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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

さらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-10-23 18:42:23 | フェミニズム


 現在、『Daily WiLL Online』様で戸定梨香騒動について書かせていただいています。もっとも、この問題には「表現の自由クラスタ」が深くかかわっており、そうなると彼らののおかしさにも言及せざるを得ません。そんなわけで彼らに対しても少々辛辣な記事になりましたし、それは本稿も同様なのですが……。

Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」
続・Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」

怪人よくわからない博士とリベフェミスクール

 さて、詳しくは前回記事を読んでいただきたいのですが、ツイッターでの議論をきっかけにしてこの忙しい折、またフェミ本と格闘せねばならなくなりました。
 まず『女のからだ』から行きましょう。
 が、タイトルを見ればわかるとおり、本書のテーマは妊娠だ、中絶だといったこと。
 胎児殺害は女の権利だ、女の権利だと繰り返し、反対者は右翼なので悪だ、子供を大切にというお題目の裏には戦争に投入するためという真意が隠れているに決まっているのだ、そうじゃなきゃイヤだ、とお決まりの妄言をただひたすら書き並べているのみ。
 例えば中絶手術は母体に危険で云々……といった主張でもあればまだしも頷けるのですが、それはゼロに近い。
 以前、『WiLL』様の記事でお伝えした、青い芝の会(伊是名氏も影響を受けている障害者団体)について妙にこと細かに語られていること、ピル反対派らしく中ピ連について批判的なのは笑っちゃいましたが。
 もっとも、5p辺りに「リベラルフェミニズム」についての記述もちゃんとあります。といってもそれはリベフェミは60年代に活躍し、法的、制度的な変革を求めた、その意味でラディカルフェミニズムとは対立的であった、というもの。つまりぼくの言っていることをそのまま裏書きするものであるわけです。
 後は最後にちらっと以下のような記述も。

アメリカで主流のリベラル・フェミニズムは、男性優位の家父長制社会に対する批判には熱心だが、(中略)むしろそれらを積極的に利用することを通して、男女平等と女性の社会進出を促進してきたという性格が強い。
(229-230p)


 なるほど、確かに「リベフェミが主流」といった記述が見て取れます(くどいですがこの点は次回に述べます)。
 しかし、これは本当に副次的な記述であり、リベラルフェミについてこれ以上の情報はありません。
 大変残念ですが、ツイッター議論における、「珍しく書籍がソースとして挙げられたものの、読むだけムダだった」事例がまた一つ増えたにすぎない、という感じです。

ラディフェミ恐怖学校へ入学せよ!!

 さてもう一つ、『ザ・フェミニズム』に行きましょう。
 先にも述べた通り、日本を代表する二大フェミニスト、上野千鶴子師匠と小倉千加子師匠の対談本なのですが、冒頭から延々延々、フェミ仲間へのグチを並べ立て、「あんなヤツはフェミニストじゃない」の何のと繰り返され、どっと読む気が減退。基本は行政寄りの、マスコミ寄りのフェミを持ち出しては叩いています。上野師匠、この時点で東大教授をやってたんだから、自分はどうなんだという感じなんですが。

小倉―だから、立候補するフェミニストと立候補しないフェミニストっていうのがいてですねえ、私は、立候補するっていう時点でフェミニストではない、とさえ思っていますよ。
上野―まあ、人種が違うかもしれませんね。
(26p)



 もうこの時点で本書が学問上のフェミニズムの定義について述べる上で、根拠に使える本ではないことが明らかになってしまいました。だってこの理屈では田嶋陽子師匠もフェミニストではないことになる。当然、これは対談という本の中での(感情に任せた)暴論であり、まあ、言葉のアヤというヤツです。対談という本の性質を鑑みればわかることなのですが、そこを斟酌しなくていい、というのが平安氏の考えなのですね。
 他にも田中真紀子や大阪の女性府知事の名を挙げ、「こんなヤツらが正解で活躍したところでフェミの勝利と言えるのか云々」と、固有名詞を「高市早苗」に入れ替えたら今回の総裁選への文句に使えそうな物言いが繰り返されます。もっとも、女性とは言え自民の保守的な政治家がフェミに好かれないのは、当たり前のことではありますが。

 以降も(動画で述べたことなので簡単に済ませますが)主婦や女子大生たちが自分たちの思想に傾倒してくれないことへの嘆きが続きます。
「結婚しているフェミは結婚制度を擁護するフェミであり、セクシュアリティを語れない(小倉・大意・94p)」
「専業主婦を選択した上でフェミだと名乗るのは論理矛盾(上野・大意・113p)」
「結婚とフェミニズムは相容れない(上野・大意・132p)」
 など、まさにフェミという感じの会話。
 そろそろ本も終わろうという200pを超えた辺りで、ようやっと「リベラルフェミニズム」という言葉が出てきますが、これは前回にリンクを張ったツイに貼られた画像の辺りです(ただし、画像は文庫版と思しく、ソフトカバー版を元にしたぼくとではページ数は異なっています)。
 ここは先に書いた通り、小倉師匠の「リベフェミは敗退し、ラディフェミが勝利した」との主張に対し、上野師匠が異を唱えるという内容。
 しかし「リベフェミが体制の中に生き残った」という考えは両者が共有しており、要するにここでの小倉師匠の言い分は「思想としてはリベフェミは形骸化した」という(ぼくと同じで、まあ、客観的に見て妥当と思われる)もの。
 ただ、「体制側に行った」というのは恐らく、乱暴に言えば田中真紀子ブーム的なものをも包括してのことであり、しかも上野師匠も東大教授であることを思うと、「ひがみ」であると同時に、その「ひがみ」の根拠すらもが薄い、当を得ない物言いという他はありません。
 彼女らにとっては「夫婦別姓」推進派もリベフェミのようで、確かに「法改正による男女平等」を目指しているという点ではリベフェミ的とも言えますが、しかしこの「夫婦別姓」には明らかに家族解体、結婚解体の思想がある。となると、理念としてはラディフェミとも思える。
 正直、「夫婦別姓」というのがどの辺りから出てきたのか(リベフェミとラディフェミ、どちらを出どころと考えるのが妥当か)はわからないのですが、「ラディフェミ」側のものではないか……とぼくには思える。
 つまり、両師匠の「ラディ/リベフェミ定義」が今一、判然としないのです。
 ただ、読み進めると両師匠はリベラルフェミニズムを「保守」だと言い募り、

小倉――(前略)したがって、リベラル・フェミニズムとラディカル・フェミニズムの違いは、保守か破壊か、となる。
(中略)
上野――保守が悪くて、破壊が正しいかということよりも、近代の枠組みを与件として認めるか、認めないかという違いです。
(211p)



 などと言っています。
 要するに、主婦や女子大生への嘆きと同様、そもそも結婚など解体すべきとの前提を持つ両師匠にとっては「夫婦別姓」など「まだぬるい」「過激さが足りぬ」という苛立ちを「リベフェミ」にぶつけていると言えるんですね。敢えて二人の主張から演繹するならば、「リベフェミとはぬるいフェミ」というのが定義であるようです。
 さて、(動画を観た方にはもうおわかりのことなのですが)「では、厳密なリベラルフェミニズムの定義はいかなるものか?」という疑問への回答は次回へと取っておくとして、せっかくなのでもうちょっとだけ本書のレビューを続けましょう。

リベラル墓場 よみがえるフェミニストたち

 さて、ここで朗報です。
 朗報と言っても青識亜論とか表現の自由クラスタのみなさんに対する朗報です。
 というのも、本書の後半になると、上野師匠が「援交」を肯定する発言をし出すのです。
 え? どこが朗報だかわからない?
 要するに上野師匠にとって「援交」は女子高生が自主的に、自律的にやっていることだから好ましいということなのです(念のために言っておきますが「自立」じゃなく「自律」です。自分をコントロールしてるってことですね)。
 援交JKたちはボーイフレンドにはただでやらせている(必ずそうなのかは知りませんが、上野師匠にとってはそうなのです)。つまり「金を取るセックス/取らないセックス」を設定している。それは「家父長制の裏をかく」ことだから素晴らしいのです(もっとも、その一方では「裏をかいているだけで家父長制そのものを全否定していないという意味で、一種のリベフェミだ」とも言っており、もうこうなるとよくわかりませんが)。
 師匠はまた、東電OL殺人事件の被害者も家父長制に挑んだ英雄のごとく称揚します。『女ぎらい』にもやはり同じ被害者をやたら持ち上げる箇所があるのですが、いや、彼女は男を、女であることを求めていた(言ってよければフェミニズムの犠牲者である)ただの哀れな女ではないでしょうか?
 しかしです、これって以前にお伝えした牟田和恵師匠『実践するフェミニズム』の内容と「完全に一致」してはいないでしょうか?
 青識亜論、白饅頭といった「真のオタクの味方」たちが絶賛するこの書においても、「売買春の否定は女性の自己決定の否定だ」、「一律に禁じるのは女性の自己決定を妨げる」とやたらに援交JKに対して肯定的でした。
 そう、同様に援交JKを肯定する上野師匠こそ、性に寛容な、ぼくたちオタクの味方だったのです!!

上野―(前略)援交を実際にやっていた女の子の話を聞いたことがあるんですが、みごとな発言をしてました。男から金を取るのはなぜか。「金を払ってない間は、私はあなたのものではないよ」ということをはっきりさせるためだ、と。
(中略)
上野―配分ですよね。「私はあなたの所有物ではない」ことを思い知らせるために金を取るんだ、と彼女は言うんです。
(中略)
小倉―それなら、援交も別に悪いことではないじゃないですか。
(中略)
上野―援交の女の子は悪くない。けど援交男は悪い。援交そのものは気に入らん。
(231~232p)



 え……?
 ま……まあ、青識亜論や白饅頭が絶賛する牟田師匠の本もあそこまで援交を肯定しながら一方では

セクハラを生み出している背景と売買春とには、通底するものがあるのだ。
(194p)



 と言っているし、まあ、何か知りませんが問を感じてはならんのですよ、きっと。
 結局、宮台師匠の「援交JKage」は、「女子高生のケツに隠れての、大人という権威への投石」という他愛ない、学生運動のしょぼいしょぼい「最終回」でした。
 宮台師匠がそうであるように、当時(というのは「パパ活」などではなく「援交」という言葉の流行った90年代ですが)援交JKを語るフェミニストの表情は、どこまでも欲情に潤みきっていました。
 それはこの「援交」において、「オヤジ」という「買春」の主体がもう、哀れなまでに惨めな生物として描かれるコンセンサスがあったからでしょう。そう、フェミニストたちはJKに自己を投影し、「負のポルノ」を楽しんでいたのです。
 町田ひらく先生の真性ペド漫画が女性に人気があるのもそれと同じ原因ですよね。彼が評価されるきっかけは「幼女が何だか妙に男に対して上から目線で宣いつつ股を開く」という漫画でした。

 一方、小倉師匠はどういうわけかクィア理論に批判的。
 クィアの手法は「パッシング」だからダメなのだそうです(216p)。
 この「パッシング」、「マジョリティに紛れ込む」との意だそうで、トランスがよく言う「パス度(=世間に女に見られる度)」と同じ意味あいかと思います。即ち【Passing】ということですね。性的マイノリティたるもの、マジョリティとうまくつきあっていこうなどと思わず、この異性愛強制社会を変革せよ! というわけです。
 しかし、動画では両師匠が「何故女子大生は革命戦士にならない」と嘆いている、と書きましたが、これこそ、「ホモども、オカマども、私たちのための革命戦士となれ!」と言っているのと変わらないのではないでしょうか。
(不思議なことに、上野師匠はこの小倉師匠の言い分には否定的です。ただ、考えると坂爪真吾師匠がやたらとクィアを叩いていたところを見ると、後に否定派に回ったんじゃ……と邪推もしてしまうのですが)
 さらに小倉師匠、「新・専業志向(「夫は仕事と家事、妻は家事と趣味的仕事」という主婦像だそうです……)」は実現しないと主張し、

小倉―(前略)だから私は、どんどん女性偏差値を上げてリッチな男をゲットせよ、と学生にそそのかしてます。
(234p)



 と言います。この「だから」がつながってないとお思いでしょうが、これは「女に高望みさせて婚期を逃させよう」と言っているのです!
 革命戦士どころではない。「戦線に人間爆弾として投入するのだ」との宣言をいただきました。
 フェミはまさに、悪魔なのです

 ……というわけで、本筋からは逸れましたが、二冊のフェミ本の簡単なレビューを済ませました。
 次回は感動の最終回、「リベラルフェミニズム」の真実がいよいよ明らかになります!

さらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-10-16 18:07:11 | フェミニズム

 さて、新記事です。
 既に動画でも近い主旨のものを挙げていますが、それを補完する内容をこれからしばらく上げていくので、ご愛読いただければ幸いです。

風流間唯人の女災対策的読書・第25回「ラディ/リベフェミ最終解答」


 ぼくは度々、「表現の自由クラスタ」が流した「リベラルフェミニスト」についてのデマを批判してきました。
 彼らは「リベラルフェミニストはポルノなど表現の自由を重視するよいフェミだ」と口を揃えます――いや、それも最近、あまり言わなくなった気がします。ぼくが彼らのウソをしつこく周知させてきたから……ということでは、残念ながらないでしょうが。
 しかしそれは「100%のウソ」とまでは断言できなくとも、かなり事実を恣意的に曲解した、一般的な感覚で言えば「ウソ」としか言いようがないものであり、そればかりかリベフェミというのは原則論として「既に滅んだ」、「非実在フェミ」なのです。
 ともあれ、この件についてはぼくがもう随分以前に決定版とも呼べる記事を書いているので、未読の方はまずはそれを読んでいただきたいところではあります。
 ……が!
 今回、その「決定版」に修正を加える必要が出てきました。
 少々込み入った話なので、順を追って説明していきますので、恐らく三回くらいに渡る記事になりますが、おつきあいください。

怪奇・何だかよくわからない人

 ……さて、きっかけは最近、この件でまたもめてしまったことにあります。
 そのせいで時間のない中、『ザ・フェミニズム』と、『女のからだ』と二冊のフェミ本を読む羽目に陥ったのですが……。
 ただし、まずはその「もめた」ことの中身をご説明しなければなりません。
 また本件、複数人がかかわっているのですが、面倒なのでメインの一人を除いてはA氏、B氏と表現します。そのメインの人物は、名前を出していいのかどうかわかりませんが、「平安和気」。以降この御仁のことは平安氏と呼称することにしますが、ともあれ彼がリベフェミについて語っていたので、ソース(上の記事にもある『女性学辞典』の引用)を挙げたのですが、彼は狂ったようにこちらを罵倒してきました。
 この方、以前からこちらを敵視していたのですが、簡単に説明をしておくと一応、アンチフェミで、青識亜論のことも敵視しています(以前、動画で青識に恣意的な採り挙げられ方をした人物として、紹介したこともありますね)。
 つまり、本来であればこちらの仲間と考えるべき人物であり、以前は友好的なツイのやり取りをしていたのですが、ある時期からこちらを敵視して、罵ってくるようになりました(きっかけもうろ覚えなのですが、確かぼくの発言を見ていきなり「お前は無知だ」と罵倒して来たような……)
 まあこの人、むやみと保守を自称しているのですが、ピル神を称揚するなど、発言からすると非現実的な認知を抱えたリベラル、という印象なんですけどね。

恐怖・わからないレスをする人

 さて、そんなわけでまともな対話にはならなかったのですが、彼の主張は「リベフェミはいまだフェミの主流派だ」というもの。
 いきなり英字のリプを送ってきたので、( ゚Д゚)ポカーンとなりました。

https://twitter.com/heianwaki/status/1431107880606785537

「英語サイトの引用なら、出典を示してくれ」と告げたのですが、反応なし。
 そこへ第三者のA氏から「ウィキの引用では」と言われ、ようやく合点がいったのですが、ならちゃんとそう書けって!
 さて、調べたら確かに同様の文が英語版ウィキの「Liberal feminism」の項にあり、また日本語訳すれば「リベフェミは主流である」と読み取れる箇所もあります。
 が、言うまでもなくウィキとは万人が自由に書き込みできるもの。資料としては紙資料などに比べれば一歩落ちる、というのが常識です。
 事実、かつてウィキ日本語版の「リベラル・フェミニズム」の項においても(100%間違いだとは言えないものの)ミスリードを誘うような書き方がなされていたことは、既に幾度も指摘していますね。
 もっとも、A氏からも反論がありました。「ともあれ、英語圏でこうした記述がある以上、表現の自由クラスタのデマというのはいかがなものか」というもので、これは大変に筋の通った意見です。
 実はぼくも(書名は忘れちゃったんですが)フェミ本で「(海外では)ラディフェミとリベフェミが争っている」との記述を読んだことがあります。
 これは表現の自由クラスタが言って回っていること一致しており、おそらくその「元ネタ」ではないかと想像できる。
 では、いずれにせよリベフェミは海外にはいるんではないか、との疑問があるかもしれませんが、そんなこと言ったって、僻地で絶滅寸前の生き残りのリベフェミが、併合しようとしてくるチェーン店に抗う個人商店くらいのレベルでラディフェミと争っていても、不思議はない。
 そしてフェミを延命させようとしている左派が、少数派のリベフェミを「我々の味方だ」と詐称している、リベラルサークルの姫になりたいフェミが、「リベフェミ」だの「ネオリブ」だの適当な名前を名乗っている、つまりは海外でも日本と近しい状況があるということは、充分に考えられる。
 つまり、「リベフェミは(現存しており)よいフェミ」という主張は「表現の自由クラスタ発の」デマではなくとも、海外の書籍か何かを持って来て、「表現の自由クラスタが日本でも広めた」デマである、といった可能性は充分にあり得るわけです。
 もちろん、これらはあくまで想像であり、裏の取れている話ではありません。
 そういうわけで、先に書いたようにこの件について再調査することになったわけですが……。

怪異!リベフェミの代表

 何より、そこまでリベフェミが主流なのならば、そのリベフェミの具体例は誰なのか。
 この問いに、表現の自由クラスタは何年もかけて答えを出せませんでした*。事実、先のウィキでもやはり過去の人物の名前ばかりが挙げられておりました。
 ところが!
 このフェルマーの定理並みの難問に、何と今回、平安氏は最終解答を出しました。
 エマ・ワトソン
 本当です、この人、真顔で「エマ・ワトソンがリベフェミの代表だ」などと書いていました。

https://twitter.com/heianwaki/status/1431130939237617666

 彼には令和の爆笑王、の名を冠するのがふさわしいでしょう。
 ここで彼についてはおしまいにしてもいいくらいですが――まあ一応、ツッコミを入れておきましょう。
 別に学者でも作家でもなく、フェミについての著作があるわけでもないただの女優が代表を務めるフェミの一派って、それどんだけ実体がないんですか。
 言っとくけど石川優実師匠だって著作(形ばかりのものとは言え……)もあれば、フェミ雑誌の編集をしてもいる。ぶっちゃけ彼女の方がフェミとしての格は上でしょう。
 正直、平安氏が一体どっからこんな珍説を仕入れてきたのかが、判然としない。白饅頭の著作を読んで、自分の中で勝手に解釈しちゃったのかなあ?
 もう、本稿はここで笑い話として終えてもいいんですが……。
(ここはちょっと平安氏をからかいすぎです。彼の名誉を多少なりとも回復したいと望む方は動画をご覧になってください)

* ただし、ストロッセンの名前が唯一、挙がることはありました。ストロッセンについてはぼくも著作を読もう読もうと思いつつなかなか時間が取れないでいるうち、昨今ではその名を聞くこともすっかりなくなってしまいました。
 一応、ストロッセンは「ポルノに擁護的」らしいのですが、以前も採り挙げた牟田和恵師匠の『実践するフェミニズム』によれば、その主張は「(ポルノへの)検閲を実地すれば、女性のための表現も検閲されかねない」というどうでもいいようなもの。この、ポルノを全否定した牟田和恵師匠の著作を表現の自由クラスタの代表とも言うべき青識亜論、白饅頭が絶賛していたことを考えると……。


上野千鶴子とラディフェミ大軍団

 いや、本件、この辺で終わる話だと思っていたのですが、B氏が資料をうpしてくれました。
 それが上にも挙げた『ザ・フェミニズム』。上野千鶴子師匠、小倉千加子師匠という、日本のフェミの二大巨頭と言っていい人物の対談です。
 そこに、「リベフェミが主流」といった一言があったのです。

【悲報】兵頭新児完全敗北【平安大勝利】

 まあ、そう慌てないでください。
 そこで挙げられたページは以下の通りです。

https://twitter.com/porcini16/status/1431149309131509766

 どう思われるでしょうか。
 ここを読む限り小倉師匠は「リベフェミは敗北した」と言っているわけで(上野師匠はそれに反対しているわけですが)、平安氏は「本から自分の好みの字面だけセレクトしてドヤっている」だけです(し、同じ方法論許されるならば、こっちだって「大勝利」なわけです)。
 また、彼女らは「リベフェミが体制側に取り入った」ことに憤っています。これは当たり前の話で、リベフェミの目標は均等法を通すことで達成された。そこに対して彼女らは「うまくやりやがって」と妬んでいるだけではと想像できるのです。
 逆に言えば、リベフェミはそこで目標を達成し、消滅したというのがぼくの指摘です。仮に「リベフェミのC子さん」というのがいたとして、その存在が均等法以降、物理的に消えたわけではないでしょうが、フェミニストとしてはもうやることがない。いや、それでも仮にフェミニストとして活動を続けるとしたら、例えば「ジェンダーフリー」とか、理念としては「ラディフェミ」に近づいて行かざるを得ないわけです。しかし、肩書としては「リベフェミ」を名乗り続けることもありましょう。上野小倉両師匠の憤りを見てもわかる通り、フェミというのは派閥争いの好きな人たちですから、「宗旨替えしました」と別な名を名乗り出すことはしにくいと思います。
 しかし思想としてはもう、消えてしまったという他はない。
 いや、第一、この「日本を代表するフェミ」二人がリベフェミをdisってる時点で「リベフェミがフェミの主流」って、何かおかしいと思うのが普通じゃないでしょうか。
 いずれにせよ本の数ページの、さらに一部分を恣意的に「切り出し」ているだけでは、一応、事典として書かれた書籍をソースにした主張を覆すには全然足りないわけです。
(本書については次回述べますので、気になる方はそちらに飛んでみてください)

よくわからない人・リベフェミ教室

 さて、さらにもう一人キーマンが登場します。
 D氏としておきますが、ぼくと平安氏のやり取りに割って入り、「リベフェミはこれこれで……」と延々自説を述べ始めた方。この方は、完全にフェミ寄りの御仁のようです。
 こっちがそのソースを聞いても答えもせず、独り言のごとくに滂沱のリプをよこしてくるのに対して少々キツく言ったら、何だか拗ねたようなことを言い出しました。それが「これだけ言ってもわからないあなたはジェンダー史に深いかかわりを持った方ではないのでしょう(大意)」というものだったのには参りました。
 そりゃソースを求めても応えず、ただただお題目を唱えてそれを受け容れよじゃあ、ただのカルトでしょう。まあ、フェミだからカルトで正しいんですが――と、そうした主旨のリプを返すとまた「カルト呼ばわりされた」とお冠。
 もっともこの方は「今までの見聞をまとめて書いているので、特定のソースを、と言われても言いにくい」とも言い、また一応、上にもある『女のからだ』をタネ本として挙げてくれたので、最終的にはこちらの質問に答えてはくれたわけです。「ネット論客」としてはかなりまともな部類です。
 今までこの種の「ネット論客」様の99%までは、ソースを出すということを頑なに拒否し続けるタイプの人たちでしたから。もっとも、その1%の挙げてくれた本を読んでみても、別にそのようなことは書いてない……といったことも多いのですが……。

 ――というわけで、前振りの説明だけで終わってしまいました。
 本件のオチについては次回述べますので、どうぞもう少々お待ちください。

ピル神凍結騒動

2021-10-10 19:30:36 | フェミニズム


 目下、『Daily WiLL Online』様で戸定梨香騒動について書かせていただいています。もっとも、この問題には「表現の自由クラスタ」が深くかかわっており、そうなると彼らのおかしさにも言及せざるを得ません。そんなわけで彼らに対しても少々辛辣な記事になりましたし、それは本稿も同様なのですが……。

Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」
続:Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」

 ともあれどうぞ応援、よろしくお願いします!

 さて、当ブログは、元は兵頭新児のプラットフォーム的な立ち位置だったのですが、目下のところはニコブロnoteに主軸が移っている、ただし何かの時のためのバックアップのようなつもりで、更新は続けている……ということは何度か書いているかと思います。
 近年、ニコブロやnoteの方では再録記事が多くなっているのですが、それも以上のような理由から、こちらには反映させていません。
 が、今回の記事は本来、「再録記事に、ちょっとオマケで書き足した短文」です。そんなわけで大変短いものですが、一応、アップしておくことにしました。以上、お含み置きください。
 では、そういうことで……。

*     *     *


 ピル神(本名:ピルとのつきあい方(公式)@ruriko_pillton))が凍結されました。
 何があったのかはわかりませんし、ぼく自身は彼女に否定的なわけで、ことさらにこの件についてモノを申す立場にはおりません。
 しかし、何というか事後の静寂ぶりには不気味なものを感じます。
 togetterでは一応、本件についてのまとめが作られました。

ピルとの付き合い方のるりこさん(ピルとのつきあい方(公式)@ruriko_pillton)が…凍結されてる…!

 しかしこのまとめ、pv数は8798、着けられたコメントは35(2021/10/10現在)。
 彼女の全盛期と呼んでいいであろう、四年前のまとめ、「ネオリブの産声」を見るとpv数56922、コメント221(2021/10/10現在)。
 もちろん単純に比較できることではありませんが、いかにも寂しい様子です。ちょっと前であれば類似のまとめがいくつも作られる騒動になっても不思議のない大事件なのですが、今回、他にまとめられてはいない模様。本当に幾人かを除いて沈黙している、という印象です。
 例えばですが、青識亜論など本件について何も言っていないのでしょうか。これはあくまでまとめにないというだけで、或いは本人は何か言っていたのかもしれませんが。
 そもそも、近年togetterでこの種のまとめが作られること自体がかなり少なくなっている印象があり、或いは、まとめ人が何人か仕事をしなくなったということなのかもしれませんが、いずれにせよこの種の連中(要するに「表現の自由クラスタ」)がかなり力を失っているという気もします。

 ともあれ、ピル神と表現の自由クラスタはずっと、二人三脚で進んできました。
 多摩湖師匠は「フェミニストと名乗ることは止めた」などと言った後も平然とフェミニストとして発言をしていますが、それをとがめた表現の自由クラスタというのを、見たことがありません。
 彼ら彼女らは「フェミニズム」の看板を守ることが唯一の目的であり、「フェミニストを名乗るのを止めた」などと言ったところで、別にフェミニズムをまともに内省し、批判することなど夢にも考えてはいない。単に世間の目を気にして言ってみせただけなのです。そしてそれは表現の自由クラスタも同様でした。

 しかし、そこへ持ってきて本件です。
 いくら何でももう少しみんなで彼女を応援するなり何なりがあってもいいのに、この静けさ。ありていに言ってみんな不人情だと思います。



 さて、こうした流れの原因として、先には表現の自由クラスタ自体の弱体化を挙げましたが、実のところもう一つ、もっと大きな理由があるのではないか……とぼくは想像します。
 つまり、「TERF」の件ですね。
 当初、この業界で「TERF」という言葉が流行った時点では「悪のツイフェミがトランス様の権利を否定しているぞ」との論調が濃厚でした。
 ピル神は単純に、女性側の権利を侵害する者としてトランスを批判し、そして女性の権利を省みず、ただリベラルのヴァーチャルなお題目を掲げることを目的とする表現の自由クラスタはトランス側に立った。
 しかし普通に考えて今のLGBT、トランス側の主張が正しいとは到底思われない。近年の女子スポーツへの侵略ぶりなどから、「さすがにトランスはおかしくね?」という方へと潮目が変わってきた。
(しかし以前より、リベラル側のトランス擁護は無理矢理なものでした。例えば学校の女子トイレにオカマが自由に入れることに、普通の女性は異を感じたりしないのだ、そうでなければならないのだ、とするリベラル君、例えば坂爪真吾の言い分が正しいとは、とうてい思われません)
 表立っては騒ぎになった様子もありませんでしたが、水面下では結構、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されていたんじゃないでしょうか。
 実際、ぼくが『WiLL』様で「Save James」の件を書いた時、表現の自由クラスタはガン無視(匿名用アカウント氏はこの件に腐心し、白饅頭に採り挙げてほしいと進言したのですが、無残に無視されました)、ピル神が珍しく賛同してRTしてくれたのは何とも象徴的です。

9歳の少年を去勢⁉行き過ぎたLGBTはここまで来ている

 ぼくは以前、「ピル神など、ぶっちゃけ非常に古い人で(その意味でリベフェミという自己申告は半分くらい当たっているのかも知れません)、」と評したことがあります。
 ピル神は70年代のウーマンリブの世代の方と思しく、均等法のない当時は「法改正によって男女平等を実現する」とのリベフェミの方法論が意味を持っていた。
 しかし均等法が通って以降も彼女らの満足する結果を得られず、やむなく「だんじょのじぇんだーきはんがいけないのだ」と無理難題を持ち出し、ジェンダーフリーというラディフェミ的思想を唱え出した……というのが近年のフェミの動向であり、言わばオカマを自軍の兵器として抱え込もうという発想もこれに端を発しているわけです。
 表現の自由クラスタは「過去の世界」に戻ってまで、自分たちにとって都合のいいフェミを探してきたが、しかしそれはやはり、自分たちの乗っかっているパラダイムにはそぐわないものであった。
 そこで、両者に齟齬が生じ始めた。
 いずれにせよぼく自身はピル神を評価するものではないけれども、表現の自由クラスタの身勝手さ、冷酷さには戦慄を覚えずにはいられません。
 今の彼らの脳内では、このようなフレーズが響き渡っているのではないでしょうか。


風流間唯人の女災対策的読書・第22回「これからのアンチフェミへ」

2021-06-26 19:32:49 | フェミニズム
 動画、第二十一回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第22回「これからのアンチフェミへ」


 アンチフェミのこれからについて占っています。
 どうぞよろしく!
 また、当ブログ、noteやニコブロの補完的な立ち位置でして、それらで再録記事で更新しているものについてはこちらに反映しなくていいやと言うことで、あまり更新しなくなっております(要するにnoteなどにおいてあまり新規記事を書かなくなっています)。
 それも『Daily WiLL Online』様での執筆の方にリソースを費やしているからでして、前回以降も以下のような記事を書かせていただきました。

「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち
「反・弱者男性論」に見るフェミニストのご都合主義
続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞
40年以上進歩していなかった!リベラルの「自分勝手な正義」


 以上、弱者男性問題、伊是名夏子師匠の炎上に絡めての障害者問題に切り込んでおります。
 未見の方はどうぞ、ご覧ください!

「双子の症例」始末記

2020-09-12 19:40:52 | フェミニズム

※この記事は、およそ12分で読めます※

 皆さん、先週うpした動画はご覧いただけたでしょうか。
 今回はその動画の取りこぼしネタ。
 よって、未見の方は上の動画をご覧いただくことを強く推奨します。

【反フェミはこれ一本でおk!】風流間唯人の女災対策的読書・第12回「フェミニストの母親が、息子のペニスを切除…!?」【ゆっくり解説】


・大丈夫か、この著者

 さて、動画ではジョン・マネー本人よりも、マネーが水に落ちたとたん、彼を容赦なく棒で殴打するフェミニストたちの振る舞いの方が不快だ、と述べました。
 フェミニストたちは明らかにある一時期まで、マネーをカリスマとして崇めていたのに、権威が失墜するや、手のひらを盛大に返す。彼女らには自らの言動に責任を負うという概念が、端から欠落しており、彼女らのドリンクバーには自分たちの吐いたツバが常にフルチャージされています
 マネー本人だって立派なフェミニストだったわけで、彼女らの業界は使えなくなった者はすぐに処刑するという、組織としては一番やっちゃいけない体質を本来より持っている、特撮番組の悪の組織のような存在だ、ということがこれでおわかりになるかと思います。
 そう考えると、何だか同情したくもなってきますね。
 動画中では藤本由香里師匠、千田有紀師匠のご意見をご紹介しました。
 藤本師匠は著書『私の居場所はどこにあるの?』において、持論がマネーに準拠している旨を述べた注釈を、文庫にする段階でばっさりカットしてしまった、文庫が出る頃には既にマネーの説が力を失っていたからであろうが、あまりに不誠実だ、といった指摘です。
 もっともこの指摘は以前からしていたのですが、今回文庫版を読み返していて、別の章における注釈で、一応の補完がなされていることに気づきました*1
 男の方がジェンダーアイデンティティや性指向が不安定である、と述べた文章の注釈としてジョン・マネーの著作、『性の署名』の名を挙げている……ところまではハードカバー版も同じなのですが、文庫版ではそれに加え、『ブレンダと呼ばれた少年』の名を挙げ、マネーの説が批判にさらされていることも記し、以下のように続けています。

なお、二〇〇五年に出た同書の扶桑社版に付加された八木秀次による解説――この双子の症例は逆に、「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠とする説――は、『週刊金曜日』二〇〇六年九月二二日号掲載のコラピントへのインタビューで、著者自身により「自分の意図とは違う」と否定されている。
(283p)


 込み入った経緯があるので、説明が必要でしょう。
 まず、この『ブレンダ――』は最初に無名舎という会社から出ていたのですが、すぐに絶版になっています。
 で、ゼロ年代のジェンダーフリーに対する保守派の反撃(フェミニストたちが「バックラッシュ」と呼ぶ一連の流れです)の一環として、本書の再販がなされた。それが上に書かれている扶桑社版であり、保守の論者である八木氏がそれに解説を書いた。
 上の文章はその解説が、本書の意図を歪めたものだ、との主張なのです。
 しかしそうした経緯は置くとして、まず、著者であるコラピント自身が自著を、双子の症例を「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠であると主張したものではない、と言っているというのは本当でしょうか。
 この双子の症例だけで全てがわかるわけではないでしょうが、少なくとも本件によって、「性自認(=自分は男だ/女だという、根幹のアイデンティティ)」が後天的である、という説が極めて大きく揺らいだことは、認めざるを得ないはずです。
 ともあれ件の『週刊金曜日』のインタビュー記事に当たってみましょう。
 見ると記事は小山エミ師匠によるもの(爆笑)。
 この方、「オカマは女湯に入る権利があるのだ」と力説し、ぼくに批判されたとたん、本当に数分後に「そんなことは言っていない」などと頑迷に言い出した方です。全て、ツイッター上の記録として残っているのに……*2
 ともあれ師匠の記事、「悲劇の意味をすり替えたジェンダー叩き勢力」を見てみると、確かにコラピントは

 かれらがわたしの本の趣旨(原文ママ)や意義を歪めて自らの政治的アジェンダを推し進めようとしているのにはうんざりしています。
(23p)


 と語っています。
 ちなみに「かれら」というのは上にも名前の挙がった八木氏を含めた、保守寄りの人々、彼ら彼女らの用語で言うところの「バックラッシュ勢力」ということになります。
 しかし、見る限り「本の主旨や意義を歪め」ることで「自らの政治的アジェンダを推し進めようとしている」のはフェミニストではないでしょうか。
 もっとも、コラピントは日本語が読めないため、八木氏の「解説」をそのまま読んではいません。小山師匠や、コラピント自身の友人から説明があったというので、その時に「主旨や意義を歪め」た解説をされたのかもしれません。
 事実、小山師匠はこのインタビューにおいても八木氏を「南京大虐殺や慰安婦を否定する人物だ」と説明し、コラピントはそれに対し、

 それは本当に困ったことです。はっきり言って、もし予めそのようなおかしな出版社であると分かっていれば、日本版を出してはいなかったでしょう。
(23p)


 おいおい、こっちもインチキがバレたヤツじゃんw
 加えて、扶桑社がおかしな出版社扱いです。
『SPA!』とか、この人らの関係者もお世話になってそうですが。
 驚くなかれ、コラピントは続けて、以下のようなことまで言っています。


出版エージェントに連絡して、その出版社から版権を引き上げられないか調べてもらっているところです。
(23p)


 他にもコラピントは「本書を出したせいで(本国でも)保守派の集まりに呼ばれて怖かった」などと述べており、いずれにせよこのインタビュー記事自体、「ネトウヨムカつく」と言いあっているだけのもの。まあ、結論を言えばコラピントもリベラルであり、そのために小山師匠と馬があった、いうことなのでしょう。
 しかし彼ら彼女らが、いかに保守派に憎しみを抱こうと、本に書かれた内容の示唆するものに、変わりはありません。
 そもそもこの扶桑社版、本文はおそらく無名舎版と変わりないはずだし(そこを勝手に改稿し、それをコラピントが知らされないというのも考えにくい話です)、解説だってまあ、出版前に予め読んでいそうなもの。日本語が読めないにせよ、説明は受けるはずで、上にある友人による解説というのはおそらくその時のものではないでしょうか。
 コラピントもどうしても不満があるのであれば、その時にその旨を言えたはずなのです。
 上の「版権を引き上げる」というのが仮に実現していたら、悪質な忠言で、しかも解説の内容を確認しておくとの義務を怠ったという自分側の落ち度を省みず、しかも大手出版社相手の契約を翻すことになるわけで、結構な問題になっていた気もします。
 このインタビュー記事の中に、八木氏の解説が本書の主旨のどこを捻じ曲げただのといった具体的な指摘は、ありません。当然、コラピントが「双子の症例は「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠にはならない」などと主張する箇所も、ありません
 見ればマネーの理論が破綻した下りについての解説すらなく(そもそもマネーという名前自体が一切出てこない!)、ここまでバイアスに満ちた記事を書かれるといっそ、清々しくすらあります。

*1「ちゃんと言及していたのを見落とした兵頭が悪い!」とのご批判もありましょうが(それはその通りですが)、そもそも最初にマネーについて言及した注釈をばっさりカットし、マネーと関連性の低い話題についての注釈で、こっそり言い訳めいた補足をすること自体、藤本師匠が逃げ腰になっていることの表れではないかと、ぼくには感じられます。
*2 驚いたことに師匠、その経緯をまとめられても「兵頭は自分の失態を自分でまとめている」と笑っていました。どうも全て、天然の振る舞いのようなのですが、当然、そうした人の著述にどれだけ信頼がおけるかは、お察しです。
「オカマ」は女湯には入れるのか?
「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ


・性自認と性役割の違い

 このインタビューを持ち出し、反ジェンフリ派が間違っていると証明できたかのように言うこと自体、卑劣な詐術というしかありませんが、何、種明かしをしてしまえば他愛のないことです。
 藤本師匠はマネーの失敗を「「男らしさ・女らしさ」は生得的なものであることの証拠」とはならないのだ、としているのですが、これは文章としては非常に、正しい(もちろん厳密には、師匠はコラピントがそう言っているのだと書いているのだから、いずれにせよそこは嘘なのですが)。
 というのもマネーの失敗は「性自認」が後天的であることを否定はしたけれど、「男らしさ・女らしさ」というもっと大きな枠組みが後天的に学習されることもある、ということを全否定するものではないからです。
 当たり前です。「俺」という一人称を使うのは「男らしい」けれども、アメリカ人が「俺」と言わないのは、その言葉が生後学習されるものだからです。
 しかし逆に言うのであれば、(肉体が)男として生まれた以上、その時点で性自認も、あらゆる「男らしさ」も揺るぎなく備わっている……そんなことを考える人間は、どれくらいいるのでしょう。いや、保守派はそう考えているに決まっているのだ、というのがフェミニストたちの信仰なのでしょうが、今時そんな人物は例外的なのではないでしょうか。そもそも「男らしさ・女らしさ」という概念はそんなふうに言えるほどに、既に現代においては明瞭なものでは(誰かさんたちのおかげで)なくなっています*3
 しかし、性自認は生得的と思しいし、何でもかんでもジェンダー規範を悪しきものと否定するのは無理がある。それが「ジェンダーフリー」への批判だったはずです。
 この「バックラッシュ」の盛んだった時期、フェミニストたちは保守派の「ジェンダーフリー」批判への再反論を意図した『バックラッシュ』という、そのまんまなタイトルの本を出しました*4
 その帯には「男女平等でどこが悪い!」と大書されていましたが、保守派は「男女平等はけしからん」などとは言っていなかったはず。ただ、「ジェンダーフリー」と「男女平等」は違うと言っていただけでしょう。
 こうした論理のすり替えにより、ともかく「保守派ガーーーー!!!」と繰り返すというのがこの当時のフェミニストの戦略であり、上のインタビュー記事だったのです。
 もっとも、この「男らしさ・女らしさ」、ムツカしい言葉に言い換えるならば「性役割」とすべきでしょうか、それと「性自認」とを混同した議論は、保守派の論者にも時折見られたものです。
 ただ、だからといって姑息な詐術で自分たちのしてきた主張を過小評価し、論敵が間違ったことを言っているかのように見せるというやり方が正当化されるわけではないことは、言うまでもありません。

*3 このインタビュー記事の小見出しには「「男らしさ」「女らしさ」の復活をもくろむ八木秀次をはじめとする右派勢力。」とあり、笑ってしまいます。彼女らにとっては男らしさ、女らしさは絶対悪であることは当然として、「もう、殲滅したはずのもの」みたいですね。
*4 実は『週刊金曜日』のインタビュー記事にも、小山師匠の「くわしくは『バックラッシュ』に書いた云々」の記述があります。
 これについてもぼくは随分前に書いているので、そちらをご参照ください。
バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?(その2)
及びこれに続く三つの記事


・ジェンダーフリーと男女平等の違い

 こうしたやり方は千田有紀師匠も全く同じで、彼女は『女性学/男性学』の中で再三デービット(ブレンダの、男性として生きることを決意した後の、改名後の名前)のインタビューを引用し、彼が「男女平等に同意しているぞ」とそれらしい箇所を引用してはガッツポーズを取っています。
 いや、だから「男女平等」と「ジェンダーフリー」は関係ないんだってば。
 確かにデービットは「女性として生きた期間があったことで、女性の苦労がわかった」といった主旨のことを語ってはいます。しかし、そりゃ、こういう立場になったらいろんな連中からうるさくされ、「俺は男女平等に反対の立場を取っているわけではない」くらいのことは言わざるを得ないでしょう。
 経緯が少々ややこしいですが、デービットは当初はブルースと命名され、女の子となってからはブレンダと呼ばれていました。
 このデービットという名前自体、本人が元のブルースという名を「オタクっぽい」ということで嫌い、「腰の座った男らしさ」を感じさせる響きを持つということで、聖書の英雄ダビデから取ったものなのです。「オタクっぽい」という表現の正確なニュアンスを掴むのは難しいですが、やはり彼はマッチョな男らしさを好んでいたのです。
 千田師匠は『ブレンダ――』について、

(ただしこの本自体は、原題が『自然が彼を作ったように』というものであり、生物学的決定論を支持するために書かれています。しかしわたしには、作者の意図を越えて、いかに「自然」を押しつけることが、暴力的であるのかというメッセージを読み取りました)
(101p)


 などと評しています。
 あれあれ、結論部分(フェミは悪くない、ジェンダーフリーは正しい)は変わらないのに、藤本師匠とは本書の評価が正反対ですね。結局、この時期は何が何でも自分たちを正当化するために、みなさんアタフタと結論ありきの詭弁を弄していた……というのが正しい評価ではないでしょうか。
 本の評価そのものは、千田師匠のものが正しいように思われますが、それ以前の問題として、師匠は作者の意図を越えたことを読み取っちゃってるんですから、これはもう「無敵」としか。問題はフェミニストはそのほぼ全員が、ほぼ全ての場合に相手の意図を越えたメッセージを読み取り続けていることなのですが……。

・おなじみ、ポストモダン忍術

 千田師匠のもう一つの言い分は、「マネーのロジックは既に古びたものだ」というもの。これについても以前、採り挙げたので、詳しくはそちらをご覧いただきたいのですが*5、要はバトラーなどの言う「ジェンダーはセックスに先行する」というロジック。
 実は小山エミ師匠の議論も結局はここに収束していくものであり(千田師匠がバトラーを解説している文章を引用していたりします)、言わば「近年のフェミの持ちネタはこっちであり、マネーは既にオワコン」ということなのですが、何度読んでもよく理解できないもの。
 ここではよく「ネコがネコなのは、たまたまであり、ネコという呼び名と生物としてのネコには何ら関係がない(だって英語ではキャットなのだし)」といった比喩が使われますが、そんなこと言ったって、肉を食うとかにゃあと泣くといった「ネコらしさ」は不変なのだから、詭弁と呼ぶにもお粗末な物言いです(英語圏ではネコの鳴き声は【meow】と表現しますが、まさに言語表記に先行する、「ネコの鳴き声」という根源的なものは、世界で不変なのです)。ポストモダン関連の連中の主張って、全てこのレベルで、どこまでマジメなのかなあ、という感じなんですよね。
 ともあれ、ポストモダンとジェンダー論がここで邂逅するというのも、何というか、ユダヤ陰謀論者が「ユダヤのバックには宇宙人がいるのだ」と言い出す様を見るようで、なかなか趣深いのではないでしょうか。

*5 夏休み千田有紀祭り(第三幕:スーパーゲンロンデンパ2 希望の学説と絶望の方向性)