そこまでイラつくキャラのクセして、能力的には有能なチームの重要人物として描かれているのは、嬉しくもあるのですが。
 四番手のマスコット的美少女もコスプレっぽい格好で、いわゆる「オタク受けしそうなタイプ」として造形されたキャラ。もっとも言うまでもなく画のタッチは萌えと180度違い、こんなふうに「よそ様に萌えやオタクをシミュレートされ、それを提示される」というのは、どうにもいたたまれないというか、ホモサウナに間違って入ってしまったような居心地の悪さを覚えます。
 まあ、それはともかく、内容ですね。

 まず、本話の悪役は売れないグラドル、蜜箱かりん。
 タレントとしての失速の原因はイケメン男優との交際を報じられたことであり、(これ自体は自業自得とも言えるのですが、それを)所属事務所の大物のスキャンダルをマスコミに沈黙してもらうためのスケープゴートとしてさし出された形。
 事務所にもほぼ干され、枕営業をすると申し出るも(口が軽いからと)断られてしまう。本人の実力や性格にも問題があるのでしょうが、何とも気の毒なキャラとしてまず登場してきます。
 ところがそうした不遇を「世の男どもの見る目のなさ」のせいにしてルサンチマンを募らせているおり、ふと、アニメ専門学校の萌えポスターを見て、彼女の中に火がつきます。
 性的搾取だ何だとツイートをすることでそれがバズり、実際にポスターが撤去されてしまい、「私のツブヤキが世界を変えた」快感を感じるかりん。そこで「ジュワ~~~」という描き文字が入るのですが、これはあれですかね、『えの素』でいうところの「ジュン」「ジュナー」「ジュネスト」の状態なんですかね。
 ともあれ、ポスターを描いた萌え漫画家が炎上し、コミックスを有害指定されそうになり、先に挙げたオタクキャラもことあるごとに憤るなど、身のつまされる展開が続きます。

 このかりんにディアブロ8号と名乗る怪しい女が接近してきて、社団法人を立ち上げるよう、入れ知恵します。
 つまり、かりんはキャラとしては石川優実師匠と仁藤夢乃師匠との合体であり、凡百の評であれば「よく調べている」と絶賛する箇所かも知れません(いや、以下にも並べますが確かに「よく調べている」のです)。
 社団法人立ち上げの記者会見の場、マスコミ側は彼女が過去に際どいグラビアの仕事をしていたこと、そしてイケメン男優とのスキャンダルの件をつつきます。前者はまさに石川師匠のネタを拾ってきた形ですが、マスコミがそこを擦るのは描写として疑問、むしろ徹底して隠蔽することでしょう。
 しかしこのマスコミの質問に対し、彼女は「ジャニー的枕営業的なものであり、断れなかった」と言い出すのです! フェミの特殊能力、「過去改変」の炸裂です!
 確かに「よく調べている」と思います。
 先のディアブロは要するに悪の組織の手先であり、彼女の指示で、社団法人は貧困女子を集めるように。ここもColaboを「よく調べている」のですが、ディアブロが「馬鹿な女は金のなる木」「私達がさらにステップアップするための捨て駒」などと言い出すのです。この辺りから、どうにもきな臭い感じがしてきましたが……さて、どうなるかと思っていると案の定、彼女らはシェルターに女性を匿い出します。
 タコ部屋フルなシェアハウスにぶっ込まれ、精神科医にデタラメな診断で重度の心の病を抱えているとされ、生活保護申請し、そのカネを法人で管理。
 これらもみなさんご承知の通り、実に「よく調べ」られています。
 ここに、先にも挙げた怨み屋本舗の萌えっぽい()娘がシェルターに潜入捜査を開始します。
 ここでかりんが彼女に「男性経験はないの、いい男性紹介しようか」などと言うのですが、これもまた、え? という感じ。
 もう一人、シェルターに匿われる女性が登場しますが、ホスト狂いで彼氏にDVを受けており、DVはともあれ本人も無反省な馬鹿女として描写されます。
 一方、かりんは過去の自分に似ているとの近親憎悪から貧困女子を憎んでおり、何と匿った女性に「男に身体を売れ、ここを追い出されたらホームレスに輪姦されるだけだぞ」と言い出します。
 買春相手は議員の醜い親父。社団法人は彼と癒着することで、さらなる利権に預かろうとしているのです。
 潜入捜査している萌え美少女がコンドームを渡されるという描写もあり、これもColaboの支援物資にそれがあったことを「よく調べ」た結果であり、おそらくそうした事実からこの買春という描写も思いついたのでしょうが……しかしこうなるとさすがに、実在の人物を露骨にモデルにしたにしては、フライングと称するべき描写だと思います。
 事実と異なるからけしからぬ、と言っているのではありません。単純にあり得ない(例えるなら粗暴犯が急にすごい知能犯的な詐欺を働くような)描写を、単にキャラをわかりやすいワルモノに仕立て上げるため、やってしまうのが安易なのです。
 当noteの愛読者の方には言わずもがなですが、フェミニズムの本質は男性憎悪であり(その憎悪がツンデレ的感情の発露であり、彼女らほど男性からの愛を求めている存在はないのは、本作の蜜箱かりんと同様とは言え)、このような描写は非現実的に過ぎるでしょう。
 なまじっかなことではバズらなくなったかりん、ついには先のDV彼氏から逃げてきた女性に対し、DV彼氏の仕業と偽装し、硫酸をかけます! そして彼女の整形手術の費用と称し、また募金を募るのです。これはアシッドアタックと呼ばれ、日本では聞きませんがインドなどではよくある事例だそうで、その辺から引っ張ってきてるかなあ。

 もっともさすがに彼女らの悪事もここらがクライマックス、怨み屋本舗がさんざん証拠を掴み、それを公表することで陰謀は全て露見というオチ。
 主人公(みなさんお忘れかも知れませんが主人公は「怨み屋本舗」の元締めの美女です)にはかりんに一喝。

画像

 いただきました!!
 似非フェミニストいただきました!!
 だああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいてえええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 ぼくもバカではないので(いや、少しバカなのでしょう)主人公がクライマックスで「似非フェミ」と一喝するってのは事前に想像していました。
 しかしこの大駒を見て、やはり失意を隠せませんでした。
 先にディアブロという悪役の存在について描きました。
 この存在に、ぼくはちょっと期待してしまったんですね。
 彼女は先にも述べたように悪の組織の一員として、超越的な立ち位置を保っている。まさに「ディアブロ(悪魔)」として、人間を悪に引きずり込む存在として描くことができる。
 普通に考えれば……というか、もうちょっとお上品なコンテンツの普通の考え方で行くなら、このディアブロにそそのかされたかりんだが、最後は「報われなかった過去の自分を救おうとしての、歪んだ正義感の発露としてこのようなことをしていた」といった描写がなされるところでしょう。別に「同情すべき悪としての描写がなされるべきだ」と言っているわけではありません。同情されようとされまいと、彼女なりの歪んだ正義があったことを描写すべきで、「わかりやすいワルモノ描写」に落とし込む(ために売春の強要をさせる、政治家と癒着させる)のは安易だ、と言っているのです。
 ひるがえってディアブロは「男性への、家庭への憎悪の凝り固まった存在」つまりはフェミニズムそのものの擬人化として描くことで、ある程度の批評性、文学性を獲得することができたはずです。
 もちろん、作者は(読者も)そんなことを求めてはいなかったのだから仕方ない、のですが……。

 冒頭にも書きましたが、こうした漫画は本当に俗に徹した、文学性芸術性批評性など期待すべくもない時事系量産型業者動画と、質の低い転生漫画と、ソシャゲと同様のものです。
「時事ネタ」を丁寧に丁寧に拾って、大衆の満足する落としどころへと持って行ってあげるのが彼らのお仕事です。
 しかし、それにしても、ここまで「よく調べ」た上、後半で大幅な「創作」をぶっ込んで、後は(大したものでもないので細かくは言いませんが)バイオレンスなオチをつけて読者の溜飲を下げさせるというのは、まあ、何というかがっかりです。
 例えるならば、岸田総理についてさんざん「よく調べて」おいて、最後に「岸田は悪い宇宙人の手先だった」とオチのつく政治漫画みたいなものでしょうか。
「ワルモノは悪者であって欲しい」。
「ワルモノは最後に惨めにぶっ殺されて終わって、スカッとしたい」。
 そりゃそうでしょう、わかります。
 でも、ならばここまで時事を入念にトレースしなくてもいいでしょう。
 本作、社団法人がシェルター事業をやり出す下りでは主人公たちが「貧困ビジネスだ」と一席ぶちます(その他にも漫画の前半ではグラフが出てきたりで、そういうちょっとおベンキョになる路線も狙ってるのかと思いきや、中盤以降そうした要素はなくなります)。
 それはまさにそうで、そこはいいのですが、フェミニストがシェルター事業をやりたがるのは女性を家族から引き離したいからであり、そこには深い家族や男性への憎悪が潜んでいるのです。
 Colaboも同様であり、フェミニストたちは今までもDV冤罪、幼児虐待冤罪で家庭そのものを破壊してきた――それは拙著でも書きましたし、Colaboの件でも「WiLL Online」様で書いています(自分としてはかなり優れたものだと思うのですが、残念ながら反応はいつもより今一でした)。

「彼女らは利権のためにやっているのではない」とまでは言わないけれども、利権以上に歪んだ正義感が彼女らを動かしており、そこを一切理解できない人たちの姿が、ぼくには非常に奇矯なものに見えます。
 何でこの人たち、フェミニズムのフェの字も、フェの子音のFの字も、エフの字のそのまた頭文字のエの字も知らないのに、こうまで饒舌にフェミについて語っているのだろうと。
 そうした人たちはこの漫画を「絶賛」していることでしょうが、それはつまり、この漫画の作品としてのクオリティは、そのまま、その人たちの脳のクオリティであり、何というか、いくら何でも、もうちょっとあんたら……と思ってしまいます。
 念のために言っておきますが、これは別に特定の人物を指して言っているわけではありませんし、そもそもぼくはまだそうした「絶賛」評を見てもいません(これから目にするのが怖くもありますが……)。
 また、この漫画家を責めようというのでもありません。
 既にかなり責めたようなことを書いた気もしますが、そこは取り消しておきます
 先のような指摘はフェミニズムについて批判したければ常識であり、外してはならないものと思いますが、これを指摘している者はおそらくぼく以外にはほとんどいません(小山晃弘氏がちょっとしているくらいか)。
 本当に「よく調べ」ろと憤るべきは、漫画に対してではなく、そんな見識すら持てずにいる評論家もどきに対して、なのでしょう。

 


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑④『さすがの猿飛』――サブカル様のためになるお話

2023-07-02 23:48:58 | アニメ・コミック・ゲーム

 さて、『うる星やつら』に引き続き、当時はそのライバル的立ち位置だった作品について。
 実は動画でも本作が言及されており、その補足みたいな意味も含まれますので、どうぞお読みください!

風流間唯人の女災対策的読書・第46回「フィクトセクシャル――オタクは現実の女に興味がないのか」

 

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 さて、正直そんなにメジャーな作品でもない本作ですが、読んだこと、観たことのない方も『アオイホノオ』で言及されていたのを読んだことがあるかも知れません。
 1980年から『月刊サンデー』に連載開始された、乱暴に言えば『うる星』エピゴーネン的漫画。エピゴーネンというのは、あまり誉めた表現ではないですが、少なくとも受け止められ方はそのような感じだったはずですし、また作者の細野不二彦、ぼくもこの人の作品、一時期いろいろと読んでいたのですが、どうも作家性の強い方というよりは、計算で仕上げていくタイプの人ではないかという気がするので、恐らくご当人もそうした意識を持って描いていた作品なのではないでしょうか(何しろ、他にも露骨に『オバQ』、『めぞん一刻』を意識した作品のある作家さんです)。
 さて、そんなこんなで基本設定は、忍者学校を舞台にした美少女とデブ少年とのラブコメ。デブ少年の肉丸は一応、忍術の使い手としては一流なのですが、人間離れしたデブが主人公という辺り、『うる星』の時も言及した、当時の「男性」が像を結びにくくなっていた時代性を象徴しています。
 そんな時代性を持った本作、先にもエピゴーネンと言ったように、『うる星』の二匹目のドジョウを狙って1982年、アニメ化されました。とっとと二匹目をとっ捕まえねばと大慌てだったからかどうか、月刊誌連載であるがためエピソードのストックがなかったところのアニメ化で、たちまちのうちにネタが底を突きます。
 そのため、苦肉の策の「番外編」が連発されることになりました。今もキャラのスピンオフだの学園漫画でもないものを学園漫画化だの、近いパターンはよく見かけますが、当時は「あくまでその漫画連載(アニメ放映)内で番外編をやる」ということがよくありました。中でも多かったのは「舞台を変える」というもの。いきなりキャラクターたちが江戸時代の住人になったり、スペースオペラの主人公になったり。『うる星』でもよくあったパターンで、「日常系」でネタが尽きた時の定番企画でした。中でも本作は本当にそれが多く、三回に一回くらい番外編だったんじゃないかなあ、という感じ(……ウィキペデアを観たら、三分の一以上と書かれていました)。
 この辺りについては懐かしのアニメ(しかしなかなかスポットライトの当たらないものを絶妙にチョイスしている)サイト、「記憶のかさぶた」の「№50 さすがの猿飛」でも言及されているところで、詳しくはそちらをご覧いただきたいところなのですが……この時にパロディの「元ネタ」として選ばれていたのは、一つには当時上映中の話題作、そしてもう一つは往年の名作。『第三の男』とか。

 80年代当時は、オタクのためにアニメが作られ出した時代でした。例えば『超時空要塞マクロス』などはオタク世代が作り手に回った、オタクのオタクによるオタクのためのアニメ第一号と言っていいと思うのですが、まだまだ「おっさん世代の作り手」が多かった。一方では華々しい若者文化でありながら、一方ではおっさんが若者に向けて作っている面があったわけです。そこには時おり、「おい若いの、アニメばかりじゃダメだぞ。おじさんの若い頃にはこんな名画があってだな……」と言わんばかりのパロディが登場し、少々鼻についたものでした。
 そして、もちろんそれはそれで仕方のないことではあるのだけれども、アニメ誌などでは「おっさんの、オタクへの悪意」がさらに凝り固まった形で発露されている……といったことは以前、動画(風流間唯人の女災対策的読書・第37回「オタク差別最終解答」)でもお伝えしたことがありますね。
『うる星』がそうであったように、この頃のアニメは作品自体が「何でもアリの、スタッフが好き勝手に遊べる遊び場」であり、そこがアニメ文化、オタク文化という「新しい若者文化」を形作っていった面も、多いにあったわけですが、そうした世代間ギャップが露わになる場でもあったわけですね。
 さて、それともう一つ。
 本作のオリジナル展開はそのような番外編に限りません。
 ヒロインである魔子ちゃんは基本、肉丸の庇護下にあるのですが、やがて自立した女を目指すようになるのです。その「魔子の自立編」、たまに挟まっては、ヒロインがつまらぬ苦悩を延々し出してうっとおしい、という印象でした(このテーマ、Wikiによると決着を見ず、なし崩し的に終わるようです)。
 乱暴に言えば、オタクの誕生とは「男の子が初めて自分の遊び場を持った」という人類史上、記念すべき事件なのですが、その最初期から実のところ、その遊び場にはおぢさん(この「ぢ」が当時風)と女の子の邪魔が入っていたわけです。
 Wikiなどを見ても、「魔子の自立編」が女性スタッフによるものかどうかは判断がつきかねますが、まさに『水星の魔女』的な、そして『トクサツガガガ』的な、「少女漫画」感が濃厚なんですよね。
 まあ、近年もエロゲなどでいかにも女性ライターがプロデュースしたんだなあというような歪な作品のお手伝いをさせていただくことがあり、もうちょっと自分たちが男の子向けを作ってるって自覚を持ってくださってもいいんでは……と思うこともしばしばですが、どうもあの人たち、端っから「男の子向け」をテンで理解しておらず、しかし自分は男性的な志向を持っていると、どうもあどけなく信じているようなんですよね。

 さて、ではその最終回は……?
 当然、原作アニメと異なるオリジナル展開であり、主人公たちの通う忍ノ者高校が悪の巨大組織と戦うという話。日本政府は忍ノ者高校の生徒たちに出動命令を下し、宇宙戦艦大和(だいわ)で決死の特攻作戦を敢行! 何でお気楽ラブコメが急にこんな話になるのかわかりませんが、ともかく決戦前夜のキャラクターたちが死を覚悟し、また恋人が運命を共にしたいと闘いに同行しようとする様が丁寧に描かれます。
 しかし「愛する者を守って死ね」との命令に対し、主人公たちは「愛する者は隣にいるじゃないか」とはたと気づく。
 主人公たちは愛する者と共に戦線から離脱。悪の組織の総統はモテないがために女の子に怨嗟の念を抱くメカの天才少年で、そのため日本を滅ぼそうとしていたというオチがつきます(先の「記憶のかさぶた」では「受験に失敗し続けた浪人生、アニメと特撮が大好きなオタクで、外見のせいでを女にふられた」という設定が語られていますが、これは記憶違いと思しい)。
 女に怨嗟の念を吐くことに加え、兵器としてペギラやゴジラを繰り出す、メカフェチで人間よりもメカに愛着を持つ、また防衛軍側にも嘲笑される幼稚で子供っぽい敵として描かれ、「オタク」といった言葉はさすがに出てこないものの、明らかにそれを意識したキャラクター造型がなされています。
 日本は焼け野原になりましたが、忍法でリセット、破壊される前の日本が復元され、平和な光景のまま、終劇。
 何というか、サブカル君の薄っぺらな平和思想と醜いオタクへのへの憎悪がありありと現れた最終回ですねw
 この辺、ギャグ作品とは言えあまりにも破天荒ですが、この種のオタクを悪役に仕立て上げてドヤる、というのは当時、たまに見たパターンです。翻って例えば時期の近い『スケバン刑事Ⅱ 少女鉄仮面伝説』(1985)では(バックに日本を牛耳るジジイがいるとは言え)天才少年が高校生たちをオルグし、「十代の若者のみによる革命」を企みます。
 当時は丁度、学生運動が挫折し、オタクは政治を「ダサい」こととして上の世代をからかっていましたが、同時に校内暴力の吹き荒れた時期でもありました。つまり「正義」が失われたがため、若者たちの中で「DQN」はただ暴れ回り、「オタク」はおとなしくいじけていた。上の世代はそれぞれに自らの願望を仮託し、前者は反体制的スーパーヒロインであるスケバン刑事やその敵役(悪とは言え義を持った存在)に、後者は『猿飛』のラスボス(否定されるべき、ただ惨めな悪)に仕立て上げられたのです。
 最終回の脚本は本作のシリーズ構成を務めた首藤剛志。『ミンキーモモ』などの傑作で知られ、80年代的ニヒリズムというか、物語の定番を常に外す作家であり、ぼくも尊敬する作家さんの一人ではあるのですが……『モモ』や、他にも『ようこそようこ』など少女を主人公にしたアニメでは保たれているさわやかさが、ことマニア向けアニメになると受け手への憎悪へと取って代わってしまったわけです。
 受け手もまた、そうした憎悪を上の世代に植えつけられ、自らの周囲の、「俺よりも格が下(だと本人が信じる)オタク」へと向けた。
 男性というものが像を結びにくい時代、肉丸という戯画的に描かれた少年が美少女とラブコメを演じる本作は、外部に皮肉にもそうした「負の連鎖」を生み出し、エンディングを迎えたのです。

 さて、しかしさらにもう一つ、本作は期せずしてだと思いますが、先に述べたようにヒロインの「自立」をテーマにしつつ、それが「愛する者は隣にいる」という結論を導き、結果、主人公たちに「敵からの逃亡」という結論を導き出させました。
 ここには「女性の社会進出」「男女共同参画」が戦いを忌避させるのだとの、ある種の平和論が成立しています。『ガンダム』とかイキって女をいっぱい出してるけど、女が銃後にいないんだから、逃げちゃえばいいじゃん、という80年代的考えです。
 しかし、そうなると敵と戦う者がいなくなる。そこをごまかすために作り手はオタクに悪役を演じさせ、焼け野原もギャグでごまかして一瞬で「復興」させた。
 これはまさに、悪に挑むフリをしながら弱い者イジメしかできず、もちろん国を守ることもできない当時の左派の思想的終焉をも、描いてしまったように思えます。
 というわけで、何というか、終わり。


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑③『うる星やつら』高橋留美子――ヘテロセクシズムの作家

2023-07-01 20:15:36 | 弱者男性

 

 目下、『WiLL Online』様でジェンダー教育のヤバさについて書いています。

「ツイフェミ」だけがワルモノだとして、LGBT運動の危険性に気づけずにいる人たちは、是非ご一読を!
 さて、先週に「フィクトセクシャル」関連の動画をご紹介しましたが、それと関連して、ブログでは80年代ラブコメについて採り挙げていきます。
 特に明日は動画でも扱った『さすがの猿飛』についての記事をうpする予定ですので、どうぞご覧ください!

 

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 世代を超え、老若男女に絶大な人気を誇る覇権アニメ、『うる星やつら』。
 リメイク版第一期は終了しましたが、後半で「消・え・な・いルージュマジック」が放映され、腐女子界隈が騒然となったことは記憶に新しいかと思います。

 ――すまん、俺今、テキトー言ったわ。
 別に知らんけど、多分騒然とはなってないと思う。なってたぞというお友だちはコメント欄で教えてね。
 いえ、何のことはありません。同話にはラムちゃんの作った、「惹かれあうルージュ」というアイテムが登場します。ラムがそのルージュを引き、あたるの唇にも塗ると、お互いはキスをしてしまう――というわけで、しかし当然あたるは塗ることを拒否。面堂もラムとのキスを狙ってルージュを引いたものの、あろうことかラムにルージュを塗られたあたるとキスしてしまう、というお話。
 もちろんキスシーンはギャグとして描かれるわけですが、そのシーンに腐女子は大騒ぎ……したのかなあ。
 何とはなしにあんまり騒がなかったんじゃないかとぼくが思う理由は、高橋留美子という人物が徹底的にヘテロセクシズムの人だから、なのです。
 主にBLにおいて『ジャンプ』作品が餌食にされがちなのは、それが「ホモソーシャル」の世界だから。「男が男に惚れる」という状況が普通に描かれ、もちろんそこに性的要素は一切ないのだけれども、その純粋さに、腐女子は惹かれるのです。
 翻って『うる星』は徹底してニヒリズムの作品であり、ことに男性原理の否定そのものがテーマといっていい作品でした。以前にも書きましたが、80年代は今までの「正義」が完全に否定され、相対化された時代でした。だから本作においては敵に「男同士正々堂々と勝負だ!」と宣言された瞬間、主人公側が敵を集団で背後から不意打ちする――といったギャグが盛んに描かれました。
 そうした、少なくとも当初はかなりドライなギャグ作品であったものが、ラムちゃん人気から本作はラブコメへとシフト。中期からは必然的に「恋愛」が「正義」に変わる絶対の価値観として描かれるようになったわけです。そうした作品のパラダイムシフトは作者にとっては計算外だったでしょうが、男女関係の描かれ方、それ自体には当然、作者の価値観が大きく反映されているはずです。
 だから、あたると面堂の間には一切、精神的つながりが描かれない。これは全作を通して恐らく徹底されていたはずです。何故かとなれば、それは二人が恋敵だから、「そうでなければならない」というのが作者の論理だったからです。
 ここにセジウィックの「三角関係の物語の、その恋敵であるはずの男性同士にこそ心のつながりがある」とするホモソーシャル論は無残にも瓦解するのです。
 考えれば後期以降は希薄になるものの、ラムとランは「恋敵で親友」という描かれ方がなされており、やはりこれは高橋が当時としては驚くほど男性心理を熟知した作家と言われてはいたけれども、実際にはそこまで知識も関心もなかったからではと思えます(もっとも、ラムとしのぶの間に驚くほど精神的交流がないことを考えれば、高橋はシスターフッドの作家……というわけでもないでしょうが)。

 さて、そんな『うる星』の中期には、極めて印象的な新キャラが登場します。そう、藤波竜之介ですね。高橋自身がこのキャラこそが本作の長期連載を可能にしたと評した重要なキャラですが、実のところこの子って自分自身のジェンダー(或いは父子関係)にこだわるばかりで、恋愛には絡まないという、考えてみれば妙なポジションのキャラなんですね。
 しかし、登場初期にはしのぶと「フラグ」めいた描写があったことも、今回の再アニメ化で思い出すこととなりました。
 即ち本作の、高橋留美子の論理では「ホモは悪だが、レズは正義」なのです。
 いえ、正義/悪という概念そのものが、恐らく本作にはないことでしょうが、要するにホモは完全に概念外の、ただただおぞましい何かであるというのが本作の論理と言えます。だからこそ先の面堂とあたるのキスは、純然たるグロシーンとして、効果的なギャグとなる。
 一方、しのぶは竜之介に迫られた(と勘違いして)妙にドキドキしています。本作の当初はラム→あたる→しのぶ→面堂→ラムの四角関係(ラム→あたる→ラン→レイ→ラムとの四角関係もあったけれども、今一顕在しないままフェードアウトした感じです)が設定されていました。しかしこの時期はその路線が頭打ちとなりつつあり、新展開が求められ、恐らく当初はこの百合的な関係性も模索されていた。しかしあまり顕在化しないままに終わった感じです。しかしいずれにせよ、ここにはぼくが時々持ち出すラカンの「異性愛とは女に欲情することである」というテーゼがはっきりと立ち現れています。女の子という輝かしく晴れがましい存在へと、誰もが心を奪われる。それは女の子同士であっても変わらない。しかし男の子は自らの中にそうした輝かしく晴れがましい「エロス」を持っていない。よって男の子はいかなる犠牲を払おうと女の子という賞品をゲットしようとする。女の子は、それだけの価値があるのだから。
 逆に言えば、レズは「女の子に欲情すること」である以上、「ヘテロセクシャルの一種」とも言い得るわけです。
 それが高橋留美子の世界観であり、まあ、80年代の世界観でもあり、そしていまだ継続中の世界観でもあります。
 だから竜之介は「ついつい習慣で、男らしく振る舞ってしまう」ことに苦悩はしても、自分自身が女であることに、全く迷いはない。おそらく作者にとって、「男性ジェンダー」というのは全く想像の埒外であり、関心の外にあるものでしかなかったはずです。
「俺は女だ!」が竜之介の口癖であるのは『俺は男だ』(という往年の青春ドラマ)のパロディであり、先に書いた作品のテーマが「男性性の否定」そのものであることを表していますが、同時に竜之介がジェンダーに揺らぐ存在では全くないことを、示しています。
 同時にだからこそ、あたるは平然と竜之介を口説きます。竜之介がいかに男の子っぽくあろうと、あたるにとっては単に美少女として認識され、そこに迷いはない。一方、かなり後期に、言わば竜之介のお相手として「渚」という「男の娘」が登場してきます。彼は登場した当初、完全に美少女として演出され、しかし途中で「男であった」と判明。その場にずっと同席していたあたるも面堂も、「なるほど、あの娘に食指が動かなかったのが不思議だったが、道理で」と納得します。
 そう、男の正体を現したとたん、渚はその描かれ方も妙に険しい表情で肉体も曲線が少なく描かれ出し、いかにも男然としてくる。そこに、「あんな可愛いなら男の子でもいい!」といった反応は微塵も見られない。その意味で上には「男の娘」と記述したものの、彼は恐らく「男の娘」ではない。そんな感覚(男を、恐れ多くももったいなくも女の子という晴れがましい存在に比肩し得るものとして描くことなど)は高橋留美子にとって想像の埒外だったのです。

 これはまた、80年代のオタクの「ジェンダー観」でもありました。
 いつも言うように、80年代は「女の時代」。フェミニズムバブルが起きるのは、かなり末期頃のことではありますが、それ以前から(何なら70年代から)「女が強い、女が強い」と繰り返されていたのです。
 オタク男子が当時描いていた、ある意味『うる星』エピゴーネンとも呼ぶべき漫画では「幼女」が何故か強く大活躍、次々と「男」をぶち殺していく。しかしその「幼女」はそのことに一切の屈託がなく、ある種のピュアさ、幼児性を保ったままでいる。「男」はそれこそ『うる星』の仏滅高校総番のような、人間とも思えない化け物めいた形で描かれる……以上はあくまで例えばですが、要するにそんな感じの作品が、当時は多かったのです。
 ここには「戦い」の無為さ(学生運動が敗北したことが象徴する、イデオロギー、正義の無価値化)と共に、徹底した「男性」そのものの無価値化が描かれていたのです。
 オタク文化の勃興期がこの頃であること自体、「男が弱くなった」ことと無関係ではありませんが、いつも言うように「弱い男の子」であるオタクは一般的な男性と比べても、男性アイデンティティを構築することが困難であった。そんなわけで自らの創作の中ですら男性としてのアイデンティティを表現することができなかったわけです。
 当時の「薄い本」では「触手やメカが美少女を襲う」というモチーフが流行したのもそれが理由だし、上に挙げた例はそこから「アダルト要素」を抜いたものなんですね。

 もっとも、『らんま』辺りになるとその辺もちょっと変わってきます。「男の子が女の子に変身して、お色気シーンが描かれる」というのがこちらのキモでした(編集者にお色気描写を迫られ、しかし抵抗があったがため「男の子のお色気シーン」を売りとする漫画が生まれた……と何かで読んだような気もしますが、記憶違いかも知れません)。
 もっとも、女らんまはバンバン脱ぐ完全なお色気要員として描かれるものの、そこで乱馬がだんだんジェンダーも女に寄ってくるといった描写は皆無。その意味で本作にジェンダーの揺らぎは微塵も見られないけれども、同時に「しかし、にもかかわらず、身体が女というだけでお色気が成り立ち得る」という状況は、上の説が正しいならば作者の思惑と離れたところから生まれた偶発的なものであり、描いていて高橋も結構、自分自身で驚きと発見を感じていたのではないか……といった想像もしたくなります。
 そうなると作者自身のジェンダー観にも変化が生まれるのか、それとも単に時代の流れか、本作では乱馬と良牙が「熱烈に」仲直りしているシーンを見たかすみとなびきが「友だち以上って感じ」と腐女子的な評し方をするシーンがあり、「あのヘテロセクシズムの作家が」と感慨を受けました。
 実は『劇場版セーラームーンR』でも美少女戦士たちがBL話に花を咲かせるシーンがあり、「もはや美少女戦士も高橋留美子もBLに萌える時代なのか」と感じ入ったものです。
(これも端的には「ホモをレズがやっつける」という、ある意味『うる星』的な物語ではありました)
 この辺りはもう、今回の「高橋留美子論」から離れますが、ともあれBLの隆盛は、「女性のブス化」と密接に関わっています。
 言わば『うる星』の時代は男の子だけがジェンダーの揺らぎを覚えていた(女の子はずっと晴れがましい存在のままであった)のが、フェミニズムの成果で、女の子もジェンダーの揺らぎを覚えるようになった。萌えキャラが男の子のその緊急避難先であるのと同様に、女の子もBLへの撤退を余儀なくされた。
 それが、90年代であったのだと思います。