兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第10回『「許せない」がやめられない』【ゆっくり解説】

2020-07-26 19:46:12 | フェミニズム

 風流間唯人の女災対策的読書も、第十回の大台です。
 さて、今回のやり玉に挙がったのは、ネット世論の総評……というかバイアスによって書き換えを志向した、とある本。
 白饅頭すら否定するこの本を、すももが誉めてたんですよね……。





 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、YOUTUBEの方は登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『ぼくたちの女災社会』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」を読む

2020-07-22 20:22:15 | オタク論


※この記事は、およそ9分(課金コンテンツ含めると12分)で読めます※

 ――さて、前回前々回と何やかやで青識稿ばかりをやり玉に挙げてしまいました。しかしことの発端は「オタクであり、フェミニストでもある」と自称する中村香住師匠の書いた記事にありました。ことが前後しましたが、そんなわけですから最後に、中村稿にも軽くツッコミを入れておきましょう。

・新婦は病める時も健やかなる時もジェンフリを信じることを誓いますか

 もっとも、中村師匠の欺瞞については既にそれなりに書いています。
 が、以前予告した点についてはまだ解説をしていません。
 師匠がポルノの規制について、

一律の法規制を求める人は少なくとも現代では多くない。


 と述べていることについて、突っ込んでおきましょう。
 これは確かに、例えば上野千鶴子師匠も一応、表現の自由クラスタとのデートの場でそのように発言していました*1し、青識が絶賛する牟田和恵師もまた、同種のことを言っていました*2
 とはいっても、上野師匠は自らの法規制をよしとしないスタンスを「フェミの中では珍しい」と言っていましたし、果たして「多くない」というのが本当なのかは、ぼくにはわかりません。大体フェミの言葉なんて瞬間瞬間で変幻自在、千変万化するもので、信頼など置けませんしね。
 牟田和匠の言い分は「国家は信用ならんから、こんな重大なことの舵取りを任せるわけにはいかん」というものなのですが、そもそも多くのフェミが既に行政に入り込み、ジェンダーフリーの推進やらセクハラ関連などの法の改悪やらを積極的に行っているのだから、法規制にナイーブなフェミが多数派とは思えません(こうした事実について、表現の自由クラスタは驚くほど関心なさげです)。
 しかし、法規制をこそ一番の論点にしそうな青識は、前回も書いたようにこの箇所を丸っとスルーしています。それは何故か。
 ……いえ、前回はつい手癖で「摩訶不思議」などと形容してしまいましたが、よく考えると大して不思議ではありませんでした。
 というのも、近年の「ツイフェミ」による萌えキャラバッシングは基本、法規制を求める運動にまではなりませんでしたから。例えば彼女らが政治家にロビイングするなどといったことは、なかったはずです(もしあったらご教示ください)。
 逆に言えば、中村師匠の言い訳は「法を変えようとは言ってないんだからいいじゃん」というものでしかありませんが、当然、いいわけはありません。
 青識は中村師匠が「ツイフェミ」たちが萌えキャラに文句をつけてきた事実をスルーしていることが不誠実だと批判しましたが、実のところ師匠はそうした「ツイフェミ」たちの振る舞いを、別に悪いことであるなどと思ってもいないことでしょう。
 前回もご説明したように「ラディカルフェミニズム」とは、「法律をいろいろいじったけど、自分たちの思い通りにならなかった。だったら人の意識そのものを作り替えよう」というおぞましい思想です(表現の自由クラスタの流布した「ポルノを憎むフェミ」という定義は間違いだとは言い切れないけれども、極めて不充分な、歪んだものです)。そしてジェンダーフリーを称揚する現代のフェミニストは、中村師匠を含め、全員がラディカルフェミニストなのです。
 この中村師匠の論文はサブタイトルが「エンパワメントと消費の狭間で」というものであり、これは師匠のスタンスを極めて的確に表現しています。
 師匠は

まず、こうしたコンテンツが資本主義下におけるビジネスとして成り立っている以上、コンテンツを享受する消費者は「まなざす側」であり、コンテンツを提供する女性演者や女性キャラクターは「まなざされる側」、つまり「客体」であるという非対称性が生まれる。この時点で、女性のある種の「客体化」であるという批判は免れない。


 などと言っており、そもそもが「萌え」の第一義を問題であるとしているのです。
 師匠はさらに以下のように続けます。

しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


「お前は何を言っているんだ」と尋ねたいところですが、ここまでで明らかになったように、そもそも師匠は「萌えは悪」と考えているのだから、「何とか萌えを悔い改めさせよう」との発想に至るのは、全くもって、何ら不思議ではないのです。
 むしろ、にもかかわらず師匠が

つまり、私の考えではジェンダー平等の実現を求めることに賛同することと、女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけることは必ずしも矛盾しないし、私は事実としてそれを両方やってきたということだ。


 つまりは、「私はオタクとフェミニストとを両立させているのだ」などと清々しく断言することの方が、了解不能なのです。

*1 上野千鶴子さんインタビュー@韓国・IF
*2実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件


・暖かな客体を築くことを誓います

 もっとも、これについても一応説明(言い訳)めいたことがなされてはいます。

しかし私は、社会の女性に対する抑圧のなかをくぐり抜けて彼女たちがどうにか工夫して生み出した、時に力強く時に繊細なさまざまな種類の女性性表象やそれを用いた表現に、同じ女性としてもエンパワーされることがある。


 何を言っているのかおわかりでしょうか。
「萌え」の中でも女性演者がガンバって演じているものはエラい、そうしたものは自分にとって快い、と言っているのです。
(しかし、師匠の言は演者に限られ、女性の、そして男性の絵師やストーリーテラーに目が行っていないのが、どうにも不思議です。ぶっちゃけ、アイドル(声優)が好きなだけでアニメや漫画などはあまり好きじゃないのかも……という気がしてしまうのですが)
 そもそも、「萌え」の中でもどのようなものに師匠がエンパワー()されているのか、具体的な例が一切書かれていないので想像する他はないのですが、師匠は1991年生。『プリキュア』が始まった頃、13歳です(さらに言うと最初期の『プリキュア』は『セーラームーン』同様、少々年長の視聴者を想定していました)。
 つまり上の仮定をいったん忘れるならば、師匠は『プリキュア』辺りのファンではないかと推測できる。
 前回もちょっとだけ『セラムン』に言及しましたが、近年(と言っても『セラムン』自体が三十年前の作品ですが)のフェミは「萌え」要素のあるオタクコンテンツであっても、女性向けである場合、肯定的な傾向にあります。
 表現の自由クラスタもまた、そうしたフェミニストを自分たちの女神として崇拝する傾向にあります。
 恐らく彼女らは「萌え」要素がある場合でも、そのコンテンツが自分に向けられて作られている、と感じた場合、肯定的に見るのではないでしょうか。
 とはいっても、今回の中村師匠の言を見れば明らかなように、フェミニストとしての彼女らは「萌えアニメ」の「萌え」部分を、肯定的に見ているわけではないのです。
 セーラームーンがミニスカートを翻しながら戦う様をぼくたちが視聴するのは、(青識のレトリックではなく、「女性を客体的に見る」という意味において)明らかに「性的消費」ですし、『プリキュア』はまだ性的要素が抑えられているものの、主人公の多くはピンク色のコスチュームに身をまとい、タイトルからしてもわかるように何より「可愛い」ことを主眼に置いています*3
 師匠の筆致(何か、女の子同士で切磋琢磨するようなアニメにエンパワーされるんだそうな)から推測するに、師匠はセーラームーンやプリキュアたちが勇ましく戦うことを、よしとしているのだと思われます。仮に師匠のお好みのコンテンツが『アイマス』だったとしても、単にアイドルのコンサートだとしてもそれは大差ないはずで、まあ、何か歌のレッスンとかをガンバってる様にエンパワー()されているのでしょう。
 しかし、では、もしプリキュアが「可愛く」なかったら、正直師匠はそれを好んだか……となると、それは疑問としか言いようがありません(海外のフェミは筋肉がついてて唇のぶっとい、キモい女性を称揚する傾向にありますが、これはあからさまにPCを先行させたものでしょう)。
 つまり、師匠はリクツの上では「女の子の能動性が素晴らしい」などと言いつつ、実際には萌え的な部分、即ち「従来的な女性ジェンダーを踏襲した部分」にこそ惹かれている。だって「萌え」は女性の「まなざされ」性、大事な部分をミニスカで際立たせる客体性をこそ、本質としているのですから。
 そこを師匠は、「戦う」という要素を混ぜ込むことで誤魔化しているだけなのではないでしょうか。もちろん、「戦う」を「歌のレッスンをガンバる」に置き換えてもこれは同じです。
 言ってみればBLがキャラの性別をかりそめに男性にすることで、女性が自分自身の欲望を直視せずに済むよう設計されたコンテンツであるように。
 そう、少なくとも彼女らにとっての『セラムン』はBLなのです。

*3 自分たちの嗜好に対するもう一つの言い訳として、上に書いたような若手のフェミニストたちはセーラームーンは「まなざされている(客体的)」のではなく「まなざさせている(主体的)」のだ、みたいなことを言ったりもしますが、それは常に両価性(どっちとも取れる曖昧さ)をはらんだものであり、自分の好きなキャラや作品だけを任意にそのように認定するだけなのだから、詭弁という他はないでしょう。

・末永いお幸せをお祈りします

「萌え」を愛しつつ、それは聖書の教えに背くことだと気づき、必死で教会で懺悔を繰り返す中村師匠。   
 聖書を拡大解釈することで、「萌え」をも愛してもいいのだと思い込む青識。
 まことにお似合いの二人という他、ありません。
 青識稿の最後は、以下のように締められています。

 しかし、いずれ、オタクとフェミニストとの対立構造を解消する方法について、正面から議論を交わしてみたいと私は思う。私もまた、この対立は超克可能なものだと信じるがゆえである。


 何か北田師匠みたいですね。
 数ヶ月後には青識が中村師匠をトークイベントという名のデートへと誘い、そこで「フェミ様、オタク文化を何とか見逃してくだせえ」と土下座外交を繰り返し、しかし後日中村師匠がブログでグチグチと文句を書き連ね、にもかかわらずまた青識がnoteで「みなさん、フェミを信じましょう、対話をしましょう」と泣きわめく……といった展開が待っているのではないでしょうか。
 青識は「超克可能と信じる。」と言っていますが、そう、まさに超克可能でしょう。
 それは、フェミニズムによる萌えの殲滅という形をもって実現するはずです。
 それについては、またnoteの課金部分で述べています。
 それほど大したことではないのですが、ここまでの展開に興味を持っていただけた方は、ご購入いただけると幸いです。

「オタクコンテンツにエシカル消費はいらない ~青識亜論のネチネチnote~」を読む(その2)

2020-07-12 19:10:50 | 弱者男性


※この記事は、およそ9分で読めます※

 さて、前回の続きです。
 まずは「現代ビジネス」において中村香住師匠による記事、「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」がバズりました。
 それを受けての青識亜論の反論が、毎度のコソクな詭弁を弄したもの。
 詳しくは前回記事を参照していただきたいのですが、青識はフェミニズムを延命するために、フェミニズムを捻じ曲げているのです。
 これはまた、表現の自由クラスタ全体の持つ特徴でもあります。何しろ彼らの淫夢の中では「真のフェミ」はポルノに反対しないそうなのですから。

・新郎は病める時も健やかなる時もジェンフリを信じることを誓いますか

 まずはもうちょっと「性的客体化≒性的消費」にこだわりましょう。

 どんな内容であったとしても、消費することそれ自体が「暴力性」を有するなどということはありえない(上に書いたように、他者にそれを強要でもしない限り)。


 が青識の言い分ですが、これは「仮に青識の前提を受け容れるならば」間違っています。
 何故か。
 まず本稿(青識稿)の冒頭で、青識は中村稿を引用します。

私が前述のツイートで自分を指すために用いた「フェミニスト」は、端的に言えば、ジェンダー平等の実現を求めることに賛同しているすべての人である。もう少し踏み込んで言えば、性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさを問題だと感じ、是正を求める人のことである。


 念のために言っておきますが、上の引用は中村師匠の言です。
 青識これに賛意を示し、

 なんなら私も中村氏の言う意味でのフェミニストではあるし(もちろん事象によって賛否は分かれるだろうけども)、オタクでもある。


 などと言っているのです。
 しかし「ジェンダー平等の実現」とは何を意味しているのか。
「性別に起因する格差や、性別によって社会から規範的に割り当てられる役割の違いに基づく生きづらさ」の是正とは何か。
 性役割なんて既に、法律上はないに等しいのではないでしょうか。もし「性別に起因する格差」を女性の社会進出率の低さ、政治家などエラい人を占める低さに求めるならば、法律以外の「何か」に原因を求める他はない(あ、男性側に不利な法律はいくつもあるのですが、「フェミ」ニストがそれの是正を求めているとは思えないので、ここでは置きます)。
 となると、論理的には「フェミニズムの役割は終わった、フェミはオワコン」とするか、「その他の『何か』を是正せよ」のいずれかしか、選択肢はない。しかし青識はフェミニストを自称しているのだから、前者のはずはありません。
 となると、その他の「何か」、即ち「ジェンダー規範は悪」というロジックに帰着する他はないのです(もし青識がそれ以外の「何か」を発見したのならば、それをこそnoteに書けば、いっぺんにフェミ界のスターになれるでしょう)。
 事実、青識は中村師匠の主張の

③ 消費されるために作られたものとはいえ、女性が主体的に活躍する作品は、女性の自立や連帯をエンパワメントするものともなりうる。


 ここを、大仰に称揚しています。
 主体的な活動がとにもかくにも好ましいという思い込みこそがフェミニズムの誤謬であり、女性の客体性、受動性(例えば、主婦に収まること)を雑に悪だと見做すフェミの悪癖につながっているのだと思うのですが、こうして見ると彼もまた、そうした世界観をフェミと共有しているのでしょう。
「女性も主体的、能動的たるべし」との「ジェンダーフリー」を好ましいと考えているという他、ないのです。

 一方、中村師匠の「オタク」定義が示す通り、「萌え」とは女性ジェンダーそのものへの愛好が本質であると考える他ない。
 そうなると、「ジェンダー平等の実現を求める」ことに賛成する青識は、「萌え」を、即ち「女性ジェンダーのステロタイプな描写」をしている作品を、批判するべきなのです。
 江口師匠が指摘したように女性が客体的であることこそが、「性的客体化≒性的モノ化≒性的消費」ということになるのですから、女性が受動的なジェンダーを発揮する作品は悪だ、と考える他はないのです。
 男の子に向けて『仮面ライダー』が、女の子に向けて『プリキュア』が放映されている現状はジェンダーステロタイプを強化する方向に進んでおり、ケチカランと、青識は主張すべきです*1

*1『セーラームーン』の頃から、古株のフェミは同作を批判的に見て、オタク世代のフェミは「何か、キモチイイので正義」と理にあわぬ詭弁を述べるという傾向が顕著になってきました。青識的な論者が持ち上げる「真のフェミ」は後者の、フェミとしてすら一貫性のない欺瞞の塊のような人物たちであることは、言うまでもないでしょう。

・暖かなジェンフリを築くことを誓います

 ――いえ、或いは反論があるかもしれません。
 青識自身が「強制性」をこそ重視しているのだから、そこを基準として話を展開すべきだ。そして仮に女性ジェンダーの塊のような美少女キャラばかりが登場する萌え作品でも、その美少女キャラに何らかの強制性が働いているわけではないのだ。
 むろん、この「強制性の有無が性的消費か否かの基準」というリクツ自体が青識の捻り出した詭弁だというのが前回の指摘なのですが、まずそこを受け容れるとすればどうか。
 もしそのような主張をしたいのであれば、青識は「ジェンダーフリー」を支持すべきではないでしょう。そもそもが法の是正などで女性の地位の向上(と、フェミが考えること)が成し得なかったがため、「その他の、ジェンダー規範を強制する何か」がある、というのがジェンダーフリーの基本理念なのですから。
 女性が働きたがらず、主婦を志向する心理こそがけしからぬ、そしてそれは男性の価値観に洗脳されているのだ、その呪いを解かねばならないのだ、というのがジェンダーフリーの理念なのですから。
 フェミニズムには「ガラスの天井」という概念があります。法律を整備しても女性の社会進出がはかどらないのは、女性が「見えない壁」に出世を阻まれているせいである。そしてその正体は、「女はこう、男はこう」と決めつけるジェンダー規範である、つまり、ぼくたちは「ジェンダー規範の刷り込み」という名の洗脳、一種の強制を受けていた、というわけなのです。
 法ではなく人間の意識を変えよという「ジェンダーフリー」は、どうしたって「本来のあるべき意識を、悪者がある種の強制性を発揮して改変したのだ」との前提を最初から内包しているのです。
 フェミニズムは今まで、教育に大いに介入してきました。もちろん、教育は人間の価値観や性格の形成に大きく影響を与えることでしょう。その意味で、強制性があるといえば、いえる。
 しかし今や学校教育なども男女平等でしょうし(名簿を男女混合にするなどという、意味不明なことがなされるご時世です*2)、家庭教育はさすがに手を出しづらい。
 となると、もはやフェミはメディアの影響力をこそ悪者にするくらいしか、やりようがない。
 即ち、メディアの流すメッセージにはある種の強制性がある、というのがジェンダーフリーの大前提なのです。
 しかも、大人向けメディアは例えばCMで女性が料理をする場面など見なくなったように、(女性にだけ都合のいい形での)ジェンダーフリーが実現しています。
 となると子供番組、深夜アニメくらいしか叩くものがなく、だからこそ、フェミはオタクを敵視している。
 前にも言いましたが、『トクサツガガガ』の主人公である仲村さんは『プリキュア』(をモデルにしたアニメ)が当初、地味なカラーリングだったのが、すぐにピンクなどを主体にしたカラーリングになったことについて、「みんなの努力が何故実らないのだ」と嘆きます。この「みんな」が一体誰で、何故そんな「努力」をしなければならないのかはさっぱりわかりませんが、一つだけわかるのは、本作が特撮オタク漫画などではなく、フェミニズム漫画だ、ということでしょう。
 女児は誰に教えられずとも、ままごとをする。男児はヒーローごっこをする。プリキュアがピンクになったのは、「女児が望んだから」でしょう。しかしそれを認めることができず、そこに「何か、悪の洗脳が潜んでいる」という世界観を前提しているのが「ジェンダーフリー」なのです。
 そうした理念を掲げるフェミニズムは、そもそも、根本的に、大前提として、絶対に、どう無理をしようとも、「萌え」を認めるはずがないのです。逆に言えば、「萌え」はフェミという災禍から人類を守る最後の砦であり、だからこそフェミの手先は実に熱心にオタクを自称してオタクを騙そうとしているのですが。

*2 おぞましいジェンダーフリー教育の実態については十年程前、騒がれたものですが、すっかり皆さん忘れているようです。ホンの一例ですが、例えば以下のような具合です。
秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)


 ――今回、ぼくの筆はやや、抑制的です。
 普段であれば、「ジェンダーフリーとはこの世のジェンダー規範、男性性や女性性の全てを否定する思想だ、それを透徹すれば萌えどころかあらゆる人類の文化が根底よりリセットされる。だから何がどうあろうと、肯定できない」といった言い方をしているところです。
 ただ、上の論法に対しては一応、「そこまでのことを考えているわけではない、そこそこのジェンダーフリーが望ましいのだ」との反論が想定し得ます。
 もっとも、フェミニストたちの著作を見ていると、まさにそのようにしか考えていないことが明らかになりますし、また、ならば「どこまで」のジェンダーフリーが望ましいと考えているのか、その基準を示したフェミニストは、ぼくの知る限り存在しません。
 しかし、とはいえ、青識自身は恐らくジェンダーフリーに対して饒舌に語ったことはないし(もし知ってる人がいたら教えて)、ふわっとしたムードで是としているだけなのではないかと想像できる。
 だからぼくも今回は一応、彼ら彼女らに一歩、歩み寄る格好でリクツを捻ってみたわけです。
 しかしそれでも残念ながら、青識の論法はデタラメという他ないのです。

 というわけで青識という「論客」の「論法」は「論理」性がテンから欠落しているという、ペド議論の時と全く同じ結論となってしまいました*3
 さて、ここまで書きつつ、まだそもそもの発端であった中村香住師匠のコラムについて、まともに採り挙げていませんでした。来週辺りに、その辺をまとめた記事をうpしたいと思います。

*3 ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む

「オタクコンテンツにエシカル消費はいらない ~青識亜論のネチネチnote~」を読む

2020-07-10 14:33:19 | フェミニズム


※この記事は、およそ10分で読めます※

 少し前、白饅頭が以下のようなことを言っていました。

現代ビジネスでオタク叩くフェミニストは丸尾さんの功績によりめちゃくちゃたくさんいますが、オタク側の論客はゼロです。オタクたちよ、努力が足りない。我こそはという者、きちんとnoteやブログで文章をリリースして名を上げ、メジャーなメディアでの発言権を得るんだ。

https://twitter.com/terrakei07/status/1277085323193798656


 何かこの人、こういうの好きですよね。すもものことも「育ててみよう」とか言ってたし。
 で、この「丸尾さん」も何なのかわからんのですが、「現代ビジネス」というのは白饅頭がよく書いてる講談社のサイトであるとようやっと気づきました。ちらっと見てみるとやたらとフェミ関連の記事が多いんですよね。
 本当、ぼくがどれだけ口を酸っぱくしようと、こうした大手メディアではただフェミニズムを延命させるための空疎な言い訳ばかりが繰り返され、そんな無内容な記事の量産でフェミニストたちは相も変わらず小銭を稼ぎ続ける……という状況に無力感を覚え、最近はあんまりこうした記事も読む気がしません。白饅頭の言がそれを証明していますよね、表のメディアでは結局はフェミ側の有利な立ち位置からの、事実を捻じ曲げた抗弁のみが流布されるばかりだと(反フェミの論客が白饅頭のお眼鏡に適うか、ということはまあ、別として……)。
 そんなわけで白饅頭の書くものも含め、あんまり読む気にもなれず、今まであまり見てなかったのですが。

・フェミの表現規制を隠蔽することが、二人の初めての共同作業となります

 さて、そんな時代の最先端を行くサイト、「現代ビジネス」で中村香住師匠「「オタク」であり「フェミニスト」でもある私が、日々感じている葛藤」という記事がバズりました。
 表題からも「フェミ側からの、オタクへの懐柔策」という性質が見て取れ、また青識亜論がnoteで「返歌」を返しているという状況に興味を覚え、ぼくも重い腰を上げ、ちょっとまとめておこうかと思い立ちました。
 しかし何というか、左派の人たちって、いつからか仲間内でのプロレス……というよりはじゃれあいを人様に見せ、おひねりをもらうだけが仕事になってますね。

 中村師匠の言い分を簡単にまとめると、師匠はフェミニスト(でありレズビアン)であると共にオタク。いわゆる男性向けの萌え作品が好きで、その葛藤に悩んでいる。しかし、「フェミはオタク文化をつぶそうとしている」「性表現を規制しようとしている」というのはオタク側の妄想である。
 まあ、耳にタコができるほどに聞き飽きた、事実の反映がほとんどない意見、略して「デタラメ」ですね。こんなので原稿料が入るのだから本当、羨ましい限りです。
 ちなみに、中村師匠の「オタク」定義は「女性演者や女性キャラクターがメインとして登場するコンテンツを一般の人よりも高い熱量をもって愛好し、追いかけている人」であり、「オタク」というより「萌え」という感じがしますが、オタクvsフェミのバトルという状況下においては概ね納得のできる定義です。
(そういうわけで以下、本稿では「オタク」という言葉の代わりに、「萌え」という言葉を多用します)
 これに対して青識は、今までフェミニストたちはキズナアイ、宇崎ちゃんを性差別であるとしていたではないか、それをスルーしてフェミを免罪しようとする中村師匠はアンフェアだと批判します。
 これはもちろん、大変納得のいく意見です。
 ここまでならぼくも、青識に諸手を挙げて賛意を示します。
(ただ、中村師匠は「フェミは法規制を望んでいない」という言い方をしており、また青識は摩訶不思議なことにそこを見事にスルーしているのですが、この辺りへのツッコミはまた次回に回しましょう)
 そして青識はフェミニストのオタクへの攻撃の例として、すももの作った表を得意げに引用します。



 2014年の人工知能学会の会誌を筆頭にした、「フェミにいちゃもんをつけられた表現」一覧です。
 すももがこの表を作成した時にも言ったのですが、これはあまり評価できません。
 というのも、これが以前の、70~90年代のフェミニストたちのミスコンや街頭ポスター、CMなどへのいちゃもんなどをスルーしているからです。その意味では、この表は「十年前までは(真の)フェミは味方だった、(ツイ)フェミがこの十年、我々を攻撃し出したのだ」という表現の自由クラスタの「偽史」に寄り添うものになっています。
 まあ、この辺は確信犯で過去を隠蔽しているのではなく、単に何も知らないだけなんでしょうが、悪意を持ってみれば、「ツイフェミ」に責を負わせて本来のフェミを延命しようとしているのかな……と思えなくもありません。
(もしぼくの文章を初めてごらんになる方がいたら、勘繰りすぎだと怪訝に思われるかもしれません。しかし近年青識が「フェミニスト」を自称し始めたことからもわかるように、ぼくが表現の自由クラスタと呼ぶような人々の目的意識はただひたすら、自分たちのガールフレンドであるフェミニストたちを延命させること、ただその一点にのみ向けられていると言っても過言ではないのです。以下をお読みいただければそれはご理解いただけましょう)

 青識が近年、ぬけぬけと「フェミニスト」を自称し出したのには呆れましたが、本稿においても(後に引用するように)それが邪気なく繰り返されています。
 しかし一体全体どうしたわけか、彼は中村師匠を

 にもかかわらず、私が当該記事を問題視しているのは、一部フェミニストによる「性的『消費』批判」を無批判に採用している点にある。


 と批判します。
「性的『消費』批判」をしないフェミニストなど、彼の描いた屏風の中にしかいないと思うのですが、青識はそうでない者を「一部」だと言い張るのです。
 彼はまた

 そのような葛藤を私たちに植え付けてきたのは、何の根拠も脈絡もない「差別」や「性搾取」や「暴力性」をオタクコンテンツに見出してきた似非フェミニズム的言説にほかならない。


 とも言います。
「女性ジェンダーの強調はまかりならぬ」との、まさにフェミニズムそのものの論調に対して、「似非」などと呼びつける様は滑稽であり、卑怯であり、愚劣です
 青識は中村師匠がツイフェミの罪状をスルーしていることをアンフェアだと糾弾しますが、自分は本来のフェミの罪状を、必死で隠蔽しているのです。

・「性的消費」「性的客体化」「性的モノ化」と三つの「性」を送りたいと思います

 さて、中村師匠のもう一つの主張は、「オタクとフェミニストは両立し得る」というもの。青識はそこに諸手を挙げて絶賛の意を示し、そして先にも引用したようにしかし師匠は「萌え」を「性的消費」だと称するのでけしからん、と続けるのです。
 そんなこと言ったってアナタ、「性的消費」って言葉は「萌え愛好」とほぼ同義でしょうに(萌えは架空のキャラへの愛好であり、本稿では話題をそこに絞りますが、中村師匠の定義はご丁寧にも「女性演者」として実在の女性をもそこに加えてしまっており、実写の映画女優、グラビアアイドルに対しても全く同様のことが当てはまりましょう)。
 青識は中村師匠の主張を以下のようにまとめます。

① フェミニストは表現規制を要求しているのではなく、オタク表現が「性的客体化」によって女性差別に加担することを批判している。

② オタクコンテンツは女性演者または女性キャラクターを「まなざす」ものである以上、「客体化」という批判は免れがたい。

③ 消費されるために作られたものとはいえ、女性が主体的に活躍する作品は、女性の自立や連帯をエンパワメントするものともなりうる。

④ オタクコンテンツの消費に内在しうる暴力性を自戒しつつ、より「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


「萌え」が「性的客体化」であるというのは(上の「性的消費」同様)「真」でしょう。
 だから仮にそれが悪だというならば、「萌え」は「悪そのもの」という他はない。
 しかし青識は、萌えは「女性の性的客体化(まなざされる側)」、や「女性性の消費」とは異なると言い出します。
 どうも江口聡師匠によれば、「性的客体化」とは「強制性があった場合」に適用される概念なのだそうです。
 そもそも「性的消費」と「性的客体化」の違いも判然としませんが、青識自身がこれらをいっしょくたに論じているので、ここではぼくもそれに準じます。
(また、厳密には江口師匠は「性的客体化」ではなく「性的モノ化」と呼んでいますが、これは翻訳が違うだけで同一の言葉です)
 つまり、「性的客体化≒性的モノ化≒性的消費」であり、その本質は「そこに強制性≒手段性があること」ということにまず、なります。
 ともあれ、青識が言うには萌えにはこうした(基本的には)強制性がない以上、性的消費、性的客体化とやらいう「ケチカラン表現」ではないのだということです。
 また、彼は中村師匠の

その「消費」に内在しかねない暴力性については、つねに考えていなければならないとも自戒する。

しかし、「消費」自体をやめることはできないとしても、少しでも「まし」な消費の仕方を考えられないだろうか。


 といった主張に批判を加えます。

 性的客体化の話をしていたと思ったら、急に「暴力性」の話が出てくるのである。

 これには多くの人が首をかしげたのではないだろうか。


 え……?
 江口師匠によれば、「性的客体化」には「強制性」が伴うのだから、それは「暴力」そのものでしょう。
 もちろん、青識自身は萌えは「性的消費」でも「性的客体化」でもない、としているけれども、中村師匠はそう考えているのだから、この批判は奇妙というか、青識自身があまり師匠の考えを吞み込めていないのではと思えます。
 いえ、まあ、ぼくも萌えをケチカランものと考えているわけではないので、結論だけを考えれば、ひとまず青識と同意見ではあるのですが。

 しかし青識が論拠にする江口師匠の説明はマーサ・ヌスバウム師匠というフェミニストの論文を下敷きにしたもの。さらにそもそもこの「性的客体化」という言葉自体は、マッキノン師匠やドウォーキン師匠が提唱したものなのです。ヌスバウム師匠の分析がガクモンの世界で定説とされているのか、フェミニズムがそれを共有しているのか、ぼくにはよくわかりませんが(中村稿にも名前が出てくるので、それなりにメジャーではあるのでしょうが)、江口師匠の説明を見ると、

(1) 他人を道具・手段として使用する
(2) 自己決定を尊重しない
(3) 主体性・能動性を認めず常に受け身の存在と見なす
(4) 他と置き換え可能なものと見る
(5) 壊したり侵入したりしてもよいものとみなす
(6) 誰かの「所有物」であり売買可能なものであると考える
(7) 当人の感情などを尊重しない
(8) 女性をその身体やルックスに還元してしまう
(9)エロチックな写真などでは、女性は体全体を鑑賞されるだけでなく、胸や腰や脚などの特に性的な部分・パーツに分けられ、その部分だけを鑑賞される

 と、随分といろいろな状況が「性的客体化」に当てはまり、そりゃ、理屈をこねればあらゆる表現は何かしら「性的客体化」に仕立て上げられるだろうなとの印象を強くします(ただしこの(8)、(9)はヌスバウム師匠が言ったことなのかどうかは今一判然としません)。
 見ていくと、青識はここから恣意的にセレクトした(2)や(3)や(7)を持ち出し、そこに反していないからいいのだと強弁しているのだとわかります。
 そこだけでも非道い話ですが、何より非道いのは青識が頑なに「性的客体化」という概念自体は「あるもの」として守ろうとしていること。
 そんな、ドウォーキン師匠、マッキノン師匠発の概念など、一笑に伏せば済むはずなのに。
 そう、以前のペド議論*の時に「ヘイト」という概念自体は頑なに守ろうとしたのと全く同じに、青識がしているのは毎度おなじみ、フェミニズムへの恭順な服従の誓い、以外の何物でもないのです。

* ペドっ子大作戦――青識亜論「論点整理:少女型ラブドール規制論」を読む


・お色直しのため、しばし中座させていただきます

 ――え~と、まあ、いつものことなのですが、一回ではまとまりきりそうにありません。
 日曜辺りに続編をうpできればと思っていますので、ともあれ今回はこの辺りで……。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第9回「女子高校生に「キモイ」と言われ…髪を引っ張り暴行した疑い 35歳の県職員を逮捕」【ゆっくり解説】

2020-07-05 19:57:15 | フェミニズム
【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第9回「キモい問題」【ゆっくり解説】





 どうも、風流間唯人の女災対策的読書、第九回です。
 今回採り挙げるのは純然たる時事ネタ。
「女子高校生に「キモイ」と言われ…髪を引っ張り暴行した疑い 35歳の県職員を逮捕」という事件についてです。
 メインとなるのはもっとも、事件そのものよりもそれについての毎度のネットの反応。
 それと、こうした「男子対女子」のバトルの処方箋として児童文学の傑作、『ぼくらはズッコケ探偵団』をご紹介しましょう。