一青窈ジャーナル

ジャーナリズムの中の一青窈/ジャーナリスティックな一青窈

L25 ココロヲヒラコウ 一青窈

2008年11月24日 22時19分09秒 | 一青ジャーナル・スタイル
■『L25』(2008年11月20日)
             1頁<撮影・大橋仁/文・松村亮>【リクルート】

*ココロヲヒラコウ 一青窈
  「ふと訪れる直感を信じるようにしている


ひとと語録①
“どこへ行くか決めていても、結局、ふらりと寄った本屋さんやセレクトショップに小さな出会いがあって、そこからクリエイションが生まれたりする。それに気づいてからは、海外旅行へもボストンバッグだけ持って、目の前の飛行機に乗ってみたこともあります(笑)”

ひとと語録②
“物語から触発されて歌詞を書くことがとても新鮮でした。台本とリンクし過ぎると、ミュージカルになってしまう。むしろ、私の歌詞は〝想像力が膨らめばいい〟そんなアプローチで生まれているので”“どことなくポエムに近い”

ひとと語録③
“私は歌う時、いつも前向きで、みんな元気になってほしいという願いを込めて歌ってきました。だけれど、人は必ずしもポジティブではないんですよね?きっと私には、まだ伝え切れない部分がある。自分が思っている以上に、自分の中にいろんな面があって、今後はもっと、そこを広げていきたいんです”

朝日新聞 一青姉妹と顔家⑤

2008年11月21日 22時27分31秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年11月1日夕刊)
                    1頁<野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家⑤
     父の故郷に強まる思い


“一青窈は、父恵民の声を覚えていない。物静かだった恵民は、肺がんを患った晩年、さらに口数が減った”“恵民は晩年、妻の一青かづ枝とも口をきかない関係になっていた。病名をかづ枝が伏せていたためだ”

ひとと語録
“姉は母をかばい、私をかばいながら、いっぱい背負ってきた”“姉はがんばりやの母親似。私は最近、父方の叔母に言われました。『あー、あなた、頭ハゲたら、絶対父親似よ』って。性格も父親譲りかもしれません”“台湾を忘れないでいたい。自分は確かにここで育って、こんなものを食べて、こっちの人たちの良い意味でのアバウトさや、親しみやすいところも、やっぱり好き。いつも、身近に、感じたい”

ひとと´語録
“(妙)扉一枚隔てて父が閉じこもり、私だけが部屋に入る状態でした。両親とも本当に頑固でしたから、私が仲介役でした”“いつも感情を抑えてきた。だから別人になって、ストレートに気持ちを発散できる女優にひかれたのかもしれません”“私は母親似。いつも説教ばかり。妹は『天然』。でも最近は、妹の方がしっかりしているかなって思う”


ひととpic up
アニメ映画『パッテンライ!!』

朝日新聞 一青姉妹と顔家④

2008年11月20日 21時22分01秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月31日夕刊)1頁
                     <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家④
          遠い歴史とも結ばれて


“「九份は街の姿が戦後まもない頃とほとんど変わっていない。そんな街は台湾でほかにみつからなかった」映画「非情城市」を89年に発表した侯孝賢(62)は、九份をロケ地に選んだ。”


“あれは私の村で実際にあったこと。映画では中国語の手紙だったが、当時の大人は日本語教育を受けていたので本当は日本語だった”
   ・呉念真(56)<九份で生まれ育った「非情城市」脚本家>

“日本時代、上に立っていた人間は、すべて狙われた。それから顔家は政治から遠ざかることを家訓とした”
   ・顔恵卿(76)<恵民の弟。顔家系列企業「台陽合金工業」会長>

“彼女は私が知っている日本人とは異なる独特の個性がある。個性の源が何か分からないが、日本人の伝統的な社会にはないタイプで、とても特殊で特別な人だ”

“私には他人と違う視点があった。彼女と私はそこが似ている。台湾人の部分があるから、日本でユニークな存在でいられるのだろう”

   ・侯孝賢(62)<「非情城市」の監督>


“2・28事件は窈には遠い昔の出来事だが、侯や九份を通して、窈と歴史を結ぶ糸はつながっている”

朝日新聞 一青姉妹と顔家③

2008年11月20日 00時37分30秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月30日夕刊)
                     1頁<野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家③金鉱の街 観光で再び灯


「夜中には貧乏でも 夜明け前には金持ちになり 朝には立派な家が建つ」
一青姉妹の父、顔恵民の一族のもとでゴールドラッシュに沸いた20世紀前半。九份では一攫千金の夢が、こう語られた


ひとと語録
“山から見える夜の海に、漁船の光が輝いている景色が好き”

ひとと´語録
“(妙)いい意味で時間が止まった場所で、できるだけゆっくりしたくなる”


ひととpic up
侯孝賢監督『非情城市』/宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』/林雅行『風を聴く』


朝日新聞 一青姉妹と顔家②

2008年11月18日 00時02分26秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月29日夕刊)1頁
                      <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家② たばこと雪山父の記憶
  酒とたばこと雪山と。
    一青姉妹の父親、顔恵民の思い出を尋ねると、
          知人は決まってその三つを挙げる”


“「恵民は無言でした。その後、彼の眉毛が抜け始め、すっかりなくなった」”「ところが戦争が終わったら、きみは敗戦国日本、ぼくは戦勝国民。日本人じゃなくなったんだ」。恵民は、そう言ったきり、授業に出てこなくなった”
  ・犬養康彦(元共同通信社長、犬養毅の孫)奥日光で恵民と玉音放送を聞いた学習院中等科の同期

“日本人として育ち、皇室の藩屏を育てる戦前の学習院で学んだ。戦後は台湾人となり、悩みも多かったと思うが、おくびにも出さなかった”
  ・柴瑞陽太郎(早稲田大学鉱山科・学友)

“堅苦しいことは大嫌い。ネクタイも締めず、都心を登山靴で歩くような山男でした”
  ・郭林双霜(恵民の叔父の妻)

“優しい兄だったが、学者肌で経営には向かなかった”
  ・顔恵卿(恵民の弟)

恵民の回顧録『雪山の楽しければ…』(一青姉妹の「髪がふさふさしていたころのお父さんを、見たことがないんです」という一青姉妹の言葉をきっかけに、自費出版される。なお、タイトルの「雪山の楽しければ」は、1937年製作の映画『スキーの寵児』の主題歌歌詞からとっている。)

ダ・ヴィンチ 「はじめて」 一青窈

2008年11月17日 00時45分52秒 | 一青ジャーナル・戦争
■『ダ・ヴィンチ』(2008年12月号・月刊誌)1頁
             <取材、文・宮昌太朗>【メディアファクトリー】

*ミュージック ダ・ヴィンチ 「はじめて」 一青窈
 
  カンボジアの子供たちとの触れ合いから生まれた
          力強く優しいメッセージソング


ひとと語録①
“これまで世界各地に出掛けましたけど、一番〝なにもなかった〟ですね。地雷が埋まっているせいで、道路もあまり整備されていない。花も育たないようなところなので、太陽が降り注いでる地面に、雑草が生えているだけっていう。でも、そこで暮らしている人たちは、みんなすごくタフなんです”

ひとと語録②
“なんにもなくても、可哀想なんてちっとも思わなかったし、むしろ〝希望〟を感じました”“ありのままで生きる彼らを見ていたら、きっとそんなものがなくても、人と向き合うことだけで十分楽しいんだって。そういうところに立ち返れたんですよね”

ひとと語録③
“うまく歌えるように、子供たちにもわかる言葉を選んでいたら、歌詞がどんどん削ぎ落とされていくんですよ”

ひとと語録④
“私は、旅行慣れしているほうなんですけど、カンボジアは想像を遥かに超えていて。世の中には、見たことのない生活がいっぱいあって、ネットとかでなんとなく知った気になりがちなんですけど(笑)。やっぱりそんなに甘くないんだなって思わされましたね”


朝日新聞 一青姉妹と顔家①

2008年11月01日 01時50分37秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月27日夕刊)1頁
                   <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家①
           父との血脈 台湾に導く


ひとと語録
“日本語で歌うときは母に届けたい。中国語で歌うときは父に届けたいなって思う”