日月神示の研究と実践

日月神示を中心に、神道、密教などを研究、実践するブログです。農薬不使用栽培などについても述べたいと思います。

「流れの転換の向こう側1、われわれの内面の変化?」ヤスの備忘録

2010-09-25 05:09:21 | 日月神示関連の情報
 <ヤスの備忘録より記事転載>
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 「流れの転換の向こう側1、われわれの内面の変化?」


筆者の個人的な実感

なぜ筆者がこのようなことに関心を持つようになったのか一度書いておきたい。

強い好奇心

一言で言うと、このようなことに関心を持つようになったのは、押さえ切れないくらい強い好奇心からである。われわれは未曾有の歴史的な転換期に生きている。激変する地球環境、大きく編成が変わる世界経済、変質しつつる資本主義と貧困化が加速する先進国、そして日本も戦後65年間続いた国のかたちが根本から変わろうとしている。そうした変化の波が立て続けにいやおうなしになってきているのが、現代である。

そのようなときに、これからなにがどのように変化し、どのような環境でわれわれが将来生きることになるのかなんとしてでも知って見たいという強い欲望のような好奇心が、心の底から込み上げてくるのだ。

絶対的な安心感

だがそのような強い好奇心は、この先どうなるの分からないという、未来に対する不安感や恐怖感から出てくるものではない。逆に筆者の場合、絶対的な安心感が好奇心のベースになっている。

われわれは、これから大きな変化の時代を生き抜いて行かねばばらないことは間違いない。しかし、筆者も、そしてこのブログを読んでいる多くの読者も、さらにこの国と国民も、どれほど激しい変化と変動の波が押し寄せようとも、変化に適応し問題なくそれなりに生き残って行けるのである。まったく理由は分からない。ただ、そのような絶対的な確信のようなものが筆者にはある。安心しきっている。

人は簡単には死なない

個人的な体験になるが、7年前心筋梗塞の発作で死にかけた体験がある。心停止を二回経験した。もやのかかった河の横に立っていると思ったら、いきなり引き戻された。意識が戻った時の最初の感覚は、「そうか。まだ自分の番ではないんだな」という強烈な実感だった。いずれ、機会があればどのような体験か書きたいと思っている。

おそらく、人がこの世を去る時期はすでに決まっている。なので、その順番がやってくるまで、どうやったって人は死なないし、死ねないようにできている。社会や世界がどれほど変化し、変動しようが人は死ねないし、生き続けるのだ。それも、決まった日常をいつも通りに生き続けることが普通だ。

私も、そしてこのブログの読者も、それぞれの与えられた人生を淡々と歩みながら、決まった時期が来るとこの世を去るようにできている。変化を恐れてはならないと思う。変化を受け入れ、順応して行くなら、自然と道は開けるようにできているのだ。ものごととはそうしたものであり、そう確信している。

変化の向こう側には、どんな世界と新しい自己が待っているのか見て見たいという欲望があまりに強い。その意味で言うなら、世界や社会の変動は、目まぐるしく移り変わる車窓の風景を見るようなものかもしれない。トンネルを抜け、次の駅に到着すると、そこは予想もしていない別世界だったりするのだ。

ならば、世界や社会がどのように変化するのか、思いっきり見て見ようではないか!それは、ジェットコースターに乗り、ギャーッと騒ぎながらも自分が振り落とされる心配はないのでスリルを楽しんでいるようなものだ。

筆者はこのような気持ちでこのブログを書いている。この高揚感を多くの人々と共有できたらよいと思っている。おそらく明るい未来は、変化を受け入れるこの楽観的な高揚感から開けるはずだ。

一度だけ筆者の主観的な思いのようなものを書いて見た。お許し願いたい。

今回からの記事

やはり、この夏にトレンドの転換が起こったと筆者は理解している。これから数回に分けて、このトレンドがどこに行き着くのか探って見たいと思う。場合によっては、われわれが予想だにしなかった方向に向かうのかもしれない。

今回の記事

中国との問題など、いくつか重要なテーマがある。また、金融のクラッシュに関する情報も入手した。もちろん当たるかどうかはまったく分からないが。これらのテーマはメルマガで書くことにし、今回の記事ではまったく別の話題について書く。

大きな転換はわれわれの内面にもやってきているのかもしれない。読者の方で、自分や周囲の人の内面に大きな変化を感じている人はいるだろうか?コルマンインデックスでは、人間の内面の変化に主導されて現実が変化することになっている。だとするなら、もしコルマンインデックスにある通り、もしわれわれがいま本当に転換期にいるのなら、われわれ自身の内面が大きく変化する過程にあってもおかしくない。

たとえば、コルマン博士は昨年11月に発表した「2012年への最後の段階:11月8日─第6の夜の開始」では以下のように述べている。

「これはどういうことかというと、われわれの人生を方向づける新しい意識が生まれると、その意識は世界と社会に影響を与え、世界と社会に対するわれわれの関係のあり方を変化させてしまうといことを指しているのだ。したがって意識の進化というのは、われわれの心の中だけで起こる現象ではない。同時にそれはわれわれのあらゆるものとの関係の変化として現れる。むろん、経済に対するわれわれの関係も意識の進化に伴い大きく変化せざるを得ない」

そして、何がどのように変化するのか説明して次のようにいう。

「実は経済成長の希求は、人間の意識が左脳と右脳に二極分化し、統合できなくなっていた事実にあるのである。この分裂状態から心の限りない空虚感が生まれるのであり、人間はこの空虚感を物質的な満足で充足しようと、あくなき経済成長を希求するようになったのだ。過去5000年間、経済成長は人類史のメインテーマであったが、それは特にプラネタリーアンダーワールド(第7サイクル)の盲目的な意識が一般化した時代にとことん加速し、これとともに人口も増加したのである。

だが、意識の統合とバランスの回復がテーマとなるギャラクティックアンダーワールド(第八サイクル)では、経済成長と人口の増加を希求する欲求そのものが消失してしまうのである。この意識変化により、われわれ人間は、地球環境や地球上に存在するあらゆるものを、これまでのように左脳の計算によっていかようにでも収奪が許される生命のない単なる物質として考えることはできなくなる」

コルマンインデックスでは7月17日から転換期に入り、11月2日までに意識の変化が加速するとしている。いまわれわれは意識変化の真っ最中にいることになる。そのような変化をわれわれは感じるだろうか?

残念ながら、7月17日に入ってからコルマン博士は大きな論文は発表していない。非常に短いものがいくつかあるだけだ。

人類学者、ハンク・ウェセルマンのエッセー

現在われわれに、コルマン博士同様、意識変化を伴う内面的な変化が起こりつつあると主張する別な人物がいる。それは、このブログでも何度も紹介した、人類学者でシャーマニズムの研究者であるハンク・ウェセルマン博士だ。

もしまだ読んでいなければ、ハンク・ウェセルマン博士に関する過去の記事も読んでほしい。これとこれである。

最近、発表されたエッセーでウェセルマン博士は意識変化を経験したあとに、どんな意識になるのか非常に具体的に分析している。

ウェセルマン博士のサイクルの考え方

ウェセルマン博士はプロの人類学者である。人類学的見地から、人類の精神史には次の4つのサイクルが存在するとしている。

第1サイクルー後期旧石器時代
人間はまだ周囲の自然と完全に同一化し、分離していない段階。周囲の自然すべてが意識をもった生きた存在として信仰の対象となるアニミズムが一般的。シャーマンが媒介者。

第2サイクルー新石器時代
まだアニミズムの状態にあるが、女性の繁殖力が崇拝の対象として突出してくる。だがまだ聖職者や宗教組織のようなものは存在しない。

第3サイクルーバビロンからギリシャ、ローマ帝国時代
崇拝の対象が自然そのものや女性の繁殖力ではなく、神という特定の対象に限定されてくる。多くの神々がおり、それらは階層化される。専門の聖職者が出てくる。

第4サイクルー過去2000年の西欧文明
多神教の神々に代り、絶対的な唯一神が崇拝の対象となる。一神教の神を祭る巨大な宗教教団が台頭する。

第4サイクルの最後ー現代
科学の発達により、一神教の教えが無効であり、神話でしかないことが証明された時代。多くの一神教が信用を失墜する。

第5サイクルー2012年前後にやってくる新しい精神の時代
これまで「神」と呼ばれ、崇拝されてきた超越的存在を個々の人間が自分の内面に直接体験できるょうになる時代。このため、聖なるものを信者に伝える聖職者の必要性はまったくなくなるので、宗教教団のような組織も消滅する。新しい神秘主義のはじまりの時代。

ウェセルマン博士は、このような人間の精神のサイクル理論をベースに、いままさに人々が覚醒し、新しい精神に目覚めようとしていると考える。

下の和訳したエッセーは、このような理解から書かれている。

新しい神秘
ハンク・ウェセルマン

私のようなシャーマニズムを専門にする人類学者の視点から「私達の精神構造がどのようなものであったのか」、また「私達の精神はこれからどのように変化するのか」という問いに答えよとするとき、すでに起こっているいくつかの出来事から考えなくてはならない。

すでに起こっている出来事

たとえば、世界中どこを見渡しても、多くの宗教があるので、人間は自分よりも偉大な存在を心理的に必要としていることは明白だ。

第二に、現在は大きな変化のときであり、これまであったさまざまなものがバラバラになりつある。精神的なより所を求める多くの人々が既製の宗教を去り、西欧とは異なる伝統に引き寄せられている。

そして第三に、過去20年間、古い神秘主義の伝統を掘り起こすさまざまなサイトやワークショップ、そして膨大な本が出版されているのを見ると、興味深い問いが自然と沸いて来る。

(※2012年で)ひとつのサイクルが終わり、次の新しいサイクルが始まるにあたって、われわれが本来何物であり、また何物になろうとしているのか明確にできるように、過去の神秘主義の英知を新しく鍛え直すべきではないのかという問いである。

神秘主義の道

私がいるシャーマンの世界では、シャーマンの伝統を単に維持するのではなく、伝統に新しい精神性を付け加え、絶えず刷新して行くことが求められている。そうすることで、古代から受け継がれている神秘主義の道が、これを受け継ぐものにとって意味のあるものとなり、必要不可欠なものとなるのである。

(2012年の)サイクルの終わりと次のサイクルの開始に際して、われわれには祖先と同じ聖なる責任がある。この責任をまっとうするためには、宗教を含め、すでに役に立たなくなったさまざまなものを手放さなければならない。

そしてそれは、古いものの破壊だけではなく、新しいものの再建でなくてはならない。つまり、これからやってくる次のサイクルのための精神的な基礎を構築し、次のサイクルに見合った新しい世界の創造しなければならないのである。これは最大の努力を要求する仕事である。

これがどういうことか分かりやすくするために、深層心理学者のカール・ユングが出会ったマックス・ゼラーという人物の夢の話があるので、それを紹介しよう。

1940年代の終わりにユングは、友人のマックス・ゼラーという人物から、彼が繰り返し見た夢について告げられた。

夢ではあらゆる人種と文化の膨大な数の人々が、神殿と思われる建物の基礎を作っている。そして、地平線まで続く恐ろしい数の人々が多くの柱を立てているのが見える。その中には、夢を見ているゼラー自身もいた。

ゼラーはユングにこの夢の意味を聞いた。ユングは、神殿は新しい宗教の象徴であり、すでに多くの人々がその新しい宗教とかかわっているということだと述べた。

ゼラーがどうしてそのような解釈なのかと聞くと、ユングは自分の多くの患者が同じような夢を見ているからだと答えた。ゼラーはこの新しい宗教を作るのにどのくらいかかるか聞くと、ユングは目を輝かせ「300年くらい」と答えた。

私はこの話を、何年も前にユング協会が発行する文献で読んだ。それ以来、この夢の意味とユングの言わんとしたことがなんであるのかずっと考えてきた。

新しい精神の形

300年。この期間はローマ時代にザデキムと呼ばれるユダヤ人の小集団が結束し、キリスト教を公式に認めさせるまでにかかった時間だ。それはちょうど26000年のサイクルの第3段階に当たっている。西暦325年のコンスタンティン皇帝の改宗で、キリスト教は一気に拡大した。ローマ帝国の軍事力に支えられ、それから1700年間キリスト教は世界を席巻した。

われわれはいま、サイクルの最後のステージである第4段階の最後の時期にいる。それに対する反応として、神秘主義、シャーマニズム、仏教、道教、カバラ、スーフィー、グノーシス、そして自己覚醒を促進するあらゆる教えの助けによって、より多くの人々がこれまでの古い信仰と信念を打ち破り、拡大した本来の自分を受け入れ、自分がこれから何物になろうとしているのか理解し始めた。

いっそう多くの人々が、自分の中の集合無意識に眠っている元型とつながる方法を模索しているのだ。なぜなら、元型はわれわれに協力しわれわれを助けてくれる大きな力であるからだ。神秘主義の伝統は、どの時期にも元型とつながる方法を模索している。

これは、すでに始まっている新しい精神の形をわれわれの内面に構築する運動の一部である。それが新しい神秘主義の方向である。新しい神秘主義こそ、ユングが「新しい宗教」と呼んだものなのだ。

これは深く考察するに値するテーマである。今後数カ月でもっと詳しく説明するが、今回は新しい神秘主義の基礎がどのようなものなのか簡単に素描する。

基礎

どんな時代においても、神秘の発見は自己発見の過程で始まる。それは、われわれは何物であり、本当はどんな存在なのか、そしてわれわれはどこから来て、いまここにいる意味はなんなのかという問いに答えることである。このような問いに答えることで、今の人生の意味が分かるのである。

これらの疑問に答えて行く過程は、タマネギの皮を一枚づつ剥いて行く過程に似ている。つまり、友人や家族、また社会が作った自分のアイデンティティー、さらに、自分がどうあるべきか決めている社会的な価値観やモラルなど、自分を外側から規定している自己像を一枚づつ剥がして行く作業である。

この皮剥きの作業が進むにつれ、われわれの魂の本質のようなものが姿を現してくる。魂は、両親がだれであるかというような、われわれの生い立ちとは一切関係のない実体である。

このような、本来の自己の発見の次に待っているのは、こうした自己と、家族や友人、そして社会との関係を再度構築することである。神秘主義の道は周囲との不調和は求めない。しかし、このような不調和は必然的に起こることもある。

われわれが通る唯一の道

こうした神秘主義を実践すると、本当の神秘がわれわれを誘う。その英知を通して、現実の真の姿や、そうした現実と本来のわれわれがどのような関係をもつのか学ぶことができる。

私の経験では、このような英知は、既存の信念の体系や既製宗教の信仰心では得ることはできない。この英知を得るためには、われわれの中にもあり、周囲にもいつでも存在している不可視の世界を直接体験しなければならない。このような体験のみが、われわれを本格的なイニシエーションへと導くのである。

この体験をすると、すべてが変化してしまう。すべての存在がすべてのものと結び付いているのが分かるからだ。そして、意識こそ、すべてのものが関係付けられ、関係が維持される場なのだとうことを実感する。

これを体験すると、今度はわれわれ自身も、すべてのものをものすごい生命力で結び付けている場(意識)の一部であることを実感する。この場(意識)こそ「神」と呼ばれるものである。

私の生命力の場に関する研究では、「神」は、ものや名詞で表すことのできる存在ではない。「神」というのは動詞であり、プロセスなのだ。それはあらゆる存在にあるプロセスであり、超越的でもあり内在的でもある力である。それは、遠くにありながらもいたるところに偏在する力だ。それは、ここにもあちらにもあり、上にも下にも、中にも外にもある。

源泉

西欧の文化で「神」と呼ばれている存在の真の姿は、道教では「道」と呼ばれ、他の教えでは「源泉」と呼ばれるような、始まりも終わりもない光の場なのだ。それは、潜在的な力をもった時間のないエネルギーの海である。すべての存在がこの光の現れなので、この光はいたるところに存在している。

これこそ、多くの神秘主義者が「形を越えた光」そして「光を越えた形なきもの」と呼ぶものの実体である。

私の体験では、これは、われわれの祈りの言葉に耳を傾け、ときおりわれわれにメッセージを送ってくるような神的存在ではない。それとは異なるものである。神的存在は、われわれが生まれ落ちた瞬間に神の光を吹き込んだわれわれ自身のハイアーセルフ、ゴッドセルフである。

これとは対照的に、光の場、大いなる中心の太陽は非人格的である。それは遠くにあるが、私の経験では、うまく条件が整えばこの光の場はわれわれの働きかけに反応する。この反応を受け取ったものは本質的に変容してしまう。そしてそれに合わせて世界も変容する。

探求

まず真理の探求は、本来の自己の発見から始まる。この発見があると、覚醒とか気づきと呼ばれる不可逆的な過程が始まる。現在このような探求は、十分に管理された既成宗教の境界の外側で行われているが、すでに数千万人が参加している。

数千万人が同時に参加するこの過程で、60年前にマックス・ゼラーがカール・ユングに報告した新しい宗教を打ち立てる過程が静かに進行しているのである。今後、これが既存の宗教に置き換わるか、または既存の宗教的伝統を本質的に変容してしまうはずだ。ハイテクとグローバルなコミニュケーションが発達した現代にあっては、この過程は300年などという時間はかからない。はるかに短い時間で達成できる。

いま出現しつつあるこの新しい神秘主義はひとつ重要な質問を投げかけてきている。それは次のようなものだ。

われわれひとりひとりはどうやって人間という存在を定義するのか、そして人間とはなになのかということである。

これはとってもよい質問である。なぜなら、この神秘主義の道を通してこそ、われわれが本来なるべき存在になれるからだ。

以上である。

このエッセーは実に興味深い。コルマン博士は、マヤカレンダーは意識進化の宇宙的な予定表であり、2011年10月28日には新しい意識と、それが主導する新しい社会システムの萌芽が次第に出現するとしている。この新しい意識をコルマンインデックスでは、「右脳と左脳の分裂の統一」「空虚感を克服し、一瞬一瞬に幸福感を実感できる精神状態」などという表現で表している。

上のウェスルマン博士のエッセーは、進化した意識がどのようなものになるのか、いっそう具体的に説明し、描写しているように思う。それは一言で言えば、偉大な超越性の存在を、個々人が自分の内面に直接体験するということである。これが覚醒であり、気づきであるという。

いまわれわれは、このような意識変化の過程を歩みつつあるのだろうか?

続く


 <転載終わり>
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 今回の記事は多くの重要なテーマが盛り込まれています。その中で、特に印象的だったのは、下記です。

『基礎

どんな時代においても、神秘の発見は自己発見の過程で始まる。それは、われわれは何物であり、本当はどんな存在なのか、そしてわれわれはどこから来て、いまここにいる意味はなんなのかという問いに答えることである。このような問いに答えることで、今の人生の意味が分かるのである。

これらの疑問に答えて行く過程は、タマネギの皮を一枚づつ剥いて行く過程に似ている。つまり、友人や家族、また社会が作った自分のアイデンティティー、さらに、自分がどうあるべきか決めている社会的な価値観やモラルなど、自分を外側から規定している自己像を一枚づつ剥がして行く作業である。

この皮剥きの作業が進むにつれ、われわれの魂の本質のようなものが姿を現してくる。魂は、両親がだれであるかというような、われわれの生い立ちとは一切関係のない実体である。

このような、本来の自己の発見の次に待っているのは、こうした自己と、家族や友人、そして社会との関係を再度構築することである。神秘主義の道は周囲との不調和は求めない。しかし、このような不調和は必然的に起こることもある。』

 私の人生も正にこのような過程を通過してきたように思います。誰でも通る道ですが、高校2年の時に人生の目的や、自分とは何かについて考え始めました。主に哲学などの本を読み漁っていました。

 その中で、三木清の「人生論ノート」という著書を読んだ際に、「神の怒り」、「神の愛」などについて書かれていました。私が西洋の「神」に初めて出会った瞬間でした。
 ですから、「神の怒り」、「神の愛」などについて書かれていても、全く理解できませんでした。そもそも西洋(主にキリスト教)の「神」など高校生の自分の周りには全くありませんでした。私の周りには、仏壇にいる仏様しかいませんでした。

 その後、何故かキリスト教主義の大学に入学したため、今度は周りには西洋の神様ばかりになりました。「キリスト教概論」から始まり、「キリスト教専門」は必修科目でしたので、単位は必ず取る必要がありましたので、否が応でも勉強せざるを得ませんでした。

 その後社会人になってからは、神も仏もそれほど自分の近くにはいませんでした。


 *これからまだまだ書こうと思いますが、これから赤城の農園に行きますので、この続きはあさってに書きたいと思います。失礼します。


 ●ヤスの備忘録
  http://ytaka2011.blog105.fc2.com/

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