北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第214回 北京・蘇州胡同(2) 名前の由来や会館などについて少し触れてみました。

2018-12-10 11:05:35 | 北京・胡同散策
蘇州胡同。








蘇州胡同134号院。



玄関脇ではスズメたちが餌を啄ばんでいました。
この餌は、住民の方がスズメたちのために用意したもののようです。

これから寒くなるから、たんと召し上がれ。



音読みで「シュウ」、訓読みで「あつまる、つどう」と読む「集」という漢字は、
「木」と「隹(ふるとり)」で出来ています。「隹(ふるとり)」とは、鳥のこと。
枝にいっぱいの鳥がとまっている様子を表したのが「集」という漢字。胡同を歩い
ていると、この「集」という字が頭をよぎります。

この134号院の前には、アパート。



134号院の隣。



正面が洋風に飾り立てられています。
かつての中国の大工さんたちが見よう見まねで懸命に造ったのではないでしょうか。



この建物はこの胡同が清末から民国期にかけて人通りの激しい繁華な場所ではなかったか、
そんなことを想像させるほんの一例です。
かつてこの胡同を訪れた人たちの目を惹きつけたり、楽しませたりしたに違いありません。


洋館とその隣の間に細い路地がありました。







右側。



こちらは、蘇州胡同126号院。





さらに奥へ。



蘇州胡同124号という門牌が貼られています。











ここで行き止まりでした。



もとに引き返し、次は上の細い路地の東隣。



こちらは蘇州胡同122号院。



一本の細い路地をはさんで、洋館と伝統的な門楼とが並んでいるのが、まことに
おもしろい。

門墩(メンドン)。



左右共にその彫り飾りが削り取られた姿が痛々しい。



目を上に移して、玄関上の屋根。



日本家屋の屋根瓦もそうですが、門楼の屋根に見られる瓦の作り出す形も美しい。





これ以上は先へ進めそうもないので、元に戻りました。


玄関の向かい側に可愛らしい消防車。
「微型消防車/胡同消防」と書かれています。



胡同は住宅密集地。しかも場所によっては道路も細い。
本格的な消防車が入るのは難しい。たとえ火災現場付近まで近づけたとしても放水準備に
時間がかかる。そこでいち早く現場に駆けつけ活躍するのが、この微型消防車。

・・・しかし、この微型消防車、当日は後輪がパンク中でした。


東方向にのびるアパート。






ところで、蘇州胡同の「蘇州」とは、ことわるまでもなく江南地方の風光明媚な水郷地帯の一つ
で、宋の時代から「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と讃えられた、あの蘇州のこと。

明や清の時代を通じて多くの商人たちが集まり大きな商業都市として、また絹織業を中心とする
手工業都市として中国随一の繁栄を示したといわれる、あの蘇州です。

当ブログをご覧くださっている諸兄諸姉の中には、「江南」という言葉から晩唐の詩人・杜牧の
『江南の春』を、「蘇州」という言葉から唐代の詩人・張継の『楓橋夜泊』を思い浮かべる方も
いらっしゃるかもしれません。中には思わず李香蘭(山口淑子)さんの「蘇州夜曲」を口ずさんで
しまう方もおられるかもしれませんね。


先に触れました「集(シュウ)という漢字で思い出したのですが、胡同関係の本によると、明の
時代に蘇州出身者が集住し、しかも蘇州出身者のための蘇州会館まであったというのが、この
胡同の名の由来と伝えられているそうです。


「会館」という言葉が出てきました。次にこの会館なるものについて触れておきました。
ご興味をお持ちの方はご覧ください。

〇会館について

『平凡社世界大百科事典 第2版(電子版)』の「会館」の項からお借りすると、

“中国で同郷人または同業商工業者のグループが,北京はじめ異郷の都市において,相互の親睦,
経済活動,訴訟,宿泊,貧者救済,死者の葬送などの目的で建てた建物。公所ともよばれる。
会館という名称が生まれたのは明代で,明末から清代に発達したが,唐・宋時代,首都に設けら
れた地方出身の官吏・学生・商人らの集会所,宿泊所がその前身であろうといわれる。寺院の一室
を賃借りするだけの小規模なものから,広壮な敷地,建物をもつものまであり,なかには広州の
潮州八邑会館のように,設立に1600万元もかけたものもある。”

ということなのですが、内容が重複する部分もあるものの、もう少し詳しい説明として
長くなりますが『小学館日本大百科全書(ニッポニカ)(電子版)』の会館の項を次に掲げ
てみました(都合により三分割したことをお断りしておきます)。

“同郷、同業、同窓などの団体が会合や宿泊のため設けた施設。これはもと中国の明(みん)代に始
まり清(しん)代に盛行し、民国となって急速に衰退したが、日本では明治以後各地に設けられ、
今日は多くの財団が宏壮(こうそう)な施設を建設して盛んに利用されている。中国では中央政府
との連絡に地方から上京するもののため、後漢(ごかん)には洛陽(らくよう)に郡邸(ぐんてい)、
唐には長安に進奏院(しんそういん)、宋(そう)には開封(かいほう)に朝集院が設けられていたと
いうが、これは官吏専用であった。”

“商品流通が激増し、科挙の受験生も増加した明・清時代には、首都ばかりでなく地方の中心都市
にも官吏と商人との共同で会館とよばれる設備が普遍化した。記録では北京(ペキン)の蕪湖(ぶこ)
会館が明の永楽(えいらく)年間(1403~24)に創建されたというのがいちばん古いが、事実は全
国の各地方が嘉靖(かせい)(1522~66)、万暦(ばんれき)(1573~1619)のころから北京に設
置し始めたものらしい。”

“清末の『京師坊巷志(こうし)』には405の会館を記載している。その規模の大小、性格や用途は
さまざまだったが、多くは同郷団体でその地方の商人が資金を出し合い、その地方出身の官僚も
援助して経営し、貨物をもって上京する商人や受験生の宿泊所とするのが普通だった。しかし同
郷と同業とはほとんど共通しており、有力な商人や高級官僚が会館を独占する傾向があった。会
館には公所、堂、社、祠(し)などとよぶものもあり、祭神を祀(まつ)る祠堂(しどう)や共同墓
地、劇場、取引所などを設けたものもあった。ことに金融業、油業、染料、茶、塩などの同業会
館は大規模のものが多く、地方都市では度量衡 や市場の管理、警察、裁判、福祉などの事務にも
あたったが、中世ヨーロッパのギルドのように自由都市成立の中核にならなかったのは、官僚と
の癒着が強かったからであろう。[増井経夫]”

次に、北京における会館の具体例を挙げておきました。
会館が中国の歴史に大きな影響を与えた人物や出来事に深いかかわりのある施設であったことが
分かります。

〇北京の会館の具体例

南海会館

祖国を救わねばならぬ。日本の明治維新のように国のあり方を変革し、富国強兵を図らねばならぬ。
1800年代末に起こった変法運動(変法とは国の制度を改変すること)。その中心人物とされる広東省
南海県出身の康有為(1858-1927/こうゆうい、カンヨウウエイ)が官吏採用試験であった科挙受験の
ため上京、滞在。しかも清朝政府に提出した政治や社会のあり方の変革を唱える上書をしたためたの
は米市胡同内の「南海会館」。もう少し書けば康有為は南海会館内の“七樹堂”西側の康有為が“汗
漫舫”と呼んでいた部屋に寝起きしていたようです。(『北京胡同志』主編段之仁/北京出版社などを
参照)
住所は、西城区米市胡同43号。

紹興会館

1911年10月、辛亥革命がおこり、清朝瓦解。
1912年1月、中華民国成立。その年の5月中華民国臨時政府教育部員として浙江(せっこう)省紹興出身
の魯迅(1881ー1936/ろじん、ルーシュン)が上京し、1919年11月までのおよそ7年間ほどを暮らして
いたのは南半截胡同内の紹興会館。その間に中国近代文学のさきがけといわれる『狂人日記』をはじめ、
『孔乙己』『薬』などを執筆。魯迅が「魯迅」というペン・ネームを使用したのは『狂人日記』からだ
ったといわれています。ちなみに、本名は周樹人(しゅうじゅじん、チョウシューレン)。

この紹興会館は、もと浙江省山陰と会稽の二邑を合わせた「山会邑館」という名称でしたが、民国期に
入り紹興会館と改名されたそうです。魯迅ははじめ会館内の“藤花館”に居住していたのですが、後に
やはり同会館内の“補樹書屋”に移り住んだようです。(同上)
住所は、西城区南半截胡同7号。

湖広会館

会館の中にはその付属施設として、立派な演劇の舞台・戯台のあるものもあり、もともとは湖南、湖北両省
出身者が創建した湖広会館もその一つ。ここでは京劇の名優、梅蘭芳(メイランファン)もこの館内の舞台で
その名演技を披露したそうです。また、政治的には1912年には孫文がここで演説を行ったり、国民党成立大
会が挙行されたりしています。現在は北京戯曲博物館となっていますが、京劇を楽しむこともでき、そのほか
会館付属の施設を見ることができるので、かつての会館の様子の一端を知るにはもってこいの場所ではないで
しょうか。。
住所は、西条区虎坊路3号。


さて、会館に関してはこの位でひとまずきりあげ、さらに蘇州胡同を先に進みます。

先ほどご覧いただいた122号院の東隣は東城区蘇州社区衛生服務駅。
住所は、蘇州胡同120号院。


「社区」とは、本来は英語「コミュニティ」の中国語訳。この場合は、行政区画の単位を
指しています。蘇州社区には、今までご紹介してきました中鮮魚巷、北鮮魚巷、公平巷、
侯位胡同、後日ご紹介予定の麻线胡同などが含まれています。

次は東城区蘇州社区衛生服務駅東隣の118号院。







奥にやはり洋館がありました。





左方向から何やら生きものの気配が・・・





写真手前の屋根の上にネコがいました。


驚かせてしまい、申し訳ないことをしたと思ったのですが、写真を撮った後にこのネコが
「ミャオ」と可愛らしい声をこちらにかけてくれたので救われました。





左手に路地。



再び体勢を戻して。







もともとはガラス窓はなく、ここは部屋から部屋へ移動するための廊下だったのでは?
もしそうだとするとガラス窓の下の飾りは単なる飾りではなく、廊下に取り付けられた欄干の
一部で、上のガラス窓は、あとの時代に廊下を雨風から守ったり寒さを防ぐためにこの欄干を
利用して取り付けられたもの、ということになる。







垂花木楣。



当ブログをご覧になられている方の中には、この飾りを見て
「この建物、昔の北京の花街・八大胡同で見かける建物に似ていないか」、
そんなことを考えた方がいらっしゃるかもしれません。

実はわたし個人がその一人で、この連想内容に関して回を改めてふれてみたいと思っております。

ここで元に戻りました。



門扉の裏側の様子です。







にほんブログ村


にほんブログ村