YouTubeは確実に僕のテレビっ子魂を補ってくれる。
そしてキャンプ動画を観て
「あの道具が欲しい」と
Amazonの「欲しいものリスト」に加える。
テレビと同じCM効果はある。
趣味趣向に特化したマニアックな情報をどんどん深く興味をそそられる。
朝起きて布団の中でキャンプ動画を観て
3つくらい欲しい道具をリストアップ
それだけである程度はワクワクするから
満たされてはいるのだろうが
冬のキャンプがイイらしい。
いや、キャンプは冬、らしい。
確かに夏のキャンプは虫が、ねぇ。
僕がキャンプファイヤーが好きではないのも多分、あの夏のお祭り気分のチャラさが好きではないのだと思う。
火は静かに見つめて
料理にも使わせてもらう。
それくらいがちょうどいい。
野外で遊ぶ静かなキャンプの良さを感じる青少年キャンプがいい。
自然体そのものが素敵だ。
多分、楽しくないのに無理やり笑かすキャンプファイヤーが好きではないのだろう。
「いやいや、うちの団体は静かにファイヤーやってますから」
そういうご意見もある。
でも実際大人になった僕自身が「キャンプファイヤーのイメージは?」と問われて思い浮かぶのが、そのつまらない思い出であることの不幸という事実がある。
楽しかった、という思い出になっている人たちも多いだろう。
でもそれは自然体なのか?
指導者達はその幼きhokutoman少年の素直な気持ちを大切にしてくれていたのか?
それは確実に指導者のエゴであったと今になって感じる。
ただ無理やりの思い出を植え付けられたという事実を。
ならばどうするのか?
「野外活動での自由な時間」
これが長い方が良いと思う。
安全を確保した中で、
野外で青少年達が自由に過ごす。
この時間を充分に取れるかどうかにかかっていると思う。
指導者は怖いのだ。
参加した本人が「つまらなかった」と保護者に話をして、自分の評判が下がるのが。
だから「保護者に『楽しかった』って話してね」と植え付ける。
もうそんな野外活動には意味がないし、興味もない。
野外活動は、その本人の"素"の部分があらわれる。それは大人になっても変わらないのだが。
そういう環境でその本人がどんな行動をとるのか?それが大切だと思う。
喧嘩するもの、駄々をこねるもの、甘える、ホームシック、わがまま
その全てがその本人の弱さを露呈する。
しかしそこから変化していくものが現れる。
我慢、手伝う、初めての友達ができる、一緒に遊ぶ、軽い怪我をする、でも遊ぶ、楽しいことを探す、休む、そして…
夜、火を見つけて、集まる、語り合う、それでも遊ぶ、その中でも静かな火を見る
その全てがもし野外活動の中にあって
たまたま隣にいた別の学校の友達がいる。
また会いたいねと約束して解散する。
また参加する。
そんなキャンプをクリエイトしたい。
僕はキャンプ指導者を退いた。
たまたま引越したから?
いや、僕はキャンプ指導者の「在り方」を模索したかったのだと思う。
未だにキャンプファイヤーやカレーを作る野外活動をやっているのかどうかさえも知らない。
ただ僕自身が変化して、時代も変わった。
教育の形も変わりつつあって、
限界も問われ始めた。
指導者たちも必死で食らいついている。
それに肌で触れてパニクっている人達にも遭遇する。
僕にとっては被害としか思えないのだが、
相手は真剣なんだろう。
「新しい野外活動の提案」
これが僕の2017年なのかもしれない。
衝動のように「焚き火がしたい」と思うのも、
その魅力や扱い方、「プログラムとしての焚き火」を研究したいのかもしれない。
火の付け方、組み方、扱い方、そんなことではなく、
心
焚き火を通して、"心"を震わせたいのだ。
まさに『響育者』
カッコいー!
そしてキャンプ動画を観て
「あの道具が欲しい」と
Amazonの「欲しいものリスト」に加える。
テレビと同じCM効果はある。
趣味趣向に特化したマニアックな情報をどんどん深く興味をそそられる。
朝起きて布団の中でキャンプ動画を観て
3つくらい欲しい道具をリストアップ
それだけである程度はワクワクするから
満たされてはいるのだろうが
冬のキャンプがイイらしい。
いや、キャンプは冬、らしい。
確かに夏のキャンプは虫が、ねぇ。
僕がキャンプファイヤーが好きではないのも多分、あの夏のお祭り気分のチャラさが好きではないのだと思う。
火は静かに見つめて
料理にも使わせてもらう。
それくらいがちょうどいい。
野外で遊ぶ静かなキャンプの良さを感じる青少年キャンプがいい。
自然体そのものが素敵だ。
多分、楽しくないのに無理やり笑かすキャンプファイヤーが好きではないのだろう。
「いやいや、うちの団体は静かにファイヤーやってますから」
そういうご意見もある。
でも実際大人になった僕自身が「キャンプファイヤーのイメージは?」と問われて思い浮かぶのが、そのつまらない思い出であることの不幸という事実がある。
楽しかった、という思い出になっている人たちも多いだろう。
でもそれは自然体なのか?
指導者達はその幼きhokutoman少年の素直な気持ちを大切にしてくれていたのか?
それは確実に指導者のエゴであったと今になって感じる。
ただ無理やりの思い出を植え付けられたという事実を。
ならばどうするのか?
「野外活動での自由な時間」
これが長い方が良いと思う。
安全を確保した中で、
野外で青少年達が自由に過ごす。
この時間を充分に取れるかどうかにかかっていると思う。
指導者は怖いのだ。
参加した本人が「つまらなかった」と保護者に話をして、自分の評判が下がるのが。
だから「保護者に『楽しかった』って話してね」と植え付ける。
もうそんな野外活動には意味がないし、興味もない。
野外活動は、その本人の"素"の部分があらわれる。それは大人になっても変わらないのだが。
そういう環境でその本人がどんな行動をとるのか?それが大切だと思う。
喧嘩するもの、駄々をこねるもの、甘える、ホームシック、わがまま
その全てがその本人の弱さを露呈する。
しかしそこから変化していくものが現れる。
我慢、手伝う、初めての友達ができる、一緒に遊ぶ、軽い怪我をする、でも遊ぶ、楽しいことを探す、休む、そして…
夜、火を見つけて、集まる、語り合う、それでも遊ぶ、その中でも静かな火を見る
その全てがもし野外活動の中にあって
たまたま隣にいた別の学校の友達がいる。
また会いたいねと約束して解散する。
また参加する。
そんなキャンプをクリエイトしたい。
僕はキャンプ指導者を退いた。
たまたま引越したから?
いや、僕はキャンプ指導者の「在り方」を模索したかったのだと思う。
未だにキャンプファイヤーやカレーを作る野外活動をやっているのかどうかさえも知らない。
ただ僕自身が変化して、時代も変わった。
教育の形も変わりつつあって、
限界も問われ始めた。
指導者たちも必死で食らいついている。
それに肌で触れてパニクっている人達にも遭遇する。
僕にとっては被害としか思えないのだが、
相手は真剣なんだろう。
「新しい野外活動の提案」
これが僕の2017年なのかもしれない。
衝動のように「焚き火がしたい」と思うのも、
その魅力や扱い方、「プログラムとしての焚き火」を研究したいのかもしれない。
火の付け方、組み方、扱い方、そんなことではなく、
心
焚き火を通して、"心"を震わせたいのだ。
まさに『響育者』
カッコいー!