北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第181回 北京の胡同・儲子営胡同(前) 今は昔、名前の由来と住民たち

2018-03-10 15:22:03 | 北京・胡同散策
儲子営胡同(Chuziyinghutong/チューズインフートン)



今回は、前回ご紹介した「栄光胡同」南端から東方向に走る“儲子営胡同”を歩いてみました。




可愛らしい名前のお店がありました。
「胖子烧烤(ぱんずしゃおかお)」

胖子は「太っている人」のこと。烧烤は「焼肉」。
「おデブちゃんの焼肉店」といったところでしょうか。



名前を見ていたら小腹が空いてきたので、ならば好物の羊肉の串焼きをつまみに
軽くビールでも引っ掛けてから胡同を歩こうかと思ったのですが、残念!!



出入口には鍵がかかり、「しばらく休みます」と貼紙までがしてあるではありませんか。
仕方なく「次回、次回」と小腹の空いた自分となんとか折り合いをつけて歩き出しました。


ところで、儲子営胡同は、明と清の両代を通して「厨子営(チューズイン)」と読み書きされ、
「厨」が同音の「儲」に改められたのは、民国初年のこと。



民国初年、「厨子営」が「儲子営」になる。
理由は「厨」だと雅趣に欠けるというものだったらしいのですが、個人的には「厨」字のほうが
分かりやすいんじゃない?などと思ったりしているのですが、個人的なことはさておき、この「
儲子営」に「胡同」という二文字が追加されたのは1965年。





この胡同は上にも書いたとおり、明と清を通して「厨子営」という名前であったわけですが、由来
は実に単純で分かりやすい。「厨子」すなわち「料理人」が多く住んでいたからなのだそうです。





なお、追記しておきますと、昔この胡同には料理人のほか、妓女、力工、脚夫などが多く暮らしていた
とのこと。(力工、脚夫は、共に単純肉体労働従事者ですが、力工は建築関係の仕事に従事する者、
脚夫は、荷物運搬人を指すようです。)





断るまでもなく、この胡同は天橋地区にあるわけですが、その“天橋”について、1920年代末から
1930年代初めにかけての北京(当時は民国期で北平と呼ばれていた)を舞台にした、老舎の小説『駱駝
祥子』(「らくだのシァンツ」)は、次のように書いています。

「南へ歩き、東へまがり、また南にむかって天橋にでた。正月のあとの朝の九時すぎともなると、
 小僧さんたちがもう朝飯をすませて遊びにきていた。さまざまの露天商、芸人たちがはやくも
 ずらりとならんでいた。あちこちに人垣ができ、銅鑼や太鼓がひびきわたっていた・・・」
「ここの漫才、熊使い、手品師、祭文語り、民謡歌手、講釈師、剣術使いなどが、彼を心から笑
 わせてくれたものであった。彼が北平に執着する一半の理由はこの天橋にあった。」
 (『駱駝祥子』立間祥介訳、岩波文庫。)

天橋は、当時、物質的にけっして豊かとはいえない多くの庶民たちにとっての一大娯楽センターの様相
を呈した場所でした。それを思うと、その昔「料理人、妓女、力工、脚夫」が多く住んでいたといわれ
る儲子営胡同とは、ある意味でまさに天橋という場所にこそふさわしい胡同だったと言えなくもありま
せん。




うっ。
出入口のデザインがおもしろい。



しかも、奥が深そうです。



で、お邪魔してみました。


二階建て。



さらに奥へ。





干された洗濯物を見つけると、まるでとんでもない宝物を見つけたように写真を
撮ってしまいます。



これ以上は進めませんので、もと来たところへ戻ります。





少し歩くと、コリーがやって来ました。



一人で散歩かな?
と思っていると、急に向きを変えて行ってしまいます。

急にカメラを向けたのでビックリして、自宅に戻ってしまったのかもしれません。
申し訳ないことをしました。

ワンちゃんが戻っていったのは、ここ。



それはそうと、なにやらおめでたいことがあったようで、細い路地の入口に貼られた「双喜文字」が
実に眩しかった。



そうして、これは大きな声では言えないのですが、そのお目出度さがわたしにも感染するにちがいないと
内心ひそかに思えてしまう、そんなわたしの頭も、「双喜文字」に負けないくらいまことにもっておめで
たい。



この地で長年お店を営んで来た、といった雰囲気ムンムンの理髪店がありました。
地元の人たちに長い間愛されつづけてきたんじゃないでしょうか。



一説に、その昔、街を流して歩いた剃頭匠(ていとうしょう)の職業上の末裔だといわれる理髪店。

1645年、清が国を統治するやいなや、順治帝は「辮髪令(薙髪令)」を発布しました。
辮髪とは、頭頂部の髪だけを残して頭の周囲の髪を剃り、残した髪を長く編んで背に垂らした髪型。

内容はといえば、
「京城(現在の北京)の内外は十日以内に、各省の地方は布告書が届いてから十日以内に全員が
 辮髪の制に従うことを命ず。この布告に従う者は本朝の民であるが、従わない者は、政府の
 命に逆らう謀反人と同じであるので、重刑に処す。」
と、言ったものでした。

重刑とは、もちろん死刑のこと。辮髪令は、満州族の清朝政府が漢人に対して、忠誠と服属の証と
して強制したものですが、この時各地には「留頭不留髪、留髪不留頭」すなわち「頭を留めるもの
は髪を留めず、髪を留めるものは頭を留めず」と書かれた札が立てられたんだそうです。

そして、この時に活躍したのが、漢人たちの髪の毛を剃って歩いた剃頭匠だったわけですが、この
剃頭匠が一ヶ所に定住して店を構えたのが、現在の理髪店の始まりだったとか。

なお、この辮髪令も僧侶と道士、そして婦女だけは特例として除外されていました。


理髪店の前を通り過ぎると路地。



お邪魔してみました。







さらに奥へ。







この胡同を歩いたのは昨年2017年の12月のこと。2017年は断るまでもなく酉年だったはず
なんですが、向かって左側のお宅を見ると、玄関にはなんと2016年申年の年画が。



こんな経験は初めてなので、妙な感動を覚え、じゃあ、次のお宅は一年さかのぼって、
ひょっとしたら未年か、などと楽しくもお馬鹿な期待に胸をワクワクさせながら、次へ。



ちゃんと酉年の年画。
ガッカリするやらホッとするやら。





それにしても、申年の年画の貼ってあるお宅は、どうして2016年で時が止まってしまっているのか。

この界隈の胡同在住の方に聞いた話が頭をよぎる。
それは、この周辺の再開発をめぐる開発関係者と住民との間に生じたさまざまな問題というシリアス
なものでした。開発業者と住民との間には、部外者の目には見えない静かなバトルがくり広げられら
ているようです。



また路地が。







路地中の路地へ。





どうやら奥が深そうです。









好物の白菜や長ネギがありました。外に出しっ放しにしておくと、旨味が増すんだとか。

見上げると、洗濯物が。



干された洗濯物を見つけると、ついつい写真を撮ってしまいます。
青空を背景にした洗濯物は美しいです。
お日さまの温もり、生命の温もりを感じるからでしょうか。




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