兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第7回『腐女子の心理学』【ゆっくり解説】

2020-05-31 19:52:44 | お知らせ




https://www.youtube.com/watch?v=FA-owJQLu98&feature=youtu.be

 どうも、お久し振り。
 フェミニストユーチューバー・須藤エミニのライバル、アンチフェミユーチューバーの風流間唯人です。
 今回採り挙げるのは山岡重行『腐女子の心理学』、そしてその対抗馬とも言うべき北田暁大『社会にとって趣味とは何か』。
 本動画を観ることで、いかにフェミニズムがオタクにとって害悪かがわかるよ!!

 正直、youtuberとして収入を得る、などは夢のまた夢の状況ですが、登録していただく、高評価ボタンを押していただく、コメントをつけていただくことで再生数が上がるようです。
 また、当動画で『ぼくたちの女災社会』に興味を持っていただけたら、kindleでお買い求めいただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ 天使たち~(再)

2020-05-17 13:40:43 | 弱者男性


 ※この記事は、およそ9分で読めます※

 ――今回も(再)とあるように、OCNブログ時代の、もう九年前の記事の再掲となります。
 ここしばらく、動画の『パーマン』に加え、『ドラえもん』を扱い続けて来たので、その流れでかつての記事もうpしておくかと思ったのです。



 再掲に当たり、時事ネタなど削っておりますが、基本は元の記事と同じです。


*     *     *


 今回は「女災」そのものをテーマとはしません。
 むしろその前段階と言いますか、もう少し視野を広げた、「女災という概念が今まさに誕生しつつある現代という時代性そのもの」についての話題です。
 さて、震災のために今から観ようにも上映館が限られていると思うのですが、今年の映画。
『新・のび太と鉄人兵団 ~はばたけ 天使たち~』。
 これは1986年に公開された『のび太と鉄人兵団』のリメイクです。
 ご存じない方のためにものすごく大雑把にプロットをご説明すると、以下のような感じでしょうか。
 都合上、ネタバレしまくりますので、オチを知りたくない方は、以下はお読みにならないでください。
 巨大ロボットが欲しいと望むのび太の元に、空から巨大ロボが降ってくる。
 百式をドラえもんカラーに塗り替えたようなデザインのそのロボ「ジュド」は、実は人類の奴隷化を企む異星のロボット帝国「メカトピア」の先兵。そしてのび太につきまとう美少女「リルル」もまた、ジュドを回収しにきたメカトピアのアンドロイドであった。
 開始されるドラえもんたちとメカトピア軍の大バトル。そんな中、のび太やしずかと交流を持つことで人間らしい心というものを知ったリルルは、メカトピアのロボットたちが優しさを持ったロボットとしてプログラムされるよう、歴史を改変。しかしそれは同時に、彼女自身の消滅をも意味していた――。

 と、こんなところでしょうか。
 ベタベタと言えばベタベタですが、ドラえもんらしからぬ巨大ロボット戦、そして美少女リルルの可憐さでファンには人気の高い作品となっています。
 さてその人気作なのですが、今回、リメイクものの宿命として、新キャラのヒヨコ型ロボット「ピッポ」というのが登場します。
 このピッポ、実はジュドの電子頭脳が自律式のロボットになった姿です。これは前作においては、ドラえもんがジュドを自分たちの戦力に加えるため、そのプログラムをあっさり再フォーマットしてしまったことが一部で「ちょっと非道くないか」と指摘されたことを受けての改変だと思われます。
 即ち、旧作においては意志を持ったロボットでありながらその心を消されてしまったジュドが、今回はピッポという形でドラえもんたちと交流を持ち、リルル同様、人間の味方になるという救済措置が取られたわけですね。
 正直、ジュドの巨大ロボとしてのカッコよさよりピッポの可愛さにお話の力点が移ってしまったこと、そして何よりピッポとのび太たちが仲良くなる過程のお粗末さなどはあまり評価できません。だから映画の中盤まであまりいい感想を抱いてはいませんでした。
「取り敢えず、親子が揃って見に来るのにいい感動話にしとけ」といった作り手の意識が透けて見える可愛いロボットとのお涙頂戴劇。「はばたけ 天使たち」などという、取ってつけたような薄っぺらな副題。
 あぁ、ダメだこりゃ、と。
 しかしクライマックスでその感想は一挙に塗り替えられてしまいました。ピッポがあのように機能するとは……「はばたけ 天使たち」に隠された意味含め、脱帽です。本作はリメイク版はもちろん、全ドラえもん映画の中でもかなり上位にランキングされるべき傑作と言っていいでしょう。
 ――さて、ここからが本題です。
 そして今回の本題は、上にさんざん書き並べた「本作の、作品としての完成度」とは、直接的に関係がありません
 実は本作についての、とある漫画家さんの評を読んで、どうにも引っかかったことがあるのです。
 その漫画家さんは終始旧作(F先生の原作)を評価し、新作を否定しているのですが、要約してしまえば、
 ドラえもんがジュドの再フォーマットを行ったのは、F先生の仕掛けたトリックであり、F先生は「じんるいのこころにひそむざんこくさ」を確信犯で描いたのだ(キリッ
 と言ったところでしょうか。
 もしご本人が見たら「一面的だ」とおっしゃるかも知れないけれども、しかし少なくとも一側面の要約として、上の一文は決して間違っていないと思います(普通に引用してもいいのかも知れませんが、引用しておいていちゃもんをつけるのも何なので……)。
 さて、ついつい、上のようなおちゃらけた要約の仕方をしてしまいました。
 しかしそれも、ぼくにはこの漫画家さんの発言が、ある種の「テンプレ」のように見えて仕方がないからなのです。おちゃらけついでに喩えてしまえば、『サルでも書けるポリティカルコレクトに乗っ取った評論教室』とでもいった本の第一章に掲げられていそうな文、と言いますか。
 既に書いたように、旧作においてドラえもんはある種の非情さをもって、ジュドの電子頭脳を再フォーマットしました。
 そしてまた旧作では比較的単純な「わるものろぼっと」として描かれていたメカトピアも、新作では身分制を乗り越えて民主化しようとしている、ある種、人間くさい連中として描かれています(ロボットを奴隷にするのは政治的に正しくないから、人間を奴隷化しよう、というのがメカトピアの政策なのです!)。
 同様にリルルの描写も旧作の「非情なロボット兵士が心を知る」というものから、「ロボットと人間のレイシズムを乗り越える」的なニュアンスに変わっています。
 しかしこれも、例の漫画家さんにかかっては
 旧作(F)は敢えて当初、メカトピアを「わるものろぼっと」として描くことでクライマックスでその視点を逆転させることを狙ったのだ(大意)。
 とのリクツになってしまいます。
 ですが、それは、本当に稚拙な詭弁でしかありません。
 実はF先生が原作を描いた『劇場版ドラえもん』において、悪役にそうした内面が与えられたり、善と悪の逆転劇があったりすることは極めてまれです。例えば本作同様に評価の高い『魔界大冒険』では悪役として「悪魔」がストレートに登場し、ドラえもんたちは躊躇なく悪魔たちをやっつけていきます。
 何故か……と言われればやはり、(いささかわかりやすすぎますが)「当時は冷戦時代だったし」という答えしか、ないと思います(そもそもこの『劇場版ドラえもん』というのは『少年ケニア』とか、あの辺の冒険活劇の影響が大です)。
 つまり、F先生が『鉄人兵団』を描く時、その脳裏に(現代で言うところの)「レイシズム」という視点があったとは、どうしても思われないのです。
 そして、既に書いたように新作においてこそ、この漫画家さんの読みとは裏腹に、「メカトピア人たちのレイシズム」が描写されているのです。
 この漫画家さんの評は、(新作によって旧作の)欠点を指摘されて「わざとやったんだ」と居直っているだけだ、とも取れます。更に言うならば、不良に一方的に殴られてボロボロになった軟弱君が、「今日はこの辺で勘弁しておいてやる」と捨て台詞を吐いて逃げ去るような、そんな種類のものにしか思えません。
 非道いことを書いていますが、別にこの漫画家さんに怨みがあるわけではありません(むしろ当初は「ムカつくサブカル漫画家」かと思っていたのですが、調べてみると結構萌え系の絵を描く方で、ちょっと感情が和らいでいるくらいです)。
 しかし、それでも、ぼくの目には、この漫画家さんの態度はどうしても許せない、捨て置くことのできない蛮行に見えてしまうのです。
 それは例えば(例が極端に飛びますが)『モンティ・パイソン』の解説で、オカマネタを「マチズモへの風刺だ」と強弁しているのを見た時に感じる不快感、とでも言えばいいのでしょうか。
 言うまでもなく『モンティ・パイソン』にはどぎついオカマネタが多く出てきます。その標的になるのはまあ大体、軍隊の将校みたいな男らしいタイプの人物であったと思います。しかしそれって単純にギャップの妙を狙ったものであるし、仮に「高圧的な権威」に対する風刺意図がそこにあるとしても、「マチズモそのもの」を笑うような発想があったとは、どうにも思えません。それを「いい子ちゃん」に解釈してしまうことに、ぼくはどうしようもないいやらしさを感じずにはおれないのです。
 てか、『モンティ・パイソン』には「頭のおかしい人がレースをする」といったえげつないコントもありますが、じゃあ、あれは知的障害者差別への風刺なのでしょうかw
 漫画に立ち返って考えれば、「黒人描写」の問題が近いかも知れません。それこそ『ドラえもん』にだって、古い作品を見ていけば「のび太たちがジャングルに探検に行く。そこには人食い土人がいて、のび太は食べられそうに」みたいな話はあります。
 上の漫画家さんのリクツだと、これまでもが「偏狭でステレオタイプな黒人観を敢えて描くことで我々のレイシズムを風刺する」意図があったことになってしまうのかも知れませんねw
 どんな作品も、どんな天才的な人物も、ある程度、その時代の価値観に縛られてしまうのは、仕方のないことです。逆に言えば二十五年も前の作品が今なお、リメイクされるほどの作品としての力を持っていること自体が奇跡的なのであって、そこに古い時代故の限界が仄見えてしまうのは当たり前のことです。ぶっちゃけてしまえば、上の漫画家さんの言は昔の特撮映画の釣り糸を「わざと見せているのだ」と強弁しているのと、はっきり言って大差はないのです。
 ただ、です。以前の『チャージマン研!』のエントリを読んで下さった方はおわかりかも知れませんが(わかってくださっていたら嬉しいのですが)、ぼくが言わんとしているのは別に「F漫画だって古いんだから釣り糸くらい見えるさ」ということでは実は、全くありません。
「わるものと、だんこたたかう」旧作も、
「まれびとと、なかよくなった」新作も、
 どちらも間違ったことをしているわけではありません(例のジュドの電子頭脳の再フォーマットが非道い、というのは同意ですが、しかし念のために言っておきますがジュドは「じんるいどれいかけいかく」のために派遣された「わるものろぼっと」なのです)。
 はっきり言えば、「まれびととなかよくしよう」というその時代の価値観で縛られて、視野狭窄に陥っているのは漫画家さんの方です。
 え~とですね、つまりですね、現代社会の「女災」を打ち砕くには、こうした硬直した政治的正義を徹底的に洗い直さねばならない、みたいなことが言いたくてここまで書いてきたわけですが、ちょっとこの辺で力尽きてしまいました。
 後半は近いうちにアップしますので、もうしばらくお待ち下さい。


*     *     *


 ――以上です。
 いや、以上も何も途中で終わっていますが、後半も来週辺りうpします。
 ただ、『ドラえもん論』評の時にも述べた『モンティ・パイソン』について言及されているように、本稿も『ドラえもん論』も『ドラえもん』という長寿コンテンツを今のPCで解釈しようと七転八倒しているリベラルの滑稽さが端なくも表現されてしまっています。
 そして、そのPC自体が、男性性の否定という意味では「アフターフェミ」の世界の歪みであるということも、こうなれば自明なのではないでしょうか。

ドラえもん論 すぎたの強弁2020

2020-05-10 01:34:21 | 弱者男性


※この記事は、およそ9分で読めます※

 ――いや、本書のレビューはもう、前回で終えたつもりでした。
 が!
 どうしても押さえておかねばという二点について、ころっと忘れていたことに気づきまして、急遽、ちょっとだけ補足を書くことにした次第です。
 ここを初めてご覧になった方は、前々回前回記事から読み進めていただくことを推奨します。
 では杉田師匠の「フェミニズムで読み解く『ドラえもん』」最終章をお届けしましょう。

●りっぱなフェミになるぞ!

 さて、本書についてぼくもさんざん貶してしまいましたが、稲田豊史師匠の『ドラがたり』に比べれば数百倍マシだと思います。稲田師匠の上の書はまず第一に、そもそもあからさまな嘘を根拠に論考が進められていること、第二にのび太の弱さを狂ったように糾弾し、「弱者は死ね」との自らの信条を吐露するダシにするために著されていること(にもかかわらず、本人は熱心な藤子Fマニアであるかのように振る舞っていること)に問題がありました。
 それに比べれば、のび太の弱さを肯定的に評価しようとする杉田俊介師匠はよほどいいでしょう(事実、本書には非常にやんわりではあれ、稲田師匠を腐す個所もあります)。
 ただ……それでもやはり、読み進めると不自然さが顔を出してくる。
 杉田師匠は「弱さ大好き芸人」である(よく知らないけど『非モテの品格』などを見る限りそうである)。だから「弱さ芸」の一環として、『ドラえもん』評に手を染めた。
 その評はあっている部分も大いにあるものの、やはり自らの心情を吐露するダシになっているところがあるように思うのです。
『ドラえもん』第7巻の最初の話は「帰ってきたドラえもん」です。
 しかし、その次に掲載された話が何だったか、ご記憶でしょうか。
「小人ロボット」です。
 師匠はこれを、Fの意図的な配置だとします(41p)。
「小人ロボット」はのび太が寝ている(そう、本話はのび太のすぐに寝るという特技が発揮される回でもあります)間に何でもやってくれる。しかし調子に乗ったのび太が使いすぎてしまい、いざ宿題をやらせようとすると、それまで寝すぎたため、もう眠れなくなったというお話。のび太の道具依存とそれに対するしっぺ返しが描かれる、典型的な話です。ドラえもん自体がこうした「のび太を助ける小人ロボット」そのもののような存在であることも含め、ある種、スタンダードな話を「再開第二話」目に意図的に持ってきた、というのは恐らく間違いがない。
 しかし、杉田師匠の筆致は何というか、「のび太の進歩のなさ」を強調し、それを過度に肯定し、はしゃいでいる感じがどうしてもする。
 それは「さようならドラえもん」評にも表れており、ジャイアンを根性で倒すのび太のことを、師匠は「けっして男らしくもかっこよくもありません。(40p)」というのです。

 大切なのは、この短編の最初の方でパパが言ったような意味でのび太が「男らしく」ふるまうのではない、ということではないか。
(40p)


 何が何だかわかりません。
 本話でドラえもんは自分がいなくなった後ののび太が「ジャイアンやスネ夫にいじわるされても、やりかえしてやれる?」かと案じています。「喧嘩なんてするなよ」などと言っているわけではないのです。
 ジャイアンに立ち向かい、勝ったのび太は間違いなく男らしく、格好よかったのです。
 上に「パパが言ったような」とありますが、これはドラえもんが未来に帰ると知って半狂乱になるのび太に、パパが「男らしくあきらめろ」と諭したことを指しており、「男らしさ」を何よりも憎む師匠は、「Fは男らしさを肯定してはいないのだ」と強弁せずにはおれないのです。
 そしてこうした「杉田の強弁」は、「りっぱなパパになるぞ!」評においても発揮されます。

 そんな「ダメ」さの悪循環の中で少しずつ年をとっていき、くたびれていくこと。一生自分は「りっぱ」で「すばらしい」大人にはなれない、と覚悟すること。
(44p)


 いや、本話は確かに、のび太が大人の自分に会いに行って、相変わらず「ダメ」であることに失意する話ですが、しかし大人ののび太はまだあきらめておらず、「勝負はこれから」と語るのだから、これは明らかに違うでしょう。
「あの日あの時あのダルマ」も引きあいに出されます。過去の思い出の品を取り寄せるひみつ道具にハマってしまったのび太が哺乳瓶を取り出し、幼児時代を懐かしみ出す(それでミルクを飲み出す!)話。しかしひみつ道具は幼い日、亡くなる直前のおばあちゃんが自分にくれたダルマをも取り寄せてしまいます。のび太はおばあちゃんが「自分が死んでからも、ダルマのように倒れてもひとりで起き上がる子になって欲しい」と望んだことを思い出し、立ち直るというエピソードです。
 しかしのび太に立ち直って欲しくない杉田師匠は以下のように言います。

よく読みなおしてみれば、おばあちゃんのダルマのエピソードは、「あの日あの時あのダルマ」という短編の前半までの問いに対して、ちゃんとした答えにはなっていません。ドラえもんが示唆したような、未来に目を向けて、前を見て進歩すべきだ、ということをおばあちゃんは何も言っていないからです。
(46-47p)


 え……?
 言ってるんじゃないの?
 だってこれは、おばあちゃんが遺していくのび太へと、遺言のごとく言ったことなんだから。
 マニアの書いた良書、『ドラ・カルト』ではおばあちゃんは「元祖ドラえもん」と評されています。それはのび太の守護者であり、また、「いつかのび太の下を去る存在」だからでしょう。
『ドラえもん』が始まった時、既に故人であったおばあちゃんと、「あらかじめ最終回が描かれた」ために、いつかのび太の下を去ることが暗示されているドラえもんとは、まさにパラレルな存在です。
 本話は『小学六年生』三月号、つまり来月から中学生、雑誌で『ドラえもん』を読むのはこれで最後、という読者に対して描かれました。即ち、これもまた一つの『ドラえもん』の最終回であり、「さようならドラえもん」と類似したお話が、ここではおばあちゃんに仮託して描かれているのです。
(ちなみに「りっぱなパパになるぞ!」もそうなのですが、『小六』三月号に掲載される『ドラえもん』は、こうした「最終回」めいた話が描かれることが多いのです)

 さて、「杉田の強弁」にそろそろとどめを刺しましょう。
 師匠が扱っていない「いたわりロボット」というエピソードです。
 パパの茶碗を割ってしまったのび太、パパに叱られると同時にあやとりをしているのが男らしくない、と言われてしまいます。
 しょげたのび太にドラえもんが出してやった「いたわりロボット」という優しい母親風のロボットは茶碗を割ったことを「パパに新しい茶碗を使わせてあげる」善行だと言い(この、わけのわからないロジックで相手を丸め込む感覚がまさにF的です)、「男らしくない」という叱責に対しても「男らしさがそんなにいいことか、男らしさを振り回す者が戦争を起こすのだ」と言ってやります。
 いたわりロボットべったりになったのび太に、ドラえもんはタイムテレビで未来の姿を見せてやります。そこでは乞食になったのび太が「こうなれば泥棒にも火事にもあわず、幸福だ」とロボットに諭されている姿が映し出され、のび太が目覚める、というオチ。
 そう、Fが「進歩しないこと」を肯定していたか否かはもう、自明です。
 しかし師匠は、こうした作品を俎上に載せないことで、強弁を続けているのです(でも、他の話に対する扱いを見ていれば、ロボットが男らしさを否定する下りだけを恣意的に採り挙げて称揚してもよさそうな気もしますが)。

●憎くてたまらニャい

 前々回の「ポンコツ、ドラえもん」でも書いたように、師匠は「(のび太ばかりでなく)ドラえもんもまた、弱い」という奇妙な主張をしてしまっています。
 それは本作の主役がのび太であり、ドラえもんは極論すればスタンドのような存在に過ぎないのだけれども、師匠がそこを理解しないままに筆を進めたがため、また「弱さ芸人」である都合上、「主役であるドラえもんも弱い、弱くなければいけないのだ」との思い込みで論ができ上ってしまったのではないか。
 まあ、前回までのぼくの本書に対する評は、大体そんなところでした。
 が、もう一つだけ指摘しておきたいことがありました。
 師匠が「未来のデパートでセール品になったこと」をドラえもんの「弱さ」の根拠にしているのを、ぼくは「ドラえもん大辞典」という番外編を持ち出すのはどうかと批判しましたが、同様にこの番外編では例のドラえもんがネズミに耳を齧られ、ガールフレンドに笑われるエピソードも描かれています。ここではドラえもんが過去へ来たのが失恋の傷を癒すためとされ、結構重大と言えば重大なエピソードと言えるのですが、師匠は以下のようなことを言い出すのです。

 つまり、たんに耳をかじられたことだけではなく、ガールフレンドから残酷に笑われた、という体験がドラえもんにとってはトラウマになり、それがネズミに対する過剰な恐怖心になっているようなのです。ドラえもんの惚れっぽさ、メス猫やおもちゃのロボットに対する執着の奥底には、ある種の女性恐怖のような感情があるのかもしれません。
(55p)


 何だそりゃ!?
 いや、ドラえもんがメス猫、ないしおもちゃの猫に恋をする話は何度か描かれています。終盤ではガールフレンドとのデートが度々描かれます。
 が、まあ、それは(あくまで脇役でしかないドラえもんにスポットが当たった、極端に言えばジャイアンの誕生日話などに近い)まさに番外編でしょう。
 そもそもそうドラえもんが恋多きロボットだと言われても「そうかなあ」という感想しかありませんが(ただ、のび太の言によればガールフレンドの猫が大勢いるようです)、重要なのはそこではありません。
「ドラえもんは女性に惚れっぽいから、女性恐怖症なのだ」としてしまう杉田師匠の感覚は全くもって理解に苦しみます。
 いえ、当ブロマガの愛読者の方にはおわかりかもしれません。フェミニズムには「女好き=女嫌い」という謎の論法があるので、まあ、フェミニズムを前提すればそうなんだろうな、と。しかし上の文章は、上の引用を最後にぷっつりと終ってしまっているので、普通の人が読んでも単なる支離滅裂な文章になってしまっています。
 いえ、結論を言えばフェミニズムこそが支離滅裂なのですが。

 ――さて、まあ、 長くなりましたが『ドラえもん論』論はこんなところです。
 前回も近いことを言いましたが、フェミニズムはあらゆる文化を否定し、破壊するためにこの世に存在しています。
 杉田師匠は何とかフェミ様の怒りを鎮める祈祷師のような役割を担ったとはいえますが、必要なのは祈祷師ではない。
 ジャイアンに参ったと言わせるまであきらめない、のび太のような男らしさが、ぼくたちには求められているのです。

ドラえもん論 すぎたの新強弁

2020-05-02 20:39:32 | 弱者男性


※この記事は、およそ11分で読めます※

 ――さて、みなさんお待たせしました、先週の続きです。
 待ってない方々は前回記事から読み進めていただくことを、推奨します。
 いよいよ以降は杉田師匠流の「フェミニズムで読み解く『ドラえもん』」です。

●ジェンフリ世界

 以前、『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』について語った時、ぼくは『ドラえもん』がアメリカに進出したというニュースをご紹介しました。その時、「グローバルスタンダード」にあわせてしずちゃんの性格がボーイッシュなものに改められることになった、と報じられたのですが、それに対して藤子マニアが「元々しずちゃんは行動的な女の子だ」と主張していたのです。その時に、マニアが持ち出していたのが80年代に描かれた「男女入れかえ物語」という、しずちゃんとのび太が身体を入れ替える話。「しずちゃんが女らしくてどこが悪い」と堂々としていればいいのに、わざわざ例外的な話を持ち出して強弁しなくても、と思ったものです。
 さて、では、本書では……?

 しかし、しずかには男女の身体が入れ替わるという話も多く、終盤にいたると、じつは男の子的な性格もうちに秘めていた、ということが明らかになります。
(61p)


 はい、案の定ですw
 もっとも何故かタイトルは記されていませんが(人間の身体が入れ替わる話は確かに多いですが、ジェンダー的な問題に言及されるのは上の話くらいじゃないかなあ……?)。
 また、そもそもしずちゃんが配偶者として出木杉でなくのび太を選んだのも、実はしずちゃんが男性性を持った女性だったからだそうです。あぁ、そうですか。
 それと、ぼくが上の記事で書いた通り、出木杉君が「これからは男も料理ができなきゃ」と説く話についても嬉しげに言及がなされています。
『ドラえもん』は膨大な作品数を持つコンテンツ、もうそれ自体がアカシックレコードのようなもの。そこから恣意的に要素要素を抜き出せば、何だって言えてしまう。師匠は『ドラえもん』をそんな風に政治利用している、ドラシックレコードを悪用しているだけなのです。
 そう、稲田豊史師匠の著作は嘘を根拠に、次々とのび太に冤罪を着せ、何かその勢いでロスジェネも死ねと呪うものでしたが(註・「死ね」とは言っていません)、杉田師匠の著作は何とか『ドラえもん』を自分たちの味方に引き入れようと、悪戦苦闘するものであると言えるのです。
 例えば、こんな記述があります。

 ところで、『ドラえもん』には、現代の価値基準でいえば、保守的・性差別的な面がまったくない、とは言い難いかもしれません。
(65p)


 そら来た、と思いながら読み進めると、「オトコンナを飲めば?」ついての言及が始まります。
 同作はぼくも上の記事(『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』)で「70年代に描かれた、ジェンダー規範をよしとした話」の例として言及しましたが、師匠の採り挙げ方は、サッカーを嫌うのび太が「あんな野蛮なものを男らしいスポーツと決めたのは誰だ」とぼやくシーンを嬉しげに称揚する、というもの。
 いや、そう言うのび太の願いを受け、ドラえもんが「オトコンナ」で男女のジェンダーを入れ替えたものの、のび太は「やっぱり元のままがいい」と言って終わるのだから、上のセリフは作品としては否定されているのですが。
 皆さんご承知の通り、のび太はあやとりや居眠りが特技。それぞれ「あやとり世界」、「ねむりの天才のび太」といった話で遺憾なく発揮されますが、師匠はその後者を持ち出して、のび太の「居眠りをしていれば戦争も起きない」といった発言を引用して大はしゃぎ。
 要するにのび太はしずちゃんの入浴を覗くけれども、男性ジェンダーに揺らぎを感じている存在であり、だから見どころがあるのだ、というのが師匠の言い分です。男性性に欠けたのび太は、何か、秩序の攪乱者なんだってさ。
 後、「あやとり世界」では「手がゴムまりであやとりができない」ドラえもんがすねてしまいますが、これは何か、障害者の排除を暗喩していて、深いんだそうな。
 しかし、当たり前の話なのですが、これら「男性性に欠ける特技」は基本、のび太の欠点として描かれるのです。
 藤子Fはのび太について、「これじゃダメだということはわかっている」のだと述べていました。現状に決して居直っているわけではないことが、のび太の長所であると。上の二作品はもちろん、のび太があやとりや居眠りを肯定する、いわば「居直ろう」とする話ではありますが、だからこそしっぺ返しのオチがつくわけです。
 そこを、師匠は長所であるかのように言わんとしている。
 師匠も言及する通り、『ドラえもん』は「弱さの肯定」がその本質というのは、ある意味では正しい。しかしそれは「男の子なのにあやとりをするなんて素晴らしい」と説く種類のものでは、全くない。そこを師匠は曲解しているのです。

●聖女ジャイ子?

 さて、動画にもあったように本書、ジャイ子について実に饒舌に述べられています(といっても、ホンの5pで、劇場版に比べれば微々たるものですが……)。
 師匠はジャイ子を「驚くべき成長を遂げている」とします。
 これはどう評価していいか迷います。ぼくのかつての記事をお読みいただいた方、或いは『ドラえもん』マニアの方は周知でしょうが、ジャイ子はごく初期に「のび太の未来の悪妻」となるガサツな年下の女児として、数回だけ登場した存在。上に初期のドラミが言わば「敵」であったと形容したように、まさに手に負えない「敵」としての登場でした。
 が、長らく忘れ去られていた彼女は十年ほどのブランクを経て、「漫画家志望の少女」という属性をつけ加えられ、再登場したのです。かつてのガサツな性格は姿を消し、(しずちゃんとの結婚が確定したからでしょうが)のび太もまた彼女を忌み嫌ったりはしなくなります。この辺りのキャラ配置の変化を伏せ、恣意的に捻じ曲げることでジャイ子を持ち上げ、のび太を貶めたのが稲田師匠でしたが、「ジャイ子の成長」と解釈するのが杉田師匠です。
 成長というのも間違いじゃないでしょうが、どっちかと言えば作品世界が根本的に変わったがため、ジャイ子もまた変化したということだと思うのですが(例えば、この再登場までにジャイ子自身が自らのガサツな性格を省みて、今のような性格になった、といった経緯は考えにくいでしょう)。
 しかし師匠は

 ジャイ子は本当に気高い女性です。たんなる「結婚によってではなく職業によって自立する女性」というだけにはとどまらない気高さがある。多分のび太と同程度の、もっと過酷なスクールカースト下層を強いられているはずなのに、再登場してからは、少しも性格をこじらせていません。
(76p)


 とただひたすら、彼女を称揚します。
 何しろ彼女のペンネーム、「クリスチーネ剛田」は彼女がキリストのように気高いからだとか何とか、悪いけどもうどっ退きです。
 ジャイ子の「まんが道」を実に丁寧に解説し、称揚する下りは、ことさら異を唱えるつもりはありませんが、しかしいずれにせよ、師匠に限らず、ことジャイ子については女性を中心に大仰に持ち上げすぎ、の感は否めません。何しろ再登場後も初期はジャイアンリサイタルと同じで、「つまらない漫画を無理やり誉めさせられる」というギャグのネタ要員でしたし。
 また、師匠は茂手もて夫との関係性を「漫画を媒介にした友情」だと言い張ります。
 そう、ジャイ子は本来ならば無理目の、女子にモテモテの男子を好きになってしまうのですが、実はそのもて夫も漫画マニアで、趣味をきっかけに仲よくなるのです。
 稲田師匠はこのもて夫を「極力言及しない」ことで抹消しましたが、杉田師匠は「友情なのだ」と強弁するという裏技で乗り切りました。そんなことを言われたって、ジャイ子にはもて夫に対する恋愛感情があるのだと解釈するのが、普通の読み方だと思います(お話ではやたらとジャイアンが気を回すので、「実はジャイ子自身はそれほど好きでもなかったのだ」といった解釈は不可能ではありませんが、そういうのをこそ、一般的には牽強付会というのです)。
 ジャイ子が男無用のフェミニストでなければならない人たちにとって、あくまで彼女は男を知らない聖処女であると信じたい存在なのでしょう。
 何しろ、先に書いたように師匠は(男らしさに欠けるのび太との結婚を選択した)しずちゃんまで男らしいと強弁し、二人の関係は普通のロマンスなどではないのだなどと言いだします(80p)。
 男女の恋愛が嫌いで嫌いで仕方のない師匠は、のび太と出木杉のBL本を作る腐女子くらいに『ドラえもん』を汚し続けるのです。問題は腐女子が隠れてそれをやっているのに比べ、師匠は「俺の読みこそが正しい」と言わんばかりのことですが……。

「てんとう虫コミックス」ではついに実現しませんでしたが、「バカ」で「運動音痴」で「男らしくない」のび太と、「ブス」で「デブ」で「可愛げのない」ジャイ子がもう一度、出会いなおしていたなら(恋愛という意味ではありません)。二人が新たな「心の友」としての関係を結びなおせていたら。その可能性がなかったとは思えません。
(76p)


 あの~~、ですから、お願いしますのでそういう妄想は薄い本で展開してくれませんかね(どうでもいいけどこの「てんとう虫コミックスで」って言い方ヘンですよね。雑誌掲載時や藤子F不二雄全集にはそういう話があるみたいにも読めますし)。

●すぎたの漫画修正記(コンテンツリビジョン)

 動画でも述べたように、フェミニストたちは『ドラえもん』に苛烈な攻撃を加え続けています。それはフェミニズムの目的が「文化を破壊すること」であることを考えた時、道理ではあります。
 しかし杉田師匠はとっても大好きな『ドラえもん』を守るため、フェミ様へと「お許しくだせえ」と頭を下げ続けてくれているのです。
 冒頭でぼくは「しずちゃんは男勝りだ」と強弁する藤子マニアを腐しました。フェミに無理矢理に媚びてどうする、『ドラえもん』とフェミニズムは決して相容れることなどないのに、と。
 本書もまた、全く同様です。
 前にも書いた通り、ことに女性は第一巻における記念写真の中ののび太とジャイ子夫妻を見て、「何のかんの言って幸せそう」などと強弁する傾向にあります。しかしそれならそもそもドラえもんが未来を変える必要はない。最初っから、大前提として、不幸な未来の象徴として、ジャイ子はそこに配置されている。そこすらわからないということはその人は『ドラえもん』を一切理解せずに読んでいるということです。
 杉田師匠の言説もそれと同様で、フェミニズム的価値観を通したいのであれば『ドラえもん』(や、この世にあるほとんどのコンテンツ)は全否定するしかない。
 これはまた、何とかフェミニスト様に萌え表現をお許しいただこうと思っている表現の自由クラスタたちの態度に対しても全く同じであるのはもう、言うまでもないでしょう。
 彼らはこの無理矢理なアウフヘーベンをなす必要に、どうしようもなく駆られている。時々書きますが、これよりの「オタク評論家」の仕事は、このようなものになっていくことでしょう。
『モンティ・パイソン』には軍人たちが勇ましい軍歌を歌っているのが、だんだんと「ママみたいに綺麗になりたいわ♪」といった歌詞へと変わって行き、最後に上半身を軍服で包んでいた彼らが下半身にはスカートを履いていた、オカマであったといったコントがあります。もちろん、男性性に欠けた男を嗤ったものなのですが、DVDのライナーノートには「ホモソーシャルを風刺したもの」などと書かれていたのです!
 何だそりゃ!?
 本書もまた、全く同様です。
 アフターフェミの世界においても、自分たちにとって残すことが有利なコンテンツだけは、フェミの方舟に乗せたい。そのために詭弁を弄する。
 そんな目的のために、本書は編まれました。
 後、これは余談ですが、本書には凡ミスが多いように思います。
 何しろ「ジャイ子」は本名ではないとちゃんと言明してるその1p前に「ジャイアンはジャイ子の兄(あんちゃん)だからジャイアンなのだ」といった俗説を平気で書いたり(76p)、『オバQ』のヒロインを「ミヨちゃん」としたり(222p。これも同ページで「ヨッちゃん」と正しく表記されている箇所があり、わけがわかりません)、「オバQ王国」を「オバQ天国」としたり(223p)。
 一番まずいのは『ドラがたり』の著者を「稲田高広」としているところです(66p)。これは同書の著者、稲田豊史師匠と『ドラえもんは物語る』の著者、稲垣高広氏の名前が似ているがためのミスなのですが、さすがに非道いと感じ、ツイッターで繰り返し、杉田師匠に進言しました。
 ……が、今のところ無視されていますw
 本当に、左派の人たちは惚れ惚れとするほどに、「自分にとって都合の悪い事実の指摘」から目を反らせるスキルに長けていらっしゃいます。すももも、白饅頭も、NHKも、そして杉田俊介師匠も。
 本書の長所として、稲田師匠の本のように明らかな嘘を根拠に話を進めている部分がなかったことが挙げられますが(フェミニズム関係者にしては、大いに、大変に誉めるべきところでしょう)、その代わりにミスを認めないことで、師匠は精神のバランスをとっているのかもしれませんw