(副牧師就任感謝礼拝)
エレミヤ書1章4~10節
わたしがあなたと共にいる
エレミヤに神様の言葉が臨んだのは、南王国ユダのヨシヤ王(前639~609)の治世の第13年、すなわち前626年のことでした。彼が、23歳くらいのときではなかったかと言われています。そして、それはヨアキム王(前608~598)の時代を経て、ゼデキヤ王(前597~587)の第11年、すなわち前587年の終わりまで続いたのでした。
この紀元前587年に、ユダは新バビロニア帝国によって滅ぼされ、エルサレムの住民のおもだった者たちはバビロン捕囚を体験させられます。エレミヤの登場は北の王国イスラエルで活動したイザヤより約1世紀以上もあとのことでした。しかも、国家滅亡にいたる激動の時代に、40年あまりにわたって預言者とて活動をしたのです。
彼は、国の危機、そして、滅亡を目の当たりにしながら、刻々と変わっていく状況へ向かって、その都度、神様のご意志を伝えた預言者でした。彼の召命は早く、その若さゆえに「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と答えたのでした。それに対して神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われたのでした。
もっとも知恵を必要とする激動の時代に、神様は、経験豊かな人間ではなく、一人の若者を起用したのです。若者というのは、人生経験も少ないわけですから、自分の経験などをもって、他人を説得させるには、エレミヤ自身が言うように、言葉が足りない、「語る言葉を知りません」というのも当然なことでした。
しかし、神様は、エレミヤが、自分の知恵や力で事を成すことができないからこそ、彼を選ばれたのではないでしょうか。神様は、エレミヤに、神様がエレミヤを遣わす、神様が命じることをすべて語るように、言われたのでした。つまり、神様が、行くべき場所も、語るべき言葉もすべて用意されると告げられたのです。エレミヤは、自分が若い、語るべき言葉も知りえない、そのことを重々自覚しておりました。
それゆえ、その重責を負うことはできないと言ったのですが、「若者に過ぎないと言ってはならない」と神様は言われたのです。若いというのは、預言者としての務めを断る理由とはならない、というのです。神様の前には、私たちの側の理由など、いかなる正当性もないかのようです。
ただ、すべては、神様の御心のままに行動することのみが、正しいとされるのです。牧師は、預言者ではありませんが、聖書の御言葉のとりなしをするという形で、神様の御心をお伝えしなければなりませんし、このときのエレミヤのように、時代の状況へ向かって、ときによっては、声を発しなければならないのです。
ここで、語るべき言葉を告げる相手は、どのような人々だったでしょうか。あるときは民衆でした。また、あるときは、王だったのです。「彼らを恐れるな」と神様は言われました。大勢の人間の前で、耳の痛い話をしなければならないこともあるのです。彼らから危害を加えられないとも限りません。命を奪うことも即座にできる王の前で、神様の裁きを告げなければならないことも多くありました。恐れないでいることなど、いったい誰にできるでしょうか。
また、「わたしが命じることをすべて語れ」とも言われましたから、エレミヤの方で、国や人々のおかれている状況を見ながら、勝手に言葉を選んで、うまく気持ちを損ねないように配慮して語るということなども、してはなりませんでした。この時代のことですから、エレミヤが語る多くの事柄は、民衆にとって、国王にとって、耳の痛い、ときには強い反感をかうような話であったはずです。しかし、エレミヤは、神様から言われたとおりのことを語っていったのでした。
さて、神様は、エレミヤに言いました。「わたしは母の胎内に造る前からあなたを知っていた」。それはエレミヤだけに限ったことではないに違いありません。私たちの存在というのは、すべて、そうであるのでしょう。つまり、形がない前から、私たちの存在は、神様におぼえられているということです。
私たちというのは、神様が、形あるものとして創造される前にもなお、目には見えないけれども存在していたということ、それよりも、私たち一人ひとりは、そんなにも長いスパンで神様におぼえられているものなのです。エレミヤは、おぼえられていました。
また、神様は、「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とも言われました。聖なる者として特別に選んだということです。それも、諸国民の預言者、ひとつイスラエル、南ユダに限らない、全世界の預言者として立てたと言われたのでした。エレミヤは、そのような大役を仰せつかったのです。しかも、そのとき彼は、とても若かったのでした。
ところで、今日は、張仁南副牧師の就任按手をおぼえ、そのことを感謝して礼拝をまもっています。張副牧師に限らず多くの牧師は、このときのエレミヤのように神様から、牧師として立つようにとの声を聞きました。それは、具体的に音声になって聞こえてきたわけではありません。あくまでも、内なる声として聞いたのです。
エレミヤのように、あなたを聖別したということまで聞いたかどうかはわかりません。そして、多くの牧師が、このときのエレミヤのように、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、私にはできません、私には無理ですと、何をどう語っていったらいいのかわかりません。荷が重過ぎます。自分の性格に自信がありません。
今やってきる仕事がひと段落ついてからにしてください、などといろいろな理由をあげて、神様のその召しに対して断ったことでしょう。それに対して、神様は、「若者に過ぎないと言ってはならない」とエレミヤに言われたように、「性格に自身がないとか言ってはならない」、「話が上手ではありませんなどと言ってもならない」、と言われたのです。
もう少し、この「わたしは若者にすぎませんから」という断りの言葉に注目して考えてみたいと思います。自分はまだまだ若いというのは、エレミヤの自己認識でした。そして、それは客観的に適当な認識だったことでしょう。しかし、あまり自己認識を絶対化すると、神様にすべてを委ねることができなくなります。神様の視点、御心があるのです。
また、あまりにも自分はできないということを言い切ってしまうことは、謙虚さがあり、いいように見えるのですが、神様に委ねようという思いがなく、神様のお仕事に与ることを妨げてしまう、これもまた問題ではないでしょうか。神様が、エレミヤに「若者にすぎないと言ってはらない」といった意味には、そういうことがあったのではないでしょうか。
何せ、エレミヤは、これから、神様が遣わすどのようなところにも行かねばなりませんし、神様が、命じるどのようなことも語らねばならないのですから、自分は、若者だから、と言っている場合ではないのです。
そして、主は、手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、言われたのです。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と言われました。神様が、エレミヤに言葉を授ける、言うべきことを教える、しかも、諸国民、諸国王に対する権威をゆだねるとまで言われたのです。
これは、エレミヤにとって、いかに荷の大きなことだったでしょう。そして、エレミヤの予言の内容は、抜き、壊し、滅ぼし、あるいは建て、植えるためのものだというのですから、それが、いかに重要なことであったかが、わかるのです。
牧師は、そこまでの権威を神様にゆだねていただいているかと問われるなら、それぞれの牧師の召命感にもよりますが、しかし、教会の礼拝で語る説教は、ある意味では、確かに小さな世界、空間の中で、語る言葉なのでありますが、その内容は、ときには国家へ向けて、また、諸国に向けて語っている内容もあるのです。
しかし、それじゃ、語った言葉が、首相の耳に入るかと聞かれると、そうではありません。ただ今のような時代ですから、首相に、説教をメールで送信することはできます。
国民へ向けて、ホームページで、説教をもって、語ることはできるでしょう。そういった意味では、この電子メールやホームページは、一点で語ることが、同時に瞬時にして、全世界にまで広がる働きさえもっていますから、宣教をする私たちにとっても今や、なくてはならない道具になってきつつあります。
エレミヤは、大きな仕事を神様から負わされることになりました。しかし、神様は、こう言われたのです。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と。この言葉が、唯一、エレミヤが、民衆や王の前で、語るべき言葉を語るときの唯一の支えになったことでしょう。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。
張仁南副牧師を、私たちの教会が招聘するに至ったいきさつにいついては、先ほどの、招聘の辞、就任の辞、信仰経歴で、ご理解いただいたとおりです。少なくとも、昨年末までは、副牧師を私たちの教会が迎えようなど、考えもしないことでした。
しかし、神様は、私たちの教会に張仁南先生を副牧師として迎えるように、言われました。それが、神様の御心であると私は理解し、そのように教会の皆様も理解してくださいました。これこそ、神様の御心でなくて何でしょうか。私たちの当面の計画のなかに、副牧師を迎えるなどということがあったでしょうか。私にはありませんでした。
しかし、人が教会に増えて来れば、いずれはスタッフの増強というのは必要になってくる、それはわかっていたのです。でも、それが今だとは思えませんでした。もっといろいろなことが整ったら、そういうことも考えられる、その程度のことだったのです。しかし、神様は、おまえたちの教会は、もう副牧師を迎えてもいいときだ、それは今だと、否、副牧師が必要なのだ、それも、張仁南副牧師でなければならないとお示しになられたのです。
私は、今年、神様はどのようなみ業を私たちの教会になさろうとされているのかと、とても希望にむねが膨らむのです。神様は、私たちの教会を愛し、祝福してくださっておられると、この張仁南副牧師の招聘をとおし、私はさらに強く思わされています。
張先生は、今日の平和1丁目に書かせていただいようにいろいろなことに着手してくれています。私は、この1ケ月で、ずっと望んでいたけれど、できなかったことが、確実にひとつひとつできていくさまをみました。私は、とてもうれしいのです。早くも、張仁南副牧師は、私たちの教会になくてはならぬ存在になりつつあるように私には思えるのです。先生は、韓国の方です。日本という国の宣教のために、働くことを神様から示されて、私たちの教会に送られました。
どうか、この日本の地において、神様の与えられる御言葉を語ってくださいますように。よその国の人間だからと臆することなく、語るべき主の言葉を語ってくださいますように。そして、私と協力牧師の先生方と一緒に、教会員おひとりおひとりの魂のために祈り、牧会にあたってくださいますように。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。
この言葉を、私は張副牧師の就任にあたり、示されました。張先生と神様が共におられます。そして、張先生がお困りのときは、神様は、必ず、救いのみ手を差し伸べてくださいます。
「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」この御言葉は、神様の宣教のみ業にあずからせていただくものをはじめ、ここにおられるすべての方々に、主に従う者には、すべてに与えられているお言葉ではないでしょうか。
張仁南先生が私たちに差しのべられたその手を私たちはしっかりと握り返したのです。それは、主が私たちの教会のために差し伸べられた手だったのではないでしょうか。その手を握り返したのです。
これから共にその手を携えて、この地域の福音宣教のために、私たち平尾バプテスト教会の群れは、歩み進んでまいりましょう。その道において、いかなる状況が来ようとも、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言ってくださっておられます。
エレミヤ書1章4~10節
わたしがあなたと共にいる
エレミヤに神様の言葉が臨んだのは、南王国ユダのヨシヤ王(前639~609)の治世の第13年、すなわち前626年のことでした。彼が、23歳くらいのときではなかったかと言われています。そして、それはヨアキム王(前608~598)の時代を経て、ゼデキヤ王(前597~587)の第11年、すなわち前587年の終わりまで続いたのでした。
この紀元前587年に、ユダは新バビロニア帝国によって滅ぼされ、エルサレムの住民のおもだった者たちはバビロン捕囚を体験させられます。エレミヤの登場は北の王国イスラエルで活動したイザヤより約1世紀以上もあとのことでした。しかも、国家滅亡にいたる激動の時代に、40年あまりにわたって預言者とて活動をしたのです。
彼は、国の危機、そして、滅亡を目の当たりにしながら、刻々と変わっていく状況へ向かって、その都度、神様のご意志を伝えた預言者でした。彼の召命は早く、その若さゆえに「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と答えたのでした。それに対して神様は、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と言われたのでした。
もっとも知恵を必要とする激動の時代に、神様は、経験豊かな人間ではなく、一人の若者を起用したのです。若者というのは、人生経験も少ないわけですから、自分の経験などをもって、他人を説得させるには、エレミヤ自身が言うように、言葉が足りない、「語る言葉を知りません」というのも当然なことでした。
しかし、神様は、エレミヤが、自分の知恵や力で事を成すことができないからこそ、彼を選ばれたのではないでしょうか。神様は、エレミヤに、神様がエレミヤを遣わす、神様が命じることをすべて語るように、言われたのでした。つまり、神様が、行くべき場所も、語るべき言葉もすべて用意されると告げられたのです。エレミヤは、自分が若い、語るべき言葉も知りえない、そのことを重々自覚しておりました。
それゆえ、その重責を負うことはできないと言ったのですが、「若者に過ぎないと言ってはならない」と神様は言われたのです。若いというのは、預言者としての務めを断る理由とはならない、というのです。神様の前には、私たちの側の理由など、いかなる正当性もないかのようです。
ただ、すべては、神様の御心のままに行動することのみが、正しいとされるのです。牧師は、預言者ではありませんが、聖書の御言葉のとりなしをするという形で、神様の御心をお伝えしなければなりませんし、このときのエレミヤのように、時代の状況へ向かって、ときによっては、声を発しなければならないのです。
ここで、語るべき言葉を告げる相手は、どのような人々だったでしょうか。あるときは民衆でした。また、あるときは、王だったのです。「彼らを恐れるな」と神様は言われました。大勢の人間の前で、耳の痛い話をしなければならないこともあるのです。彼らから危害を加えられないとも限りません。命を奪うことも即座にできる王の前で、神様の裁きを告げなければならないことも多くありました。恐れないでいることなど、いったい誰にできるでしょうか。
また、「わたしが命じることをすべて語れ」とも言われましたから、エレミヤの方で、国や人々のおかれている状況を見ながら、勝手に言葉を選んで、うまく気持ちを損ねないように配慮して語るということなども、してはなりませんでした。この時代のことですから、エレミヤが語る多くの事柄は、民衆にとって、国王にとって、耳の痛い、ときには強い反感をかうような話であったはずです。しかし、エレミヤは、神様から言われたとおりのことを語っていったのでした。
さて、神様は、エレミヤに言いました。「わたしは母の胎内に造る前からあなたを知っていた」。それはエレミヤだけに限ったことではないに違いありません。私たちの存在というのは、すべて、そうであるのでしょう。つまり、形がない前から、私たちの存在は、神様におぼえられているということです。
私たちというのは、神様が、形あるものとして創造される前にもなお、目には見えないけれども存在していたということ、それよりも、私たち一人ひとりは、そんなにも長いスパンで神様におぼえられているものなのです。エレミヤは、おぼえられていました。
また、神様は、「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」とも言われました。聖なる者として特別に選んだということです。それも、諸国民の預言者、ひとつイスラエル、南ユダに限らない、全世界の預言者として立てたと言われたのでした。エレミヤは、そのような大役を仰せつかったのです。しかも、そのとき彼は、とても若かったのでした。
ところで、今日は、張仁南副牧師の就任按手をおぼえ、そのことを感謝して礼拝をまもっています。張副牧師に限らず多くの牧師は、このときのエレミヤのように神様から、牧師として立つようにとの声を聞きました。それは、具体的に音声になって聞こえてきたわけではありません。あくまでも、内なる声として聞いたのです。
エレミヤのように、あなたを聖別したということまで聞いたかどうかはわかりません。そして、多くの牧師が、このときのエレミヤのように、「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と、私にはできません、私には無理ですと、何をどう語っていったらいいのかわかりません。荷が重過ぎます。自分の性格に自信がありません。
今やってきる仕事がひと段落ついてからにしてください、などといろいろな理由をあげて、神様のその召しに対して断ったことでしょう。それに対して、神様は、「若者に過ぎないと言ってはならない」とエレミヤに言われたように、「性格に自身がないとか言ってはならない」、「話が上手ではありませんなどと言ってもならない」、と言われたのです。
もう少し、この「わたしは若者にすぎませんから」という断りの言葉に注目して考えてみたいと思います。自分はまだまだ若いというのは、エレミヤの自己認識でした。そして、それは客観的に適当な認識だったことでしょう。しかし、あまり自己認識を絶対化すると、神様にすべてを委ねることができなくなります。神様の視点、御心があるのです。
また、あまりにも自分はできないということを言い切ってしまうことは、謙虚さがあり、いいように見えるのですが、神様に委ねようという思いがなく、神様のお仕事に与ることを妨げてしまう、これもまた問題ではないでしょうか。神様が、エレミヤに「若者にすぎないと言ってはらない」といった意味には、そういうことがあったのではないでしょうか。
何せ、エレミヤは、これから、神様が遣わすどのようなところにも行かねばなりませんし、神様が、命じるどのようなことも語らねばならないのですから、自分は、若者だから、と言っている場合ではないのです。
そして、主は、手を伸ばして、エレミヤの口に触れ、言われたのです。「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」と言われました。神様が、エレミヤに言葉を授ける、言うべきことを教える、しかも、諸国民、諸国王に対する権威をゆだねるとまで言われたのです。
これは、エレミヤにとって、いかに荷の大きなことだったでしょう。そして、エレミヤの予言の内容は、抜き、壊し、滅ぼし、あるいは建て、植えるためのものだというのですから、それが、いかに重要なことであったかが、わかるのです。
牧師は、そこまでの権威を神様にゆだねていただいているかと問われるなら、それぞれの牧師の召命感にもよりますが、しかし、教会の礼拝で語る説教は、ある意味では、確かに小さな世界、空間の中で、語る言葉なのでありますが、その内容は、ときには国家へ向けて、また、諸国に向けて語っている内容もあるのです。
しかし、それじゃ、語った言葉が、首相の耳に入るかと聞かれると、そうではありません。ただ今のような時代ですから、首相に、説教をメールで送信することはできます。
国民へ向けて、ホームページで、説教をもって、語ることはできるでしょう。そういった意味では、この電子メールやホームページは、一点で語ることが、同時に瞬時にして、全世界にまで広がる働きさえもっていますから、宣教をする私たちにとっても今や、なくてはならない道具になってきつつあります。
エレミヤは、大きな仕事を神様から負わされることになりました。しかし、神様は、こう言われたのです。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と。この言葉が、唯一、エレミヤが、民衆や王の前で、語るべき言葉を語るときの唯一の支えになったことでしょう。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。
張仁南副牧師を、私たちの教会が招聘するに至ったいきさつにいついては、先ほどの、招聘の辞、就任の辞、信仰経歴で、ご理解いただいたとおりです。少なくとも、昨年末までは、副牧師を私たちの教会が迎えようなど、考えもしないことでした。
しかし、神様は、私たちの教会に張仁南先生を副牧師として迎えるように、言われました。それが、神様の御心であると私は理解し、そのように教会の皆様も理解してくださいました。これこそ、神様の御心でなくて何でしょうか。私たちの当面の計画のなかに、副牧師を迎えるなどということがあったでしょうか。私にはありませんでした。
しかし、人が教会に増えて来れば、いずれはスタッフの増強というのは必要になってくる、それはわかっていたのです。でも、それが今だとは思えませんでした。もっといろいろなことが整ったら、そういうことも考えられる、その程度のことだったのです。しかし、神様は、おまえたちの教会は、もう副牧師を迎えてもいいときだ、それは今だと、否、副牧師が必要なのだ、それも、張仁南副牧師でなければならないとお示しになられたのです。
私は、今年、神様はどのようなみ業を私たちの教会になさろうとされているのかと、とても希望にむねが膨らむのです。神様は、私たちの教会を愛し、祝福してくださっておられると、この張仁南副牧師の招聘をとおし、私はさらに強く思わされています。
張先生は、今日の平和1丁目に書かせていただいようにいろいろなことに着手してくれています。私は、この1ケ月で、ずっと望んでいたけれど、できなかったことが、確実にひとつひとつできていくさまをみました。私は、とてもうれしいのです。早くも、張仁南副牧師は、私たちの教会になくてはならぬ存在になりつつあるように私には思えるのです。先生は、韓国の方です。日本という国の宣教のために、働くことを神様から示されて、私たちの教会に送られました。
どうか、この日本の地において、神様の与えられる御言葉を語ってくださいますように。よその国の人間だからと臆することなく、語るべき主の言葉を語ってくださいますように。そして、私と協力牧師の先生方と一緒に、教会員おひとりおひとりの魂のために祈り、牧会にあたってくださいますように。「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」。
この言葉を、私は張副牧師の就任にあたり、示されました。張先生と神様が共におられます。そして、張先生がお困りのときは、神様は、必ず、救いのみ手を差し伸べてくださいます。
「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」この御言葉は、神様の宣教のみ業にあずからせていただくものをはじめ、ここにおられるすべての方々に、主に従う者には、すべてに与えられているお言葉ではないでしょうか。
張仁南先生が私たちに差しのべられたその手を私たちはしっかりと握り返したのです。それは、主が私たちの教会のために差し伸べられた手だったのではないでしょうか。その手を握り返したのです。
これから共にその手を携えて、この地域の福音宣教のために、私たち平尾バプテスト教会の群れは、歩み進んでまいりましょう。その道において、いかなる状況が来ようとも、「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言ってくださっておられます。