兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

誰が京アニ放火に笑ったか

2019-08-21 23:58:45 | オタク論


※この記事は、およそ10分で読めます※

 果たしてここをご覧になってくださる方にどれだけ意味を持つ話かわかりませんが、ニコブロの方でやっている「兵頭新児の女災対策的随想」が目下のところ、見られなくなっております。
 実は課金コンテンツを用意しようと思ったところ、それには大々的な手続きが必要とのこと。
 恐らく数日中に復旧できるかと思うのですが、ではこちらの方をどのようにすればいいかは今のところ不明。
 恐らく課金もできないことでしょうし、途中までお読みいただいて、「ここから先はニコブロで」ということになるかも知れません。
 まあ、ともあれそんなわけでご理解いただけると幸いです。

 さて、というわけで京都アニメーション放火事件です。
 旬の話題には、動物の腐乱死体を見つけた時のハイエナのように飛びつくのが正しい態度なのでしょうが、ヒマが取れなかったことに加え、事件の背景がわからないままにエラそうなことを書くのもためらわれ、またどのような切り口で語るべきかという戸惑いもあったわけです。そんなこんなで、なかなか採り挙げることのしにくかった話題なのですが、ちょっと、面白い切り口を見つけました。
 大阪芸術大学の純丘曜彰教授による、「終わりなき日常の終わり:京アニ放火事件の土壌」という記事*1です。ここで純丘師匠は京アニを「麻薬の売人以下」などと、舌鋒極めて罵っておりました(突っ込みたい方もいらっしゃいましょうが、後に述べます)。
 師匠は今回の事件を痛ましいことではあったが、予兆はあったとして、16年に起きたアイドルのストーカー事件を例に挙げます。また、『ミザリー』などに言及、いわゆるスターストーカーについてのウンチクも語られるのですが、言うまでもなく、そんなのは昭和の時代からあった普遍的なこと。どちらかといえば、師匠の舌鋒は「今日日的、オタクコンテンツ」に向いているように思われます。

アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、(中略)『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。

にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。



 アニメといった時、ぼくたちはセルアニメを想起するけれども、それは表現手法としてのアニメのワンオブゼムだぞ。また近年のアニメは学園ものばかりだが、SFなど多様なテーマがあるぞ。
 何というか、「ああ、そうですか」という感想しか浮かんできませんね。
 こういうの、特撮や漫画に置き換えてもよくあるパターンですよね。ぼくたちは「主人公がヒーローに変身して、怪獣をやっつける作品」をして「特撮」と定義しているけれども、表現手法としての特撮はもっと幅広いものであり、云々。そりゃお堅い文芸作品で、テーマを表現するために特撮を使った優れた作品もあろうし、それを否定する気もないけれども、ぼくたちが『仮面ライダー』を観ている時にそれを持ち出されたって、そんなツッコミは余計なお世話としか。
 師匠はいわゆるオタクコンテンツが「学園もの」ばかりであることを嘆きますが、そうした作品よりもなろう的な転生物が流行している現状を考えると、この指摘自体がもはや周回遅れなものでしょう。
 ただ、ここで重要なのは師匠が「終わりなき日常というモティーフ(に対するdisり)」に拘泥している点。上にある『ビューティフル・ドリーマー』(以降『BD』)が、ここでは極めて重要なキーワードとなっています。これは『うる星やつら』の劇場作品で、押井守監督の作家性が極めて強く出た作。原作者があまり好んでない作としても、知られます。内容はラムの「いつまでもこの日常が続いて欲しい」という願いが現実化して、キャラクター一同が永遠の「文化祭前夜」の時間の中に取り込まれるというお話。80年代当時のモラトリアムな雰囲気を表していたとも言えますし、評論などでは「オタクの在り方への風刺だ」といった語られ方をすることが多い作品です。
 その代表は宇野常寛で、本作を(に限らず『うる星』やKEY作品を、大幅に事実を捻じ曲げて)持ち出し、オタクへ酸鼻を極める罵倒を繰り返しておりました*2。しかし遡って言えば、この論調は一種の「サブカルしぐさ」、即ち『エヴァ』の頃にオタクからコンテンツを剥奪せんと目論むサブカル君たちが、オタクを貶めるために持ち出したのが元祖であったように思います。
 そう、元はサブカル君が言い出したことを宇野がパクり、さらに純丘師匠がそれをパクった。師匠の物言いに、オリジナルの部分はまるでないのです。
 ……あ、いや、それは師匠に失礼かもしれません。師匠はアニメ版『らき☆すた』の最終回がやはり「文化祭前日」であり、EDが『BD』のテーマを下手に歌ったものであると指摘、

つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。


 と主張していました。これは師匠独自の指摘かもしれません。
 もっとも、かつてのアニメ(や特撮)のテーマをキャラクターたちが「下手に歌」うのは本作の毎回の趣向であり、そこに「トゲ」があるものかについては、疑問としか言いようがないのですが……(あ、すんません、ここまで言ってる割にぼく、『BD』も『らき☆すた』も未見なのですが)。
 ……しかし、アニメを観ての「オタどもは気づいてないだろうが、これはおまいらをバカにしているのだ! 選ばれし者である俺だけはそれに気づいたのだ!!」という格好の悪いイキり、上に書いた「サブカルしぐさ」と「完全に一致」していますよね。「おまいらオタには『エヴァ』の高尚さはわかるまいが、俺たちはわかっているぞ!!」というわけです。
 しかしこういう自意識過剰な妄想、ヤバいヤツが「AKBの○○ちゃんがテレビ画面から俺にだけ『結婚しよう』と電波を送ってきたぞ!」と言っているのとも「完全に一致」しています。何だか心配なので、彼らが「京アニが俺のネタをパクった」とか言い出したりしないか、国民は監視の手を緩めてはなりません
 普通に考えれば、(『らき☆すた』はともかく)『BD』は『うる星』そのものの持つ、「終わらない文化祭」ノリを自己批評して見せた作品といっていいはず。それは例えば、『ウルトラセブン』の正義に対して、「ノンマルトの使者」という作品でアンチテーゼを投げかけているのと同じ。そこをドヤ顔で持ち出す振る舞いは、「相手にもらった武器で相手を撲殺している」というゲスなものでしかありません。

*1 既に削除されてしまっているのですが、魚拓は今も見ることができます。
1ページ目 2ページ目 3ページ目 4ページ目 改稿後
*2「ゼロ年代の妄想力」など。一読いただければ、宇野の妄言に事実の反映が極めて少ないことがおわかりいただけようかと思います。


 ――さて、しかし、ここで言っておかねばならないのは、「オタク文化は終わらない文化祭である」という指摘は、それ自体は別に間違ってはいないということです。
 それは『うる星』に始まり、『ときメモ』的なギャルゲーを経て、学園ラノベ全盛になったオタクコンテンツの経緯を見ても、自明でしょう(だから、転生物全盛の今は、むしろ「オタクコンテンツ衰退期」でありましょう)。
 そしてこの指摘については、「間違ってもいないけど、しょーがねーじゃん」と言い返す他ないと、ぼくは考えます。
 大塚英志氏が80年代、「現代社会はイニシエーション(大人になるための儀式)が失われた」と盛んに指摘していました。時々言及するように、80年代というのは、ぼくたちが「卒業」することを止めた時代です。アニメでも「遠い星から来たヒーローや少年の友だちが、故郷の星に帰るかと見せかけ、また舞い戻ってくる」といった「外し」オチが増えたのがこの頃です(そう考えると、純丘師匠の手つきは『ドラえもん』をデマによって貶めた稲田豊史師匠のそれと全く同じであることがわかりますね*3)。
 大塚氏はイニシエーションのない現代に危機感を持つと同時に、なくなってしまったこと自体が問題なのだから、大人になれない者をただバッシングするのは間違っている、との論調を展開していました。宮崎事件の時、マスコミが盛んに「(宮崎は、そしてオタクは)現実と虚構の区別がつかない」と書き立てましたが、大塚氏はそれに対して「ならばその現実とやらを屏風から出せ」と反論したのです。これを上のフレーズにこと寄せて表現するならば、「お前らが卒業後のルートつぶしたからしょうがなく文化祭やってんじゃん」とでもいったことになりましょうか。
 ましてや、今となってはぼくたちは正社員になることも結婚することも、極めて難しい状況。そんな状況下で学園ラブコメを楽しむオタクに毒を吐くヒマがあるなら、世の中の景気を少しでもよくすること(イニシエーションを邪魔するフェミニズムを打ち倒すこと)を考えるべきでしょう。
 もちろん大塚氏の発言は80年代のもの。宇野よりも、純丘師匠よりも、遙かに前。師匠らは周回を二兆周くらいは遅れたうわごとをドヤ顔で垂れ流すことで、いまだ小銭を稼ぎ続けているのです。
 そして、宇野をまるでオタク評論家ででもあるかのように受け容れている連中もまた、彼らの後をドタドタ走っているに過ぎません。


*3「ドラがたり」において、(ウソにまみれた)『ドラえもん』のヘイトスピーチを繰り返した稲田豊史師匠、わかりやすすぎることに宇野常寛の子分です。


 さて、上に「後に述べます」と書きましたが、その話題についても拾っておきましょう。
 実のところ炎上後、純丘師匠は慌てて改稿、そして削除と対応を二転三転させ、最終的にはネット記事の取材に応じて上の「麻薬の売人以下」とは、京アニのことを指した言葉ではない、と抗弁しました*4
 しかし、それを素直に読む限り、師匠の本意は「アニメ界全体」が「麻薬の売人以下」である、というものになってしまように、ぼくには思われる。
 即ち、(この辺、師匠も混乱して自分でもよくわからなくなっちゃってるんだという気がするのですが)こうなるといよいよ、師匠の物言いは『エヴァ』の時の「サブカルしぐさ」へと近づいていくのです。つまり、それは「俺くらいになると真に価値あるコンテンツを評価できるが、オタクどもは低劣な作品を観て喜んでいる云々」というものですね。
 先にも書いたようにオタクコンテンツは近年、大きな評価を得ました。今までオタクを見下していた連中がオタク利権目がけて、動物の腐乱死体を見つけた時のハイエナのように飛びついてくるのも、よく見る光景となりました。
 しかし、ホンの少し前までは、「唾棄すべき怪しげで未成熟なガラクタ」に過ぎなかったのです。
 そう、今回の純丘師匠のいささかみっともない立ち回りは、そんな「オタク史」のリプレイに他なりませんでした。


*4「「麻薬の売人以下」は「京アニのことではない」 純丘曜彰・大阪芸大教授、炎上コラムの真意語る


 本件――というのは純丘師匠の記事ではなく「京アニ放火事件」ですが――の犯人とされる青葉容疑者、当初はオタクではないのではないか、小説をパクったというのもいわゆる統合失調症の症状なのではないかと噂されていましたが、どうも彼自身が京アニに小説を応募していたらしいことが明らかになりつつあります。
 だからと言って「パクられた」というのは妄想である可能性が大だし、仮に万一、「パクられた」事実があったところで大量殺人が正当化されるはずもありません。ただここで、青葉容疑者は純丘師匠や宇野たちに比べれば、それなりに理性的な判断をしていた人物であることが明らかになったわけです。
 本件は「オタクの中の持たざる者と持てる者とのバトル」であると表現し得るでしょう。青葉容疑者、自業自得とはいえ、底辺の、未来に希望の持てない立場にいたことは明らかです。一方、殺されたアニメーターの中には大変に若く、「(この冬に?)初めてボーナスをもらって喜んでいた」方もいたと聞きます。大変痛ましいけれども、しかしそうした才能を持ち、前途の拓けていた存在に、弱い立場の者が嫉妬心を持つなというのは難しい話です。
 彼ら彼女らの「サブカルしぐさ」は、オタク界の下っ端の切り捨てであり、そうである以上、「オタクの中の持たざる者と持てる者と格差の拡大」を目的とする側面を、どうしても持ちます。言わばこれは「優れたコンテンツを生み出し、カネを生む者、自分たちの政治の道具になる者は認めてやる」とのオタク界内部の「ノアの箱舟」計画だったのです。
 そう、今回の事件が、そうした人々に「お前、無能だから要らないしw」と見捨てられた者の犯罪であると考えた時、まさにこの事件の「真の黒幕」は純丘的な人物たちだったというしかなくなるのです。
 ぼくが「オタク界のトップ」、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」と称するような人たちは、「サブカルしぐさ」の愛好者でありながら、「勝ち組オタク」に取り入(り、「負け組オタク」を切り捨て)ることで、利を得ている者たちです。モテ/持てる者だけを自分たち主催のぱーちーに招待したくて招待したくて仕方のなかった彼ら彼女らにしてみれば、この両者の溝が深まれば深まるほど都合がよい。
 彼ら彼女らにしてみれば、「成果物」を後からやってきてぶん獲ることだけが目的で、創作者も消費者も同じオタク仲間であること、それらコンテンツはオタク的なるものとして、みんなで一丸となって作り上げてきたものであることなど、一切わからないのです。そうした人たちが創作者と消費者をボーダーレス化しようとする岡田斗司夫氏や大塚英志氏を嫌ってきたということも、何度か指摘してきた通りです。
 そんな人たちにとって、今回の事件は「干天の慈雨」のはず。
 自分たちの切り捨てたくて仕方のない側の人間が問答無用の悪として、自分たちの取り入りたくて仕方のない(否、既に取り入った)側の人間が、絶対不可侵の被害者として立ち現れたのが、本件だったのですから。
 今後、彼ら彼女らはこれを利用し、モテ/持たざるオタクを斬り捨てるための知恵を総動員するはずです。
 それに対し、ぼくたちは敏感でなければなりません。
 ――さて、実は少ない時間を工面してえっちらおっちらキーを打っているところに、今度は山本寛師匠のブログの炎上という報が舞い込んできました。見る限り、言ってることは純丘師匠と変わりはしないのですが、しかしふたりは置かれた立場が違いすぎる。これについては次回、採り挙げます。そこでは彼らは何故、こうした醜悪極まりない「サブカルしぐさ」を振るうのかについての分析が行われることになりましょう。
 気になる方は一週間後にまた、お会いすることにしましょう。


■補遺■


 最近のアニメなどにはすっかり疎くなっているのですが、実はオタク向けの日常系作品の多くは時間経過があるそうで、この種の論者が繰り返す「終わらない日常」といった批評は全く当たっていないとのご指摘を、ある方からいただきました。
 もちろん宇野などの反オタク論者の主張に事実の反映があることは極めて稀ですが、そうなると彼らは80年代に多かった、「一般向けアニメ」の「一般的傾向」をすくい出して、オタクを叩いていたということになります。彼らの下劣さには、全くそこがありませんね。

ジャニは無慈悲なサヨの女王

2019-08-09 00:46:37 | オタク論


※この記事は、およそ10分で読めます※


 今回短いです。つっても、前回と同じくらいですが。
 どうも、ことにnoteでは時事評めいたモノの方が食いつきがよさそうなので、これからはこうしたものを増やしていこうかと思います。
 逆に、がっつり読み込んだ書評などは頻繁に更新することが難しくもなってきているので……。

 ジャニー喜多川が死にました。
 何で死んだとかは、知りませんし、興味もありません。
 それより確か、数ヶ月前も死亡のニュースが聞こえてきた記憶があるのですが、何だったんでしょうね、あれ。或いはその時死んでいて、死亡日が操作されてたりするんでしょうか。
 おわかりかと思いますが、本件でぼくが興味を持っているのは、ジャニー喜多川が長年に渡って男児虐待を続けてきた薄汚い老人であるという点についてのみ(これについては疑惑や噂などではなく明確に「黒」であることも、述べるまでもないでしょう)。そしてそれを、長年に渡ってマスコミもフェミも軒並みスルーし続けてきたという点についてのみです。まあ、フェミが男児への虐待に対して怒りを表明するなど、あるはずもないのですが(リンクと本論は一切関係がありません)。
 長年に渡って男児のレイプを称揚し続けて来た伊藤文学も薄汚い老人に変わりはありませんが(リンクと本論は一切関係がありません)、「実行」に移していたジャニー喜多川(そしてそれをスルーし続けて来た人々)がその何百倍も薄汚いのは、言うまでもないことでしょう。

 さて、とはいえ、ここではこれを機に、ずっと気になっていた「とある歌」についてのレビューをしたいと思います。
 TOKIOがもう二十年以上前に出していた「ぼくの伯父さん ~My uncle is a nice guy~」という歌で、NHKアニメ『飛べ! イサミ』の主題歌、「ハートを磨くっきゃない」とのカップリング曲でした。詩は以下のような感じです。

ぼくの伯父さん ~My uncle is a nice guy~

 いかがでしょう。もう、全体から得も言われぬ腐臭が漂っていて、目を開けているのも辛いですね。
 ……あ、いや、安易に共感を求めてしまいましたが、或いはそこまでこれに嫌悪を覚えるのはぼくだけなのかもしれません。
 ちょっとその嫌悪感について分析して、ご説明申し上げることにしましょう。
 ぼくがこの曲を聴いた時に感じるたまらないキモさは、作り手のあどけなすぎるナルシシズムと、それを年少者に押しつける体育会系気質にあるのです。
 TOKIOといっても当時はまだ二十やそこらでしょう、多分。年若い男性に、こうした歌を歌わせ、そのボスがジャニー喜多川。もちろん、この歌が作られたバックをぼくは知りませんし、別に喜多川が「こういうのを歌え」と発案したわけでは、恐らくないでしょう。しかしジャニーズアイドル、即ちお稚児さんにこうした歌を歌わせること自体が、ぼくには何か悪質な冗談のようにしか思えません。
 少年の視点で、「伯父さんは格好いい」と歌っていますが、これはどう見ても「老人が少年に欲情しながら、少年に愛される自分を夢想しつつマスターベーションをしている」歌ではないでしょうか。

 そして、このぼくの嫌悪感というのを分析していくと、いつものオタク論に辿り着くわけです。
 この歌で連呼されている「アメリカン・グラフィティ」というのがまず、象徴的。この「アメリカン・グラフィティ」そのものは一般名詞(即ち、「アメリカにおける人間模様」とでもいった意味)で使われているのか、同名の映画を想定しているのかは判然としませんが、いずれにせよここには反体制文化のカラーが色濃く表れています。
 一般名詞だとしても、そもそも「グラフィティ」そのものが壁に描かれた落書きの意で、ヒップホップ文化と親和性を持っています。映画とするならば、これは60年代、まだベトナム戦争という「大人になるための通過儀礼」を終える前のアメリカを舞台にした青春(それも、青春の終わりを描いた)映画。
 また、歌詞には60年代後半のロックンロールの名曲が挙げられ、伯父さんが「今のヤツらにはこうしたいい歌がない」と嘆く様が歌われていますね。
 この「伯父さん」がいくつかは判然としませんが、いい歳のおっさんが昔を忘れられずに若者ぶっている様は、どう見ても醜悪奇怪です。
 かつてのアメリカ文化を至高とする世代が、若者にそうした「サブカルチャー」を押しつけている……否、若者がそれを喜んでいる形を取りながら、実際には押しつけているじいさんの顔しか、この歌からは見えてこない。その老人はまさに、自分がレイプした男児のセコハンを、女性たちに卸す業務を続けていた、あの汚い老人と同じ顔をしているのです。
 ちょっと歌詞を読み変えれば、どうでしょうか。
「平成ライダー観て喜んでる今の連中は可哀想だ、昭和ライダーのような男気を学ぶ機会がないんだから」。
 そんなことをもしツイッターでつぶやいたら、いがでん氏以上に炎上してしまうことになるでしょう。
 オタクの本質はニヒリズムにあります。自分の愛好する文化が、決して他者には理解してもらえないものであることに対する、諦念。そうした状況を常識としてしまっているぼくの目からは、この歌に歌われる「伯父さん」のドヤ顔は、極めて奇異な、奇怪なものに映るのです(そもそもいが氏の「女児を叩け」も、オタク文化を愛好する者は叩かれて当然、という大前提があるからこその発言であることに、『トクサツガガガ』を見て何かわかった気になっている人たちは、思い至るべきでしょう)。
 岡田斗司夫氏は上の世代のカウンター文化が格好悪すぎるので、それに対するさらなるカウンターとして子供番組を観ていたのだ、と主張していたことがあります。これはオタク文化の発祥を、極めて端的に言い表しているといえましょう。
 古株のオタクならばご承知の通り、80年代のオタク文化においては、「ビキニ型の鎧に身をまとった美少女が、怪物やメカと戦う」といった内容のビデオアニメが佃煮にするほどに作られておりました。「サブカルチャー」とはあくまで「青年」による文化でしたが、「青年」というものが肯定的に見られ得なくなった時代に、オタク少年たちは美少女へと自らを仮託し、怪物やメカと戦うという形で男性性を密かに開放していたのです。
 90年代以降、恋愛ゲームの流行などを経て、男性性はなおのこと描かれることがなくなり(KEYの主人公など、比較的マッチョなのですが、それも『けいおん!』的な流行にとって代わられ)、近年では「バブみ」なんて言葉がはやり出しつつある、といった具合です。
 しかし、こうした経緯を実体験しておきながら「オタクはマッチョだ」とか言ってしまえる東浩紀師匠*1って、やっぱ脳に水が詰まってるんですかね。
 ともあれ、オタクというのは世代的にも、(そしてまた、多くがスクールカーストで下位存在であったろうという個人事情的にも)そこまでナルシシズムを断念させられた存在であったわけで、その目からこの歌を見ると、老人のナルシシズムを感じ、キモいと言わざるを得ないのです。


*1 東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)


 ――或いは、とも思います。
 年少者が年長者を敬うというのは健全な姿かもしれません。ナルシシズムそのものもそれ自体は健全なものでしょう。
 オタク自体に非はなくとも、その感受性自体が健全なものではないぞ、との反論も考えられます。まあ、男性性を過度に抑圧することが正しいとも思えないので、最終的にはそれが結論にはなるとぼく自身、考えますが、ここではそれは置いて、もうちょっとぼくたちが「男性性の断念」に至った過程について、見ていきましょう。
 巷では「キモくてカネのないオッサン」などという言葉が流布しています。実際、ぼくたち(の世代)は、「おじさん」、「オッサン」というだけで問答無用でキモい、格好の悪い、ネガティブな、否定してしかるべきもの、とのイメージをまず、どうしようもなく持っています、しかし、そうした感受性は、かつては普通のものではなかったのです。
 月光仮面などが歌で「おじさん」と呼ばれていることは有名です。ヒーローが青年になっていったのは「若者の時代」である70年代以降と言っていいでしょう。何しろハヤタ隊員ですら劇中では「おじさん」呼ばわりだったりするのですから。そして、(特撮ではいまだ青年が変身しているとは言え)、80年代以降、ヒーローは「少女」になった。
 こうした男性の地位の失墜についてはあまりにも話が大きくなりすぎるので、詳しくは論じませんが、一つにはサブカル世代が上の世代へのカウンターを旨としてきたことが理由であることは、論を待ちません。彼らがフェミニズム(=ミサンドリー)と親和的であることもまた、それが理由です。
 言わば、この歌は上の世代の権威を否定してきた者が、自分が年を取ると、平然と自分たちの権威を下の世代へとナルシシスティックに押しつけている、醜悪奇怪な姿が描かれた歌なのです。しかも、(日本人が作り、歌っているクセに)無邪気にアメリカを礼賛しているのもポイントです。岡田斗司夫氏は「サブカルは全部海外からの借り物」と指摘して、サブカル陣営から親の仇の如く憎まれたといいますが、少なくとも日本のサブカル連中が借り物文化を振りかざし、自分たちは何も生み出せず、目下はオタクに「間借り」しようとしているということは否定ができません*2
 そう、この歌そのものは「オタク文化」については全く歌われていませんが(まあ、アニメのopのカップリング曲であったことは見逃してあげるとして)、ぼくがここにことさらに「サブカル/オタク」の図式を見て取ってしまうのは、この「老人」のアメリカ頼みがあまりに空疎だからです。

*2 間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに

 ご承知の通り、日本のマスメディアでジャニー喜多川を批判する声は、ほとんど聞かれませんでした。もちろんそれはSMAPを例にとるまでもなく、ジャニーズが日本の芸能界にあまりにも強い影響力を持っているからでしょうが、もう一つ、サブカル世代を支持層とする左派がメディアを牛耳っているからでもありましょう。彼らはホモに盲信といっていい信仰心を抱き、彼らは決して過ちを犯さないのだと深く信じきっています。だから、その一端である(ごっちゃにしちゃ、ホモに失礼だと思うのですが)少年愛者にも、ひれ伏し続ける。
 そして、その心性が彼ら彼女らが根底に持つ、男性への憎悪の裏返しであることも、何度か指摘してきたかと思います。そう、彼らは男である自分の性欲に深い嫌悪感を抱き、それを持たぬ男であるホモに「羨望」しているのですね。そしてまた露骨なエロ文化を持つオタクへと自分自身へのヘイトを「投影」している。もちろん、実際にはホモは性的にかなり放埒な部分があり、また少なくとも子供に手を出している少年愛者に擁護できる部分など全くないのですが、彼ら彼女らはそうした現実を絶対に認めることがありません。
 しかしこうした心性って、少年愛者と、そしてまたこの歌とそっくりではないでしょうか。
 ペドファイルとは、子供時代に「負債」を抱えた人です。その時にしておくべき「宿題」をすることができず、その「子供時代」からの借金取りの取り立てに苦しめられている存在です。
 ちょっと抽象的でわかりにくい物言いかも知れませんが、まあ、その時期に十全に愛情を得られなかったとか、そういう感じでご理解いただいていいかと思います。
 だからこそ、その年齢の子供に自分自身を見て、ナルシシズムの捌け口にする対象にしてしまう。彼らは子供を虐待しながら、「自分は子供を愛してあげている崇高な存在だ」と信じきっています
 これって、実際には弱者をいたぶることしかしていないのに、弱者なりマイノリティなりに自分自身を「投影」し、我こそはそうした人々を守る正義の味方なりとの自意識を振り回す左翼といっしょですよね。そう考えると、左翼が少年愛者であるジャニー喜多川を神の如くに称揚するのは当たり前、としかいいようがない。
 そしてそんな、彼らの「ナルシシズムの捌け口として弱者を利用する」振る舞いに対する応援歌として、この歌は今こそ聴かれるべきなのでしょう。
 ……という辺りが結論で、まあ、いかがでしょうか。

■補遺■

「アメリカン・グラフィティ」を普通名詞か映画のタイトルかわからない、と書きました。
 しかしよく見ればわかることですが、二番の歌詞ではこれに対応し、「ウエスト・サイド・ストーリー」とありましたね。となると先のものも映画が想定されていることは自明でした。
 後者の方も60年代のアメリカ映画で、こうしたものを邪気なく若者に押しつける感覚、やはり好きになれません。