一青窈ジャーナル

ジャーナリズムの中の一青窈/ジャーナリスティックな一青窈

毎日新聞 新・幸福論 一青窈

2009年11月21日 02時00分18秒 | 一青ジャーナル・家族
◆『毎日新聞・夕刊』(2009年11月20日号・日刊)1頁
                <隈元浩彦>【毎日新聞社】

*新・幸福論 歌手 一青窈 
      気持でコミュニケート 「うんと幸せ」信じて

 
ひとと語録①
“今年に入って、知人の娘さんが自殺したという話を聞きました。20歳前後でした”“私もよく知っている娘さんでした”“亡くなった人の思い出は美しく重なっていくものですが、私自身、両親を亡くしたことは今でもつらい記憶で、どこか喪失感があります”“結局、私の言葉が心の深いところに届かずに、救ってあげられなかたことを悔いました”

ひとと語録②
“ささいなこと、個人的なことで幸せと感じるようないくつかの「ネタ」があって、それにいちいち気づいていくことが生きていくことにつながるのではないかと。「幸せ」になることが生きることでなく、「幸せ」に気づいていくことが生きていくことだと思ったのです”

ひとと語録③
“(大家の「失って、始めて気づく事もあるけど もとには戻れない」の無常感はどこから?)小学2年の時に父を亡くしたのに続いて、中学3年の時に母が亡くなったとき「またか」という感覚があったんです。だれの責任でもないですよね。その時に「土に買える」という、自然の摂理みたいなものを感じました。亡くなる直前、母からもらった、私を案ずる手紙は今でも持ち歩いています。でも、父や母から受け取った「思い」「精神」は持ち歩くわけでもなく、私の心の中に生き続けています。コミュニケーションが目に見えない「気持ち」で通い合っているからこそ成り立っているように、人の気持ちはつながると信じて歌っています”

ひとと語録④
“(ハナミズキに「君と好きな人が百年続きますように」という祈りに似たフレーズ)都心の混雑している量販店に行くと、子どもを連れたお母さんがいますよね。そういう光景を見ると、こんなことを思うんです。もし地震が起きたら私がまず死のうと。家族を持っている人たちの方が必要とされているのでないか…。翻って私は本当に必要とされているのだろうかと。偽善者と言われてしまいそうですが、私は「あなたとあなたの好きな人のため」に祈りたい。自分の命を差し出せるわけではないかもしれないけど、そういうふうに思いたいという、私の意思なんです”

ひとと語録⑤
“つらいということを言いだしにくくなっていると感じています。表に見えている部分と、ネットに書かれていることとの落差。ネット社会がますます進んで、人間を信頼することがすごく難しくなっている気がするんです”


しんぶん赤旗・日曜版 ひと インタビュー ムッシュかまやつさん

2009年03月21日 23時51分05秒 | 一青ジャーナル・スタイル
◆『しんぶん赤旗・日曜版』(2009年3月22日号・週刊紙)
    1頁<取材・神田晴雄、撮影・野間あきら>【日本共産党中央委員会】

*ひと インタビュー ムッシュかまやつさん
 
 

“彼女、叙情派でしょう。それがバンバンバンなんて。すごくボーイッシュな方でした”

週刊朝日 マリコのゲストコレクション 一青窈④

2009年03月21日 23時48分18秒 | 一青ジャーナル・家族
■『週刊朝日』(2009年2月27日号・週刊誌)
            5頁<構成・宇都宮健太朗>【朝日新聞社】

*マリコのゲストコレクション 林真理子 VS 一青窈


ひとと語録①
“木造の、傾いているただの古い家ですよ。なつかしさはいっぱいだけど、そんなにすごい家だとは思ってなかったんです”

ひとと語録②
“姉は歯科医で、けっこう早く結婚してちゃったので、家族が住める広さの家に、ずっと私が一人で住んでたんです。恋人ができて一緒に住んでも、そんなに長いあいだはいなかったし、一人が多かったですね”

週刊朝日 マリコのゲストコレクション 一青窈③

2009年03月21日 23時46分03秒 | 一青ジャーナル・顔家
■『週刊朝日』(2009年2月27日号・週刊誌)
            5頁<構成・宇都宮健太朗>【朝日新聞社】

*マリコのゲストコレクション 林真理子 VS 一青窈


ひとと語録①
“いえいえ。父の姓は「顔(イエン)」といって、昔、「五大家族」というのがあって、その財閥の一つだというんですけど、遠い昔の話ですから”

ひとと語録②
“それが謎なんです。母と父の出会いは、誰に聞いてもわからない。最近、父がよく通ってた場所に行って聞いたりしたんですけど、みんな知らないって言います。ある日突然、母を連れて台湾に戻って「結婚します」って。もともと密航で日本に来たんですけど、なんで母と知り合ったのか、わからないんです”

ひとと語録③
“でも、父方と母方のきょうだいも守ってくれるし、もうそのころは日本にいて、高校まで一貫教育の森村学園に幼稚園から通ってたので、友達がみんな家族みたいに守ってくれて、不安とかは特になく生きてきましたね”

週刊朝日 マリコのゲストコレクション 一青窈②

2009年03月21日 23時43分30秒 | 一青ジャーナル・ボランティア
■『週刊朝日』(2009年2月27日号・週刊誌)
            5頁<構成・宇都宮健太朗>【朝日新聞社】

*マリコのゲストコレクション 林真理子 VS 一青窈

 
ひとと語録①
“詞は小さいころから書いていたんですけど、自分の歌詞で歌うようになったのは大学に入ってからです。ゴスペラーズの方が先輩にいて、「おまえ、詞を書いているんだったら、俺が曲をつけてやるよ」といってくれ、自分の曲をクラブとかラウンジで歌うようになって。それと並行して、私、車イスの人とバンドを組んでたんで、全国津々浦々、老人ホームとか村おこしイベントみたいなのに出てたんです”

ひとと語録②
“ちょっと好きだった男の子が中3のときに半身不随になっちゃったんですよ。でも、車イスになったとたんに、オシャレだった彼がオシャレから縁遠くなり、一緒に遊びに行ける場所も限られてしまったし、つまらないと思って、車イスが入れるところでイベントをする活動を始めたんです”

週刊朝日 マリコのゲストコレクション 一青窈①

2009年03月21日 23時37分56秒 | 一青ジャーナル・スタイル
■『週刊朝日』(2009年2月27日号・週刊誌)
            5頁<構成・宇都宮健太朗>【朝日新聞社】

*マリコのゲストコレクション 林真理子 VS 一青窈

 
ひとと語録①
“すみません。何か特別なことがある日って、いつも雨ですね。雨が降らなければ雪、雪じゃなければカミナリ。(笑)”

ひとと語録②
“私はオタクなのかもしれませんね(笑)。下調べにわりと時間をかけるので、用意してきた専門的な質問に対して、専門的なお答えが多かったのかもしれないですね”

ひとと語録③
“それまでの自分は嫌いじゃなかったし、ぼんやりとぬるま湯で生きてきた感じでしたが、入学式とかで慶応ガールを見て、このまんまでいいのかしらみたいに思って、自分を表現しないとその他大勢の中に埋もれるような気がして。とにかく必死でした”

ひとと語録④
“最初は、あえて難しい言葉とか、変な歌詞を入れて、模索している感じでした。でも、「ハナミズキ」もそうなんですけれど、このごろは自分の正直な気持をわかりやすい言葉で書かないと人に伝わらないし、自己満足に終わるなって、すごく変わってきました”

ひとと語録⑤
“私、デビューは26歳です”“私が大学のころって、いわゆる高音ハイパー系の、TK(小室哲也)時代だったんです。私はそのときわかりにくい詞をわりと低めの声で歌っていたので、オーディションに行っても全部はずされたし、レコード会社にも「いらない」と言われて、4年間ぐらいくずぶってました”“はい。デモテープ持って回っていたときに、うまいことを言ってホテルに誘ってくるような人もいましたし”“当時はそういう人、いっぱいいました。でも、この人とそんなことになったって消えると思ったから、「さよなら」って感じでした”

ぴあ 一青窈、新たなスタート

2008年12月29日 04時15分08秒 | 一青ジャーナル・作詞
■『ぴあ』(2008年12月4日号・週刊誌)2頁<text・小田島久恵、photo・三浦孝明>【ぴあ】

*「スタンスは変わらない」 一青窈、新たなスタート

 
ひとと語録①
“武道館では、今までのライブの集大成をやりたいなって思ったんです”“〝一青窈のコンサートはこんな感じですよ〟っていうプレゼンテーションをしたかった。本番は緊張の連続でしたよ!100人のコーラスに参加してもらったんですが、ゲネプロなしで、当日初めてやる動きを頼んだり。あまり呼ばない親戚や遠い友人も、今回初めて招待したんです”

ひとと語録②
“自分の歌を歌うというのは、自分で選んだ言葉を歌う作業なので、舞台で脚本家の方が書いた台詞を読むということ自体、私にとってすごい未知の体験なんですよね。〝私ならこういう言葉は言わないかも〟という枠を外していくことから始めたいと思っています”

ひとと語録③
“私の歌詞はよく〝これは何の意味?〟って聞かれるんですけど、実はミーニングレスなことも多いんです”


テレビぴあ FEATURED MUSIC 一青窈

2008年12月29日 03時50分01秒 | 一青ジャーナル・ボランティア
■『テレビぴあ』(2008年12月3日・隔週刊)1頁
         <取材、文・AMI 撮影・中川有紀子>【ぴあ】


*私にとって当たり前だったすべてが
         彼らにはそうじゃないことが新鮮でした

  「はじめて」 日テレ系「行列ができる法律相談所」プロジェクトイメージソングをリリース
 
ひとと語録①
“これまでも危険だったり貧しかったりという場所には旅してるんですよ。そういうところに行くとたいてい同情のような気持がよぎるんですけど、今回は最初から楽しくて、そういう気持には全くならなかったんです。現地の子供たちにとって私はめったに見ることのない外国人だから、まずはワ~ッと逃げる(笑)。で、そこから少しずつ心が解けていく、その過程がすごく楽しくて”

ひとと語録②
“ものすごく心を開いている子供たちに触れると、こちらがどんどん浄化されていくんですよ。涙が出ちゃうくらい。で、思い出したんです。私は子供の頃、自分の思いをただただ伝えたくて詞を書き、歌のおねえさんになりたいと思ってたよなあ…って。そこまで遡っちゃいました(笑)”
“つまり一青窈史上もっとも希望に満ちた曲の源は、アーティストとしての初期衝動にも似た興奮”

CDでーた 一青窈 シングル「はじめて」リリース

2008年12月06日 22時47分52秒 | 一青ジャーナル・ボランティア
■『CDでーた』(2008年12月号・月刊誌)1頁
       <取材、文・藤井美保 撮影・山本さちこ>【角川書店】

*しっかり遊んで、しっかり生きる


病院ライブやカーボンオフセットなど、地道な活動を続けている一青。今回の売り上げの一部を、それらの活動を続けていくために立ち上げの準備をしている自身のファンドに寄付する形で生かしていくという
 
ひとと語録①
“初めてのことに喜ぶ姿を見て、次世代に何かを伝えるってこういうことなんだと思ったんです。学校はそれを体験する場であってほしい。行くことさえままならないその場所に、友達に会いたいからと次の日もまた次の日も行ってほしい。そして、卒業してほしいと強く思いました”“平易な言葉で、しっかり遊んでしっかり生きるということをどう伝えるか。そこにすごい試練を与えられた気がします”

ひとと語録②
“リリースすることが前提ではなく、行ってみないと曲ができるかどうかもわからない。だから、私と(マシコ)タツロウだけで行かせてくださいとお願いしました。とにかく、まずは「ハナミズキ」を歌いに行こうと”


WHAT's IN? NEW DISC SPECIAL 一青窈

2008年12月06日 01時59分56秒 | 一青ジャーナル・戦争
■『WHAT's IN?』(2008年12月号・月刊誌)1頁
          <インタビューと文・青木優>【ソニー・マガジンズ】

*NEW DISC SPECIAL 一青窈 
  私ももう1回〝はじめて〟のことができて良かったなっていうことなんです
 

ひとと語録①
“カンボジアの子たちは歌ったことがないし、手拍子もしたことがなかったんですよ。生活の中で音楽を聴くことも歌うことも習慣としてないから、そんな子たちにうたえる歌ってなんだろう?”“最終的に「<あー!>とかでいいから、口を大きく開けて一緒に歌ってるだけでハッピーなんだよ」というところにいき着いたんですよね(笑)”

ひとと語録②
“ちょっと子育て体験みたいな感じなんでしょうかね?初めてのことを目の当たりにしている人を側で見てて、こんなに楽しいものだと知らなかったので、「ああ、きっと子どもを育てたら、こんなことがいちいち楽しいんだろうなあ」って(笑)。私が万華鏡を作ったりシャボン玉を吹いたりすると「お姉さん、魔法使い!?」と言ってくれたり(笑)”

ひとと語録③
“既成概念がどんどん壊れてくから面白かった。自分が当たり前だと思う何かが当たり前じゃないことって、発見がいっぱいありますからね。私は「何かやれるかな」と思って行ったけど、私のほうが楽しませてもらったなっていう。ずーっと大声で笑ってましたからね(笑)”


L25 ココロヲヒラコウ 一青窈

2008年11月24日 22時19分09秒 | 一青ジャーナル・スタイル
■『L25』(2008年11月20日)
             1頁<撮影・大橋仁/文・松村亮>【リクルート】

*ココロヲヒラコウ 一青窈
  「ふと訪れる直感を信じるようにしている


ひとと語録①
“どこへ行くか決めていても、結局、ふらりと寄った本屋さんやセレクトショップに小さな出会いがあって、そこからクリエイションが生まれたりする。それに気づいてからは、海外旅行へもボストンバッグだけ持って、目の前の飛行機に乗ってみたこともあります(笑)”

ひとと語録②
“物語から触発されて歌詞を書くことがとても新鮮でした。台本とリンクし過ぎると、ミュージカルになってしまう。むしろ、私の歌詞は〝想像力が膨らめばいい〟そんなアプローチで生まれているので”“どことなくポエムに近い”

ひとと語録③
“私は歌う時、いつも前向きで、みんな元気になってほしいという願いを込めて歌ってきました。だけれど、人は必ずしもポジティブではないんですよね?きっと私には、まだ伝え切れない部分がある。自分が思っている以上に、自分の中にいろんな面があって、今後はもっと、そこを広げていきたいんです”

朝日新聞 一青姉妹と顔家⑤

2008年11月21日 22時27分31秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年11月1日夕刊)
                    1頁<野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家⑤
     父の故郷に強まる思い


“一青窈は、父恵民の声を覚えていない。物静かだった恵民は、肺がんを患った晩年、さらに口数が減った”“恵民は晩年、妻の一青かづ枝とも口をきかない関係になっていた。病名をかづ枝が伏せていたためだ”

ひとと語録
“姉は母をかばい、私をかばいながら、いっぱい背負ってきた”“姉はがんばりやの母親似。私は最近、父方の叔母に言われました。『あー、あなた、頭ハゲたら、絶対父親似よ』って。性格も父親譲りかもしれません”“台湾を忘れないでいたい。自分は確かにここで育って、こんなものを食べて、こっちの人たちの良い意味でのアバウトさや、親しみやすいところも、やっぱり好き。いつも、身近に、感じたい”

ひとと´語録
“(妙)扉一枚隔てて父が閉じこもり、私だけが部屋に入る状態でした。両親とも本当に頑固でしたから、私が仲介役でした”“いつも感情を抑えてきた。だから別人になって、ストレートに気持ちを発散できる女優にひかれたのかもしれません”“私は母親似。いつも説教ばかり。妹は『天然』。でも最近は、妹の方がしっかりしているかなって思う”


ひととpic up
アニメ映画『パッテンライ!!』

朝日新聞 一青姉妹と顔家④

2008年11月20日 21時22分01秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月31日夕刊)1頁
                     <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家④
          遠い歴史とも結ばれて


“「九份は街の姿が戦後まもない頃とほとんど変わっていない。そんな街は台湾でほかにみつからなかった」映画「非情城市」を89年に発表した侯孝賢(62)は、九份をロケ地に選んだ。”


“あれは私の村で実際にあったこと。映画では中国語の手紙だったが、当時の大人は日本語教育を受けていたので本当は日本語だった”
   ・呉念真(56)<九份で生まれ育った「非情城市」脚本家>

“日本時代、上に立っていた人間は、すべて狙われた。それから顔家は政治から遠ざかることを家訓とした”
   ・顔恵卿(76)<恵民の弟。顔家系列企業「台陽合金工業」会長>

“彼女は私が知っている日本人とは異なる独特の個性がある。個性の源が何か分からないが、日本人の伝統的な社会にはないタイプで、とても特殊で特別な人だ”

“私には他人と違う視点があった。彼女と私はそこが似ている。台湾人の部分があるから、日本でユニークな存在でいられるのだろう”

   ・侯孝賢(62)<「非情城市」の監督>


“2・28事件は窈には遠い昔の出来事だが、侯や九份を通して、窈と歴史を結ぶ糸はつながっている”

朝日新聞 一青姉妹と顔家③

2008年11月20日 00時37分30秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月30日夕刊)
                     1頁<野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家③金鉱の街 観光で再び灯


「夜中には貧乏でも 夜明け前には金持ちになり 朝には立派な家が建つ」
一青姉妹の父、顔恵民の一族のもとでゴールドラッシュに沸いた20世紀前半。九份では一攫千金の夢が、こう語られた


ひとと語録
“山から見える夜の海に、漁船の光が輝いている景色が好き”

ひとと´語録
“(妙)いい意味で時間が止まった場所で、できるだけゆっくりしたくなる”


ひととpic up
侯孝賢監督『非情城市』/宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』/林雅行『風を聴く』


朝日新聞 一青姉妹と顔家②

2008年11月18日 00時02分26秒 | 一青ジャーナル・顔家
◆『朝日新聞』(2008年10月29日夕刊)1頁
                      <野島剛>【朝日新聞社】

*アジアズームイン 一青姉妹と顔家② たばこと雪山父の記憶
  酒とたばこと雪山と。
    一青姉妹の父親、顔恵民の思い出を尋ねると、
          知人は決まってその三つを挙げる”


“「恵民は無言でした。その後、彼の眉毛が抜け始め、すっかりなくなった」”「ところが戦争が終わったら、きみは敗戦国日本、ぼくは戦勝国民。日本人じゃなくなったんだ」。恵民は、そう言ったきり、授業に出てこなくなった”
  ・犬養康彦(元共同通信社長、犬養毅の孫)奥日光で恵民と玉音放送を聞いた学習院中等科の同期

“日本人として育ち、皇室の藩屏を育てる戦前の学習院で学んだ。戦後は台湾人となり、悩みも多かったと思うが、おくびにも出さなかった”
  ・柴瑞陽太郎(早稲田大学鉱山科・学友)

“堅苦しいことは大嫌い。ネクタイも締めず、都心を登山靴で歩くような山男でした”
  ・郭林双霜(恵民の叔父の妻)

“優しい兄だったが、学者肌で経営には向かなかった”
  ・顔恵卿(恵民の弟)

恵民の回顧録『雪山の楽しければ…』(一青姉妹の「髪がふさふさしていたころのお父さんを、見たことがないんです」という一青姉妹の言葉をきっかけに、自費出版される。なお、タイトルの「雪山の楽しければ」は、1937年製作の映画『スキーの寵児』の主題歌歌詞からとっている。)