一青窈ジャーナル

ジャーナリズムの中の一青窈/ジャーナリスティックな一青窈

雪山の楽しければ…回想・顔恵民

2012年12月25日 03時14分18秒 | 一青ジャーナル・顔家
★『雪山の楽しければ…回想・顔恵民』(2001年10月)
 顔恵民追悼文集発行委員会編 318頁【顔恵民追悼文集発行委員会】


*「今からでもいい、本を作ろう!」と決心させてくれたのは、二人の遺児、顔一青妙さん(タエちゃん)と窈さん(ヨウちゃん)のさりげない言葉だった。「お父さんにも、髪の毛がフサフサ生えていた頃があったんでしょうね。私たちは頭に毛があるお父さんの顔なんて、写真でも見たことがないんです」(編集委員一同)
 

ひとと´語録
“(妙)父の悔しさや様々な思い、そしてこの五冊のアルバムを作り、母に見せなさいと言った父が、癌である事を告知しなかった母を恨み、一言も言葉を交わさなくなり、旅行にいっしょに行かせなかった母の事を、本当は一番気にしていた事がわかった瞬間でもあった。いつかゆっくりと、この五冊のアルバムを持ちながら、同じ道を、今度は私が作った家族と行ってみようと決心した”


ひとと語録
“人がこの世を去るということはひどく悲しいことのようでもあるが、アルバムさえ開けば当時の匂いはたちまち蘇り、いつでも娘に戻れる。そうでなくても銀鱈の西京漬けがしっかり好物になってしまったのだから、嫌が応でも思い出さずにはいられないのである”

毎日新聞 今週の本棚 一青妙著・私の箱子

2012年05月10日 01時19分59秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『毎日新聞』(2012年2月19日)   <小西聖子>【毎日新聞社】

*今週の本棚  一青妙著 私の箱子


       変転する家族の記憶が映す台湾

“妙と窈の父は台湾人、母は日本人。妙は幼少期は台湾で育っている。一青は母の結婚前の姓である。父は台湾の五大財閥の一つ、鉱山王の顔家の長男であり、日本留学中に父と母は知り合って結婚した”

“小学校まで台湾の広いマンションを本拠にして、夏休みなどに東京の松濤や自由が丘の家を訪れる生活だった。十一歳から日本を本拠にすることになり、世田谷の等々力に住む”

“父が五十五歳の時、末期がんに侵されていることが突然わかる。闘病生活が一年以上続き、父は人を遠ざけるようになり、一九八五年に亡くなった。そして母も八年後に四十八歳で胃がんでなくなる。両親ともに亡くなってしまったのが、まだ妙が二十二歳の大学生の時だ”

“台湾のパワフルな親戚にはなじめず、日本に住むことを決め、読書と日本の山を愛した台湾人。顔恵民の人生は、日本と台湾の昭和史そのものである。自分のアイデンティティに悩み、日本への愛着に苦しみ、大量の酒を飲み、家族をこよなく愛した複雑な人の像が見える”

“戦後、一九四七年に顔家兄弟は台湾に帰るが、恵民は四十九年に密航して日本に戻ったという。国民党が侵攻した直後の台湾が、本省人にとってどのようなものだったのかを想像させるエピソードである”

 

琉球新報 チャイナ網路・一青窈の血筋

2012年05月04日 02時28分22秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『琉球新報』(2006年6月5日)    <渡辺ゆきこ>【琉球新報】
*アジアウイークリー  【チャイナ網路】一青窈の血筋


陋園(基隆顏家宅園)とは?

教養人としても知られた顔一族は、論語にちなみ邸宅を「陋園」と命名。文化人のサロンとする一方、一族を次々と日本の一流大学に留学させて、歌人や学者を輩出した。戦後、鉱脈の枯渇で家運は大きく傾くが、今でも政財界に、その血筋を継ぐ者は少なくない。
(渡辺ゆきこ、本紙嘱託・沖縄大学助教授)


 

箱について 一青妙

2012年01月24日 23時26分14秒 | 一青ジャーナル・顔家
■『本』(2012年1月号)2頁【講談社】

*箱について  一青妙


  私が初めて書いた本のタイトルは『私の箱子(シャンズ)』
 
ひとと´語録①
“(妙)両親と妹と四人で暮らした都内の家を建て替えのために解体した。物置の中から、この箱が出てきた。箱の中には、両親の手紙、私の手紙、妹の手紙。母の日記、家族みんなの写真、そして四十年以上前に父と母が交わした恋文や求婚の手紙まで入っていた”“深紅の箱は、タイムカプセルのようなもので、四人家族の我が家の記憶が次から次へと飛び出してきたのだ”“両親のことも、実はほとんど大事なことは知らなかったと気づかされた。父は日本統治下の台湾で生まれ、日本で教育を受けた「日本人」だった。しかし終戦と同時に一夜にして日本人ではなくなり、中国人になった。人としての価値観を見失い、最後までアイデンティティーに悩み続けた”

週刊朝日 マリコのゲストコレクション 一青窈③

2009年03月21日 23時46分03秒 | 一青ジャーナル・顔家
■『週刊朝日』(2009年2月27日号・週刊誌)
            5頁<構成・宇都宮健太朗>【朝日新聞社】

*マリコのゲストコレクション 林真理子 VS 一青窈


ひとと語録①
“いえいえ。父の姓は「顔(イエン)」といって、昔、「五大家族」というのがあって、その財閥の一つだというんですけど、遠い昔の話ですから”

ひとと語録②
“それが謎なんです。母と父の出会いは、誰に聞いてもわからない。最近、父がよく通ってた場所に行って聞いたりしたんですけど、みんな知らないって言います。ある日突然、母を連れて台湾に戻って「結婚します」って。もともと密航で日本に来たんですけど、なんで母と知り合ったのか、わからないんです”

ひとと語録③
“でも、父方と母方のきょうだいも守ってくれるし、もうそのころは日本にいて、高校まで一貫教育の森村学園に幼稚園から通ってたので、友達がみんな家族みたいに守ってくれて、不安とかは特になく生きてきましたね”

朝日新聞 一青姉妹と顔家⑤

2008年11月21日 22時27分31秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年11月1日夕刊)
                    1頁<野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家⑤
     父の故郷に強まる思い


“一青窈は、父恵民の声を覚えていない。物静かだった恵民は、肺がんを患った晩年、さらに口数が減った”“恵民は晩年、妻の一青かづ枝とも口をきかない関係になっていた。病名をかづ枝が伏せていたためだ”

ひとと語録
“姉は母をかばい、私をかばいながら、いっぱい背負ってきた”“姉はがんばりやの母親似。私は最近、父方の叔母に言われました。『あー、あなた、頭ハゲたら、絶対父親似よ』って。性格も父親譲りかもしれません”“台湾を忘れないでいたい。自分は確かにここで育って、こんなものを食べて、こっちの人たちの良い意味でのアバウトさや、親しみやすいところも、やっぱり好き。いつも、身近に、感じたい”

ひとと´語録
“(妙)扉一枚隔てて父が閉じこもり、私だけが部屋に入る状態でした。両親とも本当に頑固でしたから、私が仲介役でした”“いつも感情を抑えてきた。だから別人になって、ストレートに気持ちを発散できる女優にひかれたのかもしれません”“私は母親似。いつも説教ばかり。妹は『天然』。でも最近は、妹の方がしっかりしているかなって思う”


ひととpic up
アニメ映画『パッテンライ!!』

朝日新聞 一青姉妹と顔家④

2008年11月20日 21時22分01秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月31日夕刊)1頁
                     <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家④
          遠い歴史とも結ばれて


“「九份は街の姿が戦後まもない頃とほとんど変わっていない。そんな街は台湾でほかにみつからなかった」映画「非情城市」を89年に発表した侯孝賢(62)は、九份をロケ地に選んだ。”


“あれは私の村で実際にあったこと。映画では中国語の手紙だったが、当時の大人は日本語教育を受けていたので本当は日本語だった”
   ・呉念真(56)<九份で生まれ育った「非情城市」脚本家>

“日本時代、上に立っていた人間は、すべて狙われた。それから顔家は政治から遠ざかることを家訓とした”
   ・顔恵卿(76)<恵民の弟。顔家系列企業「台陽合金工業」会長>

“彼女は私が知っている日本人とは異なる独特の個性がある。個性の源が何か分からないが、日本人の伝統的な社会にはないタイプで、とても特殊で特別な人だ”

“私には他人と違う視点があった。彼女と私はそこが似ている。台湾人の部分があるから、日本でユニークな存在でいられるのだろう”

   ・侯孝賢(62)<「非情城市」の監督>


“2・28事件は窈には遠い昔の出来事だが、侯や九份を通して、窈と歴史を結ぶ糸はつながっている”

朝日新聞 一青姉妹と顔家③

2008年11月20日 00時37分30秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月30日夕刊)
                     1頁<野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家③金鉱の街 観光で再び灯


「夜中には貧乏でも 夜明け前には金持ちになり 朝には立派な家が建つ」
一青姉妹の父、顔恵民の一族のもとでゴールドラッシュに沸いた20世紀前半。九份では一攫千金の夢が、こう語られた


ひとと語録
“山から見える夜の海に、漁船の光が輝いている景色が好き”

ひとと´語録
“(妙)いい意味で時間が止まった場所で、できるだけゆっくりしたくなる”


ひととpic up
侯孝賢監督『非情城市』/宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』/林雅行『風を聴く』


朝日新聞 一青姉妹と顔家②

2008年11月18日 00時02分26秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月29日夕刊)1頁
                      <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家② たばこと雪山父の記憶
  酒とたばこと雪山と。
    一青姉妹の父親、顔恵民の思い出を尋ねると、
          知人は決まってその三つを挙げる”


“「恵民は無言でした。その後、彼の眉毛が抜け始め、すっかりなくなった」”「ところが戦争が終わったら、きみは敗戦国日本、ぼくは戦勝国民。日本人じゃなくなったんだ」。恵民は、そう言ったきり、授業に出てこなくなった”
  ・犬養康彦(元共同通信社長、犬養毅の孫)奥日光で恵民と玉音放送を聞いた学習院中等科の同期

“日本人として育ち、皇室の藩屏を育てる戦前の学習院で学んだ。戦後は台湾人となり、悩みも多かったと思うが、おくびにも出さなかった”
  ・柴瑞陽太郎(早稲田大学鉱山科・学友)

“堅苦しいことは大嫌い。ネクタイも締めず、都心を登山靴で歩くような山男でした”
  ・郭林双霜(恵民の叔父の妻)

“優しい兄だったが、学者肌で経営には向かなかった”
  ・顔恵卿(恵民の弟)

恵民の回顧録『雪山の楽しければ…』(一青姉妹の「髪がふさふさしていたころのお父さんを、見たことがないんです」という一青姉妹の言葉をきっかけに、自費出版される。なお、タイトルの「雪山の楽しければ」は、1937年製作の映画『スキーの寵児』の主題歌歌詞からとっている。)

朝日新聞 一青姉妹と顔家①

2008年11月01日 01時50分37秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月27日夕刊)1頁
                   <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家①
           父との血脈 台湾に導く


ひとと語録
“日本語で歌うときは母に届けたい。中国語で歌うときは父に届けたいなって思う”

映画パンフレット「風を聴く」 一青姉妹の父の故郷

2007年10月23日 01時45分47秒 | 一青ジャーナル・顔家
■映画パンフレット『風を聴く~台湾・九份物語~』
   (2007年10月20日)<林雅行(監督)>1頁【クリエイティブ21】

*九份探訪 一青姉妹の父の故郷
 

“九份の金鉱を管理していたのが顔家で、北部の数ある炭鉱のオーナーだった。顔家の初代が顔雲年、日本の財閥藤田組から金鉱を譲り受けた。2代目が雲年の弟、顔国年。3代目が顔欽賢は雲年の長男にあたる”〝その後任が欽賢の長男、顔恵民。1928年生まれで、恵民も学習院で学んだ。途中で終戦を迎え、戦後、早稲田大学に入学。資源工学を専攻したという。この恵民は、一青妙と窈の実父である〟

台湾週報 一青窈と顔恵民 記録映画「黄金の故郷」

2006年08月09日 02時18分36秒 | 一青ジャーナル・顔家
★『台湾週報』九份が舞台の記録映画を制作(2006年7月27日)

 <<長崎原爆の『我が子の碑』、空襲被害の『人間の碑』、沖縄戦の『友の碑 白梅学徒の沖縄戦』と、記録映画で、戦争被害を見つめ続ける林雅行監督。その新作は侯孝賢監督『悲情城市』の舞台にもなった 「九份金鉱」に関する作品で、タイトルは『黄金の故郷~台湾・九份物』という。ナレーターは一青妙が担当。いうまでもなく、彼女は一青窈の姉である(『人間の碑』のナレートも一青妙が担当している)。
そして、これを伝えたネットサイト「台湾週報」の興味深い記述。

姉妹の実父は、かつて金鉱のオーナーだった顔恵民氏であり、姉妹にとって九份は亡き父の故郷でもある

「台湾財閥の出身」という彼女の「噂」に関する具体的事実を指摘した記事を初めてみた。この指摘が事実ならば、やはり台湾5大財閥ファミリーのひとつ基隆の顔家(台陽鉱業)の出身者ということになるのだろう(侯孝賢監督が、『珈琲時光』を一青窈主演で撮ったのはまさに必然だったのだろう)。
なお、顔恵民氏は「山スキー」でも重要な足跡を残しているようだ。琉球新報記事>>