北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第175回 北京の胡同・何家胡同(後) 胡同徘徊から子供の絵と史家胡同博物館、白菜と腊八粥、灯籠と灯節などに及ぶ。

2017-12-26 11:23:40 | 北京・胡同散策
可愛らしい細い小道。
初めてこの胡同に迷い込んだ時、
「突き当りを左かな、それとも右かな」
などと考えながらも、ちょっと不安になり、これ以上進むのにちょっとためらいを覚えた
ものです。

この細道は左は行き止まりですので、右、方向としては南方面へ。



右折すると、再び短い路地が続いています。





この胡同に住んでいる子供がチョークで塗ったようですが、わたしには美しすぎる。



ちょっと横道にそれますが、北京の胡同には、幼稚園の生徒たちが壁に描いた絵が、ちゃんと
保存されている場所があります。

その保存されている絵。



場所は、北京の良心“史家胡同博物館”内。

下の写真は、かつてここにあった史家幼稚園と園児達が描いた絵についての解説です。



史家胡同博物館にお立ち寄りの折には、壁に遺された昔の子供たちの絵も見逃さずに、
ぜひご覧ください。




落ち着きのある門構えが美しい史家胡同博物館。


突き当りの物置を今度は左折。







細く短い小道を抜けて、左側。





だいぶ寒い季節になっていたのに蔦が緑色を保っていました。
ひょっとして日当たりの良さが原因か?



蔓棚の上の物干し台では、洗濯物たちが気持ち良さそうに陽光を浴びていました。







前にマンホールの蓋が見えます。この蓋のところでコースが二手に分かれています。
右手に曲がって小道沿いに歩いて行くと永安路にある、もう一つの出入口へ。
まっすぐ進んで左折すると、今後紹介予定の“儲子営胡同”。

今回は、まずはまっすぐ進みます。









出入口の上に長ネギが干してありました。

長ネギや白菜のでまわる季節になると、胡同などではそれらを陽に干している光景を必ずと
いって良いほど見かけます。それはもう、風物詩のひとつ。

清末の敦崇『燕京歳時記』に、白菜についての記述がありましたので、ご参考に次に抜い
ておきました。白菜が単なる「おかず」ではなかったことが伝わる文章です。
“大白菜とは乃ち鹽漬けの白菜である。凡そ臘八粥を贈答する家では必ずこれをば添物と
 する。白菜の良悪しで其家の盛衰を卜ふことが出来るのだ。”
 (小野勝年訳註『北京年中行事記』より)

なお、引用中に見える「臘八(ラアバア)」とは、旧暦12月8日のこと。中国ではお釈迦様の成
道の日とされています。「臘八粥(ラアバアヂョウ)」とは、その日に食べるお粥のことですが、
上掲書には、当時の人々のこの臘八粥(ラアバアヂョウ)を作り、食べることへの並々ならぬこ
だわりをうかがい知ることのできる記述がありました。ご興味をお持ちの方はお読みください。
引用に当たり、一部表記を改めたり、加筆しています。
“毎年臘月(じゅうにがつ)七日に至ると果皮を剥き、器物を洗浄し、終夜仕度する。天明(夜
 明け)の時に至ると粥が煮熟するのだ。これを祖先に祀り、仏に供する以外に、親戚友人にも
 分かち贈る。贈るのには午(ひる)を過ぎてはならない。〔贈る場合は〕同時に紅い棗や桃仁
 等を用いて獅子や小児の類を製して粥の上に置き趣向を凝らすのだ。”
“「燕都遊覧志」を見るに、十二月八日、朝廷では百官に粥を賜る。民間でも亦臘八粥を作る。
 果物・米穀其他雑多な品物の多く入った粥を勝れたものとする。と記して居る。今日では百官
 に粥を賜ることはないけれど、貴族等は粥を互いに贈答し、巧みを競い奇を争う。”

かつての中国の人々は「臘八粥(ラアバアヂョウ)」をつくり食べ、五穀豊穣を祝い、あるいは祈
願しました。今まで、お粥屋で何気に食べていたお粥ですが、次回行った時には、目の前に置か
れたお粥や添物の白菜とじっくり向き合ってみたいと思います。










灯籠を模した紙で作った小さな飾りがさがっていました。



胡同を歩くと軒先に吊るされた紅い灯籠(提灯)を見かけますが、灯籠で見逃すことが出来ないのは
なんといっても“灯節”(ドンジェ)。やはり敦崇『燕京歳時記』に「灯節」についての記録があり
ますので次にその一部を抜いておきました。灯節の時の清末の北京の街の様子の一端を垣間見るよ
すがともなれば嬉しいです。
“(旧正月)十三日から十七日に至るまで、一様にこれを燈節というが、ただ十五日のみは正燈と
いう。毎年燈節に至ると宮廷では饗宴を行い、花火を放ち、市肆では燈籠を吊るす。目抜きの
大通の燈火は東四牌楼及び地安門が最も盛である。工部のものがこれに次ぎ、兵部又これに次ぐ。
他処は皆それに及ばない。東安門、新街口、西四牌楼の如きも亦やや観るに足るものがある。”
“各種の燈籠は多くは紗絹(うすぎぬ)、硝子(ガラス)及び明膠(さらしにかわ)を以って作り、
〔其面には〕並びに古今の故事を画いて玩賞に供している。市民の器用な者は又結氷させて
 器を作り、麦苗を栽植して人や物の形を作る。華にして侈ならず、朴にして俗ならず、殊に
 観るに値いするものである。”

上の文章を読みますと、灯籠を吊るすのは「燈節」の期間であったことが分かります。しかし、現
在は季節にかかわりなく吊るされた灯籠を見ることができるようになりました。

文中に登場する「東四牌楼」「地安門」「東安門」「新街口」「西四牌楼」はそれぞれ有名な場所
ですので説明は省略させていただきますが、ここでは「工部」「兵部」について簡単に触れておき
ました。

「工部」「兵部」ともに当時の役所名。場所を確認するために次に地図を掲げておきました。

まずは、清の時代。
オレンジ色の棒線で囲んだところがそれですが、北から兵部、その南隣に工部があったことが
分かります。


場所はミドリ色棒線部の「天安門」の東南方向、現在の「東長安街」をまたいだあたり一帯、
中国国家博物館の東側北寄りに位置していたと言って良いかもしれません。
地図は『清北京城街巷胡同図 乾隆十五年(公元1750年)』(『北京胡同志』)を使用。

ついでに民国期の地図を見ますと、この辺りは、各国使館区であった「東交民巷」の一部で、
イギリスとロシアの「操場」などが置かれていたことがわかります。
地図は民国期に発行された『北京内外城詳図』(複製)を使用。



ちなみに、灯籠関係で書き落とすことのできない事項を二つほど。
北京の有名な場所のひとつとして「南池子大街」がありますが、その道沿いには清の時代に
内務府灯籠庫のあったことに由来する“灯籠庫胡同”という胡同がありますので、お近くに
行かれた折には、ぜひお立ち寄りください。

もうひとつ。
先に挙げました清末の敦崇『燕京歳時記』の訳註を手がけた小野勝年さんは、「灯籠」につ
いてその註で次のように記しているのは記憶するに値する内容を持っているかと思われます。
ご参考になれば幸いです。
 「D.Bodde氏は灯籠の意味を解して、これは太陽の光と暖さとを迎える古代の儀式に根源
 し、西洋の復活祭とも或る類似を持って居る。そして又此祭は春耕の為の降雨を招く儀式
 でもあると云って居る。」(小野勝年訳註『北京年中行事記』より)
 






レトロでモダンな幾何学模様を施したお宅がありました。



このような幾何学模様が北京の住居の模様として施されるようになったのはいつごろのことなのか。
ご存知の方がいらっしゃいましたら、当ブログのコメント欄にご一報していただけるとありがたい
です。よろしくお願い致します。





















この胡同の北側出入口。

写真奥を横切るのは“儲子営胡同”。



ここで再び前にご覧いただいたマンホールのところに戻り、今度は右手に曲がり、永安路にある、
もう一つの出入口へ。







地元通州の胡同の玄関上によく見かける「花瓦頂」がありました。



こちらの玄関の両脇に描かれた子供の絵。





子供の絵を過ぎると、もう少しで永安路沿いの東側出入口に到達します。




初めて訪れ、上の写真の門扉に対面した時の記憶が生々しく残っています。

門扉に対聯が刻まれた門聯。





門環、護門鉄。美しい青。





前を横切るのは永安路。



この出入口を出て左、東方向にほんの少し歩きますとかつて皇帝が渡った“天橋”です。


永安路側から見た何家胡同東側の胡同口。




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