兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ドラがたり とよ史とフェミニン兵団

2017-06-30 01:17:33 | アニメ・コミック・ゲーム



 前回は本書を、以前に出た類似書、『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』に準えて論じました。両作とも、重篤なフェミニズム信者が『ドラえもん』ファンであった過去を涙ながらに懺悔し、これからはフェミニズム的価値観にそぐわないものは徹底的に破壊すると誓う信仰告白の書である、というのがその主旨ですが、細かい点においても共通点がありました。
 それはヒロインであるしずかちゃんについてです(源静香は原作漫画では「しずちゃん」と呼ばれることが多いのですが、本稿では「しずかちゃん」で行きます)。
 フェミニストたちによる彼女についての俗論に、「女の友だちと遊ぶシーンもない、男の視点から描かれた無個性な少女」というものがあります。それについて上の書は「それはあくまでのび太視点の物語だからだ」と反論、本書でも同様な指摘がされています。
 それ自体は納得のいくものであり、ここだけを取り出せば上の書も本書も「フェミニストの硬直した見識を、漫画評論家が打ち破った」書ということになるのですが、そこで心を許しかけると、著者がフェミニズムにどっぷりと浸かった偏向した『ドラえもん』評を始める……という点までが、両者共に共通しています。
 というわけで今回は『ドラえもん』のヒロインについて語られた第五、六章から見ていくことにしましょう。

 とはいっても何のことはない、要は上のような見解を述べたしかる後、稲田師匠はただひたすら、しずかちゃんへの罵倒を並べ立てるだけです。
 皆さんご承知かと思いますが、しずかちゃんは成人後、「そばで見ていてあげないと危なっかしくてならないから」のび太との結婚を決意します。しかしそんな彼女のことを、師匠は「突出した才能を持たないため、自分よりも格下の男を選び、優位性を保とうとしたのだ(大意)」と説くのです。
あぁ、そうですか」以外の感想が沸きません。よくある悪趣味な裏読み以上のモノではないでしょう。特段の理由もなく「ウルトラマンが地球を守るのは、実は地球を植民地化しようと狙っているからなのだ」と言われても「あぁ、そうですか」以上に返しようがないですよね。
 そこを師匠はしずかちゃんの内心を勝手に「忖度」して大喜び。挙げ句、しずかちゃんが出木杉を選ばなかったのは「彼が自分で何でもできるから、自分の優位性を保てないからだ」と夢想します。
 ちなみにCG版『ドラえもん』ではプロポーズした時、当ののび太はパニクっていて事態を飲み込めず、しずかちゃんは思わず「あら、思ったより喜んでくれないのね」と漏らしています。これもまた、彼女の優越心の表れだそうです。
 こういうのを、牽強付会と言います。
 また、同映画でしずかちゃんが出木杉のプロポーズを「あなたは一人で何でもできるから」と断るシーンに、師匠は「答えあわせ完了」と得意の絶頂です。
 違います。
 師匠が「母性が強い」「のび太が心配」という「最初から書いてある答え」を勝手に曲解し、その「書いてある答え」に向けて放たれたセリフを自らの妄想へと向けられたものであると、勘違いしているだけなのです。
 一人で、「あっていない答えあわせをしている」だけなのです。
 先の例えで言えばウルトラマンが劇中で「私は生命を懸けて地球を守る!」と叫んだのを見て、「俺の説通り、ヤツは地球侵略のために生命すらも懸ける気だ」とドヤ顔になるようなものでしょう。
 しかし、一体、何故、どうしてこうまで師匠はしずかちゃんを憎むのでしょう?
 のび太を憎む理由は、師匠の中の弱者男性への堪えがたい「弱い者虐め欲」にあると前回説明しました。しかししずかちゃんは別段弱者ではありません。
 では何故……?

 或いは本書をご覧になった方は、答えが喉まで出かかっているかも知れません。
 そう、本書の五、六章は実のところ「しずかちゃんdis」以上に、極端なまでの「ジャイ子age」に費やされているのです。
 いえ……師匠のみならず、近年、雑誌などでも妙にジャイ子を持ち上げるような言説が目立っているように、ぼくには思えます。女性作家さんがジャイ子をリスペクトするつぶやきがまとめられたこともありますし*1、トヨタのCMで、成人後を美人の女優さんが演じたこともあります(しかしこの「成長後のアニメキャラ」ネタのCMって本当にDQNにとってのアニメ消費の最後の聖域という感じですね)。
 何故一部の人たちは、こうまで「ジャイ子萌え」に走るのか。
 それをご説明するには、彼女についての解説が必要かも知れません。
 周知の通り、ドラえもんはのび太の運命を救うためにやってきました。
 第一話「みらいの国からはるばると」(てんコミ1巻)ではジャイ子と結婚することが、のび太の将来の不幸として描かれました。この時点で、ジャイ子はあくまで「不幸の象徴」という、言ってよければコマとしてしか描かれていません。それは、しずかちゃんが「のび太の視点から見た存在であるため、内面がそれほど描かれない」のと同様に。
 しかしそれ以降、ジャイ子は数話で姿を消し、連載中期には全く登場しなくなります。そのままなら「ガチャ子」レベルのレアキャラとして終わったであろう、長らく忘れ去られた存在であった彼女は、しかし十年ほどのブランクを経て「漫画家志望の少女」との設定を付与され、再登場します。
 これは当然、藤子・F・不二雄先生のキャラクターへの愛情故でしょう。それは丁度、連載初期に数回登場しただけで長らく忘れ去られていたスネ夫の弟である「スネツグ」が、後年、「実はアメリカに養子に行った」という設定で再登場したように、「後づけ設定による辻褄あわせ」でした。
 漫画家志望という設定は、のび太の嫁という役割を失った彼女のキャラを立たせるためのものでしょうが、それは(弟という設定のスネツグが一人っ子の時代になったため、忘れ去られたのと対照的に)時代の波を受けたためとも言えました*2。つまり、「結婚を捨て、キャリアの道を選んだ女性」という解釈が可能な存在として浮上してきたわけですね。そこに、フェミニズムの世界観で世の中を解釈するという難儀な枷を背負った人々が、涎を垂らしながら飛びついた――そんな捉え方が、実のところ可能なわけです。
 事実、師匠のジャイ子に対する視線はどうにもねっとりと絡みつくような熱を帯びています。
 何しろ、F先生が「同じ名前の子がいじめられるとかわいそうだから」という理由でジャイ子の本名を設定しなかったという(通常は「いい話」として語られる)逸話は、師匠の手にかかるとジャイ子に「まともな人権を与えていなかった(89p)」証拠とされてしまいます。なるほど、キャラにまともな人権を与えていないエロ漫画など、即刻発禁にしなければなりませんな!

 意外なことだが、その後の物語でジャイ子がものすごく性格が悪いとか、人間的にアウトであるといった描写はない。ガサツで、のび太への無邪気ないたずらに多少荷担することはあれ、悪意は感じられない。
(89p)


 などと主張する師匠ですがもちろん、ウソです。何しろ第一話では屋根から落ちて木に引っかかったのび太を、彼女は「やあ、首つりだ、ガハハハ。」と大笑いしています。誰か、嫁にしたい人。
「のろいのカメラ」(てんコミ4巻)におけるガン子との共演をご記憶でしょうか。この時のジャイ子は、「生意気に暴れ回る、小さい女の子」という、のび太にとってママやジャイアンとはまた別ベクトルで手に負えない難敵としての登場でありました。
 更に上の文章は以下のように続いています。

 のび太をバカ扱いしたり、あからさまに同性の友達が少ないしずかのほうが、よっぽど難がある。
(89p)


「しずかちゃん、女友だちいない問題」については前のページで否定していたはずなのですが、ジャイ子を持ち上げるためにわざわざ蒸し返し、違ったことを言い出すのだからたまりません。
 更に言えばこの後、「ジャイ子はのび太の意志を無視して求愛しているわけではない(大意)」などと書かれていますが、そもそもこの時期のジャイ子は下手をすれば幼稚園児とも思える幼女なのだから、そんなことをするはずがない。擁護のための苦しい詭弁です。
 第一、「愛妻ジャイ子?」では、ジャイ子の将来が暴力でのび太を圧倒する猛妻として描かれています。これはてんコミ未収録作ではありますが、師匠が読んでいないはずはありませんから、意図的に隠蔽していると言わざるを得ません。
 師匠ばかりではなく「ジャイ子推し」女子も第一話のドラえもんが見せた未来アルバムで、のび太が「満更でもない、幸福そうな表情をしている」と強弁する傾向がありますが、それもむろんムチャな誤読で、読み返せばのび太はジャイ子の尻に敷かれ、生活苦にやつれつつ、気弱げに微笑んでいるだけだということがわかるはずです。
 ジャイアンの妹というアドバンテージで誰も逆らえないジャイ子を、いじめられっ子と強弁するのもわけがわかりません。

 つまりジャイ子は、(物語内ではなく)メタ的な意味において完全にいじめの対象だ。
(89p)


「メタ的な意味において」って言われても困ります。要するに「ブス」であることを理由に忌避の対象とされているなど許せぬ、と言いたいのでしょうが、ブスでことさら性格もよくないのに忌避されないキャラが出て来たら、そっちの方が怖いでしょう。
 先に述べたように、ジャイ子は決して「性格はいいのに、ブスだからというだけで忌み嫌われている」キャラなどではないし、そして漫画家として再登場してからは、少なくとものび太たちに嫌悪の対象としては扱われていないわけで、そこをねじ曲げて、のび太たち(そして『ドラえもん』ファン)が理不尽な振る舞いをしているかのようにミスリードしているのは師匠の方です。
 前回も師匠は誤読の限りを尽くしていましたが、ジャイ子についてはひたすら「アナザーファクト」を創造することで彼女を持ち上げるという強攻策が採られているわけです。
 のび太はムリやりに貶め、ジャイ子はムリやりに持ち上げる師匠。
 人格のアファーマティブアクションは留まるところを知りません。

*1 のび太とジャイ子とセワシにまつわる歴史の謎と闇~SOWさんの考察を中心に
*2 ただし、ジャイ子再登場編は「ジャイ子がのび太をつけ回している、まさかフラグが再生したのか……と危惧するのび太だが、実は彼をギャグ漫画のキャラクターのモデルにしようとしてのことであった――」といったストーリーが展開されます。
 また、その作品が発表されたのは80年。女性の社会進出がそこまでかまびすしく言われていたとも思えません。
 以上のような理由から、或いはこの漫画家設定そのものは単純にストーリー展開上の必然から演繹されて出て来たもの、という可能性もないではありません。



 しかし、それにしても、一体どうして、師匠はここまでジャイ子に萌えているのでしょうか。
 読み進めると、師匠は自らの身近にいた「サブカル女子」たちをジャイ子に準え始めます。
『ドラえもん』を好む男性に対しては「いい年齢をしてサブカルに耽溺」と貶めておきながら、女子たちを持ち上げる時は「『スタジオ・ボイス』のようなハイブロウなサブカル」を嗜んでいた、などと言い出すのだから、失笑を禁じ得ません。

 彼女たちは、はなから望めない「男子受け」要素を自ら完全放棄し、歪な幼児性をたたえたお団子頭やサスペンダー、羽根つきランドセルや極彩色の靴下などで、自らの「メス性」を完全に塗りつぶしたのだ。
(103p)


 おやおや、Fの感性を「非常に独善的な自己肯定(83p)」と罵っているのに、女性側の「幼児性」は完全肯定ですか。「女性性」を「幼児性」に変換し、密かにナルシシズムを享受しようとするこうしたやり方、ぼく自身はぶっちゃけキモいと思うのですが。これはBLに対して男性が感じるキモさといっしょで、傍から文句をつける性質のものではないけれども、ことさらに賞揚するものでもないでしょう。
 こうした女子たちは、師匠にとっては「男に媚びを売らず、独自の価値観を貫き通す」格好のいい女たち、ということになっているようです。
 何しろ師匠は、『がんばれ!ジャイアン!!』をサブカル女子たちを「追認」しての作であるとまで言い募るのです!
 すごい!
 すごすぎます!!
 リベラル君とはオタク文化を貶める一方、好ましいものは泥棒し、まるで自分の手柄であるかのように言い募る人たちのことですが、しかし盗人の言い訳として、ここまで図々しいものは初めて見ました。
『がんばれ!ジャイアン!!』とは2001年、劇場版『ドラえもん』と共に上映された短編映画です。ジャイアンが漫画家を目指すジャイ子を見守るという物語で、「泣くなジャイ子よ」(てんコミ40巻)、「ジャイ子の新作漫画」(てんコミ44巻)をアレンジした作品。しかし原作は当然、それより早く描かれています。ジャイ子復活編の「ジャイ子の恋人=のび太」(てんコミ22巻)は80年、「泣くなジャイ子よ」、「ジャイ子の新作漫画」だってそれぞれ89、90年に描かれているにもかかわらず、それが90年代的サブカル女子を「追認」していると言い放つのだから、大した心臓です(アニメの方だってアレンジはあれど、サブカル女子を「追認」して加えられた描写があるようには、ぼくには見えません)。
 フェミニズムというガクモンに関わる者は、自らの情緒という分厚いレンズで透過率ゼロになった色眼鏡で事象を捉え、自由闊達にねじ曲げる傾向にあるのですが、師匠もまた、と言わざるを得ないでしょう。
 ただ、不思議なのは、師匠がサブカル女子がぶっちゃけ美人ではないことを、比較的あからさまに描写している点で、読んでいるとこちらがはらはらしてきます(『がんばれ!ジャイアン!!』のDVDパッケージではジャイ子が美化されて描かれているのですが、師匠はそれを大胆にも「気持ち悪い」と言っています!)。
 そもそも論として、「サブカル女子」とやらが「男に頼らぬ」ことをモットーとする、と自称している存在なのかどうか、ぼくにはわかりません。しかし師匠は(丁度、北田師匠が「腐女子」をそうしたように)彼女らと「フェミニスト」を単線的に結びつけている、ということは見ていて伺えます。
 そう考えると、上の引用からも垣間見えるように、師匠はフェミニストたちの「美という属性を自ら拒否した」という自己申告をそのまま鵜呑みにし、そうしたことを率直に語ってもいいものだと勘違いしてしまったのではないでしょうか。
 つまりぼくからは、彼らはフェミニストたちが虚栄心から言ったタテマエ論を真に受けてしまった「マジメ君」というキャラに見えてしまうわけです。
 しかし、そうした「ジャイ子系女子」の手放しの持ち上げは、決して女性にとって益するものではないでしょう。
 師匠は篠原ともえ、光浦靖子の名前を挙げ、ジャイ子と並べ立てます。
 他にも女芸人(ハリセンボンとか)を強引に持ち上げているのですが、女性に「キミはハリセンボンの誰それみたいだね」と言って、喜ばれるものでしょうか。これも想像ですが、ああいうのは「女性に向けた、自分よりもブスな女枠」としての位置にいる人たちなんじゃないでしょうかね。
 篠原ともえなんてのは言うまでもなく既に忘れ去られた存在です。言っては悪いですが、全盛期に彼女を真似ていたいわゆる「シノラー」、今となってはほぼ100%、それを「黒歴史」化しているのではないでしょうか。本書でも篠原ともえ自身が後年、美人キャラとなったことを師匠自身が「裏切り者」と罵倒している箇所がありますが、そのこと自体が何よりもそれを実証しています。ちなみにぼくは光浦靖子と片桐はいりがごっちゃになっていたのでちょっと検索してみたのですが、案の定というか、「実は美人だった光浦靖子」みたいな記事がヒットしました。
 つまり、師匠はジャイ子を持ち上げることで、「ママに誉めてもらえるに決まっている」と確信していらっしゃるように思えるのですが、ぼくの視点からは彼の背後に角を生やしたママの姿が見えていて、何というか、いたたまれないのです。
 フェミニズムは、失敗したツンデレです。
 男は悪だ、男は不要だ、私は女性ジェンダーなど超越した存在だ、と虚栄心で言い募るうち、それがシステム化し、全女性を不幸に追いやったのがフェミニズムです。
 そして、上に挙げた「ブスタレント」たちが売れ出すや「実はいい女」と強弁し始めるのと全く同様に(ジャイ子についても、先の美人が演じる実写CMはまさにそれですよね)、フェミニストたちもまた地位を築き上げた後には、実にお気楽に「実はいい女」と自称し始めます。
 以前、上野千鶴子師匠が「学会の黒木香」を自称しているのを幾度か紹介したことがありました*3。本当に、痛々しい、目を覆いたくなるような光景ですが、フェミニストが好きで好きでたまらない師匠こそ、こうした点について目を塞ぐべきではないのではないでしょうか。
 そう、実は稲田師匠が意図的にスルーしている点は他にもあります。
『がんばれ!ジャイアン!!』はジャイ子のラブストーリーなのです。
 ジャイ子は言わば、のび太に捨てられ、漫画に身を捧げた存在でした。
 しかしやがて彼女は漫画マニアの少年、茂手モテ夫と交際を始め、共に同人誌を作るようになるのです。大変に残念なことですが、彼女は「男無用の女」などとして描かれているわけでは、全くないのです。師匠はそこを、(モテ夫について言及がないわけではないのですが)軽くスルーしている。
 サブカル女子を必死で誉めているつもりが、今になって篠原を持ち出し、ジャイ子を真実を隠蔽して持ち上げることで、結果的に師匠はサブカル女子への「痛烈な風刺」をしてしまっているのです。
 それはつまり、フェミニストも、サブカル女子も、誰も、「女性ジェンダー」を捨てる気など、全くなかったのだ、「女性ジェンダー」を捨てても、決して幸福になどなれなかったのだという事実への強烈なカウンターです。
 リベラル君たちの「フェミニスト萌え」には、根底に強烈なミソジニーがあると、ぼくは想像します。女性が嫌いで嫌いで仕方のないリベラル君たちの淫夢には、「バカな女どもと違い、ボクのことをわかってくれる、男性ジェンダーを獲得したフェミニストのお姉様」「勇猛なフェミニズムの闘士」、「ボクたちと共にポルノを守ってくれるリベラルフェミニスト」が毎晩のように登場します。
 しかしそれは非実在であったという事実の、身も蓋もない指摘に、本書はなってしまっています。
 恣意的曲解にまみれた評論で草食系男子を侮蔑し、ウソにまみれた評論でサブカル女子を賞揚し、その両方ともに失敗を続ける師匠。
 本書は果たして、どこに向かうのでしょうか。

*3 上野千鶴子師匠が山梨市での講演会を中止にされそうになった件


ドラがたり あんた、藤子不二雄のなんなのさ

2017-06-23 17:30:32 | 男性学


 皆さん、ジャイアンの「お前のモノは俺のモノ、俺のモノも俺のモノ」という名台詞のルーツをご存じでしょうか。
 そう、のび太やスネ夫の漫画やおもちゃなどを奪い取り、そのまま借りパクしてしまうジャイアン。そんな彼のエゴのよく表された名台詞……かと思いきや!
 何と最初にこのフレーズが使われたのは、幼稚園時代のジャイアンがのび太の苦難を捨て置けず、ツンデレ的に「お前の苦労は俺の苦労でもある」と手助けをしてやった時だったのです。
 さすがジャイアン、乱暴者ながら実は心の優しい、男の中の男!!
 ――ウソですけどね
 いえ、上のエピソード、近年のアニメで実際に放映されていました。
 だから決してウソではないのですが、言うまでもなく原作にはないオリジナルのお話。ジャイアンをむやみにいいヤツにしたがる近年の傾向は、あまり歓迎できません。
 これは作品が国民的コンテンツになっていく過程で避けて通れない、ある種の必然ではありますが、ここ数十年、『ドラえもん』は「感動」といった方向で一般人の皆様方に受容される傾向が、大変強くなってきました。「のび太の結婚前夜」(てんコミ25巻*1)における、しずかちゃんのパパがのび太を素晴らしい青年だと賞賛するシーンなどが代表ですね。後、CG版『ドラえもん』も「ドラ泣き」とかいう「何だかなあ」なキャッチコピーがつけられておりました。
 ですがぼくとしては――本当、ひねくれ者ですみませんが――藤子・F・不二雄のファンが妙に『ドラえもん』をアナーキーな、インモラルな作品であると評したがる傾向にも、あまり乗れないモノを感じるのです。
 オタク色の強い掲示板、例えばふたばちゃんねる、2ちゃんねるなどで『ドラえもん』が語られる時、必ずFマニアと思しき人物が「藤子Fの作品はブラックだ、実のところ藤子A以上だ」的な決まり文句を伴って現れるのですが、その度ぼくは「まあ、間違っちゃいないけど、何だかなあ」という気持ちでスレを眺めることになります。
 藤子・F・不二雄は、知名度に反して評価されることの少ない作家です。同期の作家たちよりも児童向けという捉えられ方をされることが多い気がします。コンビを組んでいたAがブラックな作風で知られるため、上のようにマニアも妙にAに対するコンプレックスをこじらせてしまっているわけです。
 アニメが青年文化になっていきつつあった80年代に大ブームになった児童漫画という点もあり(また児童漫画としては鳥山明など新しい潮流が生まれていたこともあり)Fには「時代遅れの幼稚な作を乱発する作家」といったイメージが拭いがたくまとわりついていたのです。
 上に書いたマニアの言はそうしたコンプレックス故のモノであり、そこで持ち出されるのが「ドラえもんだらけ」(てんコミ5巻)におけるドラえもんの暴走であったり、「ネズミとばくだん」(てんコミ7巻)における「地球はかいばくだん」であったり、或いはしずかちゃん関連のお色気描写など、アナーキーというか、インモラルとされるような描写です。
 しかし、そうしたものを仰々しく持ち出してドヤ顔になるのもまた、いささか厨二的ではないか。ぼくとしては心情は理解するが、反発も感じてしまうわけです。
 それは丁度、オタクたちが『ガンダム』を評する言葉が、「単純な勧善懲悪ではない」というものであったことと、全くいっしょです。先の『スパロボV』の記事をご覧になればおわかりになるでしょうが、ぼくとしてはそうした「厨二」的、『映画秘宝』的な価値観もまたどうにも幼稚に思え、「何かヤだ」と思ってしまうわけなのです。

*1 以降、サブタイトルの後に収録巻を記すことにしますが、慣例に従い、「てんとう虫コミックス」を「てんコミ」という略称で表記します。
「慣例なんてあるのか」と思われたかも知れませんが、世には『ドラえもん』評論というものもいくつかはあり、その世界でのお約束なのです(このお約束に、本書もまた倣っているのが腹立たしいですが……)。


 さて……そこで本書です。
 本書の版元をみると、「株式会社PLANETS/第二惑星開発委員会」。例の、アニメやオタクについてのヘイトスピーチをするためにこの世に存在する、宇野常弘のお膝元。著者の稲田豊史師匠はその子分のようです。
 はい、ここで解散!
 ……でもいいのですが、まあ、そう言っては記事が成り立ちません。もうちょっと続けましょう。
 さて、本書のスタンスは上に挙げた『ドラえもん』インモラル論に、実は近い。
 何しろ第二章のタイトルは「のび太系男子の闇【前編】正当化される「ぐうたら」」というものなのですから。
 本書の第一章辺りの筆致は、実のところぼくが本稿の冒頭で書いたこととさほど違いはありません。つまり、「『ドラえもん』は文部省推薦的なよい子よい子した漫画などではない」というものですね。何しろ師匠は

 余談だが、当時筆者の間でも、幼少期に多少原作とアニメに触れた程度の20代女性たちの間で、「『ドラえもん』っていい話多いよねー」「のび太って優しくていいよねー」的な薄っぺらい会話が交わされていたのをはっきりと覚えている。
(38p)


 などとミソジナス()極まりない物言いでにわかファンを罵っています。
 もっとも上に書いたように、その心情はまあ、半分くらいは理解はできるのですが、しかし本書は二章になるや、のび太への常軌を逸した攻撃を始めるのです。

今や「のび太=劣等生の象徴」という認識は、日本国民ほぼすべてに行き渡っているといってよいだろう。ただ、のび太が「頭脳・体力面で平均値より劣る」という認識はあっても、「人格面でも劣る」という認識はそれほど人口に膾炙していない。実はのび太ほどのクソ野郎は、なかなかいない。まずは、のび太のクソ野郎ぶりがわかるエピソードをいくつか拾ってみよう。
(30p)


 といったもの言いに始まり、「単なるギャグ漫画におけるバカな描写」を、大袈裟に大袈裟に嘆いて見せます。そのしかつめらしい物言いは、何だか手塚治虫氏の漫画を「非科学的だ」と焚書したPTAを思わせます。
 江川達也を「文化人」と呼び、彼の『ドラえもん』批判(ドラえもんがのび太を甘やかすばかりで教育によくないという、バッカみたいなもの)を持ち上げ、首肯するという無惨さも、いい感じです。
 言うまでもなくのび太は毎回、ドラえもんのひみつ道具によって欲望を実現させ、しかしラストでは調子に乗ってしっぺ返しを食らうわけで、『ドラえもん』は別段、調子のいい欲望を節度なく肯定しているわけではありません。本書でもそのしっぺ返しついて、一応、さらりと触れてはいるのですが、師匠はしかる後、大慌てでのび太バッシングに舞い戻り、彼への悪口を繰り返すのです。
 こういう人はそもそも、漫画を読むのに向いてないんじゃないでしょうか。ポルノなんて当然、全否定でしょうね。
 特にのび太が自分よりもダメな子が転校してきたことに喜ぶ「ぼくよりダメなやつがきた」(てんコミ23巻)、しずかちゃんが未来のお嫁さんであるとわかっているのに、他の「キープ」のガールフレンドを作ろうとする「ガールフレンドカタログ」(てんコミ18巻)、「虹谷ユメ子さん」(てんコミ24巻)などへのバッシングぶりは、苛烈を極めます。

貧しい農民に不満を抱かせないよう、その下に卑しい身分の存在を設定した中世支配層のさもしい発想と変わらない。
(31p)

要はしずかちゃんとは別に保険を打っておきたいのだ、このクソ野郎は。
(32p)

なお、てんコミは藤子・F・不二雄の自薦によるベスト盤なので、のび太のクソぶりがこの程度に押さえられているが、てんコミ収録作以外の作品では、さらに目を覆うようなクソぶりが拝める。
(33p)


「ウンコウンコ」と繰り返して大喜びしている五歳児にも負けないであろう、「クソ」の連発ぶりです。
 もう、そんなに『ドラえもん』が不快なら、のび太が憎ければ、読むのを止めればいいじゃないかという感想しかない、半狂乱の怒りっぷりですね。
 そのくせ端々でホンキで『ドラえもん』を好きそうなことを書いてるんだから、わけがわかりません。何だかフェミ的怒りで発狂寸前になり、包丁を握りしめながら、それでも『おそ松さん』を見続けているおそ松女子の話をつい、連想してしまいます。

 第2章で取り上げたように、のび太は、作中で一時的にしっぺ返しを食らったり痛い目に遭ったりはしても、人格の根本的な欠陥(盗み見、結婚相手以外の女性に唾をつける、自分よりダメな人間への優位性に浸る等)については、決定的なおとがめを受けない。次回も、そのまた次回も、同じようにクソ人間ぶりを披露しているからだ。
(51p)


 何故、そのように描かれているか。
 その理由が、師匠にはおわかりにならないご様子です。
 これ、小学生に向けて描かれた児童漫画であり、当然子供たちは正しく読めているはずなんですけどね。
 東浩紀師匠しかり宇野常弘しかり一体に、左派文化人というのはアニメ、ゲーム、漫画を読み解くだけの読解力を持っていないことを最大の特徴としますが、稲田師匠もまた、という感じです。
 仕方がありません。ぼくが、お教えして差し上げましょう。
 そうしたお話では、のび太が(しっぺ返し、ドラえもんの叱責などもあれ、それ以上に)自分の過ちに自分で気づき、態度を改めるから、なのです。ウソだと思うなら単行本を見てみてください(「虹谷ユメ子さん」だけはただのしっぺ返しですが)。
 師匠はそうした部分を実に周到にスルーすることでのび太を貶める、という戦術に出ているのです。
「パパもあまえんぼ」(てんコミ16巻)では、パパが荒れているのを見兼ね、のび太とドラえもんがタイムマシンで生前のおばあちゃん(パパにとっての母親)の下に連れて行きます。
 一般的に、やはり「感動」とされるこのエピソードを、師匠は「息子の前で母に甘える三十男はどうなんだ」と舌鋒を極め、罵り倒します。

「いい話」のオブラートに包みながら、「いい大人も時には甘えたい。自分をさらけ出すのは、誰がなんと言おうと、人の親だろうと、良いことだ」という主張を巧みに展開し、読者の納得をとりつける。
(53p)


 いやはや、師匠にあってはF先生は「人々を弱体化させる悪の組織の工作員」みたいに描写されてしまいます。仮に第二次大戦当時に『ドラえもん』が書かれていたら、当局はこういったことを言って、本作を発禁にしていたかも知れません。
「りっぱなパパになるぞ!」(てんコミ16巻)では逆にのび太がタイムマシンで、大人になった自分に会いに行きます。しかし大人になってもダメなのび太の姿を、やはり師匠は狂ったように蔑みます。

 なんと小さくまとまった、なんと低水準に収まった「行く末」であろうか。
(57p)


 このエピソードのポイントは「大人になってもパッとしない自分」に失意するのび太に対し、「人生はまだまだこれからだ」と成人ののび太が説くところにあるのです。大人ののび太が、成長途上にある自分を肯定的に捉えているところにあるのです。
 しかしそれを、師匠は「息子や妻のためだけに生きるとは度量が小さい」とわけのわからない言いがかりをつけるのです(ちなみに「45年後……」(ドラえもんプラス5巻)も似たエピソードですが、ここでは初老ののび太が現れ、少年ののび太に「お前は何度も挫折するが、それを乗り越える強さも持っている」と説くのが象徴的で、Fのメッセージ性は一貫しています)。

 第四章は「のび太系男子の闇【後編】ホモソーと少年の心」と題されています。
 もう、本ブログの愛読者のみなさまはこれだけで「あ……っ、察し」となりますよね。
 そう、「ホモソー」は「ホモソーシャル」の師匠なりのポップな表現(のつもりなのでしょう、きっと)。いちいち書くのも面倒ですが、師匠は「さようなら、ドラえもん」(てんコミ6巻)を「感動の名作」として評価しておいて、しかし舌の根も乾かぬうちに両者の関係をホモソーシャルであると言い立てるのです。
「ションボリ、ドラえもん」(てんコミ24巻)はのび太の相棒として成果を出せないドラえもんを案じたセワシ君が役割をドラミと交代させ、ドラミが優秀な成果を出すものの、のび太はドラえもんとの別れを泣いて嫌がるという話です。このエピソードと『エヴァ』のシンジとカヲル君、アスカの関係性を準え、師匠は「男の子同士の方が気心が知れている」という「東からお日様が昇る」くらいに当たり前なことが、大問題ででもあるかのように大袈裟に騒ぎ立てます(きっと「ジェンダーフリー」によって性という概念がなくならないと、許してはもらえないのでしょう)。
 そしてまた師匠は、劇場版『ドラえもん』でしばしばドラえもんが敵に捕まるなどして無力化し、のび太に助けられる「お姫様」役を果たすことを指摘、

 ふたりの絆が一体どれだけ強いのか、計り知れない。一連のくだりはごちそうさまとしか言いようのない、完全なノロケターンである。
(69p)


 と言い募ります。
 ちなみに「一連の下り」について、ここでは詳述しませんが、師匠が採り挙げたのは『のび太とブリキの迷宮』というふたりの絆が極めて強く描かれる名作で、どうもこの人、本章では「腐女子脳」で『ドラえもん』を見ているようです。
 読解力のない師匠に、お教えしましょう。
 何故ドラえもんが「お姫様」になったか。
 それは劇場版『ドラえもん』後期の作品だからです。
 師匠が挙げるような特徴を持つ劇場版は、専ら90年代のものに限られるのです。以前も書いたことがあるのですが*2、一つに「ドラえもんという万能兵器を封じることで、物語にサスペンスを加える」という手法が採られていたと言えるのですが、もう一つの理由は、この頃の作品はFにとって晩年の作だったこと。描かれるモノは毎回、「遺作」的な性格を持っていたからなのです。
 だから本作では、チャモチャ星という「ロボットの反乱で人間が支配下に置かれた」星が舞台になり、のび太たちは「機械に頼りすぎて、自分では歩くこともままならないひ弱な」サピオ少年と友だちになり、さらわれたドラえもんを奪い返すためにチャモチャ星を支配するロボット軍団と戦うのです(こうした密かに温めていた自慢の『ドラえもん』評をこんな本のレビューに記すのは正直、イヤなのですが)。
 そう、劇場版『ドラえもん』後期は言わば、毎年毎年の作が「さようなら、ドラえもん」。のび太のドラえもんからの「卒業」がテーマとなっています(ただし、それをぼくが必ずしも好んでいないことも、以前、書いた通りです)。
 師匠の批評が初めから、最後の最後まで、完全に、根本的に、絶対的に間違っていることを証明する作品であるからこそ、本作ではドラえもんがBL脳の師匠には「お姫様」としか解釈され得ないような役割を、担っているのです。
 しかし自説のために、恣意的に作品を曲解する師匠は、

 ドラえもんにべったりだったのび太は、うだつの上がらない凡庸な大人として、少年のび太に愚痴るようなつまらない人間になってしまった(てんコミ16巻「りっぱなパパになるぞ!」)。第3章の江川達也の主張(p.58)を再度引くなら、カヲルやドラえもんこそ、「人の欲望を際限なく肥大化させる」諸悪の根源だ。
(72p)


 などと絶叫するばかりです。
 ドラえもんの「しっぺ返しオチ」は言うに及ばず、カヲル君に至ってはどうすれば「人の欲望を際限なく肥大化させる」要素を見て取れるのか不明ですが、まあ、師匠にはぼくたちのような愚民には決して見えない何かが見えていらっしゃるのでしょう。

*2『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
 これもまたリベラル君の書いた粗雑にして支離滅裂な『ドラえもん』に対するヘイトスピーチでした。


 さて、しかし、それにしても、一体全体、どうしてこうまで、師匠は漫画の中のキャラクターに憤死寸前の憎悪を沸き立たせることができるのでしょう?
 実はその理由は、あまりにも明らかです。
『ドラえもん』が「感動」の名作として評価され始めた時期がゼロ年代前半であるとして、師匠はこれをロスジェネ世代の窮状と結びつけます。
 そして、それ自体は単なる世代の問題でしょうが(この世代が子供の頃、『ドラえもん』に親しんでいたというだけの話でしょうが)、この指摘もまた、それ自体は別段間違ってはいないかと思います。
 しかし師匠の筆致はそれを指摘するだけに留まりません。

 素直に自分の欲求を吐き出し、弱さをさらけ出すことを善とし、競争を敬遠する。自身の生来的な価値観に自信を持ち、「ありのまま」の自分を全肯定する。それが『ドラえもん』を読み、見て育った30~40代男性にはびこる「のび太系男子」の本質だ。そりゃ、勝ち組にはなれない。
(58p)

 第3章では、のび太の欠陥人格は藤子・F・不二雄の独善的な自己肯定の結果であると述べた。
(中略)
 そんな大甘な受け身思考が骨の髄まで染み付いてしまったのが『ドラえもん』を読み、見て育った30~40代男性を中心とした「のび太系男子」というわけだ。
(62p)

いずれにせよ、のび太系男子を輸出するのは、世界にとって得策ではないようだ。
(75p)


 そう、先の江川達也への崇拝ぶりからもわかる通り、師匠の中にあるのは男性性に欠ける「弱者男性」に対するすさまじい、そしていっそ清々しいほどに純粋な憎悪です。
 しかしそれにしても、どうしてリベラル君と思しい師匠が、ここまで弱い者を憎むのでしょうか?
「男のクセにだらしないとはけしからぬ」。
 これは本来、保守派の言い分ではないでしょうか――いえ、リベラル君たちの脳内の「保守」はともかく、今時の保守がそんなことを言うのを、ぼくは見たことがありませんが。
 サメは、イワシの群れからランダムに、或いは丸々と太ったものを獲物として狙うわけではありません。ケガをしたイワシがぴくぴくと痙攣すると、そこから「死のサイン」を読み取り、それに「欲情」し、襲いかかるのです。
 リベラル君たちはそれと同じです。
 弱い者を見るとそれに欲情し、本能レベルで襲いかかる
 サメ脳ですね。すごい、総理大臣レベルです!
 或いは、彼らはこの世の「弱肉強食」のシステムを守るために宇宙意志に生み出された、捕食者なのかも知れませんね。彼らが植松聖のように障害者を殺せと安倍さんに直訴しないことが、ぼくには不思議でなりません。
 或いはまた、ご本を出せるほどに頭のいい人たちになると、「本能」だけではないかも知れません。となると、彼らが弱者男性を叩く理由は彼らが女性に寄り添い、既得権益を得ていた、それを脅かされてなるかとの不安によるものと考えるべきなのでしょう。
 ページをちょっと戻ると、師匠のヘイト感情の、更に具体的な像が明らかになって来ます。

 彼ら(引用者註・のび太系男子)のアイデンティティを染めているのが、自分たちは割りを食った世代だという被害者意識だ。その鬱屈はおおむね富裕層や政治権力に向けられ、「社会正義」の旗印をエクスキューズに私怨を爆発させるのが常套。押し寄せる劣等感と吐き出すルサンチマンの出納業務で、毎日が忙殺されている。
(48p)



 また、先の「ガールフレンドカタログ」を評する箇所では、

のび太は非モテのくせに、童貞ネット民並みに上から目線で女子を品定めする。
(32p)


 とも言います。
 師匠ののび太への憎悪はホンモノですが、同時にそれはのび太そのものではなく「ネット民」に代表されるような層にこそ、向けられているのです。
 ぼくはここで、勝部元気アニキのツイートを思い出さずにはいられませんでした。
 記憶に依りますが、アニキは以前、「フェミニズムの敵はかつては家父長制であったが、目下はミソジナスな弱者男性になりつつある」といったことを言っていたのです。
 そう、彼の発言は彼の優れたビジネス感覚を、そして「フェミニスト」という「オンナノコ」を楯に弱者に暴力を振るうことをその存在意義としているリベラル君たちのホンネを、極めて率直に表しています。

 ドラえもんがぼくたちを救済したように、「萌え」がぼくたちを救済したように、文化は弱者のための武器です。
 リベラル君たちがオタク文化を憎むのは、そうしたわけでした。
『ドラえもん』評論といえば、上の*2に挙げた『源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか』が思い浮かびます。ぼくのこの本に対する評は端的には「作者はガチな『ドラえもん』ファンのようだ。しかしそれ以上にガチなフェミニストファンであるため、その意向に逆らえず、『ドラえもん』の誹謗中傷をせざるを得なかった」とでもいったことだったかと思います。
 師匠もまた、見ているとガチな『ドラえもん』ファンのようにも見えます。
 作品についての評は極めてマニアックで、知識量も相当なことがわかります(しかしそれは同時に、ぼくが上で「スルーした」と評した箇所が無知や過失によるものなどではなく、意図的なものであると判断せざるを得ない、ということでもあります)。
 ただ一方、師匠は晩年の作を病的に貶めてもいます。

 プロットの切れ味も鈍り、単発の思いつきに物語が無理やり付随しているような印象も受ける。
(24p)

 30巻台終盤以降、作者の筆の衰えが目立って以降の作品を主に触れた層は、原作『ドラえもん』の「残りカス」しか味わっていない。
(25p)


 正直、Fの晩年の作に筆の衰えのあることは、疑い得ません。彼の作家としての全盛期は、70年代から80年代前半までにあったと言えることでしょう。
 しかし、師匠にこんなことを言う「資格」があるのかについてははなはだ疑問と言わざるを得ない。そもそも後期『ドラ』を「毒が抜けた」などとこき下ろしていますが、同時に師匠は『ドラえもん』の毒をこそ攻撃していたのですから、全く辻褄があっていないのです。
 もっとも、辻褄があわないと言えば「ホモソー()」とやらにしてもそうで、ホモソーシャルがケシカランと言いつつ「さようなら、ドラえもん」を名作と褒めちぎるのはさっぱり意味がわかりません。ご当人も、恐らく書いていてよくわかっていなかったのではないでしょうか
 稲田師匠は――否、全リベラル君は「オタクストーカー」です。
 それは丁度、アイドルのツイートを逐一チェックして、彼女らに嫌がらせのリプを飛ばしているアイドルストーカーと全く、同じです。
 彼らは本来、オタク文化が好きであった。しかしフェミニストという名のママに、それが悪いものであると教えられた。そこで勝手に「裏切られた」と思い込み、ママに教わったムツカしいカタカナを使い、オタク文化へのストーキングに出たのです。恐らくアイドルストーカーが自分の感情を正しく把握していないように、彼らもまた、自分の感情を正しく把握していない。ただ、「悪しき文化を正義の味方である俺が正してやるのだ」との歪んだ正義感だけが、彼らの中で燃えたぎっているのでしょう。

 ……もう、いつもの文章量を大きく越えてしまいましたが、まだ本書の1/3もレビューできていません。仕方がないので、以降は次回に回しましょう。
 しかし、最後に一つだけ。
「セワシ君」の名前の由来を、師匠は「世話し」であろうと述べています。
 そんなバカな! 「のびのび太」の子孫だから「忙しい君」だということは、誰にでもわかっていることだと思っていたのですが……やっぱり師匠はビッグです。

スーパーロボット大戦V

2017-06-16 19:31:27 | アニメ・コミック・ゲーム


 今回は前回記事の補足+『スパロボ』クリア記念です。
 というわけで「スパロボ」などの単語で検索していらっしゃった方、すみませんが本稿は当ブログのかなり特殊な視点からロボアニメなどを批評しておりますので、その辺、ご了承ください。また本稿では年代が重要になってくるので、作品タイトルの後にその作品の原作の発表年代を記しています。
 では、そういうことで。

*     *     *

全てを『スパロボ』で知る男」ことワイ、当然『クロスアンジュ』(2014)も『スパロボ』で知りました。
 ちょっと前であれば、こうした「深夜アニメ」的な作品が『スパロボ』に参戦することにはいくらかの抵抗もあったことでしょうが、まあ、近年の神谷明も出ない、石丸博也も出ない『スパロボ』のこと、割とどうでもいいです。
 いえ、ぼく自身は別に美少女アニメだから『スパロボ』に出てはいかん、といった感覚は希薄だと思うのですが(『ダンガイオー』(1987)も『ナデシコ』(1996)も拒否感なかったですしね)、ピカレスク的な作品が出てくることには、多少の拒否感があります。これはかなり前に『ゴーカイジャー』(2011)に毒を吐いていたのに近い。ピカレスクが反道徳でけしからぬ、というわけでは全くなく、「その悪党と正義の味方とが共同戦線を張るならば、ちゃんと葛藤などの描写を踏まえろ」と言いたいわけです。
 更に言えば、『コードギアス』(2006)が参戦した時などはそれなりにちゃんと考えられており、正義と悪の呉越同舟の矛盾は、『スパロボ』においてはあまり生じてはいないとは思います。しかしそれは同時に、むしろダイナミック作品を原作に近いリメイク版に入れ替えるなどして、むしろ全体の勧善懲悪的なテイストが薄まっているからだとも言え、まあ、そんなわけでぼくの『スパロボ』愛も年々テンションが低くなって行っているわけなのですが。
 それは置くとして、『クロスアンジュ』です。
 これ、誰に向けたアニメなんでしょう?
 当初はどう見ても深夜の萌え枠、美少女ヘンタイレズアニメにしか見えませんでした。
 事実、本作でロボットに搭乗するのは全員が美少女キャラ。キャッキャウフフな百合展開が続く……というよりは何だか妙にギスギスした生々しい女同士の争いが続き、何でスカッと正義のために敵ロボットをやっつけてくれないのか、不満が募ります。
 そうこうする内にタスクという少年が現れ、アンジュといい仲に。彼は例外的にロボットに搭乗しますが、それがピンク色である辺り、やはりあまり男性性を感じさせないキャラとして描かれています。
 そして最終的に、アンジュはエンブリヲと戦います。
 え~と、ルート分岐で途中のお話を見ていないので今一よくわからないのですが、エンブリヲは世界征服を企む悪の帝王……か何かなのだと多分、思います。『スパロボ』では『フルメタル・パニック!』(1998)のラスボスとコンビを組んでおりました。
 エンブリヲは悪党らしくアンジュと共に様々な作品の美少女キャラをさらっていって、ハーレムを作ろうとしますが(……?)、怒りに燃えるタスク(及び宗介など他の女性キャラの恋人たち)によりその野望は潰えます。最終的にはアンジュはタスクと結ばれ(肉体関係のあったことが暗示されます)、ハッピーエンド。
 そう、本作は最終的にはヒロインが二人の男性に求められる、乙女アニメになって終わってしまったのです。
 正直、あまり一般性のある(広く見てもらえる)感じの作品でもない印象を持ったので、ラスト辺りで妙に女性向けになったのが、ぼくにとっては違和感でした。
 そう、「萌え」の本質は「ハーレムもの」の特殊性にある、みたいなことは今までも語ってきたかと思います。従来の作品では、例えば正義の男性「マリオ」と悪の男性「クッパ」が「ピーチ姫」の争奪戦を繰り広げるように、南ちゃんと達也君と和也君の三角関係のように、ポパイとオリーブとブルートの三角関係のように、「一人の女性を二人、ないし複数の男性が取りあう」のが物語の基本でした。それが殊更女性向けでなくとも、広く一般向けの作品全体のお約束だったのです。
 ハーレムものはそこを、「たった一人の男性を、複数の女性が取りあう」という構造へと、ある種のパラダイムシフトを起こしました。岡田斗司夫氏が「萌え」の本質を「男女平等」と喝破したのもそれです。
 ところがある種、『クロスアンジュ』は古典的ピーチ姫的物語に戻ってしまいました。
 それとも、そこまで男性向け特化ではない作品だったのか……。

 で、ふと気づいたのですが、近年のアニメだと思うから理解ができないのであって、要はこれ、80年代OVAだと思えばすとんと胸に落ちるのです。
「出る美少女キャラみんなレズ」と思えてしまう女性のベタベタした(いや……本作はギスギスの方が強く、ちょっと違和感ではありましたが)描写と共に、おいおいと苦笑したくなる過度なエロ。
 そして、何よりも、「美少女キャラによる、男性原理へのカウンター」。
 敵キャラであるエンブリヲ、何か世界征服のビジョンみたいなこと(詳しいことは忘れましたが、「この世を統治するためには愚民たちを絶対的な権力で導かねば」みたいなことを言っていた気がします)を語りつつ、最終的には「俺が本当に欲しかったのはアンジュ、お前だ」的なことを言い出します。まさに『逆シャア』(1988)の如く、「何か三人称的、男性原理的、大局的なことを言ってたけど、ホンネは一人称的、女性原理的、個人的な女への執着で動いてたぞ、コイツ」オチというのはこの頃、本当に多かったのです。
 いや、その割にハーレム作ってたやんけとは言いたくなりますが、まあ、ちょっと気持ちもわかる感じがして、「あぁ、最終的に視聴者の同情を引くような描写があって死ぬのか」と予想していました。それこそ『北斗の拳』(1983)のシンとか、「恋愛無罪」とは言わないまでも敵キャラが「愛」故に共感される展開もまた、この頃から出て来たモノであるように思います。
 が、その予想は外れました。
 アンジュが、徹底的にエンブリヲを否定して終わるのです。
 この時の、何というか「大義」っぽいことを語る男性キャラを「髪型がキモい」的な感覚的なことで否定する辺り、本当に80年代的です。


■07:30~辺りからです

 80年代のアニメというのは本当、「正義」という「男性原理」を徹底的に破壊し続けていました。その意味で上に挙げた『ダンガイオー』なども、正直ドラマ性は希薄で、あんまり感心しません(『イクサー1』(アニメ版・1985)は好きなんですけどね……)。
 ロボットものではありませんが、『うる星やつら』(1978)にはクラマ姫というキャラがいます。天狗一族の姫として、「目覚めのキスをした男と契らなければならない」という掟に縛られ、不本意ながら諸星あたるを婿にしようとします。ところが中盤で一族の掟のルーツを調べてみると、代々、盲目的に先代の言いつけを遵守してきたが、実はその実態は、初代長老の世にも下らない思い出話(嫁とのファーストキスの記念とか、そんなの)が根拠であったと知ってブチ切れ、掟を無効化してしまいます。
 まあ、クラマ自身はキャラとしてはあまり成功したとは言い難いのですが、ここには『うる星』全体を貫く「男性原理の否定」というテーマが如実に現れていますし、またそれは本作のみならず、いえ、オタク界のみならず、社会全体に濃厚に立ちこめていたムードでもありました。女性が男性を一喝してその価値観を否定、みたいな話がこの頃、本当に多かったのです。
 こうした「既存の価値感を、別枠の価値で否定する」というのがフェミニズムの方法論であり、そのためリベラル君たちは腐女子を兵器利用しようしたのでは……といったことは、前回に指摘した通りです。
『フルメタル・パニック』は時代的にはもう少し後なのでしょうが、ハリセンで主人公をしばくヒロイン、美少女艦長、また有能な姉御肌のマオといった女性崇拝的なキャラ造形は非常に80年代的でした。合い言葉が、「アイ・アイ・マム」なのも『クロスアンジュ』の「イエス・マム」と共通ですね。
 そもそもそれを言えば、アイドル美少女の歌で戦いの終わる『マクロス』(1982)こそがこの代表とも言えますよね。考えると『アンジュ』も歌が重要なモチーフになっていた模様ですが、ゲームでは歌が流れないのでよくわかりませんでした
 ちなみに『スパロボV』の全体を通してのラスボスは、何か「文明をリセット、再生するためのプログラム」みたいな、女性型のロボット。キャラクターたちの「愛」を理解できず、当初は機械的な声で「愛トハ何カ。理解不能」みたいなことを言っていたのが、いきなりヒステリックに切れ出す、というキャラ。正直、『ヤマト』(参戦したのはリメイク版だが、最初のアニメは1974年)がフィーチャーされているせいか本作の、殊に最終回は「愛」の大安売りで今一感心しませんが、このラスボスは声を演じているのが鶴ひろみで、『GS美神』(1992)の美神さんにしか聞こえません。彼女こそまさにバブル的な女性の時代のもう一端の共同幻想である、エゴの趣くままに行動する「ヒールとしての女性」像でした。
 それをもうちょっとギャグ寄りにした、「エゴ全開の女の小悪党」となると、これは90年代に多かったイメージで、この頃には女性性もやや相対化されつつあったと言えます。本作では『マイトガイン』(1993)に出て来た女賊、カトリーヌ・ビトンがそれでした。
 そう、あらゆる意味で『V』はスーパー80年代大戦であったのです。

 いつも言うことですが、80年代末から90年代初頭のバブル期に、フェミニズムバブルもありました。均等法の影響で女性の社会進出が進み、CMなども「OLが中年男の上司を圧倒」的なのが多かったように思います。
 上の一連の流れは、そうした大きな流れの渦中にあったものと言えますし、また、この時期「ライトセーバーを手に、ビキニ鎧で戦う戦闘美少女」が量産されたように、オタクの中の「草食系男子」的な性質が、美少女キャラへと自己投影させたという点もありましょう。いずれにせよ、男性のロールモデルが社会になくなりつつあった時期、オタク界はそれをかなりディフォルメした形で表現していたわけです。
「男性原理に一喝する美少女」も、実のところオタクたちは美少女の方にこそ自己を投影しており、例えばですがそうすることでクラスのジャイアン的なヤツであるとか、気に入らない連中に意趣返しをするといった意図も、どこかにあったことでしょう。
 そうした「美少女との同一化」を経て、90年代のギャルゲーで「モニタを見る自らの主観」というワンクッションを与えられたぼくたちは美少女と距離を置いた、個と個の関係性という概念を得た。ゼロ年代に至るや(現実の女性に勢いがなくなってきたことも影響し)「残念女子」みたいな概念に萌えることも始めた……とまあ、「萌え史」の概観として、以上のようなことは今までよく言ってきたと思います。
 しかし……この「幻想の女性との同一化」から、オタクではなく、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」こそが、いまだ抜け出せていらっしゃらない気がします。
 前回の北田師匠の、腐女子へのストーキングはまさにそうでしょう(いえ、師匠がオタクだという自意識を持っているのかどうかは知りませんが)。彼ら彼女らが女性を、或いは女性性を「男性破壊兵器」として運用し続けていることはみなさん、おわかりかと思います。あまりにも平常運転で普段なら気にも留めないのですが、件の書はオタク男子ばかりかオタク女子までをも不幸に巻き込む、「仮面ライダーを倒すため平然と戦闘員をも巻き込んで無差別爆撃を行う」行為*と言え、さすがにぼくの筆致も厳しめになってしまいました。

* 後で読み返して、こういうテーマの時であるにもかかわらず「味方を巻き添えにしつつMAP兵器で敵を倒す」といった形容を思いつかない辺り、ダメだと感じました。


 ぼくは『クロスアンジュ』という作品そのものについて、殊更に賞揚しようとも誹謗しようとも思いません。しかし、あのラストの罵倒はちょっと、いただけない。
 いただけなさが、ぼくに80年代を想起させてしまった。
 そう、女性原理による男性原理の否定みたいなことを、「しかし、ドヤ顔でやっているのが男の作り手」という、倒錯したというか、気持ち悪いというか、そんな感覚。
 しかし……「女性にモテないので仕方なく紙に美少女を描いて、その紙の上の美少女に何か、自分の思うところを言わせていた」という80年代のオタクの罪のなさに比べて、現代のリベラル君たちのやっていることはどうでしょうか。
「女性に寄り添っている」つもりでの、実はネカマ同士のレズプレイ状態。
「我こそは女性の味方なり」と絶叫しつつ、やっていることは男性の中の弱者を虐めることでしかない、トランプ選の時の町山智浩師匠状態
 そう、彼らリベラル君は「オタクに乗り遅れ、二、三十年前の世界に取り残された人」であったのです。
 ぼくは少し前の記事で、「腐女子どもの、男性原理を茶化すようなパロディ気質はムカつくが、とは言え、彼女らも悪気ではないのだ」と語りました。気難しいお父さんがお風呂に入っている時だけ無防備になるので、胸に飛び込んで行っているようなものだと。と同時に、つまり彼女らの「アニパロ」は「愛」であり、リベラル君たちの切望していたような「反体制」ではないのだとも仄めかしました。
 そう、アンジュちゃんを見ていると思うのです。
 エンブリヲはどう見ても、北田師匠にしか見えない。つまり、あの罵倒シーンはリベラル君たちが自分たちの気に入らない連中をやっつけるために持ち上げていた女の子たちが、ブーメランとしてリベラル君たちの下へと帰って行った場面なのだなあ、と。

「終わりだよ、北田暁大!」
「腐女子! この私が選んでやったというのに!」


『スパロボ』は言うまでもなくあらゆるロボットアニメの主人公たちが一堂に会し、戦うクロスオーバーゲームですが、そうした共演のため、本作では「次元震」により様々なパラレルワールドに亀裂が生じ、異なる作品世界のキャラクターたちが出会ってしまうことになります。
 翻って『クロスアンジュ』は「敢えて80年代世界にタイムスリップすることで、80年代からやってきた悪者をやっつける」物語であったのです。

「今ならわかる。何故腐女子が生まれたのか。オタクはリベラルなんかに操作されないという遺伝子の意志! 何故腐女子が女だけだったのか。女性ジェンダーを守り、フェミニズムの世界を否定するため!!」


 アンジュの罵詈雑言は80年代的ですが、それはあの80年代からやってきた悪逆非道の人類の敵を倒すための、やむを得ない措置でした。彼女は80年代をもって80年代を制したのです。

「私のガクモンを理解できぬ女など……! もはや不要!」
「何がガクモンよ! キモいグラフでミスリードしてて、文章のセンスもなくていつも斜に構えてる恥知らずのナルシスト!」


 アンジュちゃんはエンブリヲを罵倒しながら、実のところこう言っていたのでした。
「確かに私は、アンタたちみたいな草食系男子のアニマ(心の中の女性性)から生まれた。私の口から出る言葉は、女の声に見せかけた、アンタたち草食系男子の心の声だ。でも、その声がアンタみたいな、自分よりも弱い者を殺すことを目的として発せられるのだとしたら、私はアンタに与さない」と――。

リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

2017-06-02 22:25:33 | レビュー



●腐女子の偽物をやっけろ!


 さて、前回の続きです。
 初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
 前回のラスト、ぼくは北田暁大師匠の腐女子の持ち上げを見ていると、腐女子に同情してしまう、と書きました。
 そう、本書はあらゆるフェミニストの著作がそうであるように、「男性をただひたすら凄惨に虐げ、貶めるのみではなく、女性までをも犠牲にする」ことにも注力した書だからなのです。
 北田師匠は山岡重行氏の『腐女子の心理学』という著作にいたく激おこです。一体何をそこまで、と思うのですが、何しろぼくも山岡氏の著作は未読なので、本書の引用を孫引きしてみましょう。

 幸い、オタクは腐女子よりも、異性と親しくなりたいという欲求が強い。共通の話題があって、腐女子が少し好意的な態度を示せば、簡単にオタクと仲良くなれるはずである
(293p)


 念を押しておきますが、上は本書293pから孫引きした、山岡氏の著作中の文章です(ちなみに山岡氏が「オタク」という時、オタク男子のみを指しているようです)。
 これに対する北田師匠の評が以下です。

「腐女子」は、戦後家族的な性別役割規範に対してきわめて否定的な立場をとっており、一方で「男性オタク」は、もっとも家族の戦後体制に適合的なジェンダー規範を持っている。この対照的な両者をたかだか趣味が共通しているという点で「仲良くなれる」とするのは、いささか楽観的にすぎる。
(239p)

 山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
(286p)



「オタク」は「生き方」であり、「道」であるのは周知ですが、それを「たかだか趣味」と言い捨てる北田師匠の認識は、一体どうしたことでしょう。これではいかに「こんにちは、801ちゃん」と哀願の限りを尽くしても、腐女子を「彼女さん」にすることは叶いそうにありません。
 それはともかく、どう思われましたか? みなさんw
 何だかどす黒いものが胸に沸き立ちますねw
 まあ、その、学術書(なのでしょう、多分)において上のような「アドバイス」がなされているのは、確かに余計なお世話という気もしないではありません。
 一方で実際にオタク婚活パーティーが開かれたり、オタ婚している男女だって珍しくない以上、「アドバイス」としてはそれほど外してもいない、常識的なものだとの感想も持ちます。
 が、奇妙なのは北田師匠がこの「アドバイス」を、憤死せんばかりの勢いで「あってはならぬもの」としている点です。
 いえ、実のところ、ぼくも山岡氏に大賛成というわけでは全くありません。もし今、北田師匠とぼくと本田透氏を一つの場所に連れてきて並ばせたら、きっと皆一様に顔を鼻水でパックしながら血涙を迸らせ、地団駄を踏み鳴らしている光景が見られることでしょう。
 しかしぼくたちの地団駄の理由は、師匠とはいささか異なります。
「同じ趣味の者同士、男女交際しよう」はもちろんそれなりに理のある一般論なのですが、そうそううまくいくかどうかは疑問です。
 理由を、思いつくままに並べてみましょう。

 1.まず、オタクコンテンツというのはかなりラディカルに男性向け、女性向けに分かれていること。
 2.男女共に人気のあるコンテンツとなると化け物的なヒット作品であり、殊に近年、そういうのは少ないこと。
 3.またそんなヒット作でも、それこそ北田師匠が重視する「二次創作」を見れば自明なように、市川大河アニキが自分の「彼女さん」が「801ちゃん」であったと自称していることを見ればわかるように、その楽しみ方が男女でまるきり分かれること。

 まあ、こんな感じでしょうか。これはある種、オタクコンテンツが人間の欲望をストレートに描き出すものである以上当たり前であり、いかに大河アニキがデマを垂れ流そうが、事実は変わらないということでもあります*1。
 また一方、山岡氏が指摘しており、本田氏も同様なことを言っていたように「オタク男子はオタク女子が好きだが、オタク女子はオタク男子が好きではない」という傾向は、ある程度言えるように思います。これは一つには、オタクに限らず、男子の方が女子を求める傾向が強いということでしょうが、同時に「オタク趣味は男らしさとは相反するが、女らしさとは必ずしもそうではない」という事情にも起因するように思います。やはり、オタク男子とオタク女子では、前者の方がよりモテないのです。
 しかし北田師匠は、前者はもちろん、後者の論法も全く歯牙にはかけません。
 何しろこの直後、師匠は得意の絶頂で絶叫しているのですから。

 腐女子は「現実の対異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデーターベース消費に生きる男性オタクである。
(286p)


 ここでも「データーベース消費」とやらを根拠に、いちいちオタク男子をdisっています。
 師匠の主張で一番おかしいのは――もちろん勘違いなオタク男子観、腐女子観なのですが、それを置くとするならば――「ジェンダー意識のギャップ」がそのまま男女交際の不可能性にスライドするという謎の前提があることです。
 前回採り上げた、図.1の表に並んだ質問は「人生設計」的な性格が強く、仮に師匠の解釈を正しいと前提すれば(正しくないことは前回指摘しましたが)確かに「オタク男子とオタク女子が結婚したら、子育ての方針などでもめるかも」との推測も成り立ちますが、恋愛というのは別にそうした予断の元に行うものではないでしょう。にもかかわらず師匠は、「オタク女子は最も先端的であり、最も後進的なオタク男子とは釣りあわないのだ(だからボクの『彼女さん』になりなさい)」とでも言いたげです。
 何よりもぼくと本田氏が踏んでいる地団駄は、「草食系であるオタクよりも、肉食系であるDQNの方が女にモテる、そしてオタク女子もそうしたセクシュアリティにおいて、一般女子と変わることはない」という経験則に基づいています。そしてそれは何故か……言うまでもなく、本田氏が指摘しているように、DQNの方がジェンダー規範に忠実だから、「女を女として扱うから」ですよね。
 そこを、師匠は全く真逆の論理展開をしている。
「オタクは、マッチョだから、女にモテないのだ」と。
 これは本当なのでしょうか。
 それこそ、師匠のグルの「彼女さん」である人たちのイデオロギーに則った論理展開をしているだけではないのでしょうか。

*1 また、そこまで男女差があることが許せないのであれば、大河アニキ的な人物はオタク男女に歴然とした違いがあるとする北田師匠にも噛みつくべきだと思うのですが、何故だかそれは、決してなされません。こうした人たちは「男女差は一切ない」というドグマと共に、例外なく「女性は男性より優れている」というドグマも妄信しています。矛盾している……というより、深層心理では女性を蔑視しているからこそ「女性は優れている」と主張せずにはおれないのだという彼らの「ホンネ」が、ここからは透けて見えますね。


●不良腐女子の正体は!


 以降も師匠は山岡氏への攻撃の手を緩めません。
 章の後半でも、239pでなされた引用が再び繰り返され、

 山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点からみた腐女子の「逸脱化」に貫かれている。
(302p)


 と論難し、山岡氏が「腐女子は恋人が欲しいはずなのに」と前提しているがそうではない、腐女子は彼氏ができないのではない、作らないのだ(大意)と主張します。
 そしてついには、以下のような結論を導き出してしまうのです。

 端的にかれら(引用者註・腐女子)は――現在のジェンダー秩序に適合的、という意味においてであれば――「恋人はいらない」のであり、「結婚したくない」可能性も大きい。既存のシステムのバグを同性の友人とともに発見する「理想的親密状態」を手放すぐらいなら、恋人も結婚も不要、というのは不協和どころか、ごく自然な認知的・感情的・行動的「態度attitude」である。
(中略)
 腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
(303-304p)


 すごい!
 すごすぎます!!
 北田師匠の(淫夢の)中では、腐女子とは女同士、「レズビアン共同体」によって団結し、この根底から間違った現代社会の家父長制、ヘテロセクシズムを糾弾するためにBLを描き、間違ったシステムを断罪するために戦いを挑む、勇猛なフェミニズムの闘士だったのです!!
 ちなみに「レズビアン共同体」というのは「何か、女性差別なので女同士で連帯する」程度の意味の言葉であり、事実、上の文章の直後、この言葉の解説が入ります。
 お気づきかも知れませんが、この言葉は「ホモソーシャル」の対義語です。「男の団結は悪/女の団結は善」という恐ろしく雑な二元論がここでは貫かれ、フェミニズムが「男は何でも悪/女は何でも善」という結論から始まっているガクモンであることを、何よりも雄弁に物語っています。
 師匠はまた、BLが従来の性規範には収まらないものであると書き立てます。

 結婚という制度は異性愛者間の、現代の日本においては異性愛者間の次世代再生産を担う集団を担保するものとして位置づけられている。
(300p)


 てか、結婚ってどこの国でもどこの時代でも、そういうものだと思うんですが、とにもかくにも北田師匠は「結婚」制度含め、現行の社会のジェンダー、セクシュアリティを根底から破壊したいご様子。そしてそんな革命戦士である自分の「彼女さん」に、腐女子こそがなってくれるのだと、信じて疑っていないかのようです。東師匠の「BLはホモソシアルを風刺している」が可愛く見えてくるほどの被愛妄想ぶりですね。BLにおいてマタニティものが人気であることなど、師匠はご存じないのでしょうか。
 しかし、それにしても、そもそも、師匠は一体何故、ここまで腐女子=フェミニストとでもいった世界観を、あどけなく妄信しているのでしょう?
 むろん、前回に挙げた図.1と図.2の調査がその根拠になっているのですが(それが疑わしいことは前回述べましたが)補足として、図.2をもう一度、見てみましょう。



 この調査から、師匠はオタク女子には「マンガみたいな恋をしたい」といった願望が低いというデータを導き出します(アンダーラインは原文では傍点です)。

 女性二次オタク≒腐女子について興味深いのは、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」に対する肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」に対する肯定的回答率の低さである。
(273p)


 数字としては決して低くはないのですが、他のカテゴリ(リア充女子、男子)もまた高い数値を示しているがため、相対的に「何か低い」という結果になってしまうようです。
 そして師匠は殊更の理由なく*2、女性はこの「マンガみたいな」という言葉を「規範的理念型に近」いもの、という意味として捉えているのだろう、また「マンガ・アニメのコンテンツに恋愛のモデルをことさらに見いだすわけではない」のだろうと言い出します。
 つまり、「現実の恋愛は(男尊女卑で)ケチカラン。腐女子は『マンガみたいな』と問われた時、そうした現実の恋愛規範を連想し、それを否定したのだ」というわけです。
 実に奇妙です。
「マンガみたいな」と問われ、現実を連想したという前提が極めて理解しにくい上に、そもそもBLそのものが女性を排除した男性同士の恋愛であり、その意味で腐女子が「マンガみたいな」恋愛をすることは、原理的に不可能です。BLが自身の欲望(男性にモテたい)を男性(受けキャラ)に仮託して安全裡にそれを成就させる、という構造を持った表現であることを考えれば、腐女子が「マンガみたいな恋をしたいか」と問われ、「No」と答える理由は明白ではないでしょうか。
 それは単に、「そうした欲求を(腐女子はジェンダー規範に忠実なので)表に出したくない」というものです。
(先に書いた、「男は女よりもモテたいという欲望が強い」という表現もその意味では正確ではなく、それを表に出しやすいのだ、とするのが正しいでしょう)
 そこを、一体全体どうして、師匠は上のようなねじくれた解釈を施してしまうのか。師匠はBLの非現実性自体を、恋愛規範を解体するもので素晴らしいとしているのだから、「BLと現実の恋愛は別だ」とでも解釈するだけで充分のはずです。
 いえ、師匠にしてみれば、とにもかくにも「腐女子が現実の恋愛を呪っている」との結論を導き出さなければ、充分とは言えなかったのでしょう。最初から結論ありきなのです。
 しかし、そもそも、仮に師匠の腐女子観が正しいのであれば、ここまで腐女子が増えているのだから、フェミニズムは大いに盛り上がっていそうなのに、全然そんな感じがしないのは、何故だかわかりません。
 また、「練馬調査」には「主婦になりたいか」といった項目があり、女子(腐女子だけではない、女性全体)の42.6%が「専業主婦になりたい」と答えています。そんなにも腐女子が従来のジェンダー規範に否定的ならば、ここから彼女らが主婦になりたがっていない事実を導き出せそうなものですが、そうしたデータは何故か提示されません
 こうした主張は、三十年ほど前に上野千鶴子師匠が『風と木の詩』辺りを持ち出して「ジェンダーレスワールドの実験」などと言っていた頃の古拙な見方を、一歩も出ていません。
 実のところBLが男女ジェンダーのリプレイであることは自明であり、既にこの当時、中島梓師匠がそれを指摘、上野師匠のロジックに見事な反論を加えておりました*3。上野師匠が間違っていたことは、それ以降のBLの隆盛を見るに明らかなのですが――例えば、腐女子の使う「受け/責め」といった用語は、「ジェンダーレス云々」といった分析が虚妄であることを、何よりも雄弁に世に知らしめてしまいました――にもかかわらず、北田師匠は三十年以上、ずっと同じ場所で足踏みをなさっているようです。

*2 厳密には一応、解釈らしきことが書かれています。それをぼくの理解できた範囲で思い切りざっくり説明すると、オタク女子は「マンガみたい」を「古典的な」とでもいった意味あいで捉えているのだろう。それは言わば、「マンガに出てくるような、唐草模様の風呂敷を背負った泥棒」とでもいった、つまりは「理念型」、「世間であるべきとされている形」というニュアンスである、といった内容です。
 何故かと言えば、男性が恋愛から阻害されている傾向があるのに対し、女性は「体験」としての恋愛を内面化する傾向にあることが原因ではないか、との仮説が語られます。
 まあ、更にざっくりと、女性は恋愛をリアルなモノとして捉えるので、「マンガみたい」と言われても、男の感覚ほどには空想的なモノとしては捉えない、とでも言い直せばわからないではないですが、ジェンダーフリー論者の唱える説としては問題ある気もします。
 もっとも、このリクツを持ち出すため、(また、男子が「マンガみたいな恋」をしたがる傾向が高いことを説明するため)、師匠は「男子は男性役割を必要とされないマンガの中の恋愛に憧れているのだ」という解釈をしています。ぼくとしては、これ自体は賛成できますが、師匠自身の本来の主張とは丸きり相反する解釈となってしまっています。
 いずれにせよ、この解釈だけで論点が五つも六つもできてしまう以上、短絡的な結論を出そうとすること自体に、問題があるんじゃないでしょうか。
*3 以上は雑誌『都市Ⅱ』の内容を、本が手元にないため記憶で再現したものですが、大きな間違いはないはずです。


●爆発!腐女子コントロールタワー


 他にも、本書はBLを自分たちのイデオロギーに適うものであると強弁するために、クラシカルな記述の目白押し。

 性犯罪が起こるたびに「男の性欲は……」という紋切り型の説明図式に日々晒される女性にとって、性そのものを否定することなく性愛を描くため、性そのものを関係性のなかに収めるという方法は、現行の男性中心主義に覆われた社会を相対化するうえで重要な戦略であるといえる。
(296p)


 一体、本書の出た今年は、西暦何年なのでしょう。少なくともまだ21世紀を迎えていないことだけは確実です。
 こうした記述を見ていると、彼ら彼女らの戦略は既に、こうした時代錯誤なことを敢えて書いてアリバイを作っておくという、「歴史捏造」の方に既に舵が切られているのでは……と思いたくもなって来ますが、しかしそれはやはり違い、あくまで「天然」なのでしょう。北田師匠の周囲にはグルの「彼女さん」であるフェミ腐女子しかいらっしゃらないでしょうから、彼の主観では上のような腐女子観も、あながち非現実的とも思えないのかも知れません。
 しかしもちろん、それが腐女子のマジョリティの実態を反映しているとは考えにくい。
 萌えアニメなどにも、近年では一人くらい腐女子キャラが登場するのは珍しいことでなくなりました。それは、ぼくたちが彼女らを「知って」いるからです。
 何を「知って」いるのか。
 彼女らが「ぼくたち同様にアニメに夢中で、エッチなことにも興味があって、ぼくたちのそんな話にも乗っかってくれ、そして、しかし、言うまでもなく、伝統的な女性ジェンダーを保持した存在であること」を、です。いえ、先に「男子オタクと女子オタクではアニメの好みが違う」と書いたように、むろんアニメはアニメなりの脚色でよりぼくたちに親しみやすくしてくれているわけではありますが。
 彼女らが自身を「女の腐った」ような存在であると自己規定し、「腐女子」という言葉が生まれたことや『801ちゃん』が流行ったことにも満更ではないこと(女子としてスポットライトを浴びて嬉しげなこと)を「知って」います。
 彼女らが「心にペニスがある」と自称する時、ぼくたちは「サービス」で驚いてみせますが、彼女らが精神的にも肉体的にもペニスを持たない存在であることを、「知って」います。
 彼女らが男子のことを男子と呼ばず、「殿方」と呼ぶこと、それが彼女らの「伝統的女性ジェンダー」への少々の屈折を含んだ憧憬故の行動であることを、ぼくたちは(そんなムツカしい言葉として言語化はせずとも、直感的に)「知って」います。
 だからこそ、彼女らは伝統的女性ジェンダーに忠実に、自らの欲望を(男同士に演じさせることで)男性へと仮託し、彼氏が欲しくないようなポーズを取ることを「知って」います。
 彼女らが「この家父長制社会へと戦いを挑むため、敢えて男と距離を取っている」存在などでは決してないことを、ぼくたちは経験則的に「知って」います。
 だからこそ、腐女子を自らの政治の道具にしようとしているとしか思えない北田師匠の言動に、ぼくは激しい嫌悪感を覚えます。
 自分たちが既存のジェンダーを憎んでいるから腐女子もまたそうでなければならぬのだ、彼女らは結婚などしたがってもいないのだ、と絶叫する北田師匠の振る舞いは、かつてのフェミニストたちが女性の非婚化を推し進めたことと全く同じ、ここしばらくのリベラル君たちの「オタクは二次元で充足している存在なり」といったロジックと全く同じ、言語に絶する残忍で無慈悲な、見るに耐えない非人道的なものです。
 フェミニストは萌えを「男性側の身勝手な女性観を押しつけている、ミソジニーだ」と批判します。碧志摩メグを否定した北田師匠も当然、それに首肯することでしょう。
 しかしこうして見ると、デタラメな論理展開で腐女子を自分の「彼女さん」であると強弁する北田師匠(及び女性のフェミニスト)こそが真のミソジニストであると言うことも、もはや明らかではないでしょうか。
 ぼくは今まで「男性学」の研究家たちをご紹介して、彼らこそが女性の理解者であると自称しつつ女性に身勝手な幻想を見て取り、彼女らにつきまとうストーカーなのではないか、との指摘をしてきました*4。北田師匠についても、同じことが言えるのではないでしょうか。

*4 男がつらいよ