Facebookの憂鬱
Facebookを利用される人は多いでしょう。私の知り合いから友人に至るまでアカウントまでは取っています、という人は少なくない。
しかし最近のFacebookの無礼と本質的な危険性に物申す。
まず無礼はFacebookのせいではないという人がいるかもしれない。しかしあの「友達申請」という厄介な押し売り行為について。その手軽さからボタンを押したら相手が返事をしてくれると思っている。
そのシステムは人のコミュニケーション能力を確実に奪っていると思う。コミュニケーションを活発にするためのツールであるはずがだ。
そして騙された。
自分は考える力を奪われている。
相手がどの様に感じるか?いや、自分の意思と関係なくPR広告が配信されたりもする(コレは少しずつムカついてくる)。
わ、わかっていたのかもしれない。
そういった危険があることも利用してやろうと卑しい心が「いいね」という罪のなさそうなボタンを押させたのかもしれない。
「友達申請」の気色悪さには、歯止めがない。
Facebookを知らない人もいるかもしれない。計り知れない外国の道具を知らずに使うのに抵抗があった人にとっては知る必要もないと感じるかもしれない。
しかし今、「友達と深く繋がるのはFacebook、LINE。多くの人と繋がるならTwitter」などと認識している人もいるかもしれない。
実際、私も数年間使ってきた感想としてそう感じていた。しかし疑問も感じてきた部分もあった。だから後発のLINEについては利用を見合わせてきた。
今では日本のSNSの主流がLINEに変わりつつあるらしいが、考え方やシステムはFacebookとほぼ変わらないと思う。デザインくらいが大きく変わっている。そう、認識している。
日本の若者は大体LINE利用が多いと聞く。新しい出会いから連絡を取る方法として、電話番号やメールアドレスを聞くよりLINEのアカウントを聞くらしい。あとはアクセスを承認し合う、らしい。
そこには出会ってすぐで、まだよくわからない人との緊張感や品格のある対応を心掛けるなどの礼儀はない。
無礼であろうとなかろうと繋がったことが目標である。
「人間は考える葦である」

といったフランスの哲学者パスカルは完全に否定されている。
(この言葉には葦の風に吹かれてへばっても立ち上がる姿を人間にみたてた名言であることから、下に自然災害の話を少し絡めることになった)
自らを葦の様に自然災害に弱いなど謙虚に考えていない。地震を予知できると断層を調べ、津波には20mやそこらの堤防を立て、洪水には護岸整備で対応する。
しかしその「あがき」をあざ笑うかの様に竜巻や津波、洪水で人が死ぬ。地震も揺れだけじゃなく、人類が神の力を得たと勘違いした核施設をひねり潰した。
台風は海をかき混ぜ生態系のバランスをとる。
洪水は土地を肥沃にして動植物を育てる。
地震は恐らく、地球という地盤の成長のバランスをとっている。
それらの自然災害は人類が生まれるもっと前から日常として起こっていたのだ。
そんな考えに及ぶこともなく、自然をコントロール出来ると未だに考えている。いや、深く考えずに安直に思いついてやってしまう。
そんな「思慮の欠如」が知らず知らず自分の心に根付いてしまう。
その「はじめの一歩」がSNSに潜んでいると思う。
自分は「絆」「繋がり」「コミュニケーション」を図っている。だから「友達になって」と。
日本人は特に「みんながやっているなら」と危険より仲間意識が勝ってしまう。非常に社会性が強いとも言える。しかし思慮の欠如ともいえる。
だからFacebookが流行ったら取りあえずアカウントを作り、Twitterが熱いとこぞってつぶやいた。
いわんやこの私も自分の明確な目的意識がアカウントを連立させたわけではなく、ぼんやり「やってみよーかなぁー」と軽く始めた。思慮の欠如だ。
どんなことでも同じだが、その危険性や特質をきちんと知って「自分で判断して是非を問える」ことが重要であると思う。
SNSがいじめや誹謗中傷の温床になってはいけない。そしてその危険性を若者が「分かって」「考えて」利用しているのか?そこが重要だ。
だから学生は一度HRの時間か総合の時間に「環境教育」「キャリア教育」などの時間とは別に「メディア教育」とかで携帯利用の在り方を徹底的に語り合う時間を取るべきだ。ってか既にやってるのかな?ってか教員は日本で最も「人に考えさせること」が下手な人達だと思っているので、ちゃんと学びにはつながっていないとは思うが…(偏見…ごめんなさいm(_ _)m)
大人はたちが悪いのだが、自ら気づくか、このブログから考えるか人と話すかしてほしい。
「ふんっ!そんなの分かってるし、気をつけている!」と感じた人は恐らく気づかないうちに淀んだダークサイドが忍び寄っていると思う。

私はFacebookへの書き込みは只今行っていない。アカウントはそのまま。しかし友達申請には決して応じない。特にメッセージを残さないクソ申請は「逆に」友達から迷惑な知り合いまでランクダウンする。
Twitterは引き続き継続利用する。繋がりというものではなく、「発信」の足掛かりとする。ブログへの入口として。
LINEはアカウントを作らない。
但し可愛い女子に「どうしても」と言われたらある程度の危険を覚悟してビクビク作る。結局、悪は愛に屈するのだ。
そんなことはさておき、この内容は筋が通っているのだろうか?ただのLINEに乗り遅れたおっさんのボヤキになっていないだろうか?
っちゅーか、本当はLINEで若者たちと繋がりたいと思っているのではないだろうか?深くなくていい。ライトなエンターテイメントでエンジョイしたいだけじゃないかと。
いかん。
フォースでダークサイドに引き込まれている。

Facebookを利用される人は多いでしょう。私の知り合いから友人に至るまでアカウントまでは取っています、という人は少なくない。
しかし最近のFacebookの無礼と本質的な危険性に物申す。
まず無礼はFacebookのせいではないという人がいるかもしれない。しかしあの「友達申請」という厄介な押し売り行為について。その手軽さからボタンを押したら相手が返事をしてくれると思っている。
そのシステムは人のコミュニケーション能力を確実に奪っていると思う。コミュニケーションを活発にするためのツールであるはずがだ。
そして騙された。
自分は考える力を奪われている。
相手がどの様に感じるか?いや、自分の意思と関係なくPR広告が配信されたりもする(コレは少しずつムカついてくる)。
わ、わかっていたのかもしれない。
そういった危険があることも利用してやろうと卑しい心が「いいね」という罪のなさそうなボタンを押させたのかもしれない。
「友達申請」の気色悪さには、歯止めがない。
Facebookを知らない人もいるかもしれない。計り知れない外国の道具を知らずに使うのに抵抗があった人にとっては知る必要もないと感じるかもしれない。
しかし今、「友達と深く繋がるのはFacebook、LINE。多くの人と繋がるならTwitter」などと認識している人もいるかもしれない。
実際、私も数年間使ってきた感想としてそう感じていた。しかし疑問も感じてきた部分もあった。だから後発のLINEについては利用を見合わせてきた。
今では日本のSNSの主流がLINEに変わりつつあるらしいが、考え方やシステムはFacebookとほぼ変わらないと思う。デザインくらいが大きく変わっている。そう、認識している。
日本の若者は大体LINE利用が多いと聞く。新しい出会いから連絡を取る方法として、電話番号やメールアドレスを聞くよりLINEのアカウントを聞くらしい。あとはアクセスを承認し合う、らしい。
そこには出会ってすぐで、まだよくわからない人との緊張感や品格のある対応を心掛けるなどの礼儀はない。
無礼であろうとなかろうと繋がったことが目標である。
「人間は考える葦である」

といったフランスの哲学者パスカルは完全に否定されている。
(この言葉には葦の風に吹かれてへばっても立ち上がる姿を人間にみたてた名言であることから、下に自然災害の話を少し絡めることになった)
自らを葦の様に自然災害に弱いなど謙虚に考えていない。地震を予知できると断層を調べ、津波には20mやそこらの堤防を立て、洪水には護岸整備で対応する。
しかしその「あがき」をあざ笑うかの様に竜巻や津波、洪水で人が死ぬ。地震も揺れだけじゃなく、人類が神の力を得たと勘違いした核施設をひねり潰した。
台風は海をかき混ぜ生態系のバランスをとる。
洪水は土地を肥沃にして動植物を育てる。
地震は恐らく、地球という地盤の成長のバランスをとっている。
それらの自然災害は人類が生まれるもっと前から日常として起こっていたのだ。
そんな考えに及ぶこともなく、自然をコントロール出来ると未だに考えている。いや、深く考えずに安直に思いついてやってしまう。
そんな「思慮の欠如」が知らず知らず自分の心に根付いてしまう。
その「はじめの一歩」がSNSに潜んでいると思う。
自分は「絆」「繋がり」「コミュニケーション」を図っている。だから「友達になって」と。
日本人は特に「みんながやっているなら」と危険より仲間意識が勝ってしまう。非常に社会性が強いとも言える。しかし思慮の欠如ともいえる。
だからFacebookが流行ったら取りあえずアカウントを作り、Twitterが熱いとこぞってつぶやいた。
いわんやこの私も自分の明確な目的意識がアカウントを連立させたわけではなく、ぼんやり「やってみよーかなぁー」と軽く始めた。思慮の欠如だ。
どんなことでも同じだが、その危険性や特質をきちんと知って「自分で判断して是非を問える」ことが重要であると思う。
SNSがいじめや誹謗中傷の温床になってはいけない。そしてその危険性を若者が「分かって」「考えて」利用しているのか?そこが重要だ。
だから学生は一度HRの時間か総合の時間に「環境教育」「キャリア教育」などの時間とは別に「メディア教育」とかで携帯利用の在り方を徹底的に語り合う時間を取るべきだ。ってか既にやってるのかな?ってか教員は日本で最も「人に考えさせること」が下手な人達だと思っているので、ちゃんと学びにはつながっていないとは思うが…(偏見…ごめんなさいm(_ _)m)
大人はたちが悪いのだが、自ら気づくか、このブログから考えるか人と話すかしてほしい。
「ふんっ!そんなの分かってるし、気をつけている!」と感じた人は恐らく気づかないうちに淀んだダークサイドが忍び寄っていると思う。

私はFacebookへの書き込みは只今行っていない。アカウントはそのまま。しかし友達申請には決して応じない。特にメッセージを残さないクソ申請は「逆に」友達から迷惑な知り合いまでランクダウンする。
Twitterは引き続き継続利用する。繋がりというものではなく、「発信」の足掛かりとする。ブログへの入口として。
LINEはアカウントを作らない。
但し可愛い女子に「どうしても」と言われたらある程度の危険を覚悟してビクビク作る。結局、悪は愛に屈するのだ。
そんなことはさておき、この内容は筋が通っているのだろうか?ただのLINEに乗り遅れたおっさんのボヤキになっていないだろうか?
っちゅーか、本当はLINEで若者たちと繋がりたいと思っているのではないだろうか?深くなくていい。ライトなエンターテイメントでエンジョイしたいだけじゃないかと。
いかん。
フォースでダークサイドに引き込まれている。
