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平尾バプテスト教会の礼拝説教

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会での、日曜日の礼拝説教を載せています。

2017年7月2日 「光あれ。」こうして、光があった

2018-02-25 13:30:11 | 2017年
創世記1章1〜31節
「光あれ。」こうして、光があった

 ダンテ(13~14世紀のイタリアの詩人、政治家)の「神曲」(地獄篇、煉獄編、天国編からなる韻文による長編叙事詩)の挿絵を青年の頃に見たことがあります。何となく、暗い画面に湖のようなものがあって、そこを霧みたいなものが覆っておりまして、そこに首だけだした人間が、手を上につき出し、何かをつかもうとして溺れているようで、喘ぎ苦しんでいるさまでした。
 創世記の神様が天地を創造されたけれども、まだ、「光あれ」と神様がいわれる前の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」そのようなありさまが描かれていたのでしょうか。あれは、ある意味では地獄のようすを描き出していた挿絵だったのかもしれません。「地は混沌であって」という言葉は、岩波訳では「地は空漠として」となっておりまして、脚注には「秩序も生命もない創造以前の状態」と説明されています。
 神様の、「光あれ」というお言葉をもって始まる創造の業がなされる前のありようは、ある意味では、地獄のようなものであったということなのでしょうか。ただし、そこにあった混沌も闇も水もまた、「光あれ」という言葉をもってしても、完全に消え去ることはありませんでした。これは実に興味深いことではないでしょうか。
 神様は、それらのネガティブに思える諸相を完全に取り去ることはされなかったのです。秩序が際立つためには、混沌もまた必要です。光が際立つためには、闇もまた必要です。得たいのしれない魔物が潜む不安の源なる海(水)という存在もまた、平安とか安心といったものを理解するためには、必要です。そうやって考えてみますと、この混沌、闇、不安からことがまず始まっているというのが、私たちの人生のありようのような気が致します。ある意味では、私たちの人生は、混沌、闇、不安からの出発であるのかもしれません。
 旧約聖書の時代は、日没から一日が始まりました。決して、夜明けから一日が始まったのではありません。暗い闇に突入するあたりから、一日が始まっておりました。私たちの人生も同じようなもので、混沌、闇、不安から始まっているというのが、人間としての当たり前の世界であるかもしれないのです。
 「光あれ」で始まる創世記1章の天地創造の物語は、まず、動植物が生息できる環境がどのように創造されていったかが書かれています。次に、その環境が整えられた結果、そこに生息する動植物が、神様の恵みの業によって、創造され命を与えられていったようすが描かれています。「光あれ」で始まった創造のみ業でありました。光を見て、神様は、良しとされました。ところが、それで闇がなくなったわけではありませんでした。神様は光と闇を分けて、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれたのでした。闇は残されました。
 それが一日目です。そして、水も大空の上にある水と下にある水とに分けられました。これが二日目のお話です。この水を分けたときには、それを見て良しとされたという言葉はありません。三日目には、その水が一箇所に集められ乾いたところができて、つまり、陸と海ができました。神様は、このときには、これを見て良しとされました。そして、「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」と言われたとあり、そのようになった姿を見て、神様は良しとされたのでした。
 そして、4日目には、「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光るものがあって、地を照らせ」それから、二つの大きな光る物と星を造り、大きな方に昼を治めさせ、小さな方に夜を治めさせられた。神はそれらを天の大空において、地を照らさせ、昼と夜を治めさせ、光と闇を分けさせられた」とあり、おそらく、昼をつかさどる太陽と夜をつかさどる月を創造され、他に星も創造されたということでしょう。このときも、これを見て、良しとされたとあります。これが、4日目の出来事でした。
 しかし、「光あれ」で生まれた最初の光はいったい何だったのかという疑問がわいてまいります。これについては、ヨハネの黙示録の21章の23節、そもそも21章には、古い都エルサレムが取り去られて、新しい都エルサレムがやってくる、つまり、終末の一イメージが語られているところですが、その21章23節に「この都には、それを照らす太陽も月も必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」とあります。こうした箇所を読みますと、「光あれ」の最初の光も、神様のご栄光であったのだろうかと、思うわけです。
 それから、5日目の創造の内容が記されています。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」、「神は水に群がるもの、すなわち大きな怪物、うごめく生き物をそれぞれに、また、翼ある鳥をそれぞれに創造された」とあります。そしてこれらのものを見て、神様は良しとされました。それから、祝福されて「産めよ、増えよ、海の水に満ちよ。鳥は地の上に増えよ」と言われたのでした。
 最後の6目に神様は、「地は、それぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ」そして、「神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土に這うものを造られた」とあります。そして、このときもまた、これを見て、良しとされたのでした。
 そして、最後の最後に、人間が神様の似姿として、創造されたことが記されています。このとき、同じ内容の言葉が、4度でてまいります。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」、「神はご自分にかたどって創造された」、「神にかたどって創造された」。とにかく、人間は、他の動物たちとは違う、神様に似せて、神様にかたどって、創造されたということなのです。
 そして、この創世記の1章では、「男と女に創造された」とありますように、2章と違って、それは、最初から男と女が創造されたのであって、男も女も神様の似姿なのです。しかし、人間が創造されたときには、これを見て、良しとされたという言葉はありません。しかし、祝福してくださって、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と、人間に、神様が創造されたすべてを管理するという使命を与えられました。それから、人間の食物、動物たちの食物について触れられたあと、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と、記されています。最後のところで、すべての創造物をご覧になられた、そこにはもちろん人間も含まれているわけですが、それらは極めてよかったと言われたのでした。
 ちなみに、神様は創造したものについて、その都度、「これを見て、良しとされた」と言われたのでしが、その言葉がないのは、二日目の水を大空の上と下の水に分けられたというところと、6日目の人間の創造についてのところですが、それについて聖書教育の概論を担当されている日高先生は「けれど、水と人は創造の秩序から外れることがあります。水は生命を生み、育て、支えるのに不可欠です。しかし秩序のもとにならないとき、水は途方もない破壊力をもち、多くの生命を傷つけ、滅ぼします。<例えば洪水物語>。同じく人も創造の秩序のもとにあるとき、弱くとも互いに助け、励まし、支え合う力を持っています。他方、誤って規則、支配のもとでは、人は平然と虐殺や殺戮を行うことを歴史が証明しています。神が水や人を、(見て良かった)と言わなかったのは、その潜在能力がどのように用いられるのかを見ることなしに、評価を下すことはできなかったからです」とあります。
 さて、これら創造のみ業については、単なる神話であって科学的にはどうかという人々もおりますし、「光あれ」とは、つまり宇宙の始まりのビッグバン(巨大爆発)を指していて、科学的にも辻褄が合っていると言う人々もいます。サルから人間は進化してきたという進化論を否定するか否か、これもまた議論のあるところです。現に、アメリカのある州では、進化論を教えないということになっています。
 ただ、聖書はいったいどのような書物かということを理解しておくことは必要です。第一に言えることは、聖書は信仰の書だということです。神様との関係を意識した者たちが、その信仰を綴っていったということです。ですから、神様からの力をいただいた者たちが綴っていった、聖霊のお力によるということです。最後には、そのような観点で見ていかなければ、意味をなさないのではないでしょうか。
 聖書には、理性や常識では、とても考えられないことが山ほど記されております。そして、私たちの人生にも理性や常識で語ることのできない体験をすることも多々あるのです。私たちは、記されていることをそのまま信じる自由もありますし、記されていることの背後に語られている真理を理解するように努める、その自由もまた許されているのだと思います。
 さて、天地を創造されるときの初めの地の状態は、「混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。地は、混沌、闇、水、こうしたものに覆われておりました。これらの状態が、神様の「光あれ」という一言から始まる創造の御業によって、秩序ある、命に満ちた世界に変えられていきました。
 ヨハネの黙示録21章で、新しいエルサレムが訪れたとき、海がなくなったとか、夜がなくなったといった内容のお話がでてまいります。21章1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」。わざわざ海もなくなったと書かれているのは、海というのは、そこに魔物か何か得たいのしれないものが住んでいて、不安を掻き立てる存在でした。そうしたものがなくなったということです。
 また、同じく21章の25節「都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである」。闇に包む夜の存在がなくなったのです。混沌、闇、海(水)というのは、否定的なものとして扱われています。それが、神様の「光あれ」というお言葉によって、状況が一変したのでした。私たちの人生には、混沌として先が見えない、希望が見えないといったことがあります。闇に覆われていて、気持がとても落ち込むことがあります。海のなかにひそむ得体のしれない悪しき力を思うように、心配、不安にかられることがあります。
 そして、私たちは、そのような人生の中に光を求めてさ迷うのですが、光は神様の方から与えられるものであることを、今日の御言葉は教えています。私たちが手探り状態で、とらえることができるものではありません。「光あれ」。まさに、神様のお力(御言葉)によってのみ、状況は一変し、改善したり、解決へと向かっていくのです。
 そして、何よりも、神様は創造されたすべてのものをご覧になって、「見よ、それは極めて良かった」とあります。神様が創造されたものは、すべてにわたりすばらしいのです。ですから、例えば、人間が同じ人間を指して、何かが足りない者であるかのように蔑むこともできません。なぜなら、神様は、神様がお造りになられたものをすべて極めてよかったと絶賛されたのですから。神様が創造されなかった人間がいるのでしょうか。人はすべて、神様が創造されたものです。しかも、神様に似せて創造されました。すべてが、すばらしいのです。
 ただし、とんでもなく深い罪に陥る者たちも随分といますから、そのような深い罪の状況のなかにある者たちに対しても、極めて良いと言われることはないのではないでしょうか。ですから、人間が創造されたときに、他の創造物と同じように、人間の場合には、「これを見て、良しとされた」とは、言われなかったのかもしれません。日高先生が、言われるように、人間の場合は、その潜在能力がどのように用いられるかを見ることなしに、評価を下すことはできなかったのでしょう。
 それでも、イエス様は、弟子たちのことを、ある意味では私たちのことを、あなたたちは「光の子」であると宣言されたり、「神の子」と呼んでくださいました。また、パウロも問題の多いコリントの信徒に向けて、「聖なる者たち」と言っているのです。
 神様は、罪を内包している私たち人間を創造されましたが、罪のある部分も含めて、つまり、混沌のなかにおり、闇のなかをさ迷い、不安をいつも抱えているような、私たちの存在をもよしとされ、神様の光で照らしてくださいました。夜から始まったかのように見える私たちの人生には、いつか必ず朝が訪れます。創世記には何と書いてありますか。「夕べがあり、朝があった」とあります。夕べが先にあり、そして、朝が必ず訪れるのです。
 そして、終末となり、神の国(新しいエルサレムの都)が来るときには、もう夜は訪れることはないと聖書は私たちに告げています。神様の栄光に照らされた、私たちの永遠の命が始まるのです。


平良 師

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