気軽に茶道をしてます。

日々のお稽古とともに、できるだけ手作りのお菓子で
お茶を楽しんでいる様子や、四季折々の変化もお伝えします。

花入は宗全籠で

2015-06-20 00:49:20 | しつらえ
 
ほたるぶくろ、バイカウツギ、ナデシコ、ヤマアジサイ、ミズヒキ
 
しとしとと雨が降る中、昨日の予定の水道管の入れ替え工事が今日になりました。
前の道路なので、お稽古中騒音がたえまなく響き、本当に失礼いたしました。

さて風炉の季節になり、お気づきでしょうか。籠花入に変わっていたのを
籠花入は特殊な例外を除き、風炉に用いるの花入【花生(はないけ)とも】で、
風炉の季節に限るようになったのは明治時代初めからです。
さて籠花入は、唐物、和物に分類され、置花入、掛花入、釣花入があり、
竹、藤、藤蔓、通草蔓、木の皮などを編んだ花入の総称です。
唐物籠はで、書道の楷書となり、細かく削った籐が素材で、姿にすきのない硬さがあり、
和物籠はで、行書となり、竹が主で、隙だらけの反面、親しみやすさが漂います。
和物として農具や漁具【魚籠(びく)、桂川籠など】を転用したもの、
そして茶人の好みものがあり、お床の花入は宗全好み宗全籠(そうぜんかご)です。
下の写真は、茶人、久保田宗全の手造りとして有名な置花入の宗全籠です。
見てみると手があり、花がその円形の手の内に収まる安定感があり、
籠自体は低いが、手により倍以上の空間を占め、床の間と釣り合いがよさそうですね。
 
裏千家四代仙叟好みの籠花入れ(俗称手無し宗全籠)に籐の手が付いたのが、宗全籠になります。

なお、籠の花入を置くときには薄板は用いません。
「古織(古田織部)、籠の花入を薄板なしに置かれたるを、
休(利休)称(賞)して、古人うす板にのせ来たれども、おもわしからず。
是はお弟子に罷り成るとて、それよりじきに置く也」と『茶話指月集』より



お床に蛍香合を

2015-06-19 00:07:25 | しつらえ

今年は早くも大仏蛍が5月末から飛び始めており、最盛期は6月中旬、
蒸し暑く、雨が降る前の夜8時過ぎが、一番の見ごろですね。
東大寺は広く、二月堂裏参道付近(花山椒のブログを参照)ですが、
穴場として、元正倉院付近にも出ているそうです。
本当は昨晩がよかったのですが、今日になり、夕方から
二月堂から見る夕焼けをセットで楽しもうと出かけました。
今年はさらに外国からの方が多いだろうなと思いつつも・・・
なんと急な強い雨、空を仰ぎながら、東大寺を前にして方向転換、
家にて香合での蛍狩りに。
    
”一閑蛍”八角香合 道場宗廣
・道場宗廣さんは、加賀蒔絵や漆芸作家で、料理の鉄人・道場六三郎さんの御兄弟だそうです。
  栞には、厳父より漆の技を教えられ、その難しさと漆の持つ不思議さとに取りつかれ、
      茶道を心の糧として、心ある器を作ろうと鋭意努力してまいりました。
      漆の持つ美しさが茶道具に表現出来得ますれば、私の喜びこれに優るものはありません。
  と
・一閑張香合は、漆香合の和物で、茶人好みの香合に分類されます。特に宗旦さんは一閑張り香合を
      好まれ、有名な”桃香合”などがあるそうです。(茶道具の世界10より)
・一閑張りとは木型を使って紙を張り重ね,型から抜き取って漆を塗った器具と、
      木地に紙を張ったものもある。薄茶器・香合・箱・机などを。 (大辞林より)
  一閑で思い出されるのは、千家十職の「飛来一閑」さんです。初代の方は中国の明から亡命し、
  大徳寺の清厳和尚の紹介で、宗旦と知り合われ、茶道具を作るようになったそうです。
  清の侵攻が、日本の茶道に影響を及ぼすなんて、不思議な縁ですね。

宇治へ伺って以来、ブログを綴るたび、茶と禅について深く考えさせられます。
伊藤古鑑さんの本を読み込んでみなくては・・・

今週のしつらえです。
  

水無月と薄氷で

2015-06-18 00:26:25 | 主菓子とお干菓子
 
水無月(みなづき)をやっと今朝の稽古にお出しできました。
皆さんご存知でしょうが、簡単に紹介します。

外郎(ういろう)の上に小豆を載せたお菓子ですね。
小豆は、魔よけの力を持ち邪気を払うもの
三角の形も、魔よけ、厄病よけ、の意味だそうで、特に
白い外郎氷を表し、古来氷室(洞窟など)で、氷や雪が冬のうち保管され、
 水無月(6月)の頃、朝廷や幕府に献上されますが、庶民には、氷や雪は高値の花でした。
 せめて、氷をういろうで表し、氷で涼をとったつもりになるお菓子なのです。

京都の人々は、6月30日に夏越しの祓え(なごしのはらえ)という習慣があり
「水無月のなごしの祓する人はちとせの命のぶというふなり」
拾遺和歌集で読まれている通り、神社にお参りをし、
夏を迎えるにあたっての邪気払いのお菓子をいただくことで、
厄をのがれ、夏を迎えようとする気持ちを込めて食してきたものです。

なお奈良には東大寺手前に、氷室神社があります。


干菓子
”薄氷”富山 白梅軒五郎丸屋
菓子箱を開けると、厚さ1cmほどの真綿で覆われ、取ると
さらに薄手の紙があり、お菓子がうっすらと見え、
雪が消えかかる如月、弥生の寒い朝がイメージされております。
薄い煎餅に、和三盆糖でコーティングされており、
薄氷が解けるように上品な甘さが口の中に広がります。
宮中御用達という伝統あるお菓子です。

地方により、氷をイメージしたお菓子が、いろいろあり、興味が尽きないですね。
金沢は勿論、北陸新幹線で沸く、富山へもお出かけください。

『山門を出れば日本ぞ茶摘うた』萬福寺にて

2015-06-17 07:53:08 | 散策
山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた   菊舎

この句碑は黄檗山万福寺の総門から続く三門前・横にあります。
寛政2年(1790)3月に、38才の菊舎がこの寺を初めて訪れた時を詠んだ一句で、
 白壁土塀の続く黄檗山の、中国明風のたたずまいに酔いしれて、
 あたかも中国にいるような錯覚に陥り、異国に思いを馳せていたが、
 境内から一歩三門を出ると、門前の茶畑から茶摘み唄が聞こえてきて、
 ここは日本・・・宇治なんだ・・・と我に返った一瞬を詠んでいます。

菊舎とは一字庵田上菊舎といい、24才で寡婦となり再婚の道を選ばず、
俳諧の道をこころざし、芭蕉を慕い出家して諸国行脚に明け暮れ、
一世を風靡した江戸後期の女流俳人(美濃派)である。
放生池より三門を(ハスは蕾)
このように黄檗山萬福寺付近には茶園があり、宇治茶発祥の地とされるとともに、
煎茶道にも深く関与しております。つまり
隠元の来日と萬福寺の開創によって、新しい禅がもたらされただけでなく、
インゲンマメ、孟宗竹、スイカ、レンコンなどとともに
中国文化として煎茶が日本へと持ち込まれました。
江戸中期には煎茶道の祖・売茶翁へと引き継がれております。
どうして煎茶道が盛んになったかというと
①茶道の世界において形式化が進みつつあったことへの反発。
②煎茶自体が当時最新の中国文化であり、形式にとらわれずに煎茶を飲みながら
 清談を交わすいわゆる「煎茶趣味」が文人の間で急速に広まった。
③煎茶趣味から煎茶道へと、売茶翁が模倣の域から独自の世界への方向を示された。
④煎茶は江戸や京都・大坂を中心に上流階級にも広く普及した。
 
伝統を守りつつも、
   知れば知るほど 奥が深いものなのですが・・・

萬福寺の参道踏み石は龍の鱗?

2015-06-16 00:25:36 | 散策
拝観のしおり  


京都府宇治市にある黄檗山萬福寺へ伺った折、
総門から入った直ぐの茶店のお姉さんから、
 ”参拝者の方々は、ほとんど参道の真ん中を通られます。
 これって、だめなんですよ。
 踏み石のように見えますが、45度傾いており、龍の鱗とされております。
 しおりを見てください。禅僧さまは両側の石の上を通っておられますよね。
 帰りに門の前で、頭を下げていただければ ”
  
調べてみますと龍の鱗ではなく、龍の背と言われています。 
 *黄檗山萬福寺は日本三大禅宗の一つ黄檗宗の大本山で、
  通常の禅宗のお寺にある『龍』の天井画がありません。
  (『龍』は水を司り火災からそのお寺を守ると言う意味と共に、
  仏法を守護する神獣として聖なる動物とされています。)
  萬福寺では寺院全体で龍を表す明代末期の伽藍様式をとり、
  西を正面とし、左右相称に整然と配置されています。
  そのため参道はその龍の背として表されており、
  その背中を歩く事はタブーとされております。
 龍目井(りゅうもくせい)
萬福寺の前に左右二対あり、萬福寺を龍の身体、この井戸を龍の目としています。
 この井戸は寛文元年(1661)冬、隠元禅師が掘らしめられたもので、
『山に宗あり、水に源あり、龍に目あり、古に耀(かがや)き今に騰(あが)る』
 隠元禅師        出典:【龍目井の駒札】より

御参拝のおりは、くれぐれも参道の両側の石の上を歩いてくださいね。

花月札を使って

2015-06-15 00:24:49 | お稽古
    
今朝の稽古は4名、皆さんまずは着物に着替えながら
お互い近況報告・・後、御稽古開始。

月;初炭、花;お濃茶、1;お薄、2;後炭とし、花月札を使って
月の方は、風炉の初炭が一年ぶり、
花は風炉のお濃茶が初めての方が、
2も風炉の後炭が初めての方が引かれました。

皆さん新鮮な気持ちで取り組む事ができました。

お軸:”深山松風幽 
続きがあり、”深山松風幽 深知今日事
(しんざん しょうふうゆうにして ふかく きょうのじを しる)
深山の松に吹く風が、松籟の音を立てている。
幽玄極まりないその境地に、自らが今日あることの意味を深く悟った。

茶室にてお軸は、自らの深い心の奥はどうだったかを問われているのですね。
稽古で、体は疲れましたが、一緒に勉強させていただける有難みを感じております。
         
主菓子は”青梅”(手作)             干菓子は和三盆に夏蜜柑ピール


駒蹄影園碑(明恵上人歌碑)に

2015-06-14 00:11:06 | 散策
鳥獣戯画を京都で鑑賞させていただいた折、柿茶入蔕が展示させており、
明恵上人のことを知り、駒蹄影園碑を探しに京都宇治に伺いました。
  
梅雨の中休み、まずはお茶を買いに、宇治の小山園本社へ。
駐車場からもうすでに、お茶のよい香りが、
詰め立てを、いつもありがとうございます。
  曼荼羅
少し足を延ばして、黄檗山萬福寺の総門前へ。
そこに宇治茶発祥のエピソードを伝える明恵上人の歌碑、
駒蹄影園碑(こまのあしかげえんひ)がひっそりと木々の間に。
 栂山の尾上の茶の木分け植ゑてあとぞ生ふべし駒の足影 (明恵上人)
鎌倉時代、お茶の栽培の中心地は京の栂尾(とがのお)高山寺でしたが、
そこ栂尾から明恵上人が、宇治五ケ荘大和田(茶園:駒蹄影園、現在消滅)にて、
馬を歩かせ、その蹄の跡に種を播くように教えたという故事に基づくそうです。
  
総門の摩伽羅以外に見つめられることなく、ひっそりと。

摩伽羅(まから)について追記しました。
  
屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、
摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えている。
マカラはサンスクリット及びパーリ語でワニを表す言葉で、
東南アジアでは仏教寺院の入口などに用いられている。

日々精進

2015-06-13 00:25:36 | 日記

昨日のお稽古の拝見の折、
”これが、蜑小舟香合なんですね”
前日のブログを見ていただいていたようで、うれしくなりました。

それで思い出しました。
先日、夜の新着ブログの欄を何気なく見ておりますと
蜑小舟香合(あまをぶねこうごう)から”というスレッドを見つけました。
ご丁寧なお言葉をいただき、本当にありがく思いました。
茶道は総合芸術と言われているように、尽きない楽しみがあります。
勉強不足ではありますが、知ると云う事が楽しみで喜びです。
一歩一歩、謙虚な気持ちで、精進あるのみですね。

ニッコウキスゲのつもり(ノカンゾウです)

ひとりで着物を着てお稽古を

2015-06-12 00:04:26 | お稽古

子育て真っ最中のお二人、いつもは洋服。
今日は、子供を送り出し、家事もすまし、
着物をと、早めにおいでになりました。
一時間近く掛りましたが、なんとかお稽古の開始です。

風炉運び点前で、お薄の稽古です。
裾捌きもいつもとは違い、始めは足運び、合いませんが、徐々に
畳には着物がしっくり、お床の前に座ってもいい感じです。
より厳粛になりました。
私も、初心忘るべからず。

主菓子;青柳(百合根きんとん)を作りました。

干菓子;花氷(伊賀の紅梅屋)、夏蜜柑のピ-ル(自家製)

しつらえです。
 玄関:色紙(栖鳳)
 お床

帛紗は洗ってはいけません

2015-06-11 00:28:25 | 日記

先日、先生のお稽古の折、
”帛紗は清めに使うものなので常にきれいなものを、一年くらいで新しいものに…”
和敬清寂、おもてなしの心そのものなのでしょうか。
利休居士の次のお言葉からなのでしょうか。
茶巾なども常に新しく、清げに』する事が極意と
今まで帛紗は汚れたら、なんとなく新しく買い揃えてはおりましたが、
洗って使えるのではないのかな?と思い、そのまま遺しておりました。
洗ったら、どうなるのかな
・・・ホームクリーニング・・・
5枚洗って縦に縮んだものが2枚、微妙にゆがんだものが2枚、
唯一、中学生の時、初めて買ってもらった帛紗は、縮みもせずそのままでした。
????
帛紗の寸法については、利休百首にあります。
  帛紗をば竪は九寸よこ巾は 八寸八分曲尺にせよ
ここに歌われた帛紗の寸法は、利休居士が小田原出陣の際、
妻宗恩が、紫の裂に棗を包んで送った寸法を
利休居士が気に入り、茶の湯の帛紗としたからだと伝えられます。
その寸法はセンチでは、縦 :九寸は二十七センチ、
           横幅:八寸八分は二十六センチ四ミリ

縦横の寸法が二分(約六ミリ)違うんですね。

*帛紗(ふくさ)は、服紗・服茶・栿紗・幅紗とも(茶道具大辞典より:淡交社)