兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

『現代思想 男性学の現在』(最終回)

2019-05-05 00:00:19 | 男性学


 前回は金田澁澤両師匠の対談に対するツッコミだけで終わってしまいました。
 今まで(その1)(その2)(その3)と続けてきて、それぞれ「男性学」という宗教団体の「一般信者」、「教祖」、「ご神体」のお言葉について扱うという趣向だったのですが、最終回の今回は「ご神体」の続きと、後、最後にまとめに代わるような「一般信者」の「信仰告白」を採り挙げて終わりたいと思います
 そんなわけなので初めてこられた方はまず、先行するエントリお読みいただくことを推奨します。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○貴戸理恵 生きづらい男性と非モテ女性をつなぐ

 え~と、タイトルを見てもわかるように、「非モテ男性の問題を、女性である自分に引きつけて語る」ことが試みられています。
 前回の金田澁谷両師匠の対談は男性への上からのお説教という感じでしたが、本稿は一応、女性自身を語ることが想定されています。想定されてはいるのですが……。
 い、いえ、貴戸師匠、フェミニズム寄りの論者にもかかわらず、わりといいことを言っているという印象を持ちました。「女の生き難さは往々にして結婚や出産で落ち着く、これは女性が自分の肉体性というものに多くを依っているからだ(大意)」といった指摘がなされるなど。要するにフェミニズムをつぶして女がとっとと結婚出産するようにすれば女の(そして男の)非モテ問題は解決するよってことなんですよね。
 ですが、冠されたタイトルに反して、延々金原ひとみ師匠の援交ケータイ小説みたいなのが紹介されるばかりで、苦笑。非モテ女性の話を出そうとして出てきたのがせいぜいそれってのが、もう語るに落ちています。見るとこの人、ずっと金原師匠の評論をなさっていたそうで、想像だけどあんまり関心のない仕事を引き受けて、自分の専門分野に(無理からに)引きつけて語っちゃったんじゃないかなあ。
 時々話題にすることですが、『電波男』が流行した時、出版社は『電波女』(的なものを著すことのできるオタク女子作家)を探したが、見つからなかったといいます。(本稿が明らかにしたように)女性の方が男性より有利なため、語りようがないという側面もあるものの、一方では前回書いた女性の虚栄心、言ってみれば「ケツのまくれなさ」が影を落としている面もあります(そのしばらく後、オタクのイメージがちょっとだけポップなものになるや『801ちゃん』が登場したのも、ご存知の通り。ガガガ)。
 しかし、そうした「ケツのまくれなさ」のため、女性たちは「フェミニズム」というモンスターを生み出し、男性のみならず自分自身をも苦しめることとなってしまいました。
 その実況中継とも言えるのが前回の座談会であり、その「ケツのまくれなさ」を如実に表しているのが、本稿だったわけです。
 あ、この人も杉田師匠をやたらと称揚なさっています。

○森山至貴 ないことにされる、でもあってほしくない――「ゲイの男性性」をめぐって

 タイトルから見てもわかるように、ホモの立場からの文章なのですが、正直、難解で意味の取れない部分が多いです。森山師匠、「ホモ独自の男性性」というものがあるはずだ、といったトピックスに延々こだわっているのですが、何でそんなことにこだわるのかわかりません。
 例えば、「日本人に特有の男性性」というのは想定し得るでしょう。男言葉で「○○だぜ」と言うとか。しかしそれも「男は強い」という普遍的なジェンダー観に紐づけされたものであり、別段、特筆するようなことでは全然ないないわけです。
 もう一つ、驚き呆れるべきは「ベアバッキング」について。これは「ときにはHIVウィルスが感染するのも厭わず、むしろその危険性にこそ快楽を感じ、またえり好みせずに他者の精液を受容しようとさえする(122p)」というもの。実は以前からよく聞くハナシだったのですが、正直、ぼくとしては都市伝説というか、ネット上のホモヘイターによるデマの可能性を疑っていたのですが、こうも明確に実際にあるのだと言明されると言葉を失います。非常に言いにくいことですが、現状ではエイズの拡大はホモに寄るところが大きいと言うしかない*1。そんな現状でこれはまずかろうとしか言いようがありません。

 しかし、はっきりと異性愛男性との差異を表明し、挑発的であるベアバッキングの文化すら、むしろ異性愛男性の「男性性」とそう変わらない特質を持ってしまっている。ベアバッキング研究の第一人者であるティム・ディーンは次のように指摘している。

 ベアバッキングの文化が愛国主義的文化と同質の倫理を保持(し、かつベアバッキングの実践者が軍国主義のエロスを受容)するかぎりにおいて、ベアバッキングは擁護されうる。(Dean2009.58 訳は引用者による)
(122-123p)


 一応、念のために行っておきますが、上段は森山師匠の文章、下段は師匠の引用しているディーン氏とやらの文章です。
 ……といったところで、師匠が何を言わんとしているのかわからないと思いますが、要は「ベアバッキング実践者は「挑発的」なのでエラいと思ったがネトウヨだった、死ね!!」と言っているのです。いや「死ね!!」とは言っていませんが。しかし、最終的には否定しているとはいえ、まず「ベアバッキング」を肯定から入るとは恐れ入ります。この人、仲間がバタバタ死んでも構わないんですかね。いや、今はエイズでは死なないんでしょうが。しかしこれではホモ雑誌の編集長が男児へのレイプを称揚しても、それをホモやフェミやリベが批判することは期待薄……あ、いやいやいやいやいや(リンクと本文とは一切関係がありません)。
 ともあれここからは、「男性性」という言葉には「ネトウヨ」と同じ(「私に逆らう者」という)意味しかないことが極めて明瞭に見て取れます。
 正直、意図の読めないことだらけの本稿ですが、師匠はこの「ホモ独自の男性性」について、最後に「それを否定したいからこそ明確にしたいのだ」などと言って終わります。何じゃそりゃ、って感じです。師匠は「ベアバッキング」とやらが「愛国的」でさえなければ好ましいものであるかのように言っているのだから、そうなると「ホモの男性性」はよきもの、というリクツのはずです。
 以前も指摘したように、浅田彰師匠は「ホモとは男性性を捨てた者である、だから、ヘテロであっても男性性を捨てた勇者は広義のホモだ」みたいなバッカみたいなことを言いました。この種の人たちの世界では、ホモは男性性を捨てたジェンダーエリートとして立ち現れます。森山師匠も(本特集の書き手全員がそうであるように)そうした言説の影響下にあるはず。つまり感情のレベルでは師匠は「男性的」でありたいと願っている(ここには「ホモは女性的」といった俗説への反発もありましょう)ものの、「男性性」はとにもかくにも悪であるとの価値観も、内面化している。だから「ホモにも男性性はある(ヘテロのそれとはモノが違うのだ、ということにしたい理由がわかりませんが、やはり一般的な意味での男性性を見出しにくかったのかもしれません)」との仮説を立て、しかしそれでも叱られそうなので取ってつけたように「ホモの男性性も否定する」と言ってみた。師匠の本意は、そんなところなのではないでしょうか。

*1 エイズ・性感染症の近年の発生動向

○稲垣諭 男性原則の彼岸へ――男の現象学はどこまで可能か?

 恐らくこの人、シスヘテロ男性なのでしょうが、掲載順もほぼ最後のせいで最後に読んでしまいました。
「一般信者」→「教祖」→「ご神体」と出世魚のようにランクアップしてきた本エントリですが、最後の最後にもう一度、「一般信者」の生のお声を届けよう、ということで、レビューもこれを最後に持ってくることにしました
 つっても、内容はもう耳にタコからイカからカニからエビからが大漁になるほどに聞き飽きた、「とにかく男が嫌いだ」の繰り返しですが。

 いつからか人間の男という性は静かに絶滅すればよいと思うようになった。力点はあくまでも「静かに」であり、オセロの盤上が知らずに塗り替わるように消滅することである。それが生物的意味なのか、社会的意味なのかよく分からない。ただホロコーストのような暴力だけは回避せねばならない。
(202p)


 ――はい、のっけから、うわ言の第一声から、これです。
 敢えて言えば本稿自体が男への暴力そのものだと、ぼくは思いますが。まさかこの人、「ポルノはヘイトスピーチ(キリッ」とか冗談でもおっしゃってないでしょうなあ。

 もし男のいない世界を有史の最初期から改めて再生できれば、これまで行われた戦争や虐殺、犯罪、性被害といった暴力と不法の実態と総数がどうなるのかの対照実験を行うことができる。どこまでが男であることの影響なのかを炙り出せる。(203p)


誰か俺のおならを百万円で買ってくれたら、会社行かなくて済むのになあ」と言ってるのとこれと、どう違うんでしょう。てか、この人は会社にも行かずにこういう寝言を並べてカネをもらってるわけだから(大学には行ってるか)、何というか、まあ、夢の体現者ですな。ことに、カネにならないブログをおびただしい手間と暇をかけて作り上げている身からすれば。
 稲垣師匠はドヤ顔で、「女がセックスストライキをして、男に戦争をやめさせた」というギリシャのおとぎ話を持ち出してきますが、史実を鑑みれば、別に女性は常に戦争に反対していたわけではありません。それにみなさんもおわかりじゃないでしょうか、ツイッターを見るに、もし女が世を支配していたら今よりも何百倍も凄惨な戦争や虐殺、犯罪、性被害といった暴力と不法が世を席巻していたであろうことに。
 稲垣師匠に限らず、「男性学」者はただひたすら「男の暴力性」とやらを採り挙げ、大騒ぎします。師匠も暴力的な女、レイプをする女もいようが、それは「統計的に測定誤差内に収まる例外(208p)」であるとします。もちろん、それ自体は正論です。「男/女は能動/受動的」というジェンダー差は、確かにあるでしょう。前者が暴走すると「能動性」は「暴力性」となり好ましくないが、しかしそれもよきことを行う行動力と表裏一体なんだから、その全てを否定すべきではない。誰だってわかっていることです。しかしこの原則を理解できないフェミニズムというカルトの構成員は、「男は悪」という雑な図式に逃げ込みます。
 一方、師匠はそれに続き「痴漢の冤罪問題に関しても同様である。」と実に奇妙なことをおっしゃっています。「痴漢冤罪」はこれらと異なり「女の受動性の暴走」という名の悪であり(ちなみにこれを専門用語で「女災」というのですが)、別に論じるべき問題であるのに、師匠はそこがおわかりでない。恐らく「男が悪」である以上、「痴漢冤罪」など取るに足りない例外事例だと言いたいのでしょうが。でも、この人『男性権力の神話』を読んでいるのだから「レイプの訴えの六割は嘘」ということを知っているはずなんですけどね。
 師匠は自らの男性性を憎むナイーブな青年の例を挙げます。男たちの飲み会などでのマッチョな様子、下ネタを嫌い、マスターベーションすら罪悪感を持ってやろうとしない。そうした男の野蛮さに対する嫌悪感そのものは共感できます。
 また、本稿には渡辺恒夫、ファレルを比較的好意的に紹介する箇所もあります。渡辺教授は時々書くようにオカマを研究し、男には女の身体性(というか、女性が身体性に敏感であること)に対する羨望があると説いた人物であると同時に、男の生命が蔑ろにされていることをも、指摘した人物。ファレルはそれをさらに膨大なデータを挙げ、緻密にレポートした人物です。少なくとも本特集では、(前者もそうですが、ことに)後者については必死になって頬かむりし続ける論者ばかりなので、ここは特異です。
 他にも師匠は「世界的に男の自殺率が女性より高く、平均寿命は女性よりも短いこと(206p)」、「暴力の被害者になる総数も男性の方が女性より三倍以上多い(210p)」こと、「何かあった際に「女」、「子ども」、「老人」が優先的に守られるのがどの社会においてもデフォルト的な慣習である(210p)」ことなどを指摘してもいます(もっとも最初のものはルソーが「男の方がエラい(大意)」と言ったことへのカウンターとして持ち出してきたものではありますが)。
 また、そもそも人間とは猛獣に駆られる被食者であったこと(210p)、今時の男は草食系になってきていること(211p)なども指摘されています。
 大いに賛成です。
 前者からは「この世で生きる以上、男の能動性を全否定しても始まらない」、後者からは「でも豊かになったからその発露の仕方が洗練されてきた、いいことじゃん」以外の論理を展開させることは、困難です。
 いいぞいいぞ、と思っていたら。

 しかし本当にそうか。懸念はまだある。トランプ政権しかり、イスラム圏しかりである。(中略)妊婦や女性専用車両等に対する執拗な抗議、(中略)インターネットでの女性叩き、これらに一定数の女性が関与していることも当然あるが、それでも男の暴力性の発露であることに違いはない。
(211p)


 はいお疲れー
 相手を追いつめるだけ追いつめておいて、少しでも逆襲に出たら「やはりあいつらは根っから攻撃的な劣等種族だ」などと絶叫する、それが男性学です。
 後者(男性の草食化)はあっさり否定され、前者(人間は被食者である)に至っては言いっ放しで終わっています。まあ、前者について敢えて忖度すれば「もう被食者じゃないんだから、暴力性を捨ててもいいじゃん」と続けたかったのかもしれませんが。
 これ以降、とにかく女性の身体性(というか身体性に対する敏感さ)への羨望がこれでもかと延々延々延々延々と語られます。繰り返すようにぼくはそこについては否定する気はないのですが、終盤にかけては「性生活のパートナーも二次元キャラやアンドロイドでも当然構わないし、そうした未来の到来は存外早いと思われる。(214p)」などといったテンプレ*2に並んで、「女性がイルカを出産し、育児を開始する」、「マグロやサメを産んで自分たちで食すればいい(それぞれ214p)」といった女性の手によるキモすぎるジェンダーSFみたいのを称揚し、以下のようにおおせです。

男性の出産可能性は村田沙耶香の『消滅世界』や『殺人出産』でも描かれているが、こうした女性の作家やアーティストが描く未来への耐性を、男性は今から養っておく必要がある。既存の倫理観を堅持するオラつきを弱体化し、受け入れる基体となる身体を作るのである。
(214p)


 何でそんなことをしなきゃならんのか、さっぱりわかりません。
 わかるのは師匠の目的は「既存の倫理観」の破壊であるという、その一点だけです。
 実のところ中盤ではY染色体が劣化してるだの何だのという話題を持ち出してもおり(参考文献にはピンカーの名もあり、彼ら彼女らの多くが理系嫌いな中、異彩を放ってはいます)、「人間のオスはY染色体とともに近い将来、耐用年数を迎える可能性すらある。(211p)」とも指摘しているのですが、にしてもそんな切迫した状況なんですかね。これら生物学的知見にどれだけ信憑性があるのか、ぼくにはわからないのですが、師匠は以上のような理由から「女性軍の勝利」を固く信じていらっしゃるのでしょう。

 女性がさまざまな効用から生物学的な身体をコントロールしているのなら、男性も性欲や攻撃性を薬剤でコントロールすればよい。見境のない他者への性欲が緩和されれば、単純に性被害を減らすことにもなるし、アダルトコンテンツを見ている時間を有効活用できるメリットにもなる。
(215p)



 余計なお世話です。それより腐女子とホモがウザいので何か注射して、あいつらを「治療」してください。

 こうした選択肢は既存の男を降りることでしか見えない世界であり、その経験の裾野には豊かな余白が残されている。にもかかわらず、そうした選択を辺境に起きる小さな問題として片付けようとしてしまうとき、その欲望こそがすでに耐用年数を越えた男の欲望かもしれないことを自覚してみる必要がある。
(215p)


 本稿の最後の文章です。
 上のような出産のテクノロジー化についての下りを読むに、師匠は女性のジェンダーをも解体しようとしているのかもしれません(これ自体はサイボーグフェミニズムみたいなのが語る定番で、独自性のある主張ではありません)。
 が、やはり見ていて感じるのは、何が何でも男性そのものを解体したいという昏い情念。
 前回の金田澁澤両師匠の対談は、二人が「男たちが女を欲しがっている、迷惑だ、迷惑だ」と繰り返す度に、先方の男への飢餓(正確には「男に求められるワタシ」という幻想)ばかりが感じられる、という奇観が展開されていました。
 同様に本稿では(否、あらゆる「一般信者」の論文では)「男性性を受け入れられないキヨラカなワタシ」と繰り返される度に、先方の「男を戮したいというマチズモ」ばかりが感じられる、という奇態が観察されることになってしまいました。
 時々持ち出しますが『神聖モテモテ王国』という漫画があります。宇宙人(……???)と眼鏡の坊主頭というどう転がってもモテそうにない二人組が毎回ナオンをナンパしては失敗するというギャグ漫画なのですが、この宇宙人、ファーザーはナオンにモテたいと思う一方で男というものを激しく憎んでいます。相棒の眼鏡坊主、オンナスキーが何かの間違いでモテそうになると、その殺害を企む始末です。
 さて、この稲垣師匠の名言の数々をファーザー、或いはまた勝部元気アニキが書いているものだと想像してみるといかがでしょう。驚くほどぴったりくるのではないでしょうか。
 我こそはただ一人、時代の最先端に到達して「男はその存在自体が消えるべき」とまで気づいた存在なり。女性様の一番のお側にいる存在なり。しかし俺以外の愚かな男どもはそうした「真理」に気づかぬまま、滅びていくだけなのだ。
 そう、前回も申し上げたカルトの教祖様が、自ら抱える全人類への憎悪に一切の自覚を持たないまま、「新世界の女神」となる様を夢想しているように、彼ら「男性学」者たちもまた、自らのおぞましい憎悪に対する内省を一切欠いたまま、ただ女神さまの命に従い、そして自分の中の殺人衝動に従い、弱い者を殺し続けているのです。

*2 最近、幾度も繰り返していますが、これはフレンチとウナギを食いながらの「貧乏人は牛丼食ってろ」論と全く同じであり、許容できません。しかし、果たしてオタクが、アニメキャラそっくりのメイドロボットを与えられたら満足するか、については詳述する必要がありそうです。
 結論から言えば、そんなことはありえないのです。というのは、「まず、アニメキャラそっくりのロボット」が不気味の谷を越えて製造できるものかどうかが大きな疑問なのですが、それも含め、ぼくたちが美少女キャラに萌える時、そのルックスに即物的に反応しているわけではなく、(そのキャラクターに与えられている内面に萌えていることもまた、もちろんですが、そこからさらに)世界観そのものに萌えている、とでも考える他はないからです。ヴァーチャルユーチューバーに今一萌えないとして、「それは彼女が、リアルな人間のようなしゃべり方をするからであって、物語中のキャラクターのようなしゃべりではない萌えキャラというものに違和を覚える」と分析していた人がいましたが、これはなかなか卓見だと思います(むろん、オタクの中でどれだけキズナアイに違和を覚える人がいるのか、ぼくにはわかりかねますが)。

『現代思想 男性学の現在』(その3)

2019-04-19 19:06:49 | 男性学


 前回、(その1)を戦闘員に、(その2)を怪人に例え、そして今回は大幹部の文章をご紹介すると予告しました。
 しかし考えれば、上の比喩は「一般信者」「教祖」「ご神体」と言い換えた方がいいかもしれません。(その1)でご紹介したのは「シスヘテロ男性」の文章、すなわち「一般信者」であり、彼ら彼女らの「組織」では最下層。いえ、そもそも「男性学」自体が「組織」への勧誘のための『エヴァ』の上映会のようなものでした。
 そして(その2)では「ガイジン」や「トランス」様についての文章をご紹介しました。彼らは男性ではあれ、階級が上の人々でした。
 今回は彼らがさらに仰ぎ見ている「ご神体」をご紹介します。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○澁谷知美 金田淳子 新たなる男性身体の〈開発〉のために

 ――あ、もうタイトルだけでおなか一杯っス。
 お名前を見ただけでお察しの二人組の座談会。とはいえ、表紙を見ても何だかメインコンテンツみたいな扱いですし、ここは多少、深く突っ込んでいきましょう。
 その前にちょっと。
「男性学」の世界では「男は感情から疎外された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレが語られ、ぼくもそれ自体は賛成だ、といったことは何度も(その1、その2でも)語ってきました。それと同時に「男は身体性からも阻害された存在であり、そこを解放すべき」といったテンプレもあり、ぼくはそれにも賛成します。これらは言うまでもなく、拙著における「男/女は三人称/一人称的存在だ」という指摘とぴたりと重なるものですね。が、「男性学」者たちのそれは口先ばかりのものであり、信用ならんということは(その2)のVtuberについて述べた論文を読んでも明らかでしょう。
 タイトルからもわかる通り本稿もまた、この後者のテンプレを前提したロジックが展開されるわけですが、さて、どうなりますやら……。

澁谷 なぜ男が快楽を与える側であることが前提になっているのか、ということですね。
金田 そうです。私はそのアホさ加減への憤りからジェンダー研究を始めたところもあるのですけど、とはいえ本当にアホが描いているわけではないでしょうし、(中略)二〇世紀の初めごろには、セックスにおいて男がリードすべきだという盲信に、身体的に根拠があるのだということを医者や知識人たちが大真面目に言っていたわけですよね。
(163p)


 師匠たちは青春時代をバブル期に過ごしたのではないでしょうか。
 ぼくがいつも言うように、当時は雑誌やテレビで「女が強い」「女はセックスにおいても能動的になりつつある」と病人のうわごとのように繰り返されていました。そしてその根拠としてトレンディドラマの女性のセリフが、幾度も幾度も幾度も幾度もびっしりと手垢がついたまま振り回されていた、ということも、何度か指摘していますね。この頃のムードって、今となってはお伝えすることも難しいのですが、ともあれ両師匠の上のようなやり取りが、当時は滑稽ではなかったのです。
 しかし今となっては、かなりの違和感のある物言いなのではないでしょうか。女性は婚期を逃し、婚活に血道をあげるのみ。当時の論調では今頃、男の子はみんな可愛らしくなって女性に主夫として養われてそうな勢いだったんですが、ヘンですねえ。
 これ、事情は欧米でも同じようです。ぼくが時々言及する『正しいオトコのやり方』はアメリカの男性解放運動初期の名著なのですが、ここに収められているフレドリック・ヘイワード「「男の子」は「男」に」では、コンパで男子生徒に女子生徒への働きかけを禁じてみた、という実験が述べられています。そこでアプローチしてきた女子生徒は一人もいなかったという結果を得て、「これでまた一つの神話が死んだ。(195p)」と痛烈に締めくくられています(ちなみに、この実験自体がいつのことか判然としませんが、原著が出たのは1985年のことなので、その頃だと思われます)。
 もう一つ、両師匠を見ていていたたまれないのは、彼女らが腐女子であり(あ、澁谷師匠は違うのかな)、上のような文脈でBLを持ち出し、ドヤっていること。
 ぼくはキホン、腐女子の悪口は言いたくないのですが、それでも腐女子がモテる女か、能動性、男性性を獲得した女かとなると、それは……と言わざるを得ない。しかしそこについて、両師匠は驚くほどに屈託がないのです。
 2009年、「草食系男子」という言葉が流行っていた頃、便乗本で『肉食系女子の恋愛学』とかいう本が出ました。著者は桜木ピロコ師匠といういかにもな女性ライター。師匠はそこで(当然、当時としても古すぎるバブルな強い女性像が語られているのですが、その一端として)BLを紹介し、「腐女子たちは男たちを性的消費の対象にしている。女が貪欲に、肉食になっているのだ」とドヤっていました。が、腐女子というものの実態を知るぼくたちから見ると、「おいおい」と言わずにはおれない。腐女子は「私は責めに感情移入しているのだ」と自称する傾向にありますが、それも虚栄心からの嘘であろうことを、ぼくたちは直感的に知っているのですから。
 また、ピロコ師匠の本はまだそれほど腐女子という概念が人口に膾炙してない時期に、一般ピープルに向けて、騙し通せるだろうと踏んでその話題を持ち出してきていたのに対し、金田澁谷両師匠は今の時期に、当事者でありながら臆せず振り回すのだから、見ていてはらはらします。両師匠は「男の身体に興味津々の肉食系女子」とでもいった「キャラ付け」で座談会を行っていますが、上に書いたように腐女子のマジョリティは決してそうではない(し、そのことはオタク男子にはバレてしまっている)のですから。
 いくら何でも平成も終わろうという世の中でいまだ「強い女」像を、しかも一番演じちゃいけない人たちが演じているという場面を目撃して、何だか「映画本編の前にニュース映像を流している映画館がいまだある」と知った時のような驚愕を覚えずにはいられないわけです。

 ――ちょっと、解説が必要かも知れません。
「果たして腐女子は、男の肉体に欲望を抱く、能動的なセクシュアリティの主か?」。
「BLというテキスト」を根拠に、それを肯定するような論調が一定、ある。しかし「腐女子というナマモノ」を見てみると、それは違うんじゃないかと考えざるを得ない。
 ぼくの知りあいの腐女子で、オッサンキャラにメイド服を着せるのが好きなヤツがいました。田亀源五郎先生……ほどリアルな絵を描くわけではないけれども、まあ、感じとしてはそんなのを連想していただいて結構です。しかし、では、彼女は田亀的なキャラの肉体性に「欲情」していたのかとなると、それは十中八九、そうではない。オッサンにメイド服を着せる行為自体に「男の肉体性の滑稽さを笑う」という目的が秘められていることは、否定できません。何しろ、その腐女子は一方で女性のヌードを描き、「男の裸より女の裸を描く方が楽しい」とも言っていたのですから。
 恐らくですが、オタク男子はかなりの高い比率でこれに近しい見聞をしているのでは、とぼくは思います。
 言うまでもなく腐女子はシスヘテロ女性であり、男と女で、美しいのは女の肉体だと考えている。男の娘などを例に挙げるまでもなく、二次元では「女性より美しい男性」の描画も容易ですが、それはあくまで「女性性をまとった男性」であるからこそ。だからこそそうしたものを描く腐女子が多いわけです。ひるがえって上のオッサンのメイド服を描いている腐女子はオッサンを美しいと考えているのかとなると、そうではないことが、それに続き引用した言葉からもわかる。
 金田師匠は

 異性愛ものに限らないとすれば、BLには、暴力的なものもありますが、思いやりをもって向かい合うセックスを、二人の関係性の変化を絡めつつじっくり書くものが多いですよ。
(170p)


 とおっしゃっていますが、何をまあ、よくぞここまでいけしゃあしゃあと、と言わずにはおれません。腐女子はレイプものが大好きだし、前にも書きましたがぼくは(美少女ものも描く)腐女子の「残酷なネタも女の子で描くのは可哀想だが、男の子なら描ける」という主旨の言を複数人から耳にしています。
 BLとは「全てを男に負わせる」という女性ジェンダーの行き着く果ての表現でした。もちろんフェミニストとは違い、腐女子は実際の男児への性被害についてまでは肯定しないはずですが……(リンクと本文とは一切関係がありません)。
 しかし、両師匠はそんなこちらの疑念は歯牙にもかけず、男の肉体性について嬉々と語り、「男の性を消費する女」という自己イメージをあどけなく吐露し続け、はた迷惑な男性ヌードの資料画像を挿入する。
「男の乳首について語るイベント(何だそりゃ)」に来た男女から統計を取ったら「男の乳首を舐めたことのある」女、「乳首を舐められて感じた」男が七割いたとか、もう心の底からどうでもいいハナシを延々延々延々延々延々語り続ける。
 これらは最初に書いた「男は身体性を取り戻すべき」とのテーゼから出発し、そのテーゼを解決する処方箋として、ドヤ顔で持ち出してきたものであるわけですが、しかし上の腐女子についての考察を踏まえると、やはり一種のポーズであるとしか思えないわけです。

 金田師匠は(渡辺直美など、女性の中に太っていてもいいという価値観が生まれつつあるという事例を出して)

 男性のほうも「太っていても、貧弱でも、背が低くてもいい。他人と比べなくてもいい。自分の身体は愛おしいものだ」という流れに向かうこともありえたかもしれませんね。
(173p)

 ただそれよりもまずは包茎も含めて男性が自分の身体のあり方をもっと肯定できるようになればいいなと、やはり思いますね。
(179p)


 などと世にもテキトーなことを垂れ流します。
 繰り返しますが、ぼくは「男も身体性を取り戻せ」との掛け声そのものは賛成します。しかし彼女らの言に、どれだけ価値があるのでしょうか。
 斜陽のテレビは、ただひたすら女性に媚びるだけが生き残り戦略ですから、独身のブスやデブといった弱者女性たちに「そのままでいいんですよ」と甘言を垂れ流すコンテンツを大量に送り出しています(ぼくはあんまりテレビを見ないのですが、それでも伝わってきます)。上の「太っていてもポジティブな女像」というのもそれで、一つには「単に弱者女性への甘言」であり、もう一つは視聴者の女性に優越感を持たせるための「自分よりもブス」枠なんじゃないでしょうか(渡辺直美さん、明らかにそれっぽいですよね)。

 対談は次第に、「非モテ男性論」とでも称するべきテーマへと移行していきます。
 しかしなされるのはミニマリスト(できるだけモノを持たないで生きていく主義の人)を礼賛するだけの、お気楽なもの。そう、もうぼくが無限回数繰り返している、フレンチとウナギを食いながらの「お前らは牛丼食っとけ」論ですね。
 澁谷師匠は上野千鶴子師匠の「マスターベーションをしながら死んでいただければいいと思います」発言が叩かれたことが不当であるとし、

上野さんは生身の人間とセックスをしたいという欲望には「抑圧と支配の欲望」と「コミュニケーションの欲望」の二種類があって、前者にかんしては「そんなものを社会が保証してあげなければいけないという「性的弱者の権利」なんかない」と言っており、後者にかんしては「愛し愛されるためのコミュニケーション・スキルを磨いていただくしかない」というきわめて当たり前のことを言っているにすぎない
(176p)


 などと平然と口にします。まさにフェミニズムが男への憎悪だけを根拠にした思想であることが明瞭に示された名文です。
 確かに、「コミュニケーション・スキルを磨くしかない」は正論かもしれません。しかし両師匠はこれ以降、「男どもは自助をせず助けろ助けろとほざきみっともない(大意・176p)」と腐しますが(ではフェミが莫大な国家予算をぶんどっているのは何だ)、そもそも恋愛においてコミュニケーション・スキルが要求されるのは専ら男ですよね。それは上野師匠自身が以前に言っていたことすら、あります*1。また仮に、もし両師匠が夢想するように女性が積極的になっているのなら、そうしたバイアスはなくなっているはずなのだけれども、実際にはなくなっていない。
 結局、自分たちは「女は強い、女は強い」と根拠の怪しい妄想を振り回し、しかし男女格差(女尊男卑と言っても、ぼくの嫌いな言葉ですが男性差別と言ってもいいのですが)はひたすらに無視して男の(女が強くなっていないからこそ出てきた)主張をねじ曲げ、荷を背負わせたまま、みっともない、不当な要求をしているのだとインネンをつけているだけなのです。


*1 チェリーボーイの味方・上野千鶴子の“恋愛講座”


 両師匠はまた、「メディアが幸福な独身男性像を発信していない(ことが悪いのだ)」などとも言います。「四〇代以上の異性愛男性が恋人も妻もいないけれど充実した毎日を送っているというような作品(177p)」というのが全く思いつかないそうなのですが、それはフェミニズムの成果として、「必ず、女を出さなければならなくなったから」でしょう。そう、横山光輝とかその時代の漫画を見ると、本当に女は全く出てこないのが普通だったり(下手すっとBL的に、「少年」が一般的な「女性」の性役割を果たしていたり)します。そこを女性の社会進出が絶対正義なので、男性向けの漫画にも女性がいっぱい出るお約束になったと、ただそれだけのことです。昔の作品をリメイクした時、よくぶっ込まれますよね、新しい女性キャラが(一方で女性性が「相対化」され「紅一点」の図式が崩れ出したことも時々指摘していますが、冗長になるので今回は置きます)。
 一方、何でも「幸福な独身女性像」を描いたコンテンツというのはいくらもあるのだそうな(176p)。まあ、女流漫画家などにはフェミが多いから、そうした女性像(何か、独身でも男を蹴落としてバリバリやってるキャリアウーマンの漫画とか)が多いのは事実でしょう。しかし、圧倒的多数は男にモテることを楽しむ漫画でしょう。藤本由香里師匠の漫画論とかもそうですが、この人たちって膨大なテキストから自分のお気に入りのものだけを取り出してさあどうだとドヤっているだけなので、何とでも言ってしまえるんですね。
 結局、本稿は専ら「男を貶める」という目的のためにロジックが展開されていきますが、それを分析していくと、根拠がないのは言うまでもないとしても、「フェミニズムは結婚制度、恋愛そのものを否定することで弱者女性をも追いつめているのだ」ということがつまびらかになっていくばかりなのです。これはこれで極めてエキサイティングな対談と、言わねばなりませんがw
 最近も漫画家の松山せいじさんがツイッターで「女性のひきこもり」が「家事手伝い」という名前の後ろに隠れ、可視化されていないので親の死と共に大問題になってくるだろう、との指摘をしていました。そう、女性が秘めている問題というのは一つにフェミニズムが自分にとって都合が悪い故に隠蔽し、二つ目には女性本人の虚栄心、三つ目に男性の女性への遠慮という心理が働くため、表に出てこないんですね。例えば「高齢処女」というのは「高齢童貞」よりも闇が深いと言われますが、ならば「高齢処女」の調査をお前がやれ、取材とかしろと言われても、気後れしてちょっとできませんよね。そうした事情が「女は元気でモテるので、非モテ問題など抱えていない」という耳に快い空論にすり替えられていっているのです。
 フェミニストたちはそうした女性こそを救うべきだと思うのですが、まあ、それができればフェミニズムとは言えません。結婚もセックスも全否定するのがフェミなのですから。

 さて、言わばミニマリズムに相対する概念としての、インセル(的なるもの)も話題に上ります。

金田 「女を手に入れることだけを考えて三〇年、四〇年生きてきたのに、いまさらそんなことを言われても取り返しがつかないんだよ!」ということ?
澁谷 そうです。(以下略)
(175p)

金田 そのことに関連して、ネットなどでよく目にする「非モテがつらい」言説などを見ていて私が思うのは、もちろん女性でも非モテがつらい、恋人がほしいと思っている人はいるのですが、それで「私を選んでくれない男のせいだ!」といって男を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんです。ところが男性の場合「俺が非モテで選ばれないのは女がわがままだからだ」と言う人がすごく目立つ。
(175p)


 奇遇です。ぼくも「私を選んでくれない女のせいだ!」といって女を憎みだす人というのをほぼ一度も見たことがないんですが。
 いつも繰り返している通り、これは「女は主夫など養わない、ならば女に主婦に収まってもらった方がいい」というネット世論が彼女らの目を透過したがため、情緒によるノイズが混じりこんで歪められてしまったものでしょう。
 そもそもそこまで男が女にがっついてれば、男性向けの恋愛マニュアル誌って今も毎週出てますよね。一方、女性向けの結婚情報誌って驚くほどに分厚いんですが。ここからは逆説的にむしろ、「男のそういうところだけを執拗に執拗に探し出し、ガン見している被愛妄想者のストーカーぶり」が立ち現れています。「男たちが私を求めている、求めている!!」と彼女らが叫ぶ度、どっちがどっちを求めているのかが、いよいよ露になるという、フェミニストおなじみのの自爆芸です。
 一方、「男を憎む女性がいない」という物言いも、当ブログをお読みのみなさんにしてみれば、失笑をもって迎える以外、手のないものかと思われます。ここ三十年来、あれだけ「いい男がいない」と女の喚き声が聞こえてきたのは幻聴だったんでしょうか。「草食系男子」という言葉からして、そうした罵倒語として解釈されることの方が、むしろ多いですよね。
 要するに、「高齢処女」の話題の時に挙げた女性の虚栄心、男性の遠慮がフェミニズムを肥え太らせ、マジョリティ女性を苦しめているのです。それは「テレビのブス向けコンテンツ」を鑑みても、そしてこの両師匠の振る舞いを見ても、明らかです。
 そして、彼女らの物言いとは裏腹に、ネット上ではおびただしい「男を憎む女」たちが惨憺たる有様を見せています。いえ、確かにそういう女たちは「モテないから男を許せない」とは明言せず、「女性差別」、「男の性犯罪」を批判するというテイを取っています(もちろん、それを言えば「モテないから女を許せない」と明言している男性も、先に書いたように見かけないのですが)。しかし、フェミニストのそれと同様、彼女らの糾弾する対象には非常に往々にして実態がない。ならば彼女らが本当に憎んでいるものが何かはもう、お察しなのではないでしょうか。
 両師匠は「結婚したい男たち」、「女が手に入らないが故に女を憎む男たち」というトピックスについて極めて饒舌に語り続けますが、裏腹に女性の婚活ブーム、専業主婦願望についてはついぞ語ろうとしません。当たり前です、語ったら自説が崩れてしまうのですから。

 こうして、前回も今回も、とにもかくにもフェミ、男性学側の主張には理がなく、一方で彼ら彼女らが理がないとしている反フェミの主張には、理がある、そして反フェミが提示している主張の根拠すら、フェミ側が隠蔽しているようにしか思えない、そんな惨状ばかりが映し出される結果になってしまいました。
 しかし……彼女らの物言いは驚くほどに上から目線であることに加え、何だか自己陶酔的です。先の上野師匠の問題発言を擁護した上で、澁谷師匠は続けます。

恋愛やセックスにかんして「自分(たち)で解決せよ」と言われた際に男たちが見せるヒステリックな反応は研究に値すると思います。
(176p)


 続いて金田師匠も。

たしかに「なぜ女がケアをしてくれないんだ」という不満がありそうですね。
(176p)


 彼女らは口では脱恋愛、脱結婚を語っているが、情緒のレベルでは、実はそうではない。
 フェミニズムの本質は「性犯罪冤罪」である、そして「女災」とは「性犯罪冤罪」を広義に解釈した概念である、とはぼくが常に述べていることですが、さらに言えばこの「女災」の本質は上にも述べた「被愛妄想」です。彼女らは現実を歪めることで、「男たちに求められる」というポルノ的幻想を体感している。だからこそ彼女らは楽しそうであり、また恐らくその脳裏には「幼い、駄々っ子のような男を癒す、女神のような女性」としての自己イメージが結ばれているのではないでしょうか。それは

そうですね。私が『平成オトコ塾』の包茎の章で伝えたかったのもまさに「自分の体を愛してあげよう」ということだったんです。
(179p)


 などという澁谷師匠のお言葉からも明らかです。
 では、お二人は(言っていることの妥当性は置くとして)悪意のない善人なのでしょうか。
 いえ、自分が悪意を持っているということの自覚ができずにいる、とでも表現するのが正しいのではないかと思われます。
 澁谷師匠は包茎手術の失敗でペニスがズタズタになった男性を著作で笑いものにしている包茎手術マニア。一方金田師匠がどんな方かは、当ブログの愛読者の方はご承知の通り(リンクと本文とは一切関係がありません)。男性への悪意がないと言われても、信じろという方が無茶です。もっとも、「男性学」者たちやリベラル様たちはどういうわけかあどけなく彼女らを「女神」であると信じていらっしゃるご様子ですが。
 この女神のように慈悲深いワタシという自意識、それを盲信する男性支持者、そして、しかし実際に彼ら彼女らの胸に秘められているのは悪魔のような憎悪、という三点セットは、そもそもフェミニズムの一番の特徴であり、また「終末カルト」と全く同じ構造を持っていることは、以前にも指摘しました*2。


*2 トンデモ本の世界F


 ――というわけで今回は何とまあ、お二人の対談だけで終わってしまいました。
 仕方ありません、次回こそを最後にしますので、もう少々おつきあいください。

■補遺

 今回のトップ画像に「?」と思われた方も多いと思います。
 これは『伊集院光深夜の馬鹿力』のコーナー、「クワバタオハラのうちらに任せてや」をイメージしたもの。あくまで伊集院のラジオのコーナーであり、実際にある番組ではありません。今回のテーマにまさにふさわしいと思い、選びました。とは言うものの、ちゃんとした説明には時間がかかるので、よければ聞いてみてください。




『現代思想 男性学の現在』(その2)

2019-04-13 01:54:01 | 男性学
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 まずはお知らせです。
 青眼鏡、白饅頭たちによるラディカルフェミニスト礼賛がステキな動画になりました。




野原ひろし リベラルの流儀 第1話 真のフェミでガッツリ!


 みんなで見よう!!
 ……というわけで、さて、続きです。
 初めての方は前回記事から読まれることを推奨します。
「男性学」については今までも幾度も述べてきましたが、このタイトルを見ては採り挙げざるを得ない……ということで始まりました本エントリ。前回は伊藤公雄師匠、田中俊之師匠などこの業界の大物(……?)たちの、読む前からお察しな千年一日の文章をご紹介しました。まあ、「基本編」といった感じですね。 今回は変化球というか、「男性学」にとっては「やや周縁」、「やや異端」な人たちの文章を集めて批評してみよう、という趣向です。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。
 また、(これは前回も同様で、その時にお断りしておくべきでしたが)男性学の研究家を男性学者と書くと「男性の学者」を指しているみたいで紛らわしいので、「男性学」者と表記します。

○フランシス・デュピュイ=デリ 男らしさの危機、あるいは危機の言説?

 前回では本特集を評して、ネット世論などの「本来、相対すべき主張」に反論しようとしていない、と述べ続けてきました。そんな中の数少ない例外が本稿です。
 え~と、この人、何者か知らんのですが、フランシスっていうところ見るとフランス人ですかね?
 あ、違う?
 とにかく「英語圏以外の欧州の人」っぽいところが何とはなしにありがたみを感じさせますが、とにかくわざわざ外国からお呼びしたこの人の主張がまあ、何というか、非道いもの。要するに「ネット世論」に対して抗するべき言葉を持たない「男性学」者たちが泣きながらガイジン様に泣きついたものの、そのガイジン様の口から出てくる言葉も無残の一語……とまあ、ぼくの目からはそんな風に評する以外、どうしようもないものなのです。
 表題はこのフランシス師匠の著作のタイトルで、本稿はその一章を抜き出してきたものだそうですが、内容としては昨今「男らしさが危機を迎えている」との言説がはびこっているとの認識を前提して、それについて反論していくもの。何でもアメリカなどではこの種の「男らしさの危機」について書かれた本が何冊も出ているとのこと。
 しかし師匠の反論は、その種の本は「文学的テクスト群に示されているもの(78p)」が根拠になっていることが多いのでダメ、「しばしば映画を参照する(79p)」のでダメといったもの。つまり敵の主張は根拠が小説や映画だからダメだ、というのがこのフランス人(とは限らんって)の子供めいた主張なのです。それじゃあ小説を読みながら腐女子がBL妄想をこじらせてるだけの『男たちの絆』なんて全否定なんでしょうなあ。
 面白いのは上のような「男らしさの危機」本では、日本の「草食男子」にも言及がなされているということです。それに対してのこのフランス人の反論は、日本の政治や経済の重要なポストに女がおらず、またこの種の本は「資産、住居所有権、家事や育児における異性間の配分に関して少しの詳細も提供しない(80p)」からダメだという、バッカみたいなもの。イヤミ君、日本では(国際的には例外的に)主婦が家計を握っているって、知ってます?
 あ、すみません、わかりにくかったと思いますが、今のは「フランシス」師匠をフランス人だと決めつけ、しかもフランス人だから「イヤミ」だと思い込んでいる、というギャグです。
 何にせよ、「男が虐げられてるなんて嘘だも~ん」という言い訳は、今まで「男性学」者によってなされ続けてきました。それらは「男がどれだけ過労死しようとも、ホームレスの圧倒的多数が男であろうとも、エラい人が男である以上、男のエラさは揺らがない(キリッ」という幼稚園児のような理論でした。それではネットの弱者男性による世論に抗しきれず、イヤミ君に理論武装を外注してみたものの、別段、言うことは変わらなかったというのが、本稿のおそ松なオチです。そしてイヤミ君は「アリバイ証明は終わった」とばかりに、後は延々「男らしさの危機は主観にすぎない」と繰り返すばかりです。
 しかし、主観性をよしとしてきたのは何よりフェミニズムだろうというツッコミはおくとして、上にホームレスなどの例を挙げたように、実際のところ、その「主観」は全て「客観的事実」に基づいているものであることは、自明なのです。本稿は先行する書籍への反論という体裁をとっており、ぼくもそれらの本を読んでいないので断言はできませんが、それらにそうしたデータが挙げられていないというのはちょっと、考えにくいのです。
 そもそも、根本的なことですが、本稿では繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しこの「男らしさの危機」という言葉が繰り返されるのですが、その内実は、ふわっとしていて、判然としません。以前、ぼくは日本のフェミニストたちが「女をあてがえ論」という「存在しない主張」を仮想して、男性側を攻撃していたことを指摘しましたが*1、この「男らしさの危機」という概念もまたそれと同様に、このイヤミ君の目に映るふわっとした「政敵」の像にすぎず、本来の論者の姿を正確に捉えたものではないのでは、との疑いを禁じ得ません。
 以降もイヤミ君のうわごとは一行一行がフェミニズムへの鋭い批判になっており、抱腹絶倒。

 単なる言説が問題となっているからといって、男らしさの危機についての主張が現実に対して効果を持たないというわけではない。コミュニケーションの専門家たちは、政治的社会的な勢力が、自分たちに有利な資源の流用を促進するために、危機の言説にしばしば依拠することを喚起している。
(82p)

危機についての一言説は、たとえ本物の騒動がなくとも、たとえシステムが本当に揺り動かされたり脅かされたりしていなくとも、信じるに足るものと思われることができる。
(82p)


 まさにmetoo運動、性犯罪冤罪への鋭い批判ですね。

 われわれ――男性たち――が危機に瀕していると宣言することは、われわれについての注意を喚起し、諸処の権力機関がわれわれによりいっそうのサービスと資源を割いてくれるように、それら機関に圧力をかけるという効果を持ちうる。
(82p)


 そう、フェミニズムはそうした手法により、ぼくたちから軍事費に勝る予算を剥奪しました。 とにかく「男らしさの危機」の言説が現実に影響を及ぼしているぞ、及ぼしているぞと繰り返しているのですが、その前の、「男らしさの危機」に根拠がないとする言説が極めて薄弱。当たり前です、「男らしさの危機」はあるのだから。だからイヤミ君はふわっとした観念論をもてあそぶしかないわけです。

 加えて、男らしさの危機の言説は、たとえ社会において男性たちがいまだにあまりにも明白に支配的であるとしても、フェミニズムと解放された女性たちが体現する脅威に抗して男たち(さらに潜在的にはいくらかの女性たちも)を動員するための道具である。(84p)

 男らしさの危機の言説はしたがって、至上主義者の論理に属するのであり、それゆえに一九七〇年代にフェミニストたちによって提起された「男性優位」や「男性至上主義者」といった表現や、クー・スラックス・クランのようなグループの白人至上主義に反応したアメリカの反レイシストたちを再び取り上げるのは、適切なように思われる。(中略)最後に、男性至上主義は概して女性に対して、そしてとりわけフェミニストに対して、軽蔑と憎悪を助長する傾向もある。
(84p)


 はい、また本音が漏れました。ただ単に「フェミに逆らうからムカつく」と言っているだけです。「男性学」は「フェミ言い訳学」と言い改められるべきでしょう。
 ともあれ、この稚拙な論文は八田師匠の「インセルはトランプ支持者だ、そうじゃなきゃ嫌だ!!」とのファビョり*2と「完全に一致」していると言わざるを得ません。 ちなみに、引用中、アンダーライン部は原典では傍点です(以下同)。この「至上主義」の意味は今一わかりませんが、文脈からするに「(男性)優越主義者」みたいな、もっとどぎつい意味あいが込められているのではないでしょうか。
 もっとも最後の節においては、一応、もうちょっと具体的な反論が試みられています。『男性の終焉』という本を著したハンナ・ロージンは「いまだエラい人は男が多いが、それは時差であり、それよりジェンダーにおける華々しい変化があったことが重要だ(大意)」と言っているそうです(85p)。この女性がどういう人物かは知りませんが、何だかフェミニストが言いそうなセリフって感じもしますね。要するに「(男性の方がトクをしているというフェミニズムの世界観を仮に正しいとして、その上で)仮に男女平等が達成できていないにしても、フェミによるパラダイムシフトが男性を脅かしていることは事実だ」とでもいった主張を、彼女はしているのです。しかしイヤミ君は相も変わらず、それに対して「でもまだ男の方がエラいんだ、エラいんだ」と泣きじゃくるばかり。
 もう一つ、ダニエル・ワルツァー・ラングという社会学者、当初はフェミだったのが転向した人物だそうですが、この人は「男性には輝かしいモデル、イメージがなくなっている(大意)」とのまっとうな主張をしています(86p)。これに対してもイヤミ君はオウムのように同じ反論を繰り返すばかり。「現状を見るに女性の社会進出が成就するまで千年はかかろう」などともおっしゃっていて、どうも皮肉のおつもりらしいのですが、それは単純にフェミの「理念」か「方法論」かどちらか(あるいは両方)が間違っていた、ということではないでしょうか。
 ちな、このラング氏はセクハラで訴えられ、証拠不充分で釈放されていると言います。そりゃ、状況からみてどう考えてもやってるということなのかもしれませんが、釈放された者に対してこういうことを得意げに書くってどうなのかなあ。表現の自由クラスタも自分の意に反するフェミに対しては、保守寄りの団体で講演したの何のと大はしゃぎで書き散らしますが、それを連想します。
 とにもかくにもイヤミ君は馬鹿の一つ覚えで「エラい人の女性比率が少ない」と指摘し、「こっちは数字を挙げているぞ、相手は感覚でものを言っているだけだ」と泣きわめくだけ。そして「男らしさの危機」論者は「男性のパニックをあおるために……。(87p)」それをしているのだ、とまで言い募ります。いくら何でも卑劣すぎるのではないでしょうか。

 彼の滑り坂論法の主張に従うなら、男らしさの危機の言説とはそれゆえ一つの「新しい代案」、時宜を得ないフェイクニュースである。「男性たちが現在抱える不安」は、幽霊への恐怖に似ている。人々は存在しない何ものかについてパニックを起こしているのだが、ぺてん師たちや布教者たちは、われわれがパニックになるだけの理由を持っていると証明したがっているのである。
(87p)


 まさに全てがフェミへのブーメランです。
 この「滑り坂論法」というのは「男らしさの危機」論者の主張で、先にも述べた、「フェミニズムのもたらした変化により社会は不可逆の流れを持った、それこそが男らしさの危機だ」というものらしく、正論としか思えないんですが、イヤミ君は自分を差し置いて相手をペテン師だとまで口汚く罵るばかり。 てか「男らしさの危機」が幽霊であるなら、そもそも「男性学」って必要ないんじゃないでしょうか。

 客観的事実(物質主義)と主観的知覚(観念主義)との間では、もしそのおかげで人々が擁護し売り出そうと努めるまことしやかな主張を正当化できるなら、第二のものを選ぶほうが良いらしい……。
(87-88p)


 この無残極まる論文の最後の一文です。 一つだけわかったのは、この地上で一度たりとも客観性を保証したことのないフェミニズムという学問、否、カルトの信者は、「我こそは客観主義なり」と泣き叫んでいる滑稽な人々である、ということでしょうか。
 シェ~~~~ッッ!!(最後に無理矢理入れてみました)

*1 男性問題から見る現代日本社会
*2 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む

○海妻径子 CSMM(男性[性]批判研究)とフェミニズム


 これまた、日本の研究者ではありますが、話題は海外事情についてです。
 まず北米の「男性学」誕生の経緯について述べて、当初はフェミの傀儡から始まったが、抵抗勢力としてファレルなど反フェミ的な層が出てきたのだとしています。そして、そうした勢力は「いわゆるオルタナ右翼の一部を構成しているとも考えられるが(94p)」。
 あっ、はい。
 この種の運動は「(New)Male Studies」と呼ばれ、「"I feel(私は…と思う)"の多用、言い換えればある種の「感情の共同体」の構築が試みられることが指摘されている。(94p)」と、海妻師匠は指摘します。イヤミ君の主張と全く同様ですね。しかし『男性権力の神話』の名を挙げながら「主観だ、主観だ」と繰り返すのだから、イヤミ君よりも悪質と言えるのではないでしょうか。
 ちな、Hernという人物の言葉として、以下のようなフレーズが引用されています。

もはや男性それ自体がジェンダー化された存在と認識されるだけではなく、彼らあるいはその一部が、福祉システムが対応あるいは何らかの理由で対応しないジェンダー化された社会問題であることも、次第に認識されるようになってきた。暴力、犯罪、ドラッグ、売春、事故(を起こすこと)、(暴走)運転、そしてまさにそれらを性暴力として認めるのを拒むこと。
(97p)


 またHearn(上のHernとは別人なんですかね)は、「「男性」を「ジェンダー・システムにより構築された社会的カテゴリーであると同時に、集合的・個人的な社会実践の支配的エージェント」と定義(98p)」しているそうです。 もう、これぞフェミニズムという憎悪と破壊と死と呪いの思想の本領発揮の無残さ、陰惨さですが、考えると森岡正博師匠も似たことを言ってましたね*3。或いは上のをマネしているのかもしれません。

 AMSA(引用者註・全米男性協会)が大会のキーノート・キースピーカーに非白人、外国人やゲイ、そして「女性」を意図的に選ぶようにしてきたのは、「自らの経験を専有しない」「自らの経験に対する自らの意味付けを疑い続ける」、いわば脱構築的当事者主義とでも呼ぶべき実践だと捉えることができる。
(100p)


 本稿の最後の節にある一文です。「脱構築的当事者主義」とはまた、千両なコトバではありませんか。これは「絶対に当事者になってはいけません主義」とでも言い換えられるべき言葉でしょう。
 この愚かしい選択の裏には「男はずっと当事者として威張り続けてきた」という前提がありましょう。しかしファレルが指摘するように「男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった*4。少なくとも情緒のレベルにおいての当事者は常に女性でした。フィクションで女性が被害者になるのはそれ故です。悲しむ権利を持っているのは女性だけなのだから、男性が悲しんだところで観客の共感を得られないから、です。
 本特集に登場した「男性学」者たちが「男も感情を発露すべき」といった主張をしているのだから、そこには一応、上のような考えが前提されているはずなのですが、しかしいざ男が感情を発露させようとする度、「女性様のお気持ちを慮れ、慮れ」という圧力がそれをもぐら叩きのように叩き潰す。その一連のマッチポンプの過程こそが「男性学」の本質だったのです。

*3 拙著で採り挙げたのですが、読み返すと森岡師匠が直接言っているわけではありませんでした。師匠が最終チェックを行い、また師匠のブログで大々的な紹介がなされている大阪府立大学大学院の人間社会学研究科の「女性専用車両の学際的研究 性暴力としての痴漢犯罪とアクセス権の保障」というレポート、恐らく師匠が指導したと想像できるものの記述です。「フェミニズムは男性の性欲を批判してきた云々」といった文章の脚注として、

また、ここでの「男性」とは、性差別(社会的男性の優位性・女性の劣位性)の存在する社会において、男性として身体的に範疇化されていることからその優位性を当然のこととし、それを根拠に(またそのような社会体制を維持するために)女性を搾取する集団を指す。


 などと書いている非道いものです。
*4 男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問(その2)

○藤高和輝 とり乱しを引き受けること

 あ、この人は日本人で多分、ヘテロセクシャル男性。では何故今回ご紹介したのか。後で述べますので一応、そこを念頭に置きながらお読みください。

それ(引用者註・男性学やメンズリブ)はフェミニズム運動に対して、「男もしんどいんだ」と不平不満を吐き散らし、同情を乞い求める実践ではない。それはむしろフェミニズムとともにあるような運動であるだろうし、そうであるべきである。それは男性側からのフェミニスト的応答であり、したがってフェミニズムと断絶した試みではなく、その連帯を模索する試みであるはずだろう。
(127-128p)


 あっ、はい。

私はいまでも、フェミニズムとはじめて出会ったときの喜びを鮮明に覚えている。それは私が普段抱えていたジェンダーという謎にはじめて応えてくれた知であり、そして「あなたは男らしくある必要はないのだ」というメッセージを与えてくれた。ベル・フックスの「フェミニズムはみんなのもの」という主張に、私はどれだけ勇気づけられただろう。私の〈違和〉はフェミニズムとの出会いをもたらしてくれたのであり、フェミニズムは私をエンパワメントしてくれた。
(134p)


 あっ、はい。
 ちな、「エンパワメント」というのは偏ったイデオロギーの主以外にはあまり耳慣れない言葉だと思うので付言しておきますが、「力づける」といった意味です。
『仮面ライダー龍騎』には仮面ライダー王蛇というキャラクターが登場します。悪のライダーで、無抵抗の弱者であろうと陰惨に殺すことを楽しむシリアルマーダーなのですが、ある時獲物を呼び寄せる囮として少女を利用したところ、その少女が王蛇を自分を救ったと思い込んで慕い、ついて回るというエピソードがありました。 想像するに、彼らもまた、同じなのではないでしょうか。
 全世界への、専ら憎悪のみに満ちた思想であるフェミニズムを、信奉者(の、男性)は一体全体どういうわけか「この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」などと理解しています*5
 大体においてインテリというのはひ弱なもので、小中学生の男子のヒエラルキーの中ではいじめられていた。彼の中にはその時の復讐を果たしたいという怨念が渦巻いている。ここで「ジェンダーが何たらかんたらなので男はワルモノ」と言ってしまえば自分をいじめた男たちに復讐ができる。
 それが彼らの中にある共通のモチーフなのではないでしょうか。いや、彼らのターゲットはどういうわけか、彼らをいじめたわけでもない、彼らよりもさらに弱い男性に限られるのですが。
 そして話は何か「アイデンティティの超克など考えてはならず、男性性を引き受け、女性様に謝罪と賠償を未来永劫大江健三郎くらいに繰り返そう」と続いています。いや、ワタシの脚色がかなり施された要約ですが、大体そんな感じです(128-129p辺り)。
 重要なのは上の「アイデンティティの超克など考えてはならない」という部分で、要するに藤高師匠は「シスヘテロ男性*6としての自分というスタンスから逃げるな」と言っているのです。
 ここだけならば、これは正しいと言わずにはおれない。ぼく自身が常に繰り返している、ぼく自身のスタンスでもあります。「ジェンダーフリー」などという呪文を唱えて、敵の目を誤魔化すのではなく、自分の立ち位置から逃げるなと。
 そして藤高師匠はこれ以降、森岡正博師匠の主張を引用し(本特集は「森岡萌え特集」と呼んでいいくらいに、とにもかくにも森岡フェチたちが一堂に会しています)、第二次性徴期の変化への違和という、「ちょっとセンシティブな男性ならば共通の体験」を吐露します。そこまでは結構な話です。
 しかし、上にもあるように、師匠は男を生まれながらの罪人だと考えている。どう理論が展開するのかと思えば、師匠はこれ以降「ボクちん、ジェンダーレスなカッコちてるのでトランス様に共感ちまちゅ(129p)」みたいなことを言い出すのです。あ~あ。
 これはちょっと余談になりますが、師匠はDSMではまだ性別違和が精神疾患とされているが、WHOでは今年になってそれが外されたことを説明(132p)、脚注では「健常者だが保険がきいていい」みたいなことが書いてあるんですね。こりゃ杉田水脈氏も騒ぐわとしか。
 さらに師匠は何たら言う学者の「違和連続体」という言葉を持ち出して、例えば森岡師匠の記述を鑑みるに「シスジェンダー」すらこの「違和連続体」の主であると考えることもできる、などと言い出します。正直「違和連続体」という言葉の意味は今一よく理解できんのですが、要するに師匠は「シスヘテロ男性」だって自分の性に違和を感じるぞ、性に悩んでいるぞ、と言っているのです。
 あ、まんざらでもないかな、と思っていると、「こうすることでトランスジェンダー」を脱病理化することができる、などと続くのだからたまりません。つまり師匠は、「ノーマル」とされる「シスヘテロ男性」の性の悩みを「アブノーマル」とされるトランス様を救うためのダシにいたしましょう、とおっしゃっているのです。「男性というマジョリティに生まれた罪をそそぐため、マイノリティ様に平身低頭せよ。そのためには自らの中にある違和連続体を鑑みることだ」と言っているだけなのです。 そうじゃないだろ、としか言いようがありません。 ぼくたちが男の娘に萌えるのは、「男の娘が萌えるから」であって、「無垢で清浄で高潔なるトランスジェンダーというマイノリティ様に共感するため」ではないのです。
 藤高師匠のしているのは「俺もマイノリティというトップエリートの仲間に入れろ」との要請であると共に、「しかし俺以外の愚民どもは仲間に入れてやらん」との偏狭な選民意識の発露でもあります。これはサブカルのオタク批判、また自分をオタクだと思い込んでいる一般リベのしがちな「オタクは男の娘とかを好むのでジェンダーセンシティブだ」発言と、「完全に一致」しており、これらは全てみな吐き気を催すような腐臭に満ちています。 藤高師匠は森岡師匠を「男性性」に留まった者として描写し、「私は森岡のように男性性を肯定できなかった」と繰り返します(133-134p)。つまりは、森岡師匠を踏み台にしておいて、「でも俺の方が」と抜け駆けしようとしているのですね。
 しかし以前も描写したように*7、森岡師匠もまた「ボクこそは目下話題の草食系男子です、女子のみなさん、つきあってー!!」と哀願している人。何というか、両者とも、とにかくママに許してもらおうと顔を鼻水でパックして、自分の脇にいる者がいかに「シスジェンダー」に留まっているものかを指摘して、蹴落とそうとしている者たちであるとしか、言いようがありません。まさに「男性学」者特有の競争意識、すさまじいまでのマチズモでもって、彼らは血で血を洗うライダーバトルを今日も続けているのです。
 まさにこの世の地獄ですが、そこで「捕食すべき対象」として否応なくバトルに参加させられているのがオタクなのだからもう、はた迷惑としか言いようがありません。

*5 トンデモ本の世界F
まあ、しかし、考えてみればオウム真理教も彼ら主観ではそうした運動だったのでしょうし、まんざら間違っていないとは言えます。
*6 ちなみに「シスヘテロ男性」とは(正確には「シスジェンダー」といったかと思いますが)端的には「ジェンダー的にも男性であり、異性愛者である、いわゆるフツーの男」という意味あい。マイノリティ商売がマジョリティを絞り込んで絞り込んで、圧迫せんとしていることを象徴するフレーズです。
*7 最後の恋は草食系男子が持ってくる

○黒木萬代 少女になること

 そして、本稿も論調を上と全く同じにしています。 本稿で語られるのは(疲れたので簡単に済ませますが)、「Vtuberなどに象徴されるようにオッサンの間で少女化願望が増えてるよ~ん」というトピックス。白饅頭も何か大騒ぎしてましたが、ぼくたちにとっては四十年前からなじんでいるハナシですよね。 黒木師匠は萌えキャラとして振る舞うVtuberを評し、

かくして世界は私を祝福し、私も自分自身を祝福し、世界は充足した私自身によってどこまでも満たされていくことになるだろう
(221p)


 という森岡師匠の著作を引用します。まさにため息の出るような、ある意味ではぼくたちの中にあるコンセンサスの言語化、ちょっと『電波男』的な匂いすらする名文です。 しかし師匠はさらに森岡師匠の「だからといって女性差別ダーーーーーー!!!」というファビョりを引用し、「女性の被差別者としてのネガティビティを忘れるな」と腐すのを忘れません。
 一体に、フェミニズムはセクシャルマイノリティに色目を使うなど、「男性性(という悪しきもの)を捨てた男」を英雄視します。しかし、本音では男に女性性を享受されるのも、困る。女性性は損であり、デメリットしかないという自分たちのロジックの破綻がバレてしまうからです。ぼくがよく言及する渡辺恒夫はトランスを研究し、「女になりたがっている男が増えている、男は大変だからだ」と指摘、フェミニストにタコ殴りにされ、「男性学」を伊藤師匠に横取りされました。
 師匠のVtuberに対する歯切れも悪さも、それと「完全に一致」していると言わねばなりません。
 ――今回は「ガイジン」関連の論文が二本、「トランス」にすり寄ってみせた論文が二本という構成でした。前者は海外の状況が日本と同じであることの証明、後者は「男性学」とは「男性惨殺学」であることの証明となっているかと思います。前回挙げた論者たちは迷える男性たちに声をかける、オウムで言えば『エヴァ』の上映会をやる係、大学で「世のためになる活動をしたくありませんか」と学生を勧誘する係といえましょう。
 今回の記事で、のこのこ彼ら彼女らについて行った者がどうなるかが明らかになりました。そう、武器を取らされ、この世を構成する者を弱い者から順に殺害していく手伝いをやらされるのです。
 前回の論者を「戦闘員」、今回の論者を「怪人」とするならば、次回は「大幹部」クラスの人々の文章をご紹介したいと思っておりますので、どうぞよろしく。

『現代思想 男性学の現在』(その1)

2019-03-22 23:04:29 | 男性学


 ブログの更新が滞っております。
 正直、ここの文章を執筆するだけの余裕がなくなりつつあるという側面もあるのですが、単純に今回に関しては、本を読み進めるのにかなり難儀しているから……というのが主な理由です。何せ、まだ半分ほどしか読めてないという体たらくなのですが、これではいつまで経っても更新できないということで、まずは読んだ箇所のレビューをまとめることにしました。
 因みに今回、この『現代思想 男性学の現在』という一冊の本を指す場合は「本特集」、それぞれの記事を指す時は「本稿」、そしてこのブログ記事は「本エントリ」と表現することで区別しております。

 さて、因みに、ぼくは読む前から、ちょっとした楽しみを作っておきました。
 本特集、「兵頭新児」の名は出てくるでしょうか?
 可能性は三通りくらい考えられましょう。

 1.出てこない
 2.名前だけ出てきて、内容には触れないまま全否定
 3.上に加え事実誤認がある

 ここしばらく「男性学」については何冊もレビューをしてきて、そこには時々、ぼくの名が挙がっておりました。もちろん著作のタイトルだけ挙げながら、内容には一切触れることなく(読んでもいないのでしょう)ただ、「バックラッシュがあったぞ」「女性へのヘイトが広まっているぞ」という彼らの妄想のダシにされていただけでしたが。
 が、残念ながら本特集においては1.の可能性が濃厚。これはつまり、同時に彼らがすでに自分たちだけの世界に引きこもり、社会へのコネクションを一切断っていることを示しています。というのも、一般向けの書籍(田中俊之師匠がよく出していたようなの)だと「一般ピープルへの啓蒙」という目的があるので近年のネット言論、つまり「男は損だ」「フェミは悪質だ」に一応、反論を試みていました。むろん、その反論は一兆年一日の稚拙なものであり、啓蒙の目的が果たせているかは心許ないのですが、そんな中、ぼくの著作がタイトルだけ出てくることがたまにあったわけです。一体にこの種の人たちはぼくの著作のタイトルを挙げただけで、勝利のポーズをとるという傾向があり、何が何やらさっぱりわからないのですが。
 ともあれ、本特集は仲間内だけでほとんど完結してしまっている、言ってみれば「カルトの機関紙」と同じ。そうした「稚拙な言い訳」すらもがなされないことが想像されるのです。

〇伊藤公男 男性学・男性性研究=Men&Masculinities Studies

 さて、巻頭を飾るのは伊藤師匠。そう、渡辺恒夫教授の文章をパクり、自分こそが男性学の創始者であるかのように振る舞っている人物です*1
 彼は2015年に立ち上げた、NGOだか何だかのマニフェストを引用します。

男と女の対等な関係、人間と人間の共生、人間と自然との調和のためには、男性たちは、暴力から脱出する必要がある。
(8p)


 あ、もういいですか。
 まあ、これが(即ち、男は一方的に絶対的に根源的に全面的に「悪」であるというのが)本特集の「大前提」です。
 いつも言うようにここでレビューを終えてもいいくらいなのですが、ガマンしてもうちょっとだけ続けましょう。
「男性学」は(いつも言うように)フェミニズムに入信した男たちの懺悔録、以上のものではありません。そこでは「まず、フェミニズムが一方的絶対的根源的全面的に正しいので、疑いの心を抱くこともまかりならん」ことが前提され、一切の批評が禁じられています。
 が、同時に師匠は以下のようなことも言っているのです。

男性たちはむしろ自分たちが押しつぶしてきた感情を取り戻す必要がある。
(9p)


 ここだけすくい取れば大変にいいことを言っているのですが、それとフェミニズムの齟齬を認めないので、結果、キミョウキテレツマカフシギなことを言い続ける、というのが「男性学」の全てです(何しろ「女性に対する怒り」という今まで絶対に発露を許されなかった感情をホンの僅か、大変気遣って口にしただけでも半狂乱になって怒るのがこの人たちですからね)。
 しかし、ここで注目すべきはそこではありません。
 論者たちの「フェミニズムを信じた者たちの作り上げた惨状」に対する「言い訳文学」がいかなるものか。それが当エントリのテーマです。伊藤師匠の論文には「バックラッシュの時代」という節が設けられています。

(一九九〇年代後半から動きを活発化した戦前回帰=日本万歳の極右勢力は、「伝統的家族」防衛の名の下に、歴史認識問題とともにジェンダー平等の動きに強烈に反発したのである)。
(15p)


 これが、師匠の「歴史認識」です。
 行政に入り込んだフェミニストたちがジェンダーフリー政策や、あまりにも過激な性教育など行き過ぎたことをしたので、そうした問題に疎い保守がたまりかねて声を上げた、というのが実情だと思うのですが。しかし、ではその保守の意見が一般的な大衆の感覚から齟齬のあるものだったかとなると、それは疑問です。フェミニストが非常に往々にして文句をつける「伝統的家族」観を描いた『サザエさん』だっていまだに高視聴率を取っているんですから、「極」という冠を被るべきがどっちかは、お察しです。
 ともあれ、師匠は「近年の、ネット世論」については言及しておらず、恐らくそれらもこの「バックラッシュ」のバリアントとして捉えているのではないでしょうか。しかし、少なくともゼロ年代に保守派たちが過激な性教育、ジェンダーフリーを批判したという流れと現時点の弱者男性のフェミニズム批判は、つながっているとは言いがたい。師匠の文章ではそこが無視されているのです。

*1 兵頭新児の女災対策的随想 夏休み男性学祭り(その1:『男性学入門』)

〇多賀太 日本における男性学の成立と展開

 多賀師匠、子供に対して悪辣極まる「ジェンダーフリー教育」を施している様について書いていた御仁です*2。もっとも本特集における師匠の文章は、比較的賛同できるものではありました(あくまで「比較的」ではありますが……)。
 師匠は男性がジェンダーの問題を語ろうとすると、「男の生きづらさを普遍化して、アンチフェミニズムに向かう」か、「生きづらい男性も結局は女性を支配しているのだとの結論に向かう」かのいずれかしかない、と主張しているのです(24p)。
 師匠が前者を全否定しているのはまあ、当たり前として、後者にも問題があるとしているのは、極めて重要です。何しろ、後者は「(彼らにとっての)男性学」そのものですから、師匠は男性学を全否定していると言っていい。まあ、もっとも、結局この問題点についても、「一般の男性に対して希求力がない」からダメだ、と言っているだけなのですが。
 また師匠は、フェミニストのよく言う「男たちは自分で自分が生きづらい社会を作っているのであり、それを人のせいにするな」とのテンプレにも疑問を呈しています(30p)。まあ、結局はこの問題についても「何か、社会が悪い」と言ってお茶を濁しているだけなのですが。もう一つ言うと、師匠は「男が支配者」とのジェンダー観をあどけなく信じており、(32p)そうなるとやっぱり彼の主張も「社会≒男」という図式に回収されちゃうんじゃないでしょうか。
 いつも言うことですが、「頷けることも言っているのに、フェミニズムを疑い得ない正義としているがため、結局は同じところをグルグルとループしている」のが男性学者たちです。
 ただ、師匠は『脱男性の時代』に感銘を受けたとも語っており、この辺は好感が持てました(28p)。

*2 兵頭新児の女災対策的随想 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)


〇田中俊之 男性学は誰に向けて何を語るのか

 さて、お次に控えしは当ブログでもお馴染み、田中師匠です*3
 本稿で笑ってしまったのは「オタク」が市民権を得たことを挙げ、

オタクに対する差別・偏見は、「男性問題」のリストにおいてもはや上位にあるとは言えないだろう。
(36p)



 と断じている点。ぼくが常に「男性問題≒オタク問題」としてきたのと比較すると、ため息が出るような目利きのなさと言わねばなりません。
 ぼくが常々指摘している通り、オタクが市民権を得た(いや、得てもいないのですが)のは「みんなが貧しくなり、オタク的になったから」にすぎない。つまり、今こそオタク問題は語られるべきなのですが、彼らにしてみればそれはむしろ望ましいことになるのです。男性の草食化も貧困も非婚も全て、それらこそが彼らの目的だったのですから。師匠の発言は、「我らの人類征服計画が完了したのだ」という勝利宣言に他なりません。
 38pでは「男性が女性を抑圧し、支配していること(という、彼ら彼女らだけの妄想)」を前提すれば男性学は「堂々巡りに陥る」と正直にも告白しています。「男も辛い」と言いたいものの、それを女性様のせいにするわけにはいかぬ、さあ、どうしよう、というわけです。先の多賀師匠も近いことを言っていたように、一般人には見えない縄で、自分で自分を縛ってアヘ顔でこんなことを言のが、男性学のお馴染みの持ちネタなのです。

知的なユーモア」との節にも笑わせていただきました。
 師匠の主張は「ユーモアは大事(大意)」というもの。師匠は近年、どういうわけかやたらとルイ53世とつるんでいるのですが、確かに師匠、相手を失笑させるという意味において、卓抜なユーモアの主であるとはいえます。
 何でも攻撃的な「風刺(サタイア)」ではなく、穏やかな「ユーモア」こそが大事なのだそうな。具体的にどういうのかというと、講演でこういうことを言うんだそうです(39-40p。以下は大意です)。

「私も最近では月に十ほど講演依頼が舞い込んできます。全部は出れないので三つほど選んで依頼を受けています……あ、これじゃ今日は来てやった、みたいですね、すみません」


 これがギャグだそうです。
 髭男爵も太鼓判、らしいですよ。
 い……いえ、何しろ講演でじゃぶじゃぶ稼いでいらっしゃる師匠のことです、さぞかし講演慣れしていらっしゃることでしょう。字面を見たらくすりともできなくとも、実際の講演の場ではドッカンドッカンいっていた可能性もあります。
 ちな、これは「相手に社会的立場をもってマウントを取りたがるマチズモ」を風刺したものかと思いきや、長時間労働を風刺したものらしい。まあ、どちらも似たようなものとはいえますが、何にせよこれ、ユーモアじゃなくて風刺だよなあ。
 以前もさんざん指摘した通り、師匠はマッチョ揃いの「男性学」者たちの中でもことさらにマチズモを振り回したがる御仁*4。上の下りも自分が売れっ子だと自覚なく自慢しているように、どうしても読めてしまうんですよね。
 また、「女性社員にお茶くみをやらせるのは差別」みたいなことを言って、場が静まるや、「黙り込むということはみなさん、身に覚えがあるということですね」と突っ込むと聴衆一同、笑いとなる、といった場面も描かれています。ご当人は「男たちに気づきを与えてやったぞ」と大満足なのですが、そんなの、「笑うしかないから笑った」んじゃないでしょうかね。生徒が先生に怒られた時、気まずいんで笑うのといっしょです。また何%かが師匠の思惑通りに「真実に覚醒して笑った」としても、ほとんどの人間は同調圧力に負けて笑っただけでしょう。てか、そもそも、別に「女子にお茶くみさせるとはけしからん」なんて三十年以上前から言われていたことを、今日、言われてハタと気づく人がこの世にいるとは、思えないのですが。

*4 師匠の著作にはいずれも他の「男性学」者と比べても抜きん出た攻撃性が秘められているのですが、特に非道いのは『男が働かない、いいじゃないか!』における中年男性との道を譲譲らぬで争っての揉めごとのエピソードでしょうか。


 ――さて、他にも深澤真紀師匠のインタビュー記事含め、いくつかあるのですが、すっ飛ばして次に行きます。

〇杉田俊介 ラディカル・メンズリブのために

 杉田師匠と言えば、自分だけは縦横無尽に「モテない、苦しい、でもそう言ったらミソジナスだと叩かれる」と被害者意識を発揮して、しかし自分以外の男がそれを言ったら容赦なく叩くというさわやかなダブルスタンダードを発揮した御仁として、当ブログ読者にはすっかりおなじみの人物かと思います*5
 本稿においてもひたすらフェミニズムへの服従を誓った後、以下のように述べます。

 複合差別的状況(ポストマイノリティ的状況)の中では、私たちは被害者意識に陥りやすいからだ。実際、現在はいわば「グローバル被害者意識時代」と言えるものであり、性差別、障害者差別、人種・民族差別などが絡み合って化学変化を起こしつつ、様々な形でバックラッシュや歴史改竄が行われている。差別者や排外主義者たちによって、フェミニズムやマイノリティ運動の蓄積と達成が簒奪され、歴史修正が日々行われてしまっている。だから、「この世にはいろいろな差別がある」という相対主義に陥ることなく、はっきりと強く濃く、男/女の間に性支配という線を引き直した方がいい。そう考える。
(109p)


 いや、頭のてっぺんからシッポの先までアンコのつまった、味わい深い名文です。
 この文章、前半はかなりいいことを言っています。「現代は状況が複雑だから、誰が被害者かってよくわからないよね」と言い換えるならば、ぼくはこれに賛成します。
 一方、「被害者の方がトクな世の中だから、みな被害者ヅラをしたがる」。これも賛成です。人は「トク」を取ろうとする生き物なのだから、それも一概に否定できないと思いますが、不当に「被害者」ヅラをするのはよくない。これは小浜逸郎氏の名著『「弱者」とはだれか』の後半で「ボクもワタシも弱者」との痛烈な節タイトルが設けられている通りです。
 とはいえ、少なくともフェミニズムの「被害者ヅラ」には根拠がなく、「男性」が被害者であることには理がある。それを精緻に描破したのが拙著でした。
 しかし後半はどうでしょう。
 フェミニズムがバックラッシュや歴史改竄の名手である以上、「バックラッシュや歴史改竄が行われている。」との指摘は首肯せざるを得ません。しかし「差別者や排外主義者たちによって、フェミニズムやマイノリティ運動の蓄積と達成が簒奪され、歴史修正が日々行われてしまっている。」というのはどうでしょうか、フェミニストこそがこの地上最強の差別者、排外主義者、歴史修正主義者であると、ぼくには思えるのですが。そもそもアンチフェミが歴史修正したことって、ありましたっけ?

 しかし杉田師匠の本領が発揮されるのはここからです。
 師匠は「男も痛みや傷、恐怖を手当てし、ケアしてよい(111p)」と言います。
 大変よい言葉だと思うのですが、それに続く言葉がよくありません。

 男たちはまず一方で、自分たちの中の痛みや傷を問わねばならない。構造的な男性優位にもかかわらず、なぜ男性たちの幸福度は低く、自殺率も高いのか。なぜ多くの男性たちが被害者意識を抱え、闇堕ちしていくのか。
(111p)


 いや、つまり、「男性優位」というあなたの所属するカルトの教義が間違っていたということではないでしょうかw
 何しろ幸福度が低いというデータまで持ち出しているのにもかかわらず、「それでも男が被差別者であってはならぬのだ」と泣き叫び続ける杉田師匠の態度は、率直に言って正気だとは思えません。
 最後の最後には「涙を流せずに泣き続ける「男」としての自分自身を配慮し、ケアし、手当てすること(116p)」などといったフレーズも登場し、これも非常に素晴らしい言葉だと思うのですが、それでもまだなお、師匠はフェミニズムの呪縛から逃れられないでいる。
 それは丁度、仮面ライダーV3の味方になって、デストロン首領を待ち伏せていたのに、V3が首領へキックを放つと「首領、お逃げください!」と自らの身体を盾にしてかばってしまう、ライダーマンのように。

 ――本当に聞きかじりの豆知識なのですが、「カルトは事実をスイッチしている」という話を聞いたことがあります。
 カルトの信徒は「1+1=5」というカルトの教義と「1+1=2」という一般常識の二つの世界での生活を余儀なくされる存在であるため、「5であり、2でもある」という支離滅裂な考えを持つのだそうです。恐らくその場その場で5と2をスイッチさせて、その場その場のつじつまをあわせているのではないでしょうか。
 本特集にご登場のお歴々の言は、それと同じです。
 フェミニストや表現の自由クラスタを見ていると非常にしばしば、彼ら彼女らが「目の前に突きつけられた、明々白々な事実の否認」をする場面に遭遇します。杉田氏の「男性観」を見ても、そこまで言うなら「男は全員悪魔、殲滅せよ」という(一般的なフェミの)思想の方が整合性はあるわけなのに、「男も辛い」というテーゼを持ち出してきたがために支離滅裂になってしまっています。
 想像するに「男をも癒す女神のようなフェミニスト」というお気に入りのAVのネタを手放すことができず、こうなってしまったのでしょう。
 最後に杉田師匠のありがたい言葉で、当エントリを終えたいと思います。

 こうして、ラディカル・メンズリブはつねに、分裂的な二重の問いを必要とする。
(112p)


 いや、それはラディカル・メンズリブが間違っているからだと思いますw

矛盾社会序説――表現の自由クラスタの、矛盾だらけの著作がネットを縛る

2019-01-12 18:36:28 | 男性学


 どうも、普段はエロゲにモザイクをかける仕事を営んでおります、兵頭新児です。
 いや、しかし近年のモザイクって非道いですな、何が描かれているのやら、さっぱりわかりません。
 そんな「表現の自由」への弾圧に対し、憤懣やるかたない昨今ですが、今回ご紹介する本書、これもまた「モザイクで何が何やらわからない」作の一つと言えましょう。何せ書き手はあの例の、表現の自由の否定者*0。そりゃまあ、モザイクもかかりますわなあ。
 とまあ、思わせぶりな書き出しをしたところで、本筋に入りましょう。
 ちなみにnoteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらの方にも「スキ」だけでもつけていただけると幸いです。

*0 これまでの師匠についての記事をご一読いただければ、師匠が表現規制派であり、フェミニズム(という邪悪極まりないカルト)の忠実な信徒であるとおわかりいただけるかと思います。
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件
実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件


 先の『実践するフェミニズム』レビュー(*0のリンク先参照)にも書いたように、ぼくは本来、白饅頭ことテラケイこと御田寺圭師匠にそれなりの信頼を置いておりました。本書もAmazonで予約しておりましたし。予約したその直後、師匠が『実践する――』を称揚しだした時は本当に肝をつぶしました。で、届いた本書を複雑な気分で眺めるハメになってしまったわけです。
 さて、とはいえ、読み始めた当初の本書に対するぼくの印象は、それでも決して悪いものではありませんでした。
 いえ、むしろまえがきを数ページ読んだだけで、心を掴まれた、というのが本当のところです。
 そこに書かれているのは、師匠が学生時代に出会ったホームレスのおじさんについて。このおじさんは自分の今の境遇を自分の責としてただ受け止め、師匠が生活保護など行政に支援してもらう手があることなどを進言しても、それを断固として受け容れようとしなかったといいます。このおじさんは、自分を「いるだけでも迷惑な存在」と自己規定し、行政などに頼っては「今度こそ世間様に顔向けができなくなる」と語っていたといいます。
 確か、この話題についてはツイッター上でもつぶやいていたことがあったはず。或いはそれが、ぼくの師匠への好感情につながっていたのかもしれません。
 師匠はこのおじさんを「透明化された存在」と称し、この言葉を本書のキーワードのように繰り返します。
 第一章のタイトルは「「かわいそうランキング」が世界を支配する」。ここでは「大きな黒い犬」という言葉がキーワードとして語られます。保健所においても大きな(つまり成犬である)黒い犬は引き取り手が少ない。誰しもが白くて小さな、つまりは「可愛い」犬が欲しいのです。
 そう、「透明化された存在」、「かわいそうランキング」、「大きな黒い犬」といった巧みなキーワードで、師匠は読者の心を鷲掴みにします(一方、確か本書には採り挙げられなかったと記憶しますが、「キモくてカネのないオッサン」とのワードもまた、これらに並ぶものであることは説明するまでもないでしょう)。
 ともあれ、この時点で(師匠への悪感情にもかかわらず)本書の印象は決して悪いものではありませんでした。ただ、同時にぼくは一つの「予感」を持っていました。

 この(22pまで読んだ)時点で、ぼくは彼が「ではどうするのか」との回答を出しえていないことを断言する。


 上は、読書中に書いたメモをそのまま起こしたものです。第一章の途中まで読んだ辺りで、ぼくはそのように「予言」しました。
 そしてその「予感」は第二章「男たちを死に向かわせるもの」を読んだ辺りから、早くも「確信」に変わってしまったのでした。
 この章、ぼくはこれをnoteで読んでおり、評価していたはずなのですが、再読して首を傾げてしまったんですね。
 師匠は男がいかに死のリスクを背負っているかを述べます。
 男性の自殺率の高さなどは、近年指摘されることが多いのですが、他にも男性は女性に比べ、医者にかかる率が低い点についても指摘があり、ここはなかなか秀逸と思いました。というのも、ここには「男がいかに自らの身体を粗雑に扱っているか」がよく現れているからです(もっとも本書では「病気になり経済的な損失を被ると、社会的価値が失われるから」といった分析に留まっています)。
 以上はそれなりに重要なポイントの指摘になっており、『ぼくたちの女災社会』の抄訳といった趣きがないでもありません。「かわいそうランキング」に相当する造語、ぼくだって(『女災』には書いていませんが、師匠よりも先に)「愛され格差」というのを提唱していましたしね。
 そう、『女災社会』は上の男性の医者にかかる率が低いことなどに加え、さらに様々なデータを提示した本でした。その本の著者が左派やフェミニストからデマを流され、罵詈雑言をぶつけられ、恫喝されるといった総攻撃を受け、著作は絶版に追い込まれたのに対し、本書は版を重ねているようです。
 果たして、では、『女災』と本書の違いはどこにあったのでしょうか?
 読み進めると師匠はこんなことを言い出すのです。

したがって「大黒柱的な役割」の要求値を男女それぞれに均すことが、男性の自殺者数の逓減に寄与する可能性は高いだろう。より簡潔にいえば「女性が自分と同等以上の男性をめることをやめれば(それと同時に男性側も女性より優位でなければならないという考えを捨てれば)、男性は余計に死なずに済む」という考えを受容し、広めることが男性を死の呪縛から解き放つ第一歩となるだろう。
(43p)


 あ~あ、と思いました。
 これ、普通に考えれば「女性の社会進出のススメ」ですよね。
 それはもう何十年も実験し、それが男性の救済に何ら寄与しないことがもう、明らかになっています。
 そこを認めず、ただ「フェミニスト様に従え、フェミニスト様に従え」と絶叫を続けているのが今の左派(それは久米泰介師匠も含め)です。
 いえ、ここで終えてはフェアではありません。師匠はぼくと同じ疑念を、ちゃんと言葉にしているのですから。

 しかしながら、こうした解決法にはひとつ大きな問題がある。「大黒柱の役割(=稼得能力への期待・就業能力への期待)が死のリスクを高める」という前提があることには変わりない。この事実を知りながら、はたして女性側はこれを均すことに合意するだろうか。自分たちの自死のリスクを高めてまで、男性にのしかかる重荷を、自分たちの背中に分けて移すことに賛成してくれるだろうか?
(44p)


 そう、そんなことをするはずがないのです。
 だから、女性の社会進出を推し進めれば推し進めるほど、社会は破壊されてきたのです。
 実はnoteにおいては、本章は以下の言葉で締められていました。

 男は女に比べてとくべつ強いわけではない。「強くあれ」と求められているからこそ、そうしているにすぎないのだ。そして、誰にも気づかれないところで、ひとり自死を選んでいるのである。
(44p)


 そして付記として、皆口裕子のサンプルボイスが書き起こされていたのです(https://www.aoni.co.jp/search/minaguchi-yuko.htmlの「ナレーション7」。聞いてみてください)。気の利いた締めだと思います。
 ところが書籍版においては代わりに一節が加筆され、そこでエマ・ワトソンのスピーチが「公で男のネガティビティが述べられた初のもの(大意)」などと絶賛されていたのです。
 そんなバカな!
 ぼくの著作は置くとしても、小浜逸郎氏や渡辺恒夫氏など、重要な指摘をした人物はいくらもいます。いえ、単にご存じないのでしょうが、それにしてもこれは、渡辺氏の主張をパクッた伊藤公雄師匠を男性学の提唱者だとしている千田有紀師匠*1を思わせます。
 正直、この(エマ・ワトソンなどという成功者の上からのキレイゴトを言っているだけで、「よきフェミニストなり」と「表現の自由クラスタ」に絶賛されている人物を持ち出す)加筆によって、本章のよさが大きく損なわれているように感じられました。

*1 夏休み千田有紀祭り(第四幕:ダメおやじの人生相談)の■付記1■など


 第三章、「「男性”避”婚化社会」の衝撃」もそうで、ここではいかに結婚で男に負担がのしかかるかが描写されています。これまた非常に頷ける主張が続くのですが、「離婚後に単独親権性が取られていることも、男性の結婚へのモチベーションを下げている」との指摘がなされるに至って、首を傾げざるを得なくなります。
 理屈としては正しいのですが、果たして結婚するときに離婚後のことまで視野に入れる人間がどれほどいるか疑問です。むしろそうした離婚というものが一般化したこと自体が、人を結婚から遠ざけていると考えるべきで、何だかピントがずれているとの感を拭えません。
 いえ、それは些末なことで、重要なのは師匠がこのトピックを持ち出しておきながら、フェミが男をDV冤罪で陥れることを妻に吹き込み、男女を離婚させていることに、ついぞ言及しないことです。これは例えるならTOKIO結成秘話のドキュメンタリーで、山口君がいないことになっているようなものです(何かそういう番組、やってたんだってさ)。
 第五章は「「非モテの叛乱」の時代?」。
 ここではインセルが俎上に昇りますが、師匠は

 彼らの主張は単に「モテないのがムカつく」というもので結論づけるべきものではないだろう。
(中略)
 問題は性的魅力によって得られる報酬が社会的証人や個人の幸福に分かちがたく紐づいていることだ。
(中略)
 先天的要因によって、その後の社会的な承認や幸福に傾斜があることは、「差別」と呼ばれる問題ではないだろうか。
(84p)


 と、あくまでインセル、非モテに共感的です。モテが現代において非常に重要なファクターであるなど、言われてみれば当たり前すぎるほどに当たり前なことを、フェミニズムやリベラルが蔑ろにしてきただけなのですが(ぼくが「牛丼福祉論」と並列させて論じてきた「本田透の兵器利用」者たち*2は案の定、ミグタウの称揚を始めています)。
 夏頃に採り挙げたよう*3に、インセルに対しては八田師匠による苛烈極まるバッシングがなされています。「モテたいと思うなどとは許せぬ」と。それに比べてテラケイ師匠の非モテへの視線は大変に、優しい。それはホームレスに注ぐ視線の優しさと変わるところはありません。ここは一応、評価しないわけにはいきません。
 しかし、ここにもフェミニストに対する言及はありません。普段は積極的にフェミニストに対して言及し、アンチフェミを自称している師匠が非モテ問題を語っているのにフェミはスルー。何だかTOKIO結成秘話のドキュメンタリーで、山口君がいないことになっているようなものではないでしょうか。
 それを言えばインセルは語っても、非モテ論壇、本田透について語られていないのも、片手落ちと言えば片手落ち。まあ、非モテ論壇についてはぼくも知識がなく、あんまりエラそうなことは言えないのですが。
 そして、この章の次に控えている「ガチ恋おじさん――愛の偏在の証人」を読むと、違和感はさらに大きなものになるのです。
 この第六章、要するにアイドルの追っかけを長年やっているオッサンの話を聞いたという、ただそれだけのもの。実はツイッター上で本章がやたら採り挙げられ、多くの人々の心を動かした旨を述べています。しかし、ぼくは本章を読んで、驚くほど何も感じるものがなかった。
 何故か。
 いろいろ理由は考えられますが、結局、「オタクの方が辛くね?」という疑念が拭えないからでしょう。アイドルオタと二次オタ、どちらが辛いか比べなどやっても仕方のないことかも知れませんが、しかしそれでも一応は現実に存在しているアイドルに比べ、非実在な少女に萌えているオタクの方がある種の屈折、こじらせをかかえた存在ではないでしょうか。にもかかわらず、自称萌えオタであったはずのテラケイ師匠が「ガチ恋おじさん」とやらにインタビューし、「ふんふん、それで」と大仰にリアクションをしている様がぼくにはどうも、空々しく感じられました。これでは山口君がいないことになっているTOKIO結成秘話のドキュメンタリーを、山口君自身が作っているようなものです。
 何故こうなったのか。あくまで想像ですが、師匠は自分の中にある感情を自分で認識する能力をお持ちではないから、なのではないでしょうか(この辺りは『女災』で「三人称性」と表現しましたね)。
 冒頭のホームレスのおじさんの自己評価の低さは痛ましい。しかしそれを言うならオタクもまた、と言わずには、ぼくはおれない。しかし恐らく師匠はそんなことを夢にも思わない。何となれば、「三人称性」の持ち主だから。だから師匠はひたすら「わかりやすい他者」の下へ行っては専らうんうんと頷いているのです。

*2 敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
*3 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む


 ――ここまでお読みいただいて、どうお感じになったでしょう。
 隔靴掻痒というか、ぼくの筆致はどっちつかずなものになっているかと思います。高く評価できる主張もしているのに、読み進めても読み進めても、本書には違和感がずっとつきまとうと。
「無縁社会」について書かれた第七章では、表題として「無縁社会」が挙げられながら「チョイ悪オヤジ」がフェミ的な女性によって炎上したトピックスが挙げられます。何か、オッサンに向けて「若い女性を口説いて美術館に誘え」みたいなことを吹き込んだ雑誌編集者だかがいたという話題です。師匠はこの原因を男たちのディスコミュニケーションに求め、「チョイ悪オヤジ」的な人物を「人権感覚のアップデートが追いつかない者=家父長制的」と評し、そうした言わば「情弱(情報弱者)」を差別するなとの論調を展開します。何かヘンです。師匠の中では「過去の価値観」が間違っていることが前提視され、言わば先の「チョイ悪オヤジ」は「フェミニズム教育を受けてなくて可哀想な存在」として描かれているのです。
 そもそもそれと無縁社会ってどう考えてもつながらないのですが、ともあれここでは、無縁社会というならばまず第一の問題であろう貧富の差についてがあまりにも軽く流されており、何が何だかわかりません。
 第十章は「「公正な世界」の光と影」と題され、何と氷河期世代の低所得者への「努力が足りない」といった心ない認識を「世界公平信念」で説明しています!!
 え~とですね、「世界公平信念」というのは「努力は報われる」とか「悪いヤツには天罰が下る」とか「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といったぼくたちが抱きがちな、しかし冷静に考えれば何ら整合性のない世界観のことです。
 そんなバカな!!
 いえ、「そうした側面もあるよ」くらいのことはいえましょうが、何よりも問題は景気のよかった世代とそうでない世代のジェネレーションギャップにこそあるはず。そうした現実を師匠はすっぱりと斬り捨てて、ことをその前提になる普遍的な(別に社会学などおベンキョしなくとも頭のいい人間ならば直感的に知っているような)人間のサガに還元します。
 何しろ生保問題も在特会もみなこのロジックで説明しようとする雑さで、「何か、大学の一般教養で得た豆知識を振り回して全てを説明しようとしている人」にも見えますが、やはりこれはそうではなく、「普遍的人間心理」にものごとを還元することで、原因の追及を断念しているというのが本当のところでしょう。何か、レイプ事件が起こったことに憤って「人間にジェンダーがあるのが悪い」とか言い出す人みたいです。

 この辺りで師匠の弱点が見えてきたのではないでしょうか。
 そう、師匠は犯人を探さない。原因を追及しない。
 オタクでありながらオタクについて語らない。「男性論」を語っているように見えて、実はその内面については驚くほど語っていない。
 ぼくの視線からは、師匠は「山のてっぺんから見える、中腹で登るのを止めた人」のように見えています。
 仮に師匠が『実践する――』を盲讃(この言葉はぼくが今、作りました)していなければ、「あぁ、頑張ったけど体力不足であそこまでにしか到達し得なかったんだな」と「騙されて」いたことでしょうが、しかし今となっては、「彼は敢えてそこに留まっていた」ということがよくわかります。それはつまり、「この山はここが頂点で、上には何もないのだ」との大本営発表のために。
 比喩を変えましょう。ぼくがマクラで何と申し上げたか、ご記憶でしょうか。
 そう、ぼくは本書を「モザイクだらけで何が何だかわからないエロ動画」であると表現しました。
 つまり、本書は『ぼくたちの女災社会』に「ママに怒られないよう」モザイクをかけたものだったのです。
 テラケイ師匠は、フェミニズムを批判しません。重要な指摘をいくつもして、ならば必然的にフェミニズムに原因を求める方向へと話が進みそうなところを、軒並み華麗にスルーしている。まさに地雷原を、一つも踏まずに突破しているようなもので、全ての地雷を踏みぬいたぼくの著作とは好対照です。

 ――待て兵頭。いや、しかし今まで語られてこなかったことを指摘しただけでも大したものではないのか。


 残念ながら、違います。
 ネット上ではいくらでも語られていることに、師匠はモザイクをかけたモザイク職人にすぎないのですから。
 これはツイッター上で指摘していた方がいるのですが、どうも師匠は一時期、テポドン東京さんと絡んでいたようなのです。しかし、そうなると上の記述がいよいよ奇妙なモノにはならないでしょうか。
 テポ東氏は「女性が男性を養おうとしないことははっきりしている、ならば男性が働き女性が家を守るという性役割分業を採用する以外に道はないではないか」とはっきり言っている。しかしテラケイ師匠はその論点に「到達」しないために、山の中腹で必死にビバーグを続ける。既に「くぱぁ」している現実に、顔を真っ赤にしてモザイクをかけ続ける。
 今年の前半に採り挙げた、『男性問題から見る現代日本社会』をご記憶でしょうか*4。これは「男の方が損だ」といった言わば「ネット世論」へのアンサーであるかのように帯やまえがきなどに謳われ、しかし一読してみるとそれらを一切踏まえることのない旧態依然としたフェミニズムを諳んじているだけの、トホホな本でした。
 そしてその直後に採り挙げた八田真行師匠のインセル、ミグタウについての記事をご記憶でしょうか*5。インセルについての記事は(女という恵まれた存在に対するルサンチマンから)女性へと復讐しようとする弱者男性を採り挙げ、処刑するという弱き者への憎悪が光った名記事だったのですが、ミグタウを採り挙げるに至り、師匠は「処刑」の口実が見つからず絶句してしまう、という醜態を演じてしまいました。
 これらは、いずれも非常によく似ていると言えないでしょうか。つまり両者とも、フェミニズムというカルトに帰依してきた男性たちの、アテが外れての狼狽ぶりであり、必死の言い訳ぶりの記録として読めるのです(もちろん八田師匠が「インセルはトランプ支持者だ、そうじゃなきゃ嫌だ!!」と泣き叫んでいるように、これはトランプ現象への戸惑いでもあります)。
 テラケイ師匠はそこから一歩だけ先へ進み、インセル(そしてキモくてカネのないおっさん)を肯定した。これそのものは大きな前進かもしれないが、テポ東氏やぼくからは「何か、後からやってきて俺たちの買ってきたおやつの好きなところだけ食い散らかして行ったヤツがいる」ということになってしまうのです*6
 そしてですが、これはまた「男性差別クラスタ」の多くとも「完全に一致」している。テラケイ師匠が提示した問題を解決するに、性役割分業を採用してはならぬというのであれば、「ジェンダーフリーの強硬」という方策を選ぶ以外、恐らく手段がない。本書ではそこまで言っていないので(noteで言ってたらゴメン)、これは想像ですが、『実践する――』を称揚している以上、師匠のスタンスはそうだと考える他はない。しかしこれは端なくも師匠が「男性差別クラスタ」未満の段階に踏み留まっていることを、表しているのです。
「男性差別クラスタ」のジェンダーフリーへの帰依ぶり、その愚かしさについてはここで詳しく繰り返す余裕がありませんが、一つには彼らがひたすら上に向かって口を開け、「まんじゅうをよこせ」と言っている存在である点です。
 テラケイ師匠を赤木智弘氏と並べて批判する向きもありますが、ぼくが赤木氏を(全面肯定ではなくとも)評価するのは、彼のスタンスが「中間層を救うしかなくね?」、つまり「自助しかない」との視点を持っているからです。
 しかしここまで騒がれた本書が、そこまで到達しえず、実のところネット世論の本当に初歩の初歩をホンの触りだけ採り挙げたものにすぎないことは、もはや明らかでしょう。それはまるで、上の『男性問題から見る現代日本社会』や『男子問題の時代?』*9などという幼稚な書が兵頭新児の著書を名前だけあげつらい、(全く中身に踏み込めないままに)否定しているのと、全く同様に。
 いえ、『矛盾社会』はそれらに比べれば、まだマシです。それらに比べ、遙かに問題の本質に踏み込んだ、評価すべき点の多い書です。師匠も或いは単なる天然の、男性に対する悪意などない人物なのかも知れません。
 その意味で師匠は「ギリモザ」職人だったかも知れませんが、しかしそれでも「もう、わかっていることに、モザイクをかけた人」であることに変わりはありません。
 師匠がメディア側に採り挙げられた意味はもう、自明です。師匠が「ネット論壇の旗手」になることで延命される人たちは誰でしょうか?
 つまり、そういうことだったのです。

*4 男性問題から見る現代日本社会
*5 八田真行「凶悪犯罪続発!アメリカを蝕む「非モテの過激化」という大問題」を読む
八田真行「女性を避け、社会とも断絶、米国の非モテが起こす「サイレントテロ」」を読む
*6 ラトビア謙三という方が、以下のようなツイートをしていました。

白饅頭ことテラケイって要はただのお調子者で、その場その場で人気のあるアカウントに取り入って、ヨイショしては言ってる事をパクって、さも自分が昔から考えてましたみたいな顔をずっとしてきたんだよな。批判されても、フェミみたいな弱そうな相手には強く出るが、そうでないなら無責任に逃げ回る(https://twitter.com/c_s8f/status/984986645723103232

そりゃそうでしょ。テポ東や、エタ風さんのネタ元がウェルベックで、テラケイは、その二人からパクってるだけなんだから、元を辿ればウェルベックに似るだろうね。
https://twitter.com/c_s8f/status/1063781654253060099


 他にも「テラケイはテポ東氏やエタ風氏の金魚のフン」といった声もあり、それならば当初の師匠をぼくが評価していたのも、当たり前の話。ウェルベックと言われても知りませんが、どうも自由原理主義に批判的な作家らしく、これまた師匠の主張と一致します。
 しかし同時に謙三氏は以下のようにも言っています。

真面目に批判するなら、テラケイの本は、人々が自由を追い求めすぎた結果、拡張したエゴが世界を縛り始めたという内容らしくて、それ自体は、パクリとはいえ問題提起としてわかるところはある。 しかし、普段は表現の自由戦士として活動していて、そこは本の主張と矛盾してるんだよな

なぜこんな事が起きるかというと、本の主張は、テポ東やエタ風さんからからパクっていて、後半の表現の自由戦士的スタンスは青メガネ氏その他からパクってるからなんだよ。 色んな人の主張をパクってるから、一貫して見れば、彼自身のスタンスは整合していない。
https://twitter.com/c_s8f/status/1066331461966385152


 つまり、師匠は一定の理念を持った人物ではなく、その場その場で借り物の思想を振り回しているだけだ、というのです。確かにそのようにでも考えねば、師匠が『実践する――』を盲賛している説明がつきません。
*7 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)