シナプス先生は優しい?
シナプス先生は恐い?
シナプス先生は普通?
シナプス先生は面白い?
シナプスクラブの生徒に質問すると、それぞれが違った答えを出すだろう。
授業が始まれば、もくもくと課題に取り組む児童は、進度が抜群に早い。
隣とおしゃべりを始めたり、よそ見をする児童は進度が遅くなる。
当たり前のことである。
学習習慣が身に付いていない児童には矯正のための指導的注意が飛び交う。
最初は、「よそ見、おしゃべり」の軌道を修正するための注意で終わる。
一回目の注意を素直に聞き入れる児童は、再びドリルに専念する。
ところが、この注意を聞き入れない児童も存在する。
そのような児童には二度目の注意が与えられる。
一度目で軌道修正が完了しない生徒は、二度、三度とよそ見、を繰り返す。
そのような児童には、少し声を荒げた注意が飛び出す。
「声を荒げた注意」
一般には先生に「怒られる」という洗礼を受けることになる。
ここからが問題だ。
この怒る行為は、児童の家庭間での尺度が違い、格差がある。
家庭で、凄い剣幕で怒られている児童。
そのような環境で育っている児童は私の洗礼に全く効き目を表さない。
私の洗礼など、蚊に刺されるよりも軽い注意になる。
ところが、家庭で全く怒られることのない児童。
この児童には「恐い先生」のレッテルを貼られてしまう。
家庭で怒られることのない児童は、教室でもよそ見、おしゃべりなどはない。
ところが、家庭での躾にも格差がある。
一つの行為に対して、厳重注意される家庭。
そうでない家庭。
教室では、これらの家庭間格差を視野に入れながら
児童の学習習慣の軌道修正を行っている。