はじめに
縄文ヒトは「すべてのものに魂があり、すべてが生きる」という「縄文の心」を貫いている。自然現象にもヒトの部位に例えてとらえている。「ヒト化(擬人化)」と言うことがある。
ところで、大船遺跡にはたくさんの円筒型土器はあるが拡大して細かいところを観察するような土器はネットで見出せなかった。
土器は「時期」と「形式」を調べると飾りにまわってしまっているのか主役をはずされているようだった。必要な土器は展示されているだろう。異なる土器を探して解釈することにした。
漆塗りの急須状の遺物を対象とした。
「注口状」の部位が「滝」に当てはまると認知している。縄文ヒトは、自然だけでなくあらゆるモノをヒト化することによって自然(あらゆるモノ)と共存することを願っているとも思える。「滝」をヒト化して共存して何を願っているのだろうか?現代ヒトは滝を見て何を思うだろうか?何かを感じる。
同じ意識で縄文ヒトも接していたと思う。同じヒトである。
縄文ヒトは滝をどのように意識していたのだろか。赤く漆が塗られているのは再生を願ってか死者への感謝かであろうか。
思うこと
縄文土器があれば、盛土などの世界が見つかったとも考えられる。土器は主役にするべきだと感じた。
縄文楽 浄山(北黄金貝塚ガイド 小倉)