兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない(12)

2013-06-29 20:07:52 | アニメ・コミック・ゲーム

 現代を代表するラノベ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、略称『俺妹』の最終巻である12巻が先頃出版され、あちこちで騒ぎになっています。
 本作については以前も採り上げたことがあり、万一全く概要を知らない方は、
そちらを見ていただきたいと思います。というかウィキでも見た方が早いですが。
 また、面倒なのでストーリーなどの説明は基本、省くことにしますが、ネタバレは避けられませんので、未読でこれから読もうと考えている方は、以下は読まれませんようにお願いします。

 

 さて、最終刊については賛否真っ二つに分かれたわけですが、見る限り否定派の方が多いようです。
 否定論者たちの意見は「そもそもあの兄妹って互いに恋愛感情なんか抱いていたのか?」ということに集約され、ぼくもそれに同意します。
 いや、それ(第四章)以降の展開にも大いに疑問はありますが、その是非を云々するよりも前に、「まず恋愛感情があったのか」という疑問がどうしても湧いてくる。
 逆に肯定論者たちは軒並みそこをスルーしており、対照的です。
 こちら(否定派)としては「肯定論者の目は節穴か?」と言いたくなるところですが、むしろ「桐乃と京介の間にあった感情が兄妹愛であったか恋愛であったか」という点について、肯定論者は鷹揚に構えている、「いや、そこはどっちでもいいじゃん」と思っている感が、ぼくにはしました。
 肯定派は、「恋愛も兄妹愛も、本作では敢えて区別せず、ごっちゃにして描かれているのだ」と捉えているのではないでしょうか。
 これは、もし本作がエロゲなら「エロにかこつけて兄妹愛を描く」みたいなウルトラCもありそうで、肯定派はそうした展開に慣れていた「
エロゲ脳」なのではないか、という気もします。別にこれは肯定派をdisっているわけではなく、エロゲは「エロを入れる」という特質上、どうしてもそうした展開に陥りがちだし、またプレイヤー側もそれを読み解くことに慣れてしまっているわけです。
 比喩として適切かわかりませんが、ロボットものとかで男女の恋愛を、「ロボット同士のバトル」で表現するのに、ちょっと似ています。『Gガンダム』の最終回、ドモンとレインの痴話ゲンカがロボットバトルとして描かれたことを、思い出さなくもありません。
 或いはまた、BLや百合が友情を「恋愛」に変換してしまうのにも似ているかも知れません。男たちは「腐女子はBLという形に曲解して男同士の友情を汚す!」と憤りますが(ぼくにもそうした感情はありますが)あれは曲解していると言うよりは、「わかっているけど彼女らの規格にあわせるために、あのような形に変換している」のですな。もっと簡単な比喩を使うなら、美味しく食べるためにマヨネーズをバンバンかけてるという程度のことです。
 オタク文化、萌え文化というのは少し前までエロゲやエロ漫画と言ったエロメディアに依拠していました。そのため、「エロゲ脳」を持った者にはあの
マヨ山盛りの味つけがある種自然に感じられたが、若い人には不自然に感じられたのではなかったか。
 ……などと書くとぼくもまた若い側の人間みたいに思えますが、当然年寄りでも、「ここで二人の感情を恋愛へと移行させるのは不自然だ」と感じた人間は多かったはずです。どう見ても前巻までは京介が桐乃に恋愛感情を抱いていたという描写は(肯定論者にしても「暗示はされていた」と言うのがせいぜいで)なかったのですから。

 

 ――ただ、まあ、上に自分を否定派であるとは書いたものの、ぼくの感想はまた違っています。
 ぼくにとっての『俺妹』はあくまでオタクを描く作品だったので、そうしたテーマが最終巻のみならず、物語後半には薄れがちになっていたこと自体が不満でした。
 ぼくの本作初期についての評価は、上のリンク先から旧ブログへ飛んでいただければ読むことができますが、例えば「幼児向けの魔女っ子アニメにしか見えないオタク向け萌えアニメで結構えぐいエロが」といったネタを出してくることで、オタクシーンをそのネガティビティに至るまで結構リアルに描いて、しかしそれでも「オタク肯定」という結論に落ち着けるそのバランス感覚が、素晴らしいと思ったわけです。
 昨今、主人公がオタクである作品が増えていますが、その多くは小ネタとしてオタネタを出す程度であったりして、物足りなく感じておりました。が、本作はそんな中で明らかに頭一つ抜けていると言えます。
 が、残念ながら巻を数えるにつれ、本作ではキャラクター同士の恋愛模様がむしろ主眼として描かれるようになっていったのです。
 それがファンの思惑の影響か、編集部やアニメ会社の意向か、原作者がそうしたかったのか、或いは単にオタネタがつきたのかはわかりません。
 しかし、恋愛に終始した最終巻を見るとやはり、いささか寂しく感じます。
 ちなみに、Amazonのレビューで秀逸なことを書いている人がいました。
 エピローグ(本当に最後の最後)において、「オタクッ娘あつまれー」のオフ会が開かれ、京介と桐乃、黒猫と沙織が一堂に会します。
 そして彼女らのサークルに今日、新メンバーが加わることが語られ、京介が「新入りはどんなヤツかな、俺たちのことをそいつにも語ってやろう」などと思うところで、お話は終わりになっています。
 この新メンバーとは、今まで『俺妹』を読んできた読者のことであろうが(これはあくまでそのレビュアーの意見であり、作中にことさらそれを暗示する描写があるわけではありません)、しかし普通に考えて「京介と桐乃は兄妹で恋愛をしていた」「黒猫は京介と以前つきあっていたが関係を解消している」と、そんな複雑怪奇な人間関係を持つサークルに放り込まれた新メンバーは普通退くぞ、絶対かかわりたくねーよ、というのがそのレビュアーの意見です。
 なるほど、作品としては桐乃と京介の関係も、桐乃とオタ友との関係も、これからもいい感じで続いていくことを暗示させて終わってはいます。が、リアルに考えるとそれはどうか。
 ここで「新メンバー」の登場などという展開がなければ「まあ、こいつらは変人の集団だから」で何とか納得させられたところを、なまじ新入りを設定したことで、このレビュアーはふと素に戻ってしまったわけですね。
 沙織のオタサークルを大事に思う心は以前から描かれてきた通りです。ぼくは今回本ブログを書くために読み返していて、「桐乃たちはオタクッ娘あつまれーの二軍メンバーである」、との設定が語られていたことに初めて気づきました。つまり沙織は桐乃や黒猫といった協調性のない連中のことを慮り、彼女らの面倒を見てやっているわけです。
「新メンバー」はその彼女らのコミュニティがこれからも発展していくことの象徴として、彼女らを、言ってみればオタクの中のはぐれ軍団を祝福するために登場するはずでした。その意味で、一応、作者は本作のオタク作品としての側面を忘れることなく、最後にこのような展開を用意してくれたはずです。
 が、しかしその設定のせいでふと素に戻った読者もいる――沙織の気持ちを考えた時、何だか切なくてなりません

 

 どうしてこうなった?
 それに対する答えを、ぼくは持っていません。
 しかし肯定派の、それもどちらかと言えばAmazonのレビュアーなどではなく、ブログなどで意見を表明している肯定論者たちの言い様に、ぼくは僅かばかりの不快感を覚えました。
 というのもブログなどでは、上に挙げた「兄妹愛か恋愛か」といった論点ではなく、また別な論点が上げられていることが多いように思うからです。
 つまり、

 

「従来のラノベは生ぬるいハーレムを破綻させず、『これからも日常は続く』などといって終わらせるのが常であった。そうしたお約束に踏み込み、最後まで描ききったことが素晴らしい」

 

 といったような論調ですよね、大体。
 海燕師匠の


『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』は、おそらく現在のライトノベルの限界にまで踏み込んでいる。


 といったはその代表と言えましょうか。
 彼の友人であるペトロニウス師匠もまた、


この中で、なんといっても、特筆すべきテーマの一つは、ラブコメの領域に生まれたハーレムメイカーの系譜です。そのテーマのイシューについて、どう俺妹が回答を出そうとしているのか、という視点で見ていきたいと思います。


 と前置きし、


そして、実妹ルートに入ったのは、そもそも「選ぶこと(=決断する)で、時を止めない」ことを、優先させた結果に僕は思えます。


 と書きます
 しかし決断すること、時を動かすことがそんなにも偉いのか……否、「動かないこと」をやたら腐してみせることが、そんなにもいいことなのでしょうか。
 以前も
書きましたが、80年代以降、例えば子供向けのヒーローアニメなどでも「他の星から来たキャラクターが地球の少年と別れを告げ、故郷の星に帰る……かと思いきや、また舞い戻ってきて共に暮らすことに」といった「外し」たオチで「別れ」を忌避するようになっていきました。
 しかしそれもぼくたちが「辿るべき、正しいルート」を失ってしまった現代においては仕方がない面もある、といった辺りが、ぼくの感想でした。
 海燕師匠もペトロニウス師匠も、ある意味では沙織のような人なのだろうなあ、と思います。彼らの中では「
迷えるオタクたちを善導してやらねば」といった使命感が炎と燃え立っているのかも知れません。
 しかし娯楽作で居心地のよい仮想空間を描くことをよしとせず、厳しい現実を描くことこそが尊いのだ、といった評論には何だかもう、食傷気味です。
 そんなの「ドラえもんはすぐ道具に頼らせるから子供に有害だ」という江川達也の考えと、どこが違うのでしょうか?
 そんなことを思いながら、ペトロニウス師匠の
『俺妹』一巻が出た当時の記事を拝見しました。彼自身が、「実は初期の『俺妹』は自分にはあまりにあざとく感じられ、酷評をしていたのだ(大意)」と語っていたからです。

 

 いやはや、ちょっと心が折れそうになりました。


これって「自己肯定されたい」というヲタク側(ってカテゴライズするの難しいけど)の欲望が透けて見えるなーって思うんですよね。

 

 

 

これは、やっぱり「自分が世間から自己肯定されたい」という自己の仮託に思えてしまいます。


 本作が、男の子と女の子を入れ替えることで、「俺みたいなオタクの女の子を助けてやることで、俺が女の子から感謝される」という形にして、読者の男の子(そして女の子)たちがアイデンティティを保護膜に守られながらお話を読み進めることのできる構造になっている、という分析は、実のところぼくがしたものと全く同じです
 そこを、彼は嫌悪し、ぼくは賞賛している。
 そして残念なことに、ぼくには彼が何故それを嫌悪するのかが、さっぱりわからない……というのは嘘で、実は死ぬほどよくわかる。
 ペトロニウス師匠は海燕師匠と共にウェブラジオもやっているのですが、そこではいよいよ苛烈な言い回しがなされます。
 記憶で書きますが、彼は(すみません、一部海燕師匠などの発言も含まれているかも知れませんが)


 一巻はマーケティングで作られてる。
 タイトルがまず出てきて、そっから自動的にくみ上げられた作品だ。


 と指摘した後、


 編集者は『オタクはバカで肯定されたがってるから、こうした物語に飛びつくだろう』という計算でこうした作品を立ち上げたのだろう。


 といったことを、非常にいやらしい口調(編集者のセリフをいやらしい感じで読み上げているところを想像してください)で語っていらっしゃいました。
 どうして?
 どうして編集者もオタクで、「こんなオタクな美少女を彼女にしたいな、読者たちにもそんな女の子を届けてあげたいな」と考えたのだ、とそういう発想にならないのでしょうか。
 ラノベ編集者って、そんなにオタクを憎悪しているのでしょうか?
 いや、憎悪している人が大変に多いんですけどね、経験上。
 まあそれはいいです。
 編集者(いろいろと話題の多い三木氏ですね)がオタクを好きかどうかは徹底的にどうでもいい。或いは、(企画の立ち上げに三木氏の意向が大きかったのはどうやら事実のようで)彼がオタク嫌いだとでもいった話が、あるのかも知れない。
 しかし何よりぼくが感じたのは、オタクを善導したくてたまらないであろうペトロニウス師匠は、オタクが嫌いでたまらないのだな、ということです。上のいやらしい口調もその意味で、編集者の舌を借りて彼の中の本心が現れてしまったもののように、ぼくには思われました。

 

 時々、「男性差別クラスタ」の方から「お前は何故男性差別とオタク差別をごっちゃにして語るのだ」と問われることがあります。
 むろん、ぼくは「男性差別」などというものについて語ったことはないのですが、こうして見るとぼくの意図は明らかになってくるのではないでしょうか。
 こうした人々は「男のマチズモ」を否定することが深夜の萌えアニメを視聴することの千倍くらい好きなのですが、実際に力を持った男性に立ち向かうことはまあ、あんまりない。それが証拠にこうした論者が『ドラえもん』を批判することは決してないのです。
 彼らは萌え作品に耽溺しているけしからぬオタどもに正義の刃を向けることに専ら、熱心ですが、では女性オタクにもその刃を向けるかというと、それは決してない。それが証拠にぼくは本作の構造を男の子にも女の子にも快いものだと分析しましたが、ペトロニウス師匠は女性ファンへの視点は全く欠落させています。
 オタク(男性限定)は萌え作品で二次元への女性へと身勝手な欲望をぶつけていて許せない(彼が自己肯定の欲求を、
悪ででもあるかのように「肯定されたがっている肯定されたがっている」と執拗に糾弾する筆致が特徴的です)。
 普段は児童ポルノ法反対運動の先頭に立って行進していそうな人物が、一体全体どうしたわけか、そうしたオタク(男性限定)の「悪しき欲望」を一刀両断に切り捨てます。
 結局、彼らもローゼン閣下くらい俺たちの味方であったはずの上野千鶴子師匠がポルノを否定しているように、ぼくたちの欲望、それも持っていて当たり前で
その発露の仕方にどこに問題があるのかさっぱりわからないそんな欲望のあり方が、憎くて憎くてたまらないのです。
 彼らにとっては「慮るべき弱者」というのがまず確固たる存在としてあって、彼らの味方を装い、返す刀で「慮らなくともよい弱者」を一刀両断にするというのが、習い性なのです。
 オタク(男性限定)は、「慮らなくともよい弱者」なのです。
 そう、弱者には「人権強者」と「人権弱者」の二者があり、オタク(男性限定)は後者なのです。
 オタク問題は弱者男性問題だ――彼らを見ていると、それがはっきりとわかるのではないでしょうか。

 

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海燕『ラーメンの100円トッピング女性優遇は「男性差別」なのか。』を読む。

2013-06-14 20:35:10 | レビュー

 今回のお題は、以前にも採り上げたことのある人気ブロガー海燕氏のブログです。
 またこれと連動して、ネット上でも海燕氏とドクター差別のやり取りがあったようです。
 それについては「女性専用車両は男性差別か? 海燕とドクター差別の対話(
http://togetter.com/li/471051)」いう形でまとめました。興味のある方はご覧ください。

 さて、ここでは
ブログについてです。
 内容は上のタイトルだけで大体わかるかと思うのですが、「女性にだけトッピング無料」とのサービスの店に対して「男性差別だ」と噛みついた人物がいた、というものです。
 海燕氏はそれに対し、


 100円のトッピングが無料になっているだけで、「男性差別の店、許せません」ってねえ。多くの「男性差別」論者がそうなのだが、この人も被害に対して怒りが大きすぎると思う。どう考えても深刻な被害があるわけではないだろうに、激しく怒っている(文章から読み取れる限りでは)。


 この「男性差別」への怒りは何なんだろう。レディースデイなり女性割引があることで、男性が大きな被害を受けているということなら「男性差別」論者が怒ることもわかる。しかし、あきらかにそうではないわけだ。


 といった意見を述べられていました。
 言うまでもなく、ぼくも海燕氏の考えに全面的に賛成です
 ぼくはドクター差別など、こうした「男性差別論壇(?)」の御仁たちについて、今まで幾度か、これではフェミニストたちに笑われてしまうだけなのではないか、つまり、彼女らに「彼らの存在こそ女性専用車両や女性への割引などを除いて男性差別がないことの証拠ではないか」と反論されたら、彼らはそれに対する再反論の言葉を持っていないのではないか、と書いてきました。
 海燕氏は以降、このように続けます。


レディースデイは男性差別か、といわれれば、まあ、そうかもしれないと思う。しかし、それを問題にするならそれ以前により大きく深刻な差別問題を無視するわけにはいかないのは当然でしょう。


 まさにその通り。
 海燕氏は「リクツはわからないでもない、でもプライオリティが違くね?」という疑問を表明していらっしゃるわけです。
 一体に彼らは、何故このような小さな問題にしか目を向けることができないのか。
 うんうんと頷きながら読んでいくと、海燕氏はこのようにおっしゃいます。


 一方、現代日本では女性の平均賃金は男性の七割程度に留まっている。ぼくが思うに、こちらはあきらかに大きな問題で、女性たちが怒っても当然だ。


 れれっ!?
 それこそが「より大きく深刻な差別問題」だったのでしょうか?
 それ以前に女性の多くが男性に養われているという事実は? だからこそマスコミも企業も「カネを持っているのは、消費者は女性」という考えでいるのでは? いかに海燕氏が「こちらはあきらかに大きな問題で、女性たちが怒っても当然だ。」とおっしゃろうとも、圧倒的多数の女性は事実上、「怒っていない」という現実は? 或いは専業主婦という存在は「政治的に正しくない」ので無視すべきなのでしょうか?
 でも女性の圧倒的多数は主婦志向であり、「女性もキャリアを目指すべき」といったフェミニズムがはやらなくなっているのは自明なのでは?
 男性が富を独占しているはずなのに、ホームレスになるのは男性ばかりであるという事実は?
 男性が女性に比べ常により危険な状況に置かれ、事件に巻き込まれる率、病死する率、自殺する率が圧倒的に高いという事実は?
 ある意味、フェミニズムはそうした「男性に強いられている生命の危機」というものを「最初からないこと」として目を伏せることで成り立っているガクモンです。
 その根底にあるのは、「男性は女性を護るべき」という全人類が共有するコンセンサスでしょう。
 いつも書くことですが「男性差別」などというものはこの世にはありません。
 何となれば、「男性の生命は女性よりも軽い」との強固な掟には、人類史上、一度として疑問を持たれたことがなかったのだから。
 ぼくたちがハエやカを何ら疑問を持たないままに殺虫剤で殺すことを「ハエ差別」と言わないように、「男性差別」などと言うものはない。
 もしそうした概念が生まれるとしたら、遠い未来に「男性人権宣言」がなされて以降のことでしょう。


 以降、海燕氏は「男性差別論者」に対して


いかにも視野狭窄的だ。


小を重視して大を無視するようでは差別を語る資格はないんじゃないか。


 とおっしゃいます。
 ぼくもそれに賛成しますが、同時に全く同じ言葉を「男性差別論者」と同時に海燕氏自身にも投げかけたい衝動に駆られるのです。
「男性差別論者」の主張がみみっちくまた片手落ちなものであることは全く否定し得ないが、実はフェミニズムもそれと全く同様にみみっちく片手落ちなわけです。その意味では――彼らの中に「ジェンダーフリー論者」がちらほらと見当たることが象徴するように――まさに「男性差別論者」は「フェミニスト」のパロディであり、全く同じ過ちを「
再放送」し続ける存在であると言えます(ただしフェミニストは「権威」となっているがためそれが通ってしまっている、裏腹に「男性差別論者」にはそうした後ろ盾が一切ない、という違いはありますが)。
 また、海燕氏は


男性差別論者たちはようするに女性が「女性差別」を訴えることによって男性より上に立つことが許せないにではないか、と。常に男性が上でなければならないのだ。


 とおっしゃいますが、これは全く違うでしょう。
「男性差別論者」にあるのは「とにもかくにも損をした、許せぬ」というみみっちいと言えばみみっちいが、それ自体は正当な感性であるように思います。そこに勝手に「男性の支配欲求」を見て取ってしまうのは、フェミニズムを内面化してしまった者の妄想でしょう。
 ぼくは上に「男性は女性を護るべき」という価値観を全人類が共有している、と書きました。フェミニストに言わせればそうした価値観こそが「女性を支配したいという欲求からでている差別意識」のはずで、「男性差別論者」たちがそうした支配欲求を持っているなら、そもそも100円の女性割引に文句をつけるはずがない。
 その意味で、「男性差別論者」たちは「感性」としては「解放された、正しいものを持っている」はずと取り敢えず、言わねばならない。しかし彼らの言説は申し訳ないけれどもぶっちゃけみみっちく幼稚で、社会全般の理解を得られるようなものではない。
 そしてそうした者たちが大騒ぎすることで、社会は確実に「あぁ、やはり男性差別など取るに足りぬ虚構だ」と判断せざるを得ない。
 ぼくの著作は絶版になったまま、永久に日の目を見ない。


 一体、どうしてこうしたことになってしまったのでしょう。
 一つに、「女性専用車両」「レディースディ」は日常に溢れいつどこにでも目にするものです。だからどうしても文句が出やすい。
 海燕氏が言う「些末な問題」であるとの意見にぼくも賛成しますが、同時にあまりに広範に溢れているということは「塵も積もれば山となる」の言葉通り、やはり無視できないものである、とのリクツにはそれなりに理があると思います(ただし、繰り返すようにプライオリティ的には後回しにすればいいような問題だと考えますが)。
 二つ目としては、やはりこうした女性優遇のとばっちりを受けるのは弱者男性です。むろん、「強者男性は女性より優遇されている」などというわけでは全くないけれども、相対的に弱者寄りの男性の方が被害を大きく被っていることは事実。そのため、こうした小さなことに目が行きやすいと言うこと。申し訳ないけれども、やはり彼らはこうした単純明快な事柄に、目が行きがちなのでしょう。
 例えばDV冤罪による子供の連れ去り問題などは、まさに「男性差別」以外の何物でもないはずなのだけれども、彼らはあまり言及しない。
 失礼ながら彼らが手につけやすいのは「女性専用車両」といった単純明快な問題、しかも彼らが方法論として選択するのは、それを論理で責めるよりは車両に乗り込むといったパフォーマンスで周囲の快哉を浴びる(妄想に耽る)といったやり方。
 つまり彼らはどうも、ちまちまとリクツを考えるよりは先に手が出てしまうタイプであるようなのです。事実、ドクター差別の支持者に「あなたたちはフェミニズムについて知識がほとんどないように見受けられる」と語ったところ、「そんな知識など持つ必要はない」と居直られたこともあります。
 困ったことではありますが、リクツ派が何か言おうとすればどうしても既存のリクツ(つまりフェミニズムなど)に意見を圧殺され、新しいリクツが世に出にくい。そのため彼らのような言説、行動ばかりが目立ってしまう、といった事情があるのでしょう。
 しかし、それではやはり社会全般の理解は、得られません。
 もはや手遅れかも知れませんが、「男性差別論者」がすべきことはこうした事態を一度抽象化、概念化してみる努力でした。そうすればぼくが上に挙げた「男性は女性を護るべき」という全人類が共有するコンセンサスが浮かび上がってくる。ラーメンのサービスにしたって結局こういうのは女性の方が、「あなたの性別故にサービスをしますよ」というサービスの仕方に男性に比べてより食いつきやすいからこそ、行われるわけです。そうした女性の傾向は例えば「デートの時おごられたい」といった心性にもつながっているわけで、そこまで問題を演繹していけばこれだって実は充分な論点たり得る。
「男性差別論者」の一人で、「史上最大の革命を!」と謳っている方がいらっしゃいます。そう、この問題が「史上最大の革命」を引き起こす可能性は決してゼロではない。いや、もしまともな形でなしえたら間違いなくそれは「史上最大の革命」となる。しかし彼らに徹底的に欠如しているのはその準備として、もう少し物事を抽象化して考える努力ではないかと思うわけです。
(逆に「男性差別論者」を擁護する表現をするならば、彼らはそうした世の理不尽さを感覚では感じつつも、表現力に乏しく、結局口を吐いて出るのは「レディースディ許せん」といった言葉にしかならないのだ……とも言えましょうか)


 恐らくドクター差別のパフォーマンスのおかげで、「男性解放」は五十年ほどは遠退くことでしょう。
 とは言え、彼(や、在特会)を見ていて思うのは、彼らが左派の方法論をそのまんまパクった存在だということです。丁度、上に彼らを「フェミニズムの再放送」と形容したのと全く同じに。つまり彼らは言わば左派の「シャドウ」的な存在だということです。
 シャドウというのはユング心理学の用語であり……えぇと、人間の深層心理における……すみません、知ったかぶりをしました。
 ヒーローものの最終回の一歩手前で出てくる「偽ヒーロー」みたいのがシャドウではないかと多分、思います。確か『スマイル! プリキュア』でも出てきていました。作品の総決算の一歩手前で、主人公たちのネガの部分を体現したキャラクターを登場させ、今一度主人公たちに内省を促す、シャドウの役割は大体そうしたものではないかと思います。
 その意味で、左派の彼らに対する嫌悪の何割かは「俺たちのやり方をパクリやがって」という情念に根ざしていると言えましょうし、そうした左派の方法論――それはパフォーマンスもそうですが『差別』といったレトリックも――はドクさべ氏によって今一度問われている、と言えるわけです。
 彼らがドクさべ氏をやっつけるとしてもドクさべ氏にやっつけられるとしても、いずれにせよもう少しやり方、考え方をブラッシュアップさせねば「
新番組」には進めない。
最終回」は近いわけで、ぼくたちもそれを見逃さないようにしましょう。

 

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橋下徹氏が従軍慰安婦を容認したとされる問題について

2013-06-01 19:28:21 | 時評

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 ――何だかいきなり、世論が橋下さん不利になってるみたいですな。
 しかしこんなにも橋下さんばっかりが怒られているところを見ると、米兵による性犯罪って実は問題になるほど多くはないのでしょうか? 教えて、フェミの人。
 確かに彼の発言はTPOを考えてどうかとも思うし、キリスト教の国であるアメリカは、売買春に厳しいわけで、配慮に欠けていたでしょう。
 本件について最初に知った時、ぼくは


やたらと騒いでるから何かと思えば……これ、「腹が減ったらコンビニでパンを買え」って言ってるのとどう違うんだ? 騒いでるフェミニストは売買春否定派なのか?
https://twitter.com/hyodoshinji/status/333934638663884800


 とツイートしました。
 が、「売春」を「通常の職業と全く同じ」と言い切るリベラル的なスタンスにも違和を感じるし、「パンを買うのと同じ」はいささか言い過ぎだったかな、とも思っております。
 が、反橋下派が正しいのかと言えば、そうとも思えない。
 本件でぼくが気になったのは二点です。


 1.「性風俗従事者を性欲発散の道具扱いした」といった主旨の発言
 2.彼ら彼女らが従軍慰安婦問題を語れば語るほど、戦争で殺される男への視点が欠落を感じずにはおれないこと


 1.については、お話にもなりません。
 確かに「従軍慰安婦」の話題に続いて米兵に「風俗業を利用しろ」と提案した橋下さんも橋下さんですが、言うまでもなく両者は全く別の話です。しかしフェミニストと思われる人々のツイートを眺めていくと、彼女らの中ではその両者が完全に混濁してしまっているようです。
 また、彼女らの思想が「売買春は本質的に悪、全て禁止にすべき」というものであればそれはそれで理解はできます。が、彼女らの多くは普段はリベラルを自称しているのではないでしょうか。
 例えば北原みのり師匠は本件に関し、


男の性欲の処理は女がするもの・・・ということですか。
辞めさせなくちゃいかんと思う、こんな政治家。
https://twitter.com/minorikitahara/status/333913329665982465


だからさ、なんで男の性欲を女が引き受けなくちゃいけないんだよ。
テンガ使えよ。
https://twitter.com/minorikitahara/status/333913932060307457

 

とツイートしていますが、ご本人は美少年娼婦を買った経験をお持ちで、また『アンアン』の黒木香を迎えての座談会を手放しで賞賛もなさっています。どうにも、売買春を否定なさっているようには思えません。
 想像ですが、北原みのり師匠の本音は「
女が性を売るのはおk、男が買うのはNG」というものではないでしょうか。
 女性が男性に求めるのは、「男性に自分の性的価値を求められること」です。
 だから普通の売春婦は金を得ることで自分に性的魅力があることを確認します。しかしツンデレちゃんのフェミニストたちは「性を売って、金を得て、そしてしかる後に相手の男を『女性差別!』と叫んで100tハンマーでぶん殴る」というところまで行ってワンセットなのです。これが性犯罪冤罪と全く同じ構造を持っているということは、多分、以前にも指摘したことがあったかと思います。
 いずれにせよ本来、こうした言説は女性の「自己決定権」を尊重するはずのリベラルとは相容れないはずです。では、彼ら(男性側)はどのようなスタンスでいるのでしょう。


北田暁大(反省中)?@a_kitada5月13日
まったく根拠ないけど、なんか「痴漢冤罪許せない。男を性欲の塊みたいに言うな」みたいなこと言ってるひとが、「性欲は男のリアルだぜ。処理ヨロシク」な橋下発言を支持してるような気がするが気のせいですね、そうですね。前者貫徹させるならふつうに橋下発言嫌悪せざるをえないからね。
(
https://twitter.com/a_kitada/status/333958176183574529)


荻上チキ?@torakare5月13日
「今の日本の現状からすれば、貧困からそこで働かざるを得ないと言う女性はほぼ皆無。皆自由意思」「女性も自ら考えて職に就いている。嫌なら他の仕事に就けばいい」と橋下市長。根拠レス。生活苦・借金・DVで風俗や売春を始めた人、疾患で他の仕事に就けなかったという人に取材で頻繁に会うよ。

https://twitter.com/torakare/status/334210071066193920


森岡正博?@Sukuitohananika5月14日
風俗業選ぶのが自由意志と言える前提のひとつとして、風俗業への社会的侮蔑がなくなっていることが必要。それは、若い男女が「風俗業に就職決まりました」と報告してそれは良かったと祝福され、親からもこれで一安心だと笑顔で迎えられる社会でなくてはならないということ。
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/334609055236648960

 


北田師匠の迷妄は論外のそのさらに下としか言いようがありませんが*、基本的に彼らは「風俗嬢は貧困層である」との「設定」で何とか自らの中の辻褄をあわせようとしていることがわかります。
 こうした発言には、既にツイッター上でも「じゃあ、マクドでメシを食うヤツも貧困労働者を搾取するワルモノじゃん」といった反論がなされています。
 森岡師匠の発言にせよ、それを言ったらエロゲのシナリオライターもラノベ作家も「報告してそれは良かったと祝福され、親からもこれで一安心だと笑顔で迎えられる」ような職業では全くないのですが、その職種に就いているものはほぼ100%自由意志で選択したとしか思えない、という辺り、気持ちはわかるけれどやはり論外と言わざるを得ない。
 結局、彼らは「女性」というご神体の持つ聖性、弱者性におんぶにだっこで、実現すべき人権の水準を高く設定しすぎなのですな。だからこそ、(フェミの味方のみならず、この種のリベラルは)世間の感覚との乖離を引き起こしながらそれに気づくことができず、「我々は弱者に寄り添っているのだ」という自意識を持ち続けるわけです。
 むろん、チキ師匠の引用した橋下さんの言葉は、あまりにも浮世離れしすぎでしょう。しかしならばバブル期には風俗嬢の数が激減していたわけなのでしょうか。当時のセックスワーカーを取材した与那原恵氏は『物語の海、揺れる島』の中で、彼女らはそうした職種に就いていることについて、「カネのため」とのタテマエを守り続けてはいるものの、そうとは見えない者ばかりであるとのレポートをしています。
 逆に不景気な今では貧困層が「風俗堕ち」という事態は大変に増えていることが想像できるものの、さらに言えば昨今ではセックスワーカーたちの「自己決定」の傍証として、彼女らによるブログなどが思いつきます。むろんそうしたものも一種の営業であり、100%本音が綴られているはずもありませんが、全てが虚偽であるというのも、やはり考えにくい。ネットの発達による「表現・発信の自由」の実現はリベラルにとってさぞかし
呪わしいものかと心中、お察しします。


*女性の味方であらせられる師匠はきっと、「女性によって無実の罪に陥れられても、笑って社会的死を受け容れよ、そうできない男などネトウヨ以上の悪だ」とお考えなのでしょう。こういう人は戦時下では「軍人なら戦場で死んでみろ!!」とか絶叫しそうです。格好がいいですね。


 2.についてはどうでしょう。
 結局、いかに従軍慰安婦が非道い目に遭っていたとしても(「強制はあった」派の主張を全面的に受け容れたとしても)、戦争で死ぬ男性よりマシ、ということは原理的に言えてしまいます。
 むろん戦争で生きのびたどころか、甘い汁を吸った男性もいるでしょうし、労働環境の劣悪さから死んだ女性もいるでしょう。しかし、全体の問題として男性の方が女性より苛烈な扱いを受けたと言うことは、認めざるを得ません。
 が、こういうとフェミニストは大慌てで「戦争は男たちが始めた」と言い出すのですな(そこを指摘すると、意味不明なロジックで「そんなことは言ってない」と否定し出すのも、お約束です。小山エミ師匠しかり、フェミニストが自分の発言に責任を持つことは、決してありません)。慰安婦という被害者を「設定」した以上、どうしてもワルモノは男性でなければならない。ましてやことの発端となる発言をしたのは男性であり、政党の党首というわかりやすい権力者。事態は「権力者である男VS被害者である女」という図式に、あっさりと回収されてしまいます。
 さてこの図式、ついさっきも見たのではないでしょうか。
 そう、この図式――つまり「男をワルモノにして、男が死のうと平然とその死体を喰らいつつ被害者ぶる女」という図式は、実は1.と2.に共通のものです。
 1.は「過去にいたとされる従軍慰安婦」と「現代のセックスワーカー」を混同することによる、「女性の自己決定権」の否定、つまり「男が悪いとすること」です。
 2.は「過去での人権侵害の中の、女性に対するそれ」だけを恣意的にすくい上げる行為、つまり「女だけが慮られるべき」との価値観の表明、つまり「男は死んでもいいとすること」です。
 ビョードーの見地からは、「過去、女性以上に男性は非道い目に遭った」「同様に、現代でも男性は女性以上に非道い目に遭っている、過労死で死ぬのは圧倒的に男性が多い」といったことが語られてしかるべきなのですが、そうした発言は全く聞かれない。
 こうして見ると北田師匠の発言、ご本人は何も考えずにただ男性への嫌悪を垂れ流しただけだと思いますが、この発言が重大な意味を持ってきます。
 師匠の発言は、「師匠の脳内にいる橋下さんがした発言」と対になっているのです。


北田内橋下「女をやることは男の本能じゃ! 女はおとなしゅう、男の性処理の道具となれ!!」
北田「男を性犯罪に陥れることは女の本能じゃ! 男はおとなしゅう、女の性処理の道具となれ!!」


 おわかりでしょうか。
 橋下さんの発言が全面的に正しいとは言わないけれど、少なくとも彼は北田師匠が妄想するような、上のような発言を、残念なことにしてはいない。
 しかし、そのようなことを言った気がしたので、言われた気がしたので、取り敢えず言ったことにしてしまう。
 それは、肩と肩が触れあっただけだけど、相手の男性がムカつくので尻を触られた気がした、触られた気がしたので、取り敢えず触られたことにしてしまうように。
 一方、北田師匠はそうした相手に着せた濡れ衣をまるきり裏返したような、非人道的な発言をして憚らない。
 例えばですが、男性が自らの欲望を全面肯定して、平然とレイプしまくりの社会が現出したら、女性の生命が蔑ろにされることが想像できます。
 しかし現代社会はそれをまるきり裏返した状況にあると言えるのです。
 フェミニスト――ではなく悲しいかな、「女性」という種全体には、「男性の生命の等閑視」という性癖があります。だから彼女らは男性の生命をどれだけ蔑ろにしても、それに気づくことができないでいるのです。
 そう、「戦争」とはこうした女性たちの性的欲求不満が爆発して、人類が滅亡するのを防ぐために人類の英知が生み出した、窮余の策でした。敗戦までは日本の女性も戦争を大いに喜んでいたことが知られていますが、そんなの、当たり前のことです。そう、「戦争」で男性が死ぬことによって、女性たちは精神的にも経済的にも豊かになれるのですから。しかし冷戦の終結後、なかなか戦争というものがやりにくくなってしまいました。
 そこでフェミニストたちは、リベラル男性を操り、弱者男性を殺戮させることを思いついたのでしょう。
 そう、北田師匠たちリベラル男性が弱者男性をいじめ続けるあの振る舞いは、学術的には「鬼畜BL」と呼ばれる、フェミニストたちのためのポルノグラフィ、だったのです。

 

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