兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

さらにさらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-10-30 18:03:09 | 弱者男性


『Daily WiLL Online』様で最新記事が発表されています。
 戸定梨香問題で露わになった、表現の自由クラスタの問題点について述べてきましたが、第三弾では彼らが三十年前から……といったことをご報告しています。 どうぞご愛顧のほどをよろしくお願いします。

続々:Vチューバ―"戸定梨香"騒動に想う=「フェミ」は所詮「フェミ」

■リベラルフェミニスト恐怖の正体?

 さて、詳しくは前回、前々回記事を見ていただきたいのですが、前々回ではネット上での議論を、前回ではその時に問題になった本を読んでのレビューをお送りしました。

さらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

さらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて


 まあ、いずれも実り多い体験と呼ぶことはためらわれるものでしたが……。
 おわかりいただけているかと思いますがみなさん、ぼくは色々主張する上でそれなりに調べ物をしているわけです。今回も上の二冊に目を通すついでに、図書館にある本をいくつか借りてきました。
 そして、今までもタネ本にしてきた(先の記事にも引用している)明石書店の『フェミニズム事典』も再読したのですが……この本の「リベラルフェミニズム」の項目に驚くべき記述を発見しました。

現在,リベラル・フェミニズムは、主流フェミニズムとしても知られる。
(212p・強調ママ)


 おいおいw
 これ、平安氏が持ってきたウィキの記述とほぼいっしょですよね。
 しかし、そもそもぼくがずっと説明してきたリベフェミの定義も、多くは同書の同項目の記述に依っているわけです。
 一体、どういうことか?
 これについて、動画ではこの「主流フェミニズム」という用語は、同書の「項目としては設けられていないが、事項索引には記述がある」としていましたが、すみません! 実はちゃんと項目としてありました!!
 何しろ英語圏の本の翻訳なので、「主流フェミニズム」は英語である【Mainstream Feminism】、即ち「M」で探さねばならなかったのに、そこに思い至らなかったという、これまた非常に間抜けな理由で見落としていたようです(そういうわけで今回のヘッダ画像にある【Unidentified Mainstream-feminism Animal】の和訳はもちろん、「未確認リベフェミ動物」となります)。
 ともあれ、これは「主流フェミニズム」という独自の「用語」が存在していることを意味します。そう、「ウルトラマン」が「ウルトラな男」を意味せず、あくまで「ウルトラマン」という独自のキャラクターを意味するのと同様、「主流フェミニズム」は必ずしも「主流のフェミニズム」を意味するとは限らないのです。
(そもそもこの言葉はリベラルフェミニストとも呼ばれるベティ・フリーダンが言い出したのが始まりです。「自称」なんですね)
 さて、ではこの「主流フェミニズム」とはいかなるものなのか。
「主流フェミニズム」の項から紹介すると、

 もっとも広範囲に受け入れられているリベラル・フェミニズムをさす語で,主に米国で使われる。本来,革命よりは改良をめざし,平等の権利の追求と法の力への信頼が特徴。『ミズ』(Ms.)誌はよく主流フェミニズムの代弁者とみなされていた。
(223p・強調ママ)



 こんだけです。本当に短いです。
 これだけでは何なので、「事項索引」から「主流フェミニズム」について言及された項目をチェックしていきましょう。
 例えば「キャリア・フェミニズム」という項目があります。
 このキャリア・フェミニズムとは就職や個人的な目標の達成などを目的にするもので、

 これは,「わたしはフェミニストではないけれど,でも……」という,女性がふつうに受け入れやすいフェミニズムのタイプであり,特に米国では主流フェミニズムという語で広く知られている。
(57p)



 とされています。
 なるほど、なるほどw
 今までの点がつながりつつある感じですね。
 上にある『Ms.』というのはアメリカのフェミニズム雑誌。学術的、専門的なものではなく広く女性一般に売ることを目的にしたものであり、本事典にもこの項目が作られ、「リベラル・フェミニズム、主流フェミニズムの代弁者」とされています。考えると日本でも(今では素敵な奥さんが買っているような)『クロワッサン』という雑誌が70年代、フェミニズムを推していた時期があり、或いは『Ms.』日本版を目指していたのかもしれません。
「個人主義フェミニズム」との項目もあります。これは「主流フェミニズム」の一形態ともされ、

中産階級の改良主義的立場をとり、現状を疑問視せず、既得権をもつ白人男性の価値観と目標を女性にとっても望ましいものとして、受け入れる。
(177p)



 いかがでしょう。上の解説が少々揶揄気味なものであることからもわかる通り、(そしてまた上野、小倉両師匠の「リベフェミ」に対する敵意に満ちた対談からも推察される通り)この「主流フェミニズム」は言ってみれば「俗流フェミニズム」とでも称するべきものなのです。当たり前ですが、「俗流」というのは常に「主流」となる宿命を持っていますが、「正統」なものとは限りません。

■リベフェミ首領の正体!!

 即ち、こういうことです。
 ぼくはずっと「リベラルフェミニスト」の代表者は誰だと問い続け、誰からも答えは得られなかった。それは「いない」からです。
 そして、思想としての「リベラルフェミニズム」が滅んだ存在であることは、ほぼ間違いない。
 ただし、「俗流」とも言うべき個人のライフスタイルとしてのフェミニズムはアメリカではリベラルフェミニズムとも呼ばれ、それは単純な数で言えばフェミで一番のマジョリティーかもしれない。もちろん、「わたしはフェミニストではないけれど,でも……」という解説が象徴するように、彼女らが自身をフェミニストと同定しているかとなると、極めて疑問ですが。
 だからぼくの言っていた「リベラルフェミニズム」は滅んだ、非実在フェミだという言い方はあまり正確ではなかった。
 敢えて言えば「リベラルフェミニズムは思想としては滅んでいるが、コアなフェミニストたちから(往々にして敵対的な感情と共に)リベラルフェミニストという称号を頂戴している人たちは存在している。
 もっともそれは、「本来のリベラルフェミニズム」「真のリベラルフェミニズム」の直系とは、必ずしも言えないでしょう。これら主流フェミはやはり否定的なニュアンスで「修正主義リベラルフェミニズム」と呼ばれることもあるようです。
 そうしたどこまでも実体のないのがリベラルフェミニズム/ストだと言えそうです。
 ただ、いずれにせよぼくの今までの説明は極めて不完全であり、修正する必要がありましょう。

 しかし……では、本件は「リベフェミはいる!」と主張していた人たちの大逆転勝利となるのでしょうか?
 残念ですが、表現の自由クラスタの「リベフェミはポルノを認めるよいフェミだ」は論外というしかない大嘘です。
 また、「ラディフェミとリベフェミが争っている」との俗説の真実も、ここで明らかになりました。これってアレですわ、「オタクを攻撃するサブカル」なんですな。
 サブカルは自分たちの清浄なる左翼思想をオタクに継承させ、オタクたちを自軍に加え、鉄砲玉にしたい。しかしオタクたちはただ美少女キャラに萌えているだけで、政治に関心を持とうとはしない。そこで逆恨みでオタクを攻撃している。
 それと同様に「リベフェミ(というか主流フェミであり、キャリアフェミであり、個人主義フェミ)は自分たちの政治的野望の片棒を担ごうとはしない、デキる女としてイキっているだけだ、場合によってはオタクが社会的成功を享受しているように、有能な旦那をもゲットしている、許せない……!」というのがリベフェミを叩くラディフェミの本音だったのでした。それは上野小倉両師匠の対談を見ても明らかですね。
 そこを、表現の自由クラスタは「正義のリベフェミが、表現の自由を守るために悪のラディフェミに敢然と戦いを挑んでいる」というミスリードをしていたわけです。

 では、平安氏はどうでしょう。先にも述べたように彼は表現の自由クラスタについて否定的で、「リベフェミも表現規制に肯定的」と指摘していました。この点は全く正しく、表現の自由クラスタとは比べるべくもありません。
 実は彼は「フェミニズムとは運動だ」と主張しており、ぼくは抱腹絶倒の珍論として一蹴してしまいましたが(だって理念、思想もない運動などありえないのですから、そんな無茶な論法はありません)、しかし「リベフェミは思想としては終わっているが、運動としては継続している」とは言えようし、彼の言はある意味では正しかったのです。
 そう考えると、やはり抱腹絶倒の珍論に思われた「エマ・ワトソンがリベフェミの代表」も「ある意味では正しい」と言えましょう。
 ただし、これはかなり平安氏寄りの、彼の味方をした言い方です。
 ぼくとの議論においての彼が正しかったかとなると、それは残念ながら違うでしょう。
 まともにソースを出せず、せいぜいがウィキの引用などであったことからも、彼の言は議論の体をなしていたとは言えない。
 また、彼が今回ぼくの調べ上げた経緯を理解していたかは、はなはだ心許ない。
 平安氏もやはり表現の自由クラスタの言に引っ張られ、正しい知識を持っていなかったと見るべきではないでしょうか。

■リベフェミ全滅! 表現の自由クラスタの最後!!

 フェミニズムは運動である。
 リベラルフェミニズムは穏健派である。
 リベとラディが対立している。
 これらはまあ、ある意味、正しいともいえる。
 が、「リベラルフェミニズムは主流派である」は正しくない。
「主流フェミニズムと呼ばれる俗流のフェミが、アメリカではリベラルフェミニズムとも呼ばれる」が正しいわけです。
 さらに言えば本格派のフェミニストが、「意識の高いデキるOL」みたいのを敵視して呼びつけている用語としてのみ、それは存在しているともいえます。
 要はレッテルであって、レッテルというのは「そのレッテルを貼りたい人の脳内」にしか像を結ばないものではないでしょうか(例えば、「ミソジニスト」という存在が、この世にいるのでしょうか。「敵視する人をミソジニストとして糾弾する人」だけが、実在しているのではないでしょうか)。
 そして「個人主義フェミニズム」の項の記述を見ればわかるとおり、「主流フェミ」は「社会に明らかに強大な害を及ぼし続けてきた『真のフェミ』に比べれば、まあ、実害が少なそうだし、勝手にやっとれとは思うが、それ以上のものではない」といった辺りが妥当な評価であり、「正しいフェミだ、さあ持ち上げろ」とのうわ言には一切、賛同できない。
 そして、こうして事実関係を明らかにした後に見えてくるのはやはり、そこまでして「フェミ」の看板だけを延命させようとする表現の自由クラスタの欺瞞です。
 久し振りに、ちょっとだけ詳しく『ルパン三世』の比喩を持ち出して、本稿を締めましょう。
『ルパン』の第一期に「タイムマシンに気をつけろ!」というエピソードがあります。タイムマシンを使う強敵に命を狙われ、ルパンが死を覚悟する話です。ルパンはいきなり不二子を「結婚しよう」と口説き出す。その真意は不二子に名前だけでも継いでもらおうというものでした。となると(明日にも殺されようという以上)不二子とその辺の金持ちだかイケメンだかの間に生まれたボンクラがルパン四世を名乗る可能性が高いのですが、それでもここで家系が途絶えるよりは、というのがルパンの算段だったのでしょう。
 そう、リベフェミとは紀伊国屋文左衛門二世と同レベルの、ルパン四世だったのです。

 ――さて、以上で長らく続いた「リベラルフェミニストとは?」という議題に対するぼくの回答は終わりになります。
 が、ぼくがガンバって本を読んでいる間にもネット界隈では表現の自由クラスタの流したデマを真に受けて大量に拡散し続ける人間が複数出現するという、地獄のような状況。
 来週はそれらについて、ちょっとだけオマケを書かせていただきたいと思っております。



さらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-10-23 18:42:23 | フェミニズム


 現在、『Daily WiLL Online』様で戸定梨香騒動について書かせていただいています。もっとも、この問題には「表現の自由クラスタ」が深くかかわっており、そうなると彼らののおかしさにも言及せざるを得ません。そんなわけで彼らに対しても少々辛辣な記事になりましたし、それは本稿も同様なのですが……。

Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」
続・Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」

怪人よくわからない博士とリベフェミスクール

 さて、詳しくは前回記事を読んでいただきたいのですが、ツイッターでの議論をきっかけにしてこの忙しい折、またフェミ本と格闘せねばならなくなりました。
 まず『女のからだ』から行きましょう。
 が、タイトルを見ればわかるとおり、本書のテーマは妊娠だ、中絶だといったこと。
 胎児殺害は女の権利だ、女の権利だと繰り返し、反対者は右翼なので悪だ、子供を大切にというお題目の裏には戦争に投入するためという真意が隠れているに決まっているのだ、そうじゃなきゃイヤだ、とお決まりの妄言をただひたすら書き並べているのみ。
 例えば中絶手術は母体に危険で云々……といった主張でもあればまだしも頷けるのですが、それはゼロに近い。
 以前、『WiLL』様の記事でお伝えした、青い芝の会(伊是名氏も影響を受けている障害者団体)について妙にこと細かに語られていること、ピル反対派らしく中ピ連について批判的なのは笑っちゃいましたが。
 もっとも、5p辺りに「リベラルフェミニズム」についての記述もちゃんとあります。といってもそれはリベフェミは60年代に活躍し、法的、制度的な変革を求めた、その意味でラディカルフェミニズムとは対立的であった、というもの。つまりぼくの言っていることをそのまま裏書きするものであるわけです。
 後は最後にちらっと以下のような記述も。

アメリカで主流のリベラル・フェミニズムは、男性優位の家父長制社会に対する批判には熱心だが、(中略)むしろそれらを積極的に利用することを通して、男女平等と女性の社会進出を促進してきたという性格が強い。
(229-230p)


 なるほど、確かに「リベフェミが主流」といった記述が見て取れます(くどいですがこの点は次回に述べます)。
 しかし、これは本当に副次的な記述であり、リベラルフェミについてこれ以上の情報はありません。
 大変残念ですが、ツイッター議論における、「珍しく書籍がソースとして挙げられたものの、読むだけムダだった」事例がまた一つ増えたにすぎない、という感じです。

ラディフェミ恐怖学校へ入学せよ!!

 さてもう一つ、『ザ・フェミニズム』に行きましょう。
 先にも述べた通り、日本を代表する二大フェミニスト、上野千鶴子師匠と小倉千加子師匠の対談本なのですが、冒頭から延々延々、フェミ仲間へのグチを並べ立て、「あんなヤツはフェミニストじゃない」の何のと繰り返され、どっと読む気が減退。基本は行政寄りの、マスコミ寄りのフェミを持ち出しては叩いています。上野師匠、この時点で東大教授をやってたんだから、自分はどうなんだという感じなんですが。

小倉―だから、立候補するフェミニストと立候補しないフェミニストっていうのがいてですねえ、私は、立候補するっていう時点でフェミニストではない、とさえ思っていますよ。
上野―まあ、人種が違うかもしれませんね。
(26p)



 もうこの時点で本書が学問上のフェミニズムの定義について述べる上で、根拠に使える本ではないことが明らかになってしまいました。だってこの理屈では田嶋陽子師匠もフェミニストではないことになる。当然、これは対談という本の中での(感情に任せた)暴論であり、まあ、言葉のアヤというヤツです。対談という本の性質を鑑みればわかることなのですが、そこを斟酌しなくていい、というのが平安氏の考えなのですね。
 他にも田中真紀子や大阪の女性府知事の名を挙げ、「こんなヤツらが正解で活躍したところでフェミの勝利と言えるのか云々」と、固有名詞を「高市早苗」に入れ替えたら今回の総裁選への文句に使えそうな物言いが繰り返されます。もっとも、女性とは言え自民の保守的な政治家がフェミに好かれないのは、当たり前のことではありますが。

 以降も(動画で述べたことなので簡単に済ませますが)主婦や女子大生たちが自分たちの思想に傾倒してくれないことへの嘆きが続きます。
「結婚しているフェミは結婚制度を擁護するフェミであり、セクシュアリティを語れない(小倉・大意・94p)」
「専業主婦を選択した上でフェミだと名乗るのは論理矛盾(上野・大意・113p)」
「結婚とフェミニズムは相容れない(上野・大意・132p)」
 など、まさにフェミという感じの会話。
 そろそろ本も終わろうという200pを超えた辺りで、ようやっと「リベラルフェミニズム」という言葉が出てきますが、これは前回にリンクを張ったツイに貼られた画像の辺りです(ただし、画像は文庫版と思しく、ソフトカバー版を元にしたぼくとではページ数は異なっています)。
 ここは先に書いた通り、小倉師匠の「リベフェミは敗退し、ラディフェミが勝利した」との主張に対し、上野師匠が異を唱えるという内容。
 しかし「リベフェミが体制の中に生き残った」という考えは両者が共有しており、要するにここでの小倉師匠の言い分は「思想としてはリベフェミは形骸化した」という(ぼくと同じで、まあ、客観的に見て妥当と思われる)もの。
 ただ、「体制側に行った」というのは恐らく、乱暴に言えば田中真紀子ブーム的なものをも包括してのことであり、しかも上野師匠も東大教授であることを思うと、「ひがみ」であると同時に、その「ひがみ」の根拠すらもが薄い、当を得ない物言いという他はありません。
 彼女らにとっては「夫婦別姓」推進派もリベフェミのようで、確かに「法改正による男女平等」を目指しているという点ではリベフェミ的とも言えますが、しかしこの「夫婦別姓」には明らかに家族解体、結婚解体の思想がある。となると、理念としてはラディフェミとも思える。
 正直、「夫婦別姓」というのがどの辺りから出てきたのか(リベフェミとラディフェミ、どちらを出どころと考えるのが妥当か)はわからないのですが、「ラディフェミ」側のものではないか……とぼくには思える。
 つまり、両師匠の「ラディ/リベフェミ定義」が今一、判然としないのです。
 ただ、読み進めると両師匠はリベラルフェミニズムを「保守」だと言い募り、

小倉――(前略)したがって、リベラル・フェミニズムとラディカル・フェミニズムの違いは、保守か破壊か、となる。
(中略)
上野――保守が悪くて、破壊が正しいかということよりも、近代の枠組みを与件として認めるか、認めないかという違いです。
(211p)



 などと言っています。
 要するに、主婦や女子大生への嘆きと同様、そもそも結婚など解体すべきとの前提を持つ両師匠にとっては「夫婦別姓」など「まだぬるい」「過激さが足りぬ」という苛立ちを「リベフェミ」にぶつけていると言えるんですね。敢えて二人の主張から演繹するならば、「リベフェミとはぬるいフェミ」というのが定義であるようです。
 さて、(動画を観た方にはもうおわかりのことなのですが)「では、厳密なリベラルフェミニズムの定義はいかなるものか?」という疑問への回答は次回へと取っておくとして、せっかくなのでもうちょっとだけ本書のレビューを続けましょう。

リベラル墓場 よみがえるフェミニストたち

 さて、ここで朗報です。
 朗報と言っても青識亜論とか表現の自由クラスタのみなさんに対する朗報です。
 というのも、本書の後半になると、上野師匠が「援交」を肯定する発言をし出すのです。
 え? どこが朗報だかわからない?
 要するに上野師匠にとって「援交」は女子高生が自主的に、自律的にやっていることだから好ましいということなのです(念のために言っておきますが「自立」じゃなく「自律」です。自分をコントロールしてるってことですね)。
 援交JKたちはボーイフレンドにはただでやらせている(必ずそうなのかは知りませんが、上野師匠にとってはそうなのです)。つまり「金を取るセックス/取らないセックス」を設定している。それは「家父長制の裏をかく」ことだから素晴らしいのです(もっとも、その一方では「裏をかいているだけで家父長制そのものを全否定していないという意味で、一種のリベフェミだ」とも言っており、もうこうなるとよくわかりませんが)。
 師匠はまた、東電OL殺人事件の被害者も家父長制に挑んだ英雄のごとく称揚します。『女ぎらい』にもやはり同じ被害者をやたら持ち上げる箇所があるのですが、いや、彼女は男を、女であることを求めていた(言ってよければフェミニズムの犠牲者である)ただの哀れな女ではないでしょうか?
 しかしです、これって以前にお伝えした牟田和恵師匠『実践するフェミニズム』の内容と「完全に一致」してはいないでしょうか?
 青識亜論、白饅頭といった「真のオタクの味方」たちが絶賛するこの書においても、「売買春の否定は女性の自己決定の否定だ」、「一律に禁じるのは女性の自己決定を妨げる」とやたらに援交JKに対して肯定的でした。
 そう、同様に援交JKを肯定する上野師匠こそ、性に寛容な、ぼくたちオタクの味方だったのです!!

上野―(前略)援交を実際にやっていた女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしてました。男から金を取るのはなぜか。「金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ」ということをはっきりさせるためだ、と。
(中略)
上野―配分ですよね。「私はあなたの所有物ではない」ことを思い知らせるために金を取るんだ、と彼女は言うんです。
(中略)
小倉―それなら、援交も別に悪いことではないじゃないですか。
(中略)
上野―援交の女の子は悪くない。けど援交男は悪い。援交そのものは気に入らん。
(231~232p)



 え……?
 ま……まあ、青識亜論や白饅頭が絶賛する牟田師匠の本もあそこまで援交を肯定しながら一方では

セクハラを生み出している背景と売買春とには、通底するものがあるのだ。
(194p)



 と言っているし、まあ、何か知りませんが問を感じてはならんのですよ、きっと。
 結局、宮台師匠の「援交JKage」は、「女子高生のケツに隠れての、大人という権威への投石」という他愛ない、学生運動のしょぼいしょぼい「最終回」でした。
 宮台師匠がそうであるように、当時(というのは「パパ活」などではなく「援交」という言葉の流行った90年代ですが)援交JKを語るフェミニストの表情は、どこまでも欲情に潤みきっていました。
 それはこの「援交」において、「オヤジ」という「買春」の主体がもう、哀れなまでに惨めな生物として描かれるコンセンサスがあったからでしょう。そう、フェミニストたちはJKに自己を投影し、「負のポルノ」を楽しんでいたのです。
 町田ひらく先生の真性ペド漫画が女性に人気があるのもそれと同じ原因ですよね。彼が評価されるきっかけは「幼女が何だか妙に男に対して上から目線で宣いつつ股を開く」という漫画でした。

 一方、小倉師匠はどういうわけかクィア理論に批判的。
 クィアの手法は「パッシング」だからダメなのだそうです(216p)。
 この「パッシング」、「マジョリティに紛れ込む」との意だそうで、トランスがよく言う「パス度(=世間に女に見られる度)」と同じ意味あいかと思います。即ち【Passing】ということですね。性的マイノリティたるもの、マジョリティとうまくつきあっていこうなどと思わず、この異性愛強制社会を変革せよ! というわけです。
 しかし、動画では両師匠が「何故女子大生は革命戦士にならない」と嘆いている、と書きましたが、これこそ、「ホモども、オカマども、私たちのための革命戦士となれ!」と言っているのと変わらないのではないでしょうか。
(不思議なことに、上野師匠はこの小倉師匠の言い分には否定的です。ただ、考えると坂爪真吾師匠がやたらとクィアを叩いていたところを見ると、後に否定派に回ったんじゃ……と邪推もしてしまうのですが)
 さらに小倉師匠、「新・専業志向(「夫は仕事と家事、妻は家事と趣味的仕事」という主婦像だそうです……)」は実現しないと主張し、

小倉―(前略)だから私は、どんどん女性偏差値を上げてリッチな男をゲットせよ、と学生にそそのかしてます。
(234p)



 と言います。この「だから」がつながってないとお思いでしょうが、これは「女に高望みさせて婚期を逃させよう」と言っているのです!
 革命戦士どころではない。「戦線に人間爆弾として投入するのだ」との宣言をいただきました。
 フェミはまさに、悪魔なのです

 ……というわけで、本筋からは逸れましたが、二冊のフェミ本の簡単なレビューを済ませました。
 次回は感動の最終回、「リベラルフェミニズム」の真実がいよいよ明らかになります!

さらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-10-16 18:07:11 | フェミニズム

 さて、新記事です。
 既に動画でも近い主旨のものを挙げていますが、それを補完する内容をこれからしばらく上げていくので、ご愛読いただければ幸いです。

風流間唯人の女災対策的読書・第25回「ラディ/リベフェミ最終解答」


 ぼくは度々、「表現の自由クラスタ」が流した「リベラルフェミニスト」についてのデマを批判してきました。
 彼らは「リベラルフェミニストはポルノなど表現の自由を重視するよいフェミだ」と口を揃えます――いや、それも最近、あまり言わなくなった気がします。ぼくが彼らのウソをしつこく周知させてきたから……ということでは、残念ながらないでしょうが。
 しかしそれは「100%のウソ」とまでは断言できなくとも、かなり事実を恣意的に曲解した、一般的な感覚で言えば「ウソ」としか言いようがないものであり、そればかりかリベフェミというのは原則論として「既に滅んだ」、「非実在フェミ」なのです。
 ともあれ、この件についてはぼくがもう随分以前に決定版とも呼べる記事を書いているので、未読の方はまずはそれを読んでいただきたいところではあります。
 ……が!
 今回、その「決定版」に修正を加える必要が出てきました。
 少々込み入った話なので、順を追って説明していきますので、恐らく三回くらいに渡る記事になりますが、おつきあいください。

怪奇・何だかよくわからない人

 ……さて、きっかけは最近、この件でまたもめてしまったことにあります。
 そのせいで時間のない中、『ザ・フェミニズム』と、『女のからだ』と二冊のフェミ本を読む羽目に陥ったのですが……。
 ただし、まずはその「もめた」ことの中身をご説明しなければなりません。
 また本件、複数人がかかわっているのですが、面倒なのでメインの一人を除いてはA氏、B氏と表現します。そのメインの人物は、名前を出していいのかどうかわかりませんが、「平安和気」。以降この御仁のことは平安氏と呼称することにしますが、ともあれ彼がリベフェミについて語っていたので、ソース(上の記事にもある『女性学辞典』の引用)を挙げたのですが、彼は狂ったようにこちらを罵倒してきました。
 この方、以前からこちらを敵視していたのですが、簡単に説明をしておくと一応、アンチフェミで、青識亜論のことも敵視しています(以前、動画で青識に恣意的な採り挙げられ方をした人物として、紹介したこともありますね)。
 つまり、本来であればこちらの仲間と考えるべき人物であり、以前は友好的なツイのやり取りをしていたのですが、ある時期からこちらを敵視して、罵ってくるようになりました(きっかけもうろ覚えなのですが、確かぼくの発言を見ていきなり「お前は無知だ」と罵倒して来たような……)
 まあこの人、むやみと保守を自称しているのですが、ピル神を称揚するなど、発言からすると非現実的な認知を抱えたリベラル、という印象なんですけどね。

恐怖・わからないレスをする人

 さて、そんなわけでまともな対話にはならなかったのですが、彼の主張は「リベフェミはいまだフェミの主流派だ」というもの。
 いきなり英字のリプを送ってきたので、( ゚Д゚)ポカーンとなりました。

https://twitter.com/heianwaki/status/1431107880606785537

「英語サイトの引用なら、出典を示してくれ」と告げたのですが、反応なし。
 そこへ第三者のA氏から「ウィキの引用では」と言われ、ようやく合点がいったのですが、ならちゃんとそう書けって!
 さて、調べたら確かに同様の文が英語版ウィキの「Liberal feminism」の項にあり、また日本語訳すれば「リベフェミは主流である」と読み取れる箇所もあります。
 が、言うまでもなくウィキとは万人が自由に書き込みできるもの。資料としては紙資料などに比べれば一歩落ちる、というのが常識です。
 事実、かつてウィキ日本語版の「リベラル・フェミニズム」の項においても(100%間違いだとは言えないものの)ミスリードを誘うような書き方がなされていたことは、既に幾度も指摘していますね。
 もっとも、A氏からも反論がありました。「ともあれ、英語圏でこうした記述がある以上、表現の自由クラスタのデマというのはいかがなものか」というもので、これは大変に筋の通った意見です。
 実はぼくも(書名は忘れちゃったんですが)フェミ本で「(海外では)ラディフェミとリベフェミが争っている」との記述を読んだことがあります。
 これは表現の自由クラスタが言って回っていること一致しており、おそらくその「元ネタ」ではないかと想像できる。
 では、いずれにせよリベフェミは海外にはいるんではないか、との疑問があるかもしれませんが、そんなこと言ったって、僻地で絶滅寸前の生き残りのリベフェミが、併合しようとしてくるチェーン店に抗う個人商店くらいのレベルでラディフェミと争っていても、不思議はない。
 そしてフェミを延命させようとしている左派が、少数派のリベフェミを「我々の味方だ」と詐称している、リベラルサークルの姫になりたいフェミが、「リベフェミ」だの「ネオリブ」だの適当な名前を名乗っている、つまりは海外でも日本と近しい状況があるということは、充分に考えられる。
 つまり、「リベフェミは(現存しており)よいフェミ」という主張は「表現の自由クラスタ発の」デマではなくとも、海外の書籍か何かを持って来て、「表現の自由クラスタが日本でも広めた」デマである、といった可能性は充分にあり得るわけです。
 もちろん、これらはあくまで想像であり、裏の取れている話ではありません。
 そういうわけで、先に書いたようにこの件について再調査することになったわけですが……。

怪異!リベフェミの代表

 何より、そこまでリベフェミが主流なのならば、そのリベフェミの具体例は誰なのか。
 この問いに、表現の自由クラスタは何年もかけて答えを出せませんでした*。事実、先のウィキでもやはり過去の人物の名前ばかりが挙げられておりました。
 ところが!
 このフェルマーの定理並みの難問に、何と今回、平安氏は最終解答を出しました。
 エマ・ワトソン
 本当です、この人、真顔で「エマ・ワトソンがリベフェミの代表だ」などと書いていました。

https://twitter.com/heianwaki/status/1431130939237617666

 彼には令和の爆笑王、の名を冠するのがふさわしいでしょう。
 ここで彼についてはおしまいにしてもいいくらいですが――まあ一応、ツッコミを入れておきましょう。
 別に学者でも作家でもなく、フェミについての著作があるわけでもないただの女優が代表を務めるフェミの一派って、それどんだけ実体がないんですか。
 言っとくけど石川優実師匠だって著作(形ばかりのものとは言え……)もあれば、フェミ雑誌の編集をしてもいる。ぶっちゃけ彼女の方がフェミとしての格は上でしょう。
 正直、平安氏が一体どっからこんな珍説を仕入れてきたのかが、判然としない。白饅頭の著作を読んで、自分の中で勝手に解釈しちゃったのかなあ?
 もう、本稿はここで笑い話として終えてもいいんですが……。
(ここはちょっと平安氏をからかいすぎです。彼の名誉を多少なりとも回復したいと望む方は動画をご覧になってください)

* ただし、ストロッセンの名前が唯一、挙がることはありました。ストロッセンについてはぼくも著作を読もう読もうと思いつつなかなか時間が取れないでいるうち、昨今ではその名を聞くこともすっかりなくなってしまいました。
 一応、ストロッセンは「ポルノに擁護的」らしいのですが、以前も採り挙げた牟田和恵師匠の『実践するフェミニズム』によれば、その主張は「(ポルノへの)検閲を実地すれば、女性のための表現も検閲されかねない」というどうでもいいようなもの。この、ポルノを全否定した牟田和恵師匠の著作を表現の自由クラスタの代表とも言うべき青識亜論、白饅頭が絶賛していたことを考えると……。


上野千鶴子とラディフェミ大軍団

 いや、本件、この辺で終わる話だと思っていたのですが、B氏が資料をうpしてくれました。
 それが上にも挙げた『ザ・フェミニズム』。上野千鶴子師匠、小倉千加子師匠という、日本のフェミの二大巨頭と言っていい人物の対談です。
 そこに、「リベフェミが主流」といった一言があったのです。

【悲報】兵頭新児完全敗北【平安大勝利】

 まあ、そう慌てないでください。
 そこで挙げられたページは以下の通りです。

https://twitter.com/porcini16/status/1431149309131509766

 どう思われるでしょうか。
 ここを読む限り小倉師匠は「リベフェミは敗北した」と言っているわけで(上野師匠はそれに反対しているわけですが)、平安氏は「本から自分の好みの字面だけセレクトしてドヤっている」だけです(し、同じ方法論許されるならば、こっちだって「大勝利」なわけです)。
 また、彼女らは「リベフェミが体制側に取り入った」ことに憤っています。これは当たり前の話で、リベフェミの目標は均等法を通すことで達成された。そこに対して彼女らは「うまくやりやがって」と妬んでいるだけではと想像できるのです。
 逆に言えば、リベフェミはそこで目標を達成し、消滅したというのがぼくの指摘です。仮に「リベフェミのC子さん」というのがいたとして、その存在が均等法以降、物理的に消えたわけではないでしょうが、フェミニストとしてはもうやることがない。いや、それでも仮にフェミニストとして活動を続けるとしたら、例えば「ジェンダーフリー」とか、理念としては「ラディフェミ」に近づいて行かざるを得ないわけです。しかし、肩書としては「リベフェミ」を名乗り続けることもありましょう。上野小倉両師匠の憤りを見てもわかる通り、フェミというのは派閥争いの好きな人たちですから、「宗旨替えしました」と別な名を名乗り出すことはしにくいと思います。
 しかし思想としてはもう、消えてしまったという他はない。
 いや、第一、この「日本を代表するフェミ」二人がリベフェミをdisってる時点で「リベフェミがフェミの主流」って、何かおかしいと思うのが普通じゃないでしょうか。
 いずれにせよ本の数ページの、さらに一部分を恣意的に「切り出し」ているだけでは、一応、事典として書かれた書籍をソースにした主張を覆すには全然足りないわけです。
(本書については次回述べますので、気になる方はそちらに飛んでみてください)

よくわからない人・リベフェミ教室

 さて、さらにもう一人キーマンが登場します。
 D氏としておきますが、ぼくと平安氏のやり取りに割って入り、「リベフェミはこれこれで……」と延々自説を述べ始めた方。この方は、完全にフェミ寄りの御仁のようです。
 こっちがそのソースを聞いても答えもせず、独り言のごとくに滂沱のリプをよこしてくるのに対して少々キツく言ったら、何だか拗ねたようなことを言い出しました。それが「これだけ言ってもわからないあなたはジェンダー史に深いかかわりを持った方ではないのでしょう(大意)」というものだったのには参りました。
 そりゃソースを求めても応えず、ただただお題目を唱えてそれを受け容れよじゃあ、ただのカルトでしょう。まあ、フェミだからカルトで正しいんですが――と、そうした主旨のリプを返すとまた「カルト呼ばわりされた」とお冠。
 もっともこの方は「今までの見聞をまとめて書いているので、特定のソースを、と言われても言いにくい」とも言い、また一応、上にもある『女のからだ』をタネ本として挙げてくれたので、最終的にはこちらの質問に答えてはくれたわけです。「ネット論客」としてはかなりまともな部類です。
 今までこの種の「ネット論客」様の99%までは、ソースを出すということを頑なに拒否し続けるタイプの人たちでしたから。もっとも、その1%の挙げてくれた本を読んでみても、別にそのようなことは書いてない……といったことも多いのですが……。

 ――というわけで、前振りの説明だけで終わってしまいました。
 本件のオチについては次回述べますので、どうぞもう少々お待ちください。

ピル神凍結騒動

2021-10-10 19:30:36 | フェミニズム


 目下、『Daily WiLL Online』様で戸定梨香騒動について書かせていただいています。もっとも、この問題には「表現の自由クラスタ」が深くかかわっており、そうなると彼らのおかしさにも言及せざるを得ません。そんなわけで彼らに対しても少々辛辣な記事になりましたし、それは本稿も同様なのですが……。

Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」
続:Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」

 ともあれどうぞ応援、よろしくお願いします!

 さて、当ブログは、元は兵頭新児のプラットフォーム的な立ち位置だったのですが、目下のところはニコブロnoteに主軸が移っている、ただし何かの時のためのバックアップのようなつもりで、更新は続けている……ということは何度か書いているかと思います。
 近年、ニコブロやnoteの方では再録記事が多くなっているのですが、それも以上のような理由から、こちらには反映させていません。
 が、今回の記事は本来、「再録記事に、ちょっとオマケで書き足した短文」です。そんなわけで大変短いものですが、一応、アップしておくことにしました。以上、お含み置きください。
 では、そういうことで……。

*     *     *


 ピル神(本名:ピルとのつきあい方(公式)@ruriko_pillton))が凍結されました。
 何があったのかはわかりませんし、ぼく自身は彼女に否定的なわけで、ことさらにこの件についてモノを申す立場にはおりません。
 しかし、何というか事後の静寂ぶりには不気味なものを感じます。
 togetterでは一応、本件についてのまとめが作られました。

ピルとの付き合い方のるりこさん(ピルとのつきあい方(公式)@ruriko_pillton)が…凍結されてる…!

 しかしこのまとめ、pv数は8798、着けられたコメントは35(2021/10/10現在)。
 彼女の全盛期と呼んでいいであろう、四年前のまとめ、「ネオリブの産声」を見るとpv数56922、コメント221(2021/10/10現在)。
 もちろん単純に比較できることではありませんが、いかにも寂しい様子です。ちょっと前であれば類似のまとめがいくつも作られる騒動になっても不思議のない大事件なのですが、今回、他にまとめられてはいない模様。本当に幾人かを除いて沈黙している、という印象です。
 例えばですが、青識亜論など本件について何も言っていないのでしょうか。これはあくまでまとめにないというだけで、或いは本人は何か言っていたのかもしれませんが。
 そもそも、近年togetterでこの種のまとめが作られること自体がかなり少なくなっている印象があり、或いは、まとめ人が何人か仕事をしなくなったということなのかもしれませんが、いずれにせよこの種の連中(要するに「表現の自由クラスタ」)がかなり力を失っているという気もします。

 ともあれ、ピル神と表現の自由クラスタはずっと、二人三脚で進んできました。
 多摩湖師匠は「フェミニストと名乗ることは止めた」などと言った後も平然とフェミニストとして発言をしていますが、それをとがめた表現の自由クラスタというのを、見たことがありません。
 彼ら彼女らは「フェミニズム」の看板を守ることが唯一の目的であり、「フェミニストを名乗るのを止めた」などと言ったところで、別にフェミニズムをまともに内省し、批判することなど夢にも考えてはいない。単に世間の目を気にして言ってみせただけなのです。そしてそれは表現の自由クラスタも同様でした。

 しかし、そこへ持ってきて本件です。
 いくら何でももう少しみんなで彼女を応援するなり何なりがあってもいいのに、この静けさ。ありていに言ってみんな不人情だと思います。



 さて、こうした流れの原因として、先には表現の自由クラスタ自体の弱体化を挙げましたが、実のところもう一つ、もっと大きな理由があるのではないか……とぼくは想像します。
 つまり、「TERF」の件ですね。
 当初、この業界で「TERF」という言葉が流行った時点では「悪のツイフェミがトランス様の権利を否定しているぞ」との論調が濃厚でした。
 ピル神は単純に、女性側の権利を侵害する者としてトランスを批判し、そして女性の権利を省みず、ただリベラルのヴァーチャルなお題目を掲げることを目的とする表現の自由クラスタはトランス側に立った。
 しかし普通に考えて今のLGBT、トランス側の主張が正しいとは到底思われない。近年の女子スポーツへの侵略ぶりなどから、「さすがにトランスはおかしくね?」という方へと潮目が変わってきた。
(しかし以前より、リベラル側のトランス擁護は無理矢理なものでした。例えば学校の女子トイレにオカマが自由に入れることに、普通の女性は異を感じたりしないのだ、そうでなければならないのだ、とするリベラル君、例えば坂爪真吾の言い分が正しいとは、とうてい思われません)
 表立っては騒ぎになった様子もありませんでしたが、水面下では結構、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていたんじゃないでしょうか。
 実際、ぼくが『WiLL』様で「Save James」の件を書いた時、表現の自由クラスタはガン無視(匿名用アカウント氏はこの件に腐心し、白饅頭に採り挙げてほしいと進言したのですが、無残に無視されました)、ピル神が珍しく賛同してRTしてくれたのは何とも象徴的です。

9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている

 ぼくは以前、「ピル神など、ぶっちゃけ非常に古い人で(その意味でリベフェミという自己申告は半分くらい当たっているのかも知れません)、」と評したことがあります。
 ピル神は70年代のウーマンリブの世代の方と思しく、均等法のない当時は「法改正によって男女平等を実現する」とのリベフェミの方法論が意味を持っていた。
 しかし均等法が通って以降も彼女らの満足する結果を得られず、やむなく「だんじょのじぇんだーきはんがいけないのだ」と無理難題を持ち出し、ジェンダーフリーというラディフェミ的思想を唱え出した……というのが近年のフェミの動向であり、言わばオカマを自軍の兵器として抱え込もうという発想もこれに端を発しているわけです。
 表現の自由クラスタは「過去の世界」に戻ってまで、自分たちにとって都合のいいフェミを探してきたが、しかしそれはやはり、自分たちの乗っかっているパラダイムにはそぐわないものであった。
 そこで、両者に齟齬が生じ始めた。
 いずれにせよぼく自身はピル神を評価するものではないけれども、表現の自由クラスタの身勝手さ、冷酷さには戦慄を覚えずにはいられません。
 今の彼らの脳内では、このようなフレーズが響き渡っているのではないでしょうか。


風流間唯人の女災対策的読書・第25回「ラディ/リベフェミ最終解答」

2021-10-02 20:01:42 | 表現の自由クラスタ


 動画、第二十五回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第25回「ラディ/リベフェミ最終解答」


『Daily WiLL Online』様でフェミサイドについての記事を書かせていただきました。

女性被害者事件をなんでも「フェミサイド」とする愚

 ……と、そうこうするうちに話題は戸定梨香に行っちゃってるわけですが、それともちょっと絡め、ラディカル/リベラルフェミニズムについて表現の自由クラスタが流し続けてきた嘘について。
 もっとも、予告したようにこちらにも不手際があり、一応はそのご報告を意図した動画ではあるのですが……より詳しくはこれ以降、当ブログで発表していきますので、そちらもよろしく!