一青窈ジャーナル

ジャーナリズムの中の一青窈/ジャーナリスティックな一青窈

ビッグイシュー日本版 リレーインタビュー 一青窈

2009年12月01日 01時54分38秒 | 一青ジャーナル・家族
■『ビッグイシュー日本版』(2009年8月15日号・隔週刊)1頁
                <飯島裕子>【ビッグイシュー日本】

*リレーインタビュー(90)  私の分岐点 歌手 一青窈 
  『うんと幸せ』。守られている幸せから、誰かを幸せにする幸せへ
    ≪ 丹下鉱希 → 一青窈 → 種村弘 ≫

 
ひとと語録①
“台湾に離れて暮らしていた父が送ってくれた手紙とレコード、それが私の原点だと思う。父とは毎日手紙を交換していて、それがあんまりしょっちゅうだったから、そのうち書くことがなくなっちゃって、いつのまにか詩のようなものになっていったんです”“父が亡くなってからも、文字で自分の気持を表現するのが癖みたいになっていたんで、ずっと詩を書き続けていました”

ひとと語録②
“歌って誰かを元気にする力があるんじゃないかって、ずっと感じてて…高校生の時に亡くなった母が病床で「ミュージカルに行きたい」とつぶやくので出かけたら、嘘みたいに元気になって帰ってきたんです。そんなことがあって私は、誰かを元気にできる歌を歌いたいと思うようになりました”

ひとと語録③
“歌手としてデビューしたのは26歳の時。それまでは身障者の人と一緒にバンドを組んで全国をまわっていました。そのきっかけをつくってくれたのが、家族と同じくらい仲のよかった幼馴染の男の子。彼は中3の時、プールの飛び込み事故で首から下が動かなくなってしまったんです”“車椅子でも入れる場所にダンサーを呼んで、バンドを組んで歌って、ということを始めたんです。身のまわりにいる友達が幸せになる、自分も幸せになるーそんな空間をつくっていく中であらためて、歌って誰かを元気にする力があるんだということに気がついたんです”

ひとと語録④
“デビュー以来、両親に対する思いを歌ったものが多かった”“そういう意味で、『うんと幸せ』は、新しい「一青窈」として生きていく決意の詩と言えるかもしれません。両親がいなくても、思い出に頼らなくても、一人の人間として「うんと幸せ」と言える。守られている幸せから、誰かを幸せにする幸せへ。人に何かをして喜んでもらった時に感じる幸せーそれが一番うれしいことだし、自分の宝になるんだと思うんです”

ひとと語録⑤
“私は経験した悲しいことは他の人には経験してほしくないし、私が乗り越えられたから大丈夫だよって。そんな歌を歌い続けていきたいですね”