まったんのトレーニング日誌

客観的に自分を見つめるためにブログ
(トライアスロンのためのトレーニング日誌)

ママさんバレーとの出合いと現状

2018-02-09 14:55:04 | Weblog

ママさんバレーに初めて参加したのは結婚した 1983年から 5年ぐらい

たった、大阪和泉市の鶴山台のチームだったので今から 35年くらい前

だった。5階に住んでいた時ちょうど 3階にバレーをやっている人が、

いていたので僕らも参加さしてもらった。その方は本格的にやっている

チームと、地元有志でやっているチームに入っておられた。僕もバレー

をやっていたので両方に参加さしてもらった。本格的のチームでは僕も

前衛でアタックを打つことがあった。が男性なので相手コートから、

クレームが来ていた。1989年バブルが向かっているところに、マンションを

和泉市和泉府中駅前にかった。そこの国府小学校の PTAバレーに参加する。

学校の教員の方が監督兼コーチをやられていて、それを見守るように見て

いた。その後 1992年8月に現在の御所市に引っ越し、そこの PTAバレーに

入り今現在も嫁は活動している。入ったころは部員もたくさんおり、パスや

アタック、3人レシーブなどをしてから総合練習をしていた。しかし残念

ながら部員も少なくなり、チームも減り、練習環境も悪くなっている。

しかし運動の少ない部員さんたちは、それでも練習をしている。もっと部員が

増えればいいなと今も思っている。

次回へ

チーム42と最後の駅伝、2011 年2月

2018-02-08 14:42:37 | Weblog

チーム42のメンバーと一緒に最後の金剛葛城山下一周駅伝に参加しました。

2011年 2月6日 10:00に葛城公園に集合した。一区吉川先生 2区鉄人池田

さん 3区僕 4区師匠 5区けい先生 6区田中さんと応援のいわき君師匠の

奥さん、ボンさんきぬさんらがそろったので、車の配置や荷物の段取り

などを説明する。選手の皆さんは今回それぞれで練習を重ねてきました。

僕自身はかなり練習しそれなりの自信はありました。でもみんなの顔を見

ると、みんなその顔をしていました。今回はいけると確信しました。

車2台で二手に分かれスタート地点に行きました。3区で待っていると今まで

見たこともないような疲れた顔で池田さんが襷を渡してくれました。最初

から飛ばして失敗した葛城駅伝のことがあったので、ゆっくりと入ろうと

思っていましたがたすきが渡ると猛ダッシュをしていました。500mを走ると

息が上がりいっぱいになっていました。下り坂が多いコースなので下りは

走りましたが、平地になると一気にスピードが落ちてしまいます。何とか

顎を出しながら 4区の師匠に襷を渡す。自転車で後追いするがなかなか

つかまらなかった。5区のけいさんは足の運びが早いが向かい風でかなり

しんどそうだった。6区の田中さんいい走りで頑張ってくれてました。と

思います。タイムは 1時間 49分 9秒そのカテゴリーで 5位、メダルまで

2分31秒差来年はいけると、その時は思った。

次回へ

最後のチーム42 の葛城駅伝に参加

2018-02-07 15:19:33 | Weblog

2011年 1月9日けがをする前最後の葛城駅伝に参加する。team 42のメンバー

として、4チームで参加する。ぼくが走る 6区は 3.6キロ、4チームの中で

2番目に僕の所にタスキが来た。テンションが一気に上がり変電所の周りを

一周するころ、約1キロぐらいの地点で息が上がってしまう。スピードが

なかなか上がらない、二人を抜いて一人の中学生に抜かれる。平地でもっと

スピードが上がるはずなのに、最初にトップスピードになってしまったことが

最後までマイペースで走れなかった原因だった。ラスト 1キロくらいで二人の

小学生に抜かれて、何とか食らいつきゴール前で抜き返した。野球部の子供

たちで、親らしい人らからそれはないやろという声がしたが僕も必死だった。

大人げないと思ったが体が勝手に動いた。結局タイムは 16分 1秒で目標の

1分位オーバーしていた。前日の 20キロ走とスピード練習の練習不足が原因

だったと思う。次の金剛葛城山下 1周駅伝には頑張っていこうと思った。

次回へ

最後の福知山マラソンとその反省

2018-02-06 15:01:05 | Weblog

けがをする前最後の 2010年 11月23日福知山マラソンに出場する。朝4:00に

起きて出発、6時10分に到着し車の中で少し眠る。受け付けしてから Bブロック

に入ってアップする。スタートまで 30秒ぐらいかかり、20キロくらいまでは

キロ 5分を切って走る。20キロから 30キロまでは、キロ 5分 2秒で走る。

しかし 30キロを超えると足にけいれんが起こって一気にペースダウンする。

エイトステーションで塩とかスポーツドリンクをのみ何とかだましながら

ゴールまで走る。最後の 1キロ強がきつい上り坂になっていて Timeを落とす。

ゴールTimeは 3時間33分少しだった。ここ10年ではベストタイムになっていた。

30キロからのペースダウンが痛い、30キロから 40キロまでキロ 5分 30秒位に

なってしまっていた。40キロからゴールまではキロ 5分 50秒、最後は坂だから

仕方ないと思う。

スピードが上がっていた時は、スピード練習中心だった。

それがゆっくり走れば速くなるという本を読んでから、スピード練習をあまり

やらなくなった。それでも何年間は 3時間 15分前後で走っていたので甘く

考えていた。3年間ぐらいあまり走っていなかったら、記録は一気に落ちていった。

練習とは嘘をつかない。高橋尚子の名言で、何も咲かない寒い日は下へ下へと

根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。これや、

次回へ

2010年十二月奈良マラソン妻と参加

2018-02-05 16:14:05 | Weblog

2010年第1回ならマラソンに初マラソンの妻と一緒に参加する。当日は

5:00に起き、車で行くとどれぐらいかかるかわからないので J Rで行く事に

した。しかし濃霧のため 20分遅れる、会場に着くとあまり時間がなくて、

焦るが 30分前にスタート地点の Eブロックに入る。妻が初マラソンなので、

キロ 7分 5時間を目標に走り始める。最初の 5キロをキロ 6分 40秒で走る。

15キロまでそのペースでなんとか走れた、しかしそこから少し走ると急な

上り坂があり次の5キロがキロ 7分15秒に落ちた。30キロまで上り下りを

繰り返し、前半の貯金はほとんど使ってしまった。何とかゴールまでキロ

7分で押し通すことができ、ネットで 4時間 57分で完走することができた。

全くの素人で走ることが嫌いで苦手だった妻も、3カ月の練習でフルマラソン

完走することができた。だからよほどの事情のない限り、素人でも 3カ月を

まじめに練習すればフルマラソンを完走できると確信した。チーム 42の

メンバーもみな完走できた。みんなすごい。これから毎年妻は奈良マラソンに

参加している。

次回へ

妻と一緒に奈良マラソンへ2010年十二月

2018-02-04 15:23:46 | Weblog

十二月に初めて行われる奈良マラソンに、妻と申し込む。本当はもう少し

参加する人が多い予定でした。春の花見にママさんバレーをやっていた昔の

仲間で宴会をする。奈良マラソンの話しをすると 8割の人が申し込むという

ので、うちの妻も勢いで申し込むことになった。申し込みの期限が過ぎた時に

確認をすると、僕らを含め 3人だけだった。申し込んだからには最後まで、

走れるように練習を九月ぐらいから始めた。走るのが苦手で嫌いだったので

まず3キロぐらいから練習を始めた。すぐに 7キロぐらい走れるようになり

何とか 5時間で完走できるように練習を進める。十月と十一月は 150キロ位

走った。長い距離は駅伝のコースを走る、坂がかなりありいい練習コースで

あった。実際奈良マラソンのコースも坂がきついコースであった。前の友達

が初マラソンの時自分ではなかなか練習は進まないことを、知っていたので

短い距離でも一緒に走るようにした。この時僕は体重が 72キロくらいあった

が練習を重ねていくうちに 67キロくらいまで落ちた。落ちた原因は妻とは別に

スポーツジムでトレッドミルを長い時間走っていて汗だくになっていたから

だと思う。十二月初旬まで妻ともう一人の女性とよく合同練習を行った。

そして大会を迎える。2010年十二月ゲストは高橋尚子さんだった。

次回へ

バイクのブランドはシーポでそろえる

2018-02-03 14:47:04 | Weblog

2009年は宮古島トランスロン大会に出た後は、皆生トライアスロンにはいかず

マラソンと駅伝に出場しました。トライアスロンのレースに出て 20年近くたち

ました。ウエットスーツやメガネ、靴などは買い替えましたがバイクが鉄製で

できているので重かった。バイクのタイムが上がらないのは、バイクが重たい

かもしれないと思い、今流行りのカーボン製のバイクを買おうと思った。バイクで

有名な上村パーツに行き、シーポにすることにした。フレームは一番安いもので

定価 27万、車輪はシーポの定価14万、パーツはシマノの 600。総額定価 65万

ぐらいで実際は 50万くらいしたと思う。これで宮古島トライアスロンは、ばっちり

かなと思った。しかし残念ながらこの時次の 2010年宮古島トライアスロン大会は

いけると思ったが、外れてしまった。絶対的なコネの方がおられなくなり応援にだけ

沖縄に行ったが、このことで会社とこじれてしまう。シーポデビューは 2010年の

皆生トライアスロン大会になった。

次回に

2009年第25回全日本トライアスロン宮古島大会へ

2018-02-02 15:20:15 | Weblog

皆生トライアスロンが終わって、2009年第25回全日本トライアスロン

宮古島大会に申し込む。で当選がわかるのは十二月二十日過ぎで、そこ

から一気にモチベーションが上がる。一昨年、昨年とランニングが 5時間

を超えていたので今年は 4時間台で走れるようにトレーニングを積む。

昨年と同じように水曜日に沖縄に行き、沖縄で商売をして金曜日に宮古島に

移り受付や説明会を終って酒井さんのところへ行く。ウエルカムパーティー

や酒井さんの家の御馳走をいただき、翌日自転車の受け付けを済ませて大会

に臨む。大会の成績は

第23回 S 1時間8分16秒 第24回 56分 30秒 第25回 59分 1秒、

B 6時間9分40秒 5時間49分33秒 6時間 7分 56秒

R 5時間19分16秒 5時間 3分33秒 4時間 48分 25秒

総合 12時間 37分 12秒 11時間 49分36秒 11時間 55分 22秒

順位 834位 645位 638位

タイムは遅かったが、第25回の順位が一番良かった。酒井さんの家で反省会と

楽しい会食をしてから、カラオケなんかに行った。

沖縄での商売はまずまずだったので、会社に堂々と帰れた。

次回へ

宮古島トライアスロンが終わって皆生トライアスロン大会

2018-02-01 14:31:24 | Weblog

宮古島の終ると、再び皆生トライアスロンが来ますがこの年は出場ができ

ませんでした。それで宮古島のように絶対的なコネがないので応援にだけ

友達と行きました。宮本君はいつも上位でゴールするので気持ちがよい。

残念ながらスイムが中心になって、ランに代わっていた。ランニングは

宮本君が得意なので見ていると、すごいスピードで第一ランを走りぬけて

いった。バイクは途中でしか見られなかったが、給食もせずすごいスピード

で走って行った。第二ランも中間点でしか見られなかったが、速かった。

競技場内にいると、40番目ぐらいで帰ってきた。すごく疲れていたが

やっぱり一流は違うと思った。人の走っている姿を見ていると自分もすごく

モチベーションが上がる。帰ってから練習計画を練る。7月 8月をスイムの

強化月間とし九月にはバイクを中心に練習する。十月から十一月からの

ランニングのレースに向けて練習を切り替え、翌四月の宮古島トライアスロン

に向けて練習計画を立てる。

次回へ