兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

ゼロ年代の妄想力

2015-06-28 19:14:07 | オタク論




 宇野常寛という御仁がいます。
 下品極まりない言葉でただひたすらオタクを罵ることをライフワークとしている方で、しばき隊は何故彼をスカウトしないのかと不思議でならないのですが(ホントに仲がいいかも知れませんね、どうでもいいけど)、先日、初めて彼の主著を拝読し、その恐ろしいまでの薄っぺらさに不快――否、深い感銘を受けました。
 今回は、彼についてさらっと触れてみましょう。
 そもそも宇野と言えば、ぼくからすれば東浩紀師匠の子分、くらいの認識だったのですが、本書を見ていくと結構、東師匠を批判しています。彼は師匠の「マチズモ批判」とやらに一定の評価を与えながらも、「まだまだオタクへの憎悪が足りない」と批判をしているのです。


 批評の世界における東浩紀の出現とその劣化コピーの大量発生は、弱めの肉食恐竜たちが(実際には肉食以外に興味がないにもかかわらず)矮小なパフォーマンスで「僕らは草食恐竜です」と宣伝しながら、自分よりさらに弱い少女たち(白痴、病弱、強化人間など)の死肉を貪っているような奇妙な言論空間をサブ・カルチャー批評の世界に醸成した。
(211p)


 グロテスク極まりない本書の中でも、最も品性下劣かと思われる部分を抜き出してみました。
 何を言っているかおわかりでしょうか。
 宇野は別名を「key芸人」と言い(今、ぼくが命名)、keyのゲームをひたすらこき下ろす芸で一部には人気です。彼は「白痴」という言葉を使うのが三度のオナニーより大好きなのですが、この「白痴」とはkeyのゲーム『AIR』に登場する少女、神尾観鈴*1を指しています。彼にとって『AIR』とは、「白痴という弱者性を持った立場の弱い少女を、男がレイプするゲーム」なのです。『AIR』をプレイ(或いはアニメ版を視聴など)した者からすると何をバカな、そういう薄い本でも読んでいるんじゃないのかと思うかも知れませんが、恐らくそうしたことではなく、原因は宇野の脳にもはや正常な日常生活を営むことが困難であろうと思われるほどの重篤な認知の歪みが生じていることに由来するように思われます。
 宇野が東師匠に批判的なのは


 東の指摘するマチズモとその自己反省の同居、という状態はなぜ成立したのか。
(中略)
 それはこれら(『AIR』など)の作品に内在する自己反省が、実は「反省」としては機能せず、むしろマチズモを強化温存する「安全に痛い自己反省パフォーマンス」にすぎないからだ。
(204p)

 これらの講義のポルノメディア*2に対する批評の需要は、概ねそのマッチョイズムを隠蔽しつつ再強化するイデオロギーに集中しており、そのためにこのような矛盾に満ちた議論が批判を加えられず閉塞した市場*3の中で温存されてきたのだ。
(207p)


 といった理由によるそうです。
 東師匠の「自己反省」という評論がいかなるものなのかは、置きます。採り挙げる興味も価値もないことですから。
 宇野の言い分は要するに、師匠の評論は「マチズモを反省しているように見える、ただのポーズでしかない」というものなのです。
 しかし、この種の人々が持ち出したがるこうしたロジックには、(根本から間違っていることは不問にしてあげるとしても)そもそも何ら意味はありません。
 この種の人たちは、「○○は優れた批評だが、××はガス抜きに過ぎぬ」とか「○○は男性支配社会を風刺した優れた批評だが、××はその価値観の垂れ流しでけしからぬ」とかいったデタラメな批評が実に大好きです。
 例えばフェミニストの中でもBLが好きな人は「ホモフォビア(ホモソーシャル)への風刺である」とこれを肯定し(東師匠がそれをしたことは、何度も指摘していますね*4)、嫌いな人は「ヘテロセクシズム社会のガス抜きの役割を果たしているにすぎない、むしろ利敵行為」とこれを否定します。
 或いは斉藤美奈子師匠は『紅一点論』の中で「『ガンダム』でセイラが苦汁を舐めるのは女性差別だが、『エヴァ』のアスカが廃人化するのは男性支配社会にいじめられていることのメタファーである」と語っています*5。
 おわかりのようにこれら批評は万能のレッテルに過ぎず、任意に好きな作品は「その価値観への批評」であるとして称揚し、嫌いな作品は「その価値観への無批判な服従」として罵倒することが可能なのです。
 はっきり言えばフェミニズムの論法を受け容れたリベラル寄りの論者の漫画や小説に対する批評は全て、この程度のものと言って差し支えがありません。
 事実、宇野は高橋留美子の『犬夜叉』最終回を「虚構世界からの卒業」を意図していると高く評価する一方、「むろん限界はあるとの反論はわかるが、しかし」的な留保をつけています。
 好きな作品の批評性については「むろん限界はあるとの反論はわかるが、しかし」良きもの、嫌いな作品の批評性については「自己反省パフォーマンス」だから悪しきものと言っておけばよいのだから、楽なものです。
 彼の中の「○○だから、ダメ」と「○○だが、しかしアリ」の差違はどこにあるのかの基準は、示されません。言うまでもなくその基準は彼にとって好きな作品かどうか――否、評価することが政治的におトクかどうか、なのでしょう。
 レッテルと言えば、この執拗に繰り返されている「マチズモ」「マッチョイズム」というワードも象徴的です。
 ここではただひたすらオタク作品に「マッチョ」であるとのレッテルさえ貼ればそれでこと足れり、とするばかりで、本当にその作品がマッチョなのか、そもそもマッチョがどうして悪いのかといった疑問は、清々しいまでに不問とされています。
 そもそもマチズモとマッチョイズムってどう違うかもぼくにはよくわからないのですが、もし宇宙人がこの本をスーパー翻訳機にかけたら、「マチズモ」「マッチョイズム」を訳することができず単に「何か、悪しきこと」と翻訳するのではないでしょうか。
 宇野は『エヴァ』以降のオタクシーンを指し、


 九〇年代末とは、男性のマッチョな自意識を女性(母性)が全肯定するという回路が全世代的に選択されていた時代だったのだ。
(84p)


 また、美少女ゲームについて


 女性差別的な「所有」関係
(153p)


 などとも腐しています。
 先の「自己反省」に言及し、


この「自己反省」のポイントは、「少女が主人公の男性を絶対的に必要とする」という、「所有」構造の根底をなす部分は反省の対象にならない点にある。
(205p)


 とまで言います。もうこうなると、少女が男性を必要としている時点で絶対に許されないのですからたまりません。
 そもそも、そうした構造はあらゆる恋愛物に普遍的なわけで、そうなると宇野が何故オタク、否、オタク男性だけを執拗に執拗に罵倒するのかわかりませんが(当然、非オタク作品でも、また女性が描いた作品でもそうした傾向は普遍的なのですが、宇野はそれについて何も説明しません)。
 もはやフェミニズム様に許していただくためには「男を必要としないレズ物」しかなさそうですが、そうなったらそうなったで「レズへの差別的表現」と言われることはもう、次のライダーがホスト面であることよりも明らかです

*1 宇野には気の毒なので、『AIR』でもこの観鈴以外のキャラはそうバカっぽく描かれていないことはナイショにしておいてあげましょう。
*2 彼は実に嬉しげにkey作品をポルノポルノと繰り返すのですが(性表現があるので、これは間違いとは言えないのですが)、こうして憎悪の対象を「ポルノ」と呼称することで一仕事終えた気分になれる彼が、ポルノを称揚することが三度のオナニーより好きなリベラル陣営の中、どういうスタンスでいらっしゃるのか、疑問です。
*3 しかし「評論」の「市場」とは言いも言ったりですね。日本のアニメがジャパニメーションとして世界で評価されていることと比べ、この種の「評論」が市場性を持っているとは到底思われないのですが。
*4 東浩紀「処女を求める男性なんてオタクだけ」と平野騒動に苦言(その2)
*5 『紅一点論』――国語の教科書に「アニメのヒロイン像」



 もう一つ、宇野は盛んに『うる星やつら』を俎上に上げるのですが(これはまた、東師匠が同作にこだわっていたからでもあるようですが)、一体全体どうしたわけか同作を、


 具体的には、複数の美少女キャラクターが主人公の少年に恋愛感情を抱くことで承認する、という回路が示される。
(84p)

 この形式は、後のオタク系作品のラブコメにおいて、いわば独身男性向けのハーレクイン・ロマンスのように消費されるフォーマットとして定着していくのだが、
(208p)


 と執拗に繰り返します。
 言うまでもなく『うる星』は今の萌え系、ハーレム系作品とは決定的絶対的に異なります。それはむろん、本作ではあたるとラムのロマンティック・ラブ・イデオロギーが絶対のものとして前提されている点にあります。
 宇野の記述とは全く異なり、本作においてラム以外の女性キャラは基本、あたるを愛しません。
 いくら何でもここまでのデタラメ極まりない、まさに斉藤美奈子師匠レベルの支離滅裂な事実誤認が、どうして罷り通っているのでしょう。
 或いは宇野は『うる星』を読んだことがないのかとも思ったのですが、これ以降、劇場版である『ビューティフルドリマー』について妙に子細に論じている部分もあり、どうもそういうわけでもないらしい。
 いわゆる萌え系ハーレム物を論じつつ、いわゆる萌え系ハーレム物について初歩の初歩から解釈を決定的に誤っている。これは彼の知的能力が、とんでもなく、容易には想像が不可能なほどに低いことが理由でしょうか。
 いえ、恐らくそうではないでしょう。
 憎むべきオタク男性に支持された漫画は何が何でも絶対否定せねばならない。
 その彼の中の動機が彼の認知を、ここまでグロテスクに曲げてしまったわけなのでしょう。
 昨今のフェミ陣営の人たちを見ていると、彼ら彼女らは何よりも「客観的現実」を受け容れることを苦手としているように思われます(繰り返している「ガンダム事変*6」や「伊藤文学事変*7」などそうですよね)。彼ら彼女らには「愉快な仲間たち」同士で願望を語りあっているうちに、いつの間にかそれを現実と誤認してしまう、という悪癖があるのではないでしょうか。

 ――さて、つらつらと述べてきましたが、ぼくはここで、皆さんに大変に残念なお知らせをしなければなりません。
『源静香は何故のび太と結婚しなければならなかったのか』の時も申し上げました通り*8、宇野の戯言は、実は「フェミニズムは正しい」と前提するならば、正しいのです。
「男性という立場の強い者からの働きかけは全て女性側の主観でジャッジして、仮に後づけであろうとセクハラなどとして訴訟できるようにすべき」とのフェミニズムを受け容れれば、この地球に存在する全ての純愛ストーリーはそのように解釈する他なくなる。つまり、「フェミニズムを正しいと仮定するならば、宇野の主張は正しい」のです。
 そしてまた『部長、その恋愛はセクハラです!』の時に申し上げたように*9、この地球がフェミニストに制圧されてしまっている以上、ぼくたちは彼のうわ言を「正義」として受け容れる以外、道はないのです。
 フェミニストたちはこうした主張をしつつも、恐らく自分たちの主張の矛盾に気づいているため、ここまでラディカルな表現をすることは実は、少ない。
「いや、フェミニストたちに矛盾に気づくほどの冷静さはないぞ」と言いたい方もいらっしゃるかも知れませんが、仮に意識の上ではなくとも、彼女らは無意識裡に気づいているのではないか。例えば、一方で自分たちが「女が、男らしい男に愛される」古典的なストーリーを愛していることに、彼女らも気づいており、そのためここまでのラディカルさが少ないのではという気がします。
 しかしフェミニズムを盲愛する宇野には、そこが見えない。
 だからこそ彼は、その矛盾とウソと欺瞞と反社会性と弱者への憎悪に満ちたフェミニズムという名のボールを、全力でこちらに向かって投球してきた。それ故、かえってそのウソが誰の目にも明らかになってしまった――というような構図かと思われます。
 宇野は旧劇場版『エヴァ』のラストを持ち出し、以下のように語ります。


 結末の「キモチワルイ」――少女に拒絶されることに怯えた彼らは、自分たちの肥大したプライドに優しい世界を選ぶことになる。
(82p)


 しかし、それにしても、何というグロテスクな「評論」なのでしょう。
 宇野は件のラストが「女が、男に肘鉄を食らわせるものであった」というそれだけの理由で快哉を叫び、否定されるべきオタク男性は一様にそれを拒絶したのだ、拒絶したに決まっているから、拒絶したのだと、根拠もなく断言しているのです。
「彼ら(つまりオタク)」がこのラストにそこまで怯えたのであれば、何故『エヴァ』が二十年経った今も現行コンテンツとして成り立っているのか不思議としか言いようがありませんが、宇野はそうした疑問には一切、答えてくれないのです。
 いえ……このアスカの例えはそれ以上のことを、ぼくたちに連想させずにはおれません。
 元「と学会」の山本弘さんはユダヤ陰謀論、反相対性理論などいわゆる「トンデモ」を信じる人々に対して、「彼らは自分に当てはまる言葉で相手を罵る」と評していますが、それはどうやら正しいようです。
 女性に拒絶されることに怯え、自分たちの肥大したプライドを守るため、マッチョに弱い者をいじめているのは誰か――ここまで読んできた皆さんにはもう、お察しのことでしょう。


*6 「ガンダム事変」――フリーライターの加野瀬未友がデマを流し、オタク界のフェミニストの信奉者たちに兵頭を攻撃させた事件。「『ガンダム』ファンの女子は少ない気がすると言っただけで政治的論争に組み込まれちゃった件」を参照のこと。
*7 「伊藤文学事変」――『薔薇族』編集長の伊藤文学が、成人同性愛者が小学生男児をレイプすることを長らく称揚し続けたことを批判した兵頭が、フェミニストたちから恫喝を受けた件。「ホモ雑誌の編集長が子供とのセックスを肯定しすぎな件、そしてフェミニストがそれをスルーしすぎな件」を参照のこと。
*8 源静香は野比のび太と結婚するしかなかったのか
*9 部長、その恋愛はセクハラです!(発動編)

ズッコケ三人組シリーズ補遺(その九)

2015-06-05 13:03:16 | レビュー


 相変わらず、あんまり女災と関係ない記事を、久米某が大手で連載している間にも続けるよ!
 今回は最終巻までの五冊をレビュるよ!
 相変わらず「女災」からは離れるけど、『愛のプレゼント計画』は那須センセの女性観の総決算的な意味あいもあるのでよかったらそこだけでも読んでみてね!
 後、性質上、ミステリなどもネタは全部バラしていますので、そこはお含み置きください。

『ズッコケ三人組の地底王国』
●メインヒロイン:クシナ姫

 本作については、章タイトルが「選ばれし勇者」「悪竜との戦い」というものであるのを見た時から、イヤな予感がしていました。時代の流れについて行けなくなった作家が「何か、ファミコンみたいの」を書いて子供のご機嫌を伺おうとしている匂いがものすごくするじゃないですか。いや、本作は2002年の出版でもうファミコンの時代ですらないけど、この時期でも「ルンルン気分」とか「やるっきゃない」とか書いちゃうのが那須センセだし。
 いえ、とは言え、後期『ズッコケ』を読み進めるうち、レビュアーたちが腐すほどにつまらなくもないとの印象が多かったので、本作にも少し期待したのですが、やはり先の章タイトルから想像できる以上の内容はありませんでした。
 作者が意識的に後期シリーズの特徴である「児童文学にそぐわない陰惨さ」を封印してみたところ、逆方向で大やけどってのが裏事情じゃないかなあ。その意味では初期の『宇宙大旅行』に近い印象を持ちました。
 レビューブログには


全てが何分の一にスケールダウンした特殊な世界を舞台にしておりその世界における物理法則もちゃんと科学的に描かれている。もっとも、そのこだわりが物語の面白さに寄与しているかどうかは微妙である。


 といった評がありましたが、最後の最後、「高見から落下したけど(身軽になっていたため)無事だった」、また「何日もの冒険から日常へ帰還すると(それは体感時間が変化したための錯覚で)数時間しか経っていなかった」という描写もあるので(後者は途中でネタを割っちゃってるので意外性には欠けますが)、一応そこは那須センセらしさにはなっていたと思います。

『ズッコケ魔の異境伝説』
●メインヒロイン:荒井陽子

 荒井陽子が縄文時代の神様に憑依され、タイムスリップした三人組が陽子に導かれつつ大活躍……もとい、中活躍。
 前作『地底王国』は「俗に徹しようとして大やけど」感がありましたが、本作では那須センセのホームグラウンドの歴史物でありながら、盛り上がりに欠けるハナシとなってしまいました。
 ハチベエは「ケンカっ早い」と設定されながらケンカをするシーンは例外的なモノしかないのですが、本話では珍しく、クラスメイトととっくみあいをし、宅和先生がすかさず、「縄文時代には戦争がなかったんだぞ」と言います。また、ハチベエが「縄文の王様だぞ」と得意がると「縄文時代に王様はいなかった、せいぜい村長くらい」とのツッコミも。
 まあ、要するに「農耕が始まると共に、貧富や階級が生まれた、それ以前はパラダイスだった」論なのでしょう。ヒッピームーブメントの影響の色濃い『ギャートルズ』の最終回もまた、キャラクターたちが農耕を拒否し、貧富のない狩猟生活に留まる、というものでした。いや、それにしたって国家がなかっただけで、この頃だって貯蔵した木の実、ごちそうである獣の肉を巡っての争い、ヒエラルキーはあったでしょうに。こういうの、フェミニストたちの攻撃性から全力で目を伏せ、「男は凶暴だが女は優しい」と盲信するフェミニスト男性みたいなものでいただけません。
 後、本ブログ的には荒井陽子がシャーマンを務めるのが印象に残ります。「生々しい、地上の、イヤな女」として描かれてきた彼女が本作では例外的に「ニューエイジ的超越的美女」の役割を担っているわけです。もっともドラマ的要素は希薄なので、陽子もただ淡々と役割をこなしているだけの感はありましたが。

『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』
●メインヒロイン:竹田しおり

 幽霊の正体を暴くミステリ。謎解きしかり判明する経緯しかり、イマイチなのですが(ホント偶然見つけただけだモンなー)、事件の解決後に今まで登場したキャラクターたちの相関関係が一挙に明らかになる展開は見事で、全体的には久々に読ませるものになっていました。
 また、出番はさほどでもないですが民俗学専攻の大学院生、竹田しおりは非常に萌えるキャラとなっています。大学院生だが化粧っ気がなく、中学生みたいな童顔の眼鏡ッ娘(ルックスの方は、並みとも美人とも取れる描写があり、判然としません)。怪談のHPを男性名義で立ち上げ三人組ともフランクに接する、オタク好きのする「オタク」「喪女」「ニュートラル」キャラで、「とうとう『ズッコケ』にもこんなキャラが」と思ったのですが、考えるとこの手の女は70年代的な女性の一類型でもありました。丸い眼鏡をかけ、女性性に欠ける女の子。一例を挙げれば『メグちゃん』のロコとかがそうですが、むしろ当時の実写ドラマでよく見たキャラのようにも思えます(恐らくウーマンリブとも無縁ではない、リアルな女性像として、当時はこういう女性がメディアでももてはやされていたのではないでしょうか)。そう考えると一周回って、この種の女性の時代がまたやってきた、と言えるのかも知れません。
 後、陽子は(『情報公開』などの頃から)PCを特技とするようになりました。出番を増やすため、また彼女がブルジョアだからでしょうが、ハカセの家にPCがないってのはこの時期としてはどうなんでしょう。

『ズッコケ愛のプレゼント計画』
●メインヒロイン:荒井陽子、榎本由美子、安藤圭子、深町さくら、三橋さやか、高畠のぞみ、大倉志穂、吉本マリヤ、吉本ユリヤ

 さて、プレ最終巻です。
 以前、『修学旅行』と『未来報告』の時に、それらが擬似的な最終巻&プレ最終巻的な内容であると書きました。『修学旅行』でも本作でもハチベエが妙に女性にモテていて、ちょっとどうかなあと苦言めいたことを書いたこともありました(「補遺その四」の『夢のズッコケ修学旅行』の項)。
 辛口のレビュアーも


 チョコレートにまつわる甘ったるい話は、もはやかつてのメガヒット「ズッコケ三人組」シリーズの残骸であった。


 と非道く悪し様に本作を罵っており、そんなに駄作なのかと心配していたのですが、普通に面白く読めました。
 まあ、もちろん、とは言え不満もあるのですが。
 プロットとしてはバレンタインが近づき、チョコレート作りの講習会に参加する三人組、というものです。しかし、参加者である高齢女性がその場で倒れてしまい……と一波乱あるのはいかにも那須センセ。
 ラストでは、ハチベエが九人もの美少女に囲まれてエビス顔ってイラストが描かれます。クラスの美少女トリオ、そして第一小学校(他校)の三人組、更に上の高齢女性の孫の三人。最後に双子を出して人数あわせをやっている点など見ても、「ねえそれなんてエロゲ?」と問いたい充実ぶり。
 ただし、その「モテる描写」にはいささかの疑問も覚えます。
 クラスの美少女トリオは「もう卒業だから、一度くらいハチベエに優しくしよう、本当はそんなに嫌いじゃないし」と語ります。これは『修学旅行』のトリオが何の説明もなくハチベエに優しくするのと同様で、「モテないハチベエ」という基本設定を「実はモテていた」と強硬的に覆しているかのように見えます。
 例えば卒業間際の試験で、ハカセが何の説明もなく「何故か好成績を収めた」ら、どうでしょう? ハカセは「理屈屋だが学校の勉強は振るわない子」のスターであるべきで、それはちょっとどうかと言わざるを得ない。今回のハチベエも、そういう感じです。
 一方、他校の美少女三人組は妙に「あのハチベエ君」とハチベエを周知の、噂の人物であるかのように呼んで、彼に興味を持って近づきます。
 が!
 それについて特に説明がないのです。ぼくは読書中、ハチベエはセクハラ魔王として他校にも噂が知れ渡っている存在なのかと想像しました。そういう人物、身近にいると嫌でも、遠くにありて思う分には興味を惹かれる存在なのではないでしょうか(更には「最近は元気な男子が減って云々」というオッサン節も加わり)、ハチベエをある種、肯定してやるストーリーが展開されるのではと思ったのです。
 ハチベエの女の子へのいたずらは、今まで具体的な描写はなかったのですが、本作では普段、「スカートめくり、スカートずらし」「ノートにエッチな落書き」「鞄にカエルやカミキリムシを入れる」といったことをしていると語られています。
 ハチベエにはがっかりだよ! お前のことはこれから岡田斗司夫と呼んでやる!!
 いや……とは言え、岡田氏がモテていたのと同様、逆にそうしたキャラはモテるとも思えます。ぼくは本作を、そうした「元気な少年」に対する憧憬が、「他校の女子」の口を借りて語られる作品なのでは……と想像していたのです。
 で、あればハチベエのよさを美少女トリオが「再発見」し、結果モテモテ、という展開にも納得がいきます。事実、他校の美少女三人組にモテるハチベエに心穏やかでない美少女トリオ、という描写はなされていて、それはそれでリアルです。
『ゴーストスイーパー美神』の横島君は「人間の女性にはモテないが、物の怪の類にはやたらとモテる」と設定されていました。これは美少女妖怪などで読者サービスをしつつも、「でも現実にはモテませんから」とする、作者の冷静さの表れであると、ぼくは思います。
『ズッコケ』でも、意外にハチベエは異界の女性にはモテていました。
 繰り返すように『ズッコケ』の絵師は当初、前川かずおセンセでした。正直、彼の描く「美少女」は当時の感覚でも垢抜けず、「取り敢えずまつげや瞳の星を記号として描いておいたのでこれで勘弁して」感がありましたが、後継者の高橋センセが(美少女トリオは前川センセの忠実な模写にならざるを得ないとして)ゲスト美少女を描くと非常に可愛く、印象的でした。
 その結果、「ゲスト少女は可愛く、その多くは異界の美女である/レギュラーの地上的少女はイマイチ」という構造ができあがり、それは図らずも那須センセの「現世の女性に対する厭世観」を反映する結果になっていたように思うのです。
 その意味で、本作はそうした那須センセの女性観、作家性が「商業性」に敗北したお話だったのかも知れません。

『ズッコケ三人組の卒業式』
●メインヒロイン:なし

 最終作。
 冒頭から宅和先生の娘の婚約者である長井先生が再登場(『事件記者』)、文化祭についての言及(『文化祭事件』)、卒業間際のタイムカプセル(『未来報告』)と、過去作にまつわるエピソードやキャラクターが登場、いよいよ最終回といったムードが高まります。タイムカプセルというモチーフが共通している点などからしても、『未来報告』が書かれていた時期には前川センセの体調を鑑み、完結が検討されていたのかも知れません。
 お話は三人組がタイムカプセルを埋めようというところから始まりますが、それをきっかけにケンカしてしまうのも、またそのタイムカプセルの秘密を守るという共通の目的からすぐによりを戻すのも、それっぽくてぐっと来ます。何だか那須センセの「ケンカするほど何とやらなんだから三人組、もう少しケンカさせておけばよかった」「でも、オタク系の俺、そもそもケンカの経験ないし……」といった声が聞こえてくるようです。
 しかし逆に言うと、犯罪者の埋めたCDにまつわる中盤戦は今一面白くありません。演歌のCDと思いきや、プレイヤーにかけても雑音しか入っていない。むろん、入っていたのは音声データではなく犯罪にまつわるデータ(それも何だかネタとしては地味なもの)なのですが、そのすぐに見当のつく謎を妙に引っ張ります。『情報公開(秘)ファイル』でもフロッピーを仰々しく扱っていたし、さすがに那須センセもPCには詳しくいないのでしょう。
 犯罪者に捕まるハチベエ、というのがクライマックスなのですが、これも特に波乱のないまま、10pもかけずに解決してしまいます。好意的に取れば、今までにあったサスペンス、ミステリなどの要素は一通り網羅しよう、という意図があったのかも知れませんが。
 エンディングは教師を引退することを決意した宅和先生に、ハチベエたちが感涙して抱きつくというもの。宅和先生が引退を決意した理由は「もう自分は今の時代の教師ではない」というものです。これが那須センセの内面の吐露であるのは、書くまでもないでしょう。
 本来この宅和先生、それほど活躍をしてきたキャラでもなく、目立ったのはせいぜい『文化祭事件』くらい。にもかかわらず、最初期から登場する度にヤケに些細な描写がなされ(あだ名がタクワンだの、社会科の授業に熱を入れているだの)子供心に「作者の自己投影キャラなのかなあ」と思っていたのですが、初期作品の頃の那須センセは四十ちょいで、老教師に自分を重ねていたとは思いにくい。しかし、図らずも最終作において、宅和先生は見事に那須センセを投影したキャラとなり、前面に出てきて本作を締める役割を果たしました。いささか寂しいですが、その意味で本作もまた、前作同様の「敗北の物語」となったのです。
 それともう一つ。あちこちのブログで書かれるように(そして不評なように)卒業式ではいささか唐突に各国(韓国、北朝鮮、パキスタン、中国、イギリスというラインナップ)の旗が飾られ、各国の国歌が歌われます。学校には外国の生徒もおり、また「国歌斉唱」は義務づけられてはいても「どこの国歌かの規定はない」ことの裏をかいたドヤ顔での行為なのですが――まあ、どうしてもそれをやりたいなら、せめてゲストキャラとしてでも外国人の生徒のキャラを出して三人組と交流させるなど、お膳立てをしてからにするべきだったのではないでしょうか。別な動機がまずあっての「国際交流」こそ嘘くさいという意見もありましょうが、そこをうまく書くのが作家の腕でしょうし。
 後、余韻を与えずにばっさり終わっているのは前作同様なのですが、これって意図的なものなのでしょうか……?

 さて、『ズッコケ』全50作のレビュー、これにてコンプリートです。
 今年の初めに読み始めて、よもや三ヶ月ちょいでコンプリを果たせるとは思いませんでした。おかげで当ブログの性質もすっかり変わるという副作用も生まれましたが……。
 さて、ここでみなさんに悲しいお知らせがあります。
 本来、『ズッコケ』をレビューし出したのは那須センセの女性観が気になってのこと。
 それも、本丸は『ズッコケ中年三人組』シリーズです。
 よって本ブログはこれから、『中年三人組』コンプリの旅に入ります。
 ま……まあ、そっちは今のところ、十冊しか出てないから……(震え声)。