兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

表現の自由クラスタオワコン問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む

2024-09-29 19:45:58 | 弱者男性

 

風流間唯人の女災対策的読書・第62回「トランスジェンダーを巡る激寒な『情況』」

 新動画公開中です!
 今回とは関係ありませんが、トランスジェンダーについての、左派の右往左往について。
 また、『WiLL Online』様で牛角炎上問題について語らせていただいております。
 本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。

 ――さて、本編は前回記事に引き続き、巷に溢れる小山田圭吾擁護のデタラメを暴いた電八郎氏による電書、『小山田圭吾冤罪の「嘘」』のレビューです。
 トップ画像は前著ですが、まあ、これは見た目の差別化を図るためです。
 ともあれ本書(前著じゃなく新刊の方)では小山田の愚行は当時のサブカルの愚劣さの一端として理解する必要があるとし、当時の悪趣味・鬼畜ブームが鋭く斬られていました。当時はそうした、身の毛のよだつような悪趣味・鬼畜AVというものがサブカルによって得意げに製作、視聴されていたのです。
 ただ、それを否定しようとするあまり、電氏もフェミ騎士の論文を引用したりで、そこは頷けない、そうした批判をしたかと思います。
 さて、ではその悪趣味・鬼畜AVとはいかなるものだったのでしょうか。
 ちょっと前回と順序が逆になった感もありますが、サブカルの悪行を忘れないためにもどうぞ、ご一読ください。
 もっとも、お断りしておきますが読んでいて気分の悪くなる内容が延々と続きます。
 苦手な方は、お読みになりませんよう。
 なお、電書にはページというものがないので、引用、紹介した文章の末尾に項タイトルを()内に添えておきますので、ご了承ください。

 さて、ここでは幾人か(一般のAVではない)悪趣味・鬼畜AVの作り手たちの名が挙がります。バクシーシ山下もその一人ですが、彼は著書『セックス障害者たち』において「当時」(と言ってもいつのことかは判然としませんが)は避妊などしなかったと書いています。カンパニー松尾(って、誰?)は「病気になったらなった時だ」とうそぶいていたとのことで、非道い話です。ちなみに同書、編集したのは北尾なんですね(「北尾修一とバクシーシ山下」)。
 また、山下は『女犯』シリーズで本当のレイプを撮影していたのではないか、と疑惑の持たれた人物でもあり、正直ぼくは本件について、表現の自由クラスタ側の「フェミのポルノに対する攻撃」という文脈でのみ見聞していたのですが、本書を読むと印象も変わってきます。
 ただ、同書の引用には、AVスタッフたちの「レイプやったら?」「いいッすね、それ」などとといった会話が頻繁に登場し、驚くのですが、これは当然、「レイプ物のAV」という意味であり、「バクシーシ山下は、出演女性には前もってレイプ作品であることを伝えて撮影許可を取っている」わけです(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。
『オバケのQ太郎』の小池さんは(モデルとなった鈴木伸一氏同様)アニメーターであり、彼が企画会議で「都市に爆弾でも落とすか」と話しているのを聞いてオバQが国際的犯罪組織のメンバーだと思い込む話があるのですが、何だかそれを思わせます。
 ただ、ならば山下の仕事に問題はないのかとなると、そうでもありません。
 同書の引用からの孫引きになりますが、『セックス障害者たち』には以下のような下りもあります(「バクシーシ山下『女犯』の中のレイプ」)。

 A子(仮名)にはこの時に、特記事項としてスタンガンを使用することを承諾してもらいました。
 ま、彼女はスタンガンが何なのか、分かってなかったかもしれないですけど。
(194p・仮名は電氏による)

 ぬけぬけと書く山下も悪辣ですが、もし本当にスタンガンが何なのかわかっていないならむしろ、「ガン」という言葉に過剰に脅威を感じるでしょうし、ちょっと怪しいなあと思います。というか、契約した後で「知らなかった」で通用しないのは、社会の常識ではあります。
 電氏も指摘する通り、こうした業界に流れ着く女性には知的能力に問題を抱えた人もいるのかも知れませんが、いずれにせよ前回の『童貞。をプロデュース』でも書いたように、どちらに責を負わせるべきかは、非常に曖昧で微妙で繊細な問題です。
 100%の合意と充分な説明があったとも言い難いが、最低限の説明はあり、女性側もガードが甘かった、といった辺りが正しいんじゃないでしょうか。

 平野勝之というAV監督もまた、この種のものを撮っていた人物で、電氏はポルノ・買春問題研究会による著作『映像と暴力――アダルトビデオと人権をめぐって』の中の宇野朗子「平野勝之『水戸拷問――不完全版』の分析」を以下のように引用しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

浣腸をしたまま、書店にいって『走れメロス』を買いに行かせられる。床についた便をなめさせられる。ミミズを食べるよう要求される。 漏斗で、男優の大量の尿を飲ませられる。失神している顔に、便をかけられる。
(36p)

 同書では中村敦彦『名前のない女たち』も引用されます。この中村、ご承知のように弱者男性への憎悪に満ちた著作があるなど、ぼくも嫌いな人物ですが、ともあれ悪趣味・鬼畜AVに対する筆致は以下のような具合(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

 監督は威圧的に『小便を飲むんだよ……口を開けろ!』と、訳のわからないことを怒鳴っている。突き出されたチンチンから小便が出てきて、彼女は口で受け止めた。信じられないほど不味い液体が、口の中に充満して、排泄物の毒素が全身に広がっていくようで気持ち悪かった。小便をした男は鬼のような目でビンタしてきて、『貴様、一滴ももらすんじゃねえぞ!』なんで怒鳴っている。
 悪いことをしてないのに何発も、何十発もビンタをされた。顔を腫らせた麻保子は、殴られる理由を何度も何度も考えたけれど、何も浮かばなかった。
『おい、飲め。全部飲めるだろぉ!』
 監督は偉そうに声を張り上げている。
(348p)

 読んでるだけで嫌になりますし、この種の「企画物AVの女」は契約違反があっても事務所が守ってくれないともいいます(が、今一このソースは判然としません)。
 他にもバッキーについても語られます。
 これは明らかに狂人である栗山竜が代表を勤めるAVメーカーで、『子宮破壊』という聞くだにおぞましいシリーズをリリースし、女性に一生残る障害を負わせ、2004年にスタッフ共々逮捕されています。ディレクターは公判で「バクシーシ山下を目指していた」と語っていたと言います。
 これについては物理的な虐待以上に作り手の女性への嗜虐欲、悪意が壮絶で、本当に読んでいるだけでダメージを受けるので引用は差し控えますが、興味のある方は買って読んでみてください(「バッキー『問答無用 強制子宮破壊』と「監禁友の会」「『女犯』から15年後のバッキー事件」)。

 これらは確かに、いずれも目を背けたくなるようなものですが、しかしやはり重要なのは表向きの残忍さではありません。
 実はぼく、やはり「飲尿物」のAVを観たことがあります。そこでは「素人」の女性が飲尿したいという欲望を抱えて出演者となり、必死の表情で男優に放尿してくれと哀願していました。
 もちろんそれすら借金苦でやむなく出演し、いやいやそうした演技をしていたと言われればそれまでですが、見ている限りそうは思えない。そりゃ、そういうプレイを望む女性だっているでしょとしか言えないし、だからこそフェミニズムは「女は誰一人男とのセックスを望んでいないのだ」との妄想を前提にすることでしか成り立たないわけです。
 いえ、むしろ上の女優は変態的なプレイを哀願する演技に自己陶酔しているようで、いささか閉口させられました(わざとらしい喘ぎ声に醒める感じですね)。
 つまり、女性にも醜悪でグロテスクで陰惨なプレイを望む者がいないとは言えず、重要なのはあくまで女優とのコミュニケーションとリスクマネジメントが機能していたか否か(言い換えれば「レイプ」が虚構か否か)であり、ただ「残忍だから」、ましてや「その表現が女性全体への差別、ヘイトだから」という理由でこの種の表現をつぶすことは、やはり避けられるべきなのです。

 まあ、そこまではぼくも「表現の自由クラスタ」と同意見なのですが、しかしならばそちらに全振りで同意できるかとなると、もちろんそうではありません。
 何しろ、どんな陰惨なAVよりもおぞましいことに、「朝日文化人」たちがこうしたAVに対し、絶賛の限りを尽くしていたのですから。
 先の山下たちは業界内でも地位を確立しますが、電氏は以下のように続けます(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。

 これだけなら業界内部の評価であるが、やがて『女犯』や『ボディコン労働者階級』を宮台真司や高橋源一郎や速水由紀子が称賛し、朝日新聞系メディアの『RONZA』や『AERA』までもがバクシーシ山下をAV界の鬼才として祭り上げていく。ちなみに、速水由紀子は当時、宮台真司と交際しており、桜井亜美の筆名で援助交際をネタにした稚拙な小説を書いていた。

 そしてこれも同書で引用されている中里見博師匠の文章の孫引きになりますが(「朝日文化人」としてのバクシーシ山下)。

「絡みを終えた女優のプライドは、ずたずたに引き裂かれ、中には泣いたり放心状態で動かない者もいる」と指摘しながら、その問題性については一言も述べることなく、逆に「彼〔山下〕は女を欲望の対象ではなく、独立したキャラクターとして撮る。フェミニズムには歓迎されるべきですよ」(太田出版、北尾修一)とか、「彼は欺瞞を剥いで自分の生理に忠実なAVを作った」(山下と「交友を続ける」社会学者、宮台真司)といったデタラメとしかいいようのないコメントを紹介して締めくくっている。
(『ポルノグラフィと性暴力 新たな法規制を求めて』114~115p)

 この中里見師匠はドウォーキン大好きっ子のフェミ騎士であり、彼のスタンスには一切、同意ができません。
 また上を読めば非道い話だとは思うものの、再三繰り返すように、問題は女性との契約時にちゃんとした説明があったか(同意があったか)否かでしょう。
 しかしそれとは全く別個の問題として、北尾は当たり前としても宮台師匠、速水師匠がこれら作品を称揚していたというのはなかなかにショッキングでした。
 もう一人、高橋源一郎師匠(何か、少女漫画に詳しいことを自慢にしている評論家のおっさんです)が『週刊朝日』で『セックス障害者たち』を絶賛していたのにも驚きました。

アダルトヴィデオが男性の性欲を昂進させるためにあるのだとしたら、彼の作品はアダルトヴィデオではあるまい。
(所収『退屈な読書』朝日新聞社・43~44p)

 また師匠は、『週刊朝日別冊 小説トリッパー』における連載でも、バクシーシの作品に称揚の限りを尽くします。

けれど、時々、タカハシさんは単にエッチであるのではないアダルトヴィデオにもぶつかる。
 単にエッチでないどころか、ガンとやられるやつにもぶつかる。そして、ほんとに時々、頭が真っ白になるやつにだってぶつかる。
(所収『文学なんかこわくない』朝日新聞社、1998、101p)

 この「タカハシさん」というのが誰なのかわからず、一瞬考え込んだのですが、ハタと「自分で自分をそのように呼んでいるのだ」と気づき、その尋常じゃない痛さ加減に思わず悶絶しました。
(この後、タカハシさんの311の震災を材に採った社会風刺小説『恋する原発』についても説明がされるのですが、これまた麻酔なしの歯科手術レベルの痛さ)
(以上、タカハシさんについては「「朝日文化人」としてのバクシーシ山下」)

 先の平野は出演者の女性に告訴されたようなのですが、呆れたことにタハカシさんは平野をゴダールに準え、絶賛しています(「平野勝之『水戸拷問』と『監督失格』の間にあるもの」)。

 ウソのような、ほんとうのような、本気のような、冗談のような、深刻のような、明るいような、暗いような、ただわかっているのは「エッチではない!」ことと映画への愛が溢れていることだけというこの超大作AVを見ながら、ぼくは、マンガやコピーを一つの(芸術)ジャンルとして成立させてしまったこの国で、ついにAVまでもがそんなジャンルに仲間入りをしてしまったのかと感心したのだった。
(「北野武もすごいが平野勝之もすごいぞ」所収『退屈な読書』朝日新聞社、190~191p)

 ――このタカハシさんの著作がいずれも「朝日新聞社」から出ていることにも、呆れます。
 そう、朝日は女性への虐待の限りを尽くす狂った作品に対して、絶賛の限りを尽くしておりました。
(ただし、あまりに朝日が続くので、これはこれで電氏の意図があるのかも知れませんが……)
 しかしそれは、考えてみれば不思議でも何でもありません。
 朝日は自分の赤ん坊をフェラチオし、「将来は去勢したい」と口走るフェミニストの児童ポルノを「微笑ましい育児エッセイ」だと強弁し、ベストセラーにした過去があります。
 そもそも(児童へのもの含む)レイプはかねてより、左派にとっては「正義」でした。
 彼らが(児童へのもの含む)レイプを「体制への反逆()」であると勘違いしていたことについては以前も書きましたので、それを参照していただきたいのですが、そうした「勘違い」に「勘違い」を重ねた結果が、このような事態だったのだと言えます。

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 それと何より、ここまでで引用されてきたタカハシさんの文章は、再三AVを肯定的に評しながら、「性欲を昂進させない」「エッチでない」と繰り返していたことにお気づきでしょうか。
 どういうことか。
 そう、タカハシさんは芸術家であらせられるバクシーシ山下様、平野勝之様の女へと虐待の限りを尽くすAVを「体制への反逆だから」お褒めになっておいでなのです(大爆笑)。
 確かに、「残忍なAVもフィクションであれば認められるべきだ」というのは正論です。しかしその時に持ち出されるべきリクツは「需要があるから」、言い換えれば「そうしたものを好む人間も、犯罪を犯さないのであれば許されるべきであるから」といったものであるべきです。
 上の飲尿動画で述べたようにそうした表現がそうした趣味の(男性はもちろん)女性を救済している面もあるでしょう。
 しかし朝日文化人にかかっては、それに政治的な意味づけがなされてしまう。
 そこがぼくには、たまらなく不潔に感じられます。
 それは丁度、表現の自由クラスタの上層部であるサブカル文化人が、「萌え」に対し、親の仇以上に激しい憎悪を燃やしつつ、しかし「体制へと反逆する」口実のために味方のフリをしているように。
 彼らがアニメに何の愛もなく、しかし同人誌の中でも版権キャラを陰惨に虐待するようなものにだけは、涎を垂れ流しながら飛びつくように。
 タカハシさんは(否、左派文化人は全員)エロが大好きという顔をしていますが、当然、エロなど好きではない。彼らがエロの周りをうろちょろするのは、おっぱいの向こうにいるおまわりさんの制服でマスターベーションをしたいからでした。
 近いことはいつも言っていますが、彼らがホモを神であるかのように称揚するのも、当然、それと同じです。彼らはホモを先のスカトロAVと全く同列に見なしており(いや、同列なのですが)だからこそ自分たちの警官の制服への欲情のダシとして、称揚していたのです。
 一方、山下が自らの作を「フェミニズムに適った作」と称しているのも印象的です。
 彼はまた、抗議してきた相手を「フェミニズム団体もどき」と称してもいます。まるで、表現の自由クラスタが「ヤツらは偽のフェミだ、真のフェミは善きものだ!!」と泣き叫び続け――そしてとうとう、オタクの支持を失ったように。
 もうおわかりでしょう。
 宮台がフェミニストの使途であることが雄弁に物語るように、彼らはフェミニストと仲よしのお友だちなのです。
 彼らにとってフェミはポルノの味方として認識されている。もちろんそんな馬鹿なことはないのですが、上野千鶴子師匠が結婚していたことからもわかるように、彼女らも若い日には学生運動のバリケードの隅っこでは表現の自由クラスタのグルと「共闘」していた過去があり、仲よしだった。
 だからフェミも、九〇年代のサブカルにおいては悪趣味・鬼畜文化に寄り添っていた。香山リカ師匠が「碧志摩メグは許せぬが、会田誠の女子高生を虐殺する表現は大勢への反逆()なのでおk」などとほざいていたことはあまりにも象徴的です。

 それが近年、左派がフェミ的な価値観の方を重要視するようになってきた。
 これには或いは、ぼくには窺い知れない大首領の深謀遠慮があるのかも知れませんが、ぼくの理解できる範囲内で想像するならば、やはり「フェミニズムの成果によって」若い女性の性的魅力を憎悪する女性が増えたから、フェミニズムが兵器として有効だとの判断がなされたからではないかと思います。
 サブカルはそろそろ歴史を修正し、こうした自分たちの過去を「実はオタクの仕業だったのだ」と言い出し、性表現と共にオタクを葬り去ろうとする。
「そんな無茶な」と思われるでしょうか?
 でもつい最近も、X上で小山田事件を批判していたサブカル陣営の方が、近いことを言っていました。彼は根本敬を舌鋒極めて批判しつつも、一体全体どういうわけか明らかに根本を擁護していたロマン優光については肯定的に語り、何より「オタクもまたサブカルのように残忍なものを好んでいたのだ」と強弁しだしたのです。彼には、本当にオタクの姿がそのようなものに見えてしまっているのでしょう。
 小山田事件での歴史修正ぶりを見れば、サブカルの卑劣なやり方はもう、明らかなのです。


牛角炎上問題は小山田圭吾炎上問題である――『小山田圭吾冤罪の「嘘」』を読む

2024-09-22 17:42:39 | サブカル

 

 というわけでみなさん、ワタクシがマジメに小山田圭吾の問題についてガンバっている間にも牛角を炎上させてますな。
 古くからのぼくの読者の方は何とはなしにでもおわかりかも知れませんが、ぼくはあまり、この問題そのものについては興味がありません。
 女性専用車両の頃から、ぼくのこの種の問題に対しての熱量は微妙なものでした。例えば十年ほど前にも、ラーメン屋の女性百円値引きサービスが男性差別だとして炎上したことがありました。フェミ騎士がそれを「女性は経済的劣位者なのだからその程度で怒るな」と(嘘を根拠に)批判したのですが、ぼくの論調は「百円値引きなど、取るに足りない。男性はそもそも人間として扱われていないのだから『ハエ差別』という言葉がないのと同様、『男性差別』という言葉はない」とまあ、何かそんなでした。
 もちろん、今回の牛角について、いろんな論点で切り込むことは可能です。
 古くからこの業界にいる者にとって、「むしろ以前にこそ(女性優遇サービスが露骨だったこともあるからではあれ)憤る声は多かったじゃないか」とも言える。しかし同時に「いや、ここまで声が大きくなったのは(声が受け容れられたのは)時代の変遷を感じる」とも反論し得る。正直、どちらが正しいのか、ぼくには判断しかねるのですが。

 ともあれ、牛角については、『WiLL Online』様で書かせていただきました。同問題について、一番深く切り込んだものと、自負しています。

 

「牛角騒動」――逆転した男女差別?【兵頭新児】

 ――と、ここまではマクラ。
 本稿の主旨は先の動画でも扱った小山田圭吾炎上問題について、電八郎の電子書籍『小山田圭吾冤罪の「嘘」』について語るところにあります。
 本書について、何にせよ今なら格安でゲットできるはずなので、まずは一読して欲しいところですが、実のところ電氏にはやはり同問題を扱った前著、『小山田圭吾はなぜ障害者をいじめなかったのか』があり、ここではむしろ、(ぼくが動画でも問題にした)根本敬の同問題への影響についてにページが割かれています。
 翻って本書では「悪趣味・鬼畜AV」についての言及が多い。つまり電氏のスタンスは小山田事件も当時のサブカルの悪趣味・鬼畜ブームの一端でしかない、というぼくに近いものであるわけです。

 さて……そんなわけで本来ならば、同書が丹念に調査した当時の「悪趣味・鬼畜AV」の愚劣さ、悪辣さをご紹介したいところなのですが、それは次回に譲ることにして、ここでは同書の「松江哲明『童貞。をプロデュース』と『童貞の教室』」という項について語りたいと思います。
 ここでは松江というAV監督が「童貞をプロデュース」するという意図のドキュメンタリーAVを撮った、ところがその(童貞として出演した)男性K氏が、松江から性的暴行を受けたと訴えた、という事件が語られます。
 このエピソード自体、読むだけでも精神的ダメージを受けるような無残で悪質なAVについて並べられた、その最後の一例として挙げられており、身体に障害を負った女性などに比べればまだしもソフトなものなのですが、ともあれK氏はAV撮影の現場に引っ張り出され、その場のムードに逆らえず(否、早くしろと声を荒げられ、恫喝を受けて)、フェラチオを強要(……などとあるのでペニスをくわえさせられたのかと思ったのですが、要はAV女優からフェラチオ)されたというわけです。

 ――ここまででみなさん、どう思われたでしょう。
「なあんだ」と思った方もいれば「得したじゃん」といった温度の方もいらっしゃるでしょう。「しかし望まぬ行為なのだからレイプにも等しい」と考える人もいましょう。
 ただいずれにせよぼくが今回、牛角炎上問題と本件とを並べた意図は、ここでおわかりいただけるでしょうか。
 それはつまり「あぁ、男もそういうことを言うご時世なんだ」とでもいったことです。
 一昔前ならば、これらはいずれも「男たるもの、そんなことを気にするモンじゃない」で一蹴された問題です。
 いずれの問題に対しても、「いや、男性も自らの権利に対してようやっと目覚めたのだ」とも言え、それはそれで完全に正論であり、ぼくも否定しません。ただ、もうちょっと大きな枠組みで、これら問題を捉え直す必要もまた、あるのではないでしょうか。
 何でもこの松江、K氏に許可も得ず彼の主演作を全国上映や海外の映画祭での上映、DVDの発売までも無断で行い、支払われるべきギャラも払っていないとかで、(それが嘘でない限りは)いずれにせよ論外です。
 が、電氏は松江の著作とK氏のブログの記述とを並べ、両者の食い違いを比較検討しているのですが、そのどちらが正しいかについて、第三者がジャッジすることは難しいのではないでしょうか。
 例えば松江はK氏が風俗やAVを「汚い職業」と見下していたとしますが、K氏は(現場でムリヤリ言わされたが)そんなことは考えていないとしています。
 どちらが正しいか、第三者には判断のしようもないことですが、それでも敢えて言うなら、「確かにK氏はそう明言してはいなかったが、態度からそのように感じられた。松江がそれを言語化させた」といった辺りが真相ではないかという気がします。もちろん、松江の感じ方も正しいのか、それとも被害妄想の部分があるのか、そこは微妙なところですが。
 松江はK氏に対し、以下のように述べます。

 僕は、彼にも「己の小ささを知る」という経験をしてほしい。
 みずからの童貞は平気でカミングアウトするかわりに、何かを必死で隠しているような彼を見て、そう思った。
 隠すよりも、堂々と、セキララな自分で勝負をかけろ。二十歳を超えた男子なら、みずからに対して、強硬手段を仕掛けるべきだ。
(『童貞の教室』47~48p)

 要するにある種、AVを見下し、「セックスには純愛が必要だ」といった理想主義から抜け出せず、セックスに向きあえないK氏に現実を突きつけ、「男にしてやる」というのが、松江の描いているストーリーなのです。
 電氏はこれを「むちゃくちゃな理屈」と一蹴しますが、北方謙三の人生相談コーナーにも似たようなことが書かれていそうです。
 松江は本件を自著で以下のように締めています。

 片思いの彼女という、男にとっては世の中でもっとも「他者」な存在に対して、関係性を作ることを拒否していた彼が一歩を踏み出すまでの記録。
 この一歩があればきっと彼はだいじょうぶ。そう思えた瞬間が、撮れた。
(前掲書、61~62p)

 何だか感動的ですが、実際問題として松江が「K氏のため」と信じて行った諸々はK氏から恨まれているのだし、いずれにせよその思惑は外したということは紛れもない事実でしょう。
 いかにもな体育会系の松江はもちろん、ぼくも一番嫌悪感を感じるタイプの人物です。サブカルは基本、体育会系なんですね。いえ、厳密に言えば「自分をナイーブな文学青年だと思い込んでいる、一般体育会系」でしょうか。
 ただ、しかし「男なんだからグダグダ言ってないで積極的に行け」というのはある種の正論ではあります。仮にですが、K氏から相談されたら、誰しもその程度のことしか言えないのではないでしょうか。

 またちょっと話が変わりますが、実のところ(これはまた次回に詳しくお伝えしたいのですが)電氏の論調はある種、「小山田の行為は障害者差別」といったトーンが強く、そこはあまり賛成できません。
「悪趣味・鬼畜AV」について語る箇所では(ぱっぷす副理事長で、バリバリのドウォーキン主義者である)中里見博師匠の著書が盛んに引用されます。電氏自身もまたそれらを「女性差別」であるとの世界観を共有しているのですが、それはちょっとどうなんだという感じです。
 例えばですが、レイプは「女性差別」でしょうか。フェミニズムは「差別」とすることで、自分たちの正義を根拠づけています。しかし「許せない犯罪だが別にそれは差別とは関係ない」といった辺りが一般的な感覚ではないでしょうか。フェミの思い込みとは異なり、レイプの多くは性欲による衝動的な犯罪(或いは女性とのディスコミュニケーションが生んだ悲劇)だからです。
 先の悪趣味・鬼畜AV、本当に本書で概要を読むだけで気分の悪くなる陰惨なものですが、これもそれ自体は「女性差別」ではない。
 例えばレディスコミックがレイプ描写で溢れているように、セックスにおいて男性は能動性、女性は受動性の発揮を期待されるという男女ジェンダーの特性は、それ自体はどうしようもない宿命的なものです。
 悪趣味・鬼畜AVについても、一番重要なのはそれがフィクションか否か、言い換えれば女優の合意が取れていたか、またリスクについての充分なマネジメントがあったかでしょうが、本書を(ないし本書で引用される中里見師匠の主張を)読む限り、そこがどうも不明瞭です。
 それもこれも本書における悪趣味・鬼畜AV批判が「表現そのものが悪い、何となれば差別だから」というスタンスに立っているせいであり、そこはやはり、頷けない。
 だってこれが仮に正しいならば、言うまでもなくレイプ物のAVは製造販売を禁止せねばならない。架空の表現でもNGなのだから、言うまでもなくエロ漫画もしかりであり、そこにはBLもレディスコミックも当然、含まれます。
 いえ、先にも中里見師匠をドウォーキン主義者と書いたように、フェミ的には「あらゆるセックスはレイプ」なのだから、それは全て禁止されるべき、となってしまう。
 いつも言うように、これは「ジェンダーフリー」の罠です。フェミニズムとは「男女ジェンダーの様々な立ち現れの中から恣意的にネガティブなものだけをすくい上げ、悪しきものだから全面禁止せよとする思想」であり、それは角を矯めてウシを殺す行為です。フェミニズムの言う通りにすればあらゆるセックス、恋愛、それにまつわる文化(AVから恋愛映画に至るまで)を徹底的に破壊し、言うまでもなくセックスも禁じなくてはならなくなり、人類は絶滅するしかない、フェミはそうした途方もないカルトなのです。
 そして電氏もまた、その罠にハマってしまっているとしか、言いようがないのです。

 実際のレイプやあまりに危険なAVは禁じられるべきでも、普通の性行為やAVは禁じられるべきではない。
 ただ、そのボーダーは曖昧であり、セクハラやいじめのボーダーもまた、同様でしょう。
 その意味で上の松江とK氏のいさかいも(金銭問題は例外として)必ずしもK氏だけが被害者かとなると、第三者としては判断しづらい。
 ここまで来れば、大体わかってきたかと思います。
 牛角炎上問題の本質もまた、そこと同じなのです。
 本件で、むしろ左派寄りの御仁が以下のようなことを言っていました。

焼肉食べ放題女性半額の話
強者男性「妻とか娘の分が浮くな、家族サービスしよ」
弱者男性「男性差別ダー、ぎゃおおおおん!」
ガチでこんな感じになってるのキツい。
やっぱ強者は強者たる理由があって、弱者は弱者たる理由があるってわざわざ自ら証明しに行くのマゾなんかな?
https://x.com/tacowasa2nd/status/1830987115020329289)

 これは「ある意味では」正論であり、ぼくたちが怒るべきなのはフェミが男女ジェンダーを否定したがため、「大いに稼ぎ、女へおごってやる」という男の甲斐性を発揮することができなくなったという事態に対して、なのです。
 その意味で、上の御仁が「だから女の社会進出を推進することはないのだ、男に稼がせるべきなのだ」と主張するのであれば、ぼくは同意します。

 さて、これと近しい構造は、小山田問題そのものにも実のところ、横たわっています。
 動画でも片岡大右『小山田圭吾の「いじめ」はいかにつくられたか』について厳しく批判しました。
 が、実のところ同書も四章についてだけは、一部ですが傾聴に値する箇所があると感じました。
 教育学者やら何やらのいじめ論についてつらつら述べられているのですが、要するに八〇年代にいじめによる自殺など悲惨な事件が頻発したがため、言語空間でいじめが自殺と直結されることになってしまった、しかし子供の自殺の原因として、いじめは比率が低い、といったような話が続くのです。
 要するに片岡はここで、イジメというものの相対化をしようと言っているのです。いじめと言ってもいろいろで、大したことがない場合もある、と。
 そう、実のところこれは(圧殺されがちですが)絶対に忘れてはならない論点で、「いじめ」って「セクハラ」とほぼ同義なんですね。
 愛ある「いじり」と「いじめ」の差異は曖昧です。
 セクハラがそうであるように、その愛ある「いじり」を後になって実は嫌だったのだとするような論調、世間では溢れかえっていることでしょう。
「いじめ絶対許すまじ」というのは否定のできない正論ですが、それを錦の御旗として振りかざすことで、各々のケースの個別性を蔑ろにすることは、あってはならないのです。
 もちろん、そうした個別性を検討した上でも、『クイック・ジャパン』を見る限り小山田の行為は常軌を逸したものであり、小山田擁護としては、先の言説は成り立ってはいないのですが、ともあれ片岡の主張は、この箇所については一般論としては、正しいわけです。
 翻って電氏の著作では中井久夫『いじめの政治学』から引用し、いじめかいじめでないかの基準はそこに相互性があるかどうかであると述べます。これは要するに両者のスタンスが交換可能かどうかと問うているわけで、しかしこれもやっぱりおかしい。例えば、夫婦関係も親子関係も互いの立ち位置は交換可能ではないけれども(だからこそそれ故の問題が起こる可能性もあるけれども)だからけしからぬということにはならない。
 ぼくは以前、赤田佑一が小山田を『花のよたろう』に準えてわけのわからない擁護をしていたことを批判しました。
 よたろうはタア坊という自分を慕ってつきまとってくる子供を子分のようにこき使いつつ、可愛がってもいる。これは下町のガキ大将と子分のような関係で、そうした麗しい関係性というのもあり得るかとは思います。
 もっとも小山田と障害児の間に『よたろう』的な「善き上下関係」が成り立っていたとはとても言えず、いずれにせよ赤田の言は苦し紛れの域を出ないのですが。
 また、そもそも学校社会というもの自体が子供を学年で峻別し、同じ学年の者は先生というリーダーの下、平等なのだという物語を根底に置いているわけで、こうした関係は成り立ちにくい。言うならば子供を平等に扱うという理念の上に、いきなり「障害者をも包摂せよ」とのDEI的理念を木に竹をつないだように持ち出したことこそが(つまり障害者と健常者の差異を認めず、雑に同じ場に放り込んではい、終わりとしたことが)、小山田問題の発端です。
 即ちそうしたDEI的理念こそがそうした「善き上下関係」を真っ向から否定するものである以上、小山田擁護に『よたろう』を持ち出すこと自体が筋違いであり、赤田も片岡も何重にも間違いを犯しているとしか、結局は言いようがないのですが。
 しかしそれでも、子供同士が絶対的に対等な関係性を構築しなければならないというのも、よたろうとタア坊の関係を「いじめだ」と決めつける偏った、言うならSMプレイを、レイプAVを「女性差別だ」と決めつける価値観と同じであるわけです。

 ――というわけで、少々、電氏自身へも忌憚のない文句をつける内容となってしまいましたが、結局この問題が「サブカル」の愚劣で悪辣な露悪趣味に端を発するものであるという視点は、絶対的に正しいというしかない。
 次回は、その辺りをもう少し深掘りできればと思っております。


兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑 ⑦タイムボカンシリーズ――歴史修正される、女ボス

2024-09-14 18:44:31 | アニメ・コミック・ゲーム

 目下、『WiLL Online』様で牛角炎上問題に鋭く切り込んだ記事を掲載しています。
 ランキング早くも二位!
 本件について、どこよりも深くまで切り込んだものと、自負しておりますのでどうぞ、ご愛顧ください。

 ――さて、本編は久し振りにレッドデータコンテンツ図鑑です。

 

    *     *     *

 

 ――あのさ、思うんだけど今の若いヤツってドロンジョを「単に、フツーにいい女」と思ってんじゃね?

 はい、ここでみなさん共感の嵐。
 え? 全然共感しない?
 困りましたな。
 ほら、何かの広告ではブラックジャックと婚活してたじゃん。他にも転生もので主役の悪役令嬢を張ってるらしいですよ今は。
 キャラデザは何と天野喜孝御大。美麗でセクシーなキャラデザインです。
 声優は先日物故された小原乃梨子。のび太のイメージの強い方ですが、旧作『うる星』ではお雪さん、洋画ではブリジット・バルドーを持ち役とするなど、妖艶な美女も得意とする方です。
 だから、今の人は峰不二子的な位置のキャラだと思ってるかもと。

 ――と、まあ、タイムボカンシリーズについて書く書くと予告していたので、前々から以上のようなことを書き溜めていたのですよ。
 ところが上にもあるように小原氏が亡くなられ、それをきっかけにまさにぼくが上に書いた通りのことをおっしゃっている御仁が現れました。
 それも「若くてよく知らない」人ではなく、林譲治氏というSF作家さん。結構なお歳で、リアルタイム視聴者のはずなのですが。

 いや、まあ、一応、林氏の言うように、このキャラは「男を顎で使う女」の先駆けとは言えました。
 しかし「ドロンジョは色を使わない」ってのは明らかに違うでしょう(もっとも、これは林氏とは別な方の意見です)。彼女は常にセクシーな衣装に身をまとい、自分の女を十二分に利用していました。
 そんなわけで、「格好いい悪女」というキャラであるというのも一面の真実ではあります。
 が!!
 この人、それと同時に徹底的な道化でやられ役で負け犬のド雑魚なのですな。
 毎回ヌードを披露してたけど、それすら(お色気を狙っているとは言え、同時に)ギャグとして描かれてたんで、滑稽なんですな。
 というわけで、今回は小原乃梨子さん追悼の意味も含め、タイムボカンシリーズです。
 本シリーズについて今までも言及しつつ、なかなか採り挙げられませんでした。
 また、書きたい内容は以前から言っていることの繰り返し――つまり70年代後半、政治の季節が終わり、正義が曖昧化した「パロディ」の時代を迎えつつあった時期に登場した怪作――といった辺りなのですが……。
『アルベガス』、『レザリオン』はロートル作家がそうしたオタク的「パロディ」芸を真似ようとして失敗した、と評しました。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑥ 東映まんが祭り 光速電神アルベガスvsビデオ戦士レザリオン 空中大激突

 ところが『ゴレンジャー』、『ジャッカー』は(そのホンの数年前)、同じ脚本家によって書かれた、極めて先進的な「パロディ」的作品だったのです。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑⑤『ジャッカー電撃隊VSゴレンジャー』――80年代ニヒリズムを先取りした者たち

 そしてまた本作は丁度『ゴレンジャー』と同じ時期に始まった作品。
 では果たして本作は、『ゴレンジャー』といかなる違いがあったのでしょうか……?

 ご存じない方も多いでしょうから、簡単にご説明します。
 ただ、前にも言ったように今から全話見直すといった時間や金銭を投じる余裕はないので、あくまでかつて見た(再放送を繰り返していたので、それでも結構見ていました)記憶で書かせていただきます。
 まず75年に始まったのが『タイムボカン』。
 少年少女がコミカルなメカに乗り込み大冒険。ところが悪の三人組が、少年少女の追い求める秘宝を奪おうと、妨害を繰り返す。
 以降、本作はシリーズ化し、後のシリーズでもこの基本ラインは大体、守られます。
 ただ、実のところこの『タイムボカン』そのものは「ちょっとコミカルなヒーローもの」といった感じで、そこまではっちゃけた作品でもなかったのですが、次回作『ヤッターマン』により、シリーズのカラーが決定されます。『タイムボカン』シリーズと銘打たれてはいるものの、実質的には『ヤッターマン』シリーズとも称するべき作品群がこれ以降、続くのです。
 では『タイムボカン』と『ヤッターマン』はどう違うのか。何しろキャラクターのシフト(少年少女の正義の味方に、三人組の小悪党は女ボス、頭脳派、肉体派の子分という布陣)も同じ、キャラデザも同じ。声優さんも続投するという徹底ぶりで、実質毎回同一人物が名前だけ変えて再登場していたようなものなのですが、それでも演出する側の意識のようなものが、『ヤッターマン』では根本的に変わっているのです。
 それは「正義の、ドラマツルギーの、徹底的な無化」であり、おそらくこれは『ボカン』ではそこまで徹底されてはいなかったのでは……と。
 これはまさに『ゴレン』の次回作『ジャッカー』のビッグワン編で戦いの戯画化がより徹底した形でなされるようになったことと、奇妙な合致を見せています。
 ヤッターマンは登場時、「ヤッターマンのいる限り、この世に悪は栄えない!」と格好よく名乗るのですが、そこに悪党であるドロンボーが冷ややかなツッコミを入れる――そういう感覚は、『ボカン』ではなかった気がします。そもそも名乗りがなかったんじゃないかなあ……。
 またヤッターマン1号2号はカップルで、戦闘時でもこの二人、身体が弾みで接触するなどすると「愛ちゃん好き」「私も」といちゃつき出す。「健全で明朗な正義の味方」というものを、スタッフは徹底的に馬鹿にしていたわけです(白黒時代から清廉な少年ヒーローを立て続けに演じた太田淑子さんがこの1号を演じているのが、また皮肉)。
 一番特異なのは、毎回展開されるストーリーです。時代劇などでもこの種の作品、ヒーローや悪以上に、「悪に翻弄される毎回のゲストである庶民」が重要な役割を担いますよね。
 ところがこれ、例えばですが以下のような具合。

 飲んだくれで妻子を蔑ろにしているオヤジ。ドロンボーに利用され、儲け話に手を出すも失敗。ヤッターマンの活躍によりそれがドロンボーの口八丁のデタラメと知り、妻子に泣いて詫びる。「俺が悪かった、これからは真面目に働くよ」。めでたしめでたし。


 ――以上の経緯を見守り、ヤッターマン自身も「よかった」などと喜ぶのですが……これらは全て茶番なのです! 劇中ではノーツッコミです。しかし見ている側はここにテンプレなドラマの空疎さを見て取り、笑ってしまうのです。

 ――「ノーツッコミ」って、それはお前、スタッフはマジメに感動させようとして作ってたんじゃないの?

 いや、そうじゃないんです。確かに、ひょっとすると理解できずに見ていた層もいるのかもしれませんが、明らかに、スタッフは茶番として描いているのです。
 それは上にも挙げたヒーローの演出もそうで、一応悪役が「格好つけんなよ!」とツッコむものの、全体としては正義側はあくまで正義として描かれ、悪役は否定されて終わる。それでも見ている側はその「正義の空疎さ」を感じ取ってしまうのです。

 これは同時に悪役の描かれ方を見ることで、より明快になるかもしれません。
『ボカン』における悪役ガイコッツ(これは彼らの操るメカの呼称とされることもありますが、同時にチーム名でもあるんじゃないかなあ……)も、ドジな小悪党であり、憎めない悪役、それが、大の大人にも関わらず毎回少年少女のヒーローに敗北を喫するところがギャグになっていました。
 ところが『ヤッターマン』では悪役チーム、ドロンボーの上に立つ正体不明の首領ドクロベエが配され、三人は「しがない下っ端」といった性質を持つに至ります(さらに後期作になると会社員という設定を配されることもあり、これは『ガンダム』がそうであるように当シリーズも三人組に「サラリーマンの悲哀」を見て取る「リアル系」へと変貌していったということなのですが、その辺りの作品は、個人的には今一です)。
 ともあれ、ここら辺りから「大人の悲哀」こそが少年少女のヒーローの照り返しを受けて強調されることとなり、それこそが作品の売りになっていくのです。
 頭脳派のボヤッキーは折に触れ「(今は都会で悪党に落ちぶれているが)故郷の会津若松には恋人を残してきている」と嘆きますし、何より女ボスのドロンジョはとにもかくにも結婚ネタでいじられます。例えば、ヤッターマンにやられた時のボヤッキーとのかけあい。

「これはお前の作戦ミスだよ!」
「あたしが作戦ミスならあんたオールドミス」


 えぇと、ひょっとすると「オールドミス」がわからない方もいるかもしれませんが、ようするに「嫁のもらい手がなく、ババアとなっても独身の女」ってことですね。
 他にも後期作(『ゼンダマン』辺り……?)でも悪役のテーマで「結婚したい!」「相手がいない!」といったかけあいがありました。
 本シリーズの(小原氏演ずる)女ボスは確かに美女として描かれ、『ボカン』の女ボスであるマージョは企画書で明確に「ウーマンリブの信奉者」と書かれており、男たちを顎で使う女傑です。
 しかしそんな女性だからこそ結婚ネタ、年齢ネタ、即ち女としての欠落が嗤われていたわけだし、同時にからかわれて恥じらうところが大いに可愛げとなっていたわけです。
 このオールドミスいじり、昭和の時点で急速にタブー化していき、何だったか、『名作劇場』の後期作でオールドミスキャラが出てきた時、「今時ありなのか」と驚いた記憶があります。
 もちろん、現代社会においては、「オールドミス」という言葉自体がわからないのではと書いた通り、それはもうタブーと化して久しい。
 林譲治氏の言もそれと同様、ポリコレに対応してドロンジョの一面だけを評価する、バイアスのある見方です。
 しかし果たして、それは女性にとって幸福なのでしょうか。
 水着撮影会が中止になることで女性モデルの仕事が奪われるのと同様に、(本当にオールドミスとからかわれ、傷つく女性がいる一方)それが一律に禁じられることは、単に女性が「可愛げ」を発揮するシーンを奪われる、「女性の仕事を奪う」ことでしかないでしょう。
 繰り返す通り、『うる星』は「男性性の否定」をテーマとする作品と言っていい(余談ですが、同時期にアニメ化された『じゃりン子チエ』のテーマもまたそれであり、何とアニメの音楽担当が同一人物なのですな)。
 面堂終太郎は完全無欠の二枚目がギャグを演じるというパターンの先駆けと言えました。いえ、縷々述べてきたようにヤッターマン1号も近いキャラなのですが、文武両道、金持ち、二枚目とスペックを積み上げた挙げ句ギャグで落とすというのはあまり先例はないはずで、ともあれここでは男性性が徹底的に茶化されている。
 ところが本シリーズではそれよりも数年前に、女性性を茶化していたわけです。基本、女性性とは神聖にして犯すべからずなもののはずで、その意味でこのキャラはかなりエッジなものなのですが、やはり悪役だからこそ、そうした変化球も許されたのでしょう。

 ……もう一つ、ちょっと(ここでぼくが書かないと、永久に忘れ去られるであろうことを)書いておきましょう。
 先に本シリーズを『ゴレンジャー』と同時期であると述べました。
 そして『ゴレン』はご存じの方も多いでしょうが、紅一点のモモレンジャーを登場させた、変身ヒーローものの中でも(先例はあれ)女性の社会進出の先駆け、といえる作品でした。ここでしかしモモレンジャーは意外にプロフェッショナル然としており、あまり「私」は出さない(もっともこれは『ゴレン』そのものの作風でもあります)。
 ところがやはり同年に『コンドールマン』という変身ヒーロー作品が放映されていました。川内康範原作で、主人公はゴリゴリに堅い(そう、まさに『ヤッターマン』でからかわれるような)当時としても古くさいキャラだったのですが、しかし敵の怪人であるレッドバットンというのが先進的だったのです。

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 ご覧の通り、当時としては図抜けて可愛らしい、オーパーツとも言えるような萌え系の怪人。彼女があくまで悪の組織の作戦として、義賊のように装うという話があるのですが、そこで彼女は使命を差し置いて、義賊として民衆にちやほやされる快感に目覚めてしまうのです。
 言うならば、彼女は悪役でありながら「悪の正義」にすら忠誠を誓わない、「ドキンちゃんの十年前に登場したドキンちゃん」だったのです。
 そして、これは実のところ、ドロンジョにもあった特徴なのです。
 多分当時観てたみなさんもお忘れだと思うのですが、ドロンジョ、ガンちゃんが好きなのです。
「ガンちゃん」というのはヤッターマン1号、主役です。上に書いたように1号には2号のアイちゃんという彼女がいるのですが、その正義の味方に、ドロンジョは横恋慕しているのです。年齢差、十五くらいあると思いますけどね。
 最終回ではドロンジョがガンちゃんへの愛情から悪党人生に嫌気が差し、そのためドロンボーが瓦解する様が描かれます。
 即ち、彼女らは悪のサークルのクラッシャーであり、女というものが、悪なり正義なりといった理念を超越したところで動いている存在である、ということが、ここでは語られているのです。これは丁度『キカイダー』の人魚姫ロボットの時にも申し上げたことですね。

・兵頭新児のレッドデータコンテンツ図鑑②『キカイダー』シリーズ 長坂秀佳――ホモソーシャルの作家

(この種のキャラの元祖はテレビ版『バットマン』のキャットウーマンがバットマンを愛するようになる……という辺りでしょうか)

 八十年代、「物語の喪失」と共に、ヒーローの正義は形骸化した。ところが「悪の正義」すらもが実のところ形骸化していることを、ドロンジョは描いて見せた。
 そして九十年代。専ら女性が「悪」として描かれる時代が現出した。いや、これはちょっとオーバーに言いましたが、以前『スパロボV』について語った時に書きましたよね。『マイトガイン』の明らかにキャットウーマンを意識した女賊カトリーヌ・ヴィトン、『GS美神』のピカレスク的ヒロイン美神さん、他にはタイムボカンシリーズ的なテイストの『ゲンジ通信あげだま』の男子小学生が正義のヒーロー、そのクラスメイトで小学生離れしたプロポーションを持つ女子、九鬼麗が悪玉であった図式などが思い浮かびます。

 この時期に、「世界征服」といった明確なヴィジョンを持つ「悪の正義」は失われていた。
 そこで(ある意味、しょうことなしに)「女のエゴ」が「悪」そのものとなった。
 ドロンジョは実のところその「どうしようもなさ」(何しろ、最後に組織を瓦解させてしまう)までをも、描破していた。

 そして観ていたはずの人たちもそれから何一つ読み取らず、いまだ「女に顎で使われたい」とか言っているのでした。
 めでたしめでたし。

 

第六十一回「小山田圭吾擁護の「嘘」――サブカルの「いじめ」はいかにつくられたか」

2024-09-08 20:41:32 | 動画のお報せ

 

 第六十一回目です!
 パリ五輪をきっかけに――なのかは知りませんが、またぞろ小山田圭吾擁護の大合唱。確かにパリ五輪の開会式に勝つには小山田様に演出していただくくらいしか手がないかも知れません。
 てなわけで小山田様のいじめがどれほどDEI(多様性、公平性、包括性)に敵ったものであったかをご紹介。

 文中のかつての小山田批判動画は以下を!

風流間唯人の女災対策的読書・第50回「橘玲のバカと無知で世界はなぜ地獄になるのか フェミと左派の“これから”」


風流間唯人の女災対策的読書・第32回「その時、サブカル女子は欲情していた」

風流間唯人の女災対策的読書・第24回「オタクVSサブカル最終解答」


十年目の『ぼくたちの女災社会』(その3)  ――『女災』は「負の性欲」を予言していた!――(再)

2024-09-07 19:23:29 | 女災対策について

 

 相も変わらず『ぼくたちの女災社会』[増補改訂版]刊行記念の記事再録です。
 是非、増補版をお買い求めの上で記事をお楽しみください。

 

 さて、今回の再録記事の初出は2019年11月29日
 発刊十周年で書いてはいたものの、正直、この辺になると時事ネタと強引に絡めて自己宣伝という性質が強いです。
 リョーマ氏発の「負の性欲」というワードがあまりに見事で、何とか便乗しようという正々堂々とした下心が、記事からは横溢していますね。
 そんなこんなで最後にちょっとだけ「五年後の補遺」を設けました。
 一度読んだ方も、そこだけでも読んでいただければ幸いです。
 では、そういうことで。

     *     *     *

 今年は拙著『ぼくたちの女災社会』出版十周年の年です。そんなわけで本書については、(以下略)。
 が、期せずしてシンボリックな事件が起きたがため、それにちょい便乗させてもらおう(以下略)。
 今までも天才予言者であるワタクシ、兵頭新児が数々の予言を成就させてきた(以下略)。
 あ、それと本書を未読の方はkindleで買えますので、ご一読をお勧めします。目下ツイッター界隈で囁かれている反フェミニズム論、非モテ論がいかに浅く周回遅れなものかがおわかりいただけるようになりましょう。

●負の性欲とは?

 ――さて、ツイッターで今月28日、「負の性欲」という言葉がトレンド入りするという珍事が起こりました。いえ、この概念そのものは以前から結構評価されていたものであり、当然、当noteでも折に触れ、扱って参りました*1。
 が、当然というか何というか、ツイッターではフェミニストが聞きつけ、脊髄反射で拒否反応を起こしている場面、どう見ても語幹から適当に想像して勝手なことを言っているだけという場面などが散見され、まあ、しょうがないとはいえ何だかなあな状況を呈しています。

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 こうした図が出回ったりもしていますが、何というか、全然違いますね。
 まずはぼくのnoteなんかよりリョーマ氏のブログ*2を見るべきなのですが(全否定かよ)、まあここはポイントだけをご説明すると共に、ぼくの側の解釈を最後に述べることにしましょう。

*1「ショウジョマンガガガ」の「●歩く完全負のポルノ図鑑」など。
*2「女性専用化社会 負の性欲

●提唱者の、定義

まず、記事の冒頭には

とはいえ、最近の学生とかは恋愛はフラれるとSNSで「キモい奴から告白された~」って晒されるリスクが格段に高く、慎重にならざるを得ないっていう点で大変だな、と思います。

 とあります。
 何というか、上の図では「負の性欲」というのは誰にでもある、性のネガティブな発露。みんなでマナーを守り、楽しい社会を。とでもいった、薄っぺらなどうでもいい世界観が開陳されておりますが、リョーマ氏の記事の冒頭の痛烈な描写を見て感じるのは、「この女の過剰さって、何なの?」というものです。

 ――いや待て。男だってすることだろ。

 いえ、しません。
 否、そりゃするヤツもいるだろうけど、女の苛烈さと普遍性とは比べるべくもない。
 ここに何か、女性独自の精神的必然が働いてんじゃねーの? というのがリョーマ氏の疑問なのではないかと、ぼくは考えます。
 しかしそこを無視し、上の図は「お互いさま」とでも結論できるような、当たり障りのないものになってしまっている。
 白饅頭の著作で知ったのですが()、「世界公平信念」という言葉があります。これは「ずっとついてなかったんだから、そろそろツキが回ってくる」といった世界が公平にできているとの、整合性はないがついぼくたちが陥ってしまいがちな観念を指し、特にジェンダーフリー論者じゃなくとも、人は何とはなしに男と女を対称的なものだとの観念に引きずられてしまうものなのでしょう。
 しかし、あくまでこれは女性特有の、女性のセクシュアリティに紐づいた、特殊な欲望なのです。
 ブログを読み進めましょう。

男が女をキモいって言うこと、ほぼ無いだろ?女が魅力のない男からのアプローチに汚物のように嫌悪する感情、生理的に無理っていう感情を、男が女に抱くことってほとんど無いだろ?

 そう、「男には負の性欲は(ほぼ)ない」というのがリョーマ氏の考えだとわかります。

だから女の負の性欲から発せられる、「キモい男からアプローチされた!」「セクハラされた!」等の男をしばいてンギモヂイイイしているのは、女向けのポルノとでも言うべきものなんだ。

 とのフレーズもあり、これもぼくの指摘とほぼ、一致しますね。
 既に消されてしまっているけれども、恐らくリョーマ氏が広くこの概念を訴えたのは、棘のまとめで、ぼくが「ブスイキリ漫画」と称したような作品を例に挙げてのことだったはず。
 そう、何かエラそうな女が男に一喝して、男が反論できずたじろぐ。そうした漫画ってありますよね。あれこそがまさに「負のポルノ」だ、というのが彼の主張だったんじゃないかなあと、記憶しています。

「女性はこんなに被害に遭ってるんだ!」と延々男叩きを垂れ流してる女っているでしょ?フェミニストっていうんだけど。

つまりフェミニズムは女性向けのポルノコンテンツなんだ。

 驚きました。
 何しろ「フェミニズムとはポルノだ」との指摘は、ぼくが以前からしているもので、「あ、俺以外にも言ってくれる人がいたんだ」というのがぼくの率直な感想です。

●『女災』も実は同じことを言っていたとか、そういうことを言いたい

 しかし、敢えて、ここで一つだけマウントするならば、リョーマ氏の指摘ではこの「ポルノ」というのはこの段階ではある種、「比喩」と思えなくもないこと。
 ブログの見出しには「男から求められ、その男を性的優位な立場からボコる快感」ともあり、これは「暴力を振るう快感」と取れなくもない。が、その解釈に留まるならば、この「負の性欲」という概念のポテンシャルを、三割ほどしか発揮していないことになります(リョーマ氏がそうだというのではなく、ツイッター上の解釈が、そこに留まっているのではないかというのが、ぼくの危惧です)。
 ならばどういうことか……ということで、もうちょっとだけこの概念を深掘りしましょう。
 ぼくは『女災社会』において(以下の引用、実は前回記事と全く同じなのですが)、

女性のセクシュアリティの本質は、男性を悪者にすることそのものなのです。
(161p)

 と表現しました(強調原文ママ)。

 彼女らは自己愛を満たすために、男を悪者に仕立て上げます。恋愛や結婚における責の全てを男に求め、或いはまた自分が男から求められているのだ、という幻想を満たすために男を悪者に仕立て上げ、その結果、相手を殺します。
(157p)

 少なくとも立場的に弱い男性を「ストーカー」、「セクハラ加害者」扱いしてのいじめ、いやがらせとなると、日常的に広範に行われていると考えざるを得ません。そしてそういった行為に女性故の優越感を感じることの快楽がいささかも伴っていないというのは、どうにも考えにくいことです。
 何となれば、先に書いたように「男性から求められること」そのものが女性のセクシュアリティであり、アイデンティティの根幹をなしているからです。故に、彼女らは自らの欲望をつまびらかにせず、覆い隠すことで「男性から求められ」ようとします。
(160p)

 そう、前回記事では石川優実師匠の言動を批評するために引用したこれらフレーズは、全く「負の性欲」と重なるのではないでしょうか。
 女性の性欲というものは、そもそも自分自身に向かうという方向性があります。男性が自分の肉体性に惹きつけられていることを確認することで、女性の性欲は満たされるのですから。
 だから、男性が自分に求愛し、しかし肘鉄を食らい、無残に滅びていくことで、彼女らは「エクスタる」のです。
 フェミニズムとはまさにそうしたエクスタる過程そのものであり、性犯罪冤罪もまた、というのが実のところ「女災」理論の根幹なのです。
「女災」とは「負の性欲」の暴走で起こる厄災そのものなのです。

●ちょっとだけ、独自解釈?

 さらにもう少々、マウントを続けましょう。
 リョーマ氏は以下のように指摘します。

もちろん女にも男の肉欲的な「正の性欲」はある。けども、それは女がセックスしてもいいと認める、ほんの一握りの男にしか感じない、限定的な欲望だ。だから、女向けのAV(調べたら一応あるみたいだ)は男向けのポルノに比べて市場規模は小さい。

 ちょっとこれは違っていて、言うまでもなく女性向けのポルノというのはレディースコミックという形で、無限にあります(まあ、前にも書いたように女性週刊誌の誰それが浮気したの離婚したのという記事こそが彼女らにとってのポルノだろうけれども)。
 そこにはレイプ描写が溢れており、レディコミ全盛期にはフェミが必死になって言い訳に奔走していたというのが実情なのだけれども、BLもまたレイプ描写の山であり、女性はレイプ描写が大好きだという事実は揺らぎません。
 実はこれは、藤本由香里師匠が(いや、フェミニストという立場で大丈夫なんですかと言いたくなるほどにあけっぴろげに)分析していて*3、要するにレイプものとは責を男に預けたまま、自分は気持ちよくなれるというサイコーに負の性欲を満たしてくれる表現なのですな。「私はイヤなのに」というわけです。
 女性の描く「ショタ漫画」というのももちろん、ほとんどは成人男性が小学生男子をレイプするものなのですが、ぼくの知人の女流エロ漫画家さんはこれにも同じ評を与えていました。つまり、「責は男に押しつけて快だけ得るので安易である」と。責任逃れの度の強さは、何しろ子供で、しかも性別をも男性に押しつけているわけだから、最強なのですね。

*3 快楽電流
本書には「好みの男にされるレイプはレイプじゃない」と言っているとしか思えぬ個所もあり、「フェミとは思えぬ極めて率直な自己分析と鋭い自己洞察」と、「痛すぎるフェミの大変なことになってしまっている部分」とが同居しており、何というか、驚きの著作という感じがします。

 恐らく、リョーマ氏自身も(仮に無意識裡にでも)上のようなことを感じており、だからこそ「性欲」と名づけたのでしょう(「負の」というのは「性欲を感じていない」という意味ではないはずです)。
 ただ、ここは強調しておかないと、先にも書いたような、結局「男女ともに負の性欲があってお互い様だよね」みたいな曲解された通説が広まるのでは……というのがぼくの危惧です。こういうの、大メディアに採り挙げられると、とたんにそういうわかりやすい方向に持っていかれ、棘を抜かれちゃうんですよね。

 実はリョーマ氏のツイッターアカウントは復活しており、これからも積極的に発言してくれることを期待します。その上で、少しでもこの概念が深化されていけばいいな……とぼくは今、考えています。

●五年後の、短い補遺

 ――加筆部分です。
 振り返ると「負の性欲」、他にも「マ●コ二毛作」といった優れたタームを生み出した熱血系アンチフェミ、リョーマ氏も活動を休止しています。
 この「マ●コ二毛作」とは以下のような意味です。

「まんこ二毛作」とは、女性が性的価値の高い10代・20代の時に自らの意思で性を売り物にして金を稼ぎ、後に歳を重ね性的価値が低下した際には、性を売り物にしていた経験を「搾取されていた」などと表現して、いわゆる被害者ビジネスを展開することで再び金を稼ぐことを指すネットスラングである。

はてな匿名ダイアリー

 これも今となってはネット上でその実例がリアルタイムで余すところなく晒されるようになり、少なくとも男女論界隈では半ば「常識」化した概念です。
 女災、即ち「有毒な女性性」による被害は確実に周知されつつあるのだと、ひとまずはそのことを、喜んでおきましょう。