一青窈ジャーナル

ジャーナリズムの中の一青窈/ジャーナリスティックな一青窈

朝日新聞 GLOBE 映画クロスレビュー 一青窈

2013年05月22日 23時43分11秒 | 一青ジャーナル・映画
『朝日新聞』(2013年 5月 5日朝刊)         1頁【朝日新聞社】

*映画クロスレビュー『プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命』 
        父と子、因果は巡る 評価:★★★☆


ひとと語録
“私たちは日常の中でちょっとした嘘をついたりミスを犯すことがある。その時、善行でそれを償おう、忘れようと思う。しかし、帳消しにすることは出来ない。いつまでもそれは心の中に居座り続ける。弱いものも含めて自分なのだ。許してもらおうということが甘いのかもしれない。それでも人は祈るし、間違いをくり返す”“ただ、人を殺すことに正義なんて存在しないのではないかと私は思う”


朝日新聞 GLOBE 映画クロスレビュー 一青窈

2013年03月18日 23時25分50秒 | 一青ジャーナル・映画
『朝日新聞』(2013年 2月 3日朝刊)           1頁【朝日新聞社】

*映画クロスレビュー『マーサ、あるいはマーシー・メイ』 
       家族が洗脳されてしまったら… 評価:★★★★


ひとと語録
“狂った価値観を強要され、自分がなくなっていく主人公をみて、ねじれた世界で営みを続けた友を思い出し、あの時、適切な質問ができなかったことを後悔した。信者以上の信頼関係を、友人と構築出来なかったことが変な罪悪感としていまだ残っている。疎遠になった友人とまた話が出来ればと心から願う”

雪山の楽しければ…回想・顔恵民

2012年12月25日 03時14分18秒 | 一青ジャーナル・顔家
★『雪山の楽しければ…回想・顔恵民』(2001年10月)
 顔恵民追悼文集発行委員会編 318頁【顔恵民追悼文集発行委員会】


*「今からでもいい、本を作ろう!」と決心させてくれたのは、二人の遺児、顔一青妙さん(タエちゃん)と窈さん(ヨウちゃん)のさりげない言葉だった。「お父さんにも、髪の毛がフサフサ生えていた頃があったんでしょうね。私たちは頭に毛があるお父さんの顔なんて、写真でも見たことがないんです」(編集委員一同)
 

ひとと´語録
“(妙)父の悔しさや様々な思い、そしてこの五冊のアルバムを作り、母に見せなさいと言った父が、癌である事を告知しなかった母を恨み、一言も言葉を交わさなくなり、旅行にいっしょに行かせなかった母の事を、本当は一番気にしていた事がわかった瞬間でもあった。いつかゆっくりと、この五冊のアルバムを持ちながら、同じ道を、今度は私が作った家族と行ってみようと決心した”


ひとと語録
“人がこの世を去るということはひどく悲しいことのようでもあるが、アルバムさえ開けば当時の匂いはたちまち蘇り、いつでも娘に戻れる。そうでなくても銀鱈の西京漬けがしっかり好物になってしまったのだから、嫌が応でも思い出さずにはいられないのである”

読売新聞 「演じがい」ある歌詞 一青窈

2012年05月26日 22時26分31秒 | 一青ジャーナル・大震災
『読売新聞』(2012年 5月18日朝刊)<清川仁>  1頁【読売新聞社】

*歌謡曲に再び力 「演じがい」ある歌詞 一青窈


ひとと語録
“デビュー前から、病院や老人ホームでライブを行っていて、歌謡曲はみなさんに喜んでもらえるレパートリーでした。震災の被災地でも歌いました。私の父母と同じ世代の人たちは、歌詞がつらく後ろ向きであっても、思い出される時代の記憶の方が大事で、ものすごく受け入れてくれます”

“演じがい、ですね。しっかり『女』を演じられる気持ちよさがあります”

“被災地で、皆さんが一番涙してくださったのは、『時代』(中島みゆき)でした。人間が自然の猛威を乗り越える未来を考えたわけではなかったと思うけど、歌い継いでいくべき作品だと実感しています。自分も『ハナミズキ』のような曲をたくさん作って、100年後の歌手にも歌ってもらえればうれしいですね”


朝日新聞 GLOBE 映画クロスレビュー 一青窈

2012年05月10日 21時15分07秒 | 一青ジャーナル・映画
『朝日新聞』(2012年 5月 5日朝刊)       1頁【朝日新聞社】

*映画クロスレビュー『オレンジと太陽』 
                「児童移民」に寄り添った女性の実話


ひとと語録
“何より、主人公が人生を通して裏切りを受けた人たちのために働き、彼らを絶対に裏切らない!という真摯(しんし)な態度で活動してきたことが支柱にあるので、この映画の感触は気持ちが良い。たくさんの人々の悲しみを一気に背負って、それでも「あなたの苦しみはあなたの歴史で私の歴史ではない」と言える彼女の生き方は実直だ。人のために働く人は、人に助けられる”

“人は話す前から答えを知っている。けれども苦しみを、経験として通過してゆくことが大切なのだ”

毎日新聞 今週の本棚 一青妙著・私の箱子

2012年05月10日 01時19分59秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『毎日新聞』(2012年2月19日)   <小西聖子>【毎日新聞社】

*今週の本棚  一青妙著 私の箱子


       変転する家族の記憶が映す台湾

“妙と窈の父は台湾人、母は日本人。妙は幼少期は台湾で育っている。一青は母の結婚前の姓である。父は台湾の五大財閥の一つ、鉱山王の顔家の長男であり、日本留学中に父と母は知り合って結婚した”

“小学校まで台湾の広いマンションを本拠にして、夏休みなどに東京の松濤や自由が丘の家を訪れる生活だった。十一歳から日本を本拠にすることになり、世田谷の等々力に住む”

“父が五十五歳の時、末期がんに侵されていることが突然わかる。闘病生活が一年以上続き、父は人を遠ざけるようになり、一九八五年に亡くなった。そして母も八年後に四十八歳で胃がんでなくなる。両親ともに亡くなってしまったのが、まだ妙が二十二歳の大学生の時だ”

“台湾のパワフルな親戚にはなじめず、日本に住むことを決め、読書と日本の山を愛した台湾人。顔恵民の人生は、日本と台湾の昭和史そのものである。自分のアイデンティティに悩み、日本への愛着に苦しみ、大量の酒を飲み、家族をこよなく愛した複雑な人の像が見える”

“戦後、一九四七年に顔家兄弟は台湾に帰るが、恵民は四十九年に密航して日本に戻ったという。国民党が侵攻した直後の台湾が、本省人にとってどのようなものだったのかを想像させるエピソードである”

 

琉球新報 チャイナ網路・一青窈の血筋

2012年05月04日 02時28分22秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『琉球新報』(2006年6月5日)    <渡辺ゆきこ>【琉球新報】
*アジアウイークリー  【チャイナ網路】一青窈の血筋


陋園(基隆顏家宅園)とは?

教養人としても知られた顔一族は、論語にちなみ邸宅を「陋園」と命名。文化人のサロンとする一方、一族を次々と日本の一流大学に留学させて、歌人や学者を輩出した。戦後、鉱脈の枯渇で家運は大きく傾くが、今でも政財界に、その血筋を継ぐ者は少なくない。
(渡辺ゆきこ、本紙嘱託・沖縄大学助教授)


 

しんぶん赤旗 ドラマ「それからの海」に出演 一青窈さん

2012年03月03日 14時27分41秒 | 一青ジャーナル・大震災
■『しんぶん赤旗』(2012年3月1日)   
            1頁<山本健二>【日本共産党中央委員会】

*東日本大震災1年に ドラマ「それからの海」に出演 一青窈さん
     聞いて初めて実感した被災者心情


ひとと語録①
“浜に獣が引っかいたような跡があるのは、船や大量のがれきがぶつかったからただと知りました。夫が津波に流されたことなども話してくれて、役柄を超えて、ぼろぼろ泣いてしまいました”


ひとと語録②
“被災地では周りに人が少ないから、観光でも来てくれる人がいるのはうれしいというおばあちゃんがいました。遠く離れた地から、『自分でも何かできるかも』と現地を訪れる人が増えれば、うれしいですね”
 

朝日新聞 GLOBE 映画クロスレビュー 一青窈

2012年02月21日 21時42分15秒 | 一青ジャーナル・大震災
◆『朝日新聞 GLOBE』(2012年 2月19日朝刊) 1頁【朝日新聞社】

*映画クロスレビュー 『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』
 
                 優しさを見つけることに希望がある

ひとと語録
“そこで私は、今年初め、岩手県田野畑村にある仮設団地を訪ねた際の、なにもかも海にもっていかれたおばあちゃんたちの話を思い出した”“何も見つからないより失望した方がいいと、この映画は語る。知らない人が抱きしめてくれること、人間はまだまだ優しいということ。それを見つけることに希望がある”



箱について 一青妙

2012年01月24日 23時26分14秒 | 一青ジャーナル・顔家
■『本』(2012年1月号)2頁【講談社】

*箱について  一青妙


  私が初めて書いた本のタイトルは『私の箱子(シャンズ)』
 
ひとと´語録①
“(妙)両親と妹と四人で暮らした都内の家を建て替えのために解体した。物置の中から、この箱が出てきた。箱の中には、両親の手紙、私の手紙、妹の手紙。母の日記、家族みんなの写真、そして四十年以上前に父と母が交わした恋文や求婚の手紙まで入っていた”“深紅の箱は、タイムカプセルのようなもので、四人家族の我が家の記憶が次から次へと飛び出してきたのだ”“両親のことも、実はほとんど大事なことは知らなかったと気づかされた。父は日本統治下の台湾で生まれ、日本で教育を受けた「日本人」だった。しかし終戦と同時に一夜にして日本人ではなくなり、中国人になった。人としての価値観を見失い、最後までアイデンティティーに悩み続けた”

西日本新聞 06年の平和メッセージメモ盗難 一青窈さん再び寄稿

2011年12月26日 02時07分12秒 | 一青ジャーナル・戦争
◆西日本新聞・朝刊(2011年12月20日)1頁【西日本新聞社】

*06年の平和メッセージメモ盗難 一青窈さん再び寄稿


2006年、宇佐市に残る太平洋戦争の遺跡で、歌手の一青窈(ひととよう)さんが書き込んだページを誰かが破り取った来場者用感想ノートに、一青さんがあらためてメッセージを寄せたことが19日、分かった
 
ひとと語録
“子供たちの平和が いつまでも いつまでも 100年続きますように”


ハナミズキ 主題歌 一青窈

2010年08月21日 22時43分01秒 | 一青ジャーナル・戦争
★映画パンフレット『ハナミズキ』(2010年8月21日)1頁【東宝】

*ハナミズキ 主題歌 一青窈

 
ひとと語録①
“もともと911のテロの事件をテレビで見て 居ても立ってもいられず 書き殴った数枚の散文がベースになっています。憎しみや哀しみの連鎖ではなく 花を贈り合う気持ちのように 人を思いやる気持ちで 世の中がつながっていけば 戦争はなくなるのかもしれないという 願いを込めて書きました”


ひとと語録②
“ミサイルではなく、互いを思う気持ちが それぞれの地で根付き花開いてゆくことが とても素晴らしいと思いタイトルをつけました”


ひとと語録③
“どんなときにも自分の心の中に穏やかな気持ちをもっていられるように 歌や映画がその心の中の芽を育てていければいいなと思っています”

花のあと SONG 一青窈

2010年03月15日 00時50分53秒 | 一青ジャーナル・映画
★映画パンフレット『花のあと』(2010年3月13日)1頁【東映】

*SONG 花のあと  作詞・一青窈 作曲・武部聡志

 
ひとと語録
“旅をするというのは 風景を捨てることだから 呼吸をひとつ落として 新しい人生を考える 以登の心、を詩に託しました”“どうしても振り切れぬ家系のしがらみや 孫四郎との想い出に包まれて 動けなかった少女が心の旅に出る映画”



“一青さんは幼少期を台湾で過ごされたせいか、日本の伝統や日本的な心情の原点を、とても冷静に見つめてらっしゃるように感じます。歌詞にある〝誰にも言えない恋、誰にも負けない愛〟という言葉などは、男性二人に対する以登の心をワンフレーズで表現している。1時間47分の物語をたった一行で言い切っちゃうんですからね。天才です” 小滝祥平<企画>

ダ・ヴィンチ あの人と本の話 一青窈さんが選んだ一冊

2010年03月15日 00時17分17秒 | 一青ジャーナル・スタイル
■『ダ・ヴィンチ』(2010年3月号)1頁
                <取材、文・宮昌太朗>【メディア・ファクトリー】

*一青窈さんが選んだ一冊 
         『テーブルはテーブル』ペーター・ビクセル著

 
ひとと語録①
“阿久悠さんが亡くなられたことが、私にはすごく大きくて。存在としてすごく尊敬していたこともあるし、この後、本当に時代を反映した〝歌謡曲〟というものを、いったい誰が書くのだろう、って。そのときに〝おこがましいけど、でも頑張ろう〟って思えたんです”

ひとと語録②
“最近、リリースした「ユア・メディスン」という曲は、私にとってはすごく挑戦的な歌詞なんです。でも、まだまだ足りないなって”“歌謡曲というものが今の時代にどう響くのか、その答えにはたどり着けないんですけど、挑戦してみたい。10年くらい経ったら〝あれ、私の歌謡曲ができた!〟みたいな(笑)。そうなればいいなと思うんです”


ビッグイシュー日本版 リレーインタビュー 一青窈

2009年12月01日 01時54分38秒 | 一青ジャーナル・家族
■『ビッグイシュー日本版』(2009年8月15日号・隔週刊)1頁
                <飯島裕子>【ビッグイシュー日本】

*リレーインタビュー(90)  私の分岐点 歌手 一青窈 
  『うんと幸せ』。守られている幸せから、誰かを幸せにする幸せへ
    ≪ 丹下鉱希 → 一青窈 → 種村弘 ≫

 
ひとと語録①
“台湾に離れて暮らしていた父が送ってくれた手紙とレコード、それが私の原点だと思う。父とは毎日手紙を交換していて、それがあんまりしょっちゅうだったから、そのうち書くことがなくなっちゃって、いつのまにか詩のようなものになっていったんです”“父が亡くなってからも、文字で自分の気持を表現するのが癖みたいになっていたんで、ずっと詩を書き続けていました”

ひとと語録②
“歌って誰かを元気にする力があるんじゃないかって、ずっと感じてて…高校生の時に亡くなった母が病床で「ミュージカルに行きたい」とつぶやくので出かけたら、嘘みたいに元気になって帰ってきたんです。そんなことがあって私は、誰かを元気にできる歌を歌いたいと思うようになりました”

ひとと語録③
“歌手としてデビューしたのは26歳の時。それまでは身障者の人と一緒にバンドを組んで全国をまわっていました。そのきっかけをつくってくれたのが、家族と同じくらい仲のよかった幼馴染の男の子。彼は中3の時、プールの飛び込み事故で首から下が動かなくなってしまったんです”“車椅子でも入れる場所にダンサーを呼んで、バンドを組んで歌って、ということを始めたんです。身のまわりにいる友達が幸せになる、自分も幸せになるーそんな空間をつくっていく中であらためて、歌って誰かを元気にする力があるんだということに気がついたんです”

ひとと語録④
“デビュー以来、両親に対する思いを歌ったものが多かった”“そういう意味で、『うんと幸せ』は、新しい「一青窈」として生きていく決意の詩と言えるかもしれません。両親がいなくても、思い出に頼らなくても、一人の人間として「うんと幸せ」と言える。守られている幸せから、誰かを幸せにする幸せへ。人に何かをして喜んでもらった時に感じる幸せーそれが一番うれしいことだし、自分の宝になるんだと思うんです”

ひとと語録⑤
“私は経験した悲しいことは他の人には経験してほしくないし、私が乗り越えられたから大丈夫だよって。そんな歌を歌い続けていきたいですね”