一青窈ジャーナル

ジャーナリズムの中の一青窈/ジャーナリスティックな一青窈

BREaTH 青き涙一粒 一青窈②

2002年10月26日 00時52分33秒 | 一青ジャーナル・作詞
■『BREaTH』(2002年11月号・月刊誌)6頁
       <撮影・浜崎昭匡/文・木村由理江>【ソニー・マガジンズ】

*青き涙一粒 一青窈
 
 台湾人の父親と日本人の母親の元に生まれた一青窈はインタビューの前日に26歳の誕生日を迎えた。「32歳か37歳まで(人生を)まっとうできれば」と笑う彼女は、どこかクールで凛としいてお茶目でもあるよう。

ひとと語録①
“ずっと小さいころから日記をつけてて、それがたぶん、小学校低学年で詩に切り替わった感じですね。だから詩も日記調だし日記も詩みたいだし”“で、そこから詩が生まれてます。たとえば、曲をもらってイメージするものに合うものを全部ピックアップして並べて、そのあともう1回曲を聞きながら書いていくんですよ”

ひとと語録②
“曲に対する指示はそんなに出さないですね。とりあえず私はこういうものを出すけど、それに対してあなたはどういうものを提示するの?っていうのを待って、そこからああだこうだしていきます。最初からフィルターはかけないですね。制約するのもされるのも嫌いなんで”

ひとと語録③
“父の書斎に「死の瞬間」とか死について考える本がものすごく並んでたんですよ。暇だからそれを読みますよね。父は〝ガン告知してよ〟って言いたかったんだろうな、と思ったし、プラス、死ぬことって何なんだろうって真剣に考えていたんだろうなって…。まあでも、残された人にしてみれば、何でもないことだから。花が枯れるのと同じなんですよね”“必ず詞の中で〝死とは何か〟を歌っているのではなく、私がご飯を食べる、夜寝ることと父が死ぬっていうことは全部同じ日常です。ということを、日常のことを書くことで、私は表せているんではないか、と思うんですよ”



BREaTH 青き涙一粒 一青窈①

2002年10月25日 00時46分05秒 | 一青ジャーナル・スタイル
■『BREaTH』(2002年11月号・月刊誌)6頁
       <撮影・浜崎昭匡/文・木村由理江>【ソニー・マガジンズ】

*青き涙一粒 一青窈
 
 台湾人の父親と日本人の母親の元に生まれた一青窈はインタビューの前日に26歳の誕生日を迎えた。「32歳か37歳まで(人生を)まっとうできれば」と笑う彼女は、どこかクールで凛としいてお茶目でもあるよう。

ひとと語録①
“文化に関しては、日本の文化は台湾が追い求めているものだから何ら変わらなくて。他の文化でいえば、両親ともほとんど日本人に近いし、かつ、昔、台湾は日本の植民地だったから、老人たちも日本人張りに日本語をしゃべるんで、何も日本と変わらないって感じですね。ただ食べるものが違うくらいで”

ひとと語録②
“〝なってやる!〟とは思わなかったです、いつの時代も。弁護士とかお医者さんとか看護師とかスチュワーデスとかを選ぶ感覚で「歌う人」になってやろうと思ったんではないんですね。本当に好きだと何でもゲーム感覚で乗り越えられるから、(歌っているうえでの)挫折もなかったし。だからべつに、デビューして嬉しい!っていうんじゃなくて、自分としては、本当にただ継続しているという意識なんですが”

ひとと語録③
“たぶん最初は、電話ボックスで電話がつながっていないのにお母さんに電話するとか、切手貼ってないのにポストに投函、みたいなのと同じで、日記書いて読まれるわけでもないけど枕元においとく、みたいなのが…。でも歌うっていう行為が一番通じそうな気がません?(笑)”

ひとと語録④
“う~ん…。私、ライブとかいっつもいやがってますよね(とスタッフに)。なのになんでやるんだろう(笑)”“だから〝いやあ今日はちょっとこんな気持ちだから、歌っちゃおうかなあ〟ってときに人がいたらいいなあって(笑)。友達のホームパーティで歌ったりするその延長にあれば、それはいやじゃないんですね”

ひとと語録⑤
“小学校4年か5年生のときに、空想画コンクールみたいなので賞をいただいて、教科書に載せていただいたんですよ。それでなんか調子に乗って描きはじめて(笑)。でも一番、頭が空の状態になりますね。歌っているときもたぶんそうだし。気持ちいいですね”