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兵頭新児の女災対策的読書

「女災」とは「女性災害」の略、女性がそのジェンダーを濫用することで男性が被る厄災を指します。

2022年 フェミと強いつながりがあるキーワード10!

2023-01-14 18:30:26 | フェミニズム

 どうもみなさま、明けましておめでとうございます。
 少々ご挨拶が遅れまして、今年もいよいよ後11ヶ月と十七日を残すのみとなってしまいました。みなさん、年賀状のご用意をお忘れなく。
 ……などと毎年恒例のギャグを書いてはみたものの、本当に時間の流れの早さに参ってしまいます。だってアナタ、「サイゼで喜ぶ彼女」騒動が起こったのって去年の二月ですよ。もう数年前のできごとって感じでしょ。
 ともあれ、年を取れば取るほど時は早く過ぎていくものですが……今回言いたいのはそうした一般論ではありません。
 毎回、ツイ世論など無視して好き勝手なテーマを採り挙げているだけの当note、年に一回だけは時事ネタにいっちょ噛みしよう、という企画ですが、今回に限っては一年を振り返ることで、「思えば遠くへ来たもんだ」という感慨をお感じにになるのでは……と思います。
 或いは2022年は、人類史の中の分岐点として記録されるのでは……とそんな気すらしています。まあ、何をもってそう考えるのかについてはみなさんも見当がついていることでしょうが、そこはとぼけたまま、見ていくことにしましょう。

・キーワード1:ジェンダークレーマー

 はい、「まなざし村」、「ツイフェミ」に続き、表現の自由クラスタが市井の弱者女性に全責任をおっ被せ、プロのフェミを延命させるためだけに捏造した、新たな用語の誕生です!
 ……などと書く間もなく、この言葉、何だかすっかり懐かしくなってしまいましたね。だってもう、ここ半年ほど聞いてない気がしますし。
 ちょっと気になって調べてみたのですが、この言葉、神崎ゆき師匠によれば天路めあという御仁の造語であるとのこと。提唱したと思しいブログ(「魔法少女の呼称戦略」)は去年の二月一日に書かれているのですが、そこでは以下のようにあります。

     でも自分たちが批判したいのはフェミニズムではない。

     フェミニズムを批判する意図はないと示すためにツイフェミ、エセフェミ、迷惑フェミ、害悪フェミ、キャンセルフェミ、自称フェミニスト……などなどの言葉が生まれている。

     表現の自由を訴える人やアンチフェミと呼ばれる多くの方は、フェミニストへの攻撃と誤解されるのはまっぴらごめんなわけです。


 はい、フェミニズムを守りたくて仕方ないので、尻尾に貼りつけて切り離すレッテルとしてこの用語を作りましたとはっきり明言されています。
 いずれにせよ表現の自由クラスタは今までずっとそうしたレッテルを偽造してきました。「ツイフェミ」は用語として定着したんだから、わざわざ新たな言葉を作る理由はないのですが、まあ、愛おしいフェミ様のためにも「フェミ」を冠さない言葉を捏造する必要があったのでしょう。
 もちろん、ぼくはこの言葉をずっと批判してきましたし、表現の自由クラスタの不誠実さに腹も立てたのですが、しかし繰り返す通り、既に死語、「遠い」言葉になってしまいましたね。


・キーワード2:『月曜日のたわわ』炎上

 国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議したのは去年の四月です。
 しかし……これまた今のぼくには「遠い」気がしてしまいます。
 もちろん、巨乳の女子高生が主人公というだけで、(描画法としては胸が強調されているとは言え)ヌードが描かれているわけですらない広告に噛みつくフェミニストたち(あ、国連ですよ、ツイフェミじゃなく)の狭量さには賛成できません。
 また去年の一月には『おねがいマイメロディ』の名台詞、「女の敵は、いつだって女なのよ」を冠した商品が、発売中止に追い込まれるという事件もありました。自分たちのことを批判された、と正しく主旨を理解したフェミニストたちが怒り狂ったためです。後者の事件については「フェミはオタクばかりを攻撃する」という物言いが必ずしも正しくないことを示しています。アニメとは言え、さすがに萌えキャラでもないし、また性的要素が批判されたわけではないのですから。
 ただいずれにせよ、これら事件が何故「遠い」ものと感じられるかと言えば、この種の「フェミが表現に噛みつく」→「表現の自由クラスタが表現の自由を毀損するツイフェミは自称フェミだと泣きわめく」という流れが既にある意味、「クラシックケース」と化しつつあると感じるからなのです。


・キーワード3:オープンレター

 はい、2022年前半の一番大きなトピックスはこれでしょう。
 ぼくも本件については『WiLL Online』様で採り挙げさせていただきました。


"オープンレター問題"考:「常に被害者でいたい」というフェミの本質【兵頭新児】
続"オープンレター問題 考" :女性への「批判」すらもはや許されないのか【兵頭新児】
「オープンレター」問題とは何だったのか~フェミニズム=「強権体質」の象徴的事象か【兵頭新児】

 本件もやはり既に「遠い」ものに感じられますが、それは先に挙げた例とはまたちょっと事情が異なり、被害者である呉座勇一氏が「折れてしまった」ことがその一因ではないかとも思えます。
 氏のブログ、「ジェンダー・フェミニズムに関するカウンセリングにつきまして」を見ると、日文研から受けた処分は不当と考えているようですが、このカウンセリングを受けたことを喜び、記事を以下のように締めています。

    ネット上では一連の訴訟を「ジェンダー・フェミニズムとの闘い」とみなす言説が散見されますが、それは誤解であり、私の本意ではないことを申し添えておきます。

 
 つまり、本件をそうした文脈で取り扱われることに、呉座氏自身が異を唱えてしまったのです。
 呉座氏を責めることはできませんし、「洗脳されたのだ」と思いたくもないし、また裏があるのだと決め込むこともできませんが、率直に言って残念な話です。


・キーワード4:青識亜論炎上

 2022年前半のトピックスとなると、本件も忘れるわけにはいかないでしょう。
 最低限の説明は以下の動画を。

 青識亜論炎上#shorts

 さて、そんなこんなで青識師匠とぼくとの距離も少々「遠い」ものになってしまった気がします。
 いえ、ぼくがTwitterアカウントを凍結され、新垢を作った時、師匠がフォローしてくれ、ホントはちょっと距離が縮まっているのですが(この辺のフランクさには、頭が下がるのですが)、ただ師匠の「アンチフェミ」としての影響力は、残念ながらかなり減じていると言わねばならないのではないでしょうか。
 繰り返す通り、青識師匠は牟田和恵師匠のポルノ否定の書を全力で称揚していました。仮に青識師匠が「表現の自由」を守りたいと本当に考えていたとしても、フェミニズムの本丸の目的である「既存のセクシュアリティの完全なリセット」という所業については賛同しているとしか、思えない。そんなの悪い宇宙人が「我々は殺人は冒さない、しかし地球は破壊する」と言って地球だけを破壊して、人類を破壊された地球の上に放り出すようなものなんですが。


・キーワード5:松浦大悟

 誰、と思う人もいそうですね。
 本件もまた、「遠い」ものになってしまったことも、そう感じる一因でありましょう。
 一応最低限の説明をしておきますと、先の参院選で「オタクの味方」として担がれていた人です。
 師匠は同性愛者の保守議員であり、著書『LGBTの不都合な真実』ではLGBT運動の暴走を腐す、非常に頷ける指摘が多々なされておりました。
 しかし同時に同書ではNAMBLAを、(その目的が子供とのセックスの合法化であるということを伏せたまま)称揚するという不誠実で姑息なことがなされてもいるのです。
 松浦師匠を挙げたのはあくまで代表者ということで、柴田英里師匠の著作でも同様なことがなされていることもまた、ご報告した通り。また、青識亜論師匠や白饅頭師匠も何だかミョーなペドファイル擁護を続けていたことも、かねてより指摘していますね。
 近年、LGBTはいよいよ暴走するようになり、子供への接近が著しいこともまた、ご報告させていただいている通りです。つまり、そこには仮にペドファイル的欲望がないとしても、「子供の性的自己決定権」を容認するという方向性が、必然的に生じる。
 表現の自由クラスタのバックである左派がLGBTの「躍進」を見て彼らに擦り寄りつつあるのではないか……というのがぼくの想像です。
 松浦師匠もまた、頷けるLGBT批判をしている一方で、その「ペド擁護」的な部分だけは「ご相伴に与りたい」と考えているのでは……。
 さすがに陰謀論だろ、と言いたい方には、今までのぼくの言説がことに近年、次々と「的中」しつつある(ぼくの主観では周囲の人がやっと気づいただけなのですが)ことを鑑みてもらいたいところです。
 ちなみに、上に挙げた人々について、詳しくは以下を。

 踊れペドペド!|兵頭新児|note


・キーワード6:ブリジット女性化

 これについてはブログでも、『WiLL Online』様の記事でも書きました。

今は亡き遙かなる男の娘へ
LGBT・ポリコレ勢が名作ゲームの世界観を破壊【兵頭新児】

「男の娘」の元祖とも言えるキャラ、ブリジットが久し振りに復活。しかしあくまで「女の子のように可愛らしい男の子」であったブリジットが新作では自身を「女の子」だと称し、オタク界に衝撃が走りました。
 この話題については特に付け加えることもないのですが、本件でオタク界、表現の自由クラスタ界の有力者が誰一人として異を唱えないことには、大きく失望させられました。誰もがLGBT様の御聖断に嬉し涙を振り飛ばしながら追従(し、いつもの通り、オタクを見下してのマウントを)するのみ。
 いよいよ表現の自由クラスタが表現を守るのに一切寄与しないことが、明らかになってきたのではないでしょうか。


・キーワード7:BL問題

 2022年は表現の自由クラスタと腐女子の間にある亀裂もまた、顕在化しました。
 BLの規制がなされようとして、腐女子側が「どうした表現の自由クラスタ、BLを守れ、それがお前らの好む表現も守るということだ!」とぬけぬけと言い出した、ということがあったようです。
 表現の自由クラスタ内では「腐女子≒フェミ」であり、敵だとでもいった論調が沸き上がることになりました。


BL大戦|兵頭新児|note

 まあ、既に語り尽くしているのですが、ぼくは基本、腐女子の味方をすべきだと思います。問題の中心になった星崎レオ師匠を含め、彼女らは(漫画家である師匠含め、ことさらにフェミ的言説、活動を行ってきた人は少数だろうとの意味で)別にフェミニストではないし、彼女らを「うっすらフェミ」として叩くのは「ツイフェミ」叩き同様、プロのフェミニストを延命する結果しか生まない。
 また、BLをLGBTへの差別だとして批判するのも、絶対に悪手としか言いようがない。そうなるとレズ漫画もまたレズへの差別だと認めないわけにはいかないし、LGBT運動家に媚びを売りたい表現の自由クラスタに益することにもなる。
 しかしまあ、ともあれ、本件をきっかけに広がった「亀裂」は腐女子をLGBTと同様の聖者として崇めたいという「表現の自由クラスタのトップ」と、ナマの腐女子と関わり、いい加減、彼女らの身勝手さに嫌気の差していた「市井の表現の自由クラスタ」との間に入ったものである、ということは言えましょう。


・キーワード8:国際男性デー

 さて、11月19日は「国際男性デー」でした。
 ぼくとしては(誰にどのような主旨で作られたかなど知らないのですが)どうせフェミ関連の記念日だろうということで興味もありませんでした。
 が、去年はこれを機にと、「#MenWithWomen」とかいうプロジェクトが持ち上がりました。

 要するに「男性学」と全く同じ、「女性様の奴隷の心得」ですね。
 何せ発案者がネットの人気者、勝部元気師匠だとあって、ツイッター界隈ではブーイングの嵐が巻き起こりました。
 そして本件には時々言う、「男女平等」という言葉への、世代間による温度差の違いが現れているように、ぼくには思われました。ある世代より上は「この世は男尊女卑である」とのコンセンサスを(もちろん、それは虚偽なのですが)何とはなしに常識としてプリインストールされている。言わば「男女平等」とは「男は女に借金があるので、返そう」という意味に他ならない。
 ところが若い人にしてみればこの「借金」という感覚がないものだから、「男女平等」と言われたら単に「おこづかいを男の子と女の子で平等に分ける」場面しか想像できない(そのおこづかいを女の子への返済に当てる、という発想がない)。
 彼らがフェミに対して抱く嫌悪感はそれ故だし、この「男性デーを気にした企画」に対する反発の根源も、そこにありましょう。
 本件は青識亜論師匠も批判していた記憶はありますが、何にせよ本件へ向けられたブーイングは先に述べた年長者であろう「表現の自由クラスタのトップ」と若い「市井の表現の自由クラスタ」との間に入った「亀裂」とおなじ性質を持っているように思えるのです。


・キーワード9:AV新法

 本件について、ぼくよりも今これをお読みの皆さんの方が詳しいかと思うのですが……。
 本件、裏では仁藤夢乃師匠やその関係者がかなり暗躍していたことが囁かれていますよね。成立時の有識者会議に出席したのがほとんど彼女の関連団体で、暇空茜氏は「AV新法はColaboが作った」とまで表現していたと思います。
 AV新法については、表現の自由クラスタの中でもボス格と言っていいおぎの稔が反対してたりもしましたが、果たして根源的な対処ができるか、いささか怪しいのではないでしょうか。
 というのも、結局、本件は「キーワード10」の「前振り」に他ならなかったからで――。


・キーワード10:Colabo炎上

 はい、四コマ漫画で言うところの四コマ目です。
 ちなみに「キーワード9」が三コマ目ですね。
 まあ、去年の10大ニュースといくら言ってもこのColaboの件に全てが持ってかれることはもう、衆目の一致するところでしょう。普通の10大ニュースの「安倍さん暗殺」くらいのインパクトが、本件にはありました。
 去年のキーワード、今までその多くを「表現の自由クラスタの凋落」「それによるネット世論の変容」と結びつけて語ってきました。まあ、似たことはここ数年ずっと言ってはいたのですが、しかしそれにしても2022年はそれがいよいよ決定的になった一年であったとは言えないでしょうか。
 青識亜論師匠は本件についても「対話を持とう云々」と何だか及び腰。
 表現の自由クラスタについて、ぼくは(ここまで文句をつけている割に)内部事情などには詳しい情報を持ちません。しかしこの種の一般社団法人の類いは左派の人たちのたまり場ですから、腹を探られたくないのかなあとの勘繰りも、したくなるというもの。まあ、セブンナイツに近い連中からの嫌がらせ、ぼくも受けましたしね。
 暇空茜氏はかねてより青識師匠を批判しており、また手嶋海嶺師匠についても、その目的をペド権利改善と児童売春合法化だと批判しています。
 実のところ暇空氏の青識批判動画はぼくとしてはちょっとなあという印象で(何か「キモいキモい」と罵倒しているだけという感)また手嶋師匠がどのような主張をしているのかを詳しく知らないのですが、いずれにせよ、スタンスがぼくに近しい人だということは言えましょう。
 今までの左派の政治運動に紐づけられた連中とは違い、個人として一般人の中から出てきての活躍ぶりは、オタク界のトランプという感じがしないでもありません。
 暇空氏の住民監査請求は先月29日に通り、監査委員もColabo側の不当性を認めた形です。都はひっくり返るような騒ぎになることでしょう。
 今からあまりに大きな期待をすべきではないかも知れませんが、これを機に男女共同参画局の年間十兆近い予算にもメスが入って欲しいし、そうなるとフェミ業界もほぼ壊滅的打撃を受けることは確実でしょう。
 そうした「ノアの大洪水」の過ぎ去った後、業界に表現の自由クラスタの姿は残っているのか。
 来年からアンチフェミ業界も、全く違った顔を見せるようになるのではないでしょうか――。


欲望会議――リベラルたちの、「超」ペド萌え宣言なのだ

2022-10-15 18:34:46 | フェミニズム

 

『WiLL Online』様でブリジット事件について、記事が掲載されています。
 目下人気ランキング四位! より以上の応援を、よろしくお願いします。

 ――さて、飽きもせず、柴田英里師匠の「ペド萌え」発言チェックを続けます。
 先にご紹介した『現代思想』の柴田師匠の論文において本書の名が挙がっていたので、忙しい中読んだんですが……まあ、何と言いますか、正直「虚無」という感じの読後感。

 しかしまあ、高いカネを払って尼で古書を買ったので今回、強引にネタにさせていただくことにしたというわけです。
 せっかくなので軽く全体をレビューしていますが、ペド関連は「ペドとオタクは使いようなのだの巻」にまとめられています。

・定番鼎談だコニャニャチワの巻

 簡単に構成をご説明しますと本書、二村ヒトシ師匠、千葉雅也師匠、そして柴田師匠の三人の鼎談をまとめたものであり、この二村師匠というのは本業AV監督で、『全てはモテるためである』という著作のある人。実のところぼくも同書を読んだ時は悪くないと思ったのですが、近年、妙に上野千鶴子師匠と組むようになり、その辺で「あ……(察し)」となった人物です。
 続く千葉師匠は同性愛者の哲学者。
 つまり「セクマイの中で男が一人♪」という状況下(当たり前の話ですが、女性はセクシャルマイノリティです)、二村師匠が「私はヘテロセクシャル男性という名の抑圧者として生まれてきました、ごめんちゃ~~い!」とひたすら繰り返すというこの種の座談でお約束の構成で、もうこの時点で読む気が激減。
 このメンツを見ればわかるように基本、本書は「ツイフェミ」のポルノ批判には否定的なのですが、二村師匠は「とはいえツイフェミの言い分もわかる(悪いのはヘテロセクシャル男性なのだから)」との土下座外交をすることで本書の左派寄りのスタンスを保つ役割を果たす(フェミを全否定しないための安全装置として機能する)と共に、返す刀で「女が男をレイプするAV、女装AVを撮ってま~ちゅ」とドヤるといった立ち位置。
 例えば「普通のセックス?」という節タイトルでは薄っぺらな「変態礼賛」がなされ、そこで二村師匠は、「男性相手にタチになることも可能な女性がエロいのは、そこなんですよね。(167p)」などと発言しドヤ顔(ちなみに「タチ」というのは能動的な側の意です)。
 左派寄りの人たちは「多様性」を尊重すると自称し、ホモや二村師匠の言う「能動的な女」など「変態」を称揚する傾向にありますが、これには「異端」を「正統」にぶつけることで「正統」に揺さぶりをかけるという明確な政治意図があるわけです。
 しかしこれって結局「女性の社会進出」みたいのといっしょで「多様」と称しつつ自分の中で「あるべき姿」が想定されているわけなんですね。となると「一般的なAV」は結局、唾棄すべきモノとのリクツになってしまう。とにかくこの種の人たちの言い分は常にこれで、一体全体どうしてここまで考えナシでおれるのかが、ぼくにはさっぱりわかりません。
 つまり三人いずれもが「性の異端者」という自分たちの立ち置値から「常識的な人々」を嘲笑するという、もう三十年前に既に陳腐であった「サブカル芸」が本書では飽きもせずに繰り返されているわけです。

・フェミはリベラル製がいいのだの巻

 先にも述べたように本書のテーマの一つは「ツイフェミ批判」。
 本書では「ツイフェミは(ポルノに対し)傷ついたと繰り返しつつ、発情しているのだ」といった指摘が執拗に繰り返されます。
 事実第一章のタイトルがずばり「傷つきという快楽」で、ツイフェミが(と明言はしていないのですが)被害者感情を募らせるのを、実は快楽を感じているのだと指摘。
 話者たちはそこまではっきりとは言っていないのですが、これは要するにフェミニストが「ポルノに傷ついた」という物語によって性の主体たろうとしている(ポルノに出てくるおねーちゃんに自己同一化して、自分がセクシーないい女だと勘違いしている)という指摘ですね。
 同様の指摘はぼくも再三してきたことですし、近年も「負の性欲」といった概念で人口に膾炙するようになった考えです。以上のように、本書の中には頷ける箇所も多くあるのですが、いつも言っているように、「ならば、フェミニズムそのものが根本から間違っていたんではないか」との結論から、師匠たちは頑なに目を背け、「お母さん保守ガーーーー!!!」と言い続けるばかり。
 そう、柴田師匠は「お母さん保守」という(醜悪極まる)タームの提唱者であり、本書においても(少年誌のエロに文句をつけた)太田啓子師匠を(フェミニストではなく)お母さん保守だと言い募り続けます。ぼくも太田師匠の著作については動画の第15回で採り挙げましたし、あれを見れば師匠を「保守」だとするのには完全に無理があるとわかるはずなのですが。



 また、柴田師匠は以下のような嘘もつきます。

昔も、一九五〇年代の漫画を校庭に集めて「焚書」するものや、連続幼女誘拐殺人事件の煽りを受け創作物のエログロを槍玉に挙げた一九九〇年の「コミック本から子供を守る会」など、お母さん的PTA価値に基づいた悪書追放運動はありました。でも、一九九〇年代のフェミニストや社会学者たちは、それは保守的なもので、フェミニズムの問題とは違うからと、ちゃんと切り分けて、悪書追放運動を批判したんですよね。
(251p)


 そう、有害コミック騒動の時にフェミニストは表現の自由を守ったとの、長岡義幸師匠、高村武義師匠も口走っていた妄想史観です。
 もっとも表現の自由クラスタはこの時「行動する女たちの会」の「国の規制は好ましくない」との言質を取っています。長岡師匠たちや柴田師匠の言はそれを指しているのでしょうが、しかし同会は当時よりずっと町の水着ポスターなどをキャンセルする運動をしており、単に「国家による規制は好ましくない」と考えているだけ。これは『WiLL』様の記事でも指摘している通りです。

 つまり「市民団体の規制はOK」との考え方を導入するならば柴田師匠の言も嘘ではない、ということになりましょう(ならツイフェミがする規制もいいのではないかとの疑問は呈してはいけません)。
 後、千葉師匠は(ツイフェミ批判として)前近代社会は「傷つき」なんてモノはなかった、そもそも近代的な「内面」なんてなかったし、だからこそ強かった、それこそが望ましいあり方だ、みたいなことを言うんだけど(233p)、そしてこうした「前近代よかった論」ってのは一時期、左派がよくしてたんですが(宮台師匠とかの持ちネタですよね)、それって単に神や国家に「内面」を担保してもらってたからでしょう。
 こういうの、左派は本来「右翼」がそれを好ましいと主張しており、許せぬと言うのが常だったはずじゃないですかね。
 座談会という形式のせいもありましょうが本書には論理的な整合性というものがなく、ただ思いつきの観念論を口々に述べては内輪褒めしているだけのように、ぼくからは見えます。

・ペドとオタクは使いようなのだの巻

 さて、先に述べたようにそもそもぼくが本書に手をつけたのは柴田師匠の「ペド萌え」発言にチェックを入れるためなのですが、読んでいくと「同性愛とペドフィリア」、「「ペドフィリア=絶対悪」が表すもの」といった節が登場します。
 前者で柴田師匠は以下のように言います。

ゲイの知人がツイッターで、ペドフィリアは、犯してはいけない罪にして、もうフィクションのなかだけの性愛として欲しいとつぶやいていたんです。妄想するだけの状態にすれば許容されるし、LGBTと一緒にするのは戦略として正しくないと。
(209p)


 しかし師匠は、この「ゲイの知人」の発言が不当なものであるとするのです。
 そんなこと言ったって、「ペドフィリアは、犯してはいけない罪」なのは当たり前であり、現実問題として法律上もそうなっているのですが、ひょっとしてご存じないんでしょうか。また、「妄想するだけの状態にすれば許容される」べきであるのに、そうではないから問題なのだ、というのが従来の表現の自由クラスタなどの主張だったと思うのですが、この発言が不当となると、師匠は「実行することをも許容せよ」と考えていることになりますが、そうなんでしょうか。
 もっとも、一応柴田師匠の怒りは「LGBTがペドファイルを排除していること」に注がれています。『現代思想』でもそう言っていたし、事実、後者の節でも同様の主張がなされます。ホモ団体のILGAがNAMBLAを除名したのがけしからぬ、国連の差し金だ他国のホモ団体のせいだと。
 しかしながらここでも、NAMBLAの目的は語られません。それはつまり、年少の子供とのセックスを合法化せよというものであり、そこを隠したまま議論を続けるのは正直、卑怯極まりないと思いますが、或いは柴田師匠にはそれのどこが悪いのかさっぱりわからず、天然で言っているのではという気すらします。
 あ、二村師匠もここでは「戦国時代の小姓の伝統がどうたらこうたら」と耳タコな話を開陳。
 千葉師匠はインテリ様らしく「ギリシャでは少年愛が教育のシステムになってた云々」と一席ぶちます。
 実のところ、ギリシャの少年愛、戦国時代のお稚児さんなど、伝統社会では年長の男性が少年を性的に愛することがそのまま「師弟制度」とシンクロしていた、というのは男性解放論の開祖とも言うべき渡辺恒夫が三十年以上前に指摘していたことです。
 フロイト的には人間はまず自己愛の段階から同性愛、そして異性愛へと発達していく。少年期は男性も肉体的な美しさを保っており自己愛的であり、そして小学校くらいの少年少女が同性の友人との友情を重視するのは(性的要素のない)同性愛期だからであると(『脱男性の時代』などでそうした論考がなされています)。
 ぼくもそれは理論として正しいと思うのですが、だからと言って前近代の風習が現代において許されるべきものであるかどうかは全く別です。
 そうした「常識」がとにもかくにも本書では一切、省みられる様子がありません。
 これは、考えてみればドヤ顔で「常識」を疑うというスタンスを誇る人たちにしては、極めて格好の悪い不誠実な態度です。

 さて、『現代思想』における師匠の記事をレビューして、ぼくは師匠の「ペド萌え」の理由を「時流を読んでのものではないか」と想像しました。海外の過激なトランスは子供をLGBTに引き入れるため、セックスに対する子供の「自己決定権」を大幅に認めたがる傾向にある。彼ら彼女らがペドファイルと「和解」しつつあるという情報を得て、乗っかろうとしているのではないかと。
 しかし本書を読むと、またちょっと別な想像も湧いてきました。
 柴田師匠が、清岡純子師匠について妙に熱く語る箇所があるのです。
 清岡師匠、表現の自由クラスタの皆様はお詳しいでしょう、幼女ヌード写真家です。80年代には『わたしはまゆ13才』や『プチトマト』といった写真集が話題となりました。
 もちろん、今や彼女の作品は発禁とされており、またそれはあくまでポルノ的なものではないので、ぼくも発禁が絶対の正義だとは思いませんが、ともあれ柴田師匠の熱いトークは一聴に値します。

清岡純子さんでレズビアン・フェミニズム史を書くとしたら、ペドフィリア(小児性愛者)の欲望というのを入れざるを得ないからです。
(中略)
彼女は、レズビアン指南書など、ハウツー本も書いているんですよ。
(中略)
また、恋人を斡旋したり、悩み相談電話を受けつけたり、啓蒙や自助グループの運営など、かなり広範囲で活動していた人なんですね。
(130~131p)

 

 フェミニズムの一派にレズフェミというのがあり、中でも少女が好きな人たちは、NAMBLA的な人たちと親和的な傾向にあるんですね。
『現代思想』の記事でも書いたように、ぼくにとって柴田師匠というのは「リベサーの姫になりたい人」というイメージが強く、「男性にモテたいのかなあ」という印象を持っていたのですが、同時にやはり同記事でご紹介したようにとにもかくにも「異性愛」を憎悪している方でもあります。
 ……となると、柴田師匠は清岡師匠と同じ動機でペドを擁護しているというのが、本書から導き出される結論になる気がするのですが、果たして実態は……?


2021年 アンチフェミ十番勝負

2022-01-08 19:04:39 | フェミニズム


 どうもみなさま、早いもので2022年もいよいよ暮れようとしております(ry
 というわけで毎年恒例、一年のまとめです。
 執筆時間も取れないので、ざっと時系列順に去年のトピックスを並べ、所見を述べるという簡単なものでご勘弁願いたいと思います。それでは。

一番勝負 ジャイ子問題

 さて、今年の初め辺り、ぼくはずっと『STAND BY ME ドラえもん2』について述べていました。いえ、正確にはこの映画に対する宇多丸師匠の評に対し、噛みついていたのです。

『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもんレイプ!フェミの手先と化したサブカル先輩
『STAND BY ME ドラえもん2』――ドラえもん謀殺!そして男性否定妄想へ

 この映画自体のできが大変にお粗末なモノであることは事実なのですが(それについてはここしばらく繰り返している、オタクコンテンツの終焉とも絡めて語りましたね)、宇多丸師匠はそれとは別に、「のび太はジャイ子と結婚しろ、ジャイ子と結婚しろ」と壊れた機械のように繰り返すのです。
 映画の話から完全に脱線して関係ないお説教を始める辺り、何だかポリコレアフロ君のよう(伏線)。
 ぼくはこれまで幾度も、『ドラえもん』とは「野比のび太」という「オタク少年」が「しずかちゃんとの結婚」という幸福を得る話だと言ってきました。しかしオタクという「弱者男性(伏線)」の存在を決して許すことのできぬサブカル君(伏線)は、とにもかくにもブスのエンカレッジのためにも(伏線)ジャイ子と結婚しろと半狂乱で語るばかりでした。

二番勝負 弱者男性問題

 今年よりワタクシこと兵頭新児、定期的に『WiLL』様で執筆させていただけることになりました。昨年から書いてはいましたが、ある程度定期的に書かせていただけるようになったのは今年からです。
 記事は時々ランキング一位になることもあり、今までのマイナーノーター、ツイッタラーとしてしか活躍の場のなかった身としては、本当に夢のような話なのですが……去年でも比較的早い時期に、この「弱者男性」を主語にした話題で三回ほど記事を書き、それが一位になったことはやはり、結構な衝撃でした。

話題の「弱者男性論」をなんとしても≪許さない≫人たち
「弱者男性」を≪リベラル≫に導きたい人たち
「反・弱者男性論」に見るフェミニストのご都合主義


 去年は小山晃弘氏も大いに目立った一年でしたが、彼の視線も「弱者男性問題」にこそ注がれていると言っていい。
 つまり数年前までのアンチフェミは表現の自由クラスタ主導のものだったけれども、それが弱者男性主導のものに変わりつつある……同様の指摘は幾度もしていますが、それがいよいよはっきりと視覚化されたのがこの一年だったと言えるわけです。
 ちなみに『WiLL』様の記事で述べましたが、本件についてトイアンナ師匠のような「リベサーのフェミ」型フェミニスト、杉田俊介氏のような「男性学」者様がいろいろとモノを申しておりましたが、それが無意味無内容なものであったことは、重ねて申し上げるまでもないことでしょう。

三番勝負 伊是名夏子問題

 さて、今年は彼女についても大いに騒がれました。
 しかし、ぼくにとってはこれは「安積遊歩問題」であったことは、みなさんおわかりいただけているかと思います。

「障害は個性」を利用する左派の欺瞞
続:「障害は個性」を利用する左派の欺瞞


 伊是名師匠の先輩格とも言える安積師匠の本には、フェミニズムの影響が極めて大でした。そして、おそらく『WiLL』様の記事でも一番読まれたであろう「青い芝の会」についての記事で、明らかになったのではないでしょうか。フェミニズムは他の障害者運動などと同種の問題を抱えており、そしてその問題はLGBT運動などにそのまま引き継がれた、ということが。

40年以上進歩していなかった!リベラルの「自分勝手な正義」

 それは「人間の差異は全く存在しないことが理想であり、その理想の社会はマジョリティ側が無限のリソースを費やし、自分たちにさあどうぞと提供すべきものである」との恐るべきものです。
 伊是名師匠のJR社員への無茶振りと、フェミニストたちの「異性愛者」への無茶振りはその意味で「完全に一致」しているのです。

四番勝負 小山田圭吾問題

 そして、それはこの問題にも影を落としています。
 小山田問題の、「インクルーシブ教育」という形ばかりの理想主義が生んだ悲劇、という側面については以下に書かせていただきました。

「共同教育」理念に見える左派&リベラルの病根

 この「インクルーシブ教育」こそ、先にも書いた「マジョリティが無限のリソースを費やしてマイノリティ様との差異をなくして差し上げろ」との理念に端を発するモノなのです。

 しかしこの問題は同時に、「サブカル問題」でもありました。
 小山田を擁護し、言い訳の限りを尽くすサブカル陣営の醜悪さは目を覆わんばかりのものでしたが、実のところ本件についてはずっと気を吐いていたブログ「孤立無援のブログ」が比較的最近、また爆弾を投下してきました。
『クイックジャパン』における小山田の記事は、根本敬の漫画の影響が大ではないか、という指摘です。

小山田圭吾と村上清と根本敬 - 孤立無援のブログ

 またもう一つ、サブカル陣営の男性たちが見るも無惨な言い訳を繰り返すのに対し、女性陣が妙にしおらしい「反省文」をしたためてみせる様が、本件以降目立つようになりました。
 しかし、それもまた、あまり褒められたモノではないのではない。例えばレイプや人体破壊をこよなく愛する高橋ヨシキが、「オタクはミソジニストだ!!」と泣き叫びながらフェミニストぶっているのと全く同様に、彼女らの主張は一見、内省しているように見せながら、「私は当時、サブカルにしか居場所がなかったが、よく考えてみれば当時のサブカルは悪質なポルノなど、女性の権利を害するモノを称揚していた」などと後づけでフェミニズムを持ち出し、被害者ぶってみせるものばかり。自らの加害性には当然、頬被りです。
 ――というわけでこの問題については、また近くじっくりと語ってみたいと思っているところです。

五番勝負 ピル神凍結問題

 さて、先に書いたように、表現の自由クラスタはいささか、影響力を減じているように思われます。
 その一つがピル神のTwitterアカウント凍結問題。いえ、正確に言えば「大事件と言っていい本件が、思ったほど騒がれなかったよ」問題に象徴されているのではないでしょうか。
 ぼくはこれについて、「ピル神がTERF的なスタンスに立ったから」ではないかと想像しました。もちろん、ぼくには裏事情は窺い知れませんが、仮にこの想像が当たっているとするならば、表現の自由クラスタの「ご本尊」たるフェミ様はピル神をも許容ができぬほどに狭量であり、ラディカルであるとするしかない。

ピル神凍結騒動

 彼らは初めっから自縄自縛に陥っている存在ですが、その縄の食い込みは、いよいよ激しいものになっているのではないでしょうか。

六番勝負 ポリコレアフロ問題

 同種の問題は、ここ数年、ずっと語っているかと思います。
 もしこれが去年の記事であれば、本項は『BEASTERS』問題として、一昨年であれば『トクサツガガガ』問題として語られていたでしょう。
 要するに「フェミがかった女流漫画家さんが、作中で主人公にフェミ的主張をさせていてウザいぞ」問題です。
 ただ、本作はまず大変なヒット作になっていること、そしてよくある「自己主張漫画」のスタイルを取っていることが特徴的でした。
「自己主張漫画」というのもあまりいい表現ではないのですが、これはネットによく投下されるタイプの、「白漫画」と呼ばれることもある一連の漫画をイメージした言葉です。一昔前で言えばマルクス師匠とかああいった、「ただ自分の言いたいことを何とはなしにキャラクターに言わせてみただけで、一般的な意味の漫画ではないもの」。まあ、『ゴーマニズム宣言』もそうだと言えるのですが。
 本作も一応、ジャンルとしてはミステリであり、事件が起きて主人公が謎を解いていくという過程が描かれるのですが、主人公が推理の途中でふと思いついてフェミ的主張を始めるという点が特徴的。
「作者の独り言」を大っぴらにナレーターに言わせたのが『ちびまる子ちゃん』とするならば、主人公に大っぴらに言わせたのが本作、という感じ。いえ、『まる子』のナレーションはストーリーに対しての的確なツッコミであるのに比べ、本作ではそれがほぼ無関係なところに、問題があるのですが……。
 いずれにせよ「フェミ」が今までに比べても「ナマ」の形で前面に出た漫画が、しかも大ヒットしてドラマ化される……状況としては、あまり好ましいとは言えないでしょう。

七番勝負 スーパーマンホモ化問題

 いえ、厳密にはバイセクシャルですが。
 しかし、ある意味では本年で、一番重要な話題かも知れません。
 というのは欧米のポリコレが近年、ちょっと考えられないくらいに幅を効かせ、文化の破壊に邁進し始めたということの、これは象徴だからです。
 これはホンの一例であり、例えば『パワーレンジャー』などにも近い事例が及んでいることは、『WiLL』様の記事にも書いたとおりです。

市場原理無視の"LGBT迎合"はコンテンツの自殺行為だ

 一番勝負で採り挙げた「ジャイ子問題」に対し、ぼくが舌鋒を極めて罵り続けていた理由も、今となってはおわかりいただけるのではないでしょうか。
 もはや明日にも、「のび太の将来」は歴史改変され、「ジャイ子と結婚する未来」が「公式設定」とされても何ら不思議がないような、そんな社会が訪れつつあるのです。

八番勝負 戸常梨香問題

 さて、今年はやたらと「表現の自由クラスタ」批判を続けてきました。
「いや、お前は以前からそうだ」との声も聞こえてきそうですが、『WiLL』様の記事でも幾度も採り挙げたせいか、ぼくとしては本当に今年はしつこく語ったという印象があります。
 戸常梨香騒動において、もちろん悪いのはフェミ議連だし、それを相手取って大立ち回りを演じた表現の自由クラスタ、青識亜論やおぎの稔についてはそれなりに功績を認めるべきだ、とお思いかも知れません。
 しかし彼らのやり方は本当に、その功績を吹き飛ばすくらいにまずかった

Vチューバ―"戸定梨香"騒動で見えたフェミ・アンチフェミの「どっちもどっち」

 既に述べた通り、彼らはまずフェミのVチューバー批判に対し、「女性の多様性を認めない、本来のフェミニズムに反するもの」「トランスジェンダーの活動を妨げるもの」「そもそも戸常梨香は性的ではない」などと反論しました。
 これは当然、「女性を美や性的魅力で評価することこそが女性の多様性を阻むことだ」とのフェミの第一義を彼らが全く理解していない(フリをしている)ことを意味していますし、そもそも彼らが「本来のフェミはよきもの」と信じていることを示しています。
 また、Vチューバーが往々にして男性でありながら女性を演じることがあるのは周知ですが、トランスジェンダーかとなると多くはそうではないでしょうし、そもそも梨香ちゃんの演者は女性なのだから、これは言いがかりというものです。
 第三に、梨香ちゃんは性的ではないという物言いは本当に、非常に、ものすごく、極めて、大変に、すこぶるまずい。彼らの信奉する左派的価値観(性の解放はいいこと)を正しいものと考えれば考えるほど、まずい物言いです。おそらく「卑猥で良識に反するというほどではない」程度の意味で言っていたのでしょうが、何にせよ「(度を超して卑猥というならともかく、これくらいなら)性的でどこが悪い」が彼らの立てるべきリクツであったはず。
 とまあ、そんなわけで表現の自由クラスタがフェミニストの忠実なしもべなのは今更指摘するまでもありませんが、彼らのやり方では表現の自由が守れそうもないことが、またしても明らかになってしまったわけです。
 もう一つ、本件では梨香ちゃんの演者はもちろん、運営会社の社長が女性であることも、大いに表現の自由クラスタの欲情を誘いました。
 しかし当然、社長が男性であれば規制していいわけでは全くなく、表現の自由クラスタの「表現を守るつもりは全くないが、女性に媚びへつらうつもりは人一倍ある」という本質を露わにしてくれました。
 それで、以下の問題につながるわけです――。

九番勝負 玉袋ゆたか問題



 これについては動画で採り挙げたばかりであり、繰り返すのも面倒なのですが、最低限のポイントを述べると、

・玉袋ゆたかは絵としては可愛いが金玉のディフォルメが萌え絵と言うにはバランスを逸している。これに「萌え」る者がそれほどに多いというのが今一、信じにくい。
・そもそも彼は「男の娘」である。男の娘好きがある種のニッチである上、こうしたエッジな表現に心引かれる人間が、そこまでいるのか疑わしい。
・作者の「畢」師匠は確かにオタク側のラブコールに鼻の下を伸ばし、「ツイフェミ辞める」宣言をした。しかし「フェミ」を辞めると言ったわけではない
・そもそも「男の娘」を描いただけの彼女が「美少女キャラ」にも理解を示してくれるとは限らない。

 以上のように考えると、本件は梨香ちゃんの運営会社の社長同様、女性の送り手に「欲情」した表現の自由クラスタの暴走と判断するのが妥当であるように思います。
 言わばこれは「リベサーの姫再編」問題だったのです。
 先にピル神について述べましたが、本年はまさに「リベサーの姫」再編の一年でした。トイアンナ師匠やフェミニスト東京(フェミトー)師匠などがそうでしょうし、またちょっと違いますがぱうらも近いんじゃないかなあ……。
 しかし何にせよ「萌えキャラ」は守ろうとせず、「フェミニスト」にのみ欲情を続ける表現の自由クラスタは果たして、これからどこへ向かうのでしょうか。
 いえ、彼らがサブカル君と極めて被っていることを考えた時、彼らの向かう先はもはや、明らかではないでしょうか。

十番勝負 JC向けファッション誌問題

 はい、それではどこへ向かうかをご説明しましょう。
 彼らはフェミとがっちり手と手を結び、「ブスデフレーション」を推し進めるのです。
 といっても、「ブスデフレーション」という言葉をご存じない、という教養のない方もいらっしゃろうかと思います。いえ、ぼくが今、考えた言葉なのですが。
 仕方がありません、ごく簡単に申し上げましょう。
 ブスデフレーションとはブスのデフレーションです
 一般的なデフレとは、牛丼が安いので牛丼ばかり食べ、お小遣いを節約する人が増えると、バイト君のお給料も下がってしまう。みんなが貧乏になってしまう現象を指します。
 ブスデフレも同様で、テレビドラマにブスが出れば出るほど、観ている女も安心してブスになる(或いは美人が肩身の狭い思いをして前に出てこなくなる)現象を指します。渡辺直美さんが人気だと、女性もダイエットを怠けてしまうのではないでしょうか。
 そう、『WiLL』様で書かせていただいた、JC向けファッション誌『ニコル』に色白でスマートなモデルばかり使うな、といったクレームをつけるネット署名も、実のところこの問題の一環です。

女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

 もちろんこれは、「キャンセルカルチャーだからけしからぬ」とも言えるけれど、それは本質ではない。歪んだ価値観で大衆に望まれていないものをごり押しする不健康さにこそ問題があること、スーパーマン問題と同じです。
 海外でも太った女性がモデルなどを務める傾向は既に出てきていますが、それは女性を本当の意味で幸福にはしない。
 自分のないものを持っている妬ましい他者の足を引っ張るという、トンパのような昏い快楽だけがそこにあるのだと言って、過言ではない。
 まあ、そんなこんなでブスは一時の快を得られるが、女性全体の美の水準が下がれば下がるほど、さらなるブスが必要となる。ブスのデフレスパイラルが始まるのです。

 ――以上のような次第で、2021年はリベサーの姫とブスデフレの一年でした。
 ぼくは常々、「ゆるふわフェミ」という言葉の使いどころには慎重であるべきと言ってきましたし、そのスタンスに変わりはありませんが、いよいよ「ゆるふわフェミ」が増えつつあるのが現状だ、といえましょう。
 そんなわけで、来年も当ブログをよろしくお願いします!

風流間唯人の女災対策的読書・第28回「リベサー姫の作り方」

2021-12-31 17:04:57 | フェミニズム
 動画公開!
 第二十八回目です。

風流間唯人の女災対策的読書・第28回「リベサー姫の作り方」


 目下、『Daily WiLL Online』様でJC向けファッション誌がフェミに炎上させられている件について述べています。


女性の総「お局さま」化を招くヘンなキャンセルカルチャー

 上の動画は一応、それとは別なのですが共通点もあります。
 青識亜論は「キャンセルカルチャーにはエンカレッジカルチャーで立ち向かおう」としていますが、そもそも、その二つは同じモノではないでしょうか……?

さらにさらにさらにさらに重ねて、リベラル/ラディカルフェミニストについて

2021-11-07 19:18:01 | フェミニズム


※当記事における神崎めぐ氏についての記述に関して、ご当人との話しあいの上、補足を加えさせていただくことになりました。
問題となったご当人のnote記事にも補足が加えられましたので、併せてご覧ください。
また、その話しあいの模様はnoteコメント欄にありますので、ご興味のある方は見てみてください。
なお、noteの課金部分には、神崎氏についての記述はないので、本件に興味のある方は特に購入していただく必要はありません。※


『Daily WiLL Online』様で最新記事が発表されています。
 戸定梨香問題で露わになった、表現の自由クラスタの問題点について述べてきましたが、第三弾では彼らが三十年前から……といったことをご報告しています。 どうぞご愛顧のほどをよろしくお願いします。

続々:Vチューバ―"戸定梨香"騒動に想う=「フェミ」は所詮「フェミ」

■兇悪!にせアンチフェミ

 ――三回に渡り忙しい中、ガンバって表現の自由クラスタが撒き散らしてきたデマを検証してきました。
 そして、やれやれと一息吐いた瞬間、とある大手ゆっくり動画で、またしても大々的にデマが拡散されました。
 当初、名指しはすまいと思っていたのですが、やはり名前がないと不便なので明示しましょう、「ゴシップちゃんねる」です。保守――というか、今までずっと左派のウソを暴いてきたところであり、そこがフェミを扱うとあって、期待したのですが、それが、もう、100%表現の自由クラスタのデマに踊らされたもの。

「日本でフェミニストを語っている連中は、フェミニストではない」
「本来のフェミは女性の自由と権利を求めている思想(だから、ツイフェミはフェミではない)」
「リベラルフェミニズムは温厚なフェミニズムである」
「ツイフェミはトランス様という聖者を叩くTERFという悪者である」


 坂爪真吾のツイフェミバッシングまで引用する始末で、もう、ぼくが今までに何百、何千、何万回批判したかわからない、表現の自由クラスタのデマをそのまま垂れ流すのみで、本当にがっくりと来ました。
 あまりのことに、コメント欄とご当人のツイのDMで意見述べさせていただいたのですが、当然、反応はありませんでした。
 何しろ前後編で合計一時間半くらいの動画で、ご当人もそれなりにガンバって調べたものである以上、それなりに自信を持っており、今さら撤回できないのでしょう。
 いや、しかし、それにしても、です。
 ゴシップちゃんねるは左派に懐疑的なはずで、ことさらにフェミに興味はなくとも例えばジェンダーフリー、年間十兆円の予算を獲得している男女共同参画局、DV冤罪、夫婦別姓、上野千鶴子と、端々でそのヤバさを見聞していないとは、どうにも考えにくい。

 ともあれこの件はこれは今回の平安氏を連想させます。
 まあ、平安氏はやたら保守を自称したがるのですが、ピル神を称賛するのみならず、渡辺直美を邪気なく称揚するなど、ぼくの目からは軽率なリベラルにしか思えないのですが。どうも彼は(アニメアイコンの割に)オタクが大嫌いのようで、恐らくオタクの代表である(と彼が信じる)表現の自由クラスタに逆張りし、「勝つ」ことが目的化していて、あまり思想はない方なのではないかと思います。
 一方、近年では神崎ゆき師匠がnoteでリベラルフェミニズムage(不思議なことに唐突に「リベフェミ」を持ち出し、「真のフェミ」だと理由も何もなく誉める)記事を書いていましたが、まあ、この人は確信犯というか、単なる左派寄りの人でしょう。

※補遺※
この部分に、神崎ゆき氏からクレームがありました。
神崎氏はあくまでフェミに批判的であり、問題の箇所もあくまで「リベフェミは一般的な人々の感覚に親和性がある」ことを指摘したのみであり、自身の考えを表明したものではない、とのことです。

正直、普通に読めば(神崎氏自身が)誉めているように思えるのではと思うのですが、ともあれ長らく話しあいに応じていただいて、ご本人は「リベフェミ」も評価はできないと考えている旨を述べられました。
(また、noteの記述にも改訂、補足を加えていただくことになりました)

ともあれ、そのような理由から上の記述は誤っていることを、お伝えしておきます。


 また、ぼくは動画で「パウラちゃんねる(ハートカフェ)」や「フェミニストちゃんねる」をも批判しました。これらチャンネルも「ツイフェミ」や一般的な女性を批判し続けながらも、いざ「(真の)フェミニスト」が俎上に上がるといきなり平伏するという奇妙な振る舞いをしておりました。
 恐らくこれらチャンネルは業者が作っており、政治性(本人たちの節操)はない、というのがぼくの想像ですが、今回(つまり平安氏やゴシップちゃんねる)の件を鑑みるに、「左派が、自己の利益のため嘘をついていた」のがもう、「百回言ったので、嘘が本当になった」モードへと進行していると考えるのが妥当なのでしょう。
 まあ、本当にがっくりと来る話です。

 あまり批判めいたことはしたくないのですが、このゴシップちゃんねる、よく作られてはいるのですが、ソースはほぼ、ウィキです。それ以外の何かが提示される時もまず、ほとんどの場合がネット情報です。
 そう、『朝日新聞』は「もう、悪者ということになっているメディア」ですが、「ネット」については実のところ、真偽を(というよりはそのメディアが左右のどちら寄りかを)判断する手掛かりというのは意外にない。そんなことからころりと騙されてしまったわけなのでしょう。
 逆に言えば(大手メディアがネット含め左派一辺倒なのは言うまでないとして)ネットで市井の人間が発信しているフェミ情報はほぼ、表現の自由クラスタに影響されてしまっている、ということなのかもしれません。時々ぼくは「ここ数年で表現の自由クラスタの影響力が落ちた」「真のアンチフェミが育ってきた」的な指摘をしましたが、情勢はまだまだ敵さん有利、ということなのでしょう。
 実は伊是名夏子問題についても、近しいことを感じました。
 ぼくは『WiLL』様の記事で彼女のスタンスが安積遊歩という人物に極めて近く、またそれを乙武も共有していることを指摘し、ある種の障害者運動には共通の問題があるのではと推測しました。
 しかし、時事系you tuberは誰もそんなことには頓着せず、ただ、「既に悪者認定がなされている個人がいるので叩いている」だけのようでした。伊是名師匠のバックに、問題のあるイデオロギーが隠れている、といったことに、彼らは関心を持たないのです。
 これはもちろん、一方では「自分は障害者全体への偏見を持っているわけではない」と強調する必要がどうしてもあったからでしょうが、いや、むしろ本当に「叩いてよい個人」を叩くことだけが重要であり、だから実のところ彼らは伊是名師匠の「障害者」という「属性」にすらも頓着していなかったのでは……という感じが、しないでもありません。
 これはまあ、紙の週刊誌メディアもそうで、「大衆」そのものが「取り敢えず対処療法的に叩く」悪者だけを求めていることが原因なのでしょう。

■おれの名はマウント超人よくわからない人だ!


 えぇと、「よくわからない」のは項タイトルの方ですね。
 一応今回(というのはこの四回の連載全体のことですが)、項タイトルは『仮面ライダー(第一作)』のサブタイトルをもじるという趣向で、本項のタイトルは「おれの名は怪鳥人ギルガラスだ!」が元ネタです。すんません、こういう要らぬ趣向は話をややこしくするだけですね。
 ともあれこれ以降もまだ少し続くのですが、それはnoteで課金してお楽しみいただければ幸いです。課金コンテンツを生み出す余裕もなりつつあるので、「ちょっと助けてやるか」とお思いいただける方は上のタイトルをクリックしてみてください。